Embalming My Heart - 5

「何しにここへ……俺は独りにして欲しいって言っただろ」

 夫の病室へ向かうと、彼はあからさまに僕に冷たくあたった。

 彼の態度を面倒に感じた僕は帰ろうと思ったよ? 思ったけどさ。

「敵前逃亡は死、あるのみ」


 背後に姉さんの殺気を感じて、逃げ帰れなかった。

「俺に先立たれることが、ショックか……?」

 僕は彼の質問に少し間を置いてから答えた。

 

 ――別にショックじゃないかも。


「……何なんだよ、お前は。結婚式の時から思ってたけど、お前に感情はないのか」

 恐らく、彼の死に際は人生で一番面倒な時間だった。

 彼と共に過ごした時間を、僕は今でも鮮明に覚えている。

 本当に一瞬の夫婦生活だったけど、退屈はしなかった。


「俺がくたばったらでいいんだけどさ、本気の恋愛って奴をしてみろよ」

 彼は縋るように天井を見詰め、切羽詰まった声音でそう言う。

 まるで子供が背伸びしたみたいで、彼の台詞を真に受け取れなかった。

 少なくとも僕には。

「……俺が死んだら、違う人と幸せになれよ。そして今の俺の気持ちをわか、ッ」


 すると彼は苦痛から表情を顰める。

「い、いい、医者は呼ばなくてッ」

 ……そうだね。

 僕は直感的にこれが彼の最期だと悟り、傍を離れなかった。

「謝るべき、なんだろうか。それともお礼を言うべきなのかな」


 彼は僕の顔色を覗うように尋ねた。

「それとも両方言った方がいいのかな……わるかった」

 いいよ、気にしてない。

 僕がそう言うと彼は僕を見詰め小さく頷き、穏やかな笑みを溢した。

 表情を見る限り、彼に思い残すことはなくなったようだ。

 なくなった、と言うよりも、忘れてしまったんだと思う。


 彼に残された時間を考えると、その忘失は合理的な現象だった。

 彼にも真っ当な後悔があったはずなんだ。


 徐々に彼の顏から血の気が引いて行き、呼吸も浅くなって。

 彼は自然と瞼をつむる。

「待て、まだ逝くな。今お前の両親を呼んで来る」


 姉さんは慌てた様子で彼の両親に連絡しに向かった。

「あの光景を、まもってくれ」

 彼の手を握り、彼の言葉に耳を傾けた。

「おれは、好きだ。お前が。お前が何気なく俺との結婚指輪を、眺めている光景が」


 あの光景をまもってくれ。


 今の際、彼は幾度となくその言葉を繰り返した。

 律動的に繰り返された彼の言葉は、数を重ねるごとに小さくなっていく。

 姉さんがせがんだように、僕はちゃんと彼の最期を看取れてるのかが気になった。

 これでも僕はエンバーマーの端くれだ。

 死と向き合い、受け入れるよう介助するのが僕の仕事なんだよ。


 死はいつだって唐突に訪れる。

 僕の愛猫が亡くなった時も、酷く唐突だった。

 人はとても感情豊かな生き物だから。

 死と対峙して苦しむ人がいる。

 僕はそんな風に苦しむ人たちを看過して、心に蟠りを残すのが面倒だった。

 だから物臭な僕はエンバーマーをやっている。

 僕はエンバーマーとして、大切な人を生前の姿に戻してあげて。

 死を見詰めるための心を取り持たせる存在だ――


「僕には、貴方がいないと面倒だ。貴方がいない時間はとても退屈で、生きている意味を見失う。そんな風に悩むのは面倒だし、貴方がいないと自炊の一つすら満足にこなせないんだ……だから、あの世で待っててよ」


 僕はエンバーマーとして今思える精一杯の心を彼に伝えた。

 彼の最期の言葉はとてもつたない「ありがとう」だったよ。

 

 彼の死後、僕は彼に愛猫と同様のエンバーミングを施した。

 彼のご両親からはまるで今にでも笑いだしそうだ、ありがとうとお礼を言われる。

 僕はご両親の承諾を取り、しばらく彼と二人きりの時間を過ごした。


 僕は定位置である社長席のラウンジチェアに腰掛ける。

 彼には僕の対面に座って貰った。

 そして彼が後生大切にしていた『あの光景』を再現して、彼を見詰め、思う。


 僕はもう二度と恋はしない。


 彼が最期言っていたように、違う人と新たな人生を歩むのは嫌だ。

 例え彼がそれを表向きは望んでいたとしても、本当の気持ちは判らないし。

 違う人と添い遂げて、天国にいる彼にそっぽ向かれたら面倒だ。

 彼は今でも僕を待っててくれているだろうか。

 物臭な僕は永遠に途切れることのない愛情の証である指輪を眺め時々彼の姿を見てはこう思う。


 僕はもう、二度と恋はしない。


 面倒だからね。

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