第六章

第六章

「こちらへどうぞ。」

恵子さんに案内されて、茉莉花は製鉄所の長い廊下を歩くのだった。

「ねえ、あなたは、ここで働いていてもう長いんですか?」

と、恵子さんに聞いてみる。

「まあ、少なくとも具体的に何年とはわからないけど、てことは、それほど長いのかしら。」

恵子さんは、頓珍漢な返事をした。

「あの、磯野君は今どうしているの?」

「どうしているって、さっきも言ったでしょ?寝てるわよ。起こせば起きるはずよ。そういったけど、忘れたの?」

と、質問するとまたつっけんどんに答える恵子さん。やたら聞くなという雰囲気だ。

「恵子さん。じゃあ、もう一つだけ教えて頂戴。寝る前に、何かあった?」

「あったって何もないわ。いつも通りご飯をくれただけ。もちろん、食べてはくれないけど。口に入れたって、どうせ胸の痛みを訴えて、吐き出しちゃうだけよ。」

と、恵子さんは、またそういった。

「まるで、犬に餌をあげるような言い方ね。」

茉莉花が、恵子さんにそういうと、恵子さんは嫌そうな顔をした。

「何よ。私があの人に何かしたといいたいの?私、何もしてないわよ。何もしないあの人が悪いの。いくら、よくなったとしても何も努力しない、あの人が悪いのよ。そうでしょ?」

「でも、、、。」

「でも何よ。それでは、私が悪人呼ばわりされているみたい。まあ、ひどい話ね。私は、何もできないあの人に、一生懸命ご飯くれて、それは何も評価されないで、あの人だけが、あなたに来てもらっているんだもんね!」

その顔には、明らかに看病疲れというものが見られたので、茉莉花はこれは早く何とかしなければいけないなと思った。

「どうぞ。」

四畳半の前に来ると、恵子さんは言った。

「悪いけど、私は、除けさせてもらえないかしら?もう、あの人と向き合うのは、ご飯くれる時だけにしたいわ。」

「ええ、後は私がしますから、お休みになってくれて結構ですよ。」

「そう。いいわね。あの人は得で!」

吐き捨てるように恵子さんは、そう言って、台所に戻っていった。

茉莉花は、覚悟を決めて、四畳半の中に入る。

「こんにちは、」

とりあえず形式的に、枕元に座って、そう話しかけてみた。水穂は、布団で眠っている。曾我正輝さんから買ってもらった、超高級な布団だった。もちろん、体を冷やさないためという目的があるんだろうけど、恵子さんが妬ましく思っても仕方ない、超高級品。似たようなものを、通販サイトでみたことがある。確か定価として、五、六万という値段が書かれていた。

「こんにちは。」

もう一回話しかけると、水穂の目が開いた。顔中げっそりとやせていて、文字通り六貫しかない体重を示していたが、それでもまだほれぼれするほど綺麗なのは、なんだか、周りから悪く言われても仕方なかった。むしろ、ここまで綺麗な人でないほうが、もっと相手も楽に接することができるのではないだろうか、とさえ感じられるほどに綺麗だった。

「最近は、すぐに目が覚めるの?」

優しくそう聞いてみると、

「ええ、まあ。」

とだけ、細々とした声で答えた。体力がなくなると、声も細くなってしまうのだろうか。張りもなく、力も何もない。

「そうなの。よく眠れてる?」

「いえ、何も在りません。」

また力なく答えた。というか、最近、強力な睡眠剤を控えているせいか、一度に眠ってしまうのではなく、うとうとしているだけのことが多い。それで、周りの人たちのことが、多少は聞こえてきていて、何となくその結果も感じ取っているのだった。

「そうか。今日はね、あなたのこと、仕事として見に来たの。同級生としてではなく。」

と、茉莉花は、そう彼に言った。水穂も彼女のほうを見る。その顔は何とも言えない綺麗な顔で、茉莉花は、これをいうのに躊躇してしまったが、それではいけないのだと自分に言い聞かせて、彼にこう切り出した。

「私ね、ちょっときつい一言言わなきゃいけないのが、ちょっと心苦しいんだけど。」

彼は、ああ、また言われるんだな、という顔をした。ということは、すでに誰かから同じところを指摘されているのかもしれない。顔が派手な分、ちょっとした表情の変化をすぐ読み取れた。そういうところはわかりやすいということだと思う。

「もう、すでに、言われているなら、それじゃあ、予想していること、言ってみることはできるでしょ?」

もう一度、彼のほうをよく見て茉莉花は言った。彼は、悪いところを指摘される時によくある、恐怖心のようなことは少しも見せなかった。それどころか、彼のほうが、茉莉花を慈しんでいるように見える。

