2-3 出張所

 やっとのことで到着した街、「トゥステ」へ入ってから、なにをおいても探すべきものは、セデイター用の出張所だ。リンディもこの街は初めてで、その場所を知らない。ここは、不調なセデイター本人に代わり、ナユカが率先して、通りすがりの人に聞いて回る。

「あの、すみません。セデイターの出張所ってどこでしょうか」

「何の出張所?」

「あの……『セデイター』のです」

「……さあ? 知らないねぇ」

 セデイターという存在自体が、まだあまり知られていないため、このような会話が幾度となく繰り返される。そして、ようやく、「その『セデイター』とかいうのが関係するかどうかはわからないけど、なんだかよくわからない出張所は知ってる」という当てになるのかならないのか、なんだかよくわからない回答にめぐり合った。こういうちょっと複雑な表現は、慣れない言語を話しているナユカには、なんだかよくわかりにくい。たぶん魔法省関連だろうということなので、おそらくそこではないだろうか……。脇で聞いていたセデイター自身がそう確信してうなずいたため、その人に道筋を聞き、該当する場所へと、できるだけ急いで向かう。


 幸いにも、この街がさほど大きくはないおかげで、それらしきものはわりと簡単に見つかった。リンディにはすぐにわかる魔法省のマークとセデイターのシンボルが掲げられている。

「着いた……」

 ふぅっと息を深くつくリンディ……安堵感で体から力が抜けていきそう……。でも、このまま倒れてしまっては元も子もない。最後の力とでもいうべきものを振り絞って、どうにか出張所のドア前までたどり着き、ドアノブをぐいっとひねる。

 ガチャ。……引いてもドアは開かない。再度ノブをまわす。ガチャガチャ。そして、ぐっと引く……やはり開かない。

「押す?」

 今度はノブをひねってから押してみる……開かない。外に面した開き戸なのだから、通常、押す方向で開くことはない。ものの道理である。

「横とか……」

 スライドさせようとしても動かない。引き戸じゃないから当たり前。……そんなの見ればわかる……いや、わかってた。無駄かつお馬鹿なことをさせられてイラつく。

「あー、もう!」

 早く瘴気を処理したいセデイターは、やけになって何度もノブを回す。ガチャガチャガチャ、ガチャガチャ。それから、引く……開かない。何度やっても開かないものは開かない。原因は……いわゆる、鍵というやつがかかっているから。

「このっ!」

 ガチャガチャガチャ、ドンドンドン。イライラが高じたセデイターは、ノブを回して力任せにドアを開けようとする。押しても引いても、もちろん、開かない。

「ふざけんなっ!」

 ガチャガチャガチャガチャ、ドンドンドンドン。……ドカッ。蹴りが入る。

「開けろ、バカっ! 早くしろっ!」

 ドカ、ドカ、ドカッ。連続蹴り。

「この野郎っ!」

 ドカ、ドカ、ドカ、ドカッ。鬼のように蹴りまくるリンディ。ドアはびくともしない。そもそも、押す方向では開かない。それに、セキュリティ上、簡単には壊れないように作られた、頑丈な代物だ。むしろ、無茶をすれば、壊れるのは足のほう。そのいずれが壊れても、事態はよろしくない。

 二歩ほど後方のナユカには、そのようなまともな判断が下せたが、いくら筋力に自信があっても、ぶち切れた戦闘職がこの剣幕では、止めるに止められない。おろおろしつつ、ふと窓を見れば……窓越しに、怯えた表情の女性が目に入った。

 一方、当のリンディは、ピタッと蹴るのをやめ、低く唸る。

「……ああ、そう」

 半回転して、ドアから真っ直ぐ離れ、同行者の隣を通り過ぎていく……。あきらめた? いや、そんなはずはない。溜め込んでいる「瘴気」とかいうものを処理しないわけにはいかないのだから。……これは……もしかして、一定の距離を取ろうとしているのかも。ということは……走りこんでのドロップキック! ではなく……これは、やっぱり……。その能力を考えれば、嫌な予感がしかしないナユカは、あわてて怒りの魔導士に横付けし、説得を試みる。

