いつか君と...

@Saihig

第1話

争い。叫び。恐慌。恨み。憎しみ。痛み。死。

白昼の街にこういったものがはびこっている。どこも防具を着けて武装した人間が丸石で舗装された道を走っている足音が聞こえる。その音と混じっている叫び声の原因は主に三つ。恐怖か苦痛か憤怒。小規模の破壊の跡はいくらかある。連行されていく人が数多く、あっちこっち怪我をしている男、あるいは女も子供も意気消沈した表情で道端で座り込でいて、一際酷い怪我で今に息を絶えそうな者もいる。この街では小さな戦争が行われているか襲撃を受けているかのどちらかのようだ。但し、それにしては一つずれている事がある。この大混乱の中で、家の窓からゴミ袋の中身をめぐって争っているカラスでも見ているかのようにこの光景を平然と見ている人、或いはほとんど気にしていない人が非常に多いことだ。


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ドシン!白い柔道着を着た男性が凄い勢いで畳に投げ付けられた。

「次!」

二人の男性が激しい掴み合いを始める。やがて一人が投げ倒され、ずしんと畳にぶつかる。先ほど「次」と叫んだ男がまだ立っていて、同じ一言を繰り返す。ここは中央大学の柔道部で、部長は今部員達に稽古をつけている。

「あっという間だった」

「やっぱ東(あずま)先輩には敵わんよな」

「本当だよ。少しでも太刀打ち出来る人は一人しかいないっつうのに、あいつまた遅刻かよ」

「東先輩よりあの人の胸を借りたいんだよな。色んな意味で」

「ちがいねぇ」

自分の番が来るのを待っている三人の男性がくすくす笑う。

「次!」

「はい!」と、その一人が瞬時に真面目な顔になって東の所へ向った。

東才機(あずまさいき)。去年この大学に入学した。今年は二年生にも関わらず、怪我をした柔道部の部長が復調するまで、代理として活躍している。その類いまれな実力故に誰一人不満を示さなかった。小学校の頃からずっと柔道に精進してきた成果というべきだろう。

ドシン!

「くっそ〜」

畳の上にひっくり返っていた男性の方が気を緩めて悔しがっていると道場のドアが開くのに気付いてそのまま頭を後ろに傾けてそっちに目を向けた。

「才機、また部員達を苛めているの?ちょっとは手加減してもいいんじゃない?」

言いながら入ってきたのは白い柔道着を着た女性だった。

「これのどこが苛めって言うんだ?それに手加減したら俺が一人一人の相手をする意

味がなくなるだろう。強い相手との戦いをなるべく経験した方がいい。それより自称副部長のくせに何遅れてんのよ?」

女性が頭を下げて両手をその頭の前に合わせた。

「ごめん!さっき知り合いにばったり会って思わず話しに夢中になってさ。気付いたらもうこんな時間だから急いで走ってきた。ほら、もう着替え終わったし」

才機は小さな溜め息をついた。

「ま、早く半分の相手をしてやってくれ。俺だけじゃ順番回るのが遅すぎ」

「は〜い。で、今日私が才機に勝ったら遅れた事を許してくれなきゃいけないからね」

「俺の承諾なしでそんなのは成立しない。どの道今まで一度も勝った事ないだろう?」

「過去にこだわり過ぎる男はもてないよ。今日はその鼻っ柱をへし折って勝ってやるんだから」

「ほー。言ってくれるじゃないか。じゃ期待しているよ」

この人は今瀬海(いませうみ)。才機と同様去年からこの大学に通うようになり、才機と同時に柔道部に入部した。才機が代理部長に任じられた途端に自ら副部長と名乗ったけど、実際に柔道部で三番目に強い人な訳だ。才機と部長は別として他の部員なら割と強い相手でも大体五中三は勝つ。

「よし、じゃ半分は副部長に稽古をつけてもらって。残り半分はこのままじゃんじゃん行くぞ」

足がせわしなく移動する音がし、止まったその次の瞬間。

「いや、だから、半分だけだって···」


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夕暮れ。夕焼けで赤く彩られた空。その赤い空の下の道場から最後の二人の部員が出てきて校門への道を辿る。海が目を強く閉じて両腕を長々と伸ばした。

「んーーーー、は〜。でも惜しかったね。後少しで私の勝ちだったのに」

「うん、ちょっと焦った。ま、安心して。約束を取り消してやるから。許してあげよう」

「何だそれ?恩を売ったつもり?才機の承諾なしで成立しないって言ったのは誰だったかしら?」

「はあー??いつから俺の承諾がなかったらお前との約束を守らなくてよくなった訳?」

「そういえば、腹へったなぁ。今夜は何食べようっかな〜。いい気分だから私がおごっちゃうか?」

《ごまかしやがった》

《ピンチ回避!》

「体動かしたらお腹すいたんでしょう?どっか食べに行こう」

海が頭の後ろで手を組んで提案した。

「ん?ああ、構わんよ」

「よし、今日は牛丼の気分だ」

「またか?お前本当に好きだなあ、牛丼」

「美味しい物は美味しいんだもん〜」


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翌日の朝。才機は憎たらしい目覚まし時計のブザーで目が覚めた。

《ねむっ。後五分だけこのまま横になりてぇ···*》

三十分経過。才機の目がいきなり皿のようになって心臓が一瞬止まった。

「やばっ!またやっちゃった!」

まるでアパートで火事が発生していたかのように才機は布団から跳ね起きて浴室に飛び込んだ。約二十分後にトーストを口にくわえて才機はアパートを出た。ひんやりした空気の中で上を向くと恋しい太陽がまだ見当たらない。唯一頼りになる熱源を諦めた才機は腕時計を確認して通りを歩いて行った。

《危なかった。何とか間に合いそうだ》

アパートから大学まで徒歩十分そこそこ。悪くない通学だ。大学の正門が見えてきたと同時に向こうから海の姿も見掛けた。いつもの元気で声をかけてきた。

「おっはよう!」

「おはよう」

「何だその格好?身だしなみをちゃんと鏡で確認してから大学に来た方がいいよ。だらしないんだから」

「え?」

説明の代わりに海が才機のシャツの立っている襟を直してあげた。

「あ、サンキュー。今朝は慌てて出たから気が付かなかった」

海は鞄に手をいれてヘアブラシを取り出した。

「その頭も何とかしなさい。ブラシは二時限の直前に返していいから」

思わずに才機が自分の頭に手を載せた。

「うむ、わりぃ」

「じゃ、先に行くね」

海は校舎の方へ向かった。才機は手近なトイレへ。


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二時限は社会学。二時限以外に海と同じ授業なのは六時限の文化人類学だけ。忘れず

に返しておかないと。才機は教室の入り口で待つ事にした。授業が始まる一分前に海もやって来た。

「さっきよりは様になっているじゃん」

海は差し出されたをブラシを取って鞄に戻した。

「うん。お陰さまで恥ずかしい思いをしなくて済んだ」

「今後は気をつけてよね。今朝はたまたま会ったからいいんけどいつも気付かせてあげられるとは限らないから」

海が才機の方を軽く叩いて先に教室に入った。才機はおじぎをしてそれに続いた。


ごろごろごろ。授業のペースは鳴った才機の腹に破られた。やっぱりトースト一枚では到底足らない。才機は今、ちゃんとした朝ご飯を食べなかった代償を払っている。高い。高いなぁ···

ようやく二時限が終わりを迎え、エネルギーが徐々に抜かれていく才機はのろのろと教室を出る。

「ほらよ」

振り向くと海が手を差し伸ばしている。そしてその手の平の上に三角形のお握りが載っていた。こんな所で飯に有り付く事自体に気を取られて才機は目の前のお握りを疑い深くじっと見つめる事しか出来なかった。我に返るのに数秒が掛かった。

「いや、それ海のだろう?今日はもう十分世話になった。海のお昼までもらえないよ」

「何言ってんの?今朝のあんたの姿から考えれば恐らく朝からろくな物は食べてないでしょう。それにこれと同じ物はまだ二個持っている。お腹があんなにうるさいんじゃ、次の授業で周りの人の迷惑になるだけよ」

「···でも、やっぱ悪いよ。そんなに」

「も〜、水臭いんだから!」

海は才機の言うこと遮ってその手を自分の手に取り、お握りを押し付けた。

「言っておくけど、ただであげている訳じゃないよ。心配しなくてもその内ちゃんと倍にしておごってもらうからね」

「了解した。かたじけない」

才機が頭を下げた。

去って行く海が人込みに紛れて消えるのを見て、才機は自分の次の授業へ向った。何だかさっきより空腹がちょっと治まった気がしたけど、ありがたくお握りをパッケージから出してかじりついた。梅干しお握り。どっちかというと才機にとって苦手な味ではあるが、今までの人生で一番美味しく食べられたような気がした。さ


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ようやくお昼の時間だ。才機はまっすぐ購買部に行ってカレーパン、焼そばパン、牛乳を買う事にした。必要な食料を確保したら、後はいつもの場所に行ってゆっくり食べるだけだ。その場所とは才機が四日掛けて遂に見つけた取って置きの場所。工学校舎の裏手にある空間。シンプルで小さな噴水と植物が多少あって、真ん中には草しか生えていない少し高めの花壇が円形になっている。そしてその花壇を囲んでいるのは座るのにちょうどいい高さの煉瓦塀。最初は他に誰かが先にここの領土権を主張していないか確かめる為に二日この辺りを見張っただけ。二日経っても誰一人現れなかったのでこの穴場を自分の食堂にすることにした。

《今日は西に向って食べようかな》

その煉瓦塀はコンパスみたいに鉄製の文字で四つの方角を示していて、そんなこと思って低い煉瓦塀の「西」の上に腰を掛けた。食べているとそのうちここが気に入っている理由がもう一つ現れた。毎回ではないが、この時間でたまにタヌキが一匹姿を表す。恐らく来るのがいつも同じ一匹。才機が食べかけの焼きそばパンのパンの部分を少しちぎってタヌキの近くに投げだ。タヌキが才機を警戒しながらそのパンのひとかけらとの距離を埋め、一瞬で食べ尽くした。才機が一つまた一つパンをちぎってタヌキに放ってやり、その度に誘い込むように投げる距離を段々短くした。しかし、相変わらず一定の距離まで縮めるといくらパンを投げてもタヌキが近づいて来ない。何とか手で直接あげられる距離まで誘き寄せたいところだが、このやり取りを何日やってもタヌキが中々心を許してはくれない。驚かせないようにゆっくりと尻を煉瓦塀の上に滑らせて距離を開け、タヌキが溜まったパンのくずを我が物にする。才機は動物が好きで今獣医を目指して勉強をしている。こうやって野生動物と触れ合う機会を逃すことはなく、子供の頃からたまに痛い目に遭っても懲りずに接しようとする。またパンを放り投げっているうちにもうそばしか残っていないことに気づく。流石にそれまでは手放さないと決めた才機がそばを頬張ってタヌキとにらめっこをする。暫く牛乳を飲んでいる才機を観察してご馳走はもう終わったと悟ったタヌキが特に惜しむ様子もなくどこかへ去って行った。

空になった牛乳パックを一旦地面に置き、膝を曲げた片足を煉瓦塀の上に載せて仰向けになった。空を見ると、今日は結構天気がいいなと思い、まぶたを閉じて目を休んた。こうやって才機は毎日昼食時を過ごす。他人から見ればさぞかし寂しそうな風景だろう。定義通りならば実際これは寂しい状態だと言わざるを得ない。でも幸いな事に寂しい状況であっても才機はそう簡単に「寂しい」という気持ちにはならない。昔からそうだ。本当に親しい友達がいないのも多分その取っ付きの悪さに原因があるかもしれない。別に無愛想な人という訳ではないけど、取り分け愛想がいい訳でもない。友達を持つのも持たないのも功罪相半ばする面があるのでどっちでも良いが、そうなると努力はあまりしない。そして努力をしないと自ずと持たない方向に片寄る。人と知り合って軽い言葉を交す間柄になっても、それ以上関係をそんなに深める事はない。ずっと前から何となくそういう展開になるのだ。あの人に出会うまでは···。

海はなぜか始めから自分の事をやたらに構ってくれたような気がする。才機はそう思っている。いつも挨拶をしたり、声をかけたり、会話を始めたり、今日みたいに助けたりする。才機としては自分が大した見返りはしていない。なのに海はいつも優しい。誰にでも優しいんじゃないのか?あのキャラではありえなくはない。海が部員以外の人と関わっているところをあまり見た事ないからよく分からない。そして部員と仲良くするのは別に普通だし。自分と話すのがそんなに楽しいかな?そんなはずがない。と、考えながら海と話すと自分が割と楽しいと思っている。海もそう思っている可能性はないとは言えないのでは?

