鮑信

○鮑信とは?


曹操の初期を支えた人。まぁ初期の人物と言うのはどうしても影が薄い。しかもこの人早々に退場するし。なので「えっ初耳! だれ!?」って思っていたのだけれど、蒼天航路にはちゃんと出演なさっていた。未だ至弱の曹操の将来を見抜き、青州兵との籠城戦で散っていった。また宮城谷氏の三国志では「曹操にとって最大の親友」とすら言っていい人だったそうである。


そんな鮑信さん、三國志中ではどのように書かれているんでしょうか。



鮑信ほうしんについて


かれについては、その息子の

鮑勛ほうくんのところで略歴が載せられている。


それによると、泰山たいざん平陽へいよう県の人。

漢の司隸校尉しれいこうい(首都警護の隊長)鮑宣ほうせん

八世の孫だという。


靈帝のときに騎都尉きといに任じられ、

何進かしんが宦官らを一掃しようとした

はかりごとの中で頭角を現し、濟北さいほく相に。


その後は曹操そうそうと協力し、しかし、戦死。



これらの内容を、

更に裴注が掘り下げている。

また、別の伝もあわせてみると、

鮑信の人となりが見えてきそうだ。


その辺りを追ってみよう。



○鮑信の立身


若いころから礼儀正しく、周囲に優しい。

多弁のひとではなかったが、頭は良かった。


何進に取り立てられた後、故郷で募兵。

彼らを引き連れ洛陽らくように戻ろうとした時、

既に何進は殺されていた。


それでも洛陽に戻ってみれば、

そこは既に董卓とうたくが牛耳る地獄。


何進づてで袁紹えんしょうとも知り合っていた鮑信、

はじめは袁紹に董卓の打倒を勧めた。


「董卓の子飼いどもはえらく強い。

 その上やつ自身にも謀叛の意図がある。


 今やつをどうにかしないと、

 我々の首根っこを押さえられてしまう。


 今ならまだ、やつは涼州りょうしゅうからの行軍で

 疲れ切っている。

 この期に乗じて、捕えてしまうべきだ」


が、この進言、聞き入れられない。

袁紹のやつブルってやがってな!


仕方がないので鮑信、故郷に帰還。

そこでここから起こる乱世を見越し、

改めて募兵を掛けた。


集まったのは総勢二万。

騎兵が七百と、輜重がたくさん。


ちなみにこの時、のちに曹操軍の

有力将として頭角を現すことになる

于禁うきんがデビューしている。



○曹操と合流


同じ年に曹操も起兵していた。

なので鮑信、弟の鮑韜ほうとうと共に曹操に合流。


鮑信、曹操と袁紹の両名から

高く買われていたようだ。両名は

鮑信を破虜はりょ將軍に、鮑韜を將軍に推挙。


この頃は、袁紹の勢いが一番すごかった。

豪傑たちの多くは袁紹に帰順。

けれども鮑信、

何せ袁紹がブルったのを見ている。

なので曹操に言っている。


「正直なところ、

 英雄らを取りまとめ、

 これから起こる乱を収めるのは、

 その知略のずば抜け振りからして、

 そなたであるよう思うのだ。


 というよりも、そなた以外の何ものが

 どれだけ尽力したところで、

 ほぼ、意味はあるまい。


 まったく、まるでそなたは

 天から遣わされたかのようだな!」


えーと鮑信さん。正直言います。

キモい。けどまぁしょうがない。


こうして改めて曹操と鮑信は

マブ(意味深)となった。


曹操は曹操で、鮑信やべえ! と。

「遂にして深く自ら結納した」。

両想いである。

ケツ納、いえなんでもありません。


そして曹操は袁紹の呼びかけに応じ、

反董卓連合軍として決起した、のだが。



○董卓に敗れ、その後


反董卓軍の参戦者は以下の通り。


袁術えんじゅつ韓馥かんふく孔伷こうちゅう劉岱りゅうたい

王匡おうきょう張邈ちょうばく橋瑁きょうぼう袁遺えんい

そして曹操、鮑信。


ご存じの通り、この連合軍は一度、

董卓軍に派手にボコされた。

ここで鮑信も大けがを負ったし、

鮑韜は戦死。ひどいもんである。


その後の袁紹は韓馥から

冀州きしゅうを分捕り、そこを拠点とした。


この行動に対して、

曹操にべた惚れ鮑信さんは言っている。


「奸臣どもがこの不安定な情勢に乗じ、

 自ら覇者たらんと機を狙っている。

 ならば今こそ大義に則って

 漢の皇室を守るものこそが、

 英雄と言えるだろう。


 袁紹もアンチ董卓の盟主を謳っているが、

 あれも所詮は乱に乗じているクソの一人。


 とは言え、今われわれに

 あのクソを押さえる力はない。


 ここは一度黄河の南に渡り、

 河北のカオスから距離を置いて、

 状況の推移を見守った方がいいと思う」


おっええやん!