「あの、リンディさん。わたしが、その……話をつけてきますので、少し……ほんの少し待っててください」

「……」

 無言のままゆっくり歩きながら、隣を歩くショートヘアの女子に目をやる。

「すぐです……すぐ済みますから」さきほど受け取った精神安定用のタブレットを取り出し、恐る恐る渡す。こういうときのためだということが、今は、はっきりとわかる。「こ、これを……どうぞ」

「……」

 言葉を発さず立ち止まったセデイターは、錠剤を受け取り、立ち止まって口に放り込む。

「では、行ってきます」

 反転し、ドアへ向かって駆けてゆく、元競技ランナー。薬を噛み砕いたリンディは振り返り、肩越しにその姿を見つめる。

 俊足のナユカは扉の前で止まって一呼吸し、軽くドアを叩く。それから、窓のある方へずれると、女性が奥からこちらを見ているのが確認できたため、丁寧に一礼。ジェスチャーで自分が彼女と話したいと示す。お辞儀とそのジェスチャーをもう一度繰り返すと、こちらに敵意がないこと、並びに、話をしたいという意図がどうにか伝わったらしい……。その表情には警戒した中にも灯りが差し、窓越しに何事かを口にしながら、ぐるっと回ってくるように、二度、手で合図する。

 指示を理解したナユカは、ほったらかしにしてあるリンディが気がかりで、後方をチラッと見る。少しは落ち着いたのだろうか……その場に留まり、こちらに正対して視線を向けているだけ。特に動く気配はない。いきなり走ってきてドロップキック……ではなく、魔法をぶっ放すことはなさそうだ。

 そこで、ナユカは、おそらく出張所の事務員と思われる女性が手振りで表した指示に従い、建物の裏のほうへ回っていく。すると、そこには裏口があり、窓越しにショートカットの女だけが来たのを中から確認したその女性が、さっとドアを開けて来訪者を招きいれ、急いでドアを閉めた。


「すみません、驚かせてしまって」

 さきほどに続き、再度、丁寧に頭を下げた若い娘を目にして、事務員らしき女性の警戒は解け始めたものの、動揺は隠せない。

「……なにが起きてるんですか? あの人……外の人は?」

「あの人は……えーと……セデイター……で……ショウキ……を、ショリしないと……その……」

 慌てているので、まだ慣れないキーワードがたどたどしい。

「瘴気の処理?」

 なんとか伝わっている……。ナユカは、少しほっとする。

「はい。すごく調子が悪くて」

「本人がですか?」

 急いでいるときのこういう質問には、他に誰がいるんだと突っ込みたくなるが、素直にうなずく。

「ええ」

「他には誰か?」

 そういう可能性もあったな……だから聞いてきたんだ……。責任者としてその対象を確認するのは当たり前だろう。来訪者もあわてている。

「いえ、いません。できますよね? 処理」

「できますけど……」

 女性はまだ警戒を全面解除していないし、動揺も残っている。しかし、なにはともあれ、できるという返答を得た。まだ尋ね損ねていたけれど、ここの職員なのは間違いない。それなら、早くやってもらおう……。そう思って、ナユカが職員の女性に視線を向けると、どうも逡巡しているようだ。扉をガンガン蹴られてわめかれれば、当然の反応かもしれない。

 ところが、実は、それが主な問題なのではなく、瘴気の処理は、瘴気保存装置にセデイター本人が瘴気放出魔法を使って己がまとっている瘴気を移動させることで可能になるのだが、そのためには、処理すべき当人が魔法を唱えられる状態になければ、どうにもならない。はたして、それが可能な状態なのだろうか……? 今しがたの暴れようを目撃してしまった職員には、判断がつきかねる。無理ならば、セデイター自身が強制セデイト対象となり、一時的に拘留しなければならなくなる。そして、その場合、もしも抵抗されたら自分には収拾できない……そうなったら本部に連絡して……でも、ここで暴れられたら……間に合わないし……。最悪の状況を想定しつつ、判断に迷っているところを、自分より長身の娘が急かす。

