せめて安らかな眠りを


 それから600年の時が流れた。

 ヴィンセントの死後も彼の氏族を見守ってきた吸血鬼は、遂にその長い旅路を終えようとしていた。


 思えば様々なことがあった。

 正体がバレそうになって本国から逃げ延び、逃げ続け、最期に行き着いたのは極東。

 しかし心象風景は、常に此処だった。

 ヴィンスと初めて契った城塞跡。


 ビドラルの湖面は澄み渡り、青空と白い雲を映している。

 朱い月も、最早指先に乗る一滴のみ。

 彼の子孫は彼ほどの魔力を持たなかった。

 当然だ。英雄の子が英雄とは限らない。

 代を重ねる度、血は半々に薄まっていく。

 だから貯蔵で補った。

 恐怖と怨嗟に塗れた古血を影に隠れて一舐めし、飢えを凌ぐ。

 発狂寸前の無様な姿を可愛い子らには見せまいと歯を食いしばったが、あまり上手くはいっていなかったように思う。


 20世紀初頭、輸血の概念が飛躍的に広まったときは心が躍ったが、魔力の宿らない血液は水で薄めた牛乳のような不味さで、むしろ飢えは酷くなった。

 一方で同族狩りセイギノミカタも手は抜けない。

 功罪を相償う。

 ヴィンスとの約束でもある。

 最期の一滴になるまで他人の為に使ってはみたものの、やはりお前の元へは行けそうにない。

 指先を舐め取って空を仰ぐ。

 ざぁっ、と吹き抜ける山風が頬を撫で、銀の髪を煽った。



「やらかしたな、坊や」

 アナは振り向かないまま、背後の気配に声を投げかけた。

「いいや。これでよかったんだ。……キミの元に辿り着けたから」

「……私はまだ半獣だぞ? 追い越しおって。バカものが」

「大した問題じゃないさ」

「やっと、お前達を解放できると思ったのに。……それだけが唯一の慰めだったんだ」


 密やかに鼻を啜る音。

 白衣の男性は、ゴシックドレスを後ろから抱き締めた。

 華奢な肩を包み込むように、ぎゅっと。


「それ以上言うな。らしくもない。――キミはもっと、不遜な女だ」

「ああ……そうだな。そうだった。……けど、ホントの私はそうじゃないんだよ」

「知ってる」

「……ふふ。嫌な奴め。全く誰に似たんだか」


 湖面は静かに揺れている。

 その中を、ゆっくり流れていく白雲。

 穏やかな時の中でさえ、ひとところには留まっていられない。


「キミが血を欲するのは、魔力炉心が不完全だからだ」

 加治健斗は言った。「――――凄まじい力を持ちながら、その燃費の悪さ故、生きるのに必要なエネルギーすら自力では賄えない。だから外から取り込むしかない。それが、吸血衝動の正体だ。……俺は、……いや、遙か先祖の代から俺達は、キミの治療を目指してきた。――――解法は一つだ。完全な身体に見合う、完全な心臓部を移植すれば良い」

「みな、思いつきはしたが、実行には移さなかった。……何故だか分かるか、健斗」

「キミに隠すのが下手だったからだ」

「……お前という奴は」

「俺も結局失敗した」


 白衣の男は、手元に煌めく心臓を取り出して見せた。

 切り離されていながら、ドクンドクンと脈打つ金色。


「千人分の心臓を『縫合蘇生ブエルスター』で束ねたものだ。――――芥屋照子の一個には届かないだろう。完全とはとても呼べない。……しかし、多少はマシになるはずだ」

「……もうたくさんだ。誰かを踏みつけにして生きるのは」

「キミならそう言うと思った」


 金色の臓器を自らの胸郭に打ち込む。

 途端、膨大な力の稲妻が彼に落ちた。

 白衣を裂いて無数の蝕腕が生え広がる。

 あり得ない奇行にアナが目を見開いた矢先、鋭い蝕腕が短刀の如く振われた。

 一息に微塵斬り。

 血は流れず、傷もなく、アナが痛みを訴えることもない。

 健斗は蝕腕を納刀すると満足気に頷いた。


「これでいい」

「え……? は? ちょ、ちょっと?! 健斗、お前っ、なにをした!?」

「『縫合蘇生ブエルスター』を逆回しに。融合して引き上げる、の逆。……分割して貶めた。キミの身体を。魔力炉心に相応しいレベルまで」

「んなっ?! なにを、そんな! 断りもなしに!」


 急激に縮んだ自分の身体とダボダボの服を見下ろして狼狽える吸血鬼。

 口から出る怒鳴り声さえ幼い。

 バカ弟子に掴みかかろうとしてズッこけた。ガバガバの靴のせいだ。


「教えれば嫌だと言っただろう」

「当たり前だ! こんなっ! こんな辱めはないぞっ?!」

「元より無理な注文なんだ。このぐらいは我慢してくれ」

「わっ、私にもプライドってものが……!! あぁっ、なんて真似を……ッ」

「――――上辺の変化など些細なものだ。どんな姿になろうとも、キミの美しさは損なわれない。……不貞不貞しく尊大で、ときに甘い心根こそ、真に好ましく思ってる」

「な……」

 桜色の唇が半開きになったまま、それ以上の声は出てこない。

 ジワジワと耳まで赤く染まっていく。


「……な、生意気だぞっ! 坊やのくせに!!」

「分割したキミの力は事態の収拾に使わせて貰うよ。……弟子の不始末は師匠の責任だ」

「お前が言うセリフかっ!!!」


 ギャースカと喚く銀髪の少女へ、彼は膝を屈めた。


「さよならだ、アナマリア。俺はもう行かなくちゃ」

「ああ、どこへなりとも行ってしまえ!」


 男は幽かに笑うと、踵を返して歩き出す。

 その白衣の端が、ぐっ、と引っ張られた。

 振り返れば口先を尖らせる幼い師匠。


「――――ホントに行く奴があるか、バカもの」

「最後まで無茶苦茶だな、キミは」


 白い指先がネクタイを絡め取って引寄せる。


「……不出来な弟子は何人も見てきた。若くして私より先に逝く奴もいた。けどな、健人。お前が一番だ。認めよう。――――キング・オブ・バカ弟子の座はお前のものだ」


 餞別をくれてやる、と言い、彼女は僅かにつま先を伸ばした。

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