加藤光彦の強運

 運が良いか悪いかで言えば、悪い方だと思っていた。

 ギャンブルではろくに勝った事がない。困った時に頼った奴等はどいつもこいつもクソ共で、何度騙された事か。挙句盗みをしたらガキを拾う羽目になり、さっさと孤児院の類に捨てるつもりが二十年も一緒ときた。

 しかしながらガキを拾ったあの日、迫り来るデボラにギリギリ踏み潰されずに済んだ。二十年間、なんやかんや生きてこれた。そういう意味では、案外自分は幸運なのかも知れない。

 そして極めつけに、デボラの攻撃に巻き込まれたのに生きているとなれば。

「……流石に運が良過ぎねぇか」

 ぼそりと、光彦は呆れたように独りごちた。

 身体は滅茶苦茶痛い。手足を動かすとビリビリとした痛みが走る。しかし骨が折れているような感覚はなく、少し休めばなんとか動かせるようになりそうだ。

【ギギギィイイイイイイイイッ!】

【ギィイイイイ! ギッ! ギギギギィ!】

 ……遙か彼方で怪獣共の声が轟き、白いビームやら空気の渦やらがあちこちに飛んでいる光景を見ている限り、あまりのんびり休んでいる暇はなさそうだが。

「い、っつつ……!」

 痛む腕を動かして杖代わりにし、身を起こす。その際、ふさふさとした弾力のある感触を覚えた。

 己の手をちらりと見てみれば、そこには山積みになった稲藁のようなものがあった。どうやらこの稲藁っぽいものがクッションとなり、衝撃を和らげてくれたようだ。しかしこの稲藁っぽいものはなんだろうか?

「ンモォー……モォー……」

 自分のすぐ横で牛が呻きながら横たわっているのを見て、光彦はその正体を察した。

 どうやらこの稲藁のようなものは、牛小屋に敷かれていたもののようだ。デボラの放射大気圧が牛小屋を吹き飛ばし、その際この稲藁のようなものも飛び、自分は幸運にもその稲藁とぶつかったのだと光彦は理解した。

 ちなみに横に倒れている牛は、足が変な方向を向いている。息も絶え絶えで、恐らくそう長くはない。生憎、光彦には助けるつもりなんて最初からないが。

「早苗! 早苗! 生きていたら返事をしろ!」

「……生き、てるわよ……ギリ……」

 大声で呼び掛けてみると、少し離れた場所から早苗の声が聞こえてくる。光彦は深く息を吸い、止めて、意地と気合いで立ち上がった。痛みに再び膝を付きそうになるが、ここで倒れたらしばらくは立ち上がれない。そんな予感から、光彦は激痛を堪えて歩いた。

 十メートルも歩かないうちに、光彦は早苗を見付ける事が出来た。彼女はうつ伏せに倒れ、稲藁や瓦礫の下敷きになっている。痛む身体では稲藁一つ持ち上げるのもしんどいが……助けられないほどのものではない。

 光彦は稲藁を退かし、出てきた早苗の手を掴む。光彦なりに一生懸命引っ張り、早苗自身の這い出そうとする力も相まって、早苗はどうにか地上へと戻ってこられた。

「はぁ、はぁ……ごめんなさい、助かったわ」

「おう、礼は良いからさっさと逃げるぞ」

 早く立ち上がるよう早苗を促しつつ、光彦は辺りを見渡す。

 あの放射大気圧の一撃に巻き込まれた人数は、ざっと数百だろうか。

 周りにはぽつぽつと、十数人程度の人影が立ち上がっている姿が見えた。自分を含めた彼等が生存者の全てだとすれば、生還率は数十分の一程度。今生きている事が中々の幸運であるのは違いない。しかし放射大気圧の一撃を受けたにしては、やけに生存率が高いようにも思える。

 牛小屋の稲藁がクッションになったのもあるが、もう一つの理由として、瓦礫の多くが材木や草などの植物で出来たものである事が考えられた。この国の家は極めてボロボロで、どれも貧相なものばかり。つまり軽くて脆く、人を確実に傷付けるほどの強度がなかった訳だ。