「なんだと思う?予想がつくなら、言って。」

なんだかクイズ番組のようだったが、茉莉花はちょっといたずらっぽい顔をして、彼の顔を見た。

「わかっていますよ。きっと早く体を治して、自立して生活しろというんでしょう。いろんな権威のある人にそういわれていますから、もう慣れてますよ。」

「だ、だったら、そうするように努力すればいいのに。今、かかっている病院にちゃんと話して、本格的な抗生物質とか出してもらって、そうすれば、体だって、回復するでしょうし。そして、早くこの部屋を出て、一人で暮らすなりしなさいよ。生活費だって、ちょっと演奏会するとか、お弟子さんをとるとかすれば、何とかなるはずよ。学生時代、あれだけ大天才といわれていたんだし。それでは、すぐに演奏技術だって、取り返せるでしょう。誰にでも、ゴドフスキーを聞かせなければいけないということはないのよ。それに、今の人たちは、ほとんどショパンくらいしか理解しないでしょうから、あなたには、ショパンを弾くのなんて軽々でしょ?」

茉莉花は、「治療者」らしい話を始めた。

「そうですよね。あなたたちのような人は、僕みたいな人を、できるだけ他人から切り離して、一人で生活させるように仕向けるのが仕事ですからね。そして、その人数が増えれば増えるほどいいんでしょうね。そのためには、どんな手段をというか、巧みな話術みたいなものを使って、、、。」

見透しているように、彼はそう言い始めた。茉莉花はわかっているのなら、と言いたかったが、彼のその顔のせいで、言えなくなってしまった。

「なら、こうお伝えすればいいですね。僕も、ここから出ていくために、いろいろ手段を考えているのです。そして、二度と帰ってこないために。」

「帰ってこない?ああ、もちろんここの建物の世話にならないようにすることよね?」

「違います。ここへですよ。きっと、あなた方の世界では、やってはいけないことになるから、黙っていただけの話ですよ。」

何を言いたいのか、茉莉花にも分かった。治療者として、それは最悪の事態だ。それだけはやってはいけないことだ。それは倫理的にもいけない。私たちのすることは、それを引き留めて、ここで生きてもらうこと!それを達成させなければ!

「恵子さんも、そのことで疲れてらっしゃるのね。あなたがすでに生きようとしないから。それでは、まるでだめだわ。本当に、そういう気持ちになれないの?」

「はい、なったって仕方ないから。」

水穂は、そこだけはきっぱりと答えた。まず、茉莉花は、段階的に治療を試みることにして、彼にこう約束を持ち掛ける。

「じゃあ、明日、もう一度来るわ。その時に、布団から出て、少し歩いてみましょうか?」

「歩けますかね。」

「ええ。歩けるわ。あなたのような悲観的な人は、比較的体のほうはすんなりといくことが多いの。そこまでが本当に大変な人もいるけど、それさえつかめば何てことない、っていう場合が多いのよ。あ、決してバカにしているわけじゃないわ。そういうわけじゃないと思ってね。それは、ただ、傾向として、そういう人が多いというだけだから。」

「あ、はい。わかりました。」

水穂は、力なく頷いた。

「それが言えれば大丈夫。じゃあ、明日、歩いてみましょう。」

「はい。」

笑っているのか、バカにしているのか、それとも感謝しているのかわからない顔で、水穂はそう答えた。

「じゃあ、明日また来ます!」

茉莉花は、これで一つ、成果が出たと自負しながら、とりあえず、手帳に、明日の予定を書き込む。

「お昼前に迎えに来るわ。」

「はい。」

それしか返事はなかったけど、それでやる気になってくれたかと勝手に勘違いする。茉莉花は、伝票に、翌日の日付と来訪時刻を書いて、水穂の枕元に置き、

「それじゃあ、明日。」

と言って、かるく座例し、部屋を出ていった。ふすまを閉めた後の、水穂の表情も知らないで。

ああ、今日はよくやった。明日は人の苦しみが救える、本当によかった。そう思いながら、茉莉花は車を走らせた。自宅マンションに帰ってくると、明かりはすでについていた。

部屋に入ると、由紀夫と曽良夫が、楽しそうにテレビアニメの物まねなんかして、遊んでいるのが見える。二人ともにこやかに笑って元気になってきた。そのうち、何かアクションを起こしてくれるだろう。そんなことを考えて、茉莉花は、久々にほっとした。


