7歳9~12月 初勝利

 9月。夏の暑さもひと段落し、ようやく涼しい秋が来る。でも競馬ってのは、ここからむしろ熱くなるとみんな言う。でも、おいらの背中だけは涼しかった。

「覚悟はできました?」

「何の話」

「デビュー戦ですよ」

 デビュー戦。ああ、いやな響きだ。これからしなくてもいいはずの戦いに巻き込まれる。アオイホシノオトコ君はどうしてこんなにやる気なんだろう、自分の子どものそれでもないのに。

「ヒマなだけですから」

「あのねえ」

 ヒマなだけと来たか。まったく、この甥っ子はヒマになるとよその馬の動向を調べるのが趣味なんだろうか。本当、どういう趣味なんだろう。

「中山の芝1800m、15頭立てで8番人気の様ですね」

「あっそ」

「なんか思い入れとかないんですか」

「何にもないよ」

 何にもないってのはウソになるかもしれない。中山――――千葉県って所にある競馬場を、一応おいらは2回ほど走ったらしい。結果は、どっちもシンガリ。そしてあの忌まわしき3戦目と、最後の4戦目が東京。だから、東京競馬場と言う場所に憧れるみんなの感覚って奴はどうしてもおいらにはわからない。それに比べて中山は、東京よりはましな場所だった。でも、競馬場と言う競争の火種の場所はどこであったとしてもおいらは嫌だ。

「でも僕たち、この時期って何もやる事ありませんから。叔父さんもどうせヒマなんでしょ?」

「ヒマだけどね」

「いいじゃありませんかねえ」

「わかったよ、甥っ子に付き合ってあげるからさ」

 どこでどうやってつながってるのかわからない、小さな物体。これにレースが映るんだってアオイホシノオトコ君は言ってるけど、どういう仕組みなんだろう。

「とにかく始まりますから」

 このテレビって奴に、おいらたちのレースは映りまくっていたらしい。そしてみんな、誰もが見てくれる日曜日のメインレースってのに出たいそうだ。おいらの隣の馬房にいた男の子も何べんもそう言ってた。そんな事をしてどうしようって言うんだろう。

「いいじゃないですかほんの2分ぐらい」

「………………」

 テレビとやらを通してもわかる。この向こうにいる馬たちのギンギンにたぎった殺気。この殺気って言う物自体、いやでいやで仕方がない。

 ――――走らなければ、生き残れない。おいらのどうしてそんなに急ぐんだって質問に対して、みんなそう答えた。じゃあ今のおいらは何なんだよ、急いでないのにこうして生きているじゃないか。

「しかしものすごいですよね、父さんは今年の上半期もGⅠを4つも勝ちましたよ。今年のリーディングサイアーもほぼ確定でしょう」

「帰っていい?」

「すみません、ちょっと愚痴が言いたくなりまして」

「戦うのやめた方がいいんじゃないの? その方がずっと楽だと思うよ?」

「でも父さんはダートではあまり活躍していませんから、そっちに的を絞ってみるのもありかもしれませんね。もちろん、それに合う女のひとが来るかどうかって問題ではありますけれど」

 戦うのはやだ、そして全く勝てる見込みのないそれなら尚更だ。勝てるかもしれないで戦いを挑んで負けて、何があるんだろうか。それに勝った側だってそんな弱い相手と戦って勝利したって空しいだけじゃないか。万が一を期待するのが競馬なんだぞってみんな言うけど、おいらは万が一を求めるより平和に生きていたい。そのつもりで言ったんだけど、このギラギラしている甥っ子には伝わらない。もうどうでもいいかと思っていると、パシャーンと言う音が鳴り響いた。

「始まりましたよ、ほら白い帽子をかぶった人の」

「ああそう」

 おいらがまったくその気もないままにボーッと画面を見てると、白い帽子をかぶった人が乗った馬が6番目ぐらいを走っていた。これが、おいらの子どもなんだろうか。全く信じられない、あんな所に入って苦しい思いをして、そんなにもみんなを叩き落としたいんだろうか。わからない、どうしてもわからない。

 おいらの目は、いつの間にか最後尾に向いていた。黄色の帽子をかぶった人を乗せた馬。そうだ、それでいいんだよ。誰とも競い合う必要なんかない、のんびりとやってればいいんだよ――――と思ったらその馬はいきなりスピードを上げた。ただの「追い込み馬」だったらしい。あーあ、なんでみんな急ごう急ごうとするんだろう。そう思ってため息を吐こうとすると、アオイホシノオトコ君の声が荒くなった。その声に釣られてテレビを見ると、白い帽子をかぶった人を上に乗せた馬が、おいらの爪によく似た場所を、一番前で駆け抜けた。これが、おいらの子ども?こんなに恐ろしい顔で歯を食いしばって走る馬が?

「1着のようですね」

「……………………」

 震えた。怖くて、震えた。おいらは、こんなに恐ろしい存在を作ってしまったんだろうか。おいらが平穏に過ごすために、こんなに恐ろしい存在を!