 もしもコンクリート製の建物ならば、激突の衝撃か、のし掛かった際の重さで全員死んでいただろう。文明の衰退が、結果的に光彦達の命を助けた訳だ。

 生憎光彦はそうした皮肉に考えを巡らせるほど、頭は良くないのだが。

「……うん、動ける。行きましょ」

 待っている間に早苗は回復。光彦も幾らか痛みが引いた身体を動かし、一歩一歩、歩いてデボラから逃げる。

 他の人々も、よたよたとした歩みでデボラ達から逃げていく。一歩でも遠く、一秒でも早く、安全な距離を取らなくては……

 光彦は歩く。早苗も、まだ身体が痛むのか息を荒くしつつ歩く。二人はどちらが肩を貸す事もなく、周りに目を向けもしない。自分達が誰を追い抜いても、追い抜かれても、歩みは常に一定だ。慌てて逃げても調子が狂い、帰って逃げ足が遅くなる事を二人は知っているのだから。

 勿論前からやってきて、自分達の横を通り過ぎる者が現れても歩みは止まらな

「は?」

「え?」

 否、光彦も早苗も足を止めた。

 二人が同時に振り返ると、確かに一人の……後ろ姿からの印象だが……痩せた若い女性が、ふらふらと光彦達とは逆方向に歩いて行くのが見えた。光彦達と同じく放射大気圧から生還した人々も、その女性が自分の横を通る度に振り返っている。誰もが思わずといった様子だ。

 当然だ。女性が向かう先では今もデボラ達が戦っているのだから。そんなところにのこのこと向かうなど、自殺行為以外の何ものでもない。

 或いはそれこそが目的なのか。

「……ちっ、自殺志願者かよ」

 もしかすると熱心なデボラ教徒かも知れないが、結果的には変わるまい。このままデボラ達に近付けば、あの女性は死ぬだろうと光彦は思った。

 しかしわざわざ引き返し、女性を殴り飛ばしてでも止めようとは思わない。今は自分が助かるだけで手いっぱいなのだ。それにこのろくでもない時代、死んで楽になりたいとか、『デボラ様』に縋りたくなる気持ちは、共感はしないが分からなくもない。

 何よりあの女が死んだところで、自分にはなんの関係もない。死にたきゃ勝手に死ねば良い。誰もがそう思うからこそ女性を無視しているのだろう。

 光彦も同じ考えだ。だから再び前を向き、女の事など忘れて逃げようと思った。

「ふ、ふぇぇええぇあぁぁあぁ」

 そう思っていた最中に、背後から『赤子』の鳴き声が聞こえた。

 光彦は反射的に振り返った。一緒にデボラ達から逃げていた早苗よりもずっと早く、素早く。

 赤子の姿は何処にも見えない。だけど声だけは何時までも聞こえてくる。何処だ? 何処に居る? 光彦は視線をあちらこちらに向け、声の場所を探す。

 視線が止まったのは、自殺志願者らしき女の背中だった。

 赤子の姿は見えない――――いや、見えた。女の胸元ぐらいの高さから、小さな手がジタバタと動いている姿があるではないか。女は赤子を抱きかかえてあるのだ。

 赤子は女の子供なのだろうか。それとも拾っただけか。しかしそんなのは今、些末な疑問だ。重要なのは女が今、赤子と共にデボラに近付いているという事。

 無理心中、というやつだろう。

「み、光彦さん」

 早苗が声を掛けてくる。言いたい事は分かる。あの女をどうするのか・・・・・・と聞きたいのだ。

 無視するのが正解だ。赤ん坊が居ようが居まいが関係ない。遠くまで逃げなければデボラの攻撃に巻き込まれ、仲良くお陀仏なのだから。

 実際周りの人々も女が赤子を連れていると知るやギョッとしていたが、振り返るだけで戻ろうとはしない。自分の命が危ういというのに、自分のではない赤子をどうして助けるのか。