「早くしましょう。今、薬で落ち着いてますから」

 あの薬の効果時間は知らないが、ぐずぐずしてはいられないはず。

「あ、そうなんですか」

「ええ。だから急がないと」

 薬が効いているのなら、どうにか魔法が使える状態だろう。現在の責任者である職員の女性は、今度はすぐに決断する。

「わかりました。では、薬が効いているうちに処理しましょう。連れてきてください」

 きびきび動き始める。スイッチが入ったらしい。

「はい。ありがとう」

 礼もそこそこに、入ってきた裏口へと踵を返そうとする来訪者を職員は引き止める。

「あ、こっちから」

「あ、はい」

 セデイターの同行者にオフィスの中を通らせて、正面のドアへと導く責任者。いろいろなアドバイスをしている時間的余裕がないので、ドアの鍵を開けながら、一言、注意すべき点を述べる。

「刺激しないように、気をつけて」

「はい。気をつけます」

 当然のこととして容易に開いたドアの傍らを通り過ぎたナユカは、はやる気持ちを抑えながら、リンディがぼーっと立っている場所へ歩いていく。走ると刺激するような気がするからだ。やがてセデイターの前で止まると、彼女の片手を両手で取り、落ち着いて話しかける。

「処理してもらえますって。行きましょう」

「……」

 無言のリンディの左側にナユカは立ち、その左肩の後ろに右手で軽く触れて、歩き出すよう促す。それに応じるように、セデイターがゆっくりと歩みを進め始めたため、隣で肩に手を添えたまま、同行者も一緒に出張所の入り口へと歩いてゆく。


 ふたりがオフィス内へようやく足を踏み入れようとするとき、かの職員は、仕切られた一角に設置されている機器のオペレーターとして、そのセッティングをすでに終え、入り口の手前で待っていた。処理の対象であるセデイターをその場へと誘導するにあたり、職員は必要な確認をとる。

「瘴気の放出、できますか?」

 うなずいて、リンディは一言、声を絞り出す。

「……できる」

「わかりました。では、こちらへ」

 辛うじて魔法を唱えられそうな状態にあると判断した職員は、セデイターを瘴気保存装置のある一角へと導いていく。その後方からついてゆく同行者がその先を見たところ、他には誰もいない。このオフィスには、この職員一人だけしかいないのだろうか? それなら、彼女が警戒するのも無理はなかった……。そして、それでもきっちり対応してくれた、その後姿に、ナユカは感謝の眼差しを向ける。

 機器の前へ来ると、オペレーターとなった職員は診察台のようなリクライニングシートを手のひらで指し示し、黙したままのリンディは自主的にそこへ着席する。

「では、処理しましょうね」

 なだめるような口調の職員から、口につける吸引機を渡されたセデイターにとって、瘴気処理は勝手知ったる作業であり、慣れた手つきでそれを口に装着。吸引機が密着しているのをオペレーターはさっと確認し、ゴーサインを出す。

「それでは、放出、お願いします。3、2、1、どうぞ」

 掛け声を耳にすると、不調のセデイターは、それでもしっかりと瘴気放出魔法を詠唱。傍らでその様子を見ているナユカにはなにも見えないが、瘴気視認用のスコープをかけた職員には、口から放出された黒ずんだ気体が次第に保存装置へと流れていくのが、透明なチューブを通して見て取れる。瘴気は機械の側からゆっくり吸い込んでいるので、一気にというわけにはいかない。吸い込みの強力な掃除機を口につけると、安全面、並びに美的観点から、よろしくないのと同様である。

「全部放出しましたか?」

 チューブ内に黒い気体がなくなったのを見て、オペレーターが尋ねてきたため、リンディは目配せしてうなずく。すべての瘴気を出し切ったその表情には、ようやく生気が戻ってきた。職員はその様子と機械の状態を視認し、少しだけ待ってから吸引機を取り外す。

