4-4 セデイトを終えて

「終わった……」

 ぎりぎりの勝利で、難しいターゲットのセデイトを完了したリンディ。ここは一発、掛け声とともにガッツポーズでも決め……るような身体の状態ではなく、まさにやっと終わったというのが実感だ……。代わりに、ふぅ、と大きく息をつく。

 ほっとすると同時に、今しがた対象者ニーナから吸引した魔力の源、魔法元素が全身にみなぎるのを感じ、気力が一気に戻ってきた……のもつかの間、同時に吸い取った大量の瘴気の影響で、すぐに気分が悪くなる。このアップダウンの激しさは、心身に負担でしかない。


 調子が悪そうにしているその姿を目にして、ナユカは茫然自失の魔導士ニーナから離れ、セデイターのもとへ。ふつうなら「大丈夫ですか?」などと声をかけるところだが、近づいてその怪我を目の当たりにすれば……声も出ない。大丈夫ではないのは、一目瞭然。いたぶられた傷口は相当にひどい状態で、血糊が破れた服にべっとりと付着している……。

 にもかかわらず、当の本人は、具合はよくなさそうではあるものの、なぜか痛がっている様子がない。痛み止めの効力よりも、吸った魔法元素と主に瘴気の影響により、一時的に痛みの感覚が麻痺している──などということは非魔法世界の住人には知る由もない。どうしていいかわからず、無言で目の前に立ちすくむ長身の娘を、リンディが下から見上げる。

「剣士はどこ?」

 辺りをぐるっと見回すナユカの瞳に、あの剣士らしき姿は映らない。逃げたようだ。

「もういません」

 その口調は、どことなくぶっきらぼう。感情を抑えている。

「そう。それはよかった」微笑むセデイター。犯罪者……かどうかは明白にはわからないものの、その確保は自分の仕事ではない。それよりも、今、この状態で魔導士奪還に戻ってでも来られたら困る。しょうもない奴で助かった……。とりあえず、胸を撫で下ろす。あと気になるのは……。「彼女の様子を見てきてくれない?」

 指差した先には、倒れたままのフィリス。その安否はもちろん心配だが、それだけではない。気がかりなのは、回復魔法が苦手なリンディでは、ヒーラーが行動不能だと自分自身の治療もままならないこと。痛覚を鈍らせる瘴気の影響もあって、一時的に痛みを感じにくくなっているとはいえ、怪我は重傷。現状、右腕と左脚は力が入らず、稼動不能。したがって、この場からの移動が困難な状態である。

「……はい」

 怪我人の患部を見ないようにしているのか、うつむき加減のナユカは、リンディと目をあわさずにぼそっと返事して、ヒーラーの傍らへ。これまで気丈だった迷子も、さすがに糸が切れ気味だ。

 その様子を見るにつけ、彼女の精神状態が気になるが……まずは、セデイターとして、事後処理をさっさ済ませなければならない。自らの負傷は、己のまるで効かない回復魔法や手持ちの魔法薬で簡単に治療できるレベルではないことから後回しにし、そばに座りこんで放心しているニーナのほうへ、立つことなく、にじり寄ってゆく。痛覚が鈍麻しているのがせめてもの救いで、その程度なら動くことはできる。傷口にはよくなくても……。

 なけなしの根性で魔導士の傍らへたどり着くと、ローブの内ポケットにある行動制限用の各種リングを負傷していないほうの手で取り出し、一つずつ魔導士にはめてゆく……。セデイト時にはいつも執り行う、手馴れた手順であっても、今はこれがかなりやりにくい。右の指先は動かせても右腕はまともに動かせないため、結局は左手だけではめなければならない。……なかなかに、イラつく作業である。しかし、ここで苛立ちが高じると、さきほど吸った瘴気の影響をまともに受けてしまう……。さすがに先日の出来事から瘴気の恐ろしさを再認識しているセデイターは、焦れながらも気を静めつつ、なんとか作業を無事終えた。


