第8話 大きな齟齬


 小説を書きなれた人には、自動筆記という現象が起きます。


 キャラクターが勝手にしゃべる、勝手に動く。なんとなく描いた場面が、あとになって重要な意味を持つ伏線として作用していた。その場でアイディアが次々と湧いてきて、話がどんどん進んでゆく。


 そんな現象です。

 それは、自分が書いているというより、自分に乗り移った神様が紡ぐ物語を、自分が最初に読んでいる感覚です。この、「読んでいる」感覚が曲者なのかもしれません。



 みなさん、過去に読んだ、すごく面白い本のことを思い出してください。具体的に思い出す必要はありません。面白い本を読んだとき、電車で降りる駅を間違えたり、あっと気づくとものすごい時間が経っていたり、そんな経験ありませんか?

 読んでいて、ついついその作品世界に嵌り込み、没入してしまうことって、よくあると思うんです。

 そして、その本を読み終えて、つぎのちがう本を読んだとき、がっかりしてしまう。そういうこと、ありますよね。べつにその新しい本が悪い訳ではないのですが。



 小説は、なにかの拍子に、すごく面白いものが書けたりします。運よく面白い物が書けたりするのです。

 そういう面白い小説を書くという体験は、面白い本を読む体験に似ています。

 キャラクターは動くし、物語はぐいぐい盛り上がる。書いている自分は、作品に対する没入感が半端なく、最高の執筆体験をすることになります。



 が、つぎに書く小説はどうでしょう? つぎもまた、面白い小説が書ければいいのですが、なかなか世の中、そううまくは行きません。

 次に書く小説がもし、すごくつまらないものだったら?

 あなたはきっと、激しい失望を感じることでしょう。自分が上手く書けていない、書けるはずなのに、あたかもその力を失ってしまったかのような強烈な喪失感、焦り、苛立ち。


 でも、ちがうのです。

 それは、ぼくの力ではなかったのです。ぼくはそのとき、極めて高性能なレーシングカーに乗っていたのです。すごい加速度と最高速度。爽快な旋回能力と制動力。素人でも自由自在に扱えるハンドリングと、安定性。

 ぼくはその感覚にすっかり馴染んでしまっていたのです。


 が、つぎに乗ったのは、普通の乗用車でした。

 アクセル踏んでも、なかなか加速しません。ステアリングを切っても曲がらないし、ブレーキ踏んでも止まらない。全然思った通りに走ってくれない軽自動車でした。


 ぼくは失望しました。自分自身に、です。

 あんなに見事に小説が書けた自分のはずなのに、いつの間にやらぼくは、どうやって話を作っていたのかさえ分からなくなり、闇の中を迷走しました。


 これは、齟齬だと思うのです。


 一度『高見』を体験してしまった自分と、実際には地表付近をのらくら舞っているだけの自分との、齟齬であると。

 その齟齬が、あたかも翼を失ってしまったかのような錯覚を起こしたのでしょう。なんのことはない、最初から翼などなかったのですが、一度雲の上まで駆け上がった経験が、心に大きなズレを生み、ぼくは小説が書けなくなってしまいました。


 これに対する対処法は、難しいです。


 ぼくは最終的に、小説に助けられて、ふたたび小説を書けるようになります。が、他の人も同じように上手く行くとは限りません。

 しかし、これに対する対処法は、書くこと以外にないのではないでしょうか?


 書くことで、いまの自分の位置を認識する。自分の感覚と、書き上げる小説との齟齬を消すには、辛くとも、書けなくとも、書く以外にない。そして下手な自分を認めると同時に、技術を磨いてすこしでも上に行く。感覚と技術の間にある、大きな隔たりをすこしでも縮めてゆく。それしかないのではないでしょうか?


 この方法が、実効性が低く、時間がかかることは、よくわかっています。ですが、以上がぼくの通って来た道であり、残念ながらその他のやり方は分かりません。

 お役に立てなかったら申し訳ない。

 ですが、これ以上、これについて語る経験は、残念ながらぼくはありません。ご了承ください。



 これにて、ぼくが小説を書けなくなった話の前半を終わります。

 つぎから、ぼくが小説を書けなくなった話の後半。こちらは、症状が軽かったです。きちんと対処法もあります。


 このあと語るのは、『小説のゆるやかな死』です。

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