谷のパーティー

酒井小言

第1話

「ほんとにこの道で合ってるんですか? ほんとに合っているんですか? どうもですね、ぼくは違うように思えてしまうんですよ、さっきの青看板には、左の矢印に短高山がありましたよ、見えませんでしたかぁ? 池田君、ほんとに見えなかったんですか? あんな大きい看板が目に入らないなんて、ぼくには信じられませんよ、あんなの、眼を開けていれば嫌でも目についてしまいますよ。あの看板は蠅〈はえ〉ですよ、蠅、わかりますか? ちょっと小太りの蠅が自分の部屋に入ってきて、蛍光灯のまわりをうるさく飛び回る蠅ですよ、わかります? あの蠅ですよ。ぼくはですね、あの蠅が飛び回るのを見るたびに、蠅の鱗粉〈りんぷん〉が部屋に散乱するように思えて、すごい気分が悪くなるんですよ。蠅が入るたびに部屋の窓を全部開けて、扇風機を引っ張り出して、部屋の空気をすべて入れ替えるんですよ。ほんと面倒くさいですよ。夏ならまだいいですが、冬となると寒いですからね、せっかく暖めた部屋の空気をすべて捨てなければならないんですよ、わかります? 池田君みたいに脂肪があるならいいんですが、ぼくみたいに骨と皮だけで生きている者としてはですね、やっぱり寒いのはつらいんですよ、ほんとにつらいんですよ。まあ池田君に言ったところでわからないと思いますがね。……そういえば、蠅って燐粉があるんですかね?」


 腰にかかる長髪は波を打って垂れ、琥珀〈こはく〉色の眼鏡の奥から、陰湿以外の何物も感じられない細い目を池田に向ける。柳の鼻は鉄鎚〈かなずち〉のようであり、白髪を交じえ、下唇が糸に引っ張られたように曲がっている。


「知らないよ、蠅の鱗粉なんか」丸っこい顔をした池田は正面を見据えたまま、暗い山道を慎重に運転する(アアウルサイ、コノ道デ合ッテルンダカラ、イチイチ言ウナヨ。オマエハ運転シテナインダカラ、知ッタ風ニ口出シスルナヨ、ムカツクナァ。青看板ガ蠅ッテ、イッタイ何ヲ言ッテルンダ、青看板ハ青看板ジャンカ、オマエノ部屋ノ蠅ナンカ知ラナイヨ。ソモソモ、オマエノ部屋ガ汚〈キタナ〉イカラ蠅ガワクンダロ、コノ引キ篭〈コモ〉リガ。オレハ間違イナク、短高山ハ真ッスグダト見タンダ、左ガ短高山ナンテ、オマエノ見間違イダロォ? デモ、コイツニソノ事ヲ言ッタラ大人ゲナイシナ、コノ偏屈ナ引キ篭リノコトダカラ、『家ニ帰ル』ト、遠マワシニ言ウダロウナ、サッキミタイナ事言イ出シタラ、ナダメルノモ大変ダシナ。アァア、コンナヤツト一緒ニ行クンジャナカッタナ、イクラ桂〈カツラ〉君ノ頼ミトハイエ、コイツヲ連レテ来ル約束ナンテ引キ受ケナキャヨカッタヨ)。


「蠅も蝶と同じ昆虫ですから、鱗粉がないとは思えないんですよ、やっぱりあの小さい体に、雑菌だらけの鱗粉がついていると思うんですよ、ほら、蠅って汚物に群がるじゃないですか、だから蝶のような花粉の燐粉じゃなくて、人間の目にはとらえられない、糞便が乾燥して粉末になったような物だと思うんですよ。クミンですね、クミン、もうたまんないですよぉ、蛍光灯にぶつかって、部屋中に糞の粉末をばら撒かれるんですからね、どうです? 蠅が部屋にいるだけで、見知らぬ犬のうんこや、人のウンコを吸い込んでいるようなものですよ、いくら分解に欠かせない重要な役割を持った生き物でも、迷惑な昆虫ですよ、ねえ池田君、ほんとに道合ってんですか? 山道は一本間違えると、全然違った場所に着いてしまうんですよ。だいたいですね、道を間違えて迷子になる人っていうのは、自分が正しいと思い込んでいるから、はっきりと確認できていない道を進んでいても全然気にしないんですよ。間違った方向に進むことが正しいと思うんですよ。それでいて、ちょっとおかしいなと思っても、変にけちな考えを浮かべて、道を引き返そうとしないんです。だから引き返すタイミングを失って、むしろタイミングを見つけないんですが、間違えた道をさらに進んで、どんどん悪い道へと走っていくんですよ、わかります? 犯罪者ですよ、戻るのが確かなのに、何を根拠にしてるのか知りませんが、突き進んで行くんですよ。とにかく走れば良いと思っているんです、だからといって、池田君のことを言ってるわけじゃないですよぉ? 勘違いして気を悪くしないでくださいよ、被害妄想は困りますからね。ただですね、このまま走るよりも、戻って青看板を確かめたほうが良いんじゃないかと思うんですよ」


