第06話 万年弱虫野郎

「おい!ベム!」

 

 見上げると、目の前にヨシヒトが仁王立ちしていた。


「おめえ、昨日も練習サボって何してたんだや?」


 俺は、視線を再び机上の数学の教科書に戻した。間もなく、1時間目の授業が始まろうとしていたときで、クラスのみんなは、昨日見たテレビの話しやら、やっていない宿題を友達のノートを見ながら大急ぎで書き写したりして騒がしかった。


「んあ?何してたんだって聞いてんだっや!」


「…」


「あれほど、サボらないで練習出て来いって言うたろがや!」


 俺は、確かに、ヨシヒトの言う通り、ずっと練習をサボっていた。いくら練習しようと、いくら努力しようと、俺の置かれたポジションは小学校以来、ずっと変わることは無いライトの、しかも、レギュラーから数えて4番手で、打ってもいないのに塁間を全力で走り、打ってもいないのにアウトを宣告され、仮にセーフになっても塁に残ることはなく待機場所に戻り、練習試合の日は、誰かの失策のために全員が居残りを命じられていつボールが来るかわからないノックを受け、おまけに、練習の最後に3kmランニングを命じられる、そんな生活に飽き飽きしていたのだ。

 このヨシヒトだって、こんな毒にも薬にもならない補欠の俺に、自分の思うようにならない苛立ちを八つ当たりしているに過ぎないのだ。苦しい練習を自分はやっているのに思うように結果が出ずに顧問に怒られているものだから、サボっている奴に苛立ち、そして、本当はそんな俺を羨ましく思えて許せないのだ。


「ベム!なんとか言えや!」


「…」


「けっ、この万年弱虫野郎が!」


 そう吐き捨てるように言うと、ヨシヒトは後方の自分の席に戻って行った。

 

「万年弱虫野郎…」


 俺は、自分でそうつぶやくと、言いようの無い怒りが足元からこみ上げてくるのがわかった。


(俺は、万年補欠であっても、弱虫なんかじゃない)


 俺は、教室の一番前の自席から立ち上がり、後方のヨシヒトの席まで走っていった。


「なんだや、ベム!」


 半ば驚いているヨシヒトの表情を確認する間もなく、俺は、ヨシヒトの机上の数学の教科書とノートを両手で持ち上げ、一気に床に叩き落した。


「なにしてんだっやっ!」


 ヨシヒトは、立ち上がって俺の両肩を掴むと、黒板の方まで押し込んできた。

 黒板が俺の背中に激しく当たったけど痛みは感じなかった。

 「キャー!」という女の子たちの悲鳴がこだました。

 ヨシヒトは、右手を拳に変えて俺の顔にめがけてきたが、俺は咄嗟に顔を左に避けた。ドスンという鈍い音がして、ヨシヒトが自分の拳を苦しみながら見つめたのがわかると、俺は一気にヨシヒトの顔めがけて右拳を打ち込んだ。思ってたよりも柔らかいぐしゃりとした感触があった。その後は、よく覚えていない。ヨシヒトが床に倒れこむまで左右の拳を顔面に何発も打ち付けて、最後は、床に寝転んで体を海老のように折り曲げて防御するヨシヒトの耳を足で踏みつけたところで、数学の男性教師に後から抱え込まれた。

 

 ヨシヒトは鼻血で白い顔を真っ赤に染めながら保健室に行き、俺は、用務員室に連れて行かされた。俺は、畳に正座して、煙草の焼き焦げ跡を見つめながら、今まで経験したことないような乱れた息を整えようとしたけれど、あとからあとから涙が溢れてきて嗚咽するしかなかった。



 どれだけ時間が経ったかわからないが、あとになって、数学の教師とヨシヒトと担任が用務員室に入ってきた。ヨシヒトの鼻には脱脂綿が突っ込まれていたが、真っ赤に染まっていた顔は元の白い顔に戻っていた。

 数学教師や担任からいろいろと聞かれたが、答えたのはヨシヒトばかりで、俺は黙っていた。ヨシヒトが答えたことを数学教師がひとつひとつ俺に聞き直し、俺はそれに頷いた。ヨシヒトが教師に答えている内容は概ね事実だった。俺は野球部の練習を連日サボり、それを注意したヨシヒトに怒った俺が暴力をふるってヨシヒトに鼻血を負わせた… 事実だけを言えばこうなる。小学校以来の俺の心の苦しみなんて心配されることも尋ねられることもなかった。

 二人の教師は、“ヨシヒトの心無い言動もあって、俺が暴力を振るった”なんていう喧嘩両成敗みたいなことに話を収めて、最後に、「同じクラスで野球部なんだからこれからは仲良くやれよ」と告げて俺とヨシヒトを教室に戻るように促した。



 2時間目が始まる前の休み時間だったクラス内は、いつものように騒々しかったけれど、担任の後ろからヨシヒトと俺が入室すると、静まり返った。お互いが席に着くと、すぐにヨシヒトの周りには男子が集まってきて「おい!だいじょうぶか?」とか「お前がこんなにやられると思わなかったよ」とか声を掛けられていた。

 しかし、俺の周りには誰も来ることなく、右や左や後ろからひそひそした聞き取れない声がたくさん聞こえてくるだけだった。


 俺は、数学の教科書とノートを机の中にしまって、校時表を見て2時間目が社会科であることを確認してから教材を机の中から出した。


 不思議なくらい落ち着いている… と自分で思いながら、俺が背中を押し付けられた黒板を見つめた。




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