「お疲れ様でした」

「どうも……」

 体にずっと蓄えていた瘴気からやっと開放されたリンディは、謝辞も半ばで睡魔に襲われ、背もたれに深く沈んで目を閉じ、そのまま、まどろみ始めた。

「ごゆっくり」

 眠りに落ちたセデイターにオペレーターは小声で言い添え、シートを静かにリクライニングさせてから、装置の後始末と片づけを始める。


 ……どうやら、終わったらしい。ほっとしたナユカは、早くも熟睡に入ったリンディの和やかな寝顔を見つめる。長らく蓄えていた瘴気を処理した反動なのだろうか、今さっきまでの凍結していた表情が嘘のよう。昨晩、眠っているときには現れなかった、リラックスした寝顔。おそらく、昨夜からすでに調子が悪かったに違いない。今、見せている無防備ともいえる寝顔には、あどけなさすら感じる。まるで憑き物が落ちたかのように……。

 気疲れもあって、それ以上は何も考えられず、安らかな寝顔をぼんやり見つめ続けている同行者に、装置の片づけを終えた職員が話しかける。

「大丈夫ですよ。反動で眠っているだけですから」

「あ、はい」

 はっとして、話し手を見るナユカ。こちらも立ったまま眠りそうになった。

「少ししたら、目を覚まします」

  通常、瘴気処理後に眠ってしまうことはないが、駆け出しのセデイターならあるかな……という認識だ。しかし、実のところ、そこの眠り姫はまったく駆け出しなどではなく、それなりに経験値を積んでおり、この新しい職種では最古参にあたる。

「そうですか……ありがとうございます」改めて謝意を表し、丁寧にお辞儀をする、その連れ。「それから……すみませんでした。驚かせてしまって」

「いえいえ。でも、びっくりしましたよ、最初は」恐縮している長身の娘に、職員は微笑む。「あちらで休みませんか? あなたもお疲れでしょう」

 自分としても世話になった相手を、応接と待合を兼ねたテーブルセットへと案内してから、女性職員は、控え室よりお茶と茶菓子を運んできた。それらでくつろぎながら、ようやく両者は、互いの名を知る機会を得た。


 後から名乗った彼女の名前は、アネット=カステーリ。すでにナユカが認識していたとおり、この出張所常駐の職員であり、かつ管理責任者である。実は、この小規模なオフィスは、正式には魔法省関係者向けの出張所であり、セデイター専用というわけではない。現状、まだ、さほどセデイターが認知されていない以上、大きくない街ではどうしてもそういう形になってしまう。魔法省に用のある一般の利用者は、別にある合同庁舎にて受け付けるので、ここには来るのは省の関係者のみであり、ゆえに、一般的には「なんだかよくわからない」出張所となる。そして、概して暇である。

 もともとここは、魔法厚生局の派遣チームなどを相手にする施設として造られたのだが、そうやたらにそのようなものが来訪するものでもなく、他所からのオーバースペックのそしりを免れるためにも、魔法省によるセデイト関連業務の拡充方針に則り、最近それらを扱うようになった。それでも、いまだ数の多くはないセデイターがそうそう来訪することもないので、人員はもう一人いるだけである。

 アネットによれば、今日はそのもう一人が体調不良で欠勤しており、自分ひとりだけで切り盛りしているとのこと。外へどうしても必要な用があり、ドアの横にその旨の張り紙を出して鍵を掛け、ほんの少しだけ留守にした後に裏口から帰ってきたところへ、ちょうどリンディが現れてドアをガンガン蹴りだした。怖いながらも、管理者としてここを放置するわけにもいかず、窓の奥から状況を見極めようとしていたら、ナユカの姿が目に入り、その後の経緯に至る。張り紙は、アネットが後で見たら、はがれて落ちていた……落ちたのが二人が来た前か後かは、不明だ。

 人員が通常二名だけの小規模なオフィスではあっても、ここには、一般非公開の資料も少なからず置いてあり、それゆえ、関係者専用であることも相まって、通常の鍵とは別に、普段からドアには認証ロックがかかっている。解除するには、リンディが転送スポットでも使ったような連絡用ディバイスから認証コードを送る必要があり、それでようやく扉が開く形になっている。

