第9話     -3-

「それで、誰に勝ったの?」


 報告だけのつもりだったが、どうやらそう思っていたのは僕だけのようだ。いつも通りCDの話をし始めるんだと思っていたから、興味の関心が僕に向けられた事に少しドキリとする。

 逢来に秘密にしている事はまだある。隠されたままというのは気になって仕方がない、こういう質問が出てくるのも頷ける。コーヒーを喉に通し、壱哉の事を話すか考える。

 佐武にも高津にも話していないこの秘密を、彼女に話してしまってもいいだろうか。話したら、僕は彼女に嫌われないだろうか。比べられて、つまらない人間だなと思われないだろうか。

 ……いや、今の彼女を見てみろ。これ程僕の為に喜んで、一緒に笑ってくれる人だぞ。そんな人に秘密を抱えたままだなんて、僕のちっぽけなプライドに反するだろう。


「兄、なんだ」

「へぇ、お兄さんか。ちょっと意外だね」

「兄と言っても、血縁関係にあるだけで同じ母親の元から生まれてた訳じゃない」


 これは聞いていて気持ちの良いものじゃない。それを感じ取ってくれたのか、逢来は静かに僕の話に耳を傾けてくれた。


「僕の両親は、交通事故で死んだ。まだ二十代だったんだよ。身寄りの無い僕を、親戚連中は誰が引き受けるかで三日三晩揉めたらしい。揉めた理由は、僕の家庭環境にあった。どこの家も公務員だったけれど、僕の親だけは違った。高校生で付き合い始めた両親は、僕を身篭った時期に高校を中退しているんだ」


 チラリと逢来の様子を見る。真剣に僕の話を聞いているみたいだったが、その表情から何を考えているのかまでは読み取れない。背中にじんわりと嫌な汗が伝う。誰かに打ち明けるのは初めてで、本当に話しても良かったのだろうか、僕の説明はちゃんと伝わっているだろうか、余計な心配ばかりが浮かんでは消えていく。


「そんな学歴の人間が、まともな職にありつける訳もなかった。生きるので精一杯な毎日で、贅沢なんてした事無かったよ。だから、親戚一同からは良く思われてなかったみたい。しっかり公務員を目指しておけばそんな事にはならなかったのに、馬鹿なやつだと、実際にこの耳に聞かされたよ。それで、結局僕を引き取る事になったのは今僕が住んでいる結崎家だ」

「ん? 結崎って……」

「そう、結崎壱哉。僕らが通う学校の、誰もが憧れる完璧な人間。それが僕の兄だよ」


 やっぱり、壱哉は凄いんだな。上の名前を出すだけですぐに想起させるんだから。


「そんな人間がいる家に何年も住んでみなよ。親には常に比較され、どれだけ努力しても簡単にその上を行かれるんだ。壱哉は僕の理想で憧れだけど、ひがみの対象になるには十分過ぎた。だから、僕は兄の脇役にしか過ぎないって言ったんだ。逢来さんも、相手が壱哉だって分かれば納得だろ?」

「うん、うん。分かった。でもその前にさ、いくつか質問しても良い?」


 この期に及んで隠す事など無い。聞かれた事には全部答えるつもりで小さく頷いた。


「まず、君は鞍嶋君で合ってるよね? 結崎に名前を変えなかったの?」

「記憶は殆ど無いけれど、実の両親との生活がそんなに悪いものじゃなかったと思っているんだ。貧しかったけど、毎日楽しかった。それを忘れない為にも名前はそのままにしてある。学校の先生にも事情を説明して、鞍嶋と呼ぶようにして貰ってるんだ」

「次、結崎関連なんだけれど、もしかして病院の先生が親だったりする?」

「うん、そうだよ。何回かテレビに映った事もあった筈だ」

「次、この話を知っているのは?」

「学校の先生方と、生徒では君だけだよ。今の所はね」

「次、この話って、私にしても良かったの?」

「君だから話したんだ」


 そこで彼女は照れたように動きを止める。指先で頬を掻きながら、そりゃどうもと小さく呟いていた。

 それから逢来は、窓の外に広がる景色を見ながら何か考え事を始めた。この時期になると、日が落ちるのも早い。赤色に染まりつつある景色を見て、何故かいつも日が傾く前の景色を見忘れる事に気が付いた。

