第五章

第五章

一方その頃、影浦医院で仕事をし終えた茉莉花は、車に乗れることをいいことに、ある人物のところへ通っていた。

「ごめんなさいね。うるさいかもしれないですが、どうしても気になっちゃって、会いにきたんです。」

「はあ、気になるって何が気になるんですか?」

水穂は、今日は一段と寒いなあと感じながら、毛布にくるまって座っていた。

「あ、はい。どうして、こんな生活をしているのかなって。学生時代、あれほど大天才といわれた人物が。」

「生活は生活です、しかたありません。」

おかしいな、と思った。学生時代には、気取り屋だと思っていたのに。天才的な才能があり、しかも映画俳優なみの顔つきをしていれば、当然の如く自尊心が強くなるはずである。それが度を越すと、気取り屋となるのだ。

「しかたないじゃないですか。もう体もだめになりましたから、あとは、静かに過ごすしかありませんよ。ただでさえ、周りの人に看病してもらっているだけですから、申し訳ないと思わないと。日本では、どうしても、部外者は排除されやすいですからね。」

と、いって水穂は、咳き込んだ。もう苦しい、という態度だ。

そのあと、持っていた手拭いで口を拭くと、赤い血が茉莉花の目に映った。

「大丈夫?」

と、聞いても答えはない。

「どこかで貰ってきちゃったのかな?」

もう一度聞いたが、答えはなかった。茉莉花は、彼のこの返答を、逆に肯定と受け取って、次のようにいった。

「昔ほど、怖い病気ではないんだし、多分数ヵ月くらい通えば何とかなるんじゃないかしら?簡単な演奏くらいはできるようになるんじゃない?」

「いや、無理ですよ。もうゴドフスキーは弾けないです。」

「そうじゃなくて、モーツァルトとか、古典のピアノソナタ程度ならさほど体力を使わなくても弾けるんじゃないの?」

確かに、モーツァルトは、ゴドフスキーに比べると簡単だ。それははっきりしている。

「そりゃあ、古典派特有の難しさはあるのかもしれないけど、あなたのようなひとなら、すぐにできちゃうでしょう?学生時代、あれだけ天才といわれたんだから。」

できないものはできないのだと言いたかったが、代わりに咳き込んで返事を返した。それを見て、茉莉花は、なんてだらしない人だろうとも思ったが、同時にこの人が、憎らしいなという気もした。

「きっと、大変だったんでしょうけど、あなたって、変な人ね。治そうとかそういう意思が全くないんだから。今だったら、さほど手もかからないと思うけど?私なんて、当の昔に音楽は放棄してしまったわ。あなたは、音楽を続けられる才能があるのに、なぜ、何もしないのよ。それでは、宝の持ちぐされも、いいところだわ。」

「あ、ああ、すみません。」

水穂は、やっとそれだけ口にした。

「だって、そうでしょう。普通音楽学校でても、よほど優秀な人でなければ、そのまま音楽でやっていくことはできないのよ。あたしだって、やりたくもない仕事して、こうして生活しているじゃない。

あなたは、少なくとも恵まれているんだから、早く何とかして、音楽の世界に戻るのが義務じゃないかしら。あたしたちにはできなかったことが、あなたにはできるんだから。あれほど、難しい曲を平気で弾きこなせるような人が、どうしてこんなところで生活しているのか、信じられない。そうなるとなんで私は、こういう生活しているのかって、変な嫉妬を呼び起こすわよ。」

「ご、ごめんなさい。でも僕も、これ以上体がだめってことはよく知ってますから。もう、気にしないでいてくれますか?」

「だめ、それは明治から昭和の初めくらいまでの話。今は、そんな言葉は過去形よ。これでも私、応援しているのよ。それをなんで跳ね返すの?」

「事実、そうだからです。」

男の人って、こんなに弱弱しいものだっただろうか?と思いながら茉莉花は説教を続けた。どういうわけか男のひとは、何か大ごとが起こると、簡単に折れてしまうらしい。だから、うつのようなものに弱いのかもしれない。茉莉花の元夫も、そうだったような気がする。よく、子供が見てるでしょ!としかりつけても、そういう言葉を言って、何もしなかった。