 ただ今睡眠中のセデイターは、判断力を失っていたため、ディバイスを所持しているのに使おうとしなかったが、それなき場合は、呼び鈴を押して中から開けてもらうという、当たり前の方法が採られる。扉の物理的強度は高く、蹴ってもドロップキックでも破れないし、魔法耐性も強固で、各種魔法で破壊することも容易ではない。そんなことを試みるのは、襲撃者のみだ。


「それで、あなたは……あのセデイターの……フレヴィンドールさん、でしたよね……の、助手の方なのですか?」

 リンディの名前は、すでにナユカがアネットに教えた。

「あの……」助手という単語は、まだ知らない。「わたしは……リンディさんに危ないところを助けてもらって……それから一緒にいます」

「助けてもらったというのは?」

「森の中で襲われそうになって、そのときリンディさんに助けてもらいました」

「それは大変でしたね……」助手ではなく、被害者……。アネットは気遣わしげだが、責任者として確認作業を怠ることはない。「それで……そのときにセデイトしたのですか?」

 加害者を……というのが、確認側の認識だが、実際は微妙に違う。その一味ではあるが。

「はい、そうです」

「で、その対象者はどこに?」

 外に放置したままなのだろうか……。それなら、早く保護しなければ。

「……その人は……」セデイトの「対象者」というのは、あの変な魔導士のことだろう。「『転送』……しました」

 どこへだかはよくわからないけど、そうらしい。ナユカにはまだ「転送」がピンと来ない。ゆえに、それを口にするのには抵抗感がある。

「あ、転送したんですか……あれ?」責任者にちょっとした疑問が涌く。「おふたりは、そのとき一緒に転送されなかったのですか」

「それは……リンディさんがこの街に用があるとのことで……わたしも無理を言ってついてきました」

 確かに、大きくないこの街には十分な魔力の備蓄装置がなく、転送スポットからここへは転送できない。自力でたどり着くしかないだろう。ただ、その場合、アネットには気になることがある。

「もしかして、それからずっと瘴気を蓄えたまま、ここまで?」

「そう……です」

 そういうことになる。これはもしかしてまずいのか、という直感が働くも、ナユカは肯定するしかない……隠し立てするのも……たぶんよくない。

「それはいつのことでしょう?」

 リンディのためには、なんとか誤魔化したほうがいいのかも……。アネットを欺くようで気が引けるが、とりあえず、情報を逆方向から出してみる。

「あれは……昼過ぎ……かな」

「それなら、そんなに時間は経ってないですね……と、すると……」責任者はなにかに気づき、記憶を手繰る。「森のほうですよね? そんな近くに転送スポットありましたっけ? 確か、あっちは……まだ計画中だったような……」

 時間と距離が合わない……。職員はどういうことなのかと問いたげにセデイターの同行者を見る。それもそのはず、バジャバルを魔法省へ転送したのは、この近辺の森付近ではなく、もうひとつ向こうの転送スポットなのだから。やはり、誤魔化すのは無理そうだと思ったナユカが、小声で付け加える。

「……昨日の」

「はい?」

 こうなったら、もうあきらめてはっきり言う。今、言わなくても、どうせ後でばれるだろう。

「昨日の昼過ぎ、です」

「え」絶句するアネット。大きくため息をついて、納得。承服したのではない。「……なるほど……そういうことですか……。なんか変だと思った……あの数値……」

 あきれてつぶやいたものの、この点について目の前の相手を問い詰めても仕方がない。彼女はセデイト対象者による被害者であり、素人。あのセデイターが目覚めたら、本人に問い質すしかないだろう……きっぱり追求しなくては……。そう……ここは、頑張らなくっちゃ。アネットは、決意の拳を握り締める。そういうのは苦手だけど……ここはやっぱり、びしっと……責任者なんだし……。

