ふぅの夜

 葉擦れの音が緑の香りと共にサラサラ、風に乗って屋敷の内を満たしていく。それは爽やかな朝の香り、〟彼〝はブルブルと身を震わせながら小さな目を開いた。陽の光があまり入ってこない屋敷なので、室内は夜が明けても薄暗く静かである。しかも、人が住んでいる様子もない。はて?この屋敷の主はいないのだろうか?ともあれ、これは絶好の隠れ家である。しばらくここを寝床にしようと決めた〟彼〝は、最も過ごしやすい所を求めて屋敷の内を探検してみることにした。

 〟彼〝は目の前にある襖を通り抜け、自分が目覚めた場所の隣の部屋へと入ってみた。そこは三畳ほどの広さに小さな床の間をもった部屋、そこには薄汚れた掛軸と埃をかぶった壷、傷んだ木の箱が置かれていた。〟彼〝はまじまじと掛軸を見てみた。何か描かれてはいるものの、それが何かはわからない。壷には何も飾られておらず、どことなく寂しげだ。さらに、その隣の箱の中にはたくさんの紙が丁寧に折られた状態で入っている。はて、何か書かれている、なんだろうか。よくわからない。結論としては、居心地はよさそうではある。が、障子から差し込む陽の光が先ほどの部屋よりも強いことが難点だ。

 仕方がない、別のところに行こう。

 〟彼〝は障子とは反対側にある襖を抜けて廊下に出た。長い板の間が続いている。天井や梁の隅には蜘蛛が巣をかけていたり、床をネズミが駆け回っていたりするが、人の気配は相変わらずない。昨晩の二人も今はこの場にはいないらしい。

 ふと動きを止める。突然、あの二人のことを思い出したので、〟彼〝はほとんど残っていない過去の記憶の中に彼らの顔を探してみた。だが、やはり思い出せない。元々知らないのか、はたまた忘れてしまっているのかは、やはりわからない。

そういえばあの二人はどうして〟彼〝のことを恐がらなかったのか。考えれば考えるほど不思議であり、わからない。わからないことだらけだ。

 そう考えているうちに次の部屋の入口に辿り着いた。今度の部屋はとても広い。古びた座布団と埃まみれの机が目につく。机の方の使い方は〟彼〝にはピンとこなかったが、座布団には見覚えがある。百物語を語る人々の尻の下に敷かれているものだ。そして、やはり奥には床の間があって、ここにも掛軸がかけられているのも見て取れた。何が描かれているのかは相変わらずわからなかったが、先ほどの部屋のものよりも少し大きく、またきらびやかである気もした。結論としては、この部屋は広すぎた。また隠れる場所もなさそうだ。

 それに、この部屋には先客がいた。猫だ。それも尾の先が二つに分かれている、所謂〟猫又〝と呼ばれる怪異だ。〟彼〝はその名を知らなかったが、猫の身からにじみ出る雰囲気に自分と同質のものを感じとってあわてて身を引いた。すると、丸くなって目を閉じていた猫が目を薄く開くと、大きく欠伸をしながらこちらに視線を向けてきた。

 《ここはボクの寝床なんだけど、何か用?》

 怪異同士には独特の意思疎通の方法がある。光の明滅や思念と呼ばれるものを直接相手の身に送る方法。音声言語とは異なり、直接相手の考えが身に流れ込んでくるので、怪異同士、あとは人間でとても鋭い感性を持つ者に語りかけることが可能なのである。

 〟彼〝はまさにその思念によって話しかけられた。〟彼〝はとまどいながらも、光の明滅で自分の意思を伝えた。

 《ふぅん、「寝床を探している」ねぇ……。どこから来たの?この辺じゃ、君の種族は皆〟個〝を得て人の生活に溶け込んでいるのに……。君のように小さくて弱い光は、森の奥とかで集団で過ごしているんじゃないの?》