···。

こんなのでくよくよしたって切りがない。

でも、もしかして。

あれだ。

あれだったら説明が付く。付くが、そんなまさか。絶対にありえない。

海が俺の事が好きな訳がない。

でも自分はどうだ?海の事をどう思っている?まだ好きだとは言えないけど、気になるのは確かだ。あの人と付き合うようになったらうまく出来るんじゃないかなと思った事はある。

彼女か。今までに彼女を作ろうとした事はなかった。いいんだろうなとは思っていたけど、彼女を作るのにそれほど執着していなかった。でも万が一海が本当に自分が好きだったらどうする?こっちの気持ちに気付いているのかな。告白するべきなのか?告白されるのを待った方がいいのか?ひょっとしたら彼女が俺に気があるって事をずっとほのめかしていて、俺が告白するの待っているのか?実際に確認していないけど海に彼氏がいないだとほとんど確信している。だが待っているうちに誰かに取られる可能性もある。参ったなぁと言わんばかりに手で既に閉じた目を覆った。誰かをこんな風に思うのは初めてだった。チャンスが低くても取り逃がすのはまずいのでは?才機の意見では海はどっちかというと結構可愛い方だし、他の男に目が付けられてもおかしくない。他に男友達一杯いるんだろうか。

《なら、やっぱりこっちから告白した方がいいかな。って、そんな度胸がないのは自分で分かっているくせに何考えてんだ俺は》

一番の問題はもちろん、相手の気持ちがはっきり分からない。去年の新入部員の歓迎会でまだそんなに親しくなかったのに海は自分の悪習とか将来の夢とか子供が何人欲しいまで色々話してくれた。ま、あの時、彼女はちょっと酔っていた気がしたんだけどね。前に一度、海に好みの女を聞かれた事がある。女の人がそれを男に尋ねるって事は、その男に興味があるって事じゃないのか?いいチャンスだったのに、海に同じ質問を聞き返さなかった。怖かったからだ。自分がその好みに沿わない事が。

《やっぱ無理だ。もっと確実なものに出来ないと言えない。卒業日ぎりぎりまで待って、運よくそれまで彼氏がまだ出来ていなければ告白しよう。振られてもどうせ会う事は二度とないからお互に変なぎこちなさは生まない。今はこのままでいい。彼女を作るのに急いでいる訳じゃないし》

そう思って、もう少し日なたぼっこをして噴水の音を聞きながら昼寝をした。この穏やかな雰囲気で眠りにつくのは難しくない。



ドシン!

しかし寝るのは難しくなくても、この円の形になっている煉瓦塀の上で眠りながらバランスを保つのは十分難しい。


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六時限が終わるまで後数秒。

「じゃ、この辺で終わりにしますか。続きはまた今度にします。今日はちょっと複雑な内容だったかもしれないけど必要ならば家でもう一回テキストで読むといい」

全員荷物をまとめ始めて、教室の外の廊下は間もなく学生で埋め尽くされた。その中で才機と海は一緒に道場に向う。

「一週間後の試合の準備はもう出来たか、副部長?」

「ん〜、かな。才機みたいに必勝の信念を持ってないけど。いいな、あんたは。試合で緊張感が湧いてこなさそうね」

「俺だって勝利は確実じゃないよ。その為に練習してるんだ」

「そうだったね。試合を目の前に控えてるといつもより練習するし。今日から皆より遅く残って一人で頑張るんでしょう?」

「うん、ちょうど一周間前になったからな。海もどう?」

「ん〜〜、一緒にいてあげたいんだけど、部活は好きとはいえ才機みたいに柔道に明け暮れるほどじゃないや。この大学でそんな事をしてるのはあんたぐらいじゃない?」

「そりゃないだろう。部活に熱心な人は海が思っているよりもいるかもよ?」

「ふうん〜。じゃ、あなた達の熱心に敬意を表して陰ながら応援させてもらう」

「それはどうも。って応援はいいからお前も本気でやれよ。素質はあるんだから」

「何だよ。私はいつも本気だよ」

「まぁ、そりゃそうだけどさ、もっともっと強くなれるよ、海なら。残るって言ってもたったの三十分ぐらいでいいよ」

「ん〜〜〜。考えておく」


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道場に着いたら更衣室に入って着替え始めた。先に着替え始めた部員もいた。

「東先輩、今夜の飲み会に来れますか?」

「うん。ちょっとだけ遅れるかましれないけど」

「やっぱ今日は残って修業をするんすね」

「まぁ、ね。それほど遅くはならないと思うがね」

「ま、とにかく息抜きも重要だって事忘れないで。多分一番必要なのは東先輩ですし」

全員準備が整ったところで稽古開始。道場は自分の技を磨いている若者で生き生きしている。四十五分経ったら休憩に入り、才機と海が立っている場所に二人の女子部員がやってきた。

「何か今日の今瀬先輩はいつもより手ごわかった」

「また腕上げたんじゃない?」

「そう?私はいつも通りやっているつもりだけど」

「家に帰った後でも練習したりするの?」

「ああ!分かった!実は東先輩にこっそりと個人的に稽古をつけてもらってるんでしょう。隅に置けないね、二人とも」

「ええ?そうだったの?」

それを聞いた片方の女子が口を手で覆い、海に確認する。

そこで海は腕を才機の首にまわして答える。

「そうだよ。二人でのプライベートレッスンだ。羨ましいいでしょう〜」

「やっぱりそうだった。ずるいよそんなの。東先輩もあまり変な事教えちゃだめだよ」

才機は海を横目で見る。

「こら、そうやっていつもからかってると本気にされるよ?」

「可愛いな、照れちゃって」

海が返事すると二人の後輩がくすくす笑う。

「はい、はい。休憩はそろそろ終わりだ!全員続きやるぞ!」

「ほら、今瀬先輩。東先輩を怒らせたじゃない」

「元はと言えばあんた達が煽ったんでしょうが」

「いいから、お前らも早くやれ」

一時間後、全員がまたしても着替えを済んでいるところだ。才機以外は。最後の部員が飲み会に来るよう才機に念を押して扉から出て行った。

《さて、もうちょい頑張るか》

深呼吸をして精神を統一し始めた。それから目をあけてゆっくり構えを取った。

《やっぱりいいよな、この静けさ。やすやすと集中出来る》

···と思ったら後ろから声が聞こえた。

「付き合ってやるよ」

海の声がしたような···。振り返ると海の顔が見えた。

集中力は一瞬にして雲散霧消。

「別に普段からこんな事をするつもりはないけど。今日だって飲み会に行く前に家に帰って着替えとかしたいんだからそう長くはいられないよ」

「そっか。じゃー···」

才機は壁に掛かった時計を見た。

「半までいいか?」

「そうね。さぁ、やるからには本気でやるよ!」

「そうこなくちゃ」

ほどなく二人が練習に全力を注ぎながら海は才機から色んなアドバイスをもらっていた。

《あんなに気が進まなかった割には相当集中してるな、こいつは。初めてかも、こんないい感じの海》

ドシン!

《あれっ?》

いつの間にか才機は天井を眺めていた。見慣れない光景だ。天井にあんな染みがあったなんて始めて知った。頭を後ろの方へ傾けると、次に見るものは目を丸くしている海とその顔にだんだん広がって行くにやにや笑い。

「え?やった?···やった〜〜〜!才機に一本取った〜!!」

海は叫んでぴょこぴょこ跳びはねていた。

「参ったな。本当にやられた。油断しちゃったかな」

「ああ!言い訳するな。今、正々堂々と勝ったよ」

「分かった、分かった。でも今のを再現出来るかな?」

才機は海に挑戦して立ち上がった。

「うん、出来るよ。···多分···かも」

明らかに自信を無くしつつ言い張ろうとする海。

それでも構えを取る。

「それじゃ、遠慮なく行くぞ」

才機も構え、頭を少し低くしつつ本気の目で海を捉える。

その威圧感は海にもよく伝わり、いっそう力んで、飛び掛かる才機を受け止める準備をしたものの、不意に時計を確認した才機が逆に構えを解いた。

「と、言いたいところだが、もうずいぶん時間を食っちゃったみたい」

「あ、本当だ。もう直ぐ四十五分だ。じゃ、私はそろそろ帰るね。勝負はお預け」

「あぁ、後少しで俺も行く」

才機は更衣室に走っていく海に呼び掛けた。

五分経つと海は私服の姿で戻って広間に入った。そして道場から退場する際に扉を完全に閉める前にその透き間から未だに練習している才機に言い残した。

「あっちに着いたらさっきの私の偉業をちゃんと皆に言い触らすからご心配なく」

扉が閉まるのを聞いて才機はかすかに笑ってうなだれた。

《今日はもう上がるか》


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家でシャワーを浴びてさっぱりしたら皆と合流だ。待ち合わせ場所は大学からそれほど離れていない居酒屋だ。毎朝歩いている方向を四十五度旋回した道のりはいつもの通学路と大して変わらない。七時十五分前ぐらいに店に入って九人の部員が待っていた所まで店員に案内された。沢山の焼き肉とビールが既にテーブルの上に散らばっていた。

「おい、東、さっき聞いたぞ。今瀬に負けたんだって?」

「ああ。ちょっと不覚を取ってね」

才機は苦笑いして襟首をさすった。

「こっち、こっち。今夜は才機が君臨する時代の終焉を迎えた記念を兼ねて祝うんだよ」からかう海はテーブルの隅にある彼女の隣の空いているクッションをパタパタ叩いた。

才機は席に着くと香ばしい肉の匂いが鼻まで舞い上がってくる。

「うまそうね」

「今夜はたっぷり食べてたっぷり飲むわよ」

そう宣言して海は手前のビールのピッチャーを手に取っるとはっとなった。

「あ、でも才機は飲まないんだ」

「うん。でも海は喜んで飲むよね」

才機は海が持っていたピッチャーを取って彼女のグラスに一杯を注いだ。

「じゃぁ、ウーロン茶でいい?」

「ああ」

才機は自分のグラスを差し出して一杯もらった。

するとテーブルの真ん中の方で座っっている男があの待望の言葉を告げた。

「それでは皆さん、早速乾杯と行こうか」

「乾杯!」

「乾杯!」

「乾杯!」

多数のグラスがチャリンと鳴る音は虚空の中で反響する。その辺りは直ぐに盛り上がって、柔道部の皆が活気づいた。そのうち次いでの注文もビールのお代わりの要求も次から次へと入った。才機の向こう側に座っている男がビールを飲み干し、グラスを握っている手をテーブルに置いて言った。

「な、東、お前も来るよな、合コン?いないんだろう?」

男は小指だけを立ててみせた。

才機は彼のグラスをなみなみと満たしてあげた。

「合コンかぁ···。正直俺はそういうのあまり好きじゃないんだよなぁ」

「そうなのか?どうして?まさか女に興味はないとか言わないよね」

「いや、言わないけど、何って言うか···ロマンの欠けらもないんだ、あれじゃ。」

「ロマンだと?何を言うかと思えばそう来たか。ロマンね」

「へ〜〜。ロマンチックな男だったのか、才機は?」

今度の問いは左手の海から発せられた。

「ちょっとぐらいいい別にじゃん。合コンと言えば彼氏や彼女が欲しくて知らない連中とデートをする為の集まりみたいもんじゃない?何が悲しくて赤の他人と付き合わなくちゃならないんだ?」

「なるほど、なるほど。じゃ、東はどんな出会いがいい?」

男は目を閉じて二回ほど深く頷いて尋ねる。

「それは···そうね···前から知り合っていて···時が経つにつれて自然にその人に対して特別な思いを抱くようになって···別に最初からそういうつもりはなかったけどつい···」

「つまり、友達から恋人になるってやつね」

海は才機を見ながら頬杖をつき、わずかに微笑んでそう言った。

対して男の方がぷっと笑った。

「そんな理想をいつまでも追っていると独りぼっちになるのが落ちだぞ。それにさ、合コンで会ったからって相手と付き合う事になるとは限らないんだよ。後で二人になってお互い単に遊んで楽しむ事だってありだぜ。色々な遊びをね」

「ああ!」

女子部員が突然声を上げた。

「今とんでもなくいやらしい事言ったね、俊(しゅん)」

「いや、冗談だよ!そうに決まってるじゃん」

「いーーえ、本気で言った。分かってるよ、あんたみたいな男が考えてる事なんて」

「だから違うって。真に受け過ぎだろう、お前」

男が必死に弁護しようとする。

その間、海は才機に向けて問い掛ける。

「で、才機が好きなタイプはどんな人?」

《あれ、また?この前教えたけど、忘れたのかな。ま、いいか》

「ん〜、外見なら好みとかは特にないかな」

「そう?髪が長い方とか短い方とか、そういうのどっちでもいい訳?」

「まぁ、長い方が似合う人がいれば短い方が似合う人もいる。俺は···そうね。初めて会った時の格好が一番似合うと思うことが多いかも」

「それって私が髪を伸ばしたら似合わないってこと?!柔道の邪魔になるから今は肩くらいの長さでどどめてるけど、いつかは気分転換に伸ばしたいかも」

「それは、実際に見ないと分からないな」

「容姿にそんなにこだわらないってことかな」

「というか、可愛い子ならどこでもいくらでもいるって。俺の理想はそんなに高くないだけかもしれないけど」

「可愛さってのは見た目だけじゃないけど。個人の癖や趣味も関わってくるよ。例えば、テニスをする女の子とか料理のうまい女の子が可愛く見えるでしょう?柔道みたいな男らしい事をやる女子も可愛いと思う?」

