第7話『空っぽ人間』

彼は人を好きになることが好きだった。だから、人々は彼のことを好きだった。


――マーク・トウェイン


 痩せている皆さんは、太っている人間が最も嫌うものを知っているだろうか。それはという罵詈雑言でも、夏というした季節でもない。それはぴっちりとした服だ。


 太っていることを受けいられていない――太っている人間のほとんどがそうだが――ものは、自分の体型が晒されることを何よりも嫌う。男だったら胸があることを嫌うし、ぴちっとした服では走るとそれが揺れるので、笑い者になる。


 まるでピエロだ。いや、ピエロだって金をもらってしているのだから、ピエロ以下だ。


 そうなると、服装は体型を隠すものに限られ、ファッションを楽しむなんてことは無縁となる。そして、前述の通り、走ったり運動をすることも嫌いになるので、動くということそのものが消極的になる。その2つが重なると、自信というものがぽろぽろと崩れ落ちていくのである。


 辛い。ただひたすらに辛い毎日だ。手垢のついた表現だが、社会は荒波という表現があるように厳しく、自信や自己肯定感はそれから自分を守ってくれる壁だ。


 それは『三匹の子豚』の話によく似ている。頑丈な自己肯定感と自信にみなぎる人間は、狼の一息などでは崩れない。だが、藁や枝のような薄っぺらい壁は一息で崩れ去る。そのような頑丈な壁がないだけで、柔らかで無防備な子豚の肌はずたずたに切り裂かれ、血と涙が止めどなく流れ落ちる。


 それなのにも関わらず、太っていることは自己責任であると言われる。そういう言い方は未だましな方だ。酷いときは自己管理のできない無能呼ばわりされることもある。自分を守る壁のない人間にとって、それが致命傷になりかねないことがわからないのだろうか。


 彼は思う。そういう輩は肥満率と貧困率の因果関係について調べたことはないのか。あれを読めば、太っていることには自己責任の一言では語り切れない背景があり、リベラル的社会責任論が関係していることも理解できるはずだ。


 しかし、どんなに知識を武器にしても、多数派の社会構造的暴力には勝てない。現実は非情だ。そして、そうやって打ちのめされるたびに、自己嫌悪は増していくのだった。


 彼の名前はマリオ=リョサ。彼の人生は肥満と自己嫌悪とともにあった。その弛みきった体に反し、その心は何かに縛り上げられていた。


 今日も大学に行き、誰とも話さずに海洋地形学の講義を受け、誰とも目を合わせずにその物語めいた教授の啓示を受け、誰に知られることなく帰る。


 その最中、マリオは誰かに笑われているかもしれないという疑念に常に怯えていた。そうして1日を終えると、自室に篭るべく家路につく。


 自室は唯一恐怖から自由になれる空間だ。あそこならば、誰にも傷つけられない。


 これを臆病と嗤う人もいるだろう。だが、傷つくことを恐れて何が悪い。


 世の中には傷つくことを神聖視する輩がいるが、そんなに傷つきたいなら自分の手首でも喉笛でも掻っ切って死ねばいい。自分はそれを止めない。マリオは常日頃、外に出ると気分転換になる、家に篭りっきりの方が体に毒だとのたまう人々にそう思っていた。


 早く家に帰って、好きな音楽で部屋を満たそう。思い切ってリック・ジェームスの「Super Freakブッ飛んだあの娘 」なんて弾ける音楽を流してみようか。それとも、エマーソン・レイク&パーマーの「タルカス」で全部ぶち壊してしまおうか。


 そんなことを考えてイヤホンをお下がりのウォークマンに挿した。イヤホンというものは世界最高の発明品だ。これさえあれば、どこでも殻に篭れる。外界と自分をいとも簡単に遮断できる。これに何度助けられたかわからない。


 それに、イヤホンで音楽を聴きながら歩いているときに話しかける間抜けはいない。これのおかげで、めんどくさい連中から話しかけられることはぐんと減る。普段はそうだった。


「お兄さん、お兄さん。ダイエットとか興味ないかい」


 いかにも軽い男ですといった風貌の若者が話しかけてくる。しかも、その言葉はこの世で一番聴きたくない言葉だった。それを聞くだけで不愉快極まりない。その言葉は自分の脳を弄りまわしてに追従させる恐怖の頭脳改革だ。