 終わったところへ、自分の治療を済ませ、安全を確認したフィリスが近寄ってくる。今回のように、現場においてヒーラーが一人だけなら、自らの回復を優先するのが鉄則だ。回復技能者本人が行動不能になったり、詠唱の集中力を阻害するような怪我を負って、その場の負傷者を治療する者がいなくなってしまう事態は避けなければならない。ゆえに、戦闘時に自身の安全確保を最優先にするのも、回復役が当然とるべき行動とされる。その点では、先ほどの戦闘時におけるフィリスの行動は、それとは違うものであったといえるだろう。それが間違っていたという意味ではなく。

「お待たせしました。すぐ治療します」

 ヒーラーはリンディの傍らに屈む。

「無事だったんだ。よかった」

 手当てしてもらえる……。負傷者は胸を撫で下ろす。暗黒魔導士でもあるセデイターは、瘴気の吸引のみならず、回復の一助としてマジックドレイン魔法を使えるが、この魔法では、魔法元素の吸引がもたらす高揚感による鎮痛効果はあっても、身体的な治療効果はまったく得られない。

 そもそも、回復効果のあるHPドレインのような魔法は、この魔法世界にはない。この世界での魔法は、原則、魔法科学の範囲内で機能するものであり、物理的存在の不確かな「生気」を「吸引」するなどという得体の知れないことは、間違っても人類にはできないだろう。ともあれ、現状、したばかりの物理接触セデイトにより、怪我人の魔法元素は瘴気も加えて足りていることから、鎮痛効果はすでに十分発揮されており、あとはヒーラーによる治療を待つのみだ。

 なお、この世界での回復魔法は、生体による自然治癒能力を一時的に著しく強化することで、傷を加速的に治療する魔法である。決して、由来のわからない力、たとえば神や精霊の類の力などを借りているのではなく、あくまでも被術者本人の治癒能力を使っている。そのため、この度のリンディのような重傷の場合は、治療に使ったエネルギーや生体リソースを後で補給しなければならない――つまり、よく食べろということ。補給が不十分だと、リソースを傷へと分け与えたことで弱くなった身体の別の部位に、問題が生じる恐れがある。負傷の多い戦闘職にとっては、食べるのも能力のうち。その点、この食道楽は、十分な能力値を確保しているといえるだろう。


「目を閉じていてください」

 念のため、医者は患者に要請した。治療を受ける側も、すでに自分で負傷箇所を見ているだろうが、そこを改めて注視することでショックを受けることがないようにするためだ。そんな問題は生じそうにない人でも、どういう反応をするか、明確な予測はできない……特に初見の相手であれば。

 当のリンディ自身も、ここまで傷口をあまり見ないようにしていた。こちらは、それによって、行動する気力が萎えるのを防ぐため。特に戦闘時は、自分の怪我に動揺してしまうと魔法イメージの形成に影響し、魔法を撃つこともできなくなる。……もっとも、今回はそれ以前の問題として、詠唱そのものがまるでできなかったのだが。ただ、こうしてセデイトとその後始末がほぼ終わった今、負傷が治癒していく過程を見たいような気もする──それによってこのヒーラーの実力もわかるし……。とはいえ、ここでごねてもいいことはなさそうなので、とりあえず指示どおりにしておく。

 宵闇の中、フィリスは、まず、灯りの魔法「ライティング」によって、手の上にできた光の玉を宙に浮かせる。手元が明るくなったところで、両手をリンディの怪我にかざしてから、清浄化と鎮痛の効果がある「浄化」魔法を唱えると、土や燃え破れた衣服の残りなどの汚れが消え去っていき、ある意味「きれいになった」傷口そのものが灯りの下に顕わになった。焼け爛れた皮膚を再三蹴られた左脚、そして、氷の槍が突き刺さったまま、ぐりぐりとえぐられた右肩――ともに惨状というべきもの。肉が……筋が……そして、さらに……。医師でなければ、じっくり見ようとは思わない状態だ――やはり、当人は見なくてよかったといえよう。

 それらを運悪く目撃してしまったのは、ヒーラーの後方に中腰でたたずむナユカ。治療に先んじてちらっと目に入った時、暗い中でもそのひどさが垣間見え、これまで見まいとしてきたのに、それらを照らし出した光によって、とうとうはっきりと目の当たりにしてしまった。