 猫は不思議そうに言ってきた。〟彼〝はそれを受けて目をぱちぱちとしばたたかせた。そうだったかもしれないような、そうでなかったかもしれないような……。判然としない。でも、仲間がいることは知っている。自分がその中で一番小さかったことも。

 《まさか、はぐれたの?》

 その問いにプルプルと身を横に振る。違う、との意だ。

 《……まあ、どうでもいいか。――ついておいで、君にぴったりの暗い部屋に連れて行ってあげる》

猫は四肢を伸ばしながら言うと、ゆっくりと歩き出した。後をついていくと、先ほど の廊下へ出て右手の方向に見落としてしまいそうな小さな引き戸の部屋があった。猫はその中にスルリと入っていくので、〟彼〝もそれに続いて中に入った。

 薄暗い部屋だった。窓は小さな天窓が一つあるばかり。ここは所謂、「書斎」という所だ、と猫が教えてくれた。

 《どうだい?適度に暗くて、隠れられる所も多い。居心地よさそうだろう?》

 両方の壁にはぎっしりと本や紙、巻物などがつめ込まれた書架がいくつもあった。上から下まで色々なものが所狭しと並んでいるが、小さな〟彼〝なら入れそうな隙間がその間にはポツポツと点在していた。〟彼〝はスゥと引き寄せられるようにその隙間の中へと入っていく。そこは本と紙と墨の香りがして、何だか安心できる良い空間だった。

 《気に入ったみたいだね。ただ、ここを使うのには一つ条件がある》

猫はそう言って、本の間に気持ちよさそうに挟まっていた〟彼〝を尻尾でグイッと引っ張り出した。きょとんとしている〟彼〝の脇を通り過ぎた猫は、書斎の一番奥にある机の上へ跳び乗った。そして、そこに置いてあった箱を前足で器用に開けると、中身を〟彼〝の目の前にひょいと落とした。

 それは「鍵」だ、と猫は言った。

 《ここは、ボクの主のお屋敷なんだ。主は、もうしばらく帰ってきていないけど、いつか戻って来た時のために、ボクが一人でずっとずっと守っていたんだ》

 だから、ねえ。君も手伝っておくれよ。寝床を貸す代わりにさ。

 猫の言葉に〟彼〝はビクッとすると、勢いよく身を横に振りながら明滅を繰り返す。

 《できない?弱いからって?……じゃあ、こうしよう。君たちの好物は百物語のろうそくの火で、それを食べると成長できるんだろう?それを見つけるのを手伝ってあげよう。幸いこのお屋敷は「化け物屋敷」として有名だし、肝試しとか百物語をする輩がたくさん集まってくるからさ》

 どう?と猫はどこか楽しげに言った。〟彼〝は少し迷ったが、寝床とろうそくの火につられてか、わりとすぐに承諾をした。猫は嬉しそうに尾を振ると、じゃあ決まりだね、よろしく、と思念を送ってきた。

 《一人ぼっちは寂しいだろう。仲間が来たら一緒に住んだらいいよ。ここのお屋敷は広いしね。ボクも正直ずっと退屈してたから、君のことは大歓迎さ》

 ボクはシラタマ。君のことはなんて呼んだらいいかな?

 猫の言に〟彼〝は迷った。自分に〟個〝はない。すると、そこでふいに昨晩のあの響きを思い出した。

 〟アオイ〝そう呼んでほしい。

 〟彼〝はそう意思を伝えた。すると、シラタマは驚いたようにじっとこちらを見つめてきた。

 《ボクの主と同じ名前かぁ。これは面白い、面白いね、アオイ》

 初めて呼ばれた自分を表わす〟個〝の呼び名。〟彼〝ことアオイは身を嬉しそうに震わせて喜びを表現したのだった。


 かくして〟彼〝は〟個〝を得た。この〟個〝が後の成長に大きく関わることになるとは、この時は誰も予想だにしなかった。アオイとシラタマ、二つの怪異は通称「化け物屋敷」を守るモノとしてこの屋敷に住むことになった。

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