33

13

彼は暗くなった廊下の壁に寄りかかっていた。教室に来てほしいと呼び出されたが、何か問題でもあっただろうか。

「紅玉、待たせてしまったかな」

表情が読み取りにくいが、少なくとも笑顔ではないようだ。近づいても動く気はないようで、ポケットに両手を突っ込んでいた。

「ああ……ズルいなぁ。あの子はね、いつも……そうなんだ」

顔がよく見える位置まで来ると、紅玉は力なく笑った。

「昔から、そうだ。僕が育てた物を簡単に壊していく。しかも残酷な形でね。綺麗な花が咲いたら、花びらだけを千切ってしまうみたいに。本人は軽い気持ちでただやってみただけだから、悪意を感じない。それがまたズルいんだ」

誰のことだと聞こうとする前に、紅玉の腕が絡められた。力は弱いので、無理やり振りほどく気にはならない。そのまま教室に入った。

夜に見ると、本当の星空のようだった。昼間よりも圧倒的に美しい。二人で船に乗り込んで、肩にもたれる紅玉の重みを感じていた。

「夢なら覚めなければいいのにと言うのは、こういう時の為にあるんだね。本当にそう思う。このまま居られればいいのに、なぜそれは不可能なのだろう。時間と共に環境は変化していく。いくら暗いカーテンで覆ったところで、陽は隙間に入り込んでくる。雰囲気は台無しだ」

指先が絡められる。紅玉は空を見つめていた。私もそれに倣って、作品を眺める。

「僕らの体も着々と睡眠を欲張る準備を始め、水を飲ませろと要求してくる。浅ましい体だ。素晴らしいものをわざわざ妨げようとして、壊していく。なぜ飽きや慣れという感情が存在しているのだろう。邪魔なのは他の奴らだけで充分だ。もう一度同じ空間を用意しても、同じ時間は過ごせない。すごくもどかしい。記憶などという曖昧なものに頼るしかない。貴方の感触や話した会話は全てでなくても、できる限り覚えておこう。でも……この体温は消えてしまう。二人分の熱は、少し動いただけで逃げようとしていく。何かを残さなきゃ、覚えておかなきゃと必死になっても、手の中は空っぽだ」

彼の体が熱くなっていた。こちらに向いた瞳は強い感情を訴えている。紅玉の頰に触れてそれを拭った。擦り寄る頭をそっと撫でる。

「二人で今日のことを話せば、また作り直せるのかな。このまま意識がなくなってしまえばいいのに。結局僕はそうやって、できないことや見えないことを追うばかりだ。何も考えずにただ綺麗だ、愛しい、幸せだと単純明快な脳内になってしまえればいいのに。こんな面倒な脳みそにした神なんて嫌いだよ。いつだって僕のことなんて助けてくれないんだ。そんなものにどう祈れる? どれだけ願ったって、叶えてくれないじゃないか……」

当たり前だが柘榴とは感触が違った。縋りつくように抱きついた腕は微かに震えている。

「……そう、なんでしょ。柘榴はまた、勝ったんだ。分かるよ……見ていたから。でも、負けていたとしても諦めたくないんだ。僕、まだ大丈夫でしょ? ……嫌われてないよね? ちゃんと好きになってないでしょ。もっと深くまで知り合わないと……別に柘榴がそう言ってたからって訳じゃないけど、僕は全部を知りたいし、知ってもらいたいな」

紅玉を胸元で感じる。腕の中で彼は笑っていた。作ったものではなく、素直な笑顔だった。そこにはまだ彼の中で消化しきれていないわだかまりがあったけれど、今までで一番人間らしい姿だ。

「僕は……諦めない。叶わなくても、いいから」

暗闇に浮かぶ星空が滲んだ。まるで本当の輝きを放っているかのようだ。そこに横たわる紅玉は映像の中の存在のようで、確かめるように指先に触れた。私に返してくれる笑みは、私の内部まで届いているだろうか。彼が側にいてくれる私は、一体いつの自分なのだろう。彼らと過ごした全ての時間、関わっていた時の私でいいのか。それ以外の私はどうやって処分できるのだろう。いつの間にか消えてくれるだろうか。彼らが希望する人物になってしまえればいいのに。

それからは柔らかい髪を撫でて、他愛ない会話を交わしていた。緩やかに流れる時間は私にとっても心地が良い。もう一度再現することは叶わなくても、記憶には残しておこう。例え曖昧でも、全てが消えることはないから。二人で紡ぎ合わせれば、きっと近いものができる。



過去を告白するなんて、自分が可愛い証拠だ。信頼なんていい言葉で括って、結局は甘えられる、自分にとって都合のいい答えを返してくれる人物だと確信してから話し始める。相手がそれを、心を開いてくれたんだな、なんて嬉しがったら最悪で、でもそれが双方にとって一番最良の形なんだろう。

――話してくれてありがとう。何があったって君を守るから、僕を信じて。二人で生きていこう。反吐がでる。同じ過去を経験した訳ではないのに、どうして共有できたと思うのか。