「……うっ」

 背けた瞳が潤む。口を押さえて押しとどめているのは……声だろう。別の実体あるものではなく。

「大丈夫ですよ。これなら」

 治療者は、傷口を見ながらも落ち着いた声でナユカをなだめてから、早速、まずは左脚の治療を始める。もちろん、手術などではなく、治癒魔法で。

 詠唱は短く終わり、魔法が発動。すると、自分の怪我もさることながらフィリスの能力にも興味があるリンディは、治療開始して間もなく、ばっちりと目を開ける。見れば、視線の先にある左脚の怪我は思っていた以上にひどい。

「うわ」

「!」

 ヒーラーは、驚きの声を発した顔をちらっと見る……。見るなといっても、患者が患部を見てしまうのはよくあること。さっと顔色を見る限り、さほどショックを受けた様子はなさそうだ……。それなら、傷の治療を優先。そのまま継続する。

 声を上げてしまったセデイターにしてみれば、こういった怪我にはそれなりに慣れてはいても、自分ひとりで魔法薬で治さなければならない状況なら、途方にくれるレベルだ。でも、今はこのヒーラーがいる──少々時間がかかるのは覚悟しても、治してはもらえるだろう……と思ったら、驚かされた。あのひどい状態からみるみるうちに傷口がふさがってゆく。なんという治癒能力だろう。ということは、目を開いたときの怪我の状態は、すでに魔法がかかっていたため、最初よりもかなりましになっていたのかもしれない。

 リンディは、目をそらしてうつむいているナユカに目をやる。その様子を見るに……どうも、見せてはいけないものをお見せしてしまったらしい。それでも、とりあえず、卒倒したり、号泣したり、出してはいけないものを出してしまったりはしていない……それなら……。

「ちょっと、ユーカ。見てみなよ……ほら」

 自身の患部を指差す怪我人の元気な声につい反応し、もう見たくないと思っていたナユカの視線は、反射的にまさにその左脚の怪我の場所へ向かってしまう。その先には、あのひどすぎる負傷が……ほぼなくなっていた。

「え?」

 異世界人は目を丸くする。たった今まで、ぐちゃぐちゃだったのに。これが魔法の力……。

「すごいでしょ」

 別に自分が治しているわけじゃないけど……。微笑む患者。

「まだ脚を動かさないでくださいね。終わっていませんから」ヒーラーは、右肩のほうへ回る。左脚の治療がかなり進んだので、まだひどい状態の右肩の治療に取り掛かる。「向こうを向いていてもらえますか?」

 治療の邪魔にならないように、リンディがフィリスに指示された方向、すなわち傷口のある肩の反対側に首を向けると、ヒーラーが再度、浄化魔法、次に治癒魔法を唱え、その都度、両手を肩の傷にかざす。

 今度は、ナユカは眉をひそめながらもその怪我――脚とはまた違った様相で、やはり見えてはいけないものが見えているようなひどいものを、なんとか視界に収めている。治ると思うと好奇心が勝ってしまうのが、この娘の神経の太さだろうか。変な声を出してしまわないよう、口に手を当てながら見つめていると、傷口が魔法によって――その力が見えないのだからそれ以上形容しようもないが、ともかく、その何かによって、どんどん修復していく。まさに医者いらず……あ、この人が医者なのか……。自分が常識的に考える医療とは、まったく違うもの……。異世界の迷子は、唖然とする。

「すごい……」

 他に言葉が見つからず、そうつぶやくのみ。

「そうでしょ。……見えないけど」

 首を回して見ようとすると治療の邪魔になってしまうので、リンディにはその様子を視界に納めることができない。それでもわかるのは、どうやら、このヒーラーは「本物」だということ。滅多にいないほどに。


 右肩の治療を完全に終わらせた後、左脚に再び治癒魔法をかけて、重傷部位の治療は終了。

「あなたには……」ヒーラーが斜め後方のナユカをさっと見る限り、負傷箇所はなさそう。「怪我はありますか? 痛むところとかは……?」

「いえ、まったくないです」

 無傷。人の傷を見て痛んだ気持ちは、原因が治療されたことで、すでに修復した。

「では、そちらへ……」方向を手で示す。「五歩ほど離れていてください」

「え? あ、はい」

 ナユカが指示どおり距離を取るのを待ってから、フィリスは自分とリンディに加え、動けないニーナを包み込むように全体回復魔法を唱えて、残ったすべての軽傷をまとめて回復させる。

