加藤光彦の受難

「……なんでこんな事になってるんだか」

 そろそろお昼を迎えそうな時間帯。とある駅構内のベンチに腰掛けながら、光彦はぽつりと独りごちた。

 そんな彼の頬を、ぎゅーっと引っ張る者が居る。

 光彦がその腕の中に抱いている、小さな赤ん坊であった。普段の彼は割と短気で、子供相手にも簡単にキレるタイプなのだが……一度怒ったらわんわん泣かれ、派手に注目を集める事となった。あのような失態は二度としまいと、ぐっと堪える。

 ――――そもそも何故彼は赤子を抱いているのか。

 この赤子は、彼がかれこれ二週間ほど前に気紛れで助けた、あの赤ん坊だ。本来この赤ん坊は、避難所とかに適当に押し付けるつもりだったのだが……押し付けようとした避難所がデボラに踏み付けられて壊滅。警察や消防、市役所もデボラにやられて壊滅。押し付ける場所が何処にもなかった。

 そうなると赤子の世話は、当然拾ってしまった自分が見るしかない。やっぱりそこらに捨てるというのは、目覚めが悪いから拾ったという経緯からして出来ないのだから。自腹で粉ミルクを買い、おむつを買い、テレビだかなんだかで見た記憶を真似して世話をする日々。上手に出来たとは到底思えないが、拾った赤子はとても大人しく、滅多に泣かなかったので世話は楽だった。流石にオムツから中身が溢れた時は、とっとと泣けよ、とも思ったが。

 とはいえこんな子育ての真似事なんて、何時までも出来る訳がない。というよりする気がない。ついに先日、光彦はネットで見付けた児童養護施設を訪れた。赤子を預けるために。

 そしてその児童養護施設で、虐待されているとしか思えないボロボロな姿の子供を見付けてしまったのが運の尽き。

 気付けば光彦は、今でも赤子を抱えていたのだった。

「おーう、加藤。ビール買ってきたぞー」

 今日に至るまでの経緯を思い出して項垂れる光彦の頬に、冷たい感触が走る。跳ねるように顔を上げると、そこには両手に缶ビールを持ち、しわくちゃな笑みを浮かべる老女の顔があった。

 美咲ヨウコ。光彦とはそこそこの付き合いがあるホームレスの女性だ。生業はスリと空き巣と空き缶拾い。この手の女性は大概顰め面ばかり浮かべるものだが、ヨウコは何時もにこにこ笑っていて、人当たりの良い人物だ……窃盗をしている時点で善人ではないが。

「おう、ありがとな。しかしなんで奢ってくれるんだ?」

「そりゃ、お前さんが娘なんて連れてくるからさ。孫の顔を見たら、年寄りはみーんな優しくなる」

「だぁーかぁーら! 俺の娘じゃなくて、拾ったんだってば! つかテメェは俺の親じゃねぇだろ!」

「かかかっ! 年寄りのジョークをマジになって怒るんじゃないよ。それに、その娘はお前さんが育てる事になるんだから同じようなもんさ」

 楽しげに笑いながら、ヨウコは光彦の隣に座り、開けた缶ビールに口を付ける。昼からビールを飲むとは如何にも駄目人間。同じく駄目人間である光彦も、特段迷いなく缶ビールを口にした。凍えるような寒さの中でも、よく冷えたビールが身体を通り抜ける感触は悪いものではなかった。

「……どういう事だよ。俺が育てる事になるって」

 興奮を冷たいビールで醒ました光彦は、ヨウコに問う。ヨウコはちびちびと缶ビールを口にしながら、おもむろに懐から新聞を取り出して光彦に渡してきた。

 光彦は新聞を受け取る。何処を見ろとは言われていない。しかし一面記事にある、大きな見出しに自然と目が向いた。

 曰く『日米共同作戦 法案に問題』との事。

「日本とアメリカが、協力してデボラを倒すそうだ」

「へぇ、そうかい。ま、アメリカもこてんぱんにやられたらしいし、おかしな話じゃないな」

「ああ、アメリカが協力するのはおかしな事じゃない。おかしいのは日本さ」

「……?」

「鈍い奴だね。日本の政治家が、そんな簡単に自衛隊を動かせると思うかい? 協力するって決断するのに、何ヶ月も掛かるに決まってる」

 ヨウコの意見に、そうかも知れない、と光彦は思う。政治なんて殆ど興味もない ― 選挙なんて面倒臭くて行った事すらない ― が、自衛隊云々で政治家は何時も揉めていた気がする。自分ですらそう思うのだから、きっと大いに揉めていたに違いない。決断に何ヶ月も掛かるというヨウコの意見は、大袈裟なものではないのだろう。

