Dance in Apnea - 7

 救急車が駆けつけるまでツカサさんはお兄さんから人工呼吸と心臓マッサージを受けていた。

 僕はどうすることも出来ず、右往左往しながら軒先で救急車を待つ。


「悪いね草摩さん、今日はこれで帰ってくれないかな」

 救急車の到着後、僕はお兄さんからこう打診される。

 僕はツカサさんの様子を遠巻きに見守りながら思考が固まっていた。

 不甲斐ない話だけど、僕は常々頭の弱さを露呈してしまう。


「心配してくれる気持ちは嬉しいけど、悪いが今は家で大人しくしてて欲しいんだよ」

 遅疑逡巡とした僕にお兄さんは痺れを切らしたかのように炯眼を向ける。

 どうやら現状の自分は二人の重荷にしかなれないようだと悟り。

 言われるがまま家へと帰ったけど、遣り切れないよ。


 けど僕は筋金入りの物臭だ。


 誰かが僕に施しを与えるように薫陶くんとうを授けでもしない限りずっとこのままだろう。

 その時気付けたことがある。


 僕は喫茶店で装着した紙エプロンをずっと着けっぱなしだったようだ。

 失態続きの自分に忸怩じくじたる思いをもたげ、自分で自分が面倒に思った。

 自棄になった僕は夫から止められていた甘いものを過剰に摂取したよ。


 その翌日、僕のケータイに『鷲塚ツカサ』の文字が映っていた。

 もしもし?

『草摩さん、昨日は迷惑をお掛けしてごめんね』

 受話器越しにツカサさんの声が聴こえ。


 僕は寝ぼけ頭を揺さぶり起こしてツカサさんの安否を気遣った。

『私なら平気、あの後草摩さんが凄く心配そうにしてたって聞かされたから』

 物臭な僕は彼女の無事を安堵するよりも何事もなかったことに安堵する。


『今日はこっちに来れそうにない?』

 どうだろう、少し考えたい。

 僕は物臭といえど、薄情ではないようで、彼女の心情を慮っているんだ。

 夫の死後、無感動だった僕にも仄かに人間味が付いてくれたようだ。


 だからだよ、その日もツカサさんの許へ向かったのは。


「いらっしゃい草摩さん、昨日はありがとう」

 喫茶店に入るとお兄さんがカウンター席で米紙を片手にコーヒーを飲んでいる。

 僕もコーヒーを注文して、ツカサさんの状況を伺った。


「正直、可もなく不可もなくって言ったところか。医者は絶望的なこと言ってたけど、本人はけろっとしてるしな」

 それは、喜ばしいことだね。でいいのかな?

 僕のワンテンポ遅れた頓狂な疑問に、お兄さんは口元を緩ませている。


「ツカサが都度に医者から余命宣告を受けて、もう1年経つしな。本当だったらあいつは半年以上前には亡くなってるはずなのに……時代感覚って言うのは不思議だよなあ。現代に生きてる俺達にとっては解からないことがあるなんて全く解からないのに、ツカサはそれを俺に教えてくれてるよ」