翌日。

「本当に大丈夫なんですかね。」

恵子さんから話を聞いたブッチャーは、また心配そうな顔をする。

「外を出歩くなんて、水穂さんには、危険すぎるのではないですか?だって、体重だって、あれだけしかないわけですから。下手をすると米一俵より軽いんですよ。」

「わかってるわよ。だけど、久しぶりにあの人が外出てくれるんだから、あたしたちはすることがあるでしょ。だから、あんたを呼び出したの!」

恵子さんは、ブッチャーにでかい声で言った。

「ですけど、そのために、追い出してしまうのはかわいそうです!俺は、まだ寝かしてあげたほうがいいと思います!」

ブッチャーは、そう反論したが、この時、同時にふすまが開いて、きちんと正絹の羽織袴に着替えた水穂が、

「お迎えが来たら、行ってきます。」

と、力なく言った。そのあまりの痩せぶりに、ブッチャーはびっくりしてしまう。もう、大丈夫かと声をかけるのも、怖くなってしまうほどやせている。確か、記憶によれば、立つのも難しかったはずなのに、、、。

「む、無理しないでいいですよ。あ、もしかしてまた誰かにバカにされたんですね。もしそうやって怒り建つようだったら、俺が文句言ってきましょうか。そういう、自分の立場を変な風に利用する人っているんですよね。」

ブッチャーは、恐怖の中から、一生懸命励ましの言葉を選んでそういったが、

「いえ、かまいません。もう、どうなっても構わないと思いますので。」

とだけ返ってきた。

「いや、俺は、、、。」

と言いかけたブッチャーだったが、後方に恵子さんがいたので言えなくなってしまう。俺にもっと強さがあったら!と自分を責めたブッチャーだった。

数分後。

「こんにちは。」

と、中年の女性の声がする。ブッチャーは、ああまたおせっかい焼きというか、インチキな奴が水穂さんに手を出してきたなと分かったが、恵子さんに何か言われるのではないかと思い、それは言えなかった。恵子さんは、その女の人と形式的な言い合いをした。やがて玄関の戸がガラガラという音を立てた。ブッチャーは、やっぱり何も言えないのだった。

そのまま水穂は亀よりものろいスピードで歩いた。まるで、茉莉花にはイライラするスピードだ。途中で茉莉花は何回もせかしたいと思ったが、それは許されていなかったので、仕方なく、そのまま並走していく。

数分歩いて、道路のわきにある、小さなベンチがあるところに来た。まだ、茉莉花は座らせようという気にはならなかった。もうちょっと頑張ろうね、公園まで歩こうねと言いたかったけれど、水穂には、かなり辛そうだ。まだ、500メートルも歩いてないのよ、なんて言いたかったが、そういうセリフは言ってはならなかった。

「大丈夫?」

とだけ言った。それだけしか言えないような気がした。

「はい。」

それなら、まだ歩かせられるかな?と思ったが、言葉の裏腹にかなり疲れているようであった。

「今日は初めてだから仕方ないわ。そこに座って休もうか。」

茉莉花は、そのベンチの前で止まった。水穂は崩れ落ちるように座る。

「そんなに、疲れているの?」

頷くことさえ、しなかった。

その日、結局、何も成果のないまま茉莉花は車を走らせた。何かあった日は、信号機も何もストレスにならないのに、今日は、ちょっとした停車信号でも、イライラさせられた。

ふいに、車を走らせていると、スマートフォンがなった。さすがに走っていながら電話はできない。なので、近くにあったコンビニに車を止めて、もう一度先ほどかかった番号にかけなおす。

「はい、もしもし、西郷ですが、あの、何か?」

「ええ、実はですね。」

相手は実に淡々としていた。

電話が終わった後、茉莉花は急いで、自宅マンションに車を走らせた。この時は停車信号もストレスどころか、何回信号無視をしたら気が済むの?と、誰かに聞かれそうになるくらい怒っていた。

車を乱暴に止めて、自宅マンションに飛び込む。一階に住んでいたのが奇跡だとおもった。

「由紀夫!」

茉莉花は、これ以上怒鳴れないという声で怒鳴る。いつもと変わらず、由紀夫は、弟の曽良夫とテレビを見て遊んでいた。

「由紀夫!答えなさい!どうして学校に退学届なんか出したの!」

「あ、お母さん。僕、高校変わろうと思うんだ。あんな窮屈なところじゃなくてさ、もっと、ゆっくり勉強ができて、かつ、社会ともかかわれるところに行きたい。そのために、今日出しに行ったんだよ。それだけのことだから、気にしないでね。」