「ねえ。何か言ったらどうなのよ。黙っていたら何も変わらないわよ。」

思わずそう言ってしまうと、水穂はたった一言だけ、

「ごめんなさい。」

とだけ言った。

「ああもう!本当にきれいな人だけど、世の中のことは何も知らないのね。それなら、私たちのように、音大に行っても、何もできなかった人の気持ちがわかるはずもないわよね。もう、男のひとって、

どうしてこういうときにだめになるんだろう?」

そういいながら、茉莉花は帰ることにした。もう、いくら話しても無駄だとおもった。

「じゃあ、私帰るわ。短い時間だったけど、ありがとう、さよなら。」

「はい。」

やっとそれだけ返答したので、茉莉花はそこだけはよかったとほっとして、製鉄所から出ていった。


一方そのころ。由紀夫と曽良夫は、ジョチの焼き肉屋「ジンギスカアン」で、焼き肉を食べていた。

「今日は一杯食べていいぞ。お母さんには僕が言っておくから。レトルトばっかり食っていると、腹が減って仕方ないだろう?」

杉三がそういう通り、さすがは育ち盛りの少年である。二人とも、何度もお代わりをせがんだ。

「ははあ。本当に碌なもんを食べてなかったな。肉は成長の基本だ。たっぷり食べろ。」

「しかし杉ちゃん、なんでまたここへ二人を連れてきたんです?また何か問題が出たんですか?」

ジョチは、二人を眺めながら、心配そうに言った。

「そうなのよ。重大な問題。ほら、食べ終わってからでいいからよ。お前の悩んでいること、全部聞いてもらえ。」

杉三が、由紀夫の肩をたたいた。

「そうなんです。実は悩んでいることがあるんです。毎日曽良夫を連れて買い物に行ったり、病院に連れて行ったりしているんですが。その、道中が問題でして、、、。」

由紀夫は、涙ながらに悔しそうに言った。

「みんな通りかかる人たちがこういうんです。富士高生なのに、なんで学校に行かないで、こんなところに行くのか、と。」

「だったら、そのままの事実を返してやればいいんですよ。弟が大変なので、暫く学校を休んでいると。」

「はい、それは何回も言いました。すると、そんなことして、なんて親不孝な子供だろうとか、お母さんが一生懸命働いているのに、裏切るような真似はするなと、怒られたこともあるんです。」

「つまり、富士高に行っていると、善人にも悪人にもなれず、ただ学校のしんがりとして生きることを強いられちゃうわけだな。」

由紀夫がそう説明すると、杉三がそう付け加えた。

「なるほど。つまり戦時中と変わらないわけですか。まあ確かに働いていないというだけでも、悪人呼ばわりされますからね。特に、男の子はね。本当はしてはいけないんですけど、どうも、他人の噂話というのは、面白がる傾向があるようですね。本当は、学校を休んで弟の世話をするなんて、非常に貴重な体験であると思うんですけどね。」

「うん、介護殺人の防止にもなるよ。だから、いいことをしていると思う。だけど、どうもそれはいけないことのようだね。日本では、金を稼ぐこと以外、家族に奉仕はできないのかあ。」

「まあ、戦時中であれば、今の杉ちゃんの話で正しかったと思いますよ。でも今はそうじゃないですから、早く切り替えてもらいたいですけど、そうはいかないのが、日本の伝統なのかな。」

杉三とジョチがそう話し合っていると、ちょうどそこへお代わりの肉を持ってきたチャガタイが、

「まあ兄ちゃん、難しい話は抜きにしてさ、由紀夫君、この店で働いたらどうだ?ちょうど、一人有能なやつがやめていったのよ。だから、人が足りなくて困ってるんだ。」

と、言い出した。

「しかしですね、未成年者を働かせるのは、手続きが難しいですしね。」

「でも、そうやって居場所を与えてやるのも、いいんじゃないかなあ。俺はそう思うよ。学校でうじうじしているんなら、働いたほうがずっといい。体さえ健康なら、大丈夫だよ。それに、由紀夫君だって、嬉しそうじゃないか。何もしてないのが悪人呼ばわりされて本当につらいのは、ほかの従業員から、たくさん聞いているからよくわかる。」

確かに、由紀夫の顔は、誰が見てもわかる喜びの顔だった。

「そうですか。では、やってもらいましょうか。しかし、未成年者ということもあり、フルタイムで働くのは無理があると思いますから、午前中か午後のいずれかで働いてもらうことにしましょう。」