 親戚連中が集まるとき、いつも酒の肴にマリオのダイエット話が上がることはしょっちゅうだった。お前らの人生に自分の体型が関係あるのか。その話題のたびに、そう怒鳴りつけたくなるものだ。


「自分、興味無いんで」


「いやいや、そう言わずにどうぞ」


 そう言って無理矢理ポケットにチラシをねじ込むと、何だか小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。


 わかっている。こいつは、お前みたいなのがいいカモなのだと、せっかく目の前に来た獲物を逃してたまるかと思っていることを、マリオはわかっていた。


 それでも、マリオはそんな輩を追い返すほどの力も、自信も持ち合わせてなかった。彼はそれを捨てる勇気もなく、その悪の教典とも言うべき異物を、彼にとっての聖地エルサレムたる自室に持ち込むことになった。


 部屋で中古屋で買ってきたコンポにカセットテープを突っ込む。最後の最後で最低の1日になった。だからこそ、音楽でさっぱりしたかった。そこから流れるエレキギターの歪んだ音、ああ、音楽の洪水が脳内いっぱいの不安や憎しみを洗い流してくれる。それでもわずかに、不安のノアが生き残ってしまう。それすらも流すようにボリュームを捻って上げた。


 その余韻をかき消すように携帯電話が鳴り響く。着信音に心臓が小さく飛び跳ねるのは自分だけではないだろう。画面に映し出された名前を見て、一安心した。それは唯一の友人にして、親友のガルシアからの電話だった。


 ガルシアは幼なじみで、昔からの友人だ。マリオが自信なく、校庭の片隅でしょぼくれてると必ずガルシアが駆け寄ってきて遊びに誘ってくれた。彼には人を明るくさせる才能があり、それは友人であるマリオにとっても自慢であると同時に、嫉妬の対象でもあった。


「やあ、マリオ。今どこにいるんだ。今から友達と『ダンス・パレス』に呑みに行くんだが、お前も来ないか」


「いや、俺はいいよ」


 ガルシアは良いやつだ。だが、ガルシアの友人は嫌なやつだ。鼻につくを絵に描いたようなやつらで、そいつらからしたら自分はきっと笑いものピエロだ。


 特にシドニーと言ったら、酔えばすぐにベニーという大男を自慢話をする。それから腕の脈打つ血管を見せて、筋肉は良いとか、君も鍛えるべきだと言うのだから本当に鼻につく。


 電話の向こうで、ガルシアが少し寂しそうな声でわかったと言うと、いつでも来いよとも言った。その優しさに胸が痛む。自分はいつまで、この孤独の海の中で溺れ続けるのだろう。そう思いながら電話を切ったとき、ポケットにねじ込まれたチラシを思い出し、取り出した。そこにはこう書かれていた。


『リトゥーマ・クリニック!激安価格でダイエットをサポート!ちょっとの痛みで、たっぷり減量!お電話はこちらから! 』


 孤絶の恐怖に苛まれていたマリオは、その電話番号を打ち込み、まるで吸い込まれるように耳に当てた。痩せたら何か変われる気がした。ただそれだけの理由だった。


 リトゥーマ・クリニックの印象を一言で言うならば、詐欺だ。


 チラシでは清潔感があり、シンプルながらも華美な内装であったが、実際は雑居ビルの中にある怪しげなエステだった。


 もし、これが実は違法な売春宿だと言われたら、素直にそちらの情報を信じただろう。それほどまでに広告とは違うものだった。


「ようこそ、当院にお出くださいました。ご予約のマリオ=リョサさまですね。わたくし、本日施術を担当させていただきます、バルガスと申します」


 そいつは、昨日ポケットにチラシをねじ込んできた軽そうな男であった。クリニックには他のエスティシャンはおろか、受付すら見受けられない。そして、彼がチラシ配りをしていたことからも個人経営の小さなクリニックであることが見て取れた。


 バルガスは手を忙しなく擦り合わせ、嫌味っぽく見えるほどをすってくる。何だか腹が立つような、そんな接客だった。そもそもダイエットに興味もなかったし、さっさと施術を済ませてクリニックを出よう。マリオはそう考えていた。


 彼は言われるがまま服を脱ぐと、ベッドにうつ伏せになって寝た。それから背中にぬるいオイルが垂らされると、パン生地でもこねるように背中をこねくり回し始めた。こそばゆいし、それ以上にこのようなもので痩せるのかという疑念が湧く。それが十分以上続くのだから、不快感を通り越して苦痛だ。