 落ち着いた店内、こうやって二人共黙れば、その息遣いまで聞こえてきそうだ。遠い空に思いを巡らせる彼女の横顔はとても美しく、見ているだけで吸い込まれそうだ。


「まず――」


 考えが纏まったのか、逢来は声を上げる。それに驚いた僕は、思わず肩を震わせた。


「嫌な話をさせてしまって、ごめんなさい。私の配慮が足りなかったわ」


 深く頭を下げ、こちらに旋毛つむじを見せる。頭の位置を元に戻そうとしない。


「いや、いいんだ。小学生になる前からの話だから、もう割り切ってる」


 そう返事をして初めて、逢来は顔を上げた。人に律儀だなとか言っておいて、君も大概じゃないかと心の中で呟いた。


「それじゃあ、私の意見を言わせて貰うね。まず、君は不幸な人生を送っている自分に酔っているの? 少し苛々した」

「なっ……聞いてきたのは逢来さんからだろう! そんなつもりで言ったんじゃない!」

「あー、確かに私から話は聞いたよ? でも、結崎さんの話まで聞いてない。私が最初に質問したのは、『誰に勝ったの?』って事だけ。それ以上は何も言っていないのに、勝手にペラペラと……良く口が回るね」


 思い返せば、確かにそうだった。僕が勝手に、必要だと思い込んでいらぬ事を喋ったのだ。これでは彼女の言う通り、ただ不幸な自分を哀れんで欲しいだけのナルシストだ。


「で、でも……すごく興味深そうに聞いてくれたじゃないか! それならそうと言ってくれれば途中でも止めたものを……」

「それとこれとは別だよ。話の内容自体は聞けて良かったと思っているし」


 ヒラヒラと手の平を振ってみせる逢来は、完全に言い逃れしようとしていた。くそ、残念な事に言い返す言葉が見つからない。何を言っても口喧嘩では勝てない気がした。

 気が付くと彼女は、いつの日か僕をからかって遊んだ時と同じ顔をしていた。悪戯をして困らせて、怒られているのに「懲りないな」と思わせるような、そんな顔。不思議とその表情をみている内に、怒っている自分が馬鹿らしくなってきて許してしまいたくなる。


「でも、頑張って話してくれた御礼に、生意気にも私がアドバイスしてあげる」

「アドバイス? 今日はこれで二度目だね」

「さっきのは半分冗談。今から話すのは全部本気だよ」


 斜めになっていた身体を、僕の方へと真っ直ぐに向ける。相変わらず自信に満ち溢れた目をしていた。彼女の言葉には力がある、それはもう、とっくの前から分かっていた。


「鞍嶋君は、結崎さんの事を完璧な人だって言うけれど、私はそう思わないよ」

「え、でも壱哉には非の打ち所が無い。あれ程完璧っていう肩書きが似合う人間もいないと思うけれど」

「それは、完璧を演じるのが上手なだけ。人間、どこかしらに欠点はあるものだよ。欠点の無い人間なんて、それはもう神様だね。そう思わないと、私が耐えられない」

「逢来さんの偏見が混ざっている気がするんだけれども」

「いや、違うね。君はさっき自分で言ったじゃないか『勝てた』って。兄に勝って、鞍嶋君の逆転劇の第一歩は成功したんでしょう?」

「いや、あんな小さなものを欠点だなんて……」

「もう一度言うけど、そういう小さな積み重ねは見えてくる物を変えるわ。その内、ほんの少し頭が良くて運動ができるだけの、身近な存在に思えるようになるかもね」


 その「ほんの少し」が、どれだけ遠い所にあるのか分かっているのだろうか。


「ほんの少しに縮められるように、君が頑張るんだよ」


 心でも読まれたかのように、彼女は続けてそう言った。

 彼女が話した内容は、どれも理想でしかない。それができたら苦労はしないんだと言ってしまいたい。いや……やる前から出来ないと決め付けていたのは僕か。先日、逢来に言われた言葉を思い出した。

 どうして、納得できない部分はこんなに残っていると言うのに。彼女の声が、仕草が、目が、僕を元気付けてくれるんだろう。まだやれる、そんな気にさせてくれるのは何故だろう。

 最近、何か変化があっただろうという佐武の言葉を思い出した。

 あぁ、その通りだ。僕は最近、変わりつつある。


「わかった。騙されてみるよ、君の言葉に」


 クシャリと顔を綻ばせ、白い歯を覗かせながら笑う彼女はとても可愛らしかった。


「騙してないって。うん、明日からも頑張ってね」


 時刻はもう十八時を過ぎていた。すっかり暗くなった景色に、慌てて帰る準備を始める。

 店から出て、逢来と別れてからの家へと向かう道は、いつもより随分と気楽に歩けた。彼女には、助けられてばかりだ。

 最近は虐めも鳴りを潜め、比較的落ち着きを取り戻している。この調子でいけば、いつか学校の中で彼女と話せる日が来るのかもしれない。

 頭に昇った血は顔を火照らせて、明日に夢を見させてくれた。

 だが、その熱はたった一日で消え去り、僕の頭を急激に冷ます事となった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る