いざ戦場へ

小さなランプに照らされたテントの中はで壮年の男が苛立たしげにしていた。


 落ち着きなく広いテントの中をうろうろして、しまいには行儀悪く爪をキリキリと噛み始めている。 



 ランプに照らし出された神経質そうな顔をした男の名はアルベルト=ブラモール。


 討伐軍の司令官である。


 薄暗い部屋の中で爪を噛む音を出しながらアルベルトが憎らしげに呟く。


「まだか!まだなのか!」


 その言葉を待っていたかのようにテントの外からコトリと音がする。


「やっと来たのか!遅かったではないか!」


 イライラを爆発させるようにテントの外に向かって文句を言い立てる。


「……申し訳ございません。アルベルト様」


 まるで風のような無機質な声がする。


「それで、わかったのか?例の物は…」


 まるでおあづけを食らった犬のようなそぶりでアルベルトが外にいる何者かに聞く。


 その何者かは焦らす様にたっぷり間を開けてから答えた。


「………例の物の在処はわかりました」


「そうか!それでどこにあるのだ?」


「いえ…場所はわかったのですが、少々問題が…」


「なんだ?どんな問題なのだ?」


「はい、実は……」


 何者かが話し終わると、アルベルトが安堵した表情を見せる。


「なんだ、そんなことか。そんなことなど造作もないことだ」


 その答えに気持ち嬉しそうにかつ無機質な声で何者かは『ありがとうございます』と返した。


「それでは私は下準備に取り掛かりますので、これで…」


「うむ、アッサームよ頼んだぞ…」


 最初の時とは打って変わった態度でアルベルトが声をかける。


 しかしその時にはアッサームはいなくなっていたようで、ただざわざわと風が草を撫ぜていく音が聞こえているだけだった。




 翌未明、大きな鐘の音でムランたちは目を覚ました。 カンカンと大きく響くその音は敵襲来るの知らせだ。


 ムランがテントの外に出る。


 スアピもイヨンもその後に続く。


 朝焼けのモヤの中でボンヤリと光るモノが見えた。


 火だ! 敵は火を放っている!