「あの……カステーリさん?」

「……あ、ごめんなさい」心配げなナユカからの声により、頭の中での決意表明から、目の前の会話へとアネットが戻ってくる……多少のはぐらかしを交えて。「えーと、その……彼女、なかなか起きないんじゃないでしょうか……」

「そうですか……よく眠って……」眠っているリンディのいる一角へ、長身の娘は座ったまま背を伸して視線を向けたものの、二人のいるこのテーブルセットからは陰になっており、その姿は見えない。「……ますよね?」

「ええ。たぶん……夜まで……」

「え? そんなに?」

 なかなかにきっちりとした昼寝……いや、もう夕方だった。

「いえ、わからないんですが……もしかしたら、そのくらいは……」

 一日以上瘴気を抱え込んでいたのだから、かなり眠るのでは? オペレーターではあっても、セデイトの専門家ではないアネットには、はっきりしたことは言えない。

「あのままで大丈夫でしょうか?」

 同行者は少し心配になってきた。リンディは、リクライニングシートに寝かせたままだ。体が痛くなりそう……。

「大丈夫……の、はずですが……。わたしもこういうケースは初めてなので」

「寝相は……どうなのかなぁ」

「それは、たぶん、関係ないんじゃ……。普通の眠りと違うし……いや、でも……」妙なことを気にしているな、と思いつつも、言われてみると、どうなのか気になる。何分にも、アネットはよく知らない。あのセデイターのことも、こういう事例のことも。「寝相……悪いんですか?」

「昨晩はよくなかったかなぁ……」寝苦しそうではあった。「調子が悪かったからかも。普段は知らないし……」

 先にリンディが眠っていたときにちらっと見ただけ。少なくとも、気持ち良さそうに寝ていたわけではなかった。ちなみに、ナユカ自身はぐっすりだったが。

「……ですよねぇ」ふたりは初対面だと聞かされている。「でも、いすから転げ落ちるほどひどくはないでしょう?」

 肘掛があるから、寝返りをうとうとしても落ちないはず。

「さあ? だけど、落ちてもおかしくないような……」

「そうなんですか?」眠れる美女の、同行者からの言われように責任者は懐疑的だが、さっきドアを蹴りまくった人物だということを思い起こし、何気に納得。「そうかも……」


 このまま放っておいてもいいものか、ふたりは頭を悩ませる。今は、アネットには他に相談する人がいない。セデイト関連については、もうひとりの職員のほうがもう少し詳しいと思う。できれば、今日は、ここにいてほしかった。残念ながら、数日は休むとのことだ。

「いちおう、休ませるところはあるんですが……」職員が切り出し、天井を指差す。「オフィスの上に」

 この出張所の二階には、資料保管庫の他に、魔法省関係者などが一時駐留するための簡易宿泊室が設置されている。この辺りがオーバースペックなのかもしれない。

「上ですかぁ」

 ナユカは上方に視線を向ける。上だと……ちょっと運ぶのは難しいかな……エレベーターなんかなさそうだし……。

「あとは、奥に職員用の控え室が……」

 アネットはそちらへ振り向く。

「『ヒカエ、シツ?』」

 実は単語がわからなかったのだが、いつもの利用者のほうは気に留めず、先を進める。

「ベッドが……仮眠用のベッドがあります」

「あ、はい」ともかく、職員用の部屋にベッドがあると。部外者としては、いちおう、尋ねておく。「使ってもいいんですか?」

「一時的になら問題ありません」

 あっさり承諾が出た。それなら、力持ちの出番。

「では、運びましょう」

「運ぶって……え? それは無理ですよ」

 驚くアネットに、平然と答えるナユカ。

「いけますけど?」

 本気マジか? まじまじと目の前のスレンダーな娘を見る。

「はぁ? でも、重いですよ」

「いえ、重くないと思いますよ」

 見るからに自信ありげなので、魔法を使うのだろう。……だとしても、オフィス内だ。運ぶにも、スペースが……。

「……大きいから難しいのでは?」

「えーと……そんなに大きくはない……ですよね?」

 確認してきた? あ、そういうことか。そこのは……。職員は理解し、誤解を訂正する。

「折り畳めないので……」

「え? 『折り畳む』って……」どういうこと? これはもしかして……言語表現の問題かな……。異邦人はそう解釈し、自分の表現で言い直す。つまり、誰でも中心からなら……。「曲がりますよね? 無理はできませんが」