「疲れるね」

「テンカノエイケツさんなんかしょっちゅうですよ、こんな事」

「はぁ……」

 おいらは改めて、テンカノエイケツさんって馬を尊敬した。こんな状況に幾度も幾度も立ち会わせられるだなんて、生半な精神力じゃとても務まらない。

「もういいよ」

「そうですか……」

 アオイホシノオトコ君は残念そうだけど、そんなの知った事かい! もう2度とあんなのは見たくない。

「どうした、食欲がないのか」

 牧場の人にそう言われたけど、食べたくない物はしょうがない。胃が痛むし、入るどころか逆に吐き出しそうになる。アオイホシノオトコ君は食欲旺盛だけど、まったくどんな感覚をしてるんだろう。あーあ、もう二度とあんな所には関わりたくないのになあ。青くてきれいなはずの牧場の緑が、重たくつらい物に見えて来た。あの戦いの場と同じような、恐ろしい緑。おいらは厩舎の中に閉じこもり、そっぽを向き続けた。

 やがて秋が終わり、雪が降った。でもその雪の色もまた、あの恐ろしい存在がかぶっていた白い帽子に見えて来る。あれが、おいらの子どもだとでも言うのか。そしてそのおいらの子どもらしき存在は、笑っていた。歯を食いしばりながらも、笑っていた。まるで、怪物。おいらはシンエンノサキニの現役時代ってのを見た事がないけど、もしあんな顔をしていたんだとしたらその馬の弟であった事を恨めるだけ恨みたい。本当なら、馬事公苑って所にでも行ってドングリを見ながら暮らしたいのにこんな所に巻き込んで、と。


 種牡馬になると太るとか言うのはウソだと思いながら食欲の湧かない日々をすごしていると、いつの間にか今年もあとひと月あまりになっていた。まあどうでもいいやと思いながらボーッとしていると、見慣れない人が歩み寄って来た。

「ヨウセイプリンス号を取材に参りました」

 おいらに取材? って言うか取材って何? そう思っているとオーナーさんがその取材だってと言う人に近寄って来た。

「どうなんですか」

「基本的にはおとなしい子ですよ。ただ最近少し食欲不振で」

「どうしてでしょうかね」

「現役時代はまったく競走に気持ちが向かない性格でね、それでも血統を評価して種牡馬として購入したんですけど。まあ種付けと言う作業そのものは嫌がってはいないようなんですけど、基本的に何て言うか、休むために働くって感じで」

 休むために働く。なるほど、その通りかもしれない。ここに来てから、おいらは夏が好きになった、何もせずただのんびりとできるから。その上に、競馬も大したレースがない時期でもある。でも秋になり、冬になる度に大きなレースが増え始める。その度に、心が落ち着かなくなってくる。

 この前おいらの仕事って奴が戦う馬を作るためのそれだって事を、知りたくもないのにアオイホシノオトコ君に教え込まれた。戦いが盛り上がる事、それにおいらの子どもが巻き込まれていく事。そんな恐ろしい現実に向き合わない事には、のんびり過ごせる時間すら巡って来ないらしい。

「それで来年はまた増えるんでしょう?」

「ああ、確実にね。まあ、種付け料を値上げするので増えないかもしれないけど」

「値上げですか」

「元々500万円で買えたのが安すぎたんだよ、いくら現役時代があの有様とは言え性的不能でもない以上この血統を放っておく手はないだろ。それがたったの20万だってのに11頭ってのもおかしいんだ。ようやく本来の数、本来の額へと戻って行くもんだと思ってるよ」

 ――――本来の数、本来の額。それはおそらく、「低すぎた」評価の「是正」なんだろう。でも、そんなのはおいらに言わせれば「改悪」だ。お金なんか要らないし、種付け数だってゼロでいい。他の馬に回すべきだろう、テンカノエイケツさんが46頭でおいらが55頭だなんておかしいじゃないか。あれほどにやる気な馬とおいら、どっちが優秀か見てわからないんだろうか。

 もっとも、この取材に来たって記者の人は嫌いじゃない。実に穏やかで、乗せてみたくなる人だ。こういう人を乗せて一日中過ごすことができたら、実に楽しいだろう。こういう人を相手にするだけの生活がしてみたい。

 実は今年種付けした一人の牝馬が、おいらの隣の馬房にいた男の子の事を話してくれた。その子は6歳まで現役を続け、延々33回も走ったらしい。その中で重賞もひとつ勝ったそうだけど、それがピークで後は全く振るわなかったそうだ。そして種牡馬になれず、乗馬になる事になったらしい。

「最後のレースの後であなたの名前を出してみたんたら、いい暮らしをしてやがるんだろうなって」

 それでおいらのことをそんな風に言ってたらしい。じゃあ代わってよって言ったら、どんな顔をしただろうか。乗馬になるためには、重賞を勝つぐらい頑張らなければいけなかったんだろうか? 後悔先に立たずかもしれないけど、やはりおいらはどこかで間違っちゃったんだろうか。

 おいらが過去のあやまちを嘆いていると、アオイホシノオトコ君とテンカノエイケツさんが何かを話していた。

「三ヶ月前、ヨウセイプリンス叔父さんはかなり辛そうでしたよ」

「優しすぎるんだろうな、それで他の馬の辛さを考え過ぎちまう。あれはもう完全な性格だな。多分どんな栄光を得ても、喜ばないだろうな」

「でもまあ、確実に種付け数は増えるでしょうね。スターヴァンガードのおかげで」

「今度の朝日杯フューチュリティステークスでも有力候補だもんな」

 二頭しておいらの事を話していると思って聞き耳を立てていると、スターヴァンガードと言う名前が聞こえて来た。――――スターヴァンガード。その名前は、おいらの運命を容赦なく引きずり回す名前だった。

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