 ムランは前線へと駆け出した。


 最低限の身支度は寝るときにしており、手には腕に巻きつけるあの矢を発射する武器を着けていた。


 スアピもイヨンもそれぞれの獲物を持って彼の後をついてきている。


 前線に着くと、いまだ敵襲は続いていて、火矢がそれこそ雨のように降り注いでいる。


 先ほどの灯はこれか…。 


 火矢はオレンジ色の火の粉を飛び散らしながら尚も止むことなく降り注いでいる。


 ムランは自分より高い柵の影に隠れながら隙間から敵を確認する。


 敵は朝もやの中に隠れていてよく見えない。


それに気づいたムランは見張り台に昇り始める。 


 火矢が身体を掠めて飛んでくるが、見張り台の影に隠れるように昇り続け、やっと一番上に到着するとすでにスアピが居て、敵を確認していた。


 さすがの火矢もここまでには届かないようで、それを確認するとムランが思いっきり身体を乗り出して敵を確認する。


 朝もやの中では数は確認し難いが、それでも決して多くはないことは人の影でわかる。


 せいぜい数十人くらいだ。 


 しかし人数は少ないが、火矢の数はそんな人数とは思えないほど発射されている。


「しかし、それにしても早いな……これが何年も戦をしている国境軍か…」


 感心したようにムランが感想を出す。


「へっ…、でもよ?あれくらいの数ならこっちが本気出せばどうってことないだろ」


 答えるスアピを無視してムランはすぐに見張り台のはしごを下り始める。


 味方に敵は少数であることを報告するためだ。


 下りていくムランをスアピが不機嫌な顔で見下ろして、また視線を敵軍に戻す。


「ちっ、あれくらいでオタオタしやがって…」


 その時スアピは反対側の見張り台から何者かが飛び降りたのを見た。 


 それを確認すると、彼も黙って見張り台から飛んだ。


 朝もやの中では誰も気づかなかっただろう。


 敵も味方も。


 尚も火矢は陣内に降り注いでいるが、陣内には燃える物はすでにない。


 すでに燃えそうなものは陣の奥へと運ばれていて、火矢は地面に突き刺さって陣内を明るく照らしているだけになっていた。


 ムランが見張り台から下りるとすでに火矢の降り注ぐ範囲内には何もなく、ただテントの燃える焦げ臭い臭いが立ち込めているだけだった。


「おい!そこで何をしている!火矢が降り注ぐのが止んだらすぐに出陣するぞ!」


 ガルムが鎧を着込んだ武装姿でやってくる。


 彼のすぐ後ろではすでに彼の部下達が出陣の準備を終えて待機している。


「オルド様は?」


「知るか!お前らはもういい、大人しくそこで待機していろ…我らだけで出る」


 それを言い終わると同時に火矢が止んだ。


 一拍置いてガルムが叫ぶ。


「柵を開けろ!突撃する」


 ガルムの部下が駆けていき止め具を外して柵を開いていく、朝もやはいつのまにか上がっていた朝日に照らされて霧散していた。


 突撃を開始しようとガルム以下全員が姿勢を低くしたところで、不意に動きを止めた。


 見覚えのある二人がそこに居たからだ。


「遅かったな」


 ニヤリと笑って片手を上げる。


 その隣に居るイヨンは抜き身の大剣を手にしてすました顔をして立っている。


「て、敵はどうした?」


 誰かの問いかけにスアピが退屈そうに槍を肩に担ぎながら答える。


「もうとっくに倒しちまったよ」


 あわててガルムが部下を確認に生かせるとはたして数人の敵兵が倒れていた。


「お前らがやったのか?」


 ガルムがゆっくり近づいてスアピたちに確認する。


「ああ、まあな……、遅いもんだから俺達で片付けちまったよ」


 ガルムはそのままきびすを返して陣内に戻っていく、戻るときにすれ違ったムランにボソッと『いい従者を持っているな』と言い残して……。


 それを嫌味だと思ったムランは曖昧な返事をするだけだった。


 前方を見ると、スアピやイヨンがガルムの部下達に囲まれてなにやら話をしている。


 イヨンは困った顔をしているがスアピが笑顔だということを考えるとそんな嫌な話をしているわけではないようだ。 


 ああまた将軍の印象が悪くなるな。


 突撃を開始しようとする将軍を差し置いて敵を倒した二人を他の将軍達が良い印象を持つはずがない。


 そしてそれは直接将軍の相手をするムランにも当てはまるのだ。 


 今日の会合が思いやられるな……。


 そっと胃の辺りを押さえながら笑顔で何やら身振り手振りで兵士達と談笑するスアピを見ていた。






 

「よくもこの場に来られたものだな」


 一人の将軍がムランをじろりと見ながら静かに言葉を叩きつける。


「まったくだ、ガルム将軍を差し置いて勝手に自分の部下を差し向けるとは、運良く敵が撤退したからよいものを」 


 実際は敵は退却したのだ。 


 意地でも功績を認めたくないという心底を見せて将軍たちは自分とスアピたちの批判を初めている。


 そんなことをするために開いた会合ではないだろうに。


 ムランは自分たちへの批判を聞き流しながら、スアピの話を思い出していた。


 最初にイヨンが飛び出して、スアピがその後に続いた。  

  

 二人はいくら朝もやで自分たちの姿が視認しづらいとはいえ、火矢に射られるかもしれない中を駆け抜けたのだ。


 だがスアピは必ず敵を殲滅できると思ったという。


 ムランもその報告を聞いて、確かにと頷いた。 


イヨンの勘はああいう鉄火場にいるときは鋭い。


 幾度もの山賊退治やちょっと前の傭兵崩れの時にもイヨンは勘だけで敵の作戦に気づいたり、位置を把握した。 


 その勘の鋭さは何年も一緒にいるスアピにはすでに確信になっていて、だからイヨンが見張り台から飛び降り敵部隊に向かっていったときもすぐに後に続いたのだ。 


 もっとも確信が無くてもきっと一緒にいっただろう。


 そしてムランもおそらくは…。


「話を聞いておるのか!」


 いきなり怒鳴りつけられて、ムランは真っ直ぐその将軍を見つめて『はっ』と短く返事をした。


 ちらりとガルムを見ると俯いたまま黙りこんでいる。


「…各々方、いつまでもそんな話をしていても仕方がないのではないかな?」


 意外な方向から意外な言葉が出てきた。


 それはそこにいる全員が思ったようで怪訝な顔でその言葉を発したものを見ている。


 アルベルトだ。


 この討伐軍の司令官であり、およそ貴族の悪いところを全て持っているかのような男がそれを発したのだ。


 ムランもオルドもガルムもそして他の将軍たちも黙り込んでいる。


 それを気にせずにアルベルトが話を続ける。


「確かにガルム将軍を差し置いて勝手に出陣したのは問題だが、とにかく敵を退却せしめたのだ。今はこれからのことを話し合うべきかと思うのだが…どうかね?」


 気味悪いほどの笑みを浮かべて提案するアルベルトに将軍たちは何か言おうとしたが、諦めて黙り込んだ。


 司令官である彼がもういいと言ったのならそれ以上何か言う道理はないからだ。

 

 だが将軍たちはまだ怒りと蔑みを含んだ目でムランを見続けている。


 全員が何も言わないのを確認してからアルベルトは『オッホン』と一つ咳払いをして現状の説明を始める。


「まず、この場に陣を立てて一週間近く経った。皆も十分休息がとれたであろう……そこで我が軍は反撃に転じようかと思う。あの愚かな者たちは奇襲がある程度成功したと見て有頂天になっているのだろうが、そうはいかん。いつまでも愚か者たちを放っておいては我が王国の恥になるのでな」


