第5話 超常者

 くすくす。


 声を押し殺し笑う声。

 耳元で笑われているような、含み笑い。


 得体の知れない黒い水に浸かり、へたりこんでいた男は、驚き顔を上げ微かな希望を込めて叫んだ。


「だ、誰だ!? 誰かいるのか?!」

 虚勢を張り、大声で。

「誰か居るなら返事をしてくれ!」

 自分以外にもが居るなら、この奇妙な場所から出られるかもしれない。


「おぉい! 誰か!」

 返事は無く、耳元の笑い声は続く。


 くすくすくす。

「や、止めろ! 笑うな! あー! あーー!」

 大声を出して笑い声を消そうとするが、笑い声は頭の奥にまで響いてくる。


「や、やめてくれ、やめて、あぁ……」

 嘲笑のような笑い声に耐えきれず、頭を抱えてうずくまりうめき声を上げる。


「あら? そう?」

 不意に笑い声が止まり、楽しげな声が聞こえた。


 抱えてこんでいた頭をもたげると、この奇妙な場所に来る前に出会った少女が立っている。

 にこやかな少女らしい笑みを浮かべ。

 そう、立っているのだ、いや、浮いている? 座りこんで腰まで浸かるほどの水量に、足先すら触れていない。


「あなたにね、会わせたい子がいるの」

 微笑みながら少女がその小さな手を開き、男に向かって突き出す仕草を見せると、男の前の水が泡立ち伸び上がるように膨れがる。

 少しづつ少しづつ、大きく大きく。


「ひっ」

 男の口から引きつるような悲鳴が漏れ、細い目を見開き、ガクガクと身体を震わせた。


「ぐぅるるるるるるる……」

 地の底から聞こえるような唸り声が響く。


 伸び上がり膨れ上がった黒い水は、牛ほどもある大きな犬の姿を形どった。

 大犬は牙をむき出して、片目だけを爛々と光らせ、男の眼前まで大きな顔を近づけ唸り声を上げている。

 大犬は体の半分、体を覆う毛が形作られて無いように見えた、つるりとしているわけではなく、むしろボコボコと歪んでいた。


 男は動けない、動こうとしても無理であろう。

 大犬の丸太の様な前足が男の胸に乗って力を込めている、頭が水没しないギリギリの力加減で。

 無駄ではあろうと心にかすめながら、男は手離さなかったナイフを闇雲に振り回すが、大犬の足先を男のナイフを持った手が通り抜け、ザバザバと水遊びをしているような音を立てる。


