二つ目 ぼくのむすめ(あねふたり)

 ここで少し話は戻るのだが、ぼくはこの時は既に、自分の中に表れた変態達と折り合いを付けようとしていた。医学的な面、心理学的な面、そして社会学的な面、ぼくはあらゆる知識を総動員して、あの妄想は不自然ではなかったと―――自分が体中の孔をちんこで犯されたいと思っているような淫乱ではないという認識に改めようとしていた。この時、初めてぼくの身体に変態が付きまとってから、既に十年が経過していた。その間、ぼくにとってセックスは暴力だった。無論ぼくがレイプものや異常性癖のやおいを好んで読んでいたこともあろうが、逆に言うとぼくにとってはラブラブエッチだとかそんなジャンルは、夢も夢、臍で茶を沸かすよりもおかしくて非現実に過ぎたのだ。いや、やおいに非現実も現実もへったくれもないのだが。

 つまりぼくは、セックスは汚い物だと言う認識を改め始め、それは尊い行いであると言う事を無理矢理に納得しようとしていた時期である。これを少し、思い出していてもらいたい。


 ボランティアの話が出たのは、夏だった。とにかくその時出された条件は、「若者を中心に」「紫苑の感性を重視」ということだったことははっきり覚えているし、主張しよう。

 元々ぼくの着眼点は独創的だった。否、自由と言うべきか。戦前から続くクリスチャンホーム―――つまり、信者の家系の人間からは、想像もできないような質問をぽんぽんするぼくの感性を、かの御仁は買っていたのだ。便宜上、彼をアンソニーと呼ぼう。日本人か外国人かは別にして、アンソニーは老人で障害者だった。彼は目が不自由だったので、教会報が読めなかった。障害があろうとなかろうと、年を取れば皆目が悪くなり、教会報の文字が読めなくなる。アンソニーはそれを知っていたのだろう。ぼくの朗読力と若さを見込み、後進を育てると言う気持ちもあって、ぼくを製作総指揮に据え、ボランティアグループを結成した。カセットテープに録音したミサや歌、朗読をダビングし、カセットデッキごと必要な人たちに贈った。初期はぼくとアンソニーだけのメンバーで、やる事は山積み。ぼくは通信制で培ったコミュニケーション能力をフル活用し、ありとあらゆる人材を引きこんでいった。何が出来るか、ではない。何をやらせるか、である。ぼくは毎週金曜日の集まりで、その日集まれるメンバーに仕事を割り振る。考える時間など与えられない。教会報は毎月発行され、集まれるのは週に一度。月刊だから準備期間は四週間、活動時間は実質四日だ。その内の一日は、新しい教会報を読むために潰れる。その他の時間で歌を撮り、包装をし、印刷した手紙をいれて…。やる事は山積みだったが、アンソニーは目が不自由なため、ダビングしか出来ない。残る諸々は、ぼくが引き込んだ統合失調症のフランキー、そしてうつ病のテレジアが主に活動していた。そして、もう一人の視覚障碍者のマイケルが、ぼくの記憶の限りでは一回だけ、テープを数える仕事をした。

 ところで、この時何を媒体に録音していたのかと言うと、それは「メモ帳」だった。メモ帳というのは、視覚障碍者が自治体から貰える録音機で、これは三万程のものだ。役所からの福祉サービスなので、五年経つと新しいものと交換できる。逆に言うと、これは同時に一人がいくつも持つ事は出来なかった。マイケルは本来、音声図書を聞くためのそれを、必要ないと言って、献品してくれた。ぼくとしては、仕事をするどころか教会にさえ碌に来れないマイケルの献品を歓迎していたのだが、これまた後に大問題を引き起こすことになる。


 そうそう、ボランティアの会名だが、ぼくはカセットデッキを人差し指で押す仕草から、『人差し指の会』と名付けた。他に案はなかったし、アンソニーも教会の総会でその名前で申請し、予算も貰った。ただ、アンソニーはぼくに金銭の管理までもさせるほど鬼畜ではなくて、教会の近くに住むアンソニーが、事務仕事を一切やってくれ、ぼくに制作活動を専念させてくれていた。