曹操、この提案に賛同。

そして曹操が東郡とうぐん太守になると、

上表し、鮑信を濟北相に推挙したのだ。



○黄巾残党との戦い


が、そこに別の厄介ごとが持ち上がる。

一度ぶちのめしたはずの黄巾賊こうきんぞくが、

青州せいしゅうで再び挙兵していた。


海沿いの青州から

兗州えんしゅうに進軍してきた黄巾残党。


この軍に対し、同盟軍仲間であった

劉岱が迎撃してやろう、と息巻く。

鮑信はそれを止めにかかった。


「あいつらの軍勢は百万規模。

 

 民はやつらに恐れをなし、

 およそ立ち向かえたものではない。


 いいか、やつらを見たところ、

 非戦闘員までぞろぞろ引き連れ、

 その上軍資もまともに持っていない。


 やつらの目的、それは掠奪だ。


 ならば今は専守防衛に努めるべきだ。

 いくらやつらが戦いたくとも

 それを果たせないのであれば、

 やつらの勢いは雲散霧消する。


 こちらの研ぎ澄まされた一撃は、

 その時に初めて放てばよいのだ」


で、劉岱。

聞く耳も持たず突撃、敗死。


みんな「ですよねー」。



○そして鮑信は死ぬ


とは言え、困ったことになった。

劉岱の敗死は、

敵に餌を与えたに等しい。


そこで鮑信、萬潛ばんせんという人と共に

曹操を東郡に呼びに出た。

壽張じゅちょうと言う都市の側で、

どうにかやつらを迎撃しよう、

そう考えたのだ。


曹操は黄巾賊の動きを見、

やつらが劉岱を倒したことに

浮ついている、と分析。


そこで自らを囮にすれば

敵を釣り出せるだろう、と考え、

鮑信とともに軍を率い、

わざと前に出た。


奴らが曹操らに気を取られているうちに

別動隊で殲滅してやろう、

そう考えたのだ。


が。


おっ大将首のこのこやってきたやん!

大喜びの黄巾賊、

猛スピードで狩りに来た。


えっちょ、速っ!?

ソソサマビビる。

なにせ別動隊が全然到着しない。

あっという間に囲まれる。


鮑信、ここで曹操を守るために奮戦。

そして曹操は何とか脱出できたのだが、

鮑信は戦死してしまった。


その後の曹操、鮑信の遺骸を

弔ってやりたいと思ったのだが、

取り戻すことは叶わなかった。


なので人々は鮑信の木像を彫り、

これを祀り、慟哭したという。



○鮑信の死後


享年四十一。


起兵こそしたものの、

もともとは代々の儒家である。

常に身を慎み、よく将兵を慰撫し、

家には余計な財貨がなかった。


人々は改めてかれの儒者としての

立派な振る舞いに敬服した。



そして建安けんあん十七年、

つまり死亡からちょうど二十年後。


曹操、鮑信の功を讃え、

かれの代理として、兄、鮑邵ほうしょう

新都県の亭侯に封爵した。



○後年の評価


その後曹操は黄巾賊を平定、

彼らを配下に組み込む。

いわゆる「魏武の強」だ。


だが一方で南の徐州じょしゅうでは

陶謙とうけんが死んで、あろうことが

あの劉備じょしゅうが徐州牧についてしまう。


北西では董卓を殺した呂布りょふが最盛期。

もうソソサマ四面楚歌状態である。


クッソ、呂布どうにかしなきゃ!

ソソサマが迎撃に動こうとした時、

荀彧が諫めるのだった。


「みだりにこの地を離れるのは、

 上策とは申せませんぞ!


 将軍はこの兗州を

 拠点とできたからこそ、

 青州兵らを組み込むことが

 できたのではありませんか!