ここで才機は横目でちらりと海を見た。

「そういのはあまり関係ないかな。少なくとも俺にとっては」

「ふーん。じゃ、性格は?」

「性格か···」

才機が目を上に向けてちょっと考えた。

「好きな人のどんなところが好きかって聞かれたら、面白いところとか、頭いいところとか、優しいところが好きだとか言うのは一般かもしれないが、そういう人なら一杯いる。それだけじゃ好きにはならないと思うよね。どんな人か···。とりあえず、俺の欠点にも関わらず俺のありのまま好きでいられる人。一緒にいるだけで十分幸せな気分にさせる人。かな」

「ん〜。でもそれって性格じゃなくて、才機の事が好きな人、誰かを好きになった才機の当たり前の気持ちじゃないの?」

いきなり目から鱗が落ちたように、才機はただただ瞬きをした。

「ふむ。言われてみればそうかもね」

《って事は何?俺は誰でもいいから誰かを好きになりたいだけなの?それとも誰かに好かれたいのか?いや、両方か?》

「っていうか、才機に欠点なんかあったけ?どんな欠点なのか是非教えてください」

「大有りだよ。今ここで述べ切れないくらいある」

「はぐらかして人の知りたがっていることを教えてあげないところとか?」

「そうそう。それに沿って先の質問の答えを『分かりませーん』に変更だ。そういうのは多分、言葉で説明する事が出来ないんだ。本人すら完全に理解出来ない自分の気持ちが重要なんだろう」

才機は肩をすくめてから更に続けた。

「おそらく、大抵どんな二人でも、いい人でさえあれば結ばれて幸せになれるんじゃないかな。その気になれば。でもその気にさせるものは···何だろうね」

少しの間が空いて、海は出し抜けに聞いた。

「もしかして、好きな人いるの?」

「いや、彼女もいないのにそのはずはないだろう」

「ん?誰かを好きになるからその人を彼女か彼氏にしたいと思うんでしょう?」

才機は気取って人差し指を振った。

「チッチッチ。一目惚れなんて存在しないのさ。付き合ってもいないのにそんな気持ちを本物の好きとは言えん。付き合ってから初めて心から好きになるんだ。俺が思うには誰かを本気で好きになるのに一番大切なのは思いでだ。その人と二人で時間を過ごす事によって積み重ねていく沢山の思い出 」

「じゃぁ、誰かと付き合いたい気持ちは何っていうの?」

「気になる」

「似たようなもんじゃない」

「いや、違うんだよね、それが。気になる人にある日突然『どこどこに行かないといけないからもう会えなくなる』って言われたら、残念だとか、もっと一緒にいたかったのにとかしか思わないはずだ。しかし本当に好きな人ならそんな事言われて『残念だ』で済むはずがない。反対して離れる事を力の限り阻止しようとする。そして生き別れる羽目になったら悲しみに打ちひしがれる」

「まるでそういう経験をしてきたような口振りだけど?」

「俺が?まさか。彼女いない歴十九年だよ?」

「うそ!そうなの?」

「うそついてどうする?つくんだったら、経験豊富だってつくだろう」

「じゃあ、なんで?」

「ん?なんで?んーーー。作ろうとした事ないから···かな。告白されるほどもてる訳でもないし」

「ふうん。才機なら好きな人がいたとしても告白しないタイプっぽいよね。絶対待つ方だ」

「ま、事情によって、条件が揃えばするかも···」

「告白しないと後悔するかもよ」

それを聞いて才機は海がどんな顔をして言ったのか非常に気になっていた。だが何となくそれを自分の目で確認する勇気を出せなかった。

「他の男に取られちゃうかもしれないから言った方がいいよ」

「そういう恐れはあるよね。確かに···。じゃ、そういう海はどうなのさ?彼氏作った事ある?告白した事は?」

「私?私もない。なぜかと聞かれたら···何となくとしか言いようがないけど」

「なんだ、さっきあんなに偉そうに言うからてっきり色々経験しているかと思った」

「別に偉そうなんかじゃない。本心だもん」

「そうか。ま、一応覚えとこう」

約二十分後に壁に張ってある時計が八時三十分を迎えようとしていた。皆が帰る準備をし始め、全員店の外で集まったら別れの挨拶をしてそれぞれの道を行く。帰る途中、才機の頭の中で繰り返し再生していたのは先ほどの海との会話だった。家に着いて布団に身を投げ出してなおまだ海と交わした言葉を振り返った。

《今夜もその手の話になったんだな。俺の好きなタイプがそんなに気になるんだったらやっぱり海は俺に気があるって事じゃない?『柔道みたいな男らしい事をやる女も可愛い?』それって遠回しに『私は可愛いと思う?』って聞いているようななもんだろう。何より最後の告白の話。あれは『私の事が好きなら早く告白してよ』という意味だったかな。これで海が俺に気があるのは八十パーセントぐらい確信した。もしかして海は俺の気持ちがよく分からないから告白出来ずに俺の出方を見ている?確かに自分の気

持ちが悟られないようにいつも気をつけている。それが海を慎重にさせているんなら···》

「よし···やる。明日はやる!」

才機は決心を固めた。

《今夜の話からすると、もし断わっても、海は告白された事をそんなに迷惑だとは思わないだろう。···好きなら言った方がいい、か···。そこまではまだ至っちゃいないと思うけど、海なら簡単に好きになれそう。明日だ。明日はどんな日になるんだろう···》


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次の日。目覚まし時計はいつも通り六時半に鳴った。今日は抵抗せず、才機は起きて大学に行く支度をする。いつも通りシャワーを浴びて、いつも通り同じ朝食を食べて、いつもの時間でアパートを出る。そしてこの毎朝の日課を行っている間、気にかけているのは一つだけだ。今日という日はどんな風に終わるんだろう。部活が終わってから海に打ち明ける事にした。でも案外に緊張感はなかった。大学に到着しても、二時限で海に会っても、授業が全部終わって道場に向ってもだ。今日才機は初めて誰かに告白する予定があるなんて誰も予測しないだろう。それは海も含めてだ。練習にかかるといつものように見事にこなしている。海に二度と引けを取らないほどに。そして練習が終わったら才機はすぐに海に声をかけて、さりげなく会話を始めた。

「やっぱまぐれだったんだよ、昨日のは」

「そりゃ、そういつも才機には勝てないけど、才機を超える為の潜在能力が私の中に秘めているのが昨日分かった。知らないうちに私が代理部長、いや下手すれば部長になっちゃうよ」

「そんなに野心があったとは。だったらもちろん、今日も残って修業するんだな」

「う、それは···。私ほどの天才ともなれば修業しなくても放っておいたら勝手に伸びるんだ」

才機はただ「は?何言ってんだ?」と言わんばかりな視線を海に送るだけだ。

「もう、分かったよ。別に一緒にやってもいいけどあさっては文化人類学の試験があるでしょう?今日も明日も出来るだけ勉強したいんだ」

更衣室に向っている二人の女子部員がひそひそ声で言う。

「やっぱりあの二人中いいよね」

そして広間に残っていたのは才機と海だけ。二人の会話は後少しで終わって、海もようやく着替えに行った。これは全て作戦だ。海だけを引き止め、そのやり取りを出来るだけ長くして遅れさせる。これで海が着替えを終わらせて帰る頃には他の皆はもう先に帰っている。海を除いて最後の部員が帰ったら才機は道場の外でその人の去って行く姿と周りに誰もいないか確かめた。後は待つだけだ。

《それにしても不思議だ。何の緊張感を感じてない。普通は感じるよね、こういう時は。

海だからかな》

ちょうどその時、海が更衣室から出てきた。

《あれっ。才機はいない。まさか今日はもう帰った?いや、トイレでしょう。私は帰って勉強しようっと》

うまく逃げた気分で扉を開けて外に出たからさっき見当たらなかった才機がそこに立っているのを見て海は少し驚いた。

海を目にして遂に来た。緊張。

《やばっ。どうしよう。今さら感じてきちゃった。やめとくか?いや、ここまで来てそりゃない。やっと覚悟を決めたんだ》

「あら、なんで才機がここにいる?あ、まだ私を説得しようと思ったのか?今日は勉強するんだから無理。また今度一緒にやるから。っていうか、才機も一緒にどっかで勉強しない?あんたもちょっとやばいんでしょう、文化人類学」

「いや、そうじゃなくて。あのぅ···本当は後二年ぐらい待つつもりだったけど、昨日の話で思ったんだ。ここはひとつ海のアドバイスに従おうと。海はこんな事言われてそんなに困らないって。それで、やっと重い腰を上げる気になった」

「ん?何?私のアドバイス?」

向こうは何の話だか分かっていないようだ。才機は視線を海から外して遠くて違う方に向けた。

「うむ、その前にどうしても確認したい事があるから、先に確認するけど···なんか、まだ百パーセント確信していないから、見当違いだったら謝るけど···その···もしかして···」

視線をまた海に戻した。

「海は俺に気があったりするの?」

四秒ぐらい海は何も言わず、ただ才機を見るだけだった。そして返事をした。

「それって···ひょっとして恋愛的な感じ?」

期待していた返事とは違う。

《まずっ。見誤ったか?》「まぁ、そういう事になるね」

再びやってくる先ほどと同じ短い沈黙。

「私···才機が好きだけど···それは、友達として···彼氏とか、そんな風に考えた事は···」

「そっか。じゃ、俺の勘違いだったっていう訳だな」

他に何と言えばいいか分からなくて海はか細い声で「うん」としか答えられなかった。

「ま、男に二言はないから、一応約束通りさっきの続きをやるが···俺はかなり海の事が気になる。ま、話はそこで終わると思うけど」

今までの話の流れでまるで才機が言った事を予測出来なかったように海はびっくりした顔になった。

「え?私の事が?なんで?」

才機は空を見上げて腕組みをした。

「なんでだろうね。昨日言ったように何が人をその気にさせるのかは分からない。そりゃ、海は可愛いと思ってる。結構いい奴だし。でも俺がそのように思った人は今まで沢山いた。ただ···ただ、他の人と違って、海を見ていると、海を見る時にしか感じない何かがある···としか言いようがない」

「そう···なの?」海は 恥ずかしそうに微笑んだ。

「あれじゃ分かんないよな」

才機が苦笑いしたが、その苦笑は長く続かなかった。

「でも、まぁ、俺が見なした通りでいいのかな?」

「え?」

「その···告白されても別にそんなに困らない」

「私が?」

「うん。後二年待つつもりだったっていうのは、先に卒業して、別れる直前に言おうと思った。そうしたら海が断らないといけなくても、もう会わないから別に迷惑しない。でも昨夜の話を聞いて海なら平気だろうって思って」

「別に、困ってはいないよ。才機の気持ちは嬉しいし。その気持ちに答えられないのは悪いと思っているけど」

梅は伏せた目で最後の方を言い足した。

「それぐらいはあるよね」

頭をかいて才機は微妙な笑顔を見せた。

「ん〜、ま、今のを全部忘れてくれ、なんて言わないけど。どうせ忘れられないし。でもあまり気にせずに気をつけて帰ってね。車だろう?ぼうっとして事故るなよ」

言い終えると才機は扉の取っ手を掴んだ。

「才機はいいの、それで?」

「うん。いいよ。また明日ね」

「う、うん。明日」

海は道場の扉が才機の後に閉まるのを見て、そのまま閉まった扉を凝視し続ける。その扉の向こうで才機は練習を続行し始める。

「あっけなかったなぁ。これからは九十パーセント確信してないとな」


    • • •


数時間後、海の家。彼女はベッドの上で仰向けになっている。そのベッドに載っている右手の指先のすぐ近くに文化人類学のテキストが開いてある。左手の手首は額についていた。その目は天井をただ見つめていただけだ。

《全然気付かなかった。いつから才機にそんなに風に思われるようになった?》

まぶたを閉じながら手首を少し下げて目を覆い、その答えを記憶の中で探った。考えてみると自分が才機に気があるような素振りを見せた節はあったかもしれない。そりゃ、才機に非常に親しく接する時はある。でも顔に表情をあまり豊に出さない人だからそれぐらいしないと中々いい反応はしてくれない。海が思うにはからかい甲斐がある人だし。初めて会った頃は少しよそよそしい感じだったけど、才機の柔道の腕に素直に感心してもっと近付きたいと思った。その結果、意外と気が合うことに気付き、今では他の部員より才機と過ごす時間の方が圧倒的に多くなった。海は元々オープンな人だけど才機とは何でも話せるような仲になったつもりで、たまに話題が恋愛事に関係してくるけど、そういう話は楽しいし、男だからって避けるのは勿体無い。それに常に泰然自若な才機の意見は実に気になる。でもこんなことになるなら男であることをもっと意識した方が良かったかもしれない。一瞬、才機と親しくなったことを後悔し始めた。でもそのこと後悔し始めている自分に気づくとそんな自分が嫌になってその思いを極力払拭しようとした。

《悪い人じゃないんだけど、むしろ一緒にいるのが面白い。話すのも楽だし。なんか最後に自分より私の心配をしてたし。でも特別な感情とかそういうのは特に···。今まで通り出来ないかな。そもそも才機は元通りに戻りたいかどうか分からない。才機に話しかける度に彼はつらいだけでしょうか。明日は一体どんな顔をして会えばいいの?》