 怪我のないナユカに距離を取らせた理由は、無傷の者に回復魔法をかけたところで効果はないということだけではなく、回復魔法への魔法耐性を無闇に上げないため。基本的に、魔法に曝されるとそれと同系統の魔法への魔法耐性が上がって、その魔法を受けたときの効き目が悪くなる。攻撃魔法から身を守るという点では有用なメカニズムだが、それらの魔法と違って回復魔法の場合は、治癒の効果が下がってしまうので好ましくない。そのようなリスクを極力回避することは、専門家による回復系魔法使用時の一般的な手順に組み込まれている。

「終わりました」

 離れているナユカにも届くよう、大きめの声。治療の完了を聞き、目の前の患者は一息つく。

「ふう」

 よくある光景に笑みを浮かべたヒーラーは、戻ってきたナユカも含め、念のため再確認する。

「お二人とも、まだ痛むところとかはありますか?」二人が首を振ったのを見て、セデイターに追加指示。「それから、フレヴィンドールさん。瘴気の影響で具合が悪くなったら、おっしゃってください。精神安定魔法をかけますので」

 痛みがある間は、瘴気は痛みを抑えるのに作用するため、悪影響を継続的に表面化させることはあまりない。現象としては、鎮痛効果のある麻薬類に似たものだろうか。しかし、治療が済んだ今、それは次第に体調を蝕む。とりわけ、魔力のキャパシティが高い魔導士ニーナが溜め込んでいた瘴気は、量、濃度ともにかなりのものと推測され、その影響も大きいだろう。ヒーラーの使う精神安定魔法は、セデイトのような根本的な治療にはならなくても、一時的に瘴気のメンタルへの影響を緩和する効果はある。

 申し出にうなずいて、リンディは謝意を述べる。

「どうもありがとう。ほんと、助かった……いろいろと」

「いえ、わたしには……責任がありますから……」

 フィリスの表情にはどことなく憂いが見受けられるが、セデイターはそこには触れないでおく。

「あ、そうだ。フルネームをちゃんと聞いてなかったね」にこっと微笑む。「教えてくれる?」

「フィリス=フィリファルディアです」

 そうそう。事前情報では、こんなややこしい苗字だった……。

「フィリス、フィリフィ……フィリフル……えーと……」やばい。これではバジャバル……だったよな……の、二の舞だ……。引きつる微笑み。「ごめん、もう一回」

「すいません、ややこしくて。フィリスとお呼びください。リンディ=フレヴィンドールさん……で、合ってますよね?」

 レストランで一回だけ名乗ったフルネームを、フィリスのほうはきっちり覚えていた。

「合ってる。あたしもリンディでいいよ、フィリス。それから……」ナユカを手で示す。「この娘は、クスノキ=ニャウ……ニャユ……ニャ、ニャ?」

 猫ですか。本人が正しく発音。

「……ナユカです」

「そう、それ。『ナ・ユ・カ』」どうしてもこの発音に苦しむリンディは、大きく口を動かして、一音ずつうなずきながら区切った。「後ろが名前ね」

 どうにか正しく紹介された当人は、草原の上で居住まいを正す。

「クスノキ=ナユカです」そして、丁寧にお辞儀。「よろしくお願いします」

「あ」一瞬戸惑ったフィリスも、ナユカに合わせて正座──のように座る。「フィリス=フィリファルディアです」

 そして、同じように一礼。もちろん、草の上で正座してお辞儀しあうのがここでの正式な挨拶というわけではないが、相手が丁寧に挨拶してきたことが見て取れれば、たいていはそれなりに合わせてくるものだ。

 ちなみに、セレンディアでの、人から紹介されたときの初対面の挨拶では、互いの右手のひら同士を胸の高さあたりで一回軽く合わせるのが通例である。いわば、一瞬で終わる、握らない握手のようなものだ。ただし、これは、改まった場で人から紹介された場合で、紹介した者への敬意も含めて、そのような儀礼となっている。ともあれ、今のようなフォーマルでない状況では、対等な立場なら、たいていは会釈程度で済ます。首を右にほんの少しだけ傾けて戻す、こちらのスタイルの会釈である。

