次に見かけたのは、委員会の会合があった日のことだ。

「来週から昼休みと放課後に図書当番をお願いします。じゃあ、今日はこれで解散」

 司書教諭の雪森良枝ゆきもりよしえ先生が委員会の会合終了を告げる。

 その言葉を受けて、生徒達は椅子から立ち上がって図書室をぞろぞろと出ていく。学校の授業はもうないので部活動に行くか、帰宅するのだろう。僕も帰ろうと思い、椅子に座ったまま軽く伸びをした。

「まーさーみーちゃん」

 背後から声がかかった。男の僕をちゃん付けで呼ぶのは、あの人だけだ。

 思わず頬を緩ませながら振り向くと、予想通りの人が立っていた。その人も笑みを浮かべている。

「何ですか先輩。あ、これからは津川委員長と呼んだ方がいいですか?」

「今まで通り先輩でいいよ。でもうれしいなぁ。また図書委員会に入ってくれるなんて思ってなかったから」

「約束したんだから当然ですよ。先輩との約束を守るのが後輩としての役目ですから」

「あはは。でもいいの? 生徒会から誘われていたんでしょ?」

「いいんですよ。生徒会には優秀な人が必要ですから。【劣等生】の僕では務まりません」

「こら。真実ちゃんのそういうところ直した方がいいよ。去年の図書委員会の仕事ぶりを見たら君も優秀だって分かるもの。だから、そんなに自分を卑下しないで。ね?」

 津川香夏子つがわかなこ先輩は、屈託のない笑顔でそう言った。

 首を傾げた時に少しだけ眼鏡がズレた。落ち着いた色合いの縁の眼鏡が彼女にとても似合っていると思った。

「ありがとうございます。先輩」

 自分もできる限りの笑みを浮かべて感謝を述べる。

「あらあら。あなた達の仲の良さは変わらないわね。それで本当に付き合っていないの?」

 司書室に引っ込んでいた雪森先生が本を何冊も抱えて出てきた。

「違いますよー。私と真実ちゃんは……。そう、姉と妹みたいな関係ですね」

 変わらず屈託のない笑顔で言う先輩。

 しかし、聞き流してはいけない言葉が聞こえてきたぞ。

「いやいや先輩。僕は男ですから。そこは普通、姉と弟じゃないですか?」

 関係性についてはどうでもいい。けれど、せめて男として扱ってほしい。

「えー、やだ。なんかやだ。私は妹が欲しいの。だから真実ちゃんは妹!」

 なんてわがままだ。しかし、先輩のわがままを聞くのは後輩の役目ではないと思いたい。

「そういうことは、先輩のご両親にお願いしてください」

「真実ちゃん。それは、私以外の人に言ったらダメだよ? セクハラだよ? 一発アウトだよ?」

「うふふ。本当に仲がいいわぁ。そんな仲良しの二人にお願いがあるの。いいかしら?」

 わざわざ僕たちをからかうために来たのかと思ったけれど、手に抱えた書籍は委員会の仕事だったか。こんなことなら早く帰れば良かった。

 そう思いつつ僕は二つ返事で了承する。同時に先輩も了承した。

「その本を棚に戻せばいいですか?」

「そう。ごめんね。これから職員会議に参加しないといけなくて」

「いいですよ。じゃあ私が一階をやるから、真実ちゃんは二階をお願い」

「はい。承知しました」

「ありがとう。助かるわ。帰る時は鍵をかけなくていいから。じゃあね」

 雪森先生は急いで図書室を出ていく。

 僕は少し開いていた戸をしっかりと閉め直しておいた。


 津川先輩が一階と二階の棚に入れる本を素早く分けてくれた。さすがに三年も図書委員会に所属しているから慣れている。僕は、分けてもらった本を持って階段を上っていく。

 秋功学園の図書室は、図書館と言い換えても良いくらい広い。二階建て、地下室の書庫も含めれば三階建ての建物を図書室に使う高校はなかなか見られない。蔵書数の多さは、全国でもトップクラスではないだろうか。その点だけは、この学園の創設者に感謝したいところだ。

 考え事をしながら歩いていると、棚の影から人が飛び出してきた。

「うわっ!」

 危うくぶつかるところを何とか避けた。幸い本も落としていない。

 ホッと胸をなで下ろして目線を前に戻すと、校門の付近でぶつかりそうになった男がいた。先日会った時と全く同じ格好をしている。僕も驚いているが、相手も心の底から驚いたような表情をしている。

「すみません。大丈夫ですか?」

 相手からの返事はない。

 男は驚いた表情を隠さぬまま、じっとこちらを見つめている。

「あの、職員会議に出なくていいんですか? もう始まっていると思いますよ」

 この男が誰なのか、僕には分からない。教師かどうかも分からない。もしかしたら、不審者という可能性だってある。しかし、ここは校舎の本館から離れた別館だ。こんなところで大声で助けを呼んでも気づいてもらえない。しかも今、一階には津川先輩がいる。もしこの男が不審者で下手に刺激してしまったらどうなるか分からない。ここは慎重にいかないと。

「あ……。ああ」

 謎の男は、目をあちらこちらに泳がせながら答えた。

 その声は、喉の奥からしぼり出すように掠れていた。男はゆっくり立ち上がって、足早に一階へと下りていった。

 僕もすぐに振り返ってその後を追う。すると誰かが階段を上ってくる音がした。

「終わった?」

 津川先輩だった。その顔を見て緊張の糸が少し解けた。

「先輩。降りていった男の顔を見ましたか?」

「誰とも会わなかったけど?」

 予想していなかった返答に面食らう。だが先輩は、再び語気を強めて返答する。

「だから誰とも会わなかったよ。それに、誰かが出たり入ったりすれば扉の開け閉めの音で分かるでしょ?」

 先輩は残っていた本の一冊を棚に戻すと、先に階段を下りていった。

 僕も最後の一冊を戻してすぐに彼女の背中を追った。


「【ズレ】って何だろう」


 先輩に聞こえないように小声でつぶやいた。

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