 送った老人から、お礼の手紙が来た事もあった。あの時は本当に嬉しかった。


 歯車はどこで狂ったのだろう。人々の心にレヴィアタンが、嫉妬の悪魔が、問題の山が入り込んだのは、一体いつだったのだろう。ぼくは恐らく、それは永劫分からないのだ。だが、きっかけの一つとして、あの震災があったと考えられる。


 二〇一一年、三月十一日の金曜日の夕方、起こったあの災害―――東日本大震災である。


 ぼくの住んでいる所も、教会の所在地も、被災地ではあったのだが、地形が幸いして殆ど被害がなかった。

 キリスト教のカトリックとプロテスタントの違いは、こういった緊急時にも表れる。良く言われるのは、「プロテスタントは一人で小舟で、カトリックは大勢で大船で」というものだ。つまり、プロテスタントの牧師や信者達は、有志が直ぐに実行に移すが、カトリックは会議で持って行くものやらなんやらをチンタラ考え、最も合理的に支援するという特徴である。どちらが良いかは別にして、この時、アンソニーが動いていた。教会が流されてしまった東北のカトリック信者達のために、レコーダーとテープを送っていたのだ。ぼくは事後報告でそれを聞いたのだが、まあ、活動範囲がどうとかいうより、この日本の危機に少しでも役立てたのならと、全く深く考えなかった。

 アンソニーがいつ送ったのかは定かではないが、ある時、教会の部屋の一角に、ドでかい段ボールが入っていた。宛名を見て見ると、「人差し指の会 アンソニー様」と書いてあり、中には福島県産の真赤に熟れた、美味しそうなりんごがぎっしり詰まっていた。実に美味であった。このりんごも、大いに教会の皆で分け合った。

 ほぼ同時期、アンソニーが新しい案を出してきた。もう活動も一年続けて来たから、新しい段階に行こう、というものだ。具体的にどんなものなのかというと、それは教会にフリーのカセットを置こう、というものだった。つまり同人で言うところの無配である。しかしぼくはそれに待ったをかけた。

 気づいている読者諸君は、ここにきてようやく疑問を解決することが出来る。今時、カセットデッキを持っている家庭などまずない。「CDデッキならある」と、事前のアンケートでも多く返ってきていた。それでも何故か、アンソニーはカセットテープに拘った。アンソニーの世代では、CDよりもカセットの方がなじみがあったのだ。それは分かるが、彼等はもう、CDにちゃんとシフトチェンジをしていたのに…。そこに気付かなかったぼくは、本当に平和ボケしていたとしか思えない。

 つまり、教会でカセットテープを無配にしても意味がない。それどころか、本当に教会を必要としている者たちは、教会に来る暇もない。ぼくは同じ録音をするのであれば、HPに音声ドラマを載せるべきだと主張した。

 何事もモノが無ければ始まらないというので、ぼくはボランティアの活動と並行させて、その音声ドラマをつくる事になった。一か月後、中年用と若者用―――俗っぽく言うと冗談が通じそうな客層と、某動画投稿サイトの常連の客層用に、二種類の台本を完成させ、教会に持って行った。人差し指の会のメンバーは、ぼくが沢山の楽曲と台本、替え歌や効果音の候補、そして録音機で撮った音声サンプルなどを耳折揃えて持って行った、その苦労をねぎらい、会として協力すると言った。これで全ての準備は揃ったと、ぼくはアンソニーに報告した。すると、衝撃の答えが返ってきた。アンソニーは中身を見る事すらせず、言った。


「紫苑くん、会を潰す気?」


 何を言われたのか分からなかった。ぼくは頼まれて、一か月も不眠不休で、キリスト教の言葉を噛み砕いて噛み砕いて噛み砕いて、離乳食を攪拌するかのように何度もミキサーにかけて、漸く生み出した。かわいいかわいい、二人の『娘』。その娘を、彼等は知らないと言ったのだ。アンソニーは、自分の案がぼくに待ったをかけられた事すら忘れていた。それでもぼくは、老人だから忘れる事もあるだろう、と、呑気に構えていた。ぼくは本当に愚か者だ。


 さて、実はここから、問題が分岐する。だがまずはこの、通称「台本騒動」について話しておこう。


 台本はポール神父に取りあえず見せる事になった。教会と言う場所は、信者が否と言っても、神父がイエスと言えば通る。信者と信者は対等であるが、信者と神に召し出された神父との間には、どうしようもない隔たりがある。これを踏まえると、ぼくがポール神父にタメ口を聞いた事の衝撃が分かってもらえるだろうか。俗物と聖職者があまりに近すぎて、この件で人々は皆勘違いが勘違いを呼んで、悲劇を産んだのだろう。この問題で最も哀れなのは、辱められ否定され穢されたぼくの『娘』であり、その次に哀れなのは自分達の価値を誤解した老害どもだ。