「なにかしこまってるの、ふたりとも」草原で座ったままお辞儀しあう二人を見て、面白がるリンディ。礼をして腰をかがめた状態のままのふたりが同時に、横にいる自分の方を向いたため、ついに吹き出す。「きゃははは」

 瘴気の影響により、笑い声のトーンが通常より高い。

「あの……そろそろ立ちましょうか?」

 ばつが悪そうなナユカに、フィリスが同意する。

「そうですね……そうしましょう」

 おもむろに立ち上がった両者を見上げ、リンディが簡素化を促す。

「ふたりとも名前で呼ぶってことでいいでしょ。フィリスと、ユーカね」

 ナユカのほうは提案者の呼び方と同様、「ユーカ」になるようだ。フィリスには「ナユカ」が発音しにくいわけではないが……。

「ユーカさんで、いいですか?」

「はい。フィリスさん」

 双方の同意を得て、互いの呼び名も決まったところで、リンディがゆっくりと立ち上がる。傷は完治しているので、さっと立つこともできたが、今は瘴気を取り込んでいる状態だ。せわしなく動くのはよくない。その点はセデイターとして自覚している。とはいえ……。

「急がなきゃ。もう日が暮れてるしね」

 セデイトが完了したのだから、さっさとニーナを転送しなければならない。そうすると……戻って、街……出張所かな……。それともこの先……? 遠目で街道の両端を交互に見つめたセデイターは、軽いため息。これもやはり瘴気の影響か……考えるのがめんどくさい。

「転送するのなら、街よりも……」街道へ体を向けたフィリスが、行くべき方向を指し示す。「この先のほうが近いですよ」

 疲れたリンディには有用な情報だ。

「そう?」

「ええ、ここは通ってきましたから」

 確かに、フィリスのいたニーナのパーティはこの方面から来たのだから、この道を通ってトゥステの街に入ったのだろう。とすると、このヒーラーは転送スポットの位置までも認識して、この草原を戦いの場に選んだのだろうか。だとすれば、かなりの策士……なのかも。何にせよ、えらく気が回る。作戦を練っているようで、結局は行き当たりばったりの自分とは大違い……。リンディはなんとなく苛立ってきた。なんだか、ここまで……まるで彼女の都合どおりに動かされてきたような……。結果としてはうまくいっていても、人の策に乗せられたとすれば、あまり気分のいいものじゃない。これは、正当な疑惑……それとも、ただの疑心暗鬼……。いや、もしかして……彼女の有能さへの妬み……? まずい。こんな気分では、また瘴気にどっぷりはまってしまう……冷静になるべき……。

 セデイターは、一度、大きく息をする。……ともかく、フィリスにはいろいろ助けられているし、彼女を疑う理由も特に見当たらない。ここは助言に従って、街へは戻らずにこの先の転送スポットへ向かうことにする。


 怪我人たちの外傷は癒えたものの、ここに至り、さすがに疲れが出てきた三人は、セデイトしたニーナを適宜誘導しながら、口数少なく街道を進んでゆく。すると、程なく、フィリスの情報どおり、転送スポットが見えてきた。その頃には、吸引した瘴気のせいでリンディの体調に影響が出てきており、辛そうな様子を断続的に見せ始める。

「必要なら、精神安定魔法をかけますが?」

 念のためヒーラーは尋ねたが、これから魔法省へ転送するのであれば、向こうで瘴気を処理するはずで、行動に困難を来たすほどのことがなければ、今ここで一時的にしか効かない精神安定魔法を使用する必要はない。いわば、乗り物から降りる直前に酔い止めを飲むことにあまり意味がないようなものだ。それに、回復魔法への耐性が上がってしまうことを考慮すれば、やはり不必要に同系魔法を使うのは避けるべき。その辺りは、当然、セデイターも心得ている。

「……いい。向こうで処理するから。それより……あなたも魔法省に来るでしょ?」

「はい。行きます」

 よどみない返答からは、関係者としてやむを得ず……ではなく、むしろ積極的に行こうというフィリスの意思が感じられる。いやと答えられても、どうにかして連れて行かなくてはならないリンディとしては、説得の手間が省けていい。ただ、説得でもしていたほうが、気が紛れてよかったかも……。乗り物酔いのように瘴気をリバースすることはないが、視線の先にある転送スポットがなかなかに遠く感じられる……。


