好きって言えない彼女じゃダメですか? 帆影さんはライトノベルを合理的に読みすぎる 補巻

玩具堂

プロローグ



 静かにすすったコーヒーの苦みを舌の上で転がし、香味を含んだ蒸気を口全体で楽しむ。

 夕食と入浴を終え、快い眠気ににぶっていた頭脳がすっと覚醒するのを感じながら、僕は原稿に向き直った。原稿と言ってもパソコンのディスプレイに表示されたワープロソフトの画面だ。

 筆をるわけでもない。しかし、僕はこれから執筆する。筆に心を込める想いで、書くのだ。

 カタッ……とキートップのNの印字がかすれたキーボードを打ち出す。ノートに書き留めていた着想を元に、心へ浮かぶままに文章を展開させていく。

 それはラブレターを書く行為にも似ていたかもしれない。僕の書こうとしているのは小説だったけれど、最初に読んでもらう人の決まっている小説だった。今の僕にとって一番大切な彼女に読んでもらうための、ふみ

 彼女のことを想う。胸がときめく。その心音のリズムで頭と指をつなぐ滑車を回し、物語を紡いでいく。

 そうして過ぎる、初夏のの穏やかな時間。果たして。


 ――部屋が、キレイになった。


 はかどるのである。

 とにかく、むやみに。

 掃除が、捗るのである。

 書こう書こう、書かねば書かねば――そう思うほどに視線がさまよい、床に積み重ねられた雑誌や、棚のフィギュアに積もりつつあるホコリが気になって手が止まり、ふらふらと半ば夢遊病者のように部屋の掃除を始めてしまう。

 そうして、原稿に向かい始めてから数時間――部屋がすっかり、キレイになった。

 最初はちょっと雑誌をまとめるだけのつもりだったのに、なまじ有益な作業なものだからめ時を見失ってしまう。結果、真っ白いワープロ画面を文字で汚すはずが、部屋が整頓されていた。

 これではいけない。

 少し前、妹とその親友にまつわるちょっとした騒動の後、僕は彼女に約束をした。

 彼女の名はかげあゆむ。高校で僕と同じ文芸部に所属する、少し浮き世離れしたような女の子だ。

 一応、僕の恋人カノジヨ……ということになっている。

 ということになっている、というのは、当事者の僕にもいまいち確信がないからだ。なにせ――自分の好きな人になんだが――帆影は相当に変わっている。


 いわく――「萌え」や「可愛い」という現象は文化の源だった。

 いわく――人間とは、ほぼおっぱいで出来ている。

 いわく――私情で後宮ハーレムを崩壊させるような行為は、暗君バカとのの所行である。


 表情の薄い、眠たいような目をして、そんな突拍子もない仮説を滔々とうとうと披露する。普通の高校生より広く雑多な知識があるのはもちろん、思考の回路がややこしくこんがらがっているのだろう。

 そんな彼女で、そんなところもいところなんだけど。

 そういう独特な思考回路の帆影だから、僕の告白にはOKしてくれたけれど、一般的な意味での恋人関係を築けているかは自信がない。

 間違いないのは、最近の僕が彼女のことばかり考えているってことだ。それと、帆影歩は読書と入浴をなにより愛してるってことだ。

 だから僕は、彼女に読んでもらうと約束した作品を仕上げなければならない。なんとしても、仕上げたい。

 ――書き上げた物を読む帆影の顔を想像しながら、僕は改めてパソコンに向き直った。

 アイディアはあるんだ。後はそれを文章の旋律に流し込むだけ。僕はキーボードに乗せた十指の関節を蜘蛛くものように立ち上がらせ――


 ――本棚の本が、著者順に並び替えられた。


 ――スマホの使ってないアプリが、すっぱり消えた。


 ――買ったまま忘れてたコンセントキャップが、部屋中のコンセントぐちにはまった。


 ……………………

 だ、ダメだ…………書かなきゃと思えば思うほど、いつもは後回しにして気にもしない生活アメニティが充実していく……これじゃ時間を持て余したゆうかんしゅじゃないか。

 書く、ってこんなに大変なことだったのか……世の作家さんはどういう脳の構造をしているのだろう。何万字もキーボードを打っている途中に掃除をしたくならないのだろうか? 音楽プレイヤーのアプリを起動して、「僕の考えたオシャレな再生リスト」を作りたくなったりしないのだろうか?