 そこまで言ったところでアルベルトは地図をテーブルの上に広げる。


 テーブルいっぱいに広がっている地図を見ようと皆が立つとムランも彼らの後ろから地図を覗き込む。


「まず、我らがいる場所はここだ」


 そういって地図の上に丸を書く。


「そして敵の砦がここ」


 今度はやや離れた山岳地帯の一角に四角をつける。


「進軍ルートはこのラインを考えている」


 現在地を示す丸マークから山岳地帯に向けて複数の線が引かれて四角に向かっている。


「まず最初に先行部隊がこの場所まで進軍し、補給をする為の中継地点を作る」


 そういってバツで印をつける。


「しかるのちに別のルートから上がってきた部隊と合流する」


「この線はなんなのですか?」


 ガルムが唯一、二つのルートと合わさらないルートを指で指す。


 線は丸から山岳の隙間を迂回して四角の後ろにでるよう線が引かれている。


「それは直接砦を攻めるルートですな、今から説明をするところだ」


 得意げな顔でさらに作戦の続きを話す。


「さきほど話したとおり先行部隊がまずこの辺りに中継地点を作り、他の部隊と合流した後一気に山岳を駆けあがって砦を攻める。そしてこのルートだが……」


 そこまで話したところでアルベルトはテーブルの上にあった水差しを落として割ってしまう。


「これは失礼した。誰かこれを早く片付けろ!」


 外から兵が入ってきて水差しを片付けて出て行くと先ほどの続きを話し始める。


「え~、このルートだが、いくら愚か者とはいえ先行部隊が中継地点を作るのをさすがに黙って見ているはずがない。当然出撃をしてくるだろう。そこでこのルートの部隊で砦を急襲して出撃を阻止するのが目的である……以上、質問は?」


 ガルムが手を上げて質問をする。


「坂の下に中継地点を作るのは問題ではないかな?戦術の基本として急な坂の下に部隊を置くのは避けるべきだと思うのだが……」


「もっともな話ではある。しかし中継地点を作れそうな場所はここにしかないのだ。その為に先行部隊には有能な将軍が必要不可欠と思われる。また兵もそれなりに精鋭でなければ無理であろうな」


 それを聞いて他の将軍達に安堵の顔が見える。


 何故だろう? ムランが不思議な顔をしているとオルドがそっと耳打ちをしてくる。


「彼らの兵はろくに戦いを体験したことがないのです。また彼らも前線の指揮をしたことがほとんどありません。ですから先ほどの言葉で前線部隊になることはないと確信したのでしょう」 


 ろくに戦もしたことが無い兵と将軍。


 まるで冗談みたいな話だ。


 ムランも国と国がぶつかり合う戦争などしたことないが、山賊や他国の国境軍との小競り合いくらいなら参加して指揮もとったこともある。


 それくらいの戦いも参加したことがないのだろうか?


 もしそうならば一体誰が先行部隊をやるんだろうか……? 


「……そこでこの先行部隊にはガルム将軍を推薦したいのだが、諸君、問題は無いだろうか?」


 全員が薄笑いをして拍手する。


 とにもかくにも自分が任されなければいいというのが見え見えの笑顔だった。


 ガルムは黙って立ち上がり全員に会釈して先行部隊の指揮を引き受ける。


「続いて、その先行部隊にはオルド将軍の副官ムラン殿にも参加してもらいたいのだが異存はないだろうか?」


 オルドの顔が一気に強張る。


 オルドが抗議をしようと立ち上がろうとした瞬間、


「異議なし!」


「私も異議なしだ!」


 全員が大きな声で異議なしと叫び、オルドの抗議の声はかき消されてしまう。


「それではムラン殿にも前線に参加してもらいましょう……よろしいですな?」


 このよろしいですなは二重の意味を持つ。


 つまり、ムランに先行部隊に参加せよという意味とオルドに全員が賛成しているので文句などはありませんな?という意味だ。


 いくらオルドが名門の子息だったとしても私事で命令を断る権利はない。 


 オルドが悔しそうに下を向くのをムランがそっと腕を握って宥めていた。


 後のことは滞りなく決まった。


 先行部隊はガルムとムランたち、オルドは後発の合流部隊と一緒に行くことになった。


 そして先行部隊を守る為に敵を砦に釘付けにする役はアルベルト隊が単独で引き受けた。


「中継地点の作成、守護はこの作戦の要、ならば必然的に戦力をそちらに割くのは当然ですからな」


 と言うアルベルトに幾人かの将軍が鼻白んだ目で見ていた。


「大方砦を遠巻きに包囲して砦攻撃一番乗りだと言い放つのだろう」


 会合を終えて出るときに話しているのを聞いた。


 それだけじゃない、地図を確認しながらムランは思った。 


 さきほど話していたこともあるだろうが、仮に敵が砦を出て先行部隊を襲えばそのまま砦を落としてもいい。


敵がこちら側に打って出てきたならそのまま先行部隊を突っ込ませればいい、元々戦力はこちらの方が上なのだからどちらに転んでも勝利は揺るがない。


 そこではっと気づいた。 何故もっと早く打って出なかったのだろうか?


 将兵を休ませるためというのはでまかせであろう。


 門兵が暇に任せて商人から金を巻き上げようとするくらいなのだから。


 食料や物資の備蓄問題もこの作戦なら大して時間もかからない。


 それこそムランたちが来る前にもこの作戦は出来たはずだ。 


 では何故今なのか?