「転送四名かぁ……」

 四人の転送はなかなかの手間だ……厄介ごとは減らないもの。無事たどりついた転送装置の前で面倒に感じつつも、あと少しだと気を取り直したセデイターは、いつものように連絡用ディバイスで魔法省へ連絡し、対象のセデイトに成功した旨を告げる。

「やあ、リンディ、またやっちまったんだね。立て続けにすごいじゃないか」

 出てきたのは、再びジェイジェイ。このオペレーターは、いつもながら陽気だ。それにしても、「やっちまった」なんて、表現が悪化している。再度「セデイト」と訂正したいところだが、今は調子がよくない。放置して先に進めるリンディ。

「それはどうも。四人転送ね」

 さっさとやっちまって。

「まさか、四人もやっちまったのかい?」

 あー、もう。突っ込むのが面倒。あたしを含めてどうするのさ?

「……んなわけないでしょ」

「はっはっは、冗談だよ」

 このタイミングでの冗談は人間関係の潤滑油にはならないというのが、リンディの声にありありと出る。

「あーそう」

「で、内訳は」

 やっと進んだ。さすがにこちらの気分を読んだか……。

「セデイト済み一名、関係者一名、あともう一名、プラスあたし。この順番ね」

「もう一名って、前回、言ってた女性かな?」

 それは、もちろん、ナユカのこと。よく覚えてるな……有能かよ。セデイト時に自分が重ねた失策のことが頭にあるので、今は、他人の有能さが妙に癇に障る。……もう一度説明しないでいいのは楽だけど。

「……それ。詳細は後で」

「どうやら、さすがのリンディもお疲れのようだね」

 いちおう気が回るんだ……。

「まぁ……」

「では、気が利くぼくが気を利かせて、さっさと進めよう。はっはっは」

 この陽気さは、時に疲れを増幅させる……。あー、本当に気が利く。

「……なんでもいいから、そうして」

 ため息混じりに答えたリンディの声を合図とし、それ相応に面倒くさい四人の転送作業が、ようやく開始される。


 先に指定した順番に従って一人ずつ、まずは二名の転送を終え、次はナユカの番。しかし、この場に残っているもう一人から見て、気乗りしないというのがありあり。すでにその理由を聞かされてはいるが……。

 実際、この世界に来てしまった原因が転送にあるのかもしれないと疑っている異世界人は、未知のテクノロジーを前にして、いまだに気が進まない……。それでも、信用できる人間──フィリスとリンディが、それぞれ前と後に転送されるなら、万が一、またどこか変なところへ飛ばされても、今度は何とかなりそうな気がしている。なにかが起きても、どちらかは自分と同じところへ来ているだろう……と、楽観的──事故を前提とするのが楽観的とは思えないが、とにかく、そう考えておく。それでも、転送そのものにはどうしても生理的な抵抗感を拭えず、ナユカはためらいがちに転送ボックスの中へ足を踏み入れる。そこへ、後ろから聞こえてきたのは、リンディの声。

「すぐ行くからね」

「……待ってます」

 こちらを向いた転送初心者に微笑んで、ゆっくりと入り口を閉め、セデイターはオペレーターに連絡。三度目の同じやり取りを終えると、無事に転送されたという返答がすぐあり、また空のボックスが戻ってきた。その中へ自ら入る前に、ジェイジェイへの連絡──これが四人分の連絡責めの最後……どうにかヒステリーを起こさずに済んだ……。手間と瘴気に耐えた自分をほめたい。

 すべての連絡を終えたリンディは、セデイター用のディバイスを座標認識装置から外すと、速やかに転送ボックスに入り、出入り口を閉めて……大きく息をつく。すべての手順を終えた今、後は転送の実行を待つだけ。これでやっと帰れる……長かった。思えば……などと、この濃密な数日間をゆっくり振り返るような間もなく、クリスタルで覆われたボックスはその場から消え去り、魔法省へと即時転送された。


<第一部 了>



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魔法世界のセデイター 1.迷子、瘴気、対象者 七瀬 ノイド @Nanase_Noid

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