 少女が近づいて来る。

 黒髪が伸び、身長が伸び、服が霞み、姿が変わっていく。

 黒を基調とした袖や裾に艶やかな赤い花の柄が付いた、和服の着物を着た二十代くらいの女性の姿に。


 女は大犬の側まで寄ると、やさしく背中を撫で、男の方に黒曜石の様な黒く輝く目を向ける。

 長い黒髪がサラリと音を立てるように肩から流れ、桜貝のように艶やかな唇から声が響く。

「どうかしら? まぁ、覚えてらっしゃらないわよね」


 その声を聴き男は、声のする方に顔を向け、そして呆けた。

 場違いで異常で奇妙で、そして何より美しい女に気おされて。


 女は大犬の耳に顔を寄せると、何かを囁き、大犬の背を一撫でする。

「ぐるるっ」

 大犬は一声唸ると、その丸太の様な足を力を込めて引くと、足先の鎌の様な爪が、男の胸から腹にかけ服と皮と肉を裂いた。


「ぎゃぁぁああああああああああああああ!」

 男が大声で叫び、黒い水の中を丸まりながら転げまわる。


「あら? 大げさね、あなたがしてきた事じゃない」

 くすくすと笑いながら女が言う。


「な、何がだ! オレが何をしたってんだ! 害獣どもを駆除して回ってただけだろうが! こんな事される理由がねぇよ!」

 激痛と怒りが恐怖に勝ったのか、男は口から唾を飛ばし興奮して喋る。

「大体お前は何なんだ?! ここはどこだ?! オレは  」


「静かに」

 女が静かに透き通った声で言うと、男の動きが止まった。

 眼球をギョロギョロと動かし目を血走らせ、開いた口は閉じず、身体を小刻みに震わせて。


「そうね……、私は『魔女』なんて呼ばれているモノよ、あなたに用があったのは、この子の願いを叶えるため」



「見てごらんなさい、この子はを開けただけ、安心しなさい死にはしないわ」

 男は目だけを動かし、自分のざっくりと切られた胸と腹を見てみる。

 ダウンジャケットも、その下のスエットやシャツも、そして、その下の皮も肉も切り裂かれ、決して浅くはない傷。

 それなのに、素人でもわかるほど出血が異様なほど少ない、擦り傷ほどの血も出ていない。


 それに。

『この女が……『魔女』が言ったって何だ?』

 男がそう思った時、大犬の頭が男の腹に近づき。


 ずるり。


 大犬の頭が歪み、男の胸から腹にかけて空いた傷口に入り込んだ。

 黒い水で出来た大犬が、ずるずると体の中に潜り込んでいく。

 皮の下を、肉の中を、内臓をかき回し、男の体の中で蠢く。

 白目をむき気絶しそうになるが、気を失いそうになると、また激痛が襲って意識を繋いでいた。


「ほら、見てごらんなさい」

『魔女』の声がすると、今度は男の傷口から、何かが出てこようとしていた。

 声が出せず、動けず、気絶すら許されない男は、身体をブルブルと震わせ激痛に耐えるしかない。


 メリメリと肉を削く音を立て、男の傷口から出てきたのは、小さな子犬たちの頭。

 キュウキュウと鳴き声を上げている。

 そして、もう一匹。

「ガぁ! グルルルル!」

 牙を剥き出し猛り狂う、中型犬ほどの大きさの母犬の身体。

 半端に身体が出ているせいか、男の身体に牙を立てようと身をよじっているが、男の身体には届かないでいる。


 激痛と恐怖で目を血走らせ、自身で身体を動かせず小刻みに震え、血の気の引いた薄汚い紙のような顔色の男に、『魔女』は楽しげに声をかけた。


「それでは、ごきげんよう、までお元気で」


 掛けた言葉なのか、くすくすと楽し気に笑いながら『魔女』は幻が空気に溶けるように姿を消していった。


 ******


「男がナイフを持って暴れている」


 そう複数の通報が入ったのは、夕刻に差し迫り夕日が赤々と街を照らし出す頃だった。

 警察官数名が商店街の人通りの多い場所に駆けつけた時にも、その男は自分の身体をナイフで突き立て、叫び声を上げていた。

 まるで、自らの腹と、いや、腹あたりに居ると格闘しているようだった。


 目撃した人たちによると、皆一様に「不意に現れた」と証言している。

 そこにが、突然現れたのだと。


 男は取り押さえられ、病院に搬送されたが、医師たちも首を捻る事になった。

 胸から腹にかけての裂傷、ナイフによる刺し傷、その他に両腕に多数の獣と思われる咬傷。

 出血多量で死亡してもおかしくはない状態なのに、驚くほど出血は無く、内臓も正常に働いている異常な事態に。


 腕の咬傷は、医師が見るたびに増え、胸から腹にかけての、大きな裂傷に関しては、いくら縫合しても、傷口が開き対処できない状態になった。


 男は鎮静剤で意識を朦朧とさせながら、「助けてくれ」「殺してくれ」と、延々とつぶやきうめいていた。


 ******


 そんな男の姿を見ているモノがいる。


 高層マンションの屋上、そこに設置されている給水タンクの上に座り、滑稽なモノを見るように楽しげに。

 いかに高所に居ようと、男が居る病室どころか病院さえ、建物に視界を阻まれ見えようはずのない場所から。


 高所ゆえの強風ですら、長い黒絹のような髪を一筋も乱せず避けるように通り過ぎ、夕陽で染まった空も、白磁のような肌を茜色に染め上げることはできない。

 楽し気な笑みを浮かべ『魔女』はつぶやく。


「念願叶って、一家団欒いっかだんらんって言ったところかしら、でも……憎い相手の身体の中というのは……、ウフフ」

『魔女』は笑いながらそうつぶやくと、ふわりと給水タンクの上から飛び降り、幻の様に消えていった。

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人ナラザルモノ 大福がちゃ丸。 @gatyamaru

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