「ぼ、僕は、一日働いても大丈夫ですよ。体力には自信がありますので!」

由紀夫はそう言ったが、

「やる気があるのはとても喜ばしいことですが、未成年者を働かせるとなると、加減をしなければいけないんです。そうでないと、経営者である僕たちが、法に触れることになります。」

と、ジョチに言われてまたがっかりしてしまうのだった。

「まあいいじゃないの。それに、曽良夫君のそばにいてやらなきゃいけない時間もあるだろう?午前か午後のいずれかでさ、来てくれたらいいよ。この店は、障害のある人たちばっかりだけど、みんないい人ばかりだから、君のことを悪いようにはしないと思うよ。」

チャガタイがそういうと、

「兄ちゃん、おめでとう!」

小さな曽良夫がそっと祝いの言葉を述べた。

「契約書持ってきましょうか。一応、働いてもらうための心構えを記してありますから。」

「いいよいいよ、契約書なんて後にしな。今はとにかく、うちの従業員となってもらうために、焼き肉をたくさん味わってもらおう。これからは作る側になるんだし。その味をしっかり覚えてもらわないとな。」

ジョチは、契約書を取りに行こうとしたが、チャガタイがそれを止めた。確かにそういうことも必要だ。そのおおらかな性格に、かつての父親と同じような面影があって、由紀夫は懐かしく思ってしまった。確か、自分の父も、強い人ではなかったが、こうして優しい人だったような気がする。母は、男らしくないといっていたけど、由紀夫はそんな父親が好きだった。


その翌日から、由紀夫は曾我家が経営している焼き肉屋ジンギスカアンにて、給仕係として働くようになったが、すぐにほかの従業員から人気者になった。法律的には未成年者なので、一日働くことは認められておらず、昼食時間のみ勤務することになったが、それだけでもやりがいは十分にあった。

基本的に、勤務しているほかの給仕係はすべて女性で、男性は一人もいなかった。初めに、障害のある人たちと聞かされていたので、由紀夫は歩けない人たちとか、耳の遠い人たちなのかと思っていたがそうではなく、言葉を話すのに躊躇したり、吃音があったり、ひどく怖がったりする人たちであって、一見しただけではわからなかった。それに、生まれつき吃音症があるというわけではなかった。どの女性たちも、何かしらそのような状態になるきっかけがあって、それでそうなってしまった人たちである。彼女たちは、由紀夫にそうなったきっかけをよく話してくれた。ある人は学校でのいじめが原因で、人が怖くなってしまったと語った。またある人は、仕事先で上司にセクハラのような発言をされたとか、またある人は、家庭でいつも脅かされながら育ったと語った。そういうことを、社長であるチャガタイさんこと曾我敬一さんは、障害と呼んでいたが、障害とは名ばかりで、彼女たちは本当に言葉の発達が遅れているというわけではないことも分かった。ただ、全員、障碍者手帳は所持していた。法律的にはそう区分しないと、社会でうまくやっていけない人たちだと、理事長のジョチさんすなわち曾我正輝さんはそう言っていた。でも、大体の彼女たちは、会話するのが怖いという関門さへクリアできれば、流暢に話すことができる人たちだった。中には本当に、文書を組み立てられない人も数人いたけれど、その人は、会話に一定のパターンをつけることで、お客さんとしゃべるようになる、という工夫を自らしていた。それに、マニュアル的な会話ならできるが、お客さんに雑談を求められると突然しゃべれなくなるという特徴もあった。確かに、そういう時に障碍者ということになってしまうんだろうが、彼女は、細かい皿の汚れに過敏などの「良い面」も少なからずあり、そこをお客さんたちは、否定しないことによって、勤務を継続できるようになるという、暗黙の仕組みが根付いていた。

基本的に、年齢とか、勤務年数とか、そういうことによって給金が変わるということは一切なかったし、給仕係、調理係など役割の分担はあるものの、その中で課長とか係長とか、そういうポジション的なものも存在しなかった。特に入ったばかりの人の中には、通勤さえも大変で、一苦労してやってくる、という女性も少なくなかったが、彼女も同じ額の給金が支給された。それは、彼女に劣等感を持たせないためだと、ほかの女性たちはそう言っていた。