「確かに不思議ですね…」


 会合を出て自分達の陣に戻る道すがら、オルドにその疑問を話してみる。


「そうですよ。司令官殿は食料を買い集めようと必死でした。まるである程度の時間がかかると思っていたように…」


「う~ん…」


 腕を組みながら考え込むオルドはふと立ち止まると辺りを気にしながら、そっとムランに向き直った。


「あれから気になって色々調べさせていたのですが…」


 あれとはおそらく少年兵から聞いた噂のことだろう。


 つまり司令官が敵の将軍とつながっているという疑惑だ。


「実は、司令官殿は何かを探しているようなのです。それが今まで出撃しなかった理由なのではないかと…」


「その何かとは?」


「…敵の将軍グラムが数回行った徴発と物資の横流しにより蓄えた莫大な金です」


「と…いうことは」


「その在処がわかったか、あるいは…」


 オルドは一瞬黙りこむと続けて言った。


「密約をしたか…ですね」


「しかしいくらなんでも貴族が…」


 嫌悪感を浮かべた顔でまだ信じられないようにいるムランにオルドがピシャリと言い放つ。


「貴族だからなんだというのですか?貴族であろうと金は必要です。いえ、貴族だからこそ金が必要なのです。大事なことはその金を何に使うか?その一点だけを見なければなりません。金を欲しているからといって軽蔑するのはあまりにも愚かではないでしょうか?」


 普段よりも厳しい口調で自分を責めるオルドにムランが何も返せないでいるとはっと我に返った様子でオルドが慌てて頭を下げる。


「申し訳ありません、言い過ぎました。しかし貴方には勘違いしてもらいたくないのです。金というのは正しいことにも使えるのだと、だから金を欲することを悪と思わないでください」