 助手席にもたれかかり、顎〈あご〉を擦〈さす〉りながら話す。肘を立てて考える姿勢をとっているが、柳の眼は忙〈せは〉しなく動き、池田の顔をちらちら見るだけだ。


「大丈夫だよ、はっきりと看板を見たから間違いない」柳にはまるで目を向けず、池田はがっちりとハンドルを握っている(嫌味ッタラシイヤツダナ、勘違イスルモナニモ、完全ニオレノコトヲ言ッテルジャンカ。自分ノコトヲ言ワレテイナイト思ウワケナイジャン、気ヅカナイホド鈍感ジャナイヨ、ホントムカツクナ。オレハ一度通ッタ事ガアルカラ、コノ道ガ正シイト知ッテイルンダヨ。車ノ運転モデキナイクセニ、知ッタ風ニ話スナヨナ、四年半振リニ家ヲ出タオマエガ、偉ソウニ助言スルコト自体ガオカシインダヨ。陰険ナヤツダナ、コンナヤツレタヤツニ、蠅ガドウノコウノ言ワレルト、気分ガ悪クナルヨ、コイツ、部屋ニ居スギタセイデ、蠅ヲ観察シテイタンダ。ホント気持チ悪イナ、蠅ノ話ナンカシナイデ、モット楽シイ事ヲ話セヨ)。


「ほんとですか? ほんとに大丈夫ですか? 合ってるならいいんですが、あとで間違ったなんて言わないでくださいよぉ、ほんとお願いしますよ。ぼく、道に迷って時間を浪費するのが大嫌いなんですよ、時間がどれほど大切かは細かに説明しなくてもわかりますよね? 時間は命ですよ、池田君、道を間違えることは命を浪費することですよぉ? 道なんて、前もって準備していれば間違えようないんですよ、間違える人は準備を怠った人ですよ、わかります? 怠慢な人のせいで、自分の命を無駄にされるのが嫌なんですよ。だってぼくの責任じゃないですから、他人のせいで自分の命を奪われるなんて耐えられないんですよ。責任を取れと言ったって、補〈おぎな〉えるわけじゃないですからね、相手から時間をもらえるならいいですが、せいぜい削ることしか出来ないですから。もう、ほんと理不尽ですよ、道を引き返して確かめれば簡単に防げたものを、得て勝手に車を走らせて命を奪われるんですよ、ああ、べつに池田君のことを言ってるわけじゃないんですよ、ただ、ぼくはそういう目に合うのが、親を殺されるより嫌なんですよ、わかります? ぼくが家に居る理由の一つがこれですよ、他人と付き合うと、命を奪われる事が恐ろしく多いんです。道を間違えるように、くだらない催しや寄り合いに命を奪われるんですよ、ほら、たまにこういう人いません? 相手が嫌がっているのも気づかずに延々と自慢話をする人、ぼくはこういう人に会うと訴えたくなりますよ。奪われた分の時間を賠償して欲しくなります。でもほら、やっぱり賠償できないじゃないですか、金なんかもらったって、時間の節約にはなっても、結局補填〈ほてん〉にはならないですからね、ほんと取り返せないですから、相手を殺して良いと勝訴しても、なんの解決にもなりませんよ」


 話を終えるとすぐに尖った両肩を聳〈そび〉やかして、柳は下唇をにゅっと突き出す。


「だから大丈夫だよ、まえにも来たことあるから間違えないって」池田は大きな溜め息をつく(コイツハ何ヲ言ッテルンダ? ヤッパリ引キ篭リ過ギテ、頭ガオカシクナッテイルンダ、イヤ、頭ガオカシイカラ引キ篭ッテイルノカ、時間ハ命ダ? 意味ワカンナイゾ。延々ト自慢話スル人間ヲ訴エタイッテ、ソンナノ裁判ニナルワケナイジャンカ、ソレヨリモ、ワケワカラナイ話ヲ聞カサレルオレノ身ニナッテミロヨ、オレガオマエヲ訴エタイヨ。運転シテイルノヲ気遣ウドコロカ、邪魔ニナルヨウナ事バカリ言イヤガッテ、オマエ、自分ノシテイル事ワカッテナイダロ)。