従業員たちは、勤務が終わったときや、休憩時間などに、ほかの従業員たちとしゃべりたがった。相手になった従業員たちも、別に嫌そうな顔をすることもなく、それに応じた。彼女たちが話しているのは、おおむね過去に受けてきたひどい仕打ちのことであり、その中には、非常にためになる話も少なくなかった。由紀夫は彼女たちの話を聞きながら、曽良夫に聞かせてやりたいな、とも感じたことが何回もあった。それに、自分自身の行く末を示すような話も少なくなく、由紀夫は、人生の勉強として彼女たちの話を聞かせてもらうことが何回もあった。

彼女たちの家族構成は実に様々で、まだ独身の女性もいるし、結婚したばかりの女性もいるし、小さな子供を持つ女性、あるいは高校生くらいの子供がいる女性、そして、すでに子供は独立してしまった女性、老親の看病をしている女性まで働いていた。それらの女性の中でも給金に差はなかった。そうなると、ずいぶん不公平だなと、思ったが、この店では彼女たちの副業を認めていたため、お金が必要な人は、自分の好きなこと、絵を描くとか、文書を書くとか、そういうことをやって、お金を稼ぐことが許されるというシステムもあった。むしろ、そっちのほうがメインという女性も少なくない。こうなると、企業というよりか、生活を援助するために働かせる場所、というべきだろう。基本的に、彼女たちは、一人で生きるということはまずできない人たちで、自身の居場所すらなくしてしまったひとたち、ということができた。だから、こういうシステムのほうが、ずっといやすいのだとわかった。

そんな中で、由紀夫も働かせてもらったのであるが、瞬く間に彼女たちから人気者になった。彼女たちは、教訓的な話も聞かせてくれたし、自身の悩んでいることも聞かせてくれたし、時には、本業としている文書作成の話も聞かせてもらったこともある。学校に行くより、ずっと面白かった。そういう人たちの中で働かせてもらうのだから、仕事の時間はあっという間に終わってしまった。その後家に帰って、弟の曽良夫や、時に手伝いに来てくれる杉ちゃんと、買い物に行くのは、本当に楽しかった。ある日なんて、杉ちゃんが帰り際に、最近生き生きしているな、とからかったほどである。

でも、ひとつだけ不思議なことがあった。彼女たちが持っている、ものすごい劣等感であった。彼女たちの話を聞いていると、いわば他人の悪事を自分がしたと名乗り出て会社を首になった、など、一見すれば英雄的な過去を持っている女性たちも少なくない。しかし、彼女たちは、絶対に自分は普通に働いている人たちより劣っていると口にし、自尊心というものは全くないのではないか、と思われる。それはなぜだろう?そういう人たちなら、もっと堂々と生きていていいのではないか?と彼女たちに持ち掛けてみたところ、そんなセリフは言ってはいけない、ひとつ劣っていると確信して、生きていかなければ、と必ず言い聞かせられるのである。中には、この店だけが、私を人間としてみてくれる、外へでたら、私はただのごみに過ぎないと、演説するように言う人も存在した。そして、みなそういうことをいう割に、にこやかではなくて、悲しそうな顔をして、仕事をしている人ばかりだった。


一方、茉莉花は、今日も製鉄所を訪れた。一応、自分が口に出して言い出した取り決めなので、それには嫌でも従いなさいと、影浦先生から指摘された。そういうわけなので嫌であっても、製鉄所に行かなければならなかった。

「こんにちは。」

茉莉花は、恐る恐る引き戸を開けた。ここではインターフォンがないので、用事があれば、すぐに引き戸を開けてもいいことになっている。でもなんだかそのシステムは、相手に考慮がないとかそんな気がしてしまうのだが、、、。

「はい、なんでしょう?」

恵子さんが応答した。

「右城君、いや、磯野君いますか?」

そう形式的な言い方をしたが、恵子さんは、間違えたところだけでも嫌そうな顔をする。

「いますけど?」

つっけどんにそう答えた。

「あ、そうですか。じゃあ、お話させてもらえますか?」

「ええ、寝ていますけど、起こせば起きるはずですから。」

そういう言い方をされて、茉莉花はまた別の疑問が生じる。もしかしたら、こういう扱われ方をされてきて、きちんとした医療というものを受けていないのではないか?私に課された使命というものは、そこへ彼を導いてやることではなかったか?

「ちょっと入らせてください。」

茉莉花は、そう言って、建物の中に入らせてもらった。

「あ、どうぞ。」

恵子さんは、もう何をやっても無駄よ、という顔をして、彼女を中へ通させた。


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