 そうして懇願するように頭を下げ続ける青年にただ『……わかりました』と曖昧な返事をするだけで精一杯だった………。







「よお~!遅かったな!」


 陣に戻ると赤い顔をした従者が迎えてくれた。


 彼の後方を見ると、若い兵士達が同じく赤い顔をして談笑している。


「酒盛りしてたな…」


 あきれた顔をすると屈託のない笑顔でこの従者は『固いこと言うなよ』と言って自分をテーブルに引っ張っていく。


 テーブルに着くとすでに何人かはほろ酔い気分のようで『お~副官殿』や『スアピの主殿』などと言いながらいつの間にか用意されていた自分の杯に酒を注いでいく。


「だからまずいって!これは…」


「大丈夫ですよ、ほら!あの方も参加していますよ」


 酒臭い息を吹きかけながら若い兵士が指差す方向にはオルドが居て、杯一杯に満たした酒を飲み干していた。


「オ、オルド様……」


「よろしいじゃありませんか、たまにはね…それにこれはカラマル草という植物で作った酒ですから悪酔いはしませんよ」


 そう言い放ちまたさらに杯に酒を入れて飲み干す。


「だからと言ってですね……こんなところをガルム将軍に見られたら」


「とっくに見ておるわ」


 ガルムが酒を飲み干しながらいつの間にか隣に居た。


「こ、これは……ガルム将軍」


 恐縮するムランを見ずに杯に酒を注ぎながらガルムは話し続ける。


「どうせ出発は明日の夕方からだ。それにこのカラマル酒は数時間で酔いがさめる。でなければ酒盛りなど堂々と出来るはずがないだろう」


 そのまま杯の酒を飲み干す。 


強いのかまだそんなに飲んでないのか顔は平素のままである。


「つまりだ……好きなだけ飲めってことだな!」


 スアピが首に手を回しながら抱きついてくる。


 すでに顔を赤くして楽しそうにヘラヘラ笑っている。


 完全に酔っ払いだ。


「それに敵襲を心配することも無いぞ?酒盛りに参加しているのは今日が非番な者だけだつまりこの十数人だけだ……」


 大きな身体を揺らしながらスアピと肩を組む副長が笑いながら答える。 


どうやら笑い上戸らしい。


「こ、これは……その節はどうも……」


 気まずそうにムランが挨拶すると、スアピが笑いながら副長の頭を叩いている。


「なんだぎこちねえな、キッツはもう気にしてねえってよ、なあ?」


「キ、キッツ?」


 どうやらキッツという名前だった副長は片手に樽を抱えながら、豪快に笑っている。


「まったくだ……あの時は油断したからな、次は戦場で俺様の本当の実力を見せてやる。スアピよ、どちらが多くの敵を倒すか勝負だ!がははは……」


「なあ?気にしてないだろ、一緒に飲んでみるとなかなか良い奴なんだぜ?はははは!」


 ……会話が噛み合っていない。


「はっ!そういえばイヨンはどうした?」


 さっきからチラリとも姿を見せていないことに気づきムランが聞くと、スアピと副長がゆっくりとある一点を指差す。


 そこにはポーっとした目で剣を上下に振っているイヨンがいた。


 同じ動作を全くのズレもなくひたすらやり続けている。


「ためしに少し飲ませてみたらずっとあんな感じでよ?酔っ払ってるんだろ…あれでも」


「そ、そうか…」


 なんとなく怖かったのでそっとしておくことにした。


 どうやら周りの兵士たちも同じ感想をいだいていたようでイヨンの周りには誰も居なかった。  


 そのままスアピはガルム隊の兵士たちのテーブルに副長と共に行き、乾杯をしている。


「あいつの豪快さには憧れるよ」


 溜息をつくように独り言を言うと、


「確かにあの豪快さと強さは貴重だな」


 隣にいたガルムが赤い顔で話しかけてくる。


 いつのまにか酒の入っている瓶を横に置いていて、すでに半分ほどなくなっている。


「大分、飲んだようですね……」


 信じられないという目をして自分を見るムランにガルムが何でもないかのような顔で、


「まだ半分くらいしか飲んでおらん、やっと酔いが回ってきたところだ」


 その答えに閉口しているムランを無視してガルムがまた瓶に杯を入れて酒を呷る。


「それにしてもただの従者とは思えん腕と膂力だな。どこで見つけたのだ?あの二人を…」


「見つけたといわれましてもたまたま縁があって従者になっただけですから」


「ふん…言いたくなさげだな?」


 何か含みがあるような言い方をするガルムにムランが笑顔ではぐらかす。


 別に言えないような理由ではない。


 あの二人が元奴隷だったとは…。


ただそれを言ってしまうことは憚れた。


 何故と言われたらきっと上手く答えられないだろう。


それを言ってしまうと何か大事な物……絆のようなものを自ら否定してしまうような気がするからだ。 


「まあ別にいい。そろそろ酒宴を終わりにするぞ、続きは戦が終わったあとだな…それと…」


 立ち上がりかけてガルムがムランに向き直る。


「はい…なんでしょうか?」


「明日もっていく物を全て半分にしておけ」


「半分とは…全てですか?」


「そうだ。全てだ。陣地用の杭も板も食料もな、武器類は持っていってもかまわんがな」


 何を考えているのか?


 司令官からの命令どおり中継地点を作ろうと思ったなら武器類はともかく杭も板も食料もいくらあっても足りないというのに。


 ムランが戸惑っているとガルムはじっとムランを見つめて自重するように笑う。


「お前はまだ若い、敵は一つだけとは限らんのだ。特に今の時代はな」


 寂しそうな顔で言い放つとそのままテーブルから離れていった。


 一体どういう意味なんだ?


 敵は一人ではないとは?


 去っていくガルムの背中を見つめながら何かいいしれもない不安感に身体が包まれて、ブルッと身震いする。


 不安を鎮めようとスアピやイヨンを探す。


イヨンは酔いつぶれて自分の近くにあった大きな石に背中を預けてクークーと寝息を立てていて、スアピは副長や兵士たちとまだドンちゃん騒ぎを続けていた。


 明日何か起きるのだろうか?


 消えない不安を押し隠しながらイヨンを背負いスアピたちの方へと向かった…………。








 山の中腹に立てられたこの砦は本来物資備蓄としての用途で立てられた物だった。


 なので、反乱軍(彼等から見れば冤罪なのだが)の大将グラムが全軍をこの砦に進軍させた時は少なからず彼等の中に疑問の声が上がった。


山脈に囲まれ敵の進軍を限定できるこの砦こそが勝利への唯一の方法なのだ』


 グラムが全軍を集めてそう演説するとその疑問は緩和され一応の決着を見せた。


 しかし当のグラムは当然だが一部の兵士達もうすうす気づいていて、ただそれを決して口に出さないようにしていた。


 進軍を限定できると言うことは、自身の逃げ道も無いということだ。


「…これで良かったのか?」


 自身の部屋で、誰かに問いかける。


 スッと部屋の薄暗がりから相変わらずの黒いフードを被り、出てきたのはアッサームだった。


「貴様の命令どおり軍をこの砦に移し、アレも用意した。本当にこれで逃がしてくれるのだろうな?」


 威嚇するように睨み付けるグラムの視線を無表情で受け流す。


 アッサームと呼ばれているこの従者はことあるごとに自分のところへとやってきて、兵士の配置から、部下の出撃を、最後には逃げ場のない山中の砦へと命令されて内心彼のこころは穏やかなものではなかった。


