第16話 鎧袖一触

「おおおおおおおっ! 死ねええええっ!」


作業服の男が、鉄パイプを振りかぶって和馬に襲いかかってきた。

両目が焦点を結んでいない。口の端から涎が垂れ落ちていた。

もはや正気を完全に失い、殺意と憎悪の塊と化しているようだ。

男の肉体は、最初に見た時の二倍以上に横に膨れ上がっている。

全身が歪な筋肉の塊だ。

当然ながら、筋力も耐久力も尋常なものではない。

普通の人間が正面からぶつかったら、即死する可能性もあるだろう。


和馬は生唾を飲み込んだ。額を汗が一筋伝い落ちる。

恐怖――人間の持つ原初からの本能が危険を知らせ、撤退を促す。

だが、その命令に従うわけにはいかなかった。

メルが待っているのだ。囚われの身となった彼女を救い出すには、力ずくで道を切り開くしかない。


和馬は呼吸を整えて、恐怖をねじ伏せた。

そのまま、険しい表情で男の突進を迎え撃つ。

相手の動きはよく見えていた。

男の筋肉は確かに人間を超越していたが、それでも先日の大戦鬼に比べれば、力も速度も数段劣っている。

今回はメルの支援こそないものの、自力で戦えると判断した。

もちろん、油断はしない。


男が手に持った鉄パイプを投げつけてきた。

それも想定通りだ。

ひゅんひゅんと風を切り、回転しながら向かってくる鉄パイプを、両腕でがっちりと防御する。

激突の瞬間も、さほど痛みは感じなかった。

呼吸法の成果もあるが、和馬の精神が高揚していることもあるだろう。


「ううううううううううっ、あああああああっ!」


奇声を発しながら、正面から体当たりをしてきた。

身体ごとぶち当たり、そのまま打ち倒してしまおうというのだろう。

単純な狙いだが、非力な相手には十分すぎる脅威となる。

和馬は両手を突き出し、全身に力を込めて、男の突進を受け止めた。

先程の鉄パイプを遥かに超える衝撃が襲いかかってくる。

受け止めた姿勢のまま数メートル、一気に後方まで下がった。

だが、和馬はバランスを崩すことなく衝撃に耐えきった。

生まれ持った体幹の強さに加え、厳しいトレーニングを己に課している和馬ならではの芸当だ。


「ぐっ、くうう……」


男が目を見開き、唸り声をあげる。

一息で吹き飛ばせるものと踏んでいたのだろう。和馬の思わぬ抵抗の強さに明らかに驚愕している様子だ。

和馬は相手の肩口を長い手指でがっちりと掴み、握り締めた。

和馬の握力は、高校の体力測定では九十キロということになっていた。

これだけでも成人男性の平均を大きく上回る数値だが、実は本気ではない。

今年の春、理子が立ち会った警察署内の特別施設で測定した数値は、百八十キロだった。

今はさらに、呼吸法で力が増している。

人間離れした怪力が、男の両肩を握りつぶさんとしているのだ。


「ぐ、がぁ、あがあああああああっ!」


バキバキと、大きな音を立てて骨が軋む。

男が悲痛な叫びを上げるが、和馬は容赦しなかった。

これがもし、メルが浚われていなければ、思わず同情して力を緩めてしまったかもしれない。

しかし今の和馬は、行く手を遮る者にかける情けなど持ち合わせてはいなかった。

――いや、それでも相手を殴り倒したりはしない。

たとえ憎い敵とはいえど、怒りのままに殺してしまうような和馬では無かった。

ただ、障害があれば取り除く、というだけのことだ。


「はあああああああっ!」


気合の叫びと共に、さらに力を入れる。

全身の筋肉が躍動していた。

怒りと使命感がアドレナリンを分泌し、常ならぬ力を生んでいた。

男が口をパクパクと開き、全身を痙攣させていた。

魔薬の効用で、恐らく痛覚はほとんど消えているはずだ。

だが、それはあくまでも感覚を麻痺させているだけだ。

肉体が破壊されていることに変わりはない。


バキッ


ついに、男の両肩の骨が砕けた。

男が白目を剥き――そのまま膝を折った。

意識が途絶えたのを確認してから、そっと手を放す。

男が前のめりに倒れ伏すと、和馬はようやくホッとしたように息をついた。


振り返ると、美帆の剣技の前にすでに二人の若者が倒されていた。

一瞬心配になったが、さすがに彼女も相手の命までは奪っていないようだ。

残る一人は俊敏に動き回りながら、半狂乱でナイフを振り回して暴れている。

美帆は涼しい顔で受け流しながら、慎重に機を窺っているようだ。

集団でかさにかかって攻めてくる相手よりも、追い詰められた敵の方が油断ならない――そういう戦いのセオリーを彼女は熟知している。

転瞬、わずかな隙を見出した美帆が『鬼遣』を振るい――若者の奇声が止まった。


一方、葉月もまた優勢に戦いを進めていた。

スーツ姿の男が矢継ぎ早に放つ光弾を、あるいは避け、あるいは盾で受け止めつつ、徐々に敵に迫っていく。

男の顔と動きに、焦燥と疲労がくっきりと表れていた。


「くうっ、魔族どもが!」


口惜しげに吐き捨てるが、劣勢は誰の目にも明らかだった。

やがて光弾を生み出す力すら失ってしまった男の首筋に、間合いを詰めた葉月が手刀を振り下ろす。

傍目には軽く叩いた程度だったが、あえなく男の身体は崩れ落ちた。


(続く)

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