第6話

「おい柳! おまえ、外に出るのどのくらいぶりだ?」足を組んだまま立石が辛い声を出す。


 柳は足を止めて振り返り、慌ててウイスキーの栓を緩める。「ぼくですか? どのくらいって、そうですねぇ、四年と三百八日ぶり、いえ、三百九日ぶりですね、でも、自宅の庭に出たりしていたので、何度も外に出ていたんですよ、でもわかります、わかりますよぉ。立石君の言う意味では、四年と三百九日ぶりです。最後に立石君の意味する外に出たのは、東京が梅雨入りしてから三日後の曇りの日で、九州地方を拠点にするプロ野球チームのショートストップが、そのシーズン初めての失策をした日です。そうなんですよ、ぼくが駅前の家電量販店で、プリンターのインクと印刷用紙を購入して、釣を渡してくれた、そうです、はっきりと覚えてます! 小型の手榴弾を口にくわえて、爆発したあとのポメラニアンのような匂いを放つ、二の腕の赤ばんだ女性から釣銭を受ける瞬……」


「おめえ、その間何やってたんだぁ? 誰とも連絡とってなかったのかぁ?」力士の四股を想起させる、徐〈おもむろ〉な動きで菅田はイスに座る──毛ニ包マレタ二足歩行ノ、犬トモ判断ツカナイソレハ、黒イ肉球ノ上ニ、小銭トレシートヲ乗セテイル──。


「言えません! 決して言えませんし、言葉で言い表せるようなことでもなく、また、言い表すなら、七つの月と七つの日、さらに七つの頭を要します。だめです、話をするぼくは生き仏になり、菅田君は半渇きのミイラになってしまいます、ええほんとです、確実に死にます。べつに呪いを受けるわけじゃありませんが、なにしろ、話し手と聴き手の精神を磨耗させる、いわば苦行のようなものですし、蜻蛉〈とんぼ〉のようなぼくの舌でさえ、話し通せるか自信がありませんし、それに、ええ、だからといって、文章にすれば、手の神経は朽ち果てます。疲労よりも、そうですね、ピラミッドの呪いに通じる怨念といえば、違います違います、呪いじゃあり……」


「なげえよ、一言で言えよ」ビール缶を口から離し、立石が焦〈じ〉れったそうに声を出す(マッタク、無駄ナ話ガ多インダヨ)。


「呪い?」柴田は難しそうな顔をするが、眉間がどうにか動いたぐらい──鼻先ヲ抓〈ツマ〉マレタママ、クレーンデ引キ上ゲラレ、中心ヘ皮ガズリ動イタ、仰山ナクレオパトラノ顔シテ、玉座ニ座ッテ砂色ノ家臣ヲ叱リツケル──。


「立石君、君はぼくを殺す気ですかぁ? いえ、言葉が悪かったです、ぼくに死刑を勧告するんですか? 君と会ってから何百回とぼくは、理由を説明してきたじゃないですか、ええぇ? 覚えていますか? 昔のぼくはほがらかな性格だったから良かったものの、年を重ねて、頑固とは言いませんが、多少なりとも自分という人間が出来あがった今では、とても説明する気になれやしません! ええ、絶対に説明なんかしてやるも……」


「だからなんだよ! どうせ自慰好きのおめえのことだから、オナニーしては仮眠して、オナニーしては仮眠しての繰り返しなんだろぉ? で、気がついたら、四年過ぎちゃいました、ってな具合だろ?」菅田は間抜けな顔で股間を擦〈こす〉る振りをしてから、両手を重ね、右頬にあてて、ちょいと首を傾げる。


 柳は突然ウイスキーを持つ手を天に上げた。「まず一つ! 菅田君、ぼくは自慰行為を愛してます! 断じて嫌いだなどとは、口が縦に裂けても言えないし、言うべきではありません。なぜならぼくは、思春期に一日二度必ず射精していましたが、今では一日四度、それも、一時間内に四度射精するのです! これこそ訓練のたまものです! ええ、へっちゃらです! そうです、ぼくは心から自慰行為が好きです! ああ、そうなのです、自慰行為に崇高なる思想さえ抱いています。しかし、その思想をこの場で論証するほどの度胸はありません! 自慰はできますが、自慰行為の具体内容を説明するとなると、恥を覚えずにはいられません。でも勘違いしないでください、ぼくは自分の行為を恥じるわけでなく、口に出して言うことが、そりゃ、もう、恥ずかしいわけじゃないんですが、しかし、ここであえて恥じらいを見せておかないと、人間として……」


「馬鹿野郎! だれがおめえのオナニー談話を聴きたいなんて言ったか!」菅田が上半身を前に出す。


「ははは」柴田は能面らしく顔色変えず、間延びした笑い声を出す──下半身丸出シノ柳ハ四股ヲ踏ミ、長イ髪ヲ太腿ニ垂ラシ、不気味ナ器具ヲ握ッテ、矢尻ノ性器ニ出シ入レスル──。