「……問題はありませぬ、我が主は必ずやグラム様を遠方へと逃がしてくださるでしょう」


 その喋り方にもイラっとしてしまう。 


 最初の頃から比べるとずいぶんなれなれしくなってきている気がする。


 自分の被害妄想かもしれないが、国軍が来てからのこの使者の態度というか雰囲気が変わった気がするのだ。 


「当たり前だ。これで俺を騙していたというのならお前と主を必ず見つけ出し、寸刻みにしてくれるわ」


 そう言って脅すように自身の獲物である豪槍をアッサームの眼前に突きつける。


「それはありえません。私が信頼できないのならこの場で私を殺せばよろしい」


 並みの兵士なら震え上がるその威勢に揺らがずそう言い放つアッサームに怒りが湧き上がる。


 そんなことは絶対に出来ないことを確信してこいつはそんなことを言うのだ。


 怒りをぐっと飲み込んで、豪槍をしまう。


「わかっている。お前の言うとおりにしよう…」


 そうしてそばにある椅子に座り込む。


「…それでは私は周囲の斥候に行ってきますので、また後ほど」


 そのまま窓から出て行く。


 グラムはしばらく椅子に座り黙り込んでいたが、やがて先ほどアッサームが出て行った窓際に立ち、眼前を見下ろす。


 窓の下に見えるのは入り口につけられている松明の灯と急がしそうに戦の準備をする兵士達の姿だけ。


その向こうはただただ気落ちするような暗闇だけだった。


 このままここから逃げられたらどんなに楽だろうか……。


 しかしそんなことをすれば文無しで出る上に間違いなく国軍に捕まるだろう。


 そして処刑される。


 ブルッと体が震える。


 山の冷えた空気だけではない。


あの薄気味悪い使者の言葉に乗せられて自分が死地に来てしまったのを実感したからだ。


 もはやあの使者の言うことを聞かなければ俺に助かる道は無い。


まだ最初に居た基地に居れば逃げられたかもしれんのに……。


 夜の山は冷える。 そっと窓の扉を閉め、彼は部屋から出ていき、部下達の集まる大広間へと向かった。 


 もはや一人では震えを止めることができないことを確信したからだ。




 翌日、準備を終えてムランたちが出発したのは太陽がギラギラと照らす昼ごろだった。


「出発は夕方からじゃなかったのかよ?作戦はいったいどうなってんだ」


 すぐに酔いが覚めるとはいえカラマル酒を朝まで飲んでいたスアピは調子悪そうに毒づいている。


「仕方ないだろう?作戦時間を前倒しすることになったんだから…」


 早朝にいきなり司令官であるアルベルトの元へと呼ばれたムランはにすぐに出発するように命令を受けた。


 ガルムもその場にいたが、特に何も言わず一言『承りました』と言ってあっさりと出て行ってしまった。 


 てっきり文句を言って命令を撤回させてくれると思ったのに…。


 ムランの期待はあっさりと裏切られ、多少余裕のあった準備の時間はその瞬間から秒を争う過酷なものへと変わった。


 まず、倉庫の物資の持ち出し量を決めて、その後担当の兵士と共に協力して取り出し、大勢で荷車にのせていく。


 それらの一つ一つに縄をきつく巻いて落ちないようにし、馬に引かせる。


 その準備が終わったなら今度は兵士達の隊列表を隊ごとに配る。


進軍の混乱を防ぐ準備をし、各々の将軍達に挨拶、最後の総チェックをし、やっとガルム隊と合流する。


 それら全てが終了したのは昼前であった。


「よく準備できたな」


 ガルムが隊列を確認しながら、静かに言った。


「…将軍の兵士達を何人かお借りして何とか間に合わせることができました」


 そう言って謝意を表せるため頭を下げるムランをガルムは馬上から満足そうに見つめた。


 そして後方の兵士達に視線を向け、よく届く大声で進軍を命じる。


「…それにしてもお前は才があるようだな」


 陣から出発して数時間たったころ、無口だったガルムが急にそんなことを言い始めた。


「はっ?一体何を…」


「今回の準備のことだ。いや、その前のときからだな。貴族に取り入るに長けただけの若造だと思っていたのだがな…」


 ムランは何も言わず、じっとガルムを見つめている。 


その視線にガルムが苦笑する。


「そう怪しい目で見るな、本心だ。お前には戦場に最も必要な才に恵まれているのだ」


「は、はあ…それは何でしょうか?恥ずかしながら私は所詮田舎の小領主の息子です。ただの小僧です。そんな私に何の才が?」


「…およそ戦場においては何が大事だと思う?」


 突然の問いかけに面食らいながらもムランが答える。


「それは…戦の強さというか用兵の巧みさでは?」


「確かにそれは大事な事ではある…。だが、もっと基本的で重要なことがあるのだ。それはな……必要なときに必要な物資をすぐに用意し、それらを十分に管理、あるいは活用できる者がいることだ」


「それは要するに兵站のことですか?」


「そうだ。戦場の後方にあって作戦に必要な物資、連絡、補給を統括するもの、それこそ戦場においてはもっとも大事なことよ」


「…私にはよくわかりませんが、果たしてそれがそんなに大切なのでしょうか?」


「ならば言おう。あの鼻っ柱の高い司令官が無理難題を言いつけたとき果たしてお前以外にこれほど早く物資を整え出撃することができる者がいたか?兵は拙速を尊ぶ。毎秒変化する戦場に置いて速さは強さの一つだ」