海は長いため息をついた後、うつぶせになって顔を枕に沈めた。

「もぅ〜〜こんなんでどうやって勉強するっていうんだ」

しばらくしたら、目が辛うじて前を見えるほど顔を上げた。

「どうしてくれるんだよ、才機」


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次の日、昨日と違って才機は大学に行く途中でも着いた後でもずっとどきどきしていた。お昼の時間になっていつもの場所で食べて、少しは落ち着いてきた。あの低い煉瓦塀に座って、才機は二時間前の二時限を思い出す。才機は入り口に近い席に座ったから入ってくる人はほとんどその席の前を通る。今日は才機が海より先に来たから海が前を通ったら必ず挨拶をすると決めた。実際に挨拶をすると海もいつものように「おはよう」と返事してくれた。ごく普通のやり取り。なのにどことなく不自然な感じがした。気のせいなのか考え過ぎなのか分からないけど、どうも見せてくれた笑顔はいつもより明るくてわざとらしかった。お互いの目が合った時間はいつもより微妙に短い。さすがに昨日みたいの事が起こるとあっては今度会った時は気まずい。

《海もそうだろうな。昨日はああ言ったんだけどある程度は動揺しているだろう。完全に元通りになるのは無理かも》

相変わらず海の気持ちが分からない。しかし、昨日やった事を意外と後悔してはいない。そりゃ、今、海は自分の事をどう思っているかを知っていて、奇跡的に過去に戻ったら同じ事はしないけど、もし昨日の出来事を本当になかった事にする機会が与えられても、何も変えない。叶わぬ想いをずっと抱えながら海と交際するより今の方がいい。でもうまく行かなかったからって縁を切りたい訳でもない。だって一緒にいるのが楽しい。向こうはまだそう思っているとは限らないけど。才機はお昼のごみを拾てて安らぎの場所を去った。

「なるようにしかならないか」


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六時限。才機は一番右側の列に座っていて、海は隣の列の二席前に座っている。才機は

中途半端に教授の講話を聞いていた。黒板を見ている時間と海を見ている時間がほぼ同じだった。ほんの少しだけ彼女の横顔が見える。海を見ているところを本人に見つかる心配はまずない。でもやはり···海を見ていると例の感じる何かが込み上げる。向こうはその気じゃないなら別に口説いて心変わりさせるつもりはないけど。それこそ迷惑だ。

《あああ!もうー!なんであいつがこんなに気になるんだよ?!こんなの初めてだ。あいつの何がそんなに特別なんだ?率直に言ってこの教室にだって海よりも可愛い女の子が何人もいるのにどうして?なんであいつだけがこんなに···》

悶々とする才機。

見なければいいのに。見なくて別の事に集中すればいいのに···。自分にそう言い聞かせるのは簡単でも、実行するのは中々難しい。

六時限が終わると次は部活の時間だ。海は先に行ったようだ。二人は必ずしも一緒に道場に行く訳じゃない。別々に行く日もあるから大した意味はない。多分。

練習が始まったら稽古は順調に進む。海は楽しそうに女子の部員と話す。才機は真剣に指導をする。二人の間に何かがあったなんて誰も思うまい。休憩時間に海と二人の部員が一緒に座っていて、その会話が近くで壁に寄り掛かっていた才機の耳に入る。話していたのは主に海と一緒にいる二人の女子だった。

「それで彼氏とあっさり別れた」

「ヘ〜。二人はいつから付き合い始めた?」

「四ヶ月前ぐらいかな。あの時はこうなるって知ってたら全然相手にしなかったけど」

「やっぱりいい男はそう簡単に見つけられないよね」

「なんかさっきからずっと黙っているけど、海は誰かとそういう関係を持った事ない?」

「私?ないですね」

「あんたと違って海なら最初からそういう男と関わらないからだ」

「じゃ海のタイプはどんなかな。やっぱり東みたいな人がいい?」

「そうだ。東と付き合っちゃえば?二人なら相性よさそうだし。うまく出来るんじゃない?お似合いのカップルだ。ね、春華(はるか)」

「え、え?そうなん?」

恥じらう海。

才機だけがその反応がいつもと違うという事に気付き、そしてその反応の本当の意味を知っていた。だがしかし、せっかくその稀な様子を誰も気に留めなかったのに、仕舞には少し赤くなった自分の頬に海は裏切られた。無論、なぜその頬を染めたのか、その原因については誤解された。

「あれれ?なんかその顔、赤くなってない?」

「図星か?!」

海が返事出来る前に才機が割り込んできた。

「あのな、本人がここにいるんだぞ。何だよ、その根拠のない勘ぐりは?俺たちの間には何もないよ」

「東も素直じゃないな。取り持ってあげてるんだからフォローしないでどうする?」

「仲人はいらん。まずは自分の心配をしろよ。また独身になったそうではないか」

人を追い払う手振りを見せながら才機がそう言った。

「ほら綾子(あやこ)、私達が手助けしなくても自分で出来るって。二人にしてあげましょう」

そしてにやにやしながら二人はその通りにした。

「あの二人本当に飽きないなぁ」

才機は腕を組んで遠ざかる二人を見ながら言った。

海は座ったまま何も言わない。別に海に言った訳じゃないから返事がなくてもいいけど。二人は無言でただ周りを見るだけ。やっぱり、ぎくしゃくしている。そのうち海は才機に顔を向けて口を少し開けた。何かを言いかけたけど、才機は道場の中央へと歩き出し、結局口をつぐんだ。

「はい!皆、続けるよ」

海の顔にはめったに見られない悩む表情を彼女は頑張って隠そうとして皆と練習を続く。


    • • •


こんな風に何週間が過ぎた。あんまり長い間お互いの目をまともに見れず、学内のどこかで相手を見かけても、向こうに気付かれなかったら自分から声をかける事が少なくなった。一緒に過ごす時間はおそらく前より減った。そんなある日、海は三人の女友達とテーブルを囲んでお昼を食べている時に突如として言い出した。

「ね、皆は告白られた事ある?」

「私はないけど真由なら彼氏がいるからされたんじゃない?」

左に座っている女性が海の右に座っている本人の方にあごをしゃくった。

「いや、実は告白ったのは私の方だった」

「あるよ。二回。なんで?」

海の真向かいに座っている女性が中途半端に手を挙げた。

「そうなん?じゃ、どうなった?」

海は口に入れようとした卵焼きを弁当箱に戻して詳細を要求した。

「んー。最初はいいんじゃないかなと思ってオーケーした。でも三日ぐらいで別れた」

「はやっ。どうして?」

右手の女性はそう尋ねた。

「なんか面白そうだったけど面倒くさくなったかな。だって休み時間は必ず一緒に遊ばないといけなかったり、リコーダーの練習も決まって二人でやらないといけなかったり」

「ちょっと待って。これ、いつの話?」

海は怪訝な顔で割り込んだ。

「小三の頃の話」

「そんなの入らないよ。二回目はいつだった?」

明らかにがっかりして海は続きを促した。

「先月」

こんどは真由がびっくりした。

「ええ?!聞いてないよ、そんなの!」

「別に言うほどの事じゃないから。相手の事ほとんど知らなかったし」

「じゃ、振ったの?」

「まぁ、無下に振るほど冷酷じゃないし、ちゃんと話し合ったけど、そうよ。断った。当然でしょう」

「今はその人とどんな関係なの?」

尋ねたのは海だった。

「関係もなにも、元々そんなに深い仲じゃなかったんだ。別にどうもしないよ」

「そっか」

海はテーブルに置いてあった自分の両手にあごを載せた。

「どうしたの、海?告白でもされたのか?」

左の女性はそう尋ねて弁当から取り出したプチトマトを口にした。

「うん。かなり仲のいい人に」

「その様子だとめだたくハッピーカップルになった訳じゃなさそうね」

「分かる?それどころかだんだん疎遠になっているような気がする」

「どれくらいの付き合い?」

「去年入学した早々からの。たまには話してるでしょう?柔道部での強い友達」

「ああ、才機だっけ?」

真由が本人の名前を思い出す。

「そう。三週間前に告白されたんだ。私全然気付かなかった、才機がそういう気持ちだったなんて」

さっき海が聞いた質問を今度聞かれた人が海に聞き返す。

「で、今はどんな関係なの、二人は?」

「···分かんない。でも前と違うのは確か。話はしてはいるんだけど···なんか、無理にというか、不自然というか。こう、お互い本当の自分を見せていないみたいな」

「じゃ、本当の海はどうなの?何がしたい?」

真由は海の目を直視する。

「本当の私?本当は前みたいに楽しくやりたい。一緒にふざけたり、からかったり、助け合ったりさ」

「一緒にいるのがそんなに良いなら付き合ってみたら?」

「そう言われても···」

海はちょっとそわそわして目を逸らした。

「複雑です」

最後の方はすねるように行った。

「だったらさっき言った事を彼に言うしかないんじゃない?」

「そう簡単に言えるもんじゃないでしょう、それ」

左側の女性が口を差しはさんだ。

「分からんな」

海と真向かいの席に座っている人が頬杖をついて胡麻の掛かったご飯を何回か箸で突いた。

「彼氏と別れた後でも、翌週には何もなかったように私達は普通にいつも通りやってたけど」

「その話はもういいから。八歳じゃないんだから私達は」

今度は顎に止まらず、海がテーブルに置いてあったその手に完全に突っ伏した。


    • • •


「この前のテストの平均はちょっとばかり低かったので同じ内容をまた来週のテストに

出すぞ。言うまでもないと思うがもちろん、最近勉強した事も含めてね。今週末を利用してしっかり勉強する事だな。以上」

才機はノートとテキストをバックパックに入れ、席を立った。教室を出ようとした時にちょうど海もそのドアをくぐるところだった。才機は道を譲った。

「どうぞ」

「サンキュー」

校舎を出る時もドアを開けておいて先に海を通らせた。才機は今までこのような気を使うのが普通だったかどうか判断しかねていた。海が外に出た途端に顔に吹き付ける冷たい疾風に迎えられた。

「教室の中でも風の音がしたんだけど凄いね、これ」

風がもろに目に入らないように才機は少し顔を背けた。

「本当。しかもいきなり」

「雲もやばい感じがするなぁ」

「天気予報でこんなの一言も言わなかった。うわっ、さむっ」

海が手を上着のポケットに突っ込んだ。

「早く道場に行こう」

「うん」

足早に歩いて二人はやっとの思いで道場に辿り着いた。

「ああ、寒かった〜。これじゃやる気が出ないなぁ」

海は手を必死にこすって暖めようとした。

「ま、とりあえず着替えよう。始まるまでに少しは暖まるだろう」

部活開始時間になったら体は多少暖まってきたけど海はもうちょっと暖まってもいいと思っていたが、そんな弱音は才機に通じるはずがないから観念した。部活動に加わる以外道はない。

部活が終わったら、帰ってぬくぬくとベッドの毛布に包まれたい気持ちは山々だったけど、スーパーでの買い物をお母さんに頼まれていたので帰るのはまだ早い。今日は弟が車を借りているから電車で帰らないといけないし、長い一日がまだまだ続きそうだ。海は出口に向ってその話をもう一人の部員にしていた。その話は扉の近くで他の部員が帰るのを待っている才機にも聞こえた。

《こんな天気で買い物か。手伝った方がいいよな。一人じゃ大変そうだし。海は喜んでくれるはずよね。こっちに来たら何気なく「手伝うよ」って言えばいい》

そして海ともう一人の女子が近づいてきた。

「じゃね、才機」

「また明日、東先輩」

「うん、じゃな」

二人は去って行った。

言えなかった。

言えると思ったのに土壇場でおじけづいて言えなかった。

しばらくしたら他の部員も皆帰ったので才機も帰途についた。外に出ると強風に加えて霧雨も降っていた。

《くっそー。何やってんだ俺は。「困らない?」とか言っておいて俺が普通に出来ないじゃないか》

才機は首を振った。

《いつまでもこんなんじゃ駄目だ》

やがて才機が正門を通り抜けて立ち止まった。

《まだそんなに遠くには行ってないはずだよな》

今日、学園を去って才機はいつもと違う方向に向かって走って行った。


    • • •


天気はひどくなる一方だった。

《今度は雷かよ。何だこの異常気象は?海は買い物に行くのを諦めたかな。雨はまだそんなに強く降っていないけど》

確かにこれくらいの雨なら使いに行くのを思い止まらないかもしれない。雨というより靄に近い。でもその割には雷鳴の轟きがやけに頻繁になってきた。才機はスーパーへの道を急いで海に追い付こうとした。

《海が同じ道を使っているといいんだが···》

才機が駆けていたのは彼が最も直接だと思っているルートだけど、大学からスーパーまでは一本道じゃないから海はどこで曲がったか知る由もない。幸いに人はそんなに多く出歩いていないが、海の姿が見当たらない。引き返して別のルートに当たってみようと思ったら、海が川にかかっている橋を渡ろうとしているのを発見した。