 この地、兗州にしっかりと

 根差すことが肝要なのです!」


曹操が鮑信の手引きによって兗州を

得られたからこそ、青州の黄巾残党を

手に入れられたのではないか、

と、荀彧は言ったのだ。



○典拠文


三國志 巻1 曹操


初平元年春正月,後將軍袁術、冀州牧韓馥、豫州刺史孔伷、兖州刺史劉岱、河內太守王匡、勃海太守袁紹、陳留太守張邈、東郡太守橋瑁、山陽太守袁遺、濟北相鮑信同時俱起兵,衆各數萬,推紹爲盟主。太祖行奮武將軍。


青州黃巾衆百萬入兖州,殺任城相鄭遂,轉入東平。劉岱欲擊之,鮑信諫曰:「今賊衆百萬,百姓皆震恐,士卒無鬬志,不可敵也。觀賊衆羣輩相隨,軍無輜重,唯以鈔略爲資,今不若畜士衆之力,先爲固守。彼欲戰不得,攻又不能,其勢必離散,後選精銳,據其要害,擊之可破也。」岱不從,遂與戰,果爲所殺。鮑信等亦謂之然。信乃與州吏萬潛等至東郡迎太祖領兖州牧。遂進兵擊黃巾於壽張東。信力戰鬬死,僅而破之。購求信喪不得,衆乃刻木如信形狀,祭而哭焉。



三國志 巻6 董卓


先是,進遣騎都尉太山鮑信所在募兵,適至,信謂紹曰:「卓擁彊兵,有異志,今不早圖,將爲所制;及其初至疲勞,襲之可禽也。」紹畏卓,不敢發,信遂還鄉里。



三國志 巻12 鮑勛


泰山平陽人也,漢司隸校尉鮑宣八世孫。宣後嗣有從上黨徙泰山者,遂家焉。靈帝時爲騎都尉,大將軍何進遣東募兵。後爲濟北相,協規太祖,身以遇害。


《魏書》曰:信父丹,官至少府侍中,世以儒雅顯。少有大節,寬厚愛人,沈毅有謀。大將軍何進辟拜騎都尉,遣歸募兵,得千餘人,還到成皋而進已遇害。信至京師,董卓亦始到。信知卓必爲亂,勸袁紹襲卓,紹畏卓不敢發。語在紹傳。信乃引軍還鄉裏,收徒眾二萬,騎七百,輜重五千餘乘。是歲,太祖始起兵於己吾,信與弟韜以兵應太祖。太祖與袁紹表信行破虜將軍,韜裨將軍。時紹眾最盛,豪傑多向之。信獨謂太祖曰:“夫略不世出,能總英雄以撥亂反正者,君也。苟非其人,雖強必斃。君殆天之所啟!”遂深自結納,太祖亦親異焉。汴水之敗,信被瘡,韜在陳戰亡。紹劫奪韓馥位,遂據冀州。信言於太祖曰:“奸臣乘釁,蕩覆王室,英雄奮節,天下鄉應者,義也。今紹爲盟主,因權專利,將自生亂,是複有一卓也。若抑之,則力不能製,祗以遘難,又何能濟?且可規大河之南,以待其變。”太祖善之。太祖爲東郡太守,表信爲濟北相。會黃巾大眾入州界,劉岱欲與戰,信止之,岱不從,遂敗。語在武紀。太祖以賊恃勝而驕,欲設奇兵挑擊之於壽張。先與信出行戰地,後步軍未至,而卒與賊遇,遂接戰。信殊死戰,以救太祖,太祖僅得潰圍出,信遂沒,時年四十一。雖遭亂起兵,家本修儒,治身至儉,而厚養將士,居無餘財,士以此歸之。〉建安十七年,太祖追錄信功,表封勳兄邵新都亭侯。



巻17 于禁


於禁字文則,泰山钜平人也。黃巾起,鮑信招合徒眾,禁附從焉。



後漢書70 荀彧


二年,陶謙死,操欲遂取徐州,還定呂布。彧諫曰:「進可以勝敵,退足以堅守,故雖有困敗,而終濟大業。將軍本以兖州首事,故能平定山東,〈曹操初從東郡守鮑信等迎領兖州牧,遂進兵破黃巾等,故能平定山東也。〉此實天下之要地也。



後漢書巻74 袁紹


靈帝崩,紹勸何進征董卓等觿軍,脅太后誅諸宦官,轉紹司隸校尉。及卓將兵至,騎都尉太山鮑信說紹曰:「董卓擁制強兵,將有異志,今不早圖,必為所制。及其新至疲勞,襲之可禽也。」紹畏卓,不敢發。


初平元年,紹遂以勃海起兵,以與從弟後將軍術、冀州牧韓馥、豫州刺史孔伷、兗州刺史劉岱、陳留太守張邈、廣陵太守張超、河內太守王匡、山陽太守袁遺、東郡太守橋瑁、濟北相鮑信等同時俱起,觿各數萬,以討卓為名。紹與王匡屯河內,伷屯穎川,馥屯鄴,余軍鹹屯酸棗,約盟,遙推紹為盟主。紹自號車騎將軍,領司隸校尉。

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超訳正史三國志 蜀漢五虎将伝 ヘツポツ斎 @s8ooo

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