「これから吸い玉カッピングしますね」


「吸い玉ってなんですか」


 マリオは知らなかったが、吸い玉は中国の伝統的な民間療法で、小さな金魚鉢みたいなもので皮膚を吸い上げるらしい。そうすると蛸の吸盤の跡のようなものができるが、それで血液が浄化されるとかなんとかと語っていた。だが、マリオは正直信じてはいなかった。そして、よく母親が民間療法のわけのわからないものを買っていたことを思い出していた。


「それではやっていきますね。ちょっと痛いですよ」

 

 一個、また一個と背中に何かが置かれるのを感じる。それが肉を吸い上げるので、思い切りつねられるような痛みがじんわりと広がった。


 そして、最後に虫が顎を鳴らすような、それか車のウィンカーが鳴っているような音がなり、今までのものとは違う何が吸い付いた。それは冷たい硝子製のものとは異なり、人肌のように生暖かく、つねるというよりも何か無数の細かいものが刺さっているような鋭い痛みが走った。その痛みに文句を言おうとした途端、彼は緩やかに、穏やかな眠りについた。


「――さん、マリオさん。終わりましたよ」


 肩をぽんぽんと叩かれて目が覚める。しまった、急に寝てしまった。マリオはその睡魔にもやもやとした不安感を抱きながらも、ゆっくり立ち上がった。それから言われるがまま、体を洗い、着替える。


 こういう連中が行くところには、今まで行ったことがなかったので、これに従うのが正しいのかもわからない。それでも――激安とはいえ――金を払ったので、サービスは受けれるだけ受けないと損な気がした。


「それではマリオさん、これで施術は終わりです。家に帰ったら体重計に乗ってみてください。きっとびっくりして、リピーターになりますよ」


「はあ、そうですか」


 へらへらと笑うバルガスに対して、気の抜けた返事をすると、マリオはふらふらとクリニックを出た。施術のせいか、何だか身体まで気が抜けた感じがする。


 こんなことだったらクリニックなんて行くんじゃなかった、金の無駄だったのでは無いか。そんな思いが、ふつふつと湧いてきた。家で体重計に乗るまでは。


「嘘だろ、5kgも減ってる」


 それから気がつくと、マリオはあのクリニックに通うようになっていた。それは料金が安いこともあったが、それ以上に体重が落ちていくことが嬉しかったからだ。


 痩せれば周りの目が変わる。他者の眼差しにびくびくとしなくていいことがこんなにも気持ちいいなんて知らなかった。そう思うと何故だか自信が湧き、服装なども変わり始めた。


 もう中古のコンポでこそこそ音楽を聴く必要なんてない。皆が持っている最新の音楽機器で、皆の勧める音楽を聴く。そしてそれについて語り合う。あそこが良かったと聞けば、自分もわかっていたと言う。誰かを認め、誰かに認められるのがこんなに華やかな気持ちにさせてくれるなんて知らなかった。


 これが楽しいというこのなのか。マリオは今初めて、人生が楽しいということを知った。


 それからというものの、積極的にガルシアの誘いを受けるようになり、新しい友人も作った。友人と酒を飲み、酔っ払ったりもしたし、女も知った。そして、太った連中を見て嗤うようにもなった。


 もう自分は、あの頃の情けない自分では無い。強くなった。自信も持った。いけてるやつらの仲間入りだ。そう思うと、太っている輩をますます嘲るようになった。その尻馬に乗っかって、他の連中も嗤っていた。ただ一人、親友であるガルシアを除いては。


 ガルシアはそれを笑わないどころか、苦虫でも噛み潰したような顔をして、それ注意するのであった。


 彼はとうとう、マリオを人気のないところに呼び出した。


「おい、マリオ。最近何だかおかしいぞ。誰かを馬鹿にして嘲笑うなんて、お前らしくないぞ。どうしたんだ」


 マリオはそれを鼻で笑う。そこには嘲笑の意が込められた、大変嫌味っぽいものだった。


「何言ってんだよ。ただ明るくなっただけさ」


「明るくなっただけだと。一体どこが明るくなったって言うんだ。ただ嫌な奴になっただけじゃないか。昔のお前だったらこんなことはしなかった」


 昔のお前――それは今のマリオにとって逆鱗だった。その瞬間に頭に血がかーっと昇り、一気に押さえつけられていたものが噴き出す。


「昔の俺。昔の俺だと。昔の俺なんてグズでノロマだと、ずっと逃げ回るだけの太ったドブネズミだ。今の俺は違う。今の俺は、最高だ――」


 それから、彼はまた嫌味っぽく笑い、言ってはならないことを呟いた。マリオはこれから一生、この言葉を後悔することになる。そして、一度吐いた言葉は元に戻すことはできないことを知ることになる。