「そうですかぁ? まえにも来たことがあるならいいんですが、それで道を間違えたりすると、ほら、初めて来て間違えたより、ずっと不快な気になるんですよ、わかります? まえにも来たことあるのに間違えるなんて、ほんと救いたくもない愚図ですから、でもたまにいるんですよ、その信じられないような愚図が、ああ池田君、勘違いしないでくださいよ、でも、桂君はどうしてこんな遠い所でパーティーなんかやるんですかね、もっと家から近い、建物の中でやればいいと思うんですが……、わざわざ人の集まりにくい山の中でやるなんて、効率が悪いですよね。べつに迷惑ってわけじゃないですよ、迷惑だなんて、ただもうすこし気をきかせて、近い場所でやるべきだと思うんですよ、そうじゃありません? ガソリン代や運転の労力が多くかかってしまいますよ、まあ、ぼくは車の運転をしないからいいですが、それでも移動時間は平等に奪われますからね、大体、山の中で音楽を流して、いったい何が楽しいんですかぁ? ネットで野外パーティーの映像なんかを観たことありますが、あんな野蛮なことして楽しむ類〈たぐい〉の人間は、ほんと理解できませんよ、いえいえ、理解しちゃだめです。だって山の中で踊るのが楽しいなんて、野蛮人じゃないですか、頭の働きがしっかりした人ならそんな事しませんよ。なんで社会的に発達した人間が、わざわざ原始人に戻ろうとするんですかね、ほんと理解してはいけない事ですよ、ああ、でも桂君の気性を考えると納得できますよ。納得できるだけで、理解できるわけじゃありませんよ、単に納得できるだけです。あの人は、なんか、そう、快活って言えば聞こえが良いですが、知恵の足りない点があるんですよ、幼稚園から彼を知っているからあれですが、神経の束が常人の十倍くらい通っていると思ってましたよ、とにかく多面に鈍感です、原始人の足の裏です、あれだけ小さい事を気にできないと、羨〈うらや〉ましいどころか、かわいそうで仕方ありませんよ、ええ池田君、ほんとそう思いませんか? 彼は成長するごとに知恵を失っているんですよ、最近の彼はよく知りませんが、このあいだ家に電話がかかってきた時も、あの無遠慮な声に磨きがかかっていましたから」


 柳は首を小刻みに振り、顎〈あご〉に手を据えたままいる。


「桂君のパーティーは楽しいよ、柳はどう思うか知らないけど、おれは桂君のパーティーが好きだね。色んな人が集まるし、機材も充実してるし、なにより空間が暖かいからね、桂君の度量の広い人柄をよく表わしているよ。一年前に夏のパーティーに行ってから、おれは毎月欠かさず参加してるよ、ほんと良いパーティーだと思う」


 一瞬柳に目を向けてから幾分強い調子で話すと、池田は返事を必要としない素振りを見せる(何モ知ラナイクセニ、桂君ノ悪口ヲ言ウナヨナ、ドレダケノ情熱ヲ注〈ソソ〉イデパーティーヲ開イテイルカ、家ニ引キ篭ッテイルオマエニハ少シモワカラナイダロ、適当ナ事言ウナヨナ。大体、桂君ハコンナ陰気臭イヤツヲ、ナンデパーティーニ呼ンダンダ? コンナヤツト一緒ニ踊ッタッテツマラナクナルダケダシ、ブースノ前ニ立タレテモ場ヲ盛リ下ゲルダケダロ)。


「ああそう、そうですかそうですか、良いパーティーなんですね、そうですか、池田君が毎月参加するぐらいだから、よっぽど良いパーティーなんですね、でもぼくは悪いパーティーだなんて一言も言ってないですよ、ほんと勘違いしないでください、ただ、このあいだの桂君の態度が、なんて言うんですか、礼儀知らずというか、押しつけがましいというか、でも桂君らしいって言いたかったんですよ。そもそも、人をこんな山奥に誘う時点でずうずうしいですよね、ぼくだったらこんな道を走らせることできません。お客さんに対して申し訳なくて、色々と考えちゃいますよ。ねえ池田君、ほんと道合ってんですかぁ? はやく戻ったほうがいいですよ」


 柳は首を曲げて、理解出来ないといった見下した目を上下に動かした。池田は返事をすることなく、気だるそうに首を傾〈かし〉げたまま前を見つめていた。

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