 この頃、間が悪いことに、ポール神父は心臓の病気から復帰したばかりで、あまり多くの時間が取れる状態ではなかった。その為、事務員のミーシャが、秘書仕事の幅を増やしていた。ぼくはそれを知らなかったので、一週間の約束が二週間に伸び、一か月に伸びた事を、ポール神父が真剣に娘と向き合ってくれているからだと勘違いした。

 二か月後、会の名前問題(分かりにくくなってしまうので、次章に分ける)に頭の痛い思いをしながらも、これさえ通れば、と、ぼくは希望を持っていた。

だが、ポール神父は娘を否定した。


 「朝勃ち」という言葉は教会に相応しくないというのだ。


 誤解無きよう、何故ぼくが公の場にそのような単語を持ち出したのか、ここで話は「憐み深い人々」に飛ぶのだが、頑張ってついてきてほしい。


 いつの時代でも、「戒律を守る」と言う事は、人々に優越感を与える。戒律があると言う事は、それを守れる者とそうでない者に二分されるからだ。カトリックにおいては、信者になる条件は三位格の神をそれぞれ信じる事である。そしてカトリックの現代の信者に求められる戒律は、実は二つしかない。一つは「神父を殴るな」。もう一つは「ご聖体(カトリックにおけるご神体)を悪意を持って穢すな」。この二つさえ守っていれば、少なくともカトリックと言う組織には所属できる。例えそれが出来なくなっても、父なる神と信者の関係は永遠であり、イエスが信者の慰めとなることは変わらない。カトリック組織は、所詮人の組織であり、神との交わりを彼等でさえ否定する事は出来ない。

 これが、普通の考え方であるが、「憐み深い人々」は違う。

 戒律を護らなければ、彼らの神との唯一の繋がりである組織から、引き離される。それはこの世の終わりに何の希望もなく、絶望して死んでいくことを意味する。そして、その戒律はとても多いのだ。戒律を守れなかった自分への後悔のあまり、自殺未遂するというとんでもない事件があったほどだ。


 その、自殺未遂をした信者が犯した戒律が、「オナニーをしてはいけない」ということだったのだ。


 ぼくは淡泊なのかそうでないのか、元々オナニーと縁が薄い。出るときにいつの間にか出てるので、特に苦労もしていないし、もっというならやおいを見ながらマスかくなんてこともしない。ぼくはやおいで興奮するけれども、それは性的興奮というよりも、読書による単純な興奮が近いのかもしれない。しかし世の中には、オナニーやオカズに青春、いや、性旬を迎えている者も多いだろう。それは男女を問わずそうであって、決して悪いことでもなければ珍しいことでもない。寧ろぼくのように興味がなく、やろうとしても失敗する方がおかしいのだ。朝勃ちも月経も、全て男子と女子が、男と女になる為の準備であり、それは微笑ましいことであり、感心すべきことであり、喜ぶべきことであり、また全ての男女がそのような体験をしていなければ、人類は繁栄する事が出来ない。そしてキリスト教においては、神自らこう言っていると聖書にある。曰く、「産めよ、繁殖(ふえ)よ、地に満てよ」と。

 だが、『憐み深い人々』は、それを汚らわしいと言った。

 だから、朝勃ちの処理をした青年は罪悪感から自殺未遂をした。


 これを読んでいる善良なる諸君は、ぼくがキリスト教やそのカルトを告発する為に出鱈目を言っていると思うかもしれない。だが、性を否定する風潮は、今の日本どころか、世界には珍しくない。

 そしてぼくは、十三歳の時に突如現れたレイプ魔によって、ぼくが穢れていないということを示すために、セックスは尊い行いで、子作りは神に祝福されるべき行いであるということを示すために、オナニーを禁じ、性の生理現象を否定する風潮を否定しなければならなかったのだ。


 こういう訳で、「イエスは完全なる神で完全なる人間でもあるから、三十代の健全男子としてオナニーもしただろうし、当然朝勃ちだってする」という一文を書かねばならなかったのだ。

