第四十二話 母と子

 岡豊城の貞親のあの屋敷に、綾姫は一人で捕らわれていた。綾姫が、元親がこの屋敷に来るのは初めてだった。この屋敷は、かつて岡豊城が本山の手に落ちた折り、本山の一族によって城内に建てられた屋敷である。国親がこの城に返り咲くまでの間、この屋敷には本山の一族が暮らしていた。本山がどのような心持ちでこの屋敷を建てたか、暮らし様が一体どのようであったか、それを想像するだけで長宗我部の者ならその心は憎しみで溢れかえる。いわば長宗我部にとっては、ここは屈辱の具現だった。

 その呪いの屋敷に自分はいるのだと、元親は思った。どうして自分が捕らわれたのか、あれからしばらく経つというのに何故生かされているのか未だに分からない。

 最初は虎之助と勝隆の安否が気になって仕方なかった。あの傷の深さを考えれば考えるほど、恐ろしい事を考えてしまい、その内理性でなんとか別の事を考えられるようになった。まず、母と弟たちの安否である。貞親は父国親は確かに死んだと言っていたが、母や弟たちについては無事だと言っていた。あの局面と兄の性格から考えて、それが事実であることは間違いない。恐らく、この岡豊の何処かに捕らわれているはずである。今まで殺されなかったわけだから、局面が大きく変わらぬ限り処遇は今までの通りだろう。ここまで思案して、元親は少し安堵した。

どうして自分は殺されずに捕らわれたのか。貞親の立場にしてみれば、自分ほど厄介な存在はいない。この城あるいは長宗我部の勢力圏には自分の派閥が、今でも貞親の首を取ろうと潜伏しているはずである。早く自分を殺し、その事を示さなければいつ狙われるか分からないはずなのである。そして、やはりどうして兄がこの時機に反乱を起こしたのかが元親には分からなかった。

 

 その謎が今、解けようとしていた。


 「兄上」


 厳重に警戒されているその一室に、ようやく貞親はやってきたのである。ほぼ全ての目論見を達成したはずの貞親は、以前よりも鋭い目つきで元親の前に立っていた。貞親にしても、元親にしても身なりや今いる場所だけを思えば、依然とさして変わらぬ日常である。しかし、お互いもう引き替えせぬ所まで来ていることは、十分に得心している。


「しばらくぶりだな」


 貞親は表情を読み取らせずに、ただそう言った。


 元親は、ただ兄を真っ直ぐに見た。今心の中で渦巻いている疑問の数々を、兄であればそれをこの眼差しだけで理解するはずである。


 貞親もそれを当然のように察したのか、すぐに元親の思いに答えた。


「先日にお前が聞いた答えを教えやろう。俺は、俺の口から言うより、本人の口から聞いた方が、お前やその本人がより正当に苦しむだろうと思ったのだ」


 そう言った貞親は、部屋の入り口の方に声をかけた。戸が開かれ、二人の男に連れられてきたのは母のとよだった。拘束されてはいないものの、左右に立つ男たちの目つきは鋭く、監視と共に、いざとなればとよの命を即座に奪う役目の者であることは明白である。

 とよの姿は髪も乱れておらず、元親の知るいつもの母とほとんど変わらなかったが、ただ目だけが怒りと屈辱でぎらついていた。


「元親」


「母上」

二人は抱き合おうと駆け寄ろうとしたが、貞親や監視の男たちがそれを阻んだ。男たちは酢漿草衆であり、とよと元親が長宗我部の一族であろうとひるみはしない。

「さあ、お母上、元親に語っておやりなさい。その為にあなたを生かしているのだから」

とよは一瞬、涼しい顔の貞親を鬼のような形相で睨んだが、一つ呼吸をすると視線を元親に戻した。


 「元親、許して頂戴・・・。全ては私が、私がしくじってしまったからなの。あの日、国親殿は客人と話をした後、貞親に家督を譲ることをお決めになった。だから私は、父上とこの男を殺そうとしたの」


 その表情と声色は、岡豊の人々が春風の如しとたとえている普段のとよそのものだった。嫋やかに、心の底から申し訳なさそうな優しい慈母のようである。しかしその口から出る言葉は、およそ慈母からかけ離れているものだった。


「母上、一体何を言って」


「それを・・・失敗してしまった。本当にごめんなさい。もう少しで全て上手く行くところだったのに。父上は成功したのよ。けれど貞親は、側近の犬丸が代わりに毒を含んで死んでしまった」


くっ、ととよは目をつぶった。


「そう、今回も本当に運良くですね」

 とよが事実を暴露する中に、貞親が割り込む。


 「あなたは今までも、私に毒を盛ろうとしたことがあった。何度も何度も何度も。その度に私を支持してくれる者が死んでいった。この孤独な城で、それが俺にとってどれだけ悲しく恐ろしい事だったか、あなたには分からないでしょう。いや、もしかしてあなたはそこまで計算の上で、俺を孤立させたかったのかも知れない。あの日死んだ犬丸は、そう、俺にとっての虎之助だった」


 最後の言葉は、元親に向けられたものだった。自分の派閥の、事実上の頭である母が父と貞親とを殺して、家督を継ごうとした。この事実を貞親は、とよの口から、元親に教えたかったのだ。すなわち、その責任は自分の派閥を掌握できていなかった元親にあると告げているのである。そして自分は、多くのものを奪われたのだと責めている。

 そしてその瞬間、虎之助はもうこの世にはいないのではないかという思いが確信にかわって綾姫の身体に入ってきた。  

 

「ああっ、口惜しい。まつも優秀な子だったけれど、酢漿草衆にあれほど人材が豊富だとは予想を超えていた。最後の最後で見誤った。お許し下され元親殿、私はあなたを長宗我部の主には出来なかった。でも、どうか諦めないで、最後の最後までどうなるか分からないのですから。あなたは麒麟が駆け、鳳凰が舞って生まれた男の子(おのこ)なのです」


 元親は呆然と母と兄の言葉を聞いていたが、ようやく思いを口に出すことが出来た。


「母上・・・何故、何故そのようなことを」


「何故って・・・あなたを長宗我部の当主にするためではないの」

元親ととよ、まるでどちらかの焦点が合っていないかのように、顔を見合わせた。


「あなたを産んだ時から、いえ私がこの城に嫁いだ時からそれが私の役目だったわ。それが長宗我部の願いでもあったのよ。家臣の福留も久武も、この城の多くの者が、本山の血を引く当主を望んでいない。だから私は、今まで」


「兄を殺そうと、側近たちの命を奪ってきたのですか」



 とよはようやく、元親が自分を非難しているのだということに気がついた。


「元親、あなたは甘いのよ。どうして分からないの。私がそうしなければ、私が攻撃の手を緩めずにいなければ逆に貞親やその取り巻きがあなたや私に同じ事をしてきた。それは間違いないのよ。それが世の中というものなの。乱世なの。どうしてそれが分からないの。そうしなければ、生き残れない場所に私たちは生きていたのよ。私も、あなたもそして貞親も、そこからは逃れられなかったのよ」


 その言葉に、貞親も反論はしなかった。きっと、兄は自分や母に危害を加えることはしなかったかも知れない。しかし、兄の側近や支持者が本人に黙って暗殺を企むことは十分にありえた。

 母の言うことも間違ってはいない。兄の行動と感情も人間として当然のことである。しかし、誰もが正しい事をしていながら、どうして自分たちはこうも爛れた現実を引き寄せてはまったのか。分からない、分からない。元親はただこの世はなんとも理不尽だと、肩を震わせた。

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