「――ガルシア、お前嫉妬してるんだろう」


「はあ、何言ってるんだよ、マリオ。俺はただお前を心配しているだけだ」


「いいや違うね。嫉妬しているんだ、お前は俺と違って大学に行けないから、お前の甲斐性なしの親父のせいでな」


 マリオはガルシアが殴りかかってくるかと思って、身構えた。


 しかし、ガルシアの顔からはさーっと血の気が引き、それからと哀しみと寂しさの入り混じった顔をする。そして、一言だけ、ぼそりと囁く。


「そうか、お前がどう思っているのかわかったよ」


 それからガルシアは立ち去った。マリオも勝利の美酒に酔うこともなく、何故だか胸の中に違和感を残して立ち去る。それから、いけてるやつらの集まりに行くと、一晩中呑み明かした。


 その夜、19時4分ごろ。マリオが酒に溺れて、誰かのことを嘲笑いながら悦楽に浸っているころ。ガルシアは一人、薄暗い部屋の中、その頬を涙で濡らし、静かに命を経った。


 ガルシアの最期を知ったとき、マリオの酔いは一気に醒めた。マリオは彼の訃報の連絡を、一度は。断ったという表現は変だが、事実、彼は酔いに任せて電話の内容をよく聴かずに切ったのだ。ガルシアという名前を聞いたときに、喧嘩したこととその苛立ちを思い出しての行動だった。


 冷静になった彼は、ガルシアの家へとすっ飛んでいった。そうして初めて、マリオはガルシアの本当の姿を知った。ガルシアは愉快で、底抜けに明るい人間ではなかった。彼は抗うつ剤と抗不安薬を飲み、本当は酒も呑んではいけない人間だった。


 ガルシアの母親は、変わり果てた息子にすがって泣き喚いている。彼女は何度も息子がどんな人間かを叫んでいた。


 ガルシアは失業し、酒浸りになった父親の代わりに家庭を支えていたこと。そのために高校を卒業すると同時に街の工場に就職したこと。それを皆にひた隠しにしていたこと。そして――本当は何よりも大学に行きたかったことだった。


 彼は何よりも大学に行きたかったのだ。大学に行って、勉強をしたかった。彼はそこで経済学を学び、より良い企業に就職することが夢だった。


 しかし、彼の夢はある日、何の前触れもなく断たれた。行こうとしていた大学の夜間部が採算が取れないとして閉鎖されたのだ。彼の生活では、昼間の大学に通うことはできない。誰かが家を支えなければならぬ。その悲しい現実が彼を父と同じ道へと追いやった。彼の体は酒毒に蝕まれていたのだ。


 マリオは――彼はそのどれ一つとして知らなかった。ガルシアが最近、呑みの誘いをしてきていたのは、楽しく酒を浴びるように呑むためなどではない。彼は助けを求めていたのだ。それをマリオはその手を振り払い、酒で耳の奥まで浸し、彼の叫びを無視した。その上、追い詰められた彼の背を押した。


 もうどんなに後悔しても、時間は巻き戻らないし、吐いた言葉も飲み込めない。彼は友人を――最期まで自分を心配し、自分を信頼してくれた親友を――を殺したのだ。その事実は彼の中をぐるぐると駆け巡り、たまらずガルシアの家を出て、外で吐き出した。


 何故、自分は変わったのだろう。何故、自分はこんな最低の人間になってしまったのだろう。そんな考えばかりが浮かぶ。そして、たどり着いた答えは一つ――あの奇妙なクリニックの存在であった。


 マリオは走った。がむしゃらに走った。そうしていれば、何もかも忘れられる気がした。そして怨みをぶつけられる仇がいれば、この耐えがたい事実を消し去れる気がした。


 そして、雑居ビルの階段を駆け上がり、ドアにかけられた閉店クローズの看板を無視して勢いよく開けた。


 そこにははらわたのような薄い桃色の触手をから出し、その先についた蛸の吸盤か、八目鰻やつめうなぎの口のような牙がびっしりと生えた口が、透明な体液をぼどぼどと垂らしながらうねっている。