「おい柳、おかずは何を使うんだ?」うれしそうに笑みを浮かべて立石が問いかける(コノ変態、オナニー癖ガ全然直ッテネエジャン!)。


「ペッツですか? おかずとは、ずいぶん下種〈げす〉な言葉ですね立石君、ぼくはおかずなんて言葉は決して使いません、第一、相手に失礼です。ぼくは射精をうながす相手の方を、あえて“お姫”と呼んでいます、わかりますか? あっ、でも勘違いしないでくださいよぉ、“萌え”だかなんだか知りませんが、わけのわからない言葉で形容されるアニメを見て、お姫なんて言うんじゃありません、ええ、ぼくはその新手の性嗜好に対抗して、“即射”という言葉を頒布〈はんぷ〉させようと思っていまして、どういう時に使われるかと言いますと、いたって簡単です。まず、性的興奮を覚える対象を見つけるとするじゃないですか、そんな時、おもわず射精したいと思うことはありませんか? ないって言ったら、嘘つきです! 偽善です! いえ、偽善じゃありません、単なる弱虫です! ああ、そうです、要は、お姫、いえ、ここはあえて、男性器を写実にあらわした頭部を敬意して、立石君の言葉を使わせてもらいます。要するに、最上級のおかずを見たときに即射を使って欲しいのです。意味は、即刻に射精するほどの至高品だと言う意味です。食材に言い換えますと、いわゆる世界三大珍味といわれる、トリュフ、フォアグラ、ツバメの巣を見て、即射したいって言って欲しいのです、わかりますか? 庶民にはちょっと馴染みが薄いですか? ラーメンの香りがしたら、つい麺に目がけて男根を突き刺したくなるような、丼を征服する倒錯感ですね、萌えだかなんだか知りませんが、カウパー液垂れ流し状態を喜ぶ生温い官能は、ぼくにはまったくありません。出るか出ないか、それが問題です! たしか、昔の人の戯曲にも、似たような意味の言葉がありますね、とにかく、ぼくは即射もののお姫を相手にして、自慰行為の完全なるクライマックスであ……」


「だから何を使っているんだよ?」声を大きくして立石が訊ねる(コイツ、ヤッパリ阿呆ダ)。


「わかりました、もうすこし詳しく説明してから、実際にぼくの使うお姫をお披露目、いえ、実際に見せるわけじゃないですね、ええ、そうです、立石君が今にもスペルマを飛ばしそうな頭していますので、じらすことなく、男らしく単刀直入に言います。ぼくのお姫は、レイプです! ええ、それ以外はまったく興味ありません、レイプ以外にはもう反応しません。昔は、女学服、熟〈う〉れ女〈おんな〉、乱れ交わしなどにも興奮を覚えたのですが、行き着いた先は結局レイプでした、それも、やらせなしの本物のレイプです、特に中継で見る生のレイプが即射ものですね。女性の顔と体型はもちろん上級がいいです、しかしそれはあたりまえの基本であって、もっとも重要なのは男優の攻め方です。非情な人は多いのですが、こう、上手に女性の本能に訴えて、恐怖と痛みを快感へ昇華させる人は一握りです、ええ、ほんと粗野で下品な男性が多いので、たぎる性欲に身をまかせればいいと思っている人が、ほんと多いんですよ。えっ? ぼくですか? だめですよ、ぼくはそういう操作がうまくいかなくて、つい、性欲以前に、殺人衝動に襲われてしまい、ああ、違います違います、ぼくじゃないです、ええ、勘違いしないでください、これは別の知り合いから聞いた話でして、なんでも、その知人は、レイプマニアなんですが、実際にレイプするのは大の苦手でして、鑑賞するだけなんですよ、ええそうです、楽器の演奏は下手ですが、鑑賞するのが好きな人と本質は同じで、ええほんと、程度の差こそはなはだしいですが、とにかく、その、レイプしている間に、女性を殺したくなって、そのまま死姦してしまうのです、ぶっちゃけて言えば、死姦が大好きなんですよ」


 そう言うと柳はウイスキーを口にした。柴田は表情変えずに手をいじり(柳君、イツカ犯罪起コシソウ)、立石は不愉快そうな顔してビールに口をつけた(コイツ、人トシテ最悪ナコトヲ、平然ト話シヤガッタ、マジデ狂ッテンゾ)。


「おい、ど変態、想像して楽しむ分にはいいが、まじに実行するんじゃねえぞ! そんなことしたら、警察に捕まる前に、おれがおめえをくしゃくしゃにするからな。それから、そんな腐った知人の話二度と口にするな!」菅田は見下げるような面〈おも〉持ちで、額を射抜く視線を柳に向けた(汚〈ケガ〉ラワシイ話ナンカ、スンジャネエ!)。


 すると柳は顔を俯〈うつむ〉かせ、頭を掻きむしって感情を顕〈あらわ〉にした。乱れた髪が顔に垂れ、蠅を追って視線を地面に泳がせ、非常な注意を持って菅田の足を視界に入れた。


 一抹〈いちまつ〉の沈黙が訪れ、コンロを中心に場を保つ馴染みの同級生四人に、ベースとドラムの電子音は飛び出して聞こえた。華やかながら物悲しさを覚える旋律の、エフェクトにぼやけて繰り返されるのを。

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