 お兄さんの発言を僕は十全と理解出来なかったけど。

「何言ってるんだ俺、存外昨日の一件が尾を引いてるのかな」

 お兄さんは自分でも理解が行かなかったようだ。

「ツカサ呼んで来るよ、きっと稽古場でピアノ弾いてると思うからさ」

 それには及ばない。僕が彼女の所に出向きますと告げると。


 お兄さんは破顔して、僕とツカサさんの友情に大層喜んでいた。


 喫茶店を出ると雨が降っていた。

 僕は店先に出て来たお兄さんから傘を渡されて、一路ダンスフロアへと向かう。


 驟雨しゅううの淀んだ曇り空から得も言えぬ不安を感じる。

 もしかしたら僕がダンスフロアに着いた時――ツカサさんはこと切れてるかも。

 酷い凶兆もあったもんだ。


 靴底で地面に落ちた雨を弾けさせていると、次第にツカサさんの所に辿り着く。

 ツカサさんはフロアの片隅にあるピアノに項垂れるようもたれ掛かっていた。

 僕は愛猫をその場に置いて、ツカサさんに近寄った。


 すると彼女は。

「誰……? もしかして団長だったりするの……?」

 彼女はまだ生きていた。

 けど、彼女は僕と団長さんを取り違えている。

 僕の目に彼女はかなり危険な状態に映っていた。


「ねぇ、新しい曲を覚えたの。聴いてくれる?」

 僕は彼女に無理はしないでと言ったんだ。

 彼女がこのまま逝っても、後悔しないようあえて僕の存在を濁した。


 意識が朦朧とする中、ツカサさんは最期の気力を振り絞るように体勢を整えると。

 ダンスフロアに神妙な空気が流れ、しんと静まり返る。


 これが彼女の一生を懸けた最期の演奏だった。


 敢えて言葉にするならば、奇跡だった。

 彼女が弾いている曲は決して難解じゃなく。

 奏でられる音色には懐かしさを覚える。

 けど、どこか物悲しいメッセージがこもっていて。

 物臭な僕だからこそ、知覚する光景を客観視出来ていたように思えるんだ。

 これは彼女がこの世に残して行く奇跡の演奏なのだと。

 そう思えるんだ。

 

「……どうかな?」

 素晴らしいと思うよ。僕は先程思ったありのままを彼女に伝えた。

「よかった……最期に団長に会えて、最期に、奇跡と言われるような演奏が出来て」

 するとツカサさんは昨日も見せたように再び涙と葛藤し始めた。


「なんだ、団長だと思ったら草摩さんじゃん」

 涙は意識を覚醒させる作用を起こすのだろうか。

 先程まで朦朧としていた彼女の意識は僕を草摩春秋だと認識できていたのだ。

 僕は彼女に簡素にごめんねと謝ったよ。


「バレエ団のみんな、私が生きてるうちに戻って来そうにないね……」

 エンバーマーである僕はバレエピアニストというものをよく知らない。

 けど誰だってこう思うじゃないのかな。


 ――どうして、みんなについていかなかったの。


 彼女はついていかなかったことを絶対後悔すると思うんだ。

「行けるわけがないじゃない……私はもう直死ぬんだから」

 彼女は涙に心が負けたのか、訥々とだけど思いの丈を口にし始める。


「言えるわけがないじゃない、私は直に死にますだなんて。聞いたことがないよ、瀕死の病人を海外公演に連れ回すバレエ団なんて……それに言ったでしょ、私は辛かったんだから。団長である彼を好きになったのを今じゃ後悔してるぐらいで」


 自然と呼吸出来ないのか、彼女は意識的に呼吸筋を動かしている。

 僕の夫の最期と同じく、ツカサさんの呼吸はとても弱かった。


「でも、みんなと最期会えないまま逝くのは辛いなぁ……」

 僕は彼女に打診を申し出た。

 辛いのは故人ばかりじゃなく、残された人達の心境でもある。

 僕はエンバーマーだから、彼女が亡くなった後の介助をさせて欲しいと思う。

「お願い、できる? 草摩さんなら、体に触れられても嫌じゃないから」


 僕は彼女に聴こえるよう明瞭な声音で応えた。


「ありがとう……私ね、きっとみんななら夢を叶えられると思う」

 ツカサさんはバレエ団の将来を信じている。

 彼女の後悔と言えば、バレエ団のその後を知れないことで。

「結局、最期までいえなかった……奇跡のダンサーとしてうたわれた彼に、何も」

 彼女の後悔と言えば、団長さんに別れを告げられないまま死ぬことで。


「いえなかった、とてもじゃないけど、未来あるみんなの足を引っ張れないから」

 その後、ツカサさんは間もなくしてこの世を去った。

 ツカサさんが亡くなった後も僕はあの喫茶店へ足を運び。

 お兄さんにバレエ団のみんなのことを聞いた。


 彼女との約束通り、ツカサさんは僕の手でエンバーミングしたよ。

 バレエ団のみんなはツカサさんが亡くなった一週間後に帰国して。

 僕は初めて団長さんと会い、彼に僕と彼女の三日間を耳に入れてあげた。


 団長さんは僕の話を聞いて、奇跡という言葉を零していた。

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