足立哲也の希望

 デボラが現れてすぐに逃げ出した哲也は、幸いにしてデボラ達の争いから迅速に離れる事が出来た。

 無論熱光線や放射大気圧は、時として大地を貫通し、何十キロ、或いは何百キロと伸びる事もある。実際何処かに放たれた熱光線が、数キロ離れた国の一画を直撃して吹き飛ばしていた。哲也の記憶が確かなら、あの一画にはデボラ教のトップである大神官達の住む教会があった筈。無論大神官達だけでなく、大勢のデボラ教関係者が居ただろう。ならばあそこに居た人々は……苦しまなかった事を祈るしかない。

 哲也とその妻イメルダ、彼等と同じ方向に逃げた数百人の人間達もまだまだ危険な場所に居る。本当ならもっと遠くに逃げねばなるまい。哲也は未だイメルダを抱き上げている状態なので、イメルダを待つ必要はなく、すぐにでも逃げ出せる状態だ。

 だが、哲也を含めた誰もが足を止めていた。

 何故なら彼等の視線の先には、二匹のデボラすら小さく見えるほどの超大型デボラが居たのだから。

 体長三百五十メートルのデボラが二匹。更に一千メートル近い巨大デボラが一匹。合計三匹のデボラがこの国に集結している。

 一体これはなんの冗談だ? 何が起きようとしている? 疑問は幾らでも湧き出してくるが、一つだけ明確な答えがある。

 全盛期を迎えていた二十年前の人類は勿論、百年後、二百年後まで順調に進歩し続けた人類であっても、『デボラ』という存在には勝てないという事だ。

「(あんなの相手に戦って、国民を守り抜く? なんの冗談なんだか)」

 二十年前の自分なら臆面もなく言えた言葉に、哲也は胸の中で自嘲してしまう。二十年前の……人類の敵と呼べるのは同じ人類か『天災』だけと思い込んでいた、驕り高ぶった人類があまりに愚かしい。恐ろしい怪物から誰かを守り抜く……二十年前までなら気高いと受け取られる言葉が、最早身の程知らずの戯れ言ではないか

 人の常識を超えた『怪しい獣得体の知れぬ生命』。

 デボラは紛う事なき怪獣であった。人智を超えた存在に、人智で挑むなど間抜けが過ぎるというものだ。人に出来るのは、その恐ろしい存在から自分と家族の命を守る……その『努力』だけである。

 哲也も、今更デボラを倒そうなんて思わない。誘導しようとする事さえもおこがましい。自分達人間に出来るのは、一歩でもデボラから離れる事だけだ。

「イメルダ、此処も危ない。もっと遠くに行こう。しっかり掴まっていてくれ」

「え、ええ……」

 哲也が促すと、イメルダは怯えるように頷く。その顔には不安の色がありありと出ていて、片手で大きなお腹を抱えながら、もう片方の手で哲也にしがみついた。

 イメルダの不安は分かる。

 三匹のデボラが恐ろしい……それだけの理由ではない。デボラはたった一体でこの世界を冷たいものに変え、人類文明を崩壊させた。間接的なものまで含めれば、たった一体で何十億もの人間を殺した存在である。

 そんなものが更に二体も増えれば、例え今逃げ延びたとしても、『将来』がどうなるか……不安にもなるだろう。

 哲也としても不安だ。デボラの直接的攻撃から逃げ延びる事は出来ても、デボラが引き起こす環境変化からはどう足掻いても逃げきれない。アフリカは比較的気候変動が少なかったとはいえ、全く起きなかった訳ではないのだから。

 哲也が考える限り、確かに未来には絶望しかないように思える。下手に生き長らえても苦しみが長引くだけ。いっそプチッと踏み潰されてしまう方がずっとマシかも知れない。

 だけど、哲也はそれを選ばない。

 彼の手の内にはまだ愛する妻が居て、その妻のお腹には待ち望んでいた子供が居るのだ。

 ワガママを言わせてもらうなら、死ぬなら子供との思い出を作ってからにしたい。その思い出はたった一つだけで、これから訪れる万の苦しみにも勝ると信じるがために。

「……良し」

 覚悟を決め、哲也はデボラ達から逃げるように走る。

 哲也に釣られるように、他の人々もまた動き出す。誰もがまだ、今はまだ死にたくなかった。

 そんな人々を、嘲笑うかの如く。

「!? で、デボラが!?」

 逃げる人々の誰かが、そんな悲鳴を上げた。

 哲也は思わず振り返った。またデボラが熱光線を撃とうとしているのか、或いは衝撃波のようなものを出そうとしているのか。前者はどうにもならないが、後者なら自分が盾になればイメルダと赤子だけは助けられるのでは……自衛官時代に培った素早い状況判断能力をフルに働かせる。

 なんと愚かしいのだろう。

 デボラは人智を超える・・・・・・。ほんの今さっき考えていた事を、もう忘れるなんて。

 振り向いた哲也は、その直後呆気に取られて固まってしまう。

【ギ、ギギギギギギギギギギギィ!】

 一匹のデボラが、かつてないほど力のこもった唸りを上げる。

 その両手のハサミは、もう一体のデボラの両ハサミを掴んでいた。そして相手のハサミを掴んだまま……回している・・・・・

 文字通り、デボラがデボラを振り回している! あたかも砲丸投げの鉄球が如く!

