第3話 夢想、迷走③

 疲れた。

 体力がない方ではないと思っていたが、ある方でもなかったようだ。毎日およそ家と学校の往復程度しか歩いていない耀宗あきのりにとっては、西地区へ来ることはもはやちょっとした旅だった。しかも、大通りを避けてきたので凄まじい遠回り。方向感覚だけは正確で助かった。

 白樹はくじゅの光は峠を越え、まもなく夕刻を迎えようとしていた。家出するつもりまではなかったのだが、今日はもう、家に帰ることをあきらめなければならないようだ。来る時と同じ時間をかけて帰ったとしても途中で夜になってしまう。足の疲労感は頂点に達していたので、倍以上の時間を見込まなければならない。

 白樹の恩恵がなくなる夜は危険も多い。迫りくる宵闇を前に、たった十四歳の少年はあまりにも無防備だった。

 公園にはまだちらほらと人の姿があったが、それも次第に見えなくなる。耀宗は自分の無計画さを後悔する一方、孤独感にも苛まれてきた。

 ──そういえば、なぜここに来たのだろう。

 耀宗は、昼間薫かおるが言っていた事件のことを思い返す。西地区の公園で鬼導部隊員が殺された、という話。言い方は悪いが、殺人事件の一つや二つは珍しくもない。事件現場の周辺や被害者の身辺から物証や証言を得てそれを元に犯人を特定すれば、粗方終わりだ。捜査は継続しているようなので、いずれ事件は解決するだろう。

 だが妙に気になる。何が引っかかっているのかはわからない。例えばあの腹の立つ教頭の歯になにか挟まっているのが見えても、気にはなるが別にどうでもいいという感じ。

 気になることといえば、千住が呟いていた言葉もそうだ。けがれ……鬼……。

 大人が子供を叱る時にそれはよく言われる。悪いことをするとがくるぞ、と。

 鬼は人間の内面の汚い部分けがが大好物で、それを求めて人間を襲う。だが耀宗は鬼を実際に見たこともないし、具体的にどのように危害を加えるのかもわからない。実体があるのかないのか、それとも、単なる大人の脅し文句なのか。

 都は、鬼の専門集団である鬼導部隊に固く守られていた。人間に害をなす鬼を都市部に近づけないようにし、必要とあらば討伐する。かの匣舟も、さすがに鬼退治に関しては、鬼導部隊のやり方に一任していた。

 が単なる脅し文句で済んでいるのは、彼らの活躍あってのことだろう。平和が守られたゆりかごの中で、鬼や穢れなどという言葉を聞くのは穏やかではない。

 では一体、何が起こっているというのか。

 確かに気になる。が、危険を冒してまで遠出する理由にはならない。

 耀宗は、公園に来ればピンとくるものがあるのではないかとも思っていたが、やはりピンともパンとも来なかった。もう、どうでもいい人の歯に挟まってしまった繊維の気持ちの方がピンときそうだった。

 鬼導部隊にでも保護してもらおう……安易にそのようなことを考えながら歩いていると、この時間にも関わらず人が集まっている場所を見つけた。

 耀宗は咄嗟に近くの木の陰に身を隠す。皆一様に白い詰襟の制服を身につけていることに気が付いたのだ。あの服は確か、警備局の捜査官たちだ。


 ───カシャン……


 突如、乾いた音が耳に飛び込んできた。それほど大きな音ではない。その辺に散らばる破片の一部を、捜査官の誰かが踏んだか蹴り飛ばしたかしたのだろう。

 微かな音だったが、耀宗の鼓膜が快哉を叫ぶかのように振動した。

 鼓膜に音が響いたのは、それっきりだった。目を凝らして捜査官たちの足元を見ると、やはり白い陶器の破片がいくつか落ちている。ほとんど粉のようになって地面と一体化していたものの、現場保存とはどこへやら、捜査官たちは破片を踏みならしながら歩き回っていた。

 パリパリ、シャリシャリと足元を賑わせながら一通りウロウロした後、捜査官たちは方々へ去っていく。残されたのは耀宗ただ一人。木の陰から出て白くなった地面の方へ進んだ。

 周囲を気にしながら、自分の足で破片の一つを踏んでみる。パキっと小気味いい音がして、破片は倍になった。でもそれだけ。他の破片を踏んでみても結果は同じだった。

 さっきの音は何だったのだろう。気のせい、と思うこともできるが、それにしては鼓膜があまりにも強く、あの音を記憶していた。

 不意に、微かな地面の動揺を足の裏で感じる。耳は全力で記憶を再現しようとしていたので気付くのが遅れたが、数人分の足音がこちらに向かってきていた。

 身を隠す間もなく、薄明かりの中で足音の主たちは容易く耀宗の姿を捉える。

「耀宗様。お迎えにあがりました」

 その声に振り向くと、白を基調とした礼服に身を包んだ二人の男性が、無機質な表情で立っていた。どちらにも見覚えはある。父、禮一郎の側近だ。一人は切れ長の瞳で、いかにも仕事ができそうな細身の男性、もう一人は事務仕事ができるのかと疑うほど筋肉質の巨漢だった。

 先ほどの捜査官たちと違うのは、上着の右肩から裾にかけて黒の太いラインが入っているところ。禮一郎が長官を務める〈公政庁こうせいちょう〉の役人の中でも、幹部クラスの官僚の制服だ。