辛い思いをしたね、そんな風に慰めるのはもっと嫌だ。自分の物差しで勝手に測って、理解ある人間を演出する。そんな奴に溺れるのは分かってくれて嬉しいなんて言う奴だから、世界は上手い具合に作られている。こんなことを言うと捻くれている、どうしてそんなこというの? と宇宙人でも見るような目を向けてくる。怒る人間もいる。

心にしっくりこないことを理不尽という。心に留まるものは少なく、ほとんどが引っ掛けようと失敗して、傷つけて下に落ちていった。相手がどんな餌を与えてこようと、頭が空っぽの魚じゃないから簡単には釣れてあげない。失敗したことを認めずに、こっちに罪を向けてくる。わざと釣ってやらなかったんだ。お前なんて外面だけなんだから、面倒なことは考えるな。

ただそんな人間の中でも、たまに少しだけ引っかかる奴がいた。かろうじて針の先が刺さって、ぶらぶらと揺れている。指でひと押ししたら、落ちてしまうぐらいだけど。

引っかかった奴らを集めて、面倒だけど一緒に過ごしてみた。自分の人生はただの実験でしかない。あの人間にこの言葉を投げつけたらどうなるか。そんなことを試していった。そうして過ごしていったら、いつの間にか自分は世間に溶け込んでいた。自分という存在を知っている人たちがいて、街の一部になっていた。その馴染みが心地良いのかは分からない。昔の自分だったら、歯車の一部になるぐらいだったら、首を吊っていただろう。

周りに人が増えても、財産があっても、結局自分の存在価値は自分しか分からない。誰に褒められようと称えられようと変わらない。自分に満足できることはないまま死んでいくのだろう。その後悔を多少マシにするために、人間は罪を起こすまいと奮闘する。自分は、どうせ後悔するなら何をやってもいいのではないかと問いたかった。何年生きても、同じ問いだった。どうして生きているのか分からぬまま、動く心臓を止められずにいる。愛とはなんだろう。自分は失敗したのだろうか、生きることに。では誰に聞けば愛を教えてくれるのか。



14

隈が薄らと浮かんでいる。あの日から彼は調子が悪そうだった。

「……柘榴が、怖いの」

絞り出したような声から出た言葉が意外で、思わず顔を見つめる。

「最近は……急に優しくなったけど。それもそれで……怖い」

「何かあったの」

蘭晶は苦い笑みを浮かべる。廊下の方に目を向けた。また誰かを気にしているようだ。

「騙されないで。柘榴は優しくない、心は綺麗じゃない。先生には表しか見せていない」

まだ不安定なのだろうと思ってしまった。それ程までに、彼から出た言葉が衝撃的だったからだ。

「特に私は嫌われてる。暴言とかは当たり前だし、殴ったり蹴られたりもする……眠るのが怖くて、柘榴が眠ってから目を閉じるし、必ず柘榴が目を覚ます前に起きるの。じゃあどうして同室になったかって? 柘榴は最初月長と一緒になるつもりだったの。でもね月長は断った。月長ちゃんも何か思うところがあったんでしょうね。紅玉とは論外だし、他の子達も柘榴と同室になる資格はないって一歩引いてるの。そこで余ったのがあたし。あの頃は知らなかったのよ。いつからか急に当たりが強くなりだした。部屋を変えてほしいけど、それを柘榴と話し合わなきゃいけないって考えたら、言えなくて」

「……っ本当に?」

蘭晶が嘘をついている可能性はある。でも蘭晶が怯えながらも、どこかで柘榴を憎んでいる姿に嘘は感じられなかった。頭を落ち着かせる為に、額を押さえる。目を閉じても、柘榴がそんなことをする姿を想像できなかった。

「助けてほしいけど……今は先生に気をつけてほしい。騙されないで。まぁ実際に見なきゃ分からないものね……いいの、信じてもらえなくても。伝えられて、良かった」

ふらふらと蘭晶が立ち上がる。寄り添おうとすると、手で制された。

「蘭晶……。その話を確かめるには時間がいるけど、君が今辛いのは嘘じゃないだろう。柘榴といたくないというなら別の部屋を用意するし、我慢する必要はない」

「……っ、ありがとう」

やっと表情が緩んだ。私は反省する。こんな状態になるまで放っておくなんて。自分のことばかりで、酷い人間だった。彼らには自分しかいないのだから、私が先生であるとかないとか、そんなことを自答している場合ではない。環境が違うのだから一人の人間として、近くにいる人達を守ってあげなくてはならない。

どこの部屋なら都合が良いかと考えている最中でも何人かに話しかけられて、それが遮られた。中にはただ世間話がしたいだけの生徒も、私に話しかける理由を考えてきてくれたのだと分かる生徒もいた。無下にするわけにもいかず、その笑みが消えないように彼らについていった。問題がある時にうまく頭を切り替えられず、どこか上の空になってしまうのは悪い癖だ。治すのは難しそうだけど。


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