 ぼくは、生殖機能を否定するカルト的思想から、若く猛る血潮を護らなければならなかったのだ。

 だが、純粋培養の老害たちにはそれが通じなかった。ポール神父は「朝勃ちはない」と、呆れる様に言ったが、ぼくは見逃さなかった。


 ポール神父は、「努力したから受け入れられるはずだという甘えがある」と言った。だがぼくは言おう。ポール神父には「忙しいからろくに読まなくても大丈夫」と言う見縊りがあったのだと。あの方が持っていたぼくの娘には、性器とそれに関する言葉にのみ、赤丸が付けられていた。事務のミーシャが「仕事を減らし、負担を減らす」ために、自分の気に入らない単語にだけ丸をつけ、印象操作をしたことは明白だった。ぼくは泣きながら、カルト被害を訴えたが、元々純粋培養でカトリックしか知らずに親子三代信じているような者や、プロテスタントとカトリックの違いすら知らない、ぼくに言わせれば「社会に無関心な信者」たちに、外のことなど分かる筈もなかった。老害共は、ぼくがかんしゃくを起こしたと言って、最終的にはポール神父への謝罪を強要した。

 ぼくはそれでもポール神父を信じて、尋ねた。

「イエスがマリアの産道を通り生まれたことは、汚いことなのですか?」と。

 ポール神父は答えなかった。心臓が苦しかったのか、司祭館に引っ込んでしまった。答えを出さないアンソニーたちの中で、ミーシャが言った。

「ボクね、この間孫が生まれたの。とてもかわいかった。云々…」

 そして、あの悍ましい一言が飛び出したのだ。


「綺麗な神様は、綺麗な言葉で語らなきゃいけない」。


 綺麗な神? 綺麗な言葉?

 ぼくが綺麗な言葉で神を語っていないと?

 生殖行為は、綺麗な言葉では語れないと?

 朝勃ちもオナニーも精液も経血も、全て綺麗ではないと?


 ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるな。

 ふざけるな! 枯れたとうへんぼく風情に、ぼくらの何が分かる!!!


 今思い出しても腸が煮えくり返る。ミーシャは自分の孫が人工授精の上に人工子宮で産まれたとでも言いたかったわけではあるまい。自分の子供が伴侶と出会い、セックスをし、妻の胎の中で受精が起こり、受精卵が分裂して行って胎芽となり、胎児となり、妻は母となるべく、胎児は子となるべく、子宮から出て行く。その為の手段として、産道として膣を通ったり、帝王切開により子宮から取り出されたりする。

 それらの一連の動作は、両者に常に死が付きまとい、血や羊水、汗や、下準備としての小便と大便の排出などが欠かせない。つまり、出産は汚物に塗れて尚光り輝くものであり、決して腹から光に包まれた子供が出て来て、ふさふさの髪の毛と柔らかな肌を持って産声を上げるのではない。羊膜に包まれ、産道を抜け、産湯につけられて血や羊水を落として『綺麗』にしてもらい、臍の緒を切り、羊水が無くなり、肺が機能して呼吸をし、産声を上げるのだ。決して綺麗ではない。惨憺たる有様の中で、命は生まれるのだ。だからこんなにも医学を発展させた国においても、妊婦や子供が死ぬのだ。

 少なくとも、ぼくの周囲に、幸福でない出産というものも居た。ぼくのような幻では無い強姦による妊娠と中絶、死産、中絶できなかった出産…。そして何より、ぼくはセックスを冒涜する性犯罪の妄想に悩まされ、誰にも相談できずに十年もの間、自分はレイプ趣味で男に輪姦され惨殺されるのを待ちわびている変態だという被害者意識に悩まされていたのだ。

だからこそ余計に、「綺麗な神様」に反発した。自分が性的に汚いと思っていたから。

それを含めて、キリスト教の神はぼくを受け入れてくれたと思っていたから。


 神が綺麗で、性が汚いと言うのなら、ぼくの中学生時代は、神にすら認可されず、許されず、断罪され蔑まれることだったのか?

 人が結ばれる事を喜ぶのに、人が生まれる事を歓ぶのに、人が人としての営みをすることは汚いと忌避する。

 またミーシャは、「わかりやすくするためだ」というぼくの主張に関して、「そんなことをしなくても、分からない所は聖霊なる神が助けて下さる」と、実に信心深いことを言ってくれた。聖霊なる神については、悪いが諸氏で調べてくれたまえ。


 助ける?