《いた!》

「海—!」

呼びかけて彼女の所へ駆け出す。

しかし才機の声は風にかき消され、海の耳に届かなかった。二人の間の距離が縮まってきたところでもう一度海の名前を呼んだ。

「海!」

今度は聞こえたようだ。本人が全身をくるりと向き直った。そしてまるで彼女と接することで何かの禁忌を破ったかのように、同時に空が光り、雷鳴が不吉に轟いた。

《?》

海は片手をかざしてそれまで背中にぶつけてきた風から目を覆った。前方を見ると指の間の透き間から才機のぼうっと見える姿が程なく明確になってきた。

《才機だ》

後二十メートルで海の側に辿り着いたその時、先程の雷が橋の上にぽつぽつ植えられ

た木の一本に落ち、その木がパッと燃え上がって倒れ始めた。落雷された木は橋の右側にあった。海からは道を隔てた真向かいで起きた事とはいえ、海は橋の左側にいたから下敷きになる可能性は万に一つもない。だが、対向車線で後ろから向ってきていたトラックはそれを回避しようと強く右折し、炎に包まれて落ちてくる木をぎりぎりで避けた。そしてそのはずみでトラックの新たなコースの真っただ中にいるのは海だ。本人はその事に気付いたが立ちすくんでいて身動き取れなかった。才機の走りが猛烈なダッシュに変わた。でも間に合いそうにない。あのでっかいトラックを完全に避けるのは不可能。

「危ない!」と叫んで海を両腕で掬い上げた···そして半ば海を肩に担ぐ形で橋の低い欄干を間一髪で跳び越えた。トラックが欄干に衝突する雑音が響き、二人は頭から先に川へと墜落する。九十メートルかそこらの落差だ。川の深度はせいぜい二メートル。無事では済むまい。無駄だろうが才機は本能的に海の頭と体を自分の腕で守ろうとしてもっと力強く抱き締めた。激突まで後六十メートル。四十メートル。二十メートル。又しても稲妻が空を走った。そのとび切り大きい落雷が空中の二人を覆って吸い込むように見えた。


    • • •


闇。物凄い土砂降りの音しかしない。体が寒い。体熱が地面に奪われていく。地面?海はうめき声をあげてゆっくりと目を開けた。上半身を起こして周囲をよく見ると、どうやらどこかの小さな洞穴にいるみたい。周りには何もないし、誰もいない。外は雨が降っているらしい。海はそれまで何があったか思い出そうとした時に声が聞こえた。

「よかった。気が付いたみたい。大丈夫?」

問い掛けてきた声の方へ顔を向けると、洞穴の入り口に才機がいた。

「うん、大丈夫。頭がくらくらするけど」

海はそのがんがんしている頭に左手を添えるところだったが、急に腕を訪れた痛みのせいで動きを止めた。しかめっ面をしながら右手でその腕を握りしめてから袖をまくり上げた。二の腕に打撲があった。

「あぁ、わるい。さっき海を持ち上げた時に物凄い勢いでぶつかったからなぁ。多分そのせいで」

才機は海の隣にあった岩に腰を下ろした。

才機の言葉を聞いて先ほどの出来事の記憶が一気に戻った。

「ううん。命を救ってもらって相手に謝られる必要はないよ」

海は外の雨を眺めて才機に聞く。

「どこ、ここは?才機が運んでくれた?」

「いや。目が覚めたら俺はここで海の···」

才機は明後日の方向を見てから続きを言う。

「···俺も横たわっていた。ついさっきの事だ」

「じゃ、誰か私達をここに連れてきてくれたってこと?」

「そうとしか思えないけど起きたら他の誰もいなかった。海は息をしてたからそのうち

起きるんじゃないかと思って外の様子を見てきた。でも···変だ」

「何が?」

「俺達は今どこいるのかさっぱり分からない。この辺りの地形に見覚えが全くない。そもそもこんな崖はあったっけ?」

「近くに誰もいなかった?」

「海の事が心配であまり遠くは行かなかったが人気ははなかった。外は森みたい」

海が眉をひそめた。

「大体、なんで俺達が助かったのか分からない。海のその打ち身を除いて俺達は傷一つも付いていない。どういう事だ?」

海が自分の体を確認して才機が言った事が本当だと気付く。

「まぁ、とにかく生きているだけでも感謝しなくちゃ」

「そうね。まじで俺達はあの世行きだと思った」

ざあざあと降る雨は耳をつんざくような音がした。雨が一段と強くなったらしい。才機は海が次に言った事をかろうじてしか聞き取れた。

「ところで···」

「ん?」

「なんで才機がそこにいた?橋の上」

「え?あぁ、海の買い物を手伝おうと思って。ほら、天気はあれだったし、一人じゃ大変じゃいないかなって。それに···」

才機は海から顔を背けた。

「最近、俺は海を避けているような気がして。別にそのつもりはないのに」

少しの間、洞穴は雨以外何の音はしなかった。

「てっきり私の方が才機を避けていたと思った。前のように話してないし、才機の周りで変な気を使ってるし」

「それは俺だろう。今日だって···少なくとも今日だと思う···本当は海が帰る前に手を貸そうと思ってたけど言えなかった」

「それを言うんなら、私も才機に手伝ってもらおうと思ってたけど頼めなかった」

二人は何も言わず、ちょっとの間互いの顔をじっと見ただけ。そして同時に笑い出した。あの時以来、久しぶりに心から一緒に笑った。

にやにや笑いがまだ少し顔に残った海は膝を抱えた。

「ありがとうね。助けてくれて」

「何水臭い事言ってんだよ。当たり前だろう?···って言うか、助けたって言えるかな。あれは正に一難さってまた一難。後先の事全然考えてなかった。橋から飛び降りた後は完全にお手上げだった」

「それでも、気付いたよ···落ちながらも私を守ろうとしてくれた事」

才機は肯定する事も否定する事もせず目の前の壁を見るだけだった。

「なんか、久しぶりね。こんな風に話すのが」

海はそう言って懐かしむように少し微笑んだ。

「そうかもね」

そこで海は真由との会話を思い出した。

《本当は前みたいに楽しくやりたい。一緒にふざけたり、からかったり、助け合ったり》

《だったらさっき言った事を彼に言うしかないんじゃない?》

自分の膝を見ながら海は切れ切れの声で言いう。

「ね···前みたいに···さ、また才機と一緒にふざけたり、からかったり···助け合ったりしても···いいかな?だめかな?」

「だめ?俺は願ったり叶ったりだけど」

海は才機と目を合わせて肩の荷が下りたような感じがした。

「ごめんね」と海が急に誤った。

「何が?」

「何でも」

「謝らなくていいよ。罪悪感も感じなくていい。自分の気持ちは自分ではどうしようも出来ないんだから。ってゆうか、気にすんな、本当に。言ったろう?海の事が気になるって。飽くまでそれだけだから。好きになった訳じゃない。正直に言うと海以外に他にも気になる子が何人かいるよ。ただ、一番気になっていたのは海だったってだけだ。そして海も同じ気持ちだと勘違いした。それだけの事だ」

才機は自分をも説得しようとしているような気がした。

今でも海の事がまだ気になるかどうかははっきりと言わなかったけど、海はそれを考えるのを後回しにすることにした。

「じゃぁ、聞きたい事あるんだけど」

「何?」

「私が寝ていた間に···私に何か変な事をしなかった?」

海は才機を怪しむような目で見る。

才機は危うく岩から落ちそうになった。

「え?!な、何言い出すんだ?する訳ないじゃん!」

「だって、さっき才機が起きた事情を説明した時、なんかたどたどしく話してた。変に目を逸らしたし」

「そ、それは···その、うそをついた訳じゃぁ、ないけど。目が覚めたら横たわていたんだ。ただ···」

「ただ?」

「ただ···地面じゃなくて、海の上に···海を抱いたまま横たわていた···。でも疚しい事はしてないよ、本当!」

「どうだか。気絶している女の子を目の前にして男は果たして理性を保てるものかしら。好き放題やっても明るみに出る事はないでしょうし。そう言えば私の体に傷がないのをよく知ってたわね」

「それは見たところって意味だった。体を実際に調べたりしてないよ。じろじろ見てた訳でもないけど。まぁ、見てたけどそういう目で見てたんじゃなくて、なんっつうか、心配だったから···」

慌て出す才機。

その点、海が爆笑した。

「冗談だよ。才機がそんな事をする人じゃないのは分ってる。あんたなんか人畜無害だ。ふー、やっぱ才機よりからかい甲斐のある奴はいないよ。少し元気出た」

才機は肩の力を抜いて、ため息まじりに言う。

「ったく。願ったり叶ったりって言ったのは間違いだったかな。っつうかお前の元気の源をどうにかしろ」

海の顔から笑顔が忽然と消えて、洞穴の入り口の方を見た

「あれっ。誰かが来る」

才機は海の視線を追って外を見る。誰も来ない。

「誰もいないよ?言っただろう?ここは人の気配がないんだ」

海は額にしわを寄せて首をかしげたが、外を見続けた。確かに誰かがいたような気がした。

「足音でも聞こえたと思った?あったとしてもこんな雨じゃ外の足音なんてとても」 才機が自分の台詞を言い終える前に入り口の右側から恰幅のよい六十代前半の男が現れた。頭のてっぺんの灰色の髪がちょっと薄かったがそれ以外は肩を超える長さで、背中に結構大きいなリュックを背負っていた。

「あら、先客がいたのか。わしもここで雨宿りさせてもらってもいいでしょうか?」

返事を待たず男が洞穴に入ってきた。

「う、うん。どうぞ」

返事したのは才機だった。

男はびしょびしょになったリュックを地面に置き、二人と向かい合ってあぐらをかいて座った。

「いや〜、それにしてもすげぇ雨ですね。もっと早くここを見つければよかった」

「あの、ちょっと変な質問かもしれませんが、ここはどこですか?」と海が尋ねる。

「ん?二人とも旅人かい?それにしちゃかなり身軽に旅しとるのぉ。ここはトゥリエ森じゃよ」

「トゥリエ?」

海が再確認して、「知ってる?」と言わんばかりに才機を見た。

才機はただ首を振って肩をすくめた。

「もしや二人はメトハインを目指しとるのか?」

「あー、いや···。メトハイン?ここは日本だよね?」

才機がおどけて言った。冗談のつもりで言ったのだけれど、受けなかったらしい。男は混乱した表情を見せた。

「どちらの方々ですか?」

「東京···だけど?」

「トウキョウ?どこの田舎か知らんが、旅をするんだったら旅先ぐらい知っといた方がいいぞ」

《田舎?》

才機と海が同時にはてなマークが見て取れそうな表示になった。

「とにかくこの辺にある町は南のガルドルと北の都のメトハインだけさ。ま、ガルドルは町と言うよりスラム街みたいなもんだがな。わしはそこに向っとる」

才機も海も同じような事を考えていた。一体どこに連れて来られたんだ?それとも、この人は正気でないのか?だとしたらなぜかこの人からはそういう印象を受けていないけど。

「日本って知らないんですか?」

白い目で見られる覚悟で海は試しに聞いてみた。

「んー。わしは地理学が専門じゃないが聞いた事ないな、ニホンという土地」

《いかれてるかとんでもなく勉強不足だな、こりゃ》と才機が思う。

「あなた達、ただあてどもなく旅しとるのかい?見たところ消耗品はもう使い果たしてある。よかったら一緒にガルドルまで行くか?メトハインほど立派な所じゃないがメトハインよりずっと近い。このまま西に歩けば約三十分で着く」

「じゃぁ···そうしようかな」

海が同意を求めるように才機を見た。

「ああ、そうだな」《とにかく町に行けばここはどこだか分かる》

「あなた達、もしや···いや、なんでもない」

男は何となく深刻な顔で言いさしたから気になったけど言わないのなら仕方がない。

「あ、忘れとった。自己紹介はまだじゃったな。わしはゲンと言ってこう見えても商人をやっとる。主にメトハインの商品をガルドルで売っとるからその間をよく行き来する」

「俺は才機。彼女は海。···旅の途中でちょっと道に迷ったみたい」

「そうか。ま、穿鑿はしないけど結構遠くから来たみたいじゃな。珍しい服も着とるし」

ゲンはリュックの中で何かを探し始めた。

「あれはどこにしまったかな。お、あったあった」

何か緑と赤色のナスに似た奇妙な果物らしい物を三個取り出した。

「やっぱびしょぬれじゃ。これじゃあまり高く売れないなあ。可笑しいよね、ナッチは。熟した後は濡れすぎると駄目になっちまうんだ。もう、しなびかけとるけど、今なら味の大部分はまだ残っているはずじゃ。食べる?」

「いいんですか?」

心中ではその見たことのない果物を疑わしく思いながら海がそう聞いた。

「もちろん。どうせガルドルに着く頃には価値のない荷物になるぐらいなら皆で噛み締めた方がいいじゃろう。はい、お嬢ちゃん」

ゲンは一個を渡した。

「ありがとうございます」

「はい、兄ちゃんも」

「どうも。これ、ナッチと言った?」

「そうよ。まさかナッチを食べた事ないとは言うまいな」

ゲンはその果物らしい物体にかじりついた。

「それが···ないんです」

「へぇー。ひょっとして二人の故郷は一年中ほとんど気候の寒い所とか?」

「そうでもないけど···」

才機はそう言ってナッチを注視し始めた。手ざわりは意外と柔らかい。皮を向いたバナナみたいだった。

海が一口食べた。

「なんか、ピリッとするナシみたいだ」

次は才機が味見してみた。

「悪くはないね」

「水を吸収する前だったらもっとうまいよ」

食べ終わった後、間もなく雨が次第に収まり、ようやく止んだ。

「お、やっと止んだみたい。それじゃ、今の内に出発しようか」

ゲンは立ち上がってリュックを背中に掛けた。

三人は洞穴を出て周りの様子を確認した。海は外に出るのが初めてでびっくりした。本当に森だった。ずっと洞穴にいたから自分がこんなうっそうとした森の中にいるとあまり実感しなかった。

