23

校長先生は僕達の言うことを素直に信じた。先生は出て行ってしまったと。どうやって出たのかは知らないが、誰かが逃した。その誰かは校長先生にとって大きな問題ではないらしい。もう新しい先生は必要ないと言って、先生の前を去った。少し胸が痛んだけど、さすがにもう懲りただろう。

それからは自由に過ごしていた。白と緑の先生の授業を受けるなんてことも、するわけない。学校に行く日も減って、寮で一日過ごしたりと、堕落していた。

以前のように情報を交わし合うようなものではなく、ただお菓子を集める為に開催されるお茶会も増えた。だらしなく座っていても、注意するような人はいない。ぬるま湯の環境は心地良かったけど、どこかで変化を求めていた。でもその変化は毒薬のようなものだ。美味しいと差し出されても、毒の入ったお菓子は食べられない。だったらこのまま、どこか煮え切らない毎日でいい。それが平和ってことだ。

いつもに増して浮かない顔の校長が寮に来たとき、嫌な予感がした。やっぱりもう一人だけ、先生の候補が来てくれるという話だった。呆れ顔の紅玉に何か言われる前に、これで本当に最後だと念を押した。嫌になったらすぐに追い出していいと。それでもみんなは良い顔をしていなかった。だから先生が来たとき、みんなは先生の内側まで見抜こうと気を張っていたはずだ。今度は文句を言わせないように、全員きちんと席についていた。灰蓮は昼寝癖が抜けてないみたいだったけど。

先生は、今までの人たちより遥かに若い人だった。髪は茶色で、細いけど白の先生とかよりは普通だ。あんな骸骨のようではない。中肉中背ってやつなのかな。髪もきちんと纏められていて、スーツもそこまで安物ではなさそうだ。それなのにどこか暗いのは、薄っすらと浮かんだ隈や、自信がなさそうな姿勢が問題だろうか。じっと見られて居心地が悪いのは分かるけど、元々の性格も関係していそうだ。

名前というのは結構重要なものだと思っていた。それなのにこの人は、そんなもの必要ないし、覚えなくてもいいという態度だ。忘れたらまた聞いてくれだなんて、そんなことを言う人間は周りにいなかった。

客人の名前は必ず覚えて、間違えてはいけない。一人一人の好みも、決して間違えてはいけない……。あの時は口うるさく言われていた。変わった人だ。まぁまともな人が、こんなところに来るわけがないんだけど。みんなも試すようなものから、とりあえず危険はなさそうだけど、どう関わればいいのかという目に変わっただろう。

蘭晶が本当に気に入ったのか、ただからかっているだけなのか分からない。それでも僕は落ち着かなかった。後で蘭晶が怒られたりしないだろうか。

「必要がないと思ったら、直々に言って頂けると有難いです」先生の言葉がしばらく頭に残っていた。これは普通ではないだろう。言っていることは後ろ向きなのに、やけに強い言葉に思えた。この性格が本性なのだとしたら、僕達が苦労しなくても、この人は何も言わずにここから出て行くのだろう。

自分では分かることが少なすぎて、いつも以上に周りを観察した。みんなはどう思ったのだろう。蘭晶が気に入ったのは事実のようだけど。

寮に戻った後も、みんなの様子は大きく変わらなかった。僕だけが気にしているのだろうか。柘榴のところに行けば安心できるんじゃないかと思ったけど、やめておいた。なんだか柘榴と話しづらい。柘榴は僕のことを気にかけてくれるけど、これ以上近づいたら好きだってバレるんじゃないか、とか。僕があまりに頼りにし過ぎて嫌われてしまうのではと、色々な理由をつけては、柘榴から離れた。

次の日の朝、みんなの顔を見て、先生を好意的に見ている事が分かった。あんな事があったのに、みんな警戒心がないのか……純粋なの?

何かあった時に、僕はみんなを助けるんだと気を張っていたけど、今日も特に僕が役に立つ場面はなかった。テストという単語に過去の記憶が蘇る。若干パニック(自分でこう思っている時、大体はその倍ぐらい落ち着きがなくなっているらしい)を起こした僕に近づく気配を感じた。

「良かったらこれ使ってみて。この紙だったら何枚でも使っていいから。沢山考えて解いてくれるのは嬉しいけど、前の問題と混ざっちゃってるからね。紙が足りなくなったら、また教えてほしい」

僕はつい力を込めて書いてしまう癖がある。鉛筆の芯はポキポキに折れるし、テスト用紙も真っ黒になっていた。咄嗟のことでお礼を言わなきゃと思うのに遅れて、声が出なかった。先生は何も気にしていない様子で、すぐ隣を気にかけている。確かに良い人……なのかもしれない。一応助かったし。

