第4話 海外文学三冊

最近日本の小説はほとんど読めなくて、海外文学を読んでいます。去年読んだ本三冊について。


マルグリット・ユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』白水社、2008年。


1903年生まれ、1987年死去の、ベルギー生まれのフランス語作家です。なんでもフランス貴族の末裔を父にする、そのお父さんの個人教授によって古典の教養を身につけた方らしい。


とっつきにくい本です。古い小説な上、主人公というか語り手のハドリアヌスの一人称によって書かれているため、改行もごくたまにしかないし、台詞の括弧書きもありません。非常に難しい構文なのが日本語でも伝わってくるような、一文の長い文章で、歴史小説なために人名や固有名詞、ローマ帝国時代の常識、世界情勢などがぽんぽん出てきて、まったくスルスルとは読めません。


いちおうわたしはローマ史の概説を聞きかじっていますし、この作家の短編(『東方奇譚』に収録)をいくつか読んでいて、チューニングしやすいほうかなあと思うのですが、それでも読み終わるのに二年かかりました。


なぜ途中で放り投げなかったのか。それは、この作家と、翻訳家多田智満子の文体の圧倒的な力です。疲れて帰ってきて、夜寝る前、ベッドでちいさな灯りで読む。文章をたどり、頭にしみ込ませる。その行為のとてつもない快楽。見たこともないような美しい事象が起こり、それが聞いたことのないような美しいことばの連なりで表現される。文体の力、語りの力に圧倒されるしかない小説です。


本というのは、自分の好きなときにひらいて、好きなだけ、本の語ることばに耳を傾け、味わいを享受でき、そのなかで自分に生まれたイメージに浸ることができる。受動的なようでいて、「選ぶ」「頁をめくる」「感じ取る」「想像する」という能動的な行為なのだと、わたしは思っています。ユルスナールの本は、頁をひらくことでその世界に招かれ、そのなかを思うままに逍遙することのできる本だと思います。


トーベ・ヤンソン『フェアプレイ』筑摩書房、1997年。


ムーミンでおなじみのトーベ・ヤンソンが、大人向けに書いたショートショートの連作です。こっちは122頁だけ、本も薄表紙で軽やかです。一編が10頁に満たない、七十代の女性ふたりの関わりを描いたスケッチ集。


ある読書会に向けて読んだ本です。この本、実は百合だそうで、トーベ自身も、長い間同性のパートナーと一緒に暮らしていたそうです。


軽やかな、それでいてかみ合わない台詞の応酬、淡々とした描写。ユルスナールとはまったく違う文体です。そして、書かれていないことがとても多い。登場人物の関係性も、ふらっと表れた人や物の描写も、どういう意味があるのか、さらっとしか書かれていません。女性二人で、つかず離れず、近いところで暮らしている、ということがどういう意味なのか、時代的制約もあってかはっきりとは書かれていません。でも、注意深く読んで行けば、この二人が互いをどう思っているのか、他者から二人はどう思われているのか、わかってきます。そこでじんわりと胸にひろがる情感。


北米の都市にすこしだけ滞在した話である「大都市フェニックスで」という一編がとても好きです。旅先のホテルで出会った客室係と二人が親しくなり、一緒にでかけ、そして別れる。一瞬交わされる親愛。旅の醍醐味のエッセンスが鮮やかに切り取られています。


また、二人の女性の生活に割って入ってこようとする女性が出てきたり、強烈なおじいさんが出てきたり……アーティストであるふたりが、北欧の女性として生きていくパワーというか、いろんなものを乗り越えてここまできたんだな、という感慨も抱けて、かつ他者との関わりであぶり出される、隠された感情も見事です。


E.アニー・プルー『アコーディオンの罪』2000年、集英社。


土の臭いのする「裏面」アメリカ史100年。シチリア系移民の男の作ったアコーディオンが、あるときは所有者に深い陶酔を、あるときは絶望をもたらし、民族的マイノリティの手につぎつぎに渡っていく様を描いた長編(二段組みで500頁位)。

アメリカン・ドリームの影で、目に見えず聞こえないままうめき、絶叫したひとびとの苦悶と喜びを、ひりつくように鮮烈に、油をかけたように光らせて描いた連作集です。


なんども「知らなかった」と思わされます。彼らの生き様に共感は不要、ただ見つめる、知ることだけが彼らを目に見える存在にする。口をつくように溢れる語り、そのなんと魅力的なこと! 上流階級の華麗な生活も、優雅さも、そこにはありません。ただ、日々の生きる糧のために生き、もがき苦しみ、一瞬の快楽や美のためにすべてをなげうち、過酷な運命に踏み潰されるひとびと――……自身もフランス系なのでしょうか、プルーという作家は少数者のなかにわけいり、耳を澄ませ、聴き取ったことばを自分のことばにして語り出しています。


無残に死ぬひとびとがたくさん出てきます。(カッコでこのように包んで、ストーリーの本筋のすきまで、サブキャラクターが死ぬ顛末が書かれたりします)しかし悲劇的というには語り口がドライです。ただ起こっていることを外側から見つめ、けれど内面からも語らせ、それを聴き取る。冷徹なマイクとカメラ。けれど、作家の筆は侮蔑的ではありません。少数者がさらに弱者を差別し、踏みつけにするさまも描き、人間という全体を俯瞰してみせ、さらにもういちど人々の渦のなかに読者を叩き込みます。溺れないようにするには、読者も自分で立って周囲を見渡す必要があります。ここでも能動的な読書が必要なのです。


以上三冊、ご紹介してみました。いずれも、日本で漫然と生きていると出会いようがないような、見たことのなかった世界が現れる作品でした。

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2018年に読んだ本のこと 鹿紙 路 @michishikagami

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