 仮に助けたところでその後は? 神聖デボラ教国が残っていれば、育てる事も可能だったかも知れない。しかしデボラ二匹が暴れ回った事で、最早この国は滅茶苦茶だ。政府機能も消滅しているだろう。当然仕事はなくなり、食糧も手に入らなくなる。自分の食べ物すら得られるかどうか怪しいのに、見知らぬ赤子など育てられるものか。

 助けない、無視する。それが極めて合理的な選択だ。誰もが合理的に判断し、自分の安全を最優先にしていた。

 そして光彦は、

「ちっ、くしょうがぁ!」

 感情のまま、デボラの方へと駆け出した!

 自分でも馬鹿をしている自覚はある。あの手の狂人は拘わる時点でデメリットしかなく、放っておくのが最善なのは、なんやかんや五十年以上生きているのだから知っている事だ。

 赤ん坊を見捨てるのも同じ事。育てられない子供を助けてなんになる。見捨てるのが最善の選択。

 そう、見捨てるのが最善なのだ。

 ――――だが目覚めが悪い。

 あの無力な泣き声を聞かされた上で死なれたら……夢に出てきそうではないか!

「(ああ、クソ! また馬鹿やってるなぁ俺!)」

 走る度に足が痛む。けれども沸き立つ情動が、光彦の背中を押し続ける。

 思い返せば何時もそうだ。深く考える前に身体が動き、何かをやらかす。人をぶん殴るのだって反射的にムカついたからであり、物を盗むのだって「金に困ったら盗めば良い」と思ってしまうから。理性による自制が効かず、感情や本能のまま動いてしまう。

 だから二十年前には赤ん坊を助けて、大人になるまで育てる羽目になった。そのまま死なせたら目覚めが悪いという、ただそれだけの理由で。

 同じ理由でまた苦労を背負い込もうというのだから、これを馬鹿と言わずになんとなる。

 しかし加藤光彦という男は、生粋の愚か者だった。

「おらぁっ!」

 故に彼は殆ど躊躇なく、女の背中に渾身の蹴りをお見舞いした!

「ぐぶっ!?」

 不意打ちの一撃に、女は大きく呻く。九死に一生を得た光彦の身体はボロボロで、ろくな力も出せなかったが……全体重を乗せればそれなりの威力にはなる。ましてや痩せた女となれば、男の力に敵うものではない。

 女は地面に倒れた。仰向けに倒れれば、アジア系に見える女の顔と、赤子の姿がハッキリと見える。赤子は余程幼いのか泣き声はふにゃふにゃと力弱く、だからこそこの無力な命を連れていこうとした女が腹立たしい。

「っ! この……!」

 光彦は赤子に掴み掛かった。女は光彦の突然の行動に驚くように目を見開く。

「や、止めて! 私の赤ちゃんを連れてかないで!」

 そして発する言葉は、いっちょ前に母親らしいものだった。

 相手が日本語を話した事など頭にも上らず、光彦は怒りを露わにする。

「何が私の赤ちゃんだ! お前何処に行こうとした!?」

「ど、何処に行こうと私の勝手でしょ!」

「ああ勝手にしろ! けど子供は置いていけ!」

「止めて! 離して! この子と一緒に居させて!」

「テメェ一人で死んでろ馬鹿が!」

 どちらが悪党か分からぬ罵声を浴びせるが、女性は一向に赤子を離さない。いや、むしろ更に強くなっているようだ。これが母の力だというのなら、全くふざけた話である。

「光彦さん! 何してるのよもう!」

 苦戦していると、早苗までもがこの場にやってきた。苦戦していた時だけに大変ありがたい。こっちを手伝えと伝えるべく光彦は大口を開けた

 にも拘わらず、その声が早苗に届く事はなかった。

 何故なら突然の爆音が、辺りに轟いたからだ。

「ぬぉっ!?」

「きゃあっ!?」

 いきなりの爆音に光彦は跳び退き、女も身を縮こまらせる。早苗は爆音と共にやってきた振動により、尻餅を撞いた。

 またデボラ共が何かやったのか。光彦は無意識に音が聞こえた方……自分達が逃げようとしていた方角を見遣った。

 光彦はギョッとなった。

 自分達から、ほんの数キロメートルほどしか離れていない地平線近く。そこから、朦々と黒煙が噴き出していた。瓦礫に火が付いて燃えているのか? そんな疑問は、黒煙に混ざって地上に出てくる赤黒い液体が否定する。

