32

柘榴の手が私に伸びてくる。ここは私の部屋なのに、主導権は彼に握られていた。椅子から降りて、ベッドに座っている彼の隣に腰を下ろす。柘榴はふわりと笑いながら、手を広げた。私は従順なしつけ犬のように、彼の言う通りにした。何かを頭で考えるのがくだらないことのように思えて、できるだけ空っぽにする。

「……先生」

まるで子守唄を聴かせる時のような優しい声で、頭に触れた。小さな腕のはずなのに全体が暖かく、額が触れた胸元は心地良い速度で動いていた。そっと、何度も柘榴の手が髪の上を滑る。

「私のことは何も知らなくていい。知らせたくない……貴方の重荷になるから。貴方を苦しめたくないの」

見上げると、彼の手が止まった。頭の方からゆっくりと顔に滑らせて、頰を包み込む。

「貴方が欲しい……貴方の心が」

全てが予定調和だったかのように、私は彼に触れる。余りに軽く、砂糖菓子のように淡く溶けてしまった。

「甘い夢の中だけで生きて、そのまま死んじゃいたいの。絵本みたいに。簡単に幸せに暮らしたい」

細い指先で胸元をなぞる。ちょうど心臓の上で止まって、そこを愛おしそうに触れた。

「大丈夫……。私といれば大丈夫だから。私が守ってあげる。それが私にとっても救いなの。好きな人の為に何かできるのが、死んじゃってもいいぐらい……幸せなの」

私はもう一度、彼の腕の中に戻った。これ程、身体に馴染む温度というのは存在するだろうか。彼の指先が顔をなぞった。どうやら私は泣いていたらしい。何度か拭うと、ベッドに寝転んだ。私も隣に並ぶ。目線がぴったりと同じ位置になった。

小さな幸せが一つずつ熱となって、目から流れていく。熱くて染みる水に目を閉じると、頰を微かに触れられた気がした。

「おやすみなさい、先生……」

ありがとう、そう伝えると彼もどこか泣きそうな顔で笑った。

名残惜しいとはこのことか。私はまだ彼の熱が残るシーツに身を包んだ。



♢月長♢

こうしてお茶会を開くのは久しぶりだ。今日の議題、お茶菓子は先生の過去について。僕はラズベリーのジャムが乗ったタルトをひとくち食べた。みんなどこか落ち着かないようだ。僕もそう。

先生は他のクラスの手伝いをしていた。僕たちの作品は他よりも早く終わりそうだから。二つのクラスに比べて、装飾や物が少ない。

適度に休憩を挟んでいいということで、蘭晶がお気に入りだという部屋に集まった。

ほんのりとアプリコットの風味がする紅茶でも、なかなか心が休まらない。それは視線の先にいる柘榴のせいだ。彼がご機嫌に見えるのは勘違いではないだろう。どうしてご機嫌かって、そんなの理由は一つだ。

「僕たちのことも、話そうか?」

紅玉は全員の顔を確認すると、視線をどこかに逸らした。

先生が話してくれたのだから僕たちも伝えて、共有するべきか。僕もいつか言うときが来るのではないかと思っていたけど、いざそうなろうとした今は、反射的に首を横に振ってしまいそうだ。

「先生の過去は僕等に比べて綺麗すぎた。先生が純粋故に、世間に絶望して彷徨った挙句、奇跡的に辿り着いたのがここだった。ここが地獄か天国なのか分からないけど、彼が身を置くべきはあの世界じゃない。一時的な保護でも、ここにいてもらうべきだ」

「じゃあ伝えないの? あの人たちのことは……」

僕はなるべく忘れるようにしていたけど、まだあの場所に埋まっている先生のことを思うとゾッとした。そんなわけはないのに、いつか化けて出てくるのではと考えてしまう。

蘭晶の方をちらりと見てから、紅玉は深い息を吐く。みんなはどう思うと呼びかけた。

「そんなこと伝えたら……嫌われちゃう。そうじゃなくても、怖がらせちゃう」

翠は泣きそうな声で答えた。僕も大体は同じ気持ちだ。

「んーじゃあ逆の立場で考えてみよーぜ。誰かを殺したことがあったら、知りたいか? もし知ったら、今までと同じって訳にはいかないんじゃないか」

「言うメリットってなに」

「メリットかは分からないけど、このまま隠し通してるのもなんだか心苦しいじゃない。このまま知らないままの関係でいるのも嫌だし、情報はなるべく与えた上で、本人に考えてもらうのがいいんじゃないかって思う。本当に愛してもらう為には、綺麗な部分だけじゃいけないし」

