第2話 斉木貴之 1

「最低限、準備ができてないのは別に仕方ない。でもその言い方はねえだろ。」


扇風機が回り、微かに涼しさを感じる程度のオフィス内で、斉木貴之さいきたかゆきは、自分より二回り年下の、今年が新卒二年目になる畑山愛海はたやままなみに対して、説教をしていた。と言っても、最初は説教ではなく、仕事の進捗状況を確認するつもりで声をかけたのだ。嫌味にならないよう細心の注意を払い、要点のみが伝わるよう簡潔に声をかけた。しかし、彼女の口から出た言葉は、温厚な斉木を怒らせるのに十分なものだったのだ。


畑山の隣のデスクには畑山と同年代の女性社員が一名、斉木の後ろには、斉木より年上の社員が二名、それぞれ仕事をしながら聞き耳を立てていた。斉木は皆が注目しているであろうことは解っていたが、もう我慢をする時期はとっくに過ぎていた。いつものように小声で、畑山の機嫌を取りながら話すのをやめ、周りの人間に聞かせるという意味も込めて、机を叩きながらわざと大き目の声を出した。


「いい加減、人のせいにするの、やめろよ。おまえ、いつも会社に迷惑をかけてるってこと、わかってるのか!」


畑山は何も言わなかった。目にはいっぱいに涙が溜まっていた。静かにティッシュを一枚取り、涙を拭き取ったかと思うと、堰を切ったかのように涙が溢れだし、泣き始めてしまった。いつもは畑山の肩を持つ隣の若手も、この日は黙って成り行きを見守った。



◇◇◇◇◇◆◇◇◇◇◇



斉木の働くビジネスホテルチェーンは、関東を中心に複数のホテルを持つそれなりの大手だった。社長のワンマン経営で、この規模のホテルには珍しく、経理や営業を担当する本部が置かれていた。斉木は本部勤務で、主に広報を担当していたが、その実、ただの何でも屋であり、企画や営業は勿論のこと、各施設のヘルプにもかなりの頻度で呼び出されていた。長年、同じ区内にあるホテルでフロントとして働いていたが、昨年度ようやく本部に異動になった。激務から解放されることを夢見て出勤してきたが、斉木はここに来て本物の激務を味わっていた。


まず、斉木が移ってきた年から、昇給が延期になり、賞与の五十パーセントがカットされた。それを機に、長年従事してきた人間がまとまって辞めた。そのため、必然的に新しい人材を雇うか、現場から、エージェントにも顔が利く部長クラスの人間を本部に迎え入れる必要があった。新しい人材とは畑山たちであり、迎え入れられた部長職は斉木と、斉木よりもだいぶ年上の二名、つまり今現在斉木の後ろで聞き耳を立てている二名だった。


斉木たち異動組以外は、皆新卒の二十代前半だった。斉木は異動組の中では一番年下で、他の二人はもう定年間近だった。つまり、中堅どころは斉木しかいなかったのだ。この組み合わせで仕事を回さねばならず、一年目の昨年度は、身体を壊さなかったことが不思議なくらい働いた。


斉木に説教をされている畑山は、だから斉木と同時に本部に入ったことになる。しかも、斉木と同じ広報部だった。斉木からしてみれば、社会人経験もあり、関東のビジネスホテル業界の事情も知り尽くしている自分が教育係として面倒を見ることは当たり前だったが、畑山はそれを良しとはしなかった。彼女にとって、あくまで斉木は自分の同期だった。仕事の出来、言葉遣いや態度、全てが同等でなければ気が済まなかったのだ。畑山の、斉木に対しての第一声は、「すいませんが、敬語を遣ってくれますか?」だった。彼女は、割り振られた仕事を誰にも相談せずに片付けることに全神経を注ぎ、各ホテルの担当者との電話では、時間が経つにつれて、信じられないくらい横柄な口調になっていた。


斉木は、そんな畑山を徹底的にフォローした。彼女の雑な仕事を補完し、遠回しにアドバイスをした。各ホテルとのやり取りも、極力斉木が行った。面と向かってきついことは絶対に言わない。どんな形であれ、彼女が物になるまで育てることが自分の仕事なのだと割り切って接した。斉木の我慢を他所に、畑山は益々自己流で仕事を進め、斉木を軽んじるような言動も一度や二度ではなかったが、しかし斉木はそれを受け流し、ひたすら彼女を肯定し、そのフォローに回ったのだ。