 噴火だ。山からではなく地面から出るものを噴火と呼ぶのかは知らないが、兎に角そういった現象だと光彦は理解した。

 まるで大地を押し退けるように、噴き出す黒煙とマグマは勢いを増していく。見れば人影がチラホラとあり……赤い液体を被る人影も少なくない。彼等は頑張ってデボラから逃げた結果、突然生じた噴火口に近付き過ぎてしまった訳だ。

 自分達も、この女の後を追わなかったら今頃……ごくりと光彦は息を飲む。

 しかし難を逃れたというにはあまりにも災禍が近い。早く此処から離れなければと、光彦は再び赤子を奪い取ろうとした。

【ギギギギギィイイイイイイイイイイ】

 今度は、そのおぞましい声が光彦の動きを止めた。

 聞き慣れた声だ。遙か彼方で戦っている二匹が、もう喧しいぐらいに聞かせてくれている。

 だが、どうした事だろう。

 何故今の声は、すぐ近くから・・・・・・聞こえてきたのか。

「……ちょっと、おい、それは流石に……」

 光彦は否定の言葉をぼやいた。あまりにもちっぽけで、自分すら信じていない希望を乗せて。

 その僅かな希望を摘み取るかのように。

 世界が激しく揺れ始める。黒煙とマグマの噴出が激しくなり……内側から弾けるように、何百メートルもの範囲に渡って大地が吹き飛んだ。その吹き飛び方はまるで子供がバケツに入れた水を投げるように、真っ直ぐ、狭いもの。お陰で光彦達はその被害を受けずに済んだが、それはなんの救いにもならない。

 何万トンもの土砂をバケツの水のように投げ飛ばす『化け物』がいるという、絶望的な証でしかないのだから。

 吹き飛んだ大地に出来た亀裂より、マグマと黒煙を纏いながら『赤い』ものが出てきた。赤いものはエビのハサミのような形をしていて、大地に深々と突き刺さる。

 直後、まるで布団から軽やかに跳び起きるような軽快さで、亀裂より巨体が現れる。

 巨体は、途方もない大きさだった。

 光彦はデボラの大きさを知っている。何しろすぐ近くまでやってきていて、追われるような逃走劇を繰り広げた事もあるのだ。デボラというのは本当に山のように大きくて、こんな馬鹿デカい怪物には誰も勝てないと思わせるような存在だったのを今でも覚えている。

 だけど、コイツは桁が違う。

 コイツは明らかに・・・・デボラより・・・・・デカい・・・。デボラの体長は三百五十メートルもあるのに、そのデボラが子供に思えるサイズだ。一千メートルはあるのではないか。

 いくらなんでもデカ過ぎる。こんな生物が居る筈ない。しかし幾ら光彦が否定しても、立つ事も儘ならないほどの揺れが、そいつの存在を物語る。

 いいや、この際デカい事は良いとしよう。

 本当の、そして一番の問題はそいつの姿。

 赤い甲殻を持ち、エビのようなハサミを持ち、イセエビのように平べったい体型ながら、背中に背ビレのような突起を持つ……そんな生物は一種しかいない。そしてその生物は、ただ一匹だけの孤独な種族でない事は『今日』明らかとなった。ならばどうしてその存在を否定など出来るのか。

 そう、出来やしないのだ。どんなに否定したくても、これほどハッキリと姿を見せ付けられたなら、認めるしかない。

【ギギギィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!】

 三匹目の、そしてこれまでの二匹とは比べものにならないほど巨大なデボラが、この地上に現れたのだと――――

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