3章『サンシュウの街の主人と従者』 プロローグ

 中庭に吹く風は穏やかだった。


 それが桶に注がれた水面を凪ぎ、チャプチャプという水音が心地よく響かせる。


 ふとその水面に褐色の色をした半楕円状の物体がスッと入り込んだ。


 水面上で鳥が羽ばたくように水を切ると、今度は鮮やかな紅糸のような髪に半身を入れ、まるで泳ぐように流れていく。


 風はあいも変わらず優しくてそれは僅かに草の香りを含んでいた。


 季節はもうすっかりと春。 


街の外に広がる草原からの若草の息吹がその中に溶けて街中を巡っている。


 ここヨシュウの街の中心に存在する領主の館。


 その中央に拵えられた庭には季節にふさわしい平和的な光景が広がっていた。


 その場所の中心には椅子があり、その背もたれに少女が背中を預けて目を瞑っている。


 髪は鮮やかな紅髪をしていて、その一本一本が熟練の職人が丹精を込めて作られた飾りのようにキラキラと輝いていた。


 そんな少女の後ろには未だ少年とも青年のどちらとも取れる顔立ちの若者が小さな丸椅子に座り、よく教育された理髪師のように彼女の髪を脇に置いた桶に浸して丹念に櫛ですいている。


 少女は満ち足りたような恍惚の顔をしていて、若者は仕事に情熱を燃やす職人のように指先に集中しながらも楽しそうに少女の髪を手入れしていた。


 その情景は一枚の絵画のようだった。


 その情景を崩さないように中庭の扉が開き、メガネをかけたメイドがゆっくりと入ってくる。


 メイドのアメリアだ。

 

 王都でも有名な使用人の教育を生業とする一族の出身で、いまはとある事情がきっかけで彼の家に仕えている。


 アメリアは背筋をピシリと伸ばしながらも足取りはゆったりとした仕草で二人の傍らに立つと、


「ムラン様、お手紙が届きました」


「う~ん?誰からだい?」


 うたた寝をしているように夢見心地な口調で問いかける主に促されその手に持った手紙の差出人を読み上げる。

 

「アルア=カルメラ様からです」


 その名前を聞いた瞬間、ムラン達の動きが止まる。


 そして一瞬の後に、その場に会った桶や椅子を片付け始めた。


 アメリアは戸惑いながらも、普段は見せることのないテキパキとした動きに『普段からこれくらい動いてくれればいいのに』と愚痴めいた感想を漏らしかける。 


 しかしそこは冷静で忠誠心厚いメイドなので口にはしない。

 

 ただ疑問を投げかけるだけだ。


「ど、どうなさったのですか?」


「ア。アメリア、今から俺達は旅に出る。なのでその方がきたらそう伝えてくれ。そして行き先は知らないと言っておいておくれ」


 まるで災害から逃げようと着の身着のまま逃走準備をはじめる主の言葉に戸惑いながらも言いにくそうに彼女は唇を動かす。


「はあ、ですが…その…」


「もう来てるのよね、実は」


 貴族らしい上品さと愛らしい笑顔を浮かべた主と同年代くらいの少女がアメリアの後ろに立っていた。


 とたん恐ろしいものをみたように表情をこわばらせた主、その顔の表面には水を垂らしたように大量の冷や汗が浮かび上がっていて、イヨンはおどかされた猫のように目をまんまると開いて固まっている。

 

「それで?どこに行くのかしら?私もついていってあげるわ」


「ね、姉さん…こ、これは違うんですよ…」


「えっ…姉さん?」

 

「わざわざ会いに来た私から逃げようとするなんてまったくど・う・し・てこんな風に育ったのかしらね~!」


 少女がスタスタと近づくと、何も言えないでいるムランの頬を強く抓りあげた。

 

「イッ、イタッ!痛いって! ご、ごめん…ごめんなさいって!ギャー!取れる~、肉が取れる~!」


 アメリアの疑問の声もかき消されるほどに大きい声が宮城に響き渡る。


「ウ、ウア~ン…ダ、ダメ~!」


 半べそかきながらイヨンが少女に取り付いて止めさせようとする。


少女は意地悪そうに笑いながら手を離そうとしなかったが、


「少しスッキリしたわ…反省しなさいよね!まったく」


 唐突に手を離した。

 

「は、はい~…ごめんなさい」


 赤くなった頬を従者の少女に擦られながら涙目で座り込む。 


 そんな彼を腕組みしながら眉を吊り上げて少女が説教しているという状況。


 それに驚いて固まっていたアメリアが慌てて主の少年のところに駆け寄り、頬に触れて問いかける。


「お怪我はありませんかムラン様?」


「は、ははっ…大丈夫、大丈夫」


 主の無事を確認して主や少女よりもやや年長なメイドは非難めいた視線で少女を睨むのだが、彼女はそれを真っ直ぐに受け止めながらニコニコとしている。


「一体貴女様は誰なんですか!」


「アルア=カルメラ、我が主にしてサンシュウの主の娘だ」


 少女の後ろから長身で浅黒い肌をした男がヌっと出てきて彼女のことを説明してくれた。


「貴方はこの方の…」


 優雅に会釈をし、ゆっくりと少女の横に立った男は、


「バルクア=サンシュウ…まあこのお転婆娘の従者兼ボディガードだよ」

 

 自己紹介をし、その後皮肉そうに笑いながら彼女の肩に手を置いた。


「そしてついでに言うとそいつの従姉弟よ」


 驚いたアメリアが主に振り替えると、彼女の主人はバツが悪そうにコクリとうなづいた。


「理解してくれたかしら?」


「は、はい…」


「さてと…自己紹介も済んだことだし、続きをしましょうか…ね~!」


「ギャアアアア!ほ、本当に痛い!ブチブチ言ってる~!」


 手馴れた様子で再度アルアがムランの頬を力いっぱい両手で引っ張る。


「だ、だから止めなさ…いや止めてください! 貴方達も見てないで止めてくださいよ」


 制止するアメリアの動きを器用に回避しながらアルアは文字通りムランとその頬を引っ張りまわしている。


 イヨンは未だムランにすがり付いているが、そのまま同じようにクルクルとまるで鍵につくアクセサリーのように振り回されていた。


 メイドに叱られた同僚の槍の少年は困ったように目線を逸らし、その隣の大柄な男は不適に笑いながら彼女を無視する。


 その間も彼女が敬愛する主の表情筋は伸び続けていく。 


「も、もういい加減にしなさい!」


 とうとうぶち切れたアメリアの意外に響く大声が宮城の隅から隅まで轟きわたった。

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