結果として畑山は一年間でかなり自信をつけた。そして、二年目を迎えた春に、急に人が変わったようにしおらしくなり、広報部に降りてきていた仕事のうち、ベトナムからの実習生を派遣する代理店との渉外の一切を自分にやらせてくれと斉木に切り出してきたのだ。斉木は、このとき、内心ではガッツポーズをしていた。一年間の、自分の対応が間違っていなかったと思ったからだ。四月の終わりには代理店の担当者との打ち合わせが始まった。その顔合わせには斉木も立ち会ったが、向こうが流暢な日本語を話したお陰で、斉木は全てを畑山に任せる決心がついたのだった。


しかし、翌月から毎月のように進捗状況を確認してくる斉木に対し、畑山は徐々にフラストレーションを募らせていた。七月の段階で会社側は、秋を目処に受け入れを開始したい旨を広報部に通達してきたが、その通達書類を斉木はそのまま畑山に回した。畑山は渋い表情を見せ、通達文書をデスクに置いたまま、帰宅してしまった。翌日の昼には、通達文書はデスクからなくなっていた。斉木は何も言わなかった。


そして八月、いよいよ来月から受け入れがスタートするという段階で斉木が進展を確認すると、畑山はいきなり激昂した。


「そんなに気になるんなら自分でやればいいじゃないですか!今この状況を見てよくそんなことが言えますね。仕事の優先順位くらいつけれないんですか?」


斉木は愕然とした。自ら進んでやりたいと言い出した仕事を、半年も放置した上、期日に間に合わせることができなったのだ。それだけならまだいいが、なぜ斉木の仕事振りを否定するようなことを言われなければならないのか。畑山が入社して一年と半年が経ったこのとき、斉木の我慢はついに限界を迎えたのだった。


「いい。俺がやるわ。ファイル寄越せ。」



◇◇◇◇◇◆◇◇◇◇◇



斉木貴之は、子供の頃から何でもそこそこできる方だった。特段頑張らなくても、テストの点数はいつも上位クラスだった。運動神経も人並み以上で、いわゆるスクールカーストでは常にクラスの上の方にいた。


しかし、社会に出てみて、自分が特別格好よくもなく、頭も普通で、金を貯めるのも下手だと初めて気付かされた。本当に頭が良い奴には何をしても敵わないし、モテる奴にもなれなかった。最初は、それでも自分には何かがあると思っていた。自分にしかない特別な何かが。


実は、そんなものはないと自覚したのは、いつのことだっただろうか。少なくとも、三十代の前半には、まだそういう気持ちは確かにあった気がする。一つ言えるのは、仕事に追われ始めたことがきっかけなのは間違いない。そして、どれほど働こうが、金持ちと呼んでもいいであろう連中との差は埋まるどころか、どんどん開いていった。芸能人の自宅を訪問するテレビ番組を見て、自分はなぜあそこにいないのかと考えるようにもなった。自分には何もないと思ったのは、そのときだったかもしれない。


しかし、斉木は自暴自棄にはならず、着実に仕事の歩を進めていった。二十代で部長になり、三十代で支配人になったのは、グループの歴史を見ても数えるほどしかいない。斉木はそのことに誇りを持っていた。畑山の指導も、神経はすり減るが、苦にはならなかった。それこそが、自分自身の使命であり、自分にしかできない仕事だと思ったからだ。


しかし、我慢の限界と共に、使命感にも限界がきた。畑山は使い物にならない。目の前で、涙を溢しながらファイルを手にしている彼女を見て、斉木はそう思った。




「斉木さん、もう少しやらせてやったらどうなの。」


斉木の後ろから声が飛んできた。営業部長という肩書きを持つ、平野広司だった。斉木よりもさらに一回り年が上で、還暦に近かった。斉木が積極的にホテルのヘルプに行くのに対して、平野はこの一年半の間、一度もヘルプには行っていない。また、斉木がただの広報部なのに対して、平野はこのフロアで唯一の部長職だった。必然的に斉木と、それ以下の若手は、平野のことを部長と呼んだ。


「畑山くんなんて新卒だろ。そんなに感情的になるなよ。」


平野は役職らしく場を納めようとしたが、二年目の畑山に新卒という言葉は言ってはいけなかったし、そもそも今までの斉木の苦労を全く厭わないその言い方に、斉木は苛立ちを隠せなかった。


