王の不信と凄惨なる処刑

王太子フリードリヒの逃亡は国王の耳に入り民衆の話題となった。

 当時、ヨーロッパは列強たちの陰謀の中にあり不穏な国際情勢となっていた、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世も例外ではなく、(王太子の逃亡は自分を暗殺する陰謀では?)と疑っていた。無論、現代において我が子をこのように疑うのは穏やかではないし、そもそも、ありえないことである。しかし、王と王太子には異常な確執があった。また、王自身もそれを理解していたためか...


 王は息子が自分とかさっなて見えたのだろうか、軍人王もかつて王太子の祖父である初代プロイセン国王フリードリヒ1世と確執があった。軍人王は国王としては非常に質素を美徳とし、芸術を嫌い息子王太子にもそれを強要した。それもかつてプロシア初代国王はプロイセンの国政を学芸に重視し、例としてハレ大学や芸術アカデミー、科学アカデミーを設立するなどに国費を浪費した。当時として科学史に残る偉業であり従来の「神」を中心とする教育志向から抜け、法学を主導的分野に、経済、国家行政学に取り組んだ。これは大王の治世にも優秀な官僚を生み出すこととなるが...

 しかし、華やかな宮廷や科学芸術に国費をかけ財政を圧迫していたため、若き軍人王は批判的だった。王は即位してから質素な国費で財政を立て直し、軍の強化を行うなど粗暴であるが国に貢献した。きっと王もあの時の父に抱いた感情を王太子にあてはめ暗殺に加担しかねないと思ったのであろう。


 王は報告を聞くと怒りと恐怖で王太子に死刑を求めた。

王太子フリードリヒは王の命でキュストリン要塞の塔に一時幽閉された。

まもなく逃亡に加担したものの裁判が行われた。

当時、司法と王の権限は分離しており第一審が行われ王太子逃亡に最も協力したハンス・ヘルマン・フォン・カッテは無期懲役となった。前文に述べた通りプロイセンは司法と王権が分離しておりこれは世界でも進んだ司法制度であった。しかし、納得のいかぬ王は判事に「この世からカッテが一人消えるか、司法が消えるか、どちらが良いか」と、いわゆる「絶対に断れない条件」を判事に告げ、王は控訴を行い第二審でカッテは死刑判決により斬首が言い渡された。


王は王太子を幽閉するキュストリン要塞の塔の目の前で執行することを命令した。さらに、王太子にその光景を見ることを命令し、王太子に自分の無力さと自分の行動の愚かさを思い知らせようとした...


1730年11月6日

 ハンス・ヘルマン・フォン・カッテは1729年王太子の母方であるイギリス、ハノーファー家に王太子を逃亡させる計画立案と翌年1730年8月5日に王太子の逃亡を手引きした罪でキュストリン要塞にて斬首が決行された。逃亡決行の日から三か月、王太子の唯一無二の親友は父の強大な力に殺害された。


王太子「カッテよ私を許してくれ」

自分の願望と行動に後悔した悲痛な顔で王太子は言った。

カッテ「私は殿下のために喜んで死にます!」

王太子は自分の行動で友が処されることに、自分がカッテに共に逃げるよう言ったことを無かったことにしたいと思った。

王太子(宮廷は苦しいがお前がいたから生きていられたのだ!あぁカッテよ行かないでくれ...)王太子はカッテが処される瞬間、凝視できず失神した。

カッテ(私は国王陛下をお怨み申し上げません。殿下は今までどおり父上と母上を敬い、一刻も早く和解なさいますように。)

そうして互いに幸せな時間は残酷で長い一瞬で終わりを迎えた。

王太子がカッテの心を知ったのは目覚めて遺書を読んでからであった。


カッテは大王生涯で最も忠実かつ献身な従者でありカッテの最後は主であり友であるフリードリヒ大王に悲劇として捧げられた。


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