「曲がる?」……ああ、やっとわかった。そっちね。「まぁ、それなら運べますけど……」

 オフィスの一角でそれはどうかと思う……。ためらう管理者を促すように、先にナユカが動き出す。

「では、やりましょう」

「そうですか……では……」

 乗り気ではないものの、アネットも立ち上がる。そして二人は……。

「あれ?」

 振り返って同時に声を発した。体はそれぞれ逆方向へ向いたまま。そして、また同時発声。

「運ぶんですよね?」両者ともに怪訝そうな顔。「え?」

「あー、ちょっと待ってください」アネットが体を反転させて、ナユカのほうへ向き直る。「ベッドのマットを運ぶんですよね?」

 応じたナユカが、同様にアネットの方を向く。

「いえ、リンディさんを運ぼうかと……」

 控え室のベッドまで。上階へは厳しくても、奥までならいける。

「あ。……そういうこと」人のほうか……。折り畳みではないベッドが運べないからといって、オフィス内にベッドマットを持ってきて寝かせれば、邪魔になるだけ。今までのやりとりから、そう思っていた……。設備管理者は苦笑して、おおきくうなずく。「……そりゃ、そうですよね。では、そうしましょうか」

 おそらく、なにか有用な魔法が使えるのだろう……という推測のもと、スレンダーな彼女に同意した。


 先に、控え室にあるベッドをいつもの利用者が整え、それから、待っていたナユカとともに、セデイターの眠っているシートへと向かう。そこで、リンディの上半身のほうへ回ったパワー系女子は、横から抱きかかえる体勢に入る。

「脚のほう、お願いします」

 頼まれたアネットが尋ねる。

「脚のほうを……どうするんですか?」

「持ってください。一緒に持ち上げますから」

 どういうこと? 指示を受けた側は、虚を衝かれた。

「持ち上げるって……魔法は?」

「……魔法って……なにかあるんですか?」

 アネットが使うのだろうか……? ナユカには何の魔法か、当然わからない。

「ないんですか?」

 驚く責任者。てっきり、提案したこの人が使うものと……。聞かれた当人は、もちろん……。

「わたしに聞かれても……知りませんし……」

 知る由もない。

「わたしは使えないので……」

 アネットは魔導士ではない。持ち上げるなら、やはり、筋力強化魔法の系統だとは思うが、使うことはできない。

「ですから、ふたりでこのまま持ち上げて……」

「ええ? 危ないですよ。第一、通れません……狭くて」

 職員が視線を向けた方向を力持ちが見通すと、確かに、横たわらせたまま安全に通れるようなスペースはなさそうだ。

「そうですか……」とすると、起こしてしまうかもしれないけど……。「では、わたしが背負っていきます」

「そんな! 無理です」

 魔法なしでは。

「大丈夫ですよ、やったことありますから」

 この体力スレンダーは、陸上部のトレーニングで人を背負って斜面を登ったことがある。試しに、自主的にやってみただけだが、飛んできたコーチに止められた。こういうオールドスクールな特訓は危険でしかなく、スポ根もほどほどにしろということだ。とりあえず、指導者がまともで幸いであった。それはさておき、学校の授業で緊急時の搬送法として実践する機会はあった。注意点は教わったので、眠っている人でも問題はないはず。

「本当に……?」

 半信半疑のアネット。こういう場合、彼女の認識では魔法を使うのが定石だ。緊急時に、残念ながら誰もそれを使えなければ、やむを得ず筋力勝負となるしかない。まさに、今、ナユカがやろうとしているのが、それ。こんな細身の体で大丈夫なのか……。