【ギィイイイィイ!? ギギ、ギィ!?】

 振り回されるデボラもまた悲鳴染みた声を上げるが、ハサミを掴むデボラは決して止まらない。振り回されるデボラは、遠心力によるものかピンッと背筋が伸びており、完全に宙に浮いていた。これでは地面を踏み締め、抵抗する事さえ儘ならない。

 デボラは更に相手を回す。どんどんどんどん、速く回していく。三百五十メートルという巨体なのに、まるで人間のプロレスを見せられているようなスピードが出ていた。

 ……戦い続けているあのデボラ二匹がどんな関係なのか、哲也には分からない。

 しかしハサミで殴るどころか、放射大気圧や熱光線まで撃ち込んでいる。結果相手の甲殻は砕け、大きなダメージを与えていた。その傷は自慢の再生能力で癒えたが、万一内臓などに攻撃が到達していれば、致命傷となった可能性はある。

 相手を殺そうとは思っていないかも知れない。されど「死んでも構わない」とは思っているだろう。

 そんな相手を高速でぶん回した後、ゆっくりと下ろすだろうか?

「おい、ちょ、待っ……」

 祈りが日本語の形で哲也の口から出てきたが、遙か彼方で戦うデボラが聞く耳を持つ訳もなく。

 哲也の目の前で、哲也達の方目掛け――――デボラは、デボラをぶん投げた!

 悲鳴は上がらなかった。そんなものは、誰も想像していなかったから。

 デボラという生物は、途方もないパワーの持ち主らしい。自分と同じ体格の存在を、自身の体長の十倍超えの距離……数キロも投げ飛ばすのだから。人間が自分と同じ体格の相手を十五メートルも飛ばせるだろうか? 少なくとも哲也には無理な話だ。

 数キロと離れていた哲也達の頭上を、デボラが猛スピードで通り過ぎていく。

 必死に、全速力で逃げて、ちょっと休みはしたけれども懸命に生きようとして……哲也達はデボラから離れたのに。

 たったの十数秒で、その努力は無駄となる。

 投げ飛ばされたデボラが、哲也達の行く手を遮ったのだから。

【ギ……ギィギギギギギギギィイイイイイ!】

 投げ飛ばされたデボラが、怒りの感情と共に動き出す! 向かう先は、当然自らを投げたもう一体のデボラだ!

 投げ飛ばされたデボラが跳び越した哲也達から見れば、それはデボラが自分目掛けて猛然と突撃してくるのに他ならない。

「っ!」

「て、テツヤ!」

 哲也はイメルダを抱き締めながらしゃがみ込み、イメルダも哲也にしがみつく。周りの人間達もその場に伏せた。走って逃げたところで間に合わない。イモムシが身を守るため丸まるように、少しでもマシな体勢を取ろうとする本能的行動だった。

 そして何百もの人々が一瞬にして跪き、平伏する姿はあたかも王を讃えるかのよう。

 しかし猛進するそれは王ではなくケダモノ。デボラは平伏す人間に一瞥くれる事すらしない、否、見ている余裕などない。

 向かい合うもう一体のデボラも、全速力にしか見えないスピードで駆けているのだから。

 ズトンズトンと爆発音にしか聞こえない足音が、哲也の間近に迫ってくる。そう思った時には、もうすでに真横で爆音が鳴っていた。悲鳴は上がらない。上がる前に踏み潰され、大地の染みにすらならない。

 ついに爆音は哲也の背後へと通り過ぎた。されど安堵する暇もなく激突する爆音、続いて衝撃波が哲也達を襲う。大地が揺れ、誰も立ち上がる事すら出来ない有り様。ましてや身重な妻を抱いたままの哲也など身動き一つ取れやしない。

 人間には抗う事はおろか、逃げる事すら出来ない災禍。

 その恐怖に震える妻の上に覆い被さりながら、哲也は思う。

 確かに恐ろしい。正直このまま気絶してしまいたい。目が覚めた時、この地上か、それともあの世かは分からないが、妻と共なら何処でも構わない。兎に角此処から逃げられるのなら、自分の生死すらもどうでも良くなるぐらい怖かった。

 だけど、少しずつだが『希望』を感じる。

 根拠はない。強いて言うなら自衛官として培ってきた経験。その経験が強く訴えているのだ。

 間もなくこの戦いは終わるのだと。

 その終焉が自分達にとって良いものである事を、哲也は願わずにはいられなかった。

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