 ハッ! 「助ける」ねえ!

 なんてお目出度い、なんて深い信仰心だろうか!


 ぼくは聖霊なる神の存在を信じているが、というか、いて当たり前という感覚なので疑う余地も無いのだが、その存在はぼくを幻触から護ってくれなかった。ぼくの「精神科を受診したい」「薬で良くなる筈だから薬をもらいたい」という訴えを、「子供が精神病になるはずが無い」「アンタは精神分裂症の破瓜型なんかじゃない」という親の見栄を尊重した。


 聖霊なる神は、ぼくの第二次性徴期を、レイプ妄想で埋め尽くすことを見過ごされた。つまり容認なさったのだ。


 試練だと思えと言うか? 言えるのか?


 そんなことは、自分の臍から腸を引きずり出され、公衆便所で二本のちんこを咥えさせられたり、ケツにちんこだの包丁だの突っ込まれたり、斧で後頭部を克ち割られたりする悪夢と妄想を一年間続けてから言え。

 勇気を出して相談した大人から、「在り得ない、妄想に決まってる。早く寝ないから妄想する。さっさと寝ればいい」と言われる絶望を知ってから言え。

 起きていれば頭蓋骨を割られ、眠っていればケツの膜を破られる、そんな生活を一年続けてから言え!!!


 一つしかない筈の操の処女膜を何度も引き千切られるその屈辱と恐怖と絶望が想像できないのなら、今すぐ警察署に行くがいい、発禁もののアダルトビデオの方が、まだ刺激が優しいというものだ! 分かったか、この臆病者!


 …失礼。無論、その時カトリックの洗礼を受けてはいなかったのだけど、カトリックにおいてはあまりそれは対した違いはない。

 神の助けの力の具現、それが聖霊であるとするならば、神はぼくに力を与えて下さらなかった。

 幻に打ち勝つ精神力も、治療も、薬も、正しい知識も、理解も。

 ―――リョウを救う、力さえも。

 だからぼくは、聖霊なる神に丸投げするのではなく、自分たちも努力し、『求める』べきだと主張し、あの台本を書いたのだ。


 連中が言葉の選び方だ、と言うのなら、言わせてもらう。


 ぼくを犯していたのは、「おちんちん」という可愛い響きのものでは無い。

 ぼくを犯していたのは、「陰茎」「ペニス」という理性的なものでは無い。

 ぼくを犯していたのは、「逸物」「臍の下」という文学的なものでは無い。

 ぼくを強姦していたのは、「男性」ではない。


 ぼくを強姦し、陵辱し、身を穢したのは「ちんこ」なのだ。否、これも違う。もっと卑猥で、グロテスクで、吐き気を催すような言葉が、何かあるはずだ。だがぼくの持っている語彙では、「ちんこ」という言葉が一番猥雑なので、とりあえずここは「ちんこ」にしておく。第三段で解説したことを、もう一度ここで言おう。

 何故「男性器」でも「男性」でも無いかというと、それは簡単。ぼくの見ていたやおいには、「陰茎」はあったが、「睾丸」「陰毛」「直腸」が存在しなかったからだ。そして、ぼくのパソコンに侵入したウイルスは、尻の穴を映していて、そこに突っ込まれるちんこが細かいモザイクで映し出されていた。

 つまり、ぼくを犯していたあの汚物は、「性器」ではないのだ。だから「臍の下」も「股」も「下腹部」も不適切なのだ。だって「ちんこ」しかないのだから。臍は勿論、Vラインは愚か、陰毛が生えるスペースも、睾丸がぶら下がるスペースもない。本当に棒だけの、ちんこなのだ。精々、性器らしいものと言ったら、あの噎せ返るような磯臭さだ。実際に手にとって臭いを嗅ぐと、そうでもないことが分かるのだが、そこは精神的ストレスから来る幻触・幻臭なので仕方が無い。


 ともかくぼくの娘は、そうして死んだ。二人同時に死んだ。お前は汚い、と断じられて死んだ。

 でもぼくには、まだ希望があった。もう一人、娘がいたのである。だがこの話に行く前に、この会の騒動は後半戦があるのである。


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