 せっかく一念発起したというのに、初手から挫折してしまった。

 今さら「やっぱり書けなかった」と告げたら、帆影はがっかりするだろうか。それとも、いつも通り淡白たんぱくに「そうですか」で終わるのだろうか……

 自分の文才のなさへの失望が、考えを悪い方へ悪い方へ堕としていく。

「……はぁっ……」

 我知らず吐き出した溜息ためいきに反動でもあったかのように仰け反って、背もたれを支えに天井を見上げる。古びた蛍光灯の微かな明滅に詩的な物寂しさを感じるのは、心境のなせるわざだろうか――

 そんな時だ。

 出し抜けにドアが開かれた。

 ノックの一つもなく僕の部屋に入ってくるような狼藉者ろうぜきものは、この新巻あらまき家には一人しかいない。ためらいもなくすたすたと入ってきて、ぽかんとしている僕の顔をずずいっとのぞき込んでくるつつしみ知らずは一人しかいない。

 つい最近、自分の親友とライトノベルにまつわる相談事を持ってきた記憶も新しい、我が妹だ。

「おいはゆ……いつも言ってるだろ。入ってくる時はノックくらい――」

 言いかけて、言葉に詰まる。らしくもなく、妹の目には涙が溜まっていた。

 寝る前なのか髪を下ろしていて、外出時のポニーテールに比べるといくらかは大人っぽく見える。初夏の今、定番の部屋着であるタンクトップとショートパンツは寝間着も兼ねていて、惜しげもなくさらされた手足が静かな夜気の中で燦然さんぜんえていた。

 だが、そんないかにも健康的な四肢は何故なぜかぷるぷると震え、どこかしら猫を思わせるまなこに溜まった水滴を揺らしている。

 ……なんだよ。

「まさか……また果穂かほちゃんとケンカしたのか?」

 直近の落ち込みの原因となった親友の名を出してみるが、映は答えず、ただぶんぶんと首を横へ振った。

 まだ映が小さな頃、泣いていると上手くしゃべれなかったことを思い出す。しゃくり上げるばかりでなく、胸が詰まってしまって声が出せないらしい妹を前にして、どうしてやればいいのか解らず困り果てた記憶がいくつもあった。

 こうなるとまぁ、三つ子の魂なんとやらで、放ってもおけない。

「とりあえず座れよ」

 よほどショックなことがあったのか、いつもは生意気三昧ざんまいの映が素直に従って、僕のベッドへ腰を落とした。僕は椅子を動かして、妹の前に座り直す。それから腰をかがめて目線を合わせ、く。

「で……なにがあったんだ?」

 まさか失恋とかだろうか。それだったら……力になれないかもしれない。

 そんな不安が心をよぎったが、映の口から出てきたのは意外な名前だった。

「……今日さ、学校の帰り道で、さか先輩に会ったんだ」

 伊井坂りんは僕の同級生で、リアルで見るのは珍しいツインテールの髪型と眼鏡がトレードマークの女子だ。オープンなオタクで漫画研究会に所属し、部室が隣同士なこともあって、僕や帆影と話す機会も多い。

 映は先日来、暇な放課後は文芸部の部室に遊びに来る。伊井坂ともだいぶ親しくなったようだ。オタクを毛嫌いしている映と伊井坂がコミュニケーションを築けたのは、ひとえに伊井坂のポジティブで物怖じしないキャラゆえだろう。

 伊井坂の輝度の高い笑顔を思い浮かべながら、目顔で先を促す。映は僕から視線を外して、ぽそぽそと話を続けた。

「それで、今オススメのラノベを持ってるから貸してあげるよ、って本を押し付けられたの……初めて見る背表紙のやつ」

 映が知らないレーベルだったのだろう。その本の内容に、なにか衝撃を受けたということだろうか。インパクト重視で過剰にグロい描写とかする作品も多いみたいだしな。

「……どんな本だったんだ?」

 訊くと、妹の中でなにかが込み上げたらしかった。肩をすくめてうつむき、ぎゅっと目を閉じる。

 ……こんなに弱った映の姿は久しぶりに見る。まるで、なにか悪いことをして、叱られるのを恐れる幼児のようだ。

 いつもは小憎たらしい妹だが、今日は優しくしてやろう。そんな風に思いながら待っていると、映はかすれた声で恐怖の理由を語った。


「男の子同士が…………なんか……こう…………ハードなやつだった」

「……………………………………そうか」

 あのメガネ、シメよう。


 本当に久しぶりのことだが。

 僕は、妹を守るために戦う決意を固めたのだ。


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