「でかい蔓がうじゃうじゃしとる所もあるから足下に気を付けて」

ゲンがそう忠告して森の奥へ進んだ。

才機は空の方を仰ぎ見た。

「雨上がりの虹はないっか」


    • • •


ゲンに案内されてガルドルを目指してから八分。不気味な音がした。

「オウウウウウウウー」

「何?今の?」

海は立ち止まってきょろきょろと辺りを見回した。

「まずいなぁ。雨が止んで出てきたのはわしらだけじゃないようじゃ。ペースを上げよう」

ゲンは心配そうな顔で二人に急ぐように促した。

「今のって狼か何か?」

警戒しながらも才機は思わずちょっと見てみたいと思った。

「そうじゃ。この辺には狼がうろつくから近道ではあるが森を経由することには危険が伴う。昼ならともかく、この時間帯は特にね」

「人が襲われたりしますか?」

海はひそひそとゲンに聞いた。

「そうよくある事じゃないが、前例はある。もっとも、人はこの森をあまり通らないけど。わしの場合、雨が降り出す前にガルドルに着こうと思ってこの森に入った。失敗じゃったがな」

「オウウウウウウウー」

今度は前より近くに聞こえた。

「いかん、狙われとるかも。」

ゲンは目だけで左右を確認した。

「走るぞ」

振り返りもせずゲンが走り出し、才機と海はゲンの後について走った。無数の木を避けながら二人の心臓は激しく鼓動していた。森の地面はむらがあって全力で走るのがち

ょっと難しい。気を抜いたら落ち葉に隠された石や木の分厚い根っこにつまずきそう。

「オウウウウウウウー」

三人は明らかに追われている。このままだと追い付かれるのは時間の問題だ。身をかくまえそうな場所もどこにも見当たらない。才機は何かの策を考えようと必死に頭をひねっていた。そのせいかどうかは定かではないが、才機は力強く転んだ。それを並行して走っていた海が視野の端で見て百八十度転換し、才機の元へ引き返した。

「こんな時に何転けてんのよ?!早く起きて!」

「あいたっ。何かに引っかかった」

才機が前を向くと海は自分が落ちている場所に戻ってきていた。

「バカ!何やってんだ、お前?!こっち来んな!あっちへ逃げて!」

「置いて行ける訳ないじゃない!」

海は才機の腕を掴んで助け起こそうとしたが才機のひざが地面から離れない。

「足が」と才機が一言言って体を引っくり返した。左足が蔓に絡まれていた。しかもかなりもつれていた。

「一体どう転べばこうなるんだよ?!」

海はもつれた蔓をほぐすのを手伝おうとする。

ゲンは立ち止まって二人に呼び掛けた。

「急げ!もうすぐここまで来とるはずじゃ!」

「もういいから、先に逃げて!俺もすぐ行くから!」

「もう少しだ。足を引っ張って!」

海はそこから動かそうとせず、才機の足を自由にしようとするが、厚過ぎてなかなか千切れない。十メートル先に木の後ろから出てきた一匹の狼が接近しているのが見えてきた。

間に合わなかった。

狼は口を開けて才機に突進した。才機は反射的に腕を正面に上げて目を強く閉じた。狼の鋭い牙は才機の首に届かず、腕にかじりつき、海は悲鳴をあげて尻餅をついた。

《今度こそ終わりだ》

才機は諦観してこの世を去る覚悟をする。

直にこの狼の仲間の何匹もやってくる。死を免れたばかりなのに。狼は自分の事で手一杯で海達を追わないよう祈るほか手はない。海がさっさと逃げてくれればの話だけど。才機の腕に狼の牙の感触を感じる。

感じてはいる···けど···

《あれっ。痛みがない。ってゆか、肌が破られた感じすらしない》

目をゆっくり開けて腕を見ると本当にそうだった。同時にその腕をくわえている狼の唸る顔面も視界に入った。その脅迫的な毛まみりの顔をこんなに間近に見たら然もの才機もぎょっとして腕を激しく揺り動かした。すると狼はきゃんきゃん鳴く声をあげ、あたかも石ころのように数十メート先の木の方に飛ばされてその幹に激しく叩き付けられた後、地に落ちて動かなくなった。今しがた到着してその場面を目の当たりにした二匹の狼はためらって才機と海の前に立ち止まった。怒ったような唸りで耳を閉じて、いつ飛び掛かってきてもおかしくない体勢に入っていた。五秒前に何がどうなったか分かっていないまま才機はおもむろに立ち上がって海の前に移動した。足が地面に繋ぎ止めていたという事を忘れていたが、立ち上がったら蔓は気付かないほどいとも簡単に折れた。「立って」と海にささやくところだったが狼が一匹山気を起こして才機に襲いかかった。才機はまたしても腕を盾にした。そして結果は同じだった。狼の牙が腕に圧力をかけているのを感じものの、なぜかその牙は肌を貫かない。どういう事かさっぱり分からないが、とりあえず腕からぶら下がっている狼を左手で突き飛ばした。突き飛ばされた狼はもう一匹の狼の上に落っこちそうだったがぶつかる寸前に素早くかわされた。その狼は仲間と同じ目に遭いたくないらしくて渋々退いた。残った狼は立ち直って同様にこれに続いた。胸を激しく波打たせて才機はその場で立ち尽くしていた。ほどなく後ろから海の声が聞こえた。

「さ、才機。その体···」

「?」

才機は下を見て体に特に異常がないと判断したら足に巻き付いている蔓に気付いた。

《あれっ。いつの間にか折れた》

折れたとは言え、しっかり足首に絡みついている部分が未だ残っている。才機は手を下へ伸ばして蔓を引っ張った。さっきはあんなにてこずったのに今はほとんど力を入れないで軽々と取れた。蔓をむしりとった自分の右手をよく見るとガラスで出来ているみたいに肌がつやつやしていた。狼の牙に破かれた袖を退けると腕もそうだ。海があんなに驚いたのはきっとこれだ。

「な、何···これ?体は全部こうなのか?」

才機は小さな声でそう言って両手と腕を疑いの目で見る。

まだ地面の上に座っていた海はじっくりと手を伸ばし、才機の腕を触った。そして触れた瞬間、やけどでもしたかのように速やかに手を引いた。だが才機の腕は全然熱くなかった。むしろ驚くほど冷たかった。そして、硬かった。人間の腕よりもまるで水晶玉を触っているようだった。海の反応を見て才機も自分の腕を触ってみた。自分の体なのにやはりびっくりのあまりに同じ反応を示して二歩下がった。

「あ···元に戻った」

才機の体に穴が開くほどに海が才機を凝視する。

「ん?本当だ。一体なんだった、今のは?」

才機は腕に柔らかい感触が戻ったことを確認して誰にともなく聞いた。

「やっぱり異能者じゃった」

ゲンが歩み寄ってきた。

「え?どういう意味?」

才機はこれ以上ないくらい混乱した顔を見せた。

「まあ、心配すんな。わしもそうじゃ。こんな大きい図体であんなに早く走れて変じゃ

と思わなかった?まぁ、さっきはひたすらに走っとったから気が付かなかったんじゃろうけど」

才機と海の目の前にゲンの腰が見る見る小さくなって最終的に才機と同じぐらいの大きさになった。二人は絶句していて何度も瞬きする事しか出来なかった。ゲンはその驚きに気付いていないようだ。

「ある程度こうやって自分の体の大小を自由に出来る。ずっとこの姿でいればいいのにと思っとるじゃろうけど、結構疲れるよ、これが」

才機と海はまだ無口のまま。

「どうした?」

ゲンは体を元に戻した。

「そりゃお前さんほど便利な能力じゃないが、役に立つ時はちゃんと」

ゲンが言い終える前に才機が大あわてで何回も首を左右に振って遮った。

「待って!持って、待って!ちょーーっと待って!今、何をした?!」

「ん?だから、自分の体の大小を」

「そうじゃなくて、なんで出来るんだ?!」

ゲンはこめかみの所を人差し指で掻きながら答えた。

「そう言われても、お前さんも出来るじゃろう?その、さっきのあの凄い力」

「そうだよ!なんで俺がそんな事出来るんだ?!」

「もしかして···その能力が発生したのは初めてじゃったとか?」

「ええ」

「ふーん。そいつは大した奥手じゃな」

「ん?奥手?」

「だって、アナトラス現象が起ってからもう三年近くになる」

「え?アナ何?」

「おいおい、アナトラス現象が知らないなんてどこの山でこもって隠棲しとたんじゃ?」

才機からも海からも返事はない。

ゲンは交互に二人を見て聞いた。

「え?本当に知らなんのか?」

二人は首を振る。

まだ疑っているような顔をしていたが、ゲンが説明に入った。

「その···なんだっけ、トウキョウ?ってとこはあまり影響受けてないのかのう。まぁ、アナトラス現象ってのはほぼ三年前、帝国が推し進めた計画にまつわるものじゃ。何でもロケットを宇宙に打ち上げて色んな実験や探検をする計画じゃったらしい。でも失敗じゃった。ルヴィアの成層圏で爆発したんじゃ。ロケットには実験で使う為の素材が一杯運んどった。中に開発したばっかりの化学物質が入っとた。その物質が爆発の熱によって恐ろしい速さで自己増殖し、大気で分散して僅か数日で世界をまとったという。そして適合性については分かっとらんが、その影響である人間は変化を受けた。それが表現型の変化であればそうでない変化もあった。爆発したロケットの名称はアナトラス。わしらみたいな一見では普通の人間とまったく見分けがつかない人は異能者っていって、表現型の変化までを受けた人は異形者。後者の方が少ないがね」

才機は言われた情報を処理しようとしている間に海がゲンに質問をした。

「今の話、ルヴィアの成層圏って言いました。ルヴィアって?」

「ん?ルヴィアって言ったらルヴィアじゃろ。この星以外のルヴィアってあるのかね?」

才機と海は顔を見合わせた。

才機は人差し指を立ててゲンに言った。

「ちょっと待って」

それから未だに立ち上がらない海の側でひざまずき、二人の背中をゲンに向けてひそひそ言い出した。

「今、この星の事をルヴィアって呼んだよね」

「うん」

「地球じゃなくて、ルヴィアって言ったよね」

「うん」

才機の目はゲンを求めたけど、この向きでは難しいのでぎりぎり視界に入る程度で横目でその顔を見た。当の本人は何だろうという顔をしていた。

海は才の手首を掴んだ。

「まだあの洞穴の中だったら一秒でも本気にしなかったでしょうけど、今までの出来事を考えると···でもそんなことあるはずないよね?」

そうだと説得して欲しいとでも言うように海は才機に聞いた。

「じゃあ、あのガルなんとかという町に着いたら他の人に確かめよう。ここはルヴィアってまた言われたら俺達は橋から落ちた後、死んで別世界に転生してきたの決定だ」

才機は半ば冗談めかしてそう言った。

「二人とも、大···丈夫?」

後ろからゲンの声がした。

才機は海に手を貸し、立ち上がらせた。

「うん、大丈夫。先を急ごう」

ガルドルへの道のりを再び歩き出そううと思ったら、ふっと才機の頭に何か浮かんできたようで歩いてきた方向を向いた。

「どうした?」と海が聞く。

「あの狼。俺が吹っ飛ばしたした狼。どうなったかな。あんなに強く飛ばすつもりじゃなかったけど、体がああなった時は腕力が数倍になってたみたい」

「仕方ないよ、あんな状況じゃ。当然の自己防衛」

「でも、もしあの辺でどうすることも出来なく苦しんでいるなら一思いに止めくらいを···」

「才機がそういうの気にするタイプなのは分かるけど、いちいち気にしていられないよ。特に今は」

「二人ともそんなに離れないで。後少しとは言え、この辺が分からなかったら迷う可能性はまだ十分ありうる。日が暮れかけているしね」

先に行っているゲンが二人にそう呼び掛けた。

「行こう?」

海が才機の腕を優しく引っ張った。

「ああ」


  • • •


日はもう完全に暮れている。前方がよく見えないので才機と海はゲンの後をぴったりつ

いている。

その暗さの中で海は急に言い出した。

「あ、いる。町に着いた」

「俺は目の前の木々しか見えないけど···」

才機は細目で町どころか数メートル前が見えなかった。

「いや、お嬢ちゃんの言う通りじゃ。もう直ぐ森を出るよ」

そして後三十歩ほど進むと三人は森を抜け出した。約六十メートル先に確かに町があった。

「なんで分かった?俺は何も見えなかったよ」

小さな町を見下ろしながら才機は海に聞いた。

「いや···なんでだろう···」としか言わなかい海。

「さ、行こうか」

ゲンが斜面を下り始めた。

町に入ると色んな人がいた。ゲンはどことなく日本人の顔立ちをしていたが、この町の人間は皆それぞれ違っていた。

才機は海に耳打ちした。

「ね、アメリカなんじゃない、ここ?日本でこれほど多様な人種の人がこんなに集まるのは空港ぐらいだ」

「アメリカにしては時代遅れ過ぎじゃない?街灯を見て。電気じゃなくて火がともってる。ビルだって全部石で出来ていて十五世紀のヨーロッパの建物みたい。この町の周りの地域は見渡す限り全然開拓されてないし、それに周りの声をよく聞いて。皆日本語でしゃべっている。なぜアメリカ人が日本語で喋っているの?」