 ムランは黙り込んでしまう。


 一応ほめられているのは確かなようだが、何か居心地の悪い感覚が胸にくる。


 嬉しいとも悲しいともつかない。


どちらかでもあるようで、あるいはそのどちらでもない実に不思議な感覚だった。


「まあ気にするな…戦の前の戯言だ。だがお前がその事を忘れずに二年も精進していったのなら、そうだな…私の部下として迎えいれてもいいぞ?」


 部下。 つまりガルム将軍貴下の内政官あるいは輸送官というところか。


 名誉な事ではある。 おそらく父親のトールが知ったら泣いて喜ぶだろう。


「ガルム様、私は…」


 ムランが口を開く、そして言葉を発する。


 それを知っているのは二人だけ。


ムランの答えにガルムは何も言わずに空を見上げていた…。




 アルベルトは有頂天であった。 なぜならもう少しで欲しいものが手に入るからである。


 手柄。 そして敵のリーダーであるグラムが蓄えた莫大な財宝、それを手中にできるのだ。


 アルベルトがそれを知ったのはこの地に陣を構える二日前であった。


 まだ街で義勇兵や物資を集めているときにそれはやってきた。


 周囲を兵士で守られている宿舎の部屋に音もなく、柱の影から出てきたそれを見たとき肝を潰して叫びを上げそうになってしまった。


 しかし寸前のところで悲鳴を上げるのは避けられた。 


それが自分の喉を押さえたからだ。


「決して貴方様に危害は加えませぬ。よろしいですか?落ち着いてくださいますか?」


 他人の喉を押さえておいて勝手なことをと思ったが、今ここで下手に反抗すれば殺されると思い、コクコクと頷く。


 それは黒いローブを目深に被りながら、そっと手をはなし、ここに来た理由を話し始めた。


『自分を逃がしてくれれば金を差し出す』その使者の言葉を聞いて胸が高鳴った。


 当然だ。


苦労してこの地位まで上がってきたが、さらに上に向かうためにはさらに金が必要である。 


それもちょっとやそっとじゃない莫大な金を……。


 アルベルトはそこで大きく頷き条件を飲んだ。


 つまり敵の首領、グラムを逃がすと。


そして莫大な金を手に入れる…そう決心したのだった…。


「うれしそうですね?」


 出撃の準備完了を将軍用のテントの司令官室の中で待っているアルベルトの前へアッサームが出てきた。


「当たり前だ、反乱を沈めた功の上に大金が入るのだからな…お前の主はちゃんと払うのだろうな?」


「勿論です。我が主グラム様は自身を安全なところに逃がしてくれるなら財産の半分を渡すと言っておりました」


 改めてそれをきいてニンマリする。 


 国境司令官が蓄えた財産なら半分でもかなりのものになる……功を上げて金も手に入る正に一石二鳥だな……いや三鳥、あるいは四鳥にするのも悪くない。


 金を受け取ったらそのままグラムとこいつを殺して全部金を独り占めしてやろうか、どうせ反逆者だ。


 アッサームの方はただ黙ってアルベルトの足元を見ている。


「アルベルト様、出撃の準備が整いました」


 兵士が入ってくると、アッサームは消え去っていた。 


「そうか……わかった」


 無愛想にそう答えると兵士はそのまま出て行った。


 兵士が最初の単語を出した時にはアッサームはその黒いローブをはためかし、窓から出て行っていたのだ。 


 あの身のこなし、殺すには惜しいな、あいつに金を渡してグラムを殺すのいい。 手間も省けるしな。


 しつこく出てくる笑みを噛みしめながらアルベルトは部屋をでていった。




 ……それにしてもどうすればいいのだろう。


 ムランが道端にある石に座り込みながら物資の乗せた荷車を見て溜息をつく。


 ガルム様の命令どおり、物資を半分にしたけど、いざ目的地に着いたらどう言い訳すればいいんだ?