 そして、その理解できない状況に置いてきぼりにされたマリオを前に、食事に夢中なバルガスはその存在に気づいていない。彼はくねる触手から、カチカチという牙が擦れる音を立てて、脂肪の塊の詰まった瓶に突っ込んだ。


「おい、あんた何してるんだ」


 その声にバルガスはぎょっとして、を人間の口の中にしまい込む。それから焦って瓶を後ろに隠すと、取り繕った笑みを浮かべた。唇の端から、涎とは違う体液がだらだらとこぼれている。


「マ、マリオさま。今日はご予約など無かったはずですが」


「そんなことどうでもいい、今何をしていた。お前は何者だ」


 慌てふためきながらも、怒りにかられるマリオ。それを見て隠し切れないと気づくと、バルガスは急に真顔になり、深いため息をついた。それから近くのベッドに腰をかけると、一転して不遜な態度をとる。そして、にやっと笑った。


「俺はピシュタコ、名前ぐらいはおばあちゃんの昔話かなんかで聞いたことあるだろう。脂肪を食う虐め好きの怪物さ。まあ、今では強めのマッサージと脂肪吸引を生業としているけどね。金儲けと食事の一挙了得さ。これで満足か」


 マリオはますます状況を理解できない。彼は瓶に詰まっている脂肪は、葬儀屋の安置所から持ってきたもので、誰も傷つけていないという聞きたくもない言い訳をした。


「じゃあ、あんたが俺を変えちまったのか」


「変えちまっただって。あんたが俺にダイエットの依頼をしたんだろ」


「違う、そんな話をしているんじゃない。性格の方だ。性格を変えたのかって聞いているんだ」


 それを聞くとバルガスは目を丸くしてきょとんとした顔をすると、それからすぐに声を上げて笑った。そのたびに半濁した体液を垂らし、縦に裂けた瞳孔を持つ黄色い眼を露わにする。


「さてはあんた、なんかやらかしたな」


 バルガス曰く、この手のクレームはよくあるらしい。急激に痩せたことで周りからの眼差しが変わり、それによって態度が急変して人間関係のトラブルを起こすことが多いとのことだ。


「何があったのか知らんが、俺たちは脂肪を食うだけで、人間の性格を変えることなんてできやしないのさ」


 そう言うと、バルガスはどうせもう直ぐこの街を立つのだからと、彼が胸の中に溜め込んでいたものを吐き出した。それはマリオにとって酷なものであった。


「昔、この国の人間にとって脂肪は宝、太っていることは美そのものだった。脂肪を薬することもあったし、脂肪の海ビラコチャという神すら崇めてた。だけど、国際化だとか色んなもんのせいで、痩せていることが美しいものとなった――」


 彼は偶然手元にあったファッション誌をとってみせる。そこには痩せたモデルが写っており、彼は鼻で笑った。


「――みんな脂肪を捨てたくて仕方がなくなったのさ。俺たちは天国が訪れると思ってた。だけど、答えは違った」


「どういうことだ」

 

 バルガスはマリオを指差し、嘲笑する。お前こそが、象徴だと言って。


「みんな、誰かに美しく見られたいという思いばかりが先行して、自己肯定感とか自信がない薄っぺらい人間ばかりになっちまった。自分で美とかについて考えず、周りの眼差しばかりを気にしている。自分で自分を測る物差しがないから、他人の物差しに頼る。そのせいで空っぽの人間たちであふれかえってる。そんな味気ない脂肪を食ってもまずい。この国、いや世界中には自信がなく、誰かに認められないと自分がない連中しかいなくなっちまったのさ」


 そうして深いため息をつくと、マリオに向かって言い放った。その真実は最も鋭く、彼の心に深く突き刺さった。


「まさしく今のあんたさ。薄っぺらい雑誌に載ってる流行りの服を着て、最新のスマートフォンで流行りの音楽を聴いている。まるで自分がない。自分がないから数え切れない誰かに認められないと不安で仕方がない。本当は誰か一人、本当に大事な人に認められるだけでよかったんだ。それが今では全人類が質よりも量の時代になった」


 それから店じまいの支度をするといい、マリオをクリニックから追い出した。彼は憎もうとしていた仇も失い、親友も失い、自分も失い、すべてを失って街をさまよった。そうして一言呟いた。


「俺、どんな人間になりたかったんだっけ」


 もうそれに答えてくれる友人も、それを考える自分もいなかった。

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