 しかしながら今回は巨大怪獣を一緒に倒そうという話だ。何処かの国を攻めようとか、支援に向かおうとか、そういう話ではない。クマ退治とか野良犬退治の、ちょっと大袈裟バージョンみたいなものだろう。さくっと決まったとしても不思議じゃないし、何より悪い事とは思えなかった。

「良いじゃねぇか。あんな化け物、さっさと退治してくれるならそれに越した事はないだろ?」

「馬鹿だねぇ。こういうのには裏があるって事だよ」

「裏? 怪獣退治にどんな裏があるんだか」

「簡単な話だよ。日本の中だけじゃ、こんなに早く話は進まない。日本の決断を促せる相手、つまり」

 ヨウコは言葉を句切り、目を見開く。

「アメリカの陰謀があるんだよ!」

 そしてなんの躊躇いもなく、そう言いきった。

 ――――そういやこのババァ、大昔の戦争で家と家族を吹っ飛ばされて大のアメリカ嫌いになってるんだっけ。光彦はヨウコの価値観を思い出した。

「そうさ、連中は何時だって卑劣だ。今回もきっと日本を矢面に立たせて、国をメチャクチャにするための作戦で」

「あー、よしよし。こんな陰謀ババァの言葉なんか聞くんじゃねーぞー」

「って、人の話を聞かんかい!」

 わざとらしく赤子をあやし、ヨウコの言葉を無視する光彦。ヨウコはカンカンだが、別に老女が怒ったところで怖くもないので気にしない。ヨウコはふて腐れるようにそっぽを向き、あからさまに不機嫌な鼻息を吐いた。

「ふん。まぁ、良いさ。あたしの予想じゃ、アメリカはデボラ退治にかこつけて経済的に鬱陶しい日本をメチャクチャにする気だ。そうなったら孤児院も何もやる余裕なんかない。だからお前さんはその子を育てる事になるのさ」

「へーへー、そうですかっと。あと孤児院じゃなくて児童養護施設な」

「何が違うんだい?」

「さぁな。俺も知らん」

 赤子を高い高いしながら、光彦は適当に答える。赤子はにへぇとした笑みを浮かべた。可愛い、とまでは思わないが、隣の陰謀論者の話を聞くよりはこの笑みを見ている方がマシに思えた。

「ま、アドバイスは素直に受け取るとするか。デボラ退治が始まる前に、どっかに押し付けねぇとな」

「おや勿体ない。その子、結構なべっぴんさんになりそうなのに。血が繋がってないなら、手を出しても犯罪じゃないよ」

「何言ってんだよこの色ボケが。生憎ガキには興味ねぇ」

 話を流しながら立ち上がり、光彦はスマホを取り出す。近くに児童養護施設がないか検索し、探してみようと考えていた。

 丁度、そんな時だった。

 光彦のスマホからけたたましい音が鳴り響いたのは。

 否、光彦のものだけではない。あちらこちら、通行人達のスマホからも音が鳴っている。誰もが自分のスマホを見て、驚愕の顔色を浮かべた。

 光彦は知っている。ちょっと前に、これと似たような事が起きた事を。そしてもしも『アレ』が今起きたとすれば、あまりにも不吉だ。

 見るべきか、見ないべきか。

「何があったんだい。ちょっと見せな」

「――――あっ、テメ……」

 考えていたところ、ヨウコにスマホを盗られてしまった。流石はスリと言うべきか、鮮やかな手付きで奪い取る。一瞬何をされたか分からず、光彦は慌ててヨウコが持つ自分のスマホを取り返そうとした。

 けれども、彼は固まってしまう。自らのスマホに映る文字が、自分の予想通りのものだったがために。
























 デボラが太平洋側に出現。


 十五時間以内に四国に上陸するものと予想。

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