先導しながゲンが二人に話しかけた。

「この町は昔捨てられたんじゃ。グリゴの大群に荒らされてね。二年前に人がまた住み着くようになって、ここまで再建したんじゃ。ここの住人は皆わしらと同じ異能者よ」

「グリゴ?」

海が首を傾げた。

「二人の故郷にはいないのか?羨ましい限りですなぁ。でっかいクモみたいなもんさ。大抵の人間よりもな。おぞましいもんだよ、これが。ここら辺にはもういないけど」

「ここは好きになれそうにない」

才機が独りでつぶやいた。

「ん?何か言った?」

海が才機の方を見た。

「いや、何でもない」

「じゃ、わしは色々と用事があってね。ここら辺で失礼する」

「そうですか。案内してくれてありがとうございました」

海はお辞儀して礼を言った。

「いいって、いいって。こっちは頼もしい用心棒がついたからお互いさまじゃ」

手を振りながらゲンは二人と別れた。

「さてと」と才機は何かを探しているようにぐるっとあたりを見回した。そして通りかかって来る男に目をつけた。

「あの、俺達東京に行きたいんだけど、一番近い駅はどこでしょう」

「トウキョウ?悪い、知らない。駅って?」

「東京、日本の」

「いや、悪いけど知らない」

「えっと、じゃアメリカは?アメリカならどう行けばいいの?」

「え?」

「じゃ、ヨーロッパ。ヨーロッパ分かる?」

男は才機を怪訝そうな目で見てそのまま横を通り過ぎ、去りながら不機嫌そうに言い残した。

「酔っ払いと付き合ってる暇ねぇよ」

去って行く男を少し見てから才機は直ぐに次のターゲットを探して声を掛けた。

「あの、この惑星は何って言うの?」

才機はその人から変な顔をされながら素通りされた。

海は手の甲で才機の肩をぶった。

「あほか?こんな時間に見ず知らずの他人にあんな事を単刀直入に聞かれたら変人だ

と思われるに決まってるでしょう」

また男が一人近づいてくる。

「どいて」

海は才機の前に出て男に声をかけた。

「すみません」

「ん?」

「ちょっといいですか?本当に情けない話だと分かっていますが私の兄はまるで常識ってもんがなくて、今揉めていたんです。まぁ、学習障害を抱えている人だから仕方ないのは分かっているけど、もう頭がどうにかなりそうです!私が何回言ってもこの人は聞かないんだからそちらからも言ってやってくれますか?この惑星は何という名かを」

「え?惑星ってルヴィアの事?」

「ほら、言ったでしょう?ルヴィアって」

「そんな事も知らないのか?小学校からやり直した方いいんじゃない、坊主?」

男が嘲笑ってその場を去った。

「これで俺は晴れて情けなくて無常識な人間か」

「そんな事より言ってたよ。ルヴィア」

才機は溜め息をついた。

「正直あまり驚いてはいない。言うと思った。他の誰かと確かめようと言ったが···。ナッチという見た事も聞いた事もない果物。アナトラス現象。異能者。異形者。人間より大きいクモ。地球って言ってくれるはずがなかった」

「こんなの···こんなのありえないよ。ここってもしかしてまだ発見されていない古代文明?外界からずーと、ずーと途絶されて」

「このご時世に?それも結構ありえないと思うよ。見たところここは孤立した場所でもなんでもない。俺だって信じたくないが、ここは俺達が知っている地球ではない以外の説明がつかない」

才機は直ぐ側にあった長い間水を噴出していなさそうで完全に干からびた噴水の外縁に腰を下ろした。暫くまっすぐ前を見てから頭の後ろで両手を組んで顔を膝の近くまで下げて独り言のように呟き始めた。

「やばい。やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい」

続いての沈黙。

隣でだらんと垂らした左腕の肘を右手で抱えている海は才機の方を見た。

「これからどうする、私達?」

「どうするって···警察に行って俺達は違う世界から来たんだど、助けて頂けますか、なんて言える訳ないし」

「自分の世界にちゃんと戻れるのかな」

「やっぱり、俺達はあの時死んで、本当に転生したんじゃない?」

「普通、転生すると赤ちゃんからやり直すのが順当じゃないの?それに前世の記憶はないはず。まぁ、転生した事ないから分かんないけど」

海の声に悲しげな響きが混ざっていた。

「じゃ死んでないなら···死んでないなら···もー、どうしたらいいんだ俺達は?!」

「それは私がさっき聞いた」

二人はまた無言で数秒間を過ごす。

「取りあえず目の前の問題に取り掛かろう。ちょっと寒くなってきた。俺達は今夜どこで止まる?」

才機は差し迫った問題を提示する。

「私、お金そんなに持っていないよ。才機は?って、この世界では使えるんだろうか?」

「財布はある。でも国によって通貨が違うなら世界もそうだろうなぁ」

海はポケットに手を入れとハッとなった。

「あれっ。財布がない!逃げていた時に落としたのか。あれ最近買ったばっかりのに」

才機は何年も使い込まれたらしいおんぼろの財布を出した。

「気にするな。どうせ宝の持ち腐れだろう。町に入った時、宿かアパートらしいビルがあった。駄目もとであそこで聞いてみる。ここで待ってて」

海は才機が向こうへ行き、角を曲がって消えるのを眺めた。約五分後に才機が戻ってきた。

「どうだった?」

「やっぱ駄目だ。ちょっと珍しいお金かもしれないが、これで何とかならないかって聞いてみたが、ここではトレイキという通貨が必要だそうだ」

海は視線を下に戻した。そしてその曇った表情を見て才機は自分の非力さを呪った。

「少しでも屋根のある所がないか見て回ろう。雨がまた降ってきたらかなわんからな」

才機はそう提案した。

町を歩き回るとゲンが言った通り本当にスラムみたいだった。道が汚くて、損傷を受けているビルが殆どだった。どんな路地裏も少なくとも誰か一人がそこに住み着いていたようだ。たとえ太陽がこの町を照らしていたとしても、雰囲気が暗い事に変わりはないだろう。少しでも防寒になるような場所は全て占有されていた。そんな路地を歩いていた時に前面にドアが開いて鈴の音がりんと鳴った。

「毎度お引き立てをいただきましてありがとうございます」

聞き覚えのある声だ。そのドアをくぐって出てきたのはいかにもゲンだった。

「おや、さっきの世捨て人達じゃないか。どうした、こんな所に?」

「あー、いや、町をちょっと探検してただけ」と才機が答える。

「ふーん」

ゲンは顎をなでて、しばらくの間二人を見た。

「あなた達、今夜止まるとこはもう決まっとるのか?」

「いいえ、まだ」

「そっか。だったらわしと来るか?今日はそれなれに儲かったよ。これから宿で部屋を借りるところじゃった」

「そう?正直助かります。俺達は野宿するしかないと思った。よかったね、海。行こう」

海はぼうっとしていて反応しなかった。さっき見回っていた時も同じような顔をずっとしていた。

「海?」

才機は海をひじで軽くつついた。

「ん?あ、ごめん。じゃ、お言葉に甘えさせていただきます」

「そう堅苦しくなるなって。困っとる時はお互いさまじゃ」


    • • •


辿り着いた宿は先ほど才機が尋ねた場所だった。内部は外見から見て予想通りシンプルで殺風景。壁に飾りが一つも貼られていない。一階にはペンキやニスすら塗っていない粗末な円形の木造テーブルが四台と各テーブルを囲む同じく装飾性の全くない四つの椅子だけだ。才機と海を引き連れてゲンは宿のマスターが後ろに立っているカウンターまで歩き、ポケットから茶色の革の小袋を取り出した。ひもをほどいて取り出した数枚の銀貨をカウンターの上に置いた。

「部屋を二つ下さい」

マスターは後ろの鍵掛けから二つの鍵を取って、お釣りと一緒にゲンに渡した。そしてゲンはその鍵の一つを才機に渡した。

「さてと、部屋でくつろぐとするか?」

ゲンは二階への階段に向かおうとしたら、とっさに才機はマスターに質問を投げた。

「地図は持っていないか?」

「地図?どんな?」

「世界地図···」

「世界地図はないが、この辺の地図ならあるけど」

マスターはカウンタの下を漁り、目当ての物を出してカウンターの上に広げた。

流石にそれを見ててさっぱり分からない才機と海だったが、地図の四隅に小さな丸い絵が書いってあった。

「こ、これは?」

才機が躊躇いがちにその丸い絵の一つを指差した。

「まぁ、世界地図といや世界地図だけど、こんな大きさじゃ参考にならんだろう」

どっちかというと飾りのつもりで描いてあったであろう四つの絵からは大したことは分からないが、それでも四つの視点から見る惑星がそれぞれの絵で描写され、どんな大陸があるくらいは大体分かる。そしてそれは明らかに才機と海が見慣れているような陸塊や大洋ではなかった。

「ありがとう」

手を地図から離し、最後の希望が砕かれたように才機の声には諦めいたものがあった。

海も心痛に耐えようとするように目を閉じた。

調べ物が済んだと見てケインは今度こそ階段へ歩いて上り始めた。その後に才機と明らかに滅入っている海が続いた。

廊下で右を曲がって三人は奥の方へ進んだ。

「あなた達のは一番奥の部屋みたい。わしは隣じゃ。何か入り用だったら知らせてくれ」

「どうも」

才機はまた礼を言い、ゲンが自分の部屋に退いた。

才機と海が隣の部屋に入るとその物寂しさは一階と変わらない。テーブルと椅子の数は一つに減っただけだ。但しベッドはちゃんとあった。そしてテーブルの上にランプもあった。海はその椅子に座り、才機はテーブルに置いてあったマッチを使ってランプに火をつけた。それから組み合わせた手を膝の上に載せている海を少し見てから言った。

「ちょっと待って。直ぐ戻るから」

才機は部屋を出てドアを閉じた。数分後、海は隣の部屋からドアがノックされる音の次に才機とゲンの声が聞こえた。話の内容までは聞き取れない。ドアの閉じる音がした後、才機は部屋に戻ってきて右手に持っていたカップを海に差し出した。

「下で頼んだ。本当は何か温かい物を飲んだ方が落ち着くだろうけど、ただの水だ」

海がカップを受け取ったら次は左手で持っていた物を渡した。

「これはゲンからもらった。普通にキャベツみたい。よかったら食べて」

「ありがとう」

海はそれぞれの手にある才機が持ってきてくれた物を見た。

《気を使われてるな、私。このままじゃ駄目だよね》

「ごめん」と海が急に謝った。

「ん?何が?」

「さっきからずっと自己憐憫におぼれて心配させたんでしょう?なんか、ここはもう地球じゃないって事が確実なものになったら凄く心細くなって。分かってたけど···分かってたけどどこかでまだ希望を必死に持っていた。こんな不条理な事が立て続けに起

きているのに私達はまだちゃんと自分の世界にいる可能性があると信じたかった」

「こんな状況じゃ誰だって怖くなるって。気にすることないよ」

「でも才機も事情が同じなのに私は自分の事ばっかりで。私の為に才機が巻き込まれたって言うのに」

「それは言いっこなしよ。海が無事なら違う世界に行く事ぐらい安いもんだ」

才機が笑顔を見せてやった。

「こんな事、言っちゃ悪いかもしれないけど、才機が一緒にいてくれて本当によかった」

才機も海と一緒にいられてよかったとは思っていたが、あえてそれを言葉にしなかった。

海は水が入ったコップをテーブルに置いて半分に切ったキャベツを少し手こずりながら二つに分けた。

「そんなに食欲ないから才機は半分食べて」

海は半分を才機に差し出した。

才機は千切られたキャベツを受け取ってベッドに座った。

「本当を言うと俺も結構動揺してる」

「そうは見えないけど」

「まぁ、感情がそう簡単に顔に出ないのは俺の特徴かな。俺達はどう帰ればいいかずっと考えてるが、そもそもここに来られた原因が分からない。また高さ七十メートルの橋から飛び降りる手はあるが、それはやりたくないよね?」

才機は海の意見を聞いてキャベツを一口食べた。

海は静かに首を縦に振った。

「だよな。今のところ、俺達が出来るのはいずれ日本に戻されるのを願うしかないと思う。その時が来るまでこの世界でどう生き延びるかに専念した方がいい。その点に関してはまだ考え中だけど」

「ゲンに頼んで何か仕事を紹介してもらえないかな」

「そうね。この世界で何とか自力で生活費を捻出しないといけない。明日にでも聞いてみるか。就活はまだ二年も先だと思ってたのになぁ」

その正に一汁一菜の食事を食べ終わったら、海は椅子から立ち上がった。

「ちょっとトイレ行ってくる」

「おお」

海は下で尋ねてトイレの在り処を突き止めた。そこでシンクの蛇口をひねって出てくる水を両手で集めた。水が溜まると上半身をかがめて顔を洗った。ぽたぽた水を垂らす顔で海はシンクの上の鏡を見詰めた。それから目をつぶって両手で二回頬っぺたを叩いた。