由紀夫は、にこやかに笑ってそう答えるだけだった。

「待ちなさい。何をしたかわかっているの?あなた、人生を一番保証してくれるものを自分で捨てたのよ!そうなったら、どんなレッテルを張られるか、わかっているの?」

「まあ、多少あるかもしれないけど、富士高校にいるよりはずっといいよ。それに、高校は、後になってもいける。それでいいじゃないか。もし、お母さんが、どうしても高校に行ってほしいというのだったら、働きながら勉強できる、通信制とかそういうところにするよ。幸い、曾我さんの焼き肉屋さんで働いている人たちが、よい通信制高校を知っているみたいなんだ。だから彼女に紹介してもらえって、そういってた。」

「バカなこというもんじゃないわ!そういう事情のある女の人と同じ人生を歩んで行ってはだめって、あれほど教えてきたのに、なんでそういう人と仲良く!」

「事情なんか、僕たちよりよっぽどすごいよ。学校を無理やり辞めさせられて、多少しゃべるのが不自由になってしまっても、まだ働きに来ているんだから。僕、あの店で働いて人生観が変わったんだ。あの店で働いている人たちと、同じような人を作らないようにしたいって、それを人生の目標にしたいって思った。僕は、あの人たちを作ってしまったような気もするよ。富士高校に行ったら、そればっかり強くなって、余計につらい人生になってしまう気がする。だから、そこを断ち切って新しい人生を始めたい!曽良夫が変になったことが、ある意味きっかけだったと思う。だから、そう思って、富士高校とは、もう縁を切ろうかと!」

得意になって、そういう由紀夫を、茉莉花は平手打ちした。

「何するんだよ!」

「よく考えなさい。お母さんが、なんでそうしたのか!いい、富士高校に行って、いい大学に入れば、幸せな人生を獲得するために、大事な道具になってくれるって、さんざん教えてきたし、教えてもらっているでしょう。いい大学いっていれば、周りの人から、褒めてもらって、幸せになれるのよ!」

「そんなものいらないよ!僕にとってそんなもの、ただの余分な荷物だ。そんなものにしがみつくより、好きな店で思いっきり働いたほうがよほどいい!」

「バカなこと言うもんじゃないわ!そうやって、お母さんと同じようなみじめな人生に自ら身を投じていくような真似はするもんじゃないわよ!」

「そうだよ。お母さんは、惨めだ!」

返す言葉がなくなった。

「今何と言った!」

「もう一回言おうか。お母さんは惨めだよ。お父さんを追い出して、三人で暮らそうねといっておきながら、生活費のために、あれほど弱弱しい人のところへごますりに言っているじゃないか!僕、見たんだよ。あの綺麗な男の人と、ベンチで座っていたところ。そして、僕はエリート高校に行って、お母さんは、あの綺麗な人にあやかって。それほど、お母さんは惨めだよ!」

「ごますりなんかじゃないし、お父さんを追い出したわけじゃないわ。それに、あんた、お父さんはあたしたちのこと裏切ったのに、まだ尊敬でもしているの?」

「そうだよ!それに、うらぎったわけではないと思う。お父さんは、お母さんと一緒にいるのが大変だと思ったから、別の人のところに行ったんだろう?まあ、もちろん、もう亡くなったから、真相は知らないけど、僕はそうだと思ってる。お母さんが、お父さんを追い出したんだ!」

そんなこと、気にしたことは一度もなかったし、由紀夫がそんなことを考えていたなんて思いもしなかった。それに、別れた元夫の事なんて、もう当昔に、時効にしてしまいたかった。それなのに!

「お母さん。僕はお母さんのような生き方はしたくない。逆をいってみれば、お母さんのような人にあの綺麗な人を治せるはずはないと思う。勉強なんて、どうせ、ただ頭の中で知識を詰め込んでいるだけで、何の実績にもならないさ。それよりも、曾我さんのお店で働かせてもらったほうが、よほど社会勉強になる。そういうことをしてから、学校に行ったほうがいいような気がするんだ!それに、学歴なんて、たいしたことないって、曾我さんも、ほかの従業員さんだって言ってた。いい大学行っても、何の役にも立たないってさ!」

「由紀夫!なんでお母さんのいうことが聞けないの!」

「お母さんだって、僕の事ぜんぜんわかってない!」

「くすん、、、。」

小さな曽良夫がしくしく泣きだした。

「兄ちゃん、けんかなんかしないで。」

「ごめんね。」

由紀夫は、にこやかに曽良夫の髪をなでた。

茉莉花は、何か、汚いものでも見ているような目で、見られている気がした。

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