39

玻璃は微かに口を開いて、瞬きもせずに空を見上げていた。

「……そっか……生きてたって、苦しいだけなんだ。嬉しいとか楽しいも誰かが仕組んだことで、本当の僕はいない。生きているだけで素晴らしいとか、この世界に生まれて良かったなんて、僕も思ったことなんてないんだ。……なんだ、僕は合ってたんだ」

「そうだね、玻璃。君は悪くない。悪いのはこんなめちゃくちゃな世界だ。苦しまない人間はいないのに、人間がまた人間を産む。しかもそれは簡単にできる。尊いことなんかじゃない。泣くのは苦しいでしょ? 嫌われているんだと過ごす日々は辛いよね。そんなことが無くなるとしたら? もう悩まなくていい。いつか必ず死ぬのなら、自分でそれを決めた方が良いと思わない? 皆必死で誤魔化しているけど、誰もが心の中に消えない記憶を隠し持っているんだ。苦くて嫌な、忘れたくても忘れられないもの。それは厄介で、突然思い出させてくるときもある。ベッドの中でそれが出てきたら朝まで眠れなくて、今何時だろう、さっき時計を見てから何分経っただろうって不安になる。その内明るくなってきて全然眠れていない自分に焦りながら、必死に目を瞑る。起きてもまだその記憶が残ったまま、暗い気持ちを発散できずにいる。こんな経験はない? 誤魔化していたって消えないのに。苦しいのを完全に消すなんて、記憶喪失ぐらいだよ。でも記憶が無くなって別人になってもまた、悩むんだろうね。人間って悩む為に生まれてくるのかな? 苦しむ為に生きてるのかな? どうして絶対死ぬのに、一生懸命生きなきゃいけないのかな」

小さな瓶を取り出す。月明かりに照らされたそれは、美しく透き通っていた。

「魔法のお薬だよ。玻璃を永遠に苦しむことのない世界に連れていってくれる。生まれ変わりなんて存在しないよ。もうこんな所に来ることはない。私達も近い内に向かうよ。ここにおじいちゃんになるまでは居られないからね。これ、玻璃にあげる」

「……お兄ちゃん」

小さく呟いた玻璃の声に耳を向ける。

「お兄ちゃんに、最後に会いたい」

「玻璃……ここで灰蓮に会ったら、灰蓮は玻璃のことを寮に連れて帰るよ。それで今日のことはなかったことになって、すぐ元どおりの日常に戻る。戻ったら、どうなる? また同じ思いをするよ。灰蓮は更に自分を責めるかもね。玻璃を止められなかったって。灰蓮は知らないんだ。君がどう考えているのか、何が幸せなのか。大丈夫、灰蓮もすぐに気がつくよ。玻璃が正しかったってね」

俯いていたけど、やがて納得したように首を振った。瓶を渡そうとした時、小さな体温がお腹に触れる。妙な感覚だった。自分より小さなものに、こんな風に触れられるのは初めてかもしれない。でもこれぐらいはいいかと、抱きしめ返してあげた。玻璃は薄らと涙を浮かべて笑う。小さな指が瓶の蓋を外した。

「柘榴……僕のこと、好き?」

先程まで平気だったのに、今になって急に大きく動揺が広がっていった。何が起きているのか分からないのに、感情だけが昂ぶっていく。

どうして泣いているのか、どうして微笑んであげたくなるのか。両手を握って、好きだよと答えた。玻璃は今まで見た中で一番嬉しそうな顔で、それを飲み干した。味は知らないが、美味しいはずはないだろう。何度か大きく咳き込んだが、玻璃は眠るように倒れた。使うことしか考えていなかったので、当然解毒は作っていない。この毒が未完成だったら、解毒剤があったら私達の未来は変わっていたのだろうか。

神は信じていないけど、死の演出は美しい方が良い。マリアという母はこの子を認めてくれるだろうか。死後の世界を誰かが教えてくれればいいのに。どうか、玻璃の苦しみがここで終わっていますように。

それから私は、喪失感の中で過ごしていた。初めて、寂しいという感情が胸に渦巻いている。生活というものが今までよりも更に、死へ向かう為の行為になった。ただ体が使い物にならなくなるまで、動かすだけ。誰かが私の死を演出するから死んでいいよと言ってきたとしても、それを任せられる程信頼している人間がいないことに気がついた。上手くやってくれそうな人は信じられないし、あの可愛い子達は自分も後を追ったり、ただ苦しめてしまうだけになりそうだ。私が死ぬときは、皆を看取ってからがいい。そうでないと安心できない。私が死んだ後月長を苦しめると分かっていたら、死ぬことはできない。でも……そんなことは玻璃だって分かっていた。分かっていたのに飲んだ。あの子は私が思っていたよりも、強い子だったのだろう。じゃあ尚更苦しむのは、最後まで救われないのは私でいい。私でいよう。

先生については、暇潰しだった。初めは特に興味も持てず、ただの景色ぐらいに思っていた。無味無臭、可もなく不可もなく。でも、先生からは大人の匂いがしなかった。お酒や煙草、加齢臭もそうだけど、それだけじゃない。今までの大人にあったものがなかった。スーツからは僅かに珈琲の香りがするだけで、彼自身は何にも染まっていなかった。それが、何もないのが、特別だった。彼となら上手くいくかもしれない。

かつての城は崩れてしまった。空き家だとしても、あの場所まで来られる人間もいない。手入れされていない建物は、あの頃の面影もなくしているだろう。彼らはあの家と同じように、私達も腐ってそのまま消えてしまえばいいと思っているはずだ。便りなど寄越すようなタイプではないがここまで音沙汰がない以上、どう考えても私たちは捨てられたのだ。この大きな墓場に。帰るところがないから、ここから出る意味もない。仕方がないから大人しく諦めようとしていた。だけど今なら、彼がいるなら。私達が望んでいるのは復讐ではない。彼らから、全てからの解放だ。


「先生、みんなで暮らさない? ここでもいいけど……もっと素敵なところに。ずっと、ずっと……一緒に」

先生はもう私達と同じ色だった。あの人たちの被害者で、真っ白な笑顔ができない人。楽しい時も、愛しくて仕方がない時も、どこかに影がある。黒いベールが包んだ感情は、美しい。お互いのベールを重ねて、色を濃くする。

「素敵なところ……柘榴は、知ってる?」

「うん。連れていってあげる。先生が辿り着くべきところに」

どうしてこの腕はこんなに暖かいのだろう。どうして涙は燃えるように熱く、私に流れてくるのだろう。

運命なんて、神なんて信じない……でもこんなことが起こるなんて、奇跡ではないのか。巡り合うことのない魂が、こうして触れている。言葉を交わしていないのに、深くまで通じ合っている。

「貴方を……愛してる」

彼の手が、頰に触れた。もう何が言いたいのか、何を考えているかが分かる。

「私が伝えても、いいのかな……ちゃんと伝わる?」

頷くと、安心したように口角が緩んだ。

「例え違うのだとしても、私はここに来る為に、君達に会う為に生まれてきたのだと、そう思う。肉体が溶けて無くなるまで、運命を共にしたい」

私には貴方だけ、でも貴方には私以外にも大切な存在がいる。たまに苦しくなるけれど、私は平気だ。貴方が存在して私を見てくれている、必要としてくれている事実だけで生きられる。醜い感情は何処かへ飛ばして、もっと大きな愛に包まれた世界に……。

「先生……柘榴」

そんなことを考えていたら、紅玉が視線の先にいた。私を抱きしめていた先生は、一歩遅れて後ろを向く。まだ涙の跡が乾いていなかった。

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