 言葉こそ丁寧だが、見下ろすその目線は幾許か蔑みを含んでいた。

「……はい」

 抗ったところで何もできない。耀宗は奥歯をきつく噛み締めた。帰る手段がなくて困っていたのは事実なので、渋々大人たちに従うことにする。

 まさかおぶられるわけではないと思ったが、細身の男性がしゃがんで地面に片手をつくのを見て、耀宗はいくらか安心した。

 都の人々の主な移動手段は徒歩だが、長距離の移動などには「カリバネ」を利用する。

 様々な妖精がいる中で、人の手助けをしてくれる便利な妖精は貴重だ。妖精や人間をはじめとする弱い立場の生き物たちは、鬼の脅威から逃れるためにうまいこと共存していた。

「こちらへ」

 細身の男性はそう言うと、地面から青白い生き物を引き出した。その毛並みは、暗がりの中で発光しているとさえ思える。

 実際、目にするのは初めてだった。妖精が見える見えないは人によるらしいが、自分は見える方だったようだ。

 翼のように左右に流れる大きな耳が特徴で、身体はほぼイタチかキツネ。大きな二つの黒い目は非常に愛くるしい印象を覚える。しかしわずかな口の隙間から覗く歯はとても鋭く、ただの小妖精ではないことを物語っていた。

 男性に促されカリバネの前まで来ると、小妖精は耀宗を見定めるように、黒い目を上から下へ滑らせていく。しばしの後、跳ねるような軽い動きで耀宗の足の周りをくるくると回り、そして姿を消した。

 次の瞬間、耀宗は体が急激に軽くなったような感覚になった。支えを失い、後ろに転びそうになる。手足をみっともなくバタつかせると、すぐ後ろにいた巨漢の男性がまっすぐ立つ手助けをしてくれた。

 最初に教えてくれればいいのに。

 かといって自分から聞くのも嫌だったので、耀宗は意識を集中させて頭の中でイメージを組み立てる。実際に体が軽くなったわけではない。カリバネは人間の体を浮き上がらせるだけだ。

 仮に羽でも纏ったかのように、カリバネとの連携や体の動かし方に慣れてくれば、それこそ自由自在に飛んだり跳ねたりすることができるらしい。だが今は、初めて支え無しで立ち上がった赤子と同じだ。むやみに足を前に出そうとすれば、上半身が置いていかれて後ろに転がる。まずは前掲姿勢……体重移動から……。

 足が地面から浮いているので、わざわざ歩行しなくても前に進む。やり方さえわかれば後は簡単だった。でもまあ、調子に乗ってカリバネの機嫌を損ねると面倒なので、余計なことはせずに体重移動に気を遣う。



 人目につかない遠回りではなく、大通りを縦一列で滑るように移動していく。耀宗は前後を白服に挟まれていたので、自分が何かとてつもなく悪いことをした気持ちになった。まあ、実際そうなのだが。

 都一番の大通りは、都の内側の地区を囲うようにぐるっと一周していた。中でも南地区を通る道がとりわけ大きく、賑わっている。

 とはいえ今は、夜なので人通りは少ない。それには少し安堵するが、たまに貴族が乗る馬車や仮車とすれ違うときは目一杯下を向いた。仮車とは、もはや立って歩くことをあきらめた前時代的な貴族が複数のカリバネを憑かせた車だ。耀宗はそれに乗る貴族たちを軽蔑していたのだが、今はどちらかというとこちらの方がよっぽど軽蔑に値する。

 途中、白の詰襟の制服に緑色の腕章をつけた数人とすれ違った。警備局の巡回員たちだ。すれ違いざまに感情のない視線を向けて来たところを見ると、西地区へ向かう耀宗を見つけて通報したのは、彼らなのだろう。

 景色を楽しむ余裕などはかけらもなく。耀宗はあっという間に家の前に到着した。

「おかえり」

 出迎えた禮一郎の意外な言葉に一瞬ドキッとする。しかしすぐに、その言葉が自分に向けられたものではないと気付くことになる。足が地面に着く感覚と同時に、耀宗の足元に纏わりついていたカリバネが、スーッと禮一郎の方に行くのが見えた。あのカリバネは禮一郎のものだったのか。

 カリバネがしゅるるるっと禮一郎の体に巻きついていき、やがて姿が見えなくなる。禮一郎は耀宗を一瞥すると、何事もなかったかのように家の中へと消えて行った。

 玄関で靴を揃えていると、居間から血相を変えた芳哉かやが飛び出してきた。

 芳哉は何を言うでもなく、ただ耀宗を強い力で抱きしめる。わずかに漏れる嗚咽にも似た呼吸からは、こんな時間までどこへ行っていたの……とても心配したのよ……あなたに何かあったら……という、母の想いがあふれてきた。

「ただいま……」

 言うべき言葉を囁く。芳哉の腕が少し緩んだ。

 孤独感は解消され、心がみるみるうちに温かい液体で満たされていくようだった。しかし同時に、色の濃い罪悪感も染み出してくる。

 短慮軽率な行いだった。同じような過ちを、一日に二度も。しかも今回は学校の時とは違う。単に自分勝手に家出をして、これといった収穫を得るわけでもなく迷惑をかけただけ。耀宗は何よりもまず、母を悲しませてしまったことを後悔した。

 自分に対する悔恨の念は何にも混ざらない濃い液体となり、耀宗の心の一部となって留まり続けた。芳哉と一緒にいるときでも解消されず、むしろ胸が締め付けられるように苦しくなる。

 その日は夕食も喉を通らず、耀宗は芳哉に付き添われて眠りについた。


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