声には出ていなかったけど、横にいた柘榴が笑った気がした。先ほどからゆっくりお茶を飲んで、何も発してはいない。

「しかし今伝えて先生が辞めてしまったら困る。ではいつが良いのかと聞かれると、そんな時は……ないが。この話はいつ伝えても同じ反応だろう」

「せめて、作品が完成するまでは……もう少しだけ先生といたいな」

自分でそう言ったのに、じわりと胸の奥が痛くなった。もう二度と会えないと言われたら、僕は生きていけるだろうか。

つい俯いていたことに気づいて顔を上げると、柘榴と目が合った。突然なのかずっと見ていたのかは分からないけど、びっくりして少し紅茶が零れた。冷めていたからいいけど。

「みんなは自分が楽になりたいから話そうとしてるだけでしょ。どんなに大きな秘密でも、こうして毎日生きていられるなら、実はそんなに重大なことでもない。でも相手に伝える時はどれだけ凄かったか、辛かったのかって誇張して話す。そうした分、相手に深く刻むことができるから。特に先生はみんなに言われたら、凄く悩むでしょ。目で見てない分余計に。先生も色々あったけど、今は私たちに話してくれるまでになった。傷が癒えてきている。だったらこのまま、みんなも忘れちゃって、平和に暮らした方が全員幸せになれるんじゃない?」

つい無意識に、柘榴を睨んだのは一人ではなかっただろう。体の奥に燻る雨雲がもくもくと増えていく。柘榴から話なんてされていないけど、雰囲気が変わったのはすぐに気づいた。

特に蘭晶とはあまり仲が良くなかったはずなのに、僕以外にも優しい目を送るようになっていた。まだ柘榴が僕を毎晩撫でてくれていた時のような、穏やかな母性を感じる瞳、余裕のある振る舞い。何があったかは分からないけど、僕たちが必死に足掻いても負けることがない、切り札でも手に入れたみたいだ。

「僕たちで考えていても分からないよ。直接先生に聞かなくちゃ」

「……じゃあ、聞いておこうか?」

嫌味の無い笑みで返された紅玉には僕も同情した。ああ、なんだろうこの感じ。前にもあったような……。まぁ柘榴は常に選ぶ側の人間だ。誰に好かれようと、誰に嫌われようと、本人には何も届いていない。色んな人が彼を手に入れようとしたけど、柘榴はふわふわとそれをかわしていった。そのかわされた人たちの中には、僕が認めてもらいたかった人物も入っている。僕の上の、そのまた上が憧れるような存在も、柘榴にとってはその辺の虫と変わらない。それなのに、彼の知らないところで様々な戦いが行われていた。そんな風に僕たちが戦っていることも知らないで、するっと先生の隣に居座るんだろう。それが当たり前だというように。

僕も諦めていたけど、今回ばかりはいつもと違っていた。柘榴に持つことなんて絶対にないと思っていた感情が蠢いている。このまま全てを曝け出したら、彼はどんな顔をするのだろう。想像がつかない。でも僕がこんな風に考えられるだけでも、自分には驚きだった。恩を仇で返すみたいになるけど、無敵の柘榴にもそろそろ傷を負わせる日が来るのかもしれない。

「月長、大丈夫?」

いつの間にか柘榴の手が触れていた。紅茶で濡れた僕の手をハンカチが包んでいる。

「あ、うん……平気」

もう上手くは笑えなかった。全てが吹き飛んで、頭が真っ白になる。やっぱり僕が、柘榴に勝てる日なんて来るわけがない。泣きたかったけど、今泣いてもその理由をきちんと伝えられない。それを堪えられるようになっただけでも、僕は成長したのだろうか。先生は褒めてくれるだろうか。

「ごめんね、驚かせちゃった。冷めてて良かった」

羽で触れているかのように、柔らかく頭を撫でられる。僕はまだ柘榴の中では可哀想な赤ん坊なんだ。その手をはたき落としたいと思っても、過去の記憶が邪魔をする。どこかで心地良く感じている自分が嫌だった。

せめてもの反抗で返事はしなかったけど、そんなの痛くも痒くもなさそうだ。柘榴には僕が考えていることなんて、全てお見通しなんだろう。僕が入り込めるとしたらどこだろう。あの人に届くには、どのくらい身を削ればいいの。

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