「平野さん、無責任なこと言わないでくださいよ。半年も時間があったんですよ。」


斉木は、敢えて平野さんと呼んだ。斉木は、面と向かって平野に楯突いたことはなかった。お互いに、自分の仕事で手一杯だったし、社長から方針が降りてくるので、斉木や平野が判断するようなことも特段なかったからだ。難しい仕事など一つもなかった。何より、斉木にも平野にも、それまでの実績とプライドがあった。


「いやいや斉木さん、あんたが付いていながら何やってたの。これ、あんたの責任だよ。」


「だから、俺がやるって言ってるでしょ。」


「いやいや、それじゃ意味ないから言ってるんでしょ。」


平野は口調を変えずに斉木を責めた。


「最後までやらせ切らないと。彼女、いつまでも成長しないよ。」


畑山は下を向いて、時おり肩を震わせていた。斉木は平野の物言いに対して、心底腹を立てた。


「じゃああんたがやってみろよ!こいつに話が通じるならな!」


すると、平野は立ち上がり、斉木に近づいた。斉木は精一杯の凄味を顔に浮かべたが、平野の飄々とする表情を見ると、思わず力が抜けてしまった。平野はそのまま斉木の隣を通りすぎ、畑山の後ろに回った。


「斉木さん、あんた全然駄目だな。頭冷やせ。俺から専務に言っておくから、今日はもう帰れよ。」


平野はそう言って、畑山の背後からファイルをサッと掠め取った。畑山は何か言おうとしたが、もうどんな言葉も口をついて出てくることはなかった。ただ、キョトンとした表情で平野を見つめた。


「畑山くん、どこまで進んでるの?」


平野はその場でファイルを開きながら畑山に尋ねた。斉木はその瞬間に虫酸が走り、全身に鳥肌が立つ思いがした。たまらず、平野に掴みかかる勢いで「あんた!いい加減にしろよ。」と言うと、


「おまえこそいい加減にしろ!」


と、逆に平野に一括されたのだった。面食らった斉木がふと周りを見ると、同僚たちの視線を浴びた。ある者は畑山と斉木を見比べ、ある者は睨むような目付きでこっちを見ていた。畑山は下を向き、斉木と決して目を合わさないようにしていた。平野は、一瞬笑ったような気がした。そして、信じられないことをさらりと言った。


「斉木さん、とりあえず畑山くんの面倒は見とくから、帰ってくれ。部長命令だ。」


地面から頭部に向かって、身体の芯を何かが突き抜けた気がした。平野に殺意が湧いた。


(いつ俺があんたの部に入ったのだ。そもそも平野と荒川さん、そして俺の三人で話し合って、一番動ける俺が広報、一番年上の平野が営業だと決めたのではなかったか。たったそれだけの理由しかなかったはずだ。部長職など名前だけのはず。今更部長命令とは何のつもりだ!)


一瞬斉木を見た平野は、やはり笑っていた。畑山に微笑みかけたつもりなのか、口角が上がり、目尻が下がっていた。平野は畑山の肩に手を置き、「打ち合わせしようか。」と言うと、狭い給湯室へ行き、お湯を沸かした。


「おまえ、それでいいのかよ。」


斉木は畑山を詰問したが、一瞬斉木を見上げた畑山の目は、蛇を見るようなものだった。このとき初めて斉木は、自分が受け入れられていないかもしれないということに気がついた。


「勝手にしろ。」


斉木は席に座り、パソコンの画面を落とした。明日までの仕事を確認すると、インターネット予約サイトの「ココデス」に出す特集記事の原稿と画像を、相手方に送ることのみだった。画像は撮影済みで、原稿も既に出来上がっていた。何度も読み返し、不自然な箇所や嫌味のように聞こえる箇所を訂正してある。あとはこの原稿を、誰かに見てもらう必要があった。いつもならプリントアウトしたものを平野のデスクに投げ捨てておくだけで、帰るまでにはペン入れした原稿が斉木のデスクに置かれていた。しかし今は、斉木の心がそれを許さなかった。


斉木は仕方なく、紙の原稿を荒川のところに持っていった。荒川は、平野よりも二、三才年は下で、平野よりも取っ付きにくい一面があったが、寡黙で信頼できる男だった。


「荒川さん、これ頼みます。」


一応、一言だけ言って、斉木は荒川に原稿を手渡した。荒川は無言で受け取り、すぐにパソコンに目を落とした。斉木は、手垢のこびりついた黒革の鞄を掴み、無言で職場を後にした。



◇◇◇◇◇◆◇◇◇◇◇



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