僕やみんなが鉛筆を持って、机に向かっているなど考えられない光景だろう。僕は勉強が好きじゃない。ゲッと思ったけど、僕でも解けるぐらい最初の問題は簡単だった。問題集も詰まりそうなところにヒントや解説が書かれていて、手が止まることなく動く。だから先生が止めた時に、もう終わりなのかと時計を二度見した。久しぶりの疲労感は割と心地良くて、僕はそろそろ認めるべきなのではと、一人でまだ戦っていた。


「先生は……まぁ大丈夫そうだよ」

良い報告のはずなのに、紅玉は不満そうに言った。柘榴が音を立てずに笑う、その理由が分からなかった。

「あの体じゃ力も強くなさそうだしね。何かあっても僕達なら平気さ。とりあえず先生を認めよう」

僕達の中に浮つくような空気があることに気づいたのは、遅めだった。ふわふわとどこかぼうっとしながらも、気分は悪くなさそうで、その頭の中には誰かが浮かんでいる。

ここまで来てようやく、紅玉が先生に手を出されなかったのは良いことなのに、何もされなかったことも問題なのだと気がついた。確かに紅玉のプライドを考えれば、面白くない展開だろう。そんな答え合わせをしている頃にはもう、みんな先生のことを信じきっていた。それ以上に先生のことを気に入っている。夜も部屋に訪れているようだし。そんな訳はないと思うけど、みんな……何をしているんだろう。確認しなければと言う使命感に駆られ、初めて先生の部屋を叩いた。

「あれ……月長。来てくれたんだね」

カッターまで服の中に隠したのに、暖かい笑みを向けられて、僕は完全に不意を突かれてしまった。戦力も一気に削がれる。

「あ、あの……っ」

「何か用だった? 急いでなければ、こっちに座って」

初めて会った日から、先生は少し変わった。失礼だけど僕と同類の人で、もしかすると僕よりもダメな人間なんじゃないかと思っていた。それがここ数日、自信が少しずつ芽を出したのか、僕も心を開いてしまいそうなほど包容力がある。

「えっと……み、みんなここで、何をしているんですか」

目がこちらに向いた。いきなり核心を突いてしまっただろうか。先生の秘密がバレたら、僕は口封じに殺される? そんなことまで考えて体を硬くしていたら、先生は珍しく声をあげて笑った。

「知らなかった? ……内緒にしていたのかな。別に大したことじゃないんだけどね。ちょっと待ってて、今温めるから」

訳が分からず大人しく座っていると、甘い匂いが鼻に届いた。

「少し濃くしてみたんだ。ココアは嫌いじゃない?」

「……っ」

この人には驚かされてばかりいる。何秒か遅れてから、凄い勘違いをしていたことに気がついて、顔が熱くなった。

「ごめんね、秘密にしていた訳じゃないんだよ。ただここに来た子にあげていただけで……月長も誘えば良かった。知らないことがあると不安になっちゃうもんね」

先生は僕が思い描いていたことまでは、さすがに気づいていないだろう。別に悪くないことまで謝ってるし。どうすればいいのか分からず、とりあえずそれに手を伸ばした。確かに美味しい。



「……っ柘榴も、来ますか?」

「柘榴? うん、よく来ているよ。仲が良いんだっけ」

「えっ……ざ、柘榴が……言って?」

「うん……そう、だね。兄弟みたいだって」

なぜ煮え切らない返事なのか気になったけど、僕の存在が柘榴の中にちゃんとあることに安心したので、良いことにする。じゃあ柘榴もここで、こんな風にお茶を飲んでいるだけなのだろうか。

「ま、まぁ……そう、ですかね。あの……っごめんなさい。僕がき、来ちゃって」

「えっ? どうして」

本当に驚いたのか、今までより大きな声が返ってきた。

「だって、柘榴とか紅玉とかの方が……嬉しいでしょうし……僕なんかが、時間を潰してしまって……」

頭を下げたら、気分まで暗くなってきた。じわじわと闇が胸に広がる。僕はいつもこんな調子だ。みんなを守りたいだとか、みんなの為と言っているのは……結局誰かを信じるのが怖いからだ。みんなを妄信していた方が楽だし、裏切られても仕方ないで済ませられる。確認するのが怖くて、知らない人間を敵としてしまえば、その人を否定できる。実際には何もできないくせに、敵対心だけは一人前で。

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