第四話.色々殺し シーン1



 校舎の壁の厚さでは、とは鳴らなかったが。

 僕はさかりんを文芸部室の壁際に追い詰めて、彼女の頭の横に手を突いていた。

「……ど……どしたのシャケ先生……?」

 僕より一〇センチほど背の低い伊井坂は、至近距離で見下ろされ、さすがに戸惑った声を出した。いかに行き過ぎて陽気な彼女といえど、この体勢で平気な顔はできないようだ――ちなみに「シャケ先生」というのは伊井坂が(勝手に)僕へ付けたあだ名だ――

 放課後、ちょっと話があると言って伊井坂を文芸部室に連れてきた。授業が終わってすぐのことなので、まだかげも来ていない。

 僕はわった視線を斜め下の女子に落とした。窓から差し込む初夏の日差しが、伊井坂の洒落じゃれた眼鏡の中でたっぷりとした光を揺らめかせいている。

「……あの…………?」

 無言で見つめ続けると、伊井坂は困惑を深めたようだった。窓を開けたばかりの蒸し暑さも手伝ってか、額に汗が浮かび始めている。

 落ち着かない視線が、僕の顔と、壁に置かれた手を往復して。

 さらに数秒の沈黙の後、伊井坂がなにか言いかけるタイミングにかぶせて、僕は口を開いた。

わからないか?」

「……うん……」

「今朝……はゆは洗面台に置いてあったローション(父さんのひげそり用)を見て悲鳴を上げかけて、それから汚らわしい物を見る目で視界の外へどかしたんだ」

 伊井坂はすぐさま目をそらしたりはしなかった。むしろ、ピンで留めたように瞳孔の動きを固めた。

 ただ、肩を微かに震わせ始めただけだ。そして汗がさらに、さらに、にじむ。

 僕は繰り返した。

「判らないか?」

「な、なんでだろうね……? まぁ、ハユユンもお年頃だから――」

「『英雄たちが一晩中 男殺しねん魔之地まのじごく』」

 映から回収した文庫本をポケットから取り出し、書名を告げると、今度こそ伊井坂は眼を揺らした。半開きにした唇も、落ち着かない吐息とともに震えだす。

「な、なんで……なんでシャケ先生がそれを……っ!?」

「昨日、お前が映に貸したこの本。僕もちょっと読ませてもらったよ」

「ゑっ……? 見せたのハユユン? 、兄上に見せるモンなの!?」

 一人っ子らしい伊井坂は、そこにショックを受けたようだった。まるで度し難いブラコンの話でも聞かされたかのような驚きようだ。

 それはともかく、

「いかがわしい物だって認識はあったんだな」

「いや……ちょぉっと表現が過激でヌルヌルしてるだけで……純愛、じゃよ? 年齢制限もないし……純愛、じゃよ?」

「裸に白衣を羽織った美少年を、羊の骨と猫じゃらしを構えたスライムマン伯爵が一晩中追いかけ続ける『純愛』はレベルが高すぎるんだよッ!」

「じゅ、純愛にレベルもなにもないじゃろ……」

 あと、裸じゃなくてパンツははいてる……と、この期に及んで――目をそらしながらも――言い訳する伊井坂に、僕は辛抱強く説いて聞かせた。

「たとえばだ……初めてスキーをする初心者が、いきなりえげつない斜度の上級コースに挑んだら、どうなる?」

「……………………」

「大怪我だよな」

「……………………」

「初めて登山する素人が、ろくな備えもせず冬の八甲はっこうさんに登ろうとしたら、どうなる?」

「…………ぅぅ…………」

「死ぬよな」

 伊井坂が理解しているのを確認して、僕は息を吸い――声にして吐き出した。

「――お前はうちの妹に、そういうことをしたんだよっ!」

 至近距離で怒鳴られた伊井坂は「ひっ!」と身を縮ませて、それからいやいやとするように頭を左右へ振った。

「だって――だって、そんな……死ぬは言い過ぎじゃないかね!?」

 僕は紅潮する伊井坂の頬に文庫本の角をぐりぐりと押し付け、断じた。

「唐辛子と軟膏なんこうを自在に使いこなして『お前のダンジョンはぬるすぎるぜ』がキメセリフのスライムマン伯爵は、心得のない人間には危険極まりない断崖絶壁なんだよ!

 映はこれを読んで泣き出したんだぞっ!」

「ぅっ……く…………」

 伊井坂は苦渋にうめき、頬に押し付けられた文庫にうるんだ目を落とした。

「本当は……本当は、解ってた……これが一般市民の考える幸福のカタチとはちょっと違うんじゃないか、って……でも、それが人を泣かせることになるなんて……

 ああぁ、罪……これが、罪…………」

「じゃあ」

 その罪の本の背表紙で伊井坂の頬のラインをなぞりながら、僕は伊井坂にささやく。

「映に言うべきこと、解るよな」

「…………わっ…………わたっ……」

 うつむいて言いよどむ伊井坂。その顎を文庫で押し上げると、その拍子に少し眼鏡がずれた。

「……ワタ、シは、可愛いハユユンに、ちょっと……カッコヨすぎるフレグランスを、嗅がせてしまいました……」

「リリカルすぎて誠意に欠けるっ! やり直し!」

「ぅぅぅっ…………なに? 今日のシャケ先生怖い……

 ……じゃあ、えぇと…………わたくしめは、恥ずかしい欲望丸出しのドギツくエキセントリックな粘性エロスな品物で純真な令妹れいまいのお心をおびやかしてしまい…………申し訳ありません……でし……た」

 僕は、よし……とうなずいて、近付けていた顔を引いた。微振動する瞳を僕の顔と足下の間で往復させながら、化粧っ気のない唇をこすり合わせる伊井坂は、心からざんしているように見えた。

「映にちゃんと謝って、もう二度と変な本読ませるなよ」

「……それは…………解ったけども……」

 僕が表情を緩めたからか、大雨に打たれてぐったりした猫のような顔をしていた伊井坂も少しは落ち着いたようだった。

 両手で眼鏡の位置を据え直しながら、上目遣いに訊いてくる。

「いいのかい?」

「? なにが?」

「いや、この体勢は良くないんじゃないかと思ってね」

 すッ、と横へスライドした伊井坂の視線を追ってみれば――いつの間にやってきたのか、帆影の静かな目と映の軽蔑したような視線に見返された……


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