「それじゃ、手伝ってください」

 責任者の懸念もなんのその、ナユカはすでに実行する体勢だ。まずは、腰を屈めているところへ眠り姫を乗せるのを手伝ってもらおう……。

 これが、初めてやる女性事務員にはなかなか難しく、悪戦苦闘。眠れる美女のひじが、くわんと自分の額に入ったりもした。それでもセデイターは、一向に目を覚ます気配にない。これだけいじられても、うんともすんとも言わないのは、瘴気除去の反動なのだろう……。それなら、やはり……ここに放っておくのはよくないかも……。やり方はともかく、判断自体は正しいと管理者も納得し、魔法なしの肉体労働を続行した。


 アネットの助力により、無事リンディを背負ったナユカは、しっかりした足取りでベッドのある控え室へと進んでいく。眠れる美女の豊かな胸がある種のクッションとなり、背中への負担が和らいでいる……。それはそれでなんだか感触がよくて助かるのだが、なんとなく不公平なものを感じてしまう細身の筋力女子。それでも、集中力を乱さぬよう、そこはできるだけ考えないようにして前進。そのまま大過なく……というよりも余裕で、ベッドまでたどり着き、無事、スレンダー娘はグラマー美女を静かに下ろして横たわらせる。その美女はといえば、相変わらず、熟睡したまま。

「ふう」

 一息ついた筋肉スレンダー。これで安心だ……。すやすや眠っているリンディを見つめているうち、大きなあくびが出てしまう。さしもの体力自慢でも、疲れが出た……いや、それよりも、精神的なほうだろう。今日の彼女は、いろいろと気を遣うことが多かった。

 そんな姿を目にしたアネットは、眠れるセデイターのことは自分に任せ、お疲れの強力ごうりきスレンダーに二階で休むように促す。幸いにもオフィスの上に四つもある簡易宿泊室は丸々空いており、今なら使い放題。これから誰かが来るという予定も連絡もない。

 そんな願ったり叶ったりのオファーに対して、いちおう、少しばかりの遠慮はしたほうがいいような気もするナユカだったが、休みたいという欲求がそれを上回り、儀礼的なやり取りは飛ばして、その提案を快く受けることにした。


 案内された部屋は、機能的で清潔感があり、「簡易」と冠されている以上の、れっきとした宿泊室だ。内部には、待ってましたとばかりにバスルームがあり、その当然の帰結として、まずは入浴することに決定。ただ、手ぶらの迷子には、他に服がないという大問題がある。それでも、昨日今日と汚れっぽい行動が連続したことによって蓄積されたものを、きれいさっぱりと洗い流したいという欲求の前には、入浴後の着替えを懸念することなど意味をなさない。もういいや、しばらく裸で……などと、やけっぱちな考えが頭の中をよぎる中、管理者であるアネットは、入浴後の着替えを用意するのに加えて、現在ナユカが着ている服を入浴している間に洗濯してくれるという。……なんという天恵! あなたは天使? ここって天国? 天国にも旅館はあるの? ……疲れによって増幅された喜びで、脳内が混乱気味なハイテンションになりつつも、礼儀正しいナユカは丁寧に感謝の言葉を述べておいた。

 部屋の中の設備は、異邦人が普段から使っているようなものとはデザイン上、多少違ってはいるにせよ、基本的には、スイッチを押せば動作し、つまみをひねって調整するという、どこの世界にもありそうなもの。この地のテクノロジーがどういう類でどの程度の水準なのかはわからないが、宿泊室という性質上、ここに設置してあるものに複雑な機器はなさそうで、操作の見当はだいたい付く。人間の使う機器なら、人間工学的見地から、そのインターフェイスが似通ってくるのは道理なのだろう……たとえ内部構造やギミックが違っていたとしても。

 ゆえに、管理者のアネットも、そういった基本操作を利用者が理解しているという前提に基づき、機器それぞれのスイッチなどの位置やそれらの操作法の説明を手短に終える。おかげで、さほど待たされはしなかったものの、それすらも長く感じさせるほどに念願していた入浴が叶うことに、ナユカの気分は高揚していった……。



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