 実は物資を予定していたよりも少なく持ってきているのをムランは誰にも言っていない。


 ガルムの真意が理解できない以上、うかつに他人に話さない方がいいと判断したからだ。


 だからこのことを知っているのは当事者であるムランとガルム、スアピそして実際に物資の運び込みに従事していた一部の兵士だけである。


 もちろん兵士達には重要な任務だからと口止めをしっかりしており、その兵士達も上の命令がよく変わることには慣れているので、特に疑問も持たなかったようだが…。


「…目的地に着いたらばれるんだぞ?あのオッサン何を考えてやがるんだ?」


 荷車に乗せている木箱をコンコンと小突きながらスアピが背中をあずけてこちらを向く。


 今は陣地から出撃して数時間ほどの岩場でムランたちは休憩をしている。


 二人はそこから少し外れたところで話をしていた。


 進軍は順調である。 敵の待ち伏せもなければ襲撃も無い。


しかしムランたちの顔は暗い。


「あのオッサンの罠なんじゃねえか?いざ目的地について物資が足りないのを俺達のせいにして処刑するとかな……」


 なぜか憮然とした顔でスアピが話す。 


「物資が足りないんじゃ襲撃受けたら自分の命も危ないのになんでそんな罠を仕掛けるんだ?」


「知るかよ、だいたいそんな大事なことなんで俺に言わねんだよ…」


 どうやら憮然としていたのは自分に一言も相談が無かったからのようだ。


「まあ…色々と慎重に判断しなければいけないと思っててさ、そんな顔するなよ」


 力ない笑顔をするムランに罪悪感が出てきたようでスアピは居心地悪そうにそっぽを向く。


「とにかく、あのオッサンはなに考えてるかわからねえんだから用心しろよ」


 それだけ言うと、そのまま兵達の中に戻っていってしまった。


 気をつけろって言われてもな…。


 途方にくれて溜息をつく。


 いざ目的地について箱を開けてみれば大変な騒ぎになるのはわかっている。


ガルムがあいつ等が勝手にやったことと言ってしまえば証拠が無い以上言い逃れはできないというのもスアピに言われなくても解っている。


 でも何故かそれが正しいと思えてしまったのだ。


 とにかく何か大変なこと…例えば『司令官が戦死』したとかのようなことがなければ、本来必要な物がなくて武器だけがたんまりとあることがわかってしまう。


「でも、そんなことありえないよな」


 また溜息を着くと、休憩終了の笛の音が聞こえる。 


遠くからイヨンが自分を呼びにやってきている。


「なるようにしかならないか……」


 諦めきったような台詞とは裏腹に、頭の中で確信めいた思いが出てくる。


 必ず何かが起きると……。


 ふと空を見上げると雲が太陽の周りをとりかこんでいた。


 湿っぽい風も吹いてくる。


 山の天気は変わりやすい。


 天気が崩れるのを察知したムランは走り出し、近くで出発の準備をしている兵士に雨天の準備をするよう命令する。 


 その時には雲は太陽を飲み込まんとするかのように包み始めていた。




 雨は予想通りに降った。 いや予想以上だった。 


 出陣したときが嘘のように天気は荒れ、強い風が行く末を阻み、大量の雨が山道をドロドロにし、兵士達の体力を奪っていく。


「まったく、これでは予定よりも遅れてしまうではないか…」


 隊列を止め、雨足が弱まるのを自分専用のテントに入りながらアルベルトがボヤいている。


 しかし言葉の割には顔は別に険しくはない。 むしろにこやかでさえある。


 この大雨は予想外だったが、どうせこの戦の勝利は確実なのだから、慌てることもない。


 それより勝利の後のほうが大事だな、まずグラムから受け取った金を見つからずにどのように運び込むか、それに始末の方法も……。


 すでにアルベルトはグラムを逃がす気は失せて、どうやって殺すかを考えていた。


 雨足はさらに強くなり、テントを打つ雨の音が一層でかくなる。


 雨の音に消されて、テントの外を走っている兵士達の足音も声も何も聞こえない。


 アルベルトは、考えるのを一旦止め、テントの中に配置されている私物入れから酒のボトルを取り出す。


 王国屈指の名酒であるそれと一緒に最高級品の杯を取り出し注ぐ。


 杯の中には鮮やかに赤い液体が満たされていく。


 勝利の美酒だ、もっとも勝利をしっているのは我輩だけだがな……。


 アルベルトは一人ほくそ笑むと杯を口に持っていく。


 芳醇な香りが鼻腔を刺激する……が、ガシャーン! うっかり杯を落としてしまい割ってしまった。


 テントを建てる際に地面がドロドロになっていたため部下に作らせた木板を一列に重ね合わせた床に、赤い染みが広がっていく。


 いかんいかん……、どうやら勝利の前に些か興奮しているようだ。


 雨の音で聞こえないのか、誰もテントの中に入ってくる様子はない。


 アルベルトは軽く舌打ちをしてテントの外に控えている兵士を呼んで、杯の破片を片付けさせようと歩き出した。


 瞬間、足元にビチャッとした音がする。


 下を見ると先ほど落とした酒の鮮やかに赤いしみが数歩歩き出したここにまで広がってきている。


 広がってきている? 何故だ? 酒がこぼれているのか? 


確認しようと、しゃがみこもうとすると赤い酒がいつの間にか自分を中心に床に広がってきている。


 どういうことだ? ふと違和感を感じ、自身の身体を見ると腹から鉄が生えている。


 その鉄はまるで剣のような形をしていて、アルベルトの背中から腹部にかけて生えている。


 瞬間激痛が走る。


 な……! これ……は……!


 急激な痛みによって自分が刺されていることを理解したアルベルトが助けを呼ぼうと口をあけた瞬間何者かがその口を抑える。


 アルベルトがそれが誰かを見る前に顔を下げられ、首元に刃が走る。


 鮮明な赤い液体が歓喜するように吹きだし、彼の身体を……顔を……床を染め上げていく。 


 しばらくの間、それが収まるのを待ってから何者かはアルベルトの掴んでいた口元を離す。


 そのままアルベルトの顔が床にドチャッという音を立てて倒れこむ。


 そして床に額を押し付けるように倒れているアルベルトを見ながら、彼の首を切り裂いた波打ち状のナイフを紙で拭き、それが終わると黒いローブを翻していまだ強く振り続ける雨の中へとその者は消えていった。


 テントの外では慌しく兵士達が走りまわっているが、誰一人として気づくものはいない。


 ただ地面に伝ってテントの下から僅かに流れ出る赤い液体だけがその惨劇を知らせようとしているかのようだった。

 

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