《しっかりしなきゃ。前向き、前向き。転落死よりずっとましだもんな》

目を開けてもう一度鏡を見る。

《よし》

海は左右を確認する。

「あ···。タオルがない···」


階段を上って海は部屋に戻った。ドアの取っ手を回して開けると奇妙な光景が待っていた。その光景とは立っている才機の後ろ姿。奇妙なのはどこかの何とかヤ人が力を上げて強く力むみたいに、才機の膝が少し曲がっていて、拳を握って腰の高さまで上げていた。ただ、才機の場合は何も叫んでいなければ、光るオーラも出していない。でも身震いしていたから体全体に力を入れているのが見て分かる。

「何···してんの?」

何かいけない事をしているところを見つけられたかのように才機は急速に転回して海を見た。

「ああ、いや、これは、その···」

才機は口ごもって頬が少し赤くなった。

「顔にちゃんと出てるよ、感情」

才機の頬はますます赤くなった。

「いや、だから、わけあってああしてたんよ」

「そのわけとは?」

「ほら、森の中で俺の体に起きた異変覚えてる?あれを再現出来ないかなって思った」

「何だ、そんな事か。遂に切れたかと思った。でも何か、気味悪かった、あれ。出来ればやって欲しくないけど」

「まぁ、確かに普通じゃないんだ。でもあの力を自在に出せたら何かと役に立つかも。実際、そのお陰で狼に襲われた時助かったし」

「そうだけど···ほどほどにね。才機の顔がガラスみたいになるんだもん」

海は部屋の向こう側にあった椅子にまた掛けた。

「見たところあまりうまくいってないんだね」

「うむ。あの時、俺は何をしたか分からん。気付いたらもうあの姿になっていたんだ」

海は近くの窓から外を見た。

「一朝一夕でどうにか出来るもんじゃないって事さ。それは明日にでも考えよう。結構遅くなってきたし、もう寝ようか?」

「そうね。せっかく、ここで泊まらせてもらっているんだ。海はベッドで寝て」

「そんな気を使わなくてもいいよ。才機はどこで寝るの?私だけベッドで寝たら気が差して眠れない」

「気にすんな。男はどこにでも眠れるもんだよ。海と添い寝するのは魅惑的な話ではあるが俺は床でいいや。ずっと布団で寝てきたし、いきなりベッドで寝てたら落ち着かない」

言って才機は床で横になり、頭の後ろに手を組んで目を閉じた。

海はちょっとの間才機を見て、説得するのは無理だろうと判断したら窓の雨戸を閉じてベッドの所へ歩いて行った。才機は急に何かが腹の上に落ちてきるの感じて目を開けた。枕だった。

「それ使って。特に要らないから。後、これも」

海はベッドの上に広がっていた毛布を才機に持って行った。

「寒くならないの?」と才機は聞く。

「まだシーツがあるから大丈夫。そんなに寒くないし」

「じゃ、使っちゃう」

海はランプの火を吹き消してベッドに入った。

「おやすみ」

「おやすみ」

そうは言ったものの、二人が実際に眠りにつけたのはずっと後だった。


  • • •


翌朝、二人はドアをノックする音に目を覚めた。

「はい」

寝ぼけた口調で才機が反応する。

「もう直ぐ朝ご飯の支度が出来るよ」

ゲンの声だった。

「あ、はい。今行く」

ベッドで起き直っている海の方へ向いて才機は言う。

「目が覚めたら全部夢だった···という展開にはならかったね」

「みたいだね」

目をこすりながら本の少しだけど海はつい笑った。

二人でベッドのシーツと毛布をきちんと整えたら階下へ下りた。

「なんかいい匂い」

海は周りに漂っている香気に気付いた。

他の客が二人テーブルで座って朝ご飯を食べていた。食べ物を盛った皿が三枚置いてあった別のテーブルでゲンも座って食べていた。

「お、来たか。鍵はあの人に返せばいいよ」

ゲンは変わらずカウンターの後ろで立っているマスターを親指で指した。

才機は言われた通りにして、海と一緒にゲンがいたテーブルについた。皿の上にはトースト、目玉焼き、ソーセージ二本が載っていました。

「さ、冷めないうちに食べて食べて」

「頂きます」

「頂きます」

匂いも良ければやはり味もいい。ちょっと怖い顔をするけど才機はマスターの事を見直した。

「会ったばかりの私達の為に色々してくれて本当にありがとうございました」

海はゲンに礼を言った。

「んーー、そう素直に礼を言われたらかえって困るよ。わしはそれほどの慈善家じゃないからな」

ゲンはそう言って水をぐいぐい飲んだ。

「実は話が」

「実は話が」

ゲンと才機が同時に言い出した。

「どうぞ」

才機は発言権を譲った。

「あなた達の事を気にかけとるのは商売の話があるから」

ゲンは両肘をテーブルの上に置いて指を絡み合わせた。

「お前さんを見込んで護衛を頼みたいと思っとるんじゃ」

「護衛?」と才機が聞いた。

「そうじゃ。言わずと知れたあの森は急いでいなければ遠回りした方がいい。しかしだからと言って道路をちゃんと使えば完全に安全とは言えない。盗賊が現れる可能性は常にある。特に最近はこの辺にうろついとるって話を聞いた。運が良ければ命までは奪われないが、金目の物は一つ残らず分捕られちまう。運が良ければな。そこでだが、もし、わしも商品もを無事に送り届ける事が出来たら四トレイキを払う。危険の上でなら五トレイキ。命は助かったが商品に何かがあった場合は二トレイキ。万が一わしの身に何かあったら報酬はなし。無論、その時はどうせ払えっこないのは言うまでもないが。どうじゃ?」

才機はそれが安いのか高いのかよく分からなかったが昨日ゲンが払ったのは二トレイキなら、何も起らないで目的地に辿り着いたら宿代四日部が入る。いや、お釣りが出たからもしかして五日かもしれない。どの道今は仕事のえり好みしている場合じゃない。

「渡りに船ってこういうことだね。俺も今、何か仕事を紹介してもらえないかと頼むところだった」

「じゃ、引き受けてくれるのか?」

「是非やらせて頂きます」

「よし。商談成立」

三分後にゲンは飯を食べ終わって席を立った。

「色々と整理しないといけない事あるので、わしは一旦部屋に戻る。終わったら荷物をまとめてくる。一時間半近く掛かるからここで待ってて」

「いいのか?」

ゲンが階段を上り切った後、海は才機にそう聞いた。

「何が?」

「だって、あの能力はまだ使いこなしてないでしょう?」

「そうだけど、このチャンスを見逃せない。使いこなせるようになれば問題はなくなるし」

「だったらなるべく早くそうした方がいいよ。今日、盗賊に襲われた皆が危ない」

「分かってる。その辺は俺が何とか頑張ってみる。ゲンの期待に応えたいっていうのもある。もしかして、危険にさらされたら勝手に発動するかも。でもそうね。せめて今日だけでも何事もなく終わる事を祈ろう」

二人が腹ごしらえをしたら海はトイレに行き、才機は外の空気を吸いに行った。外は明るく、人々の行き来する姿はあっちこっち見える。二時間をどう過ごすか考えてみたが、アイディアは特に何も浮かんでこない。きびすを返して中に入り掛けた時に近くを通る男の二人組の声が耳に入った。

「馬鹿か、お前。夜に森に入るなんてそんなに狼の餌食になりたいわけ?」

「そんなに奥までは入らなかった。雨降ってたし、あんまり濡れるとダメになる品物がほとんどだったから仕方なかったよ」

「それでもさー」

「大丈夫だったんだからそうがみがみ言うな。俺のおかみさんかっつの」

「てめぇはおかみさんにとっくに逃げられてんだよ」

「うるせぇ!」

遠ざかる声を背中にして才機は森を見つめた。


海は戻ってくると才機の姿がいないから周りを見渡した。

「お客さん」

宿のマスターに声を掛けられた。

「あんたの連れならさっき、用事があるからちょっと行ってくるってさ」

「そうですか。ありがとう」

海はまたテーブルについて才機を待ったけど十分経っても戻って来なかった。

「すみません、彼はどこに行くか言いましたか?」

海はマスターに尋ねた。

「いや。でも窓から町の外に行くのを見たような気がする」

「町の外?」

《町の外で才機は用事があるはずないが···。だって外には森ぐらいしか···まさか》

海は椅子から立ち上がって宿を出た。町のはずれにある森の手前でまで歩いて、そのおびただしい木々の量を見透かすように目を凝らした。

《まさかと思うけど···》

海は森に入った。昨日通った道筋を思い出そうとして迷子にならないように慎重に進んでいた。途中で何だか自信がついたようにペースを上げてきびきびと歩き始めた。間もなく目当ての場所に着いた。

「やっぱりここだった」

「付いて来たか。宿で待っていればよかったのに」

石を積み上げるのに夢中だった才機は振り向かずにそう言った。

海が近づくと才機の手が凄く汚れているのに気付いた。

「どうしても気になってたんだ。もし死体が見つからなかったら、生き延びたと思い込んでもいいかなって思ったが、見つけちゃった。そんなに苦しまずに死んだと思う。首が折れていた。」

海は才機の肩に手を掛けた。

「自分を責める事ないよ。わざとやった訳じゃないでしょう?って言うか自己防衛だって」

「そうだけど···私がやった事に変わりはないから。せめてこれぐらいやらないと気が済まない。こいつだって悪意を持って襲ってきた訳じゃない。本能に従って生きようとしてただけだ。圧倒的に強かった俺が殺す必要はなかった」

「強過ぎるのはあんたの責任感だよ」

海はもと来た方向へ戻り、姿が木々に紛れて消えた。

しばらくしたら腕に石を一杯持った海が戻ってきて死骸の埋葬を手伝った。

「よし、これでいい。帰ろう」

才機は満足したようで二人はまたガルドルに戻ろうと立ち上がった。

「あ、そうだ。私の財布どこかに落ちてない?」

「半分それを探しに来たようなものだけど見つからなかった」

「そっか。まぁ、あっても大した役には立たないだろうけど」

落ち葉の上を歩いてくしゃりと音を立てながら才機は腕時計を確認した。

「戻った頃にはゲンの準備はそろそろ出来ているはずだ。それにしてもよくここが分かった。俺がここを見つけるのにちょっと苦労した」

「それが···私もその異能者って奴かもしれない」

「え?どういうこと?」

「なんか···分かるんだ。人の気配。見えなくても人の位置は大体掴める。だから狼が落ちた場所を見つけたと言うより、才機のいる場所に行った。それは才機の気配だったって分からなかったけど、この森にいるのはあんたぐらいしかいないと思って」

「そう言えば町に着く前に分かってたんだよね。この先に町があるって事。考えてみればあの洞穴でゲンが来るの知ってたし。遠くてどのくらい分かるの?」

「ん〜〜。それは人数によると思う。一人だったら何か、意図的に探せば二百メートル先ぐらいかな。町みたいな人が一杯集まってる場所ならもうちょっと遠くから感じられる」

「ふーん」

「でも意識しないと近くに来るまで気付いたり気付かなかったり。後、周りに人がたくさんいると、なんかごちゃごちゃになって···そのせいで意図的に感じようとしない限り、特に何も感じないというか、皆の気配を一度に感じるから何も気付かないというか。よく説明出来ない。でも本当に驚いたのは集中すれば目の前の人の気配を実際に見えるよ。こう、体全体を囲む青いオーラみたいなものだ。人の魂でも見ているようで不気味だ」

「ま、取りあえず盗賊に不意を突かれる心配はないって事かな」

「多分」

迷わずにガルドルに戻れた二人は宿でゲンを待った。でも待つほどもなくゲンがいくばくもなく階段を下りてきた。

「さて、今日の行き先はメトハインじゃ。準備はいいか?」

「はい」

才機は椅子から立ち上がりながらゲンに答えた。

「わしもじゃ。それではさっそく行こうか。時は金なりは商売人の信条じゃ」

三人がガルドルを出ようとした時に向こうから見覚えのある顔がやってきた。

「おや、自分が住んでいる惑星の名前を知らなかった坊主じゃねか。お出かけかい?姉ちゃんからはぐれて迷子になんなよ」

男は冷笑しながら町に入った。

「そうね。なんなら手つないでいいよ」

海はにこにこしてそう提案した。

「断る」


    • • •


徒歩で行く場合、ガルドルからメトハインまで約三時間は掛かる。幸いに今日は御の字の天気だ。晴れ渡った且つ涼しい日。三時間ほどではないが正に散歩に出かけたくなるような日だ。

「馬車がなくて悪かったな」

「いいえ。大丈夫。体力には自信がある」

才機は軽く力こぶを作って見せた。

「もう少し金を貯めたら馬車に投資したいとは思っとるがね。通勤時間が短くなりなおかつ在庫品を増やせる」

「というか、車とかは見てないけど、ロケットがあるんなら車もあるよね。」

「贅沢な事を言うね。そういう値の張る物には一般人は手を出せない。自動車を使用しているのは大金持ちと軍隊ぐらいじゃ。わしも何年働いても手に入らないじゃろう」

「何年商人をやっていますか?」と海は聞いた。

「そうね。もう三十年近くになるかな。前は自分の店を経営したんじゃが、こうやってあちこち旅回って物を売るようになったのは二年前」

「そうですか」

「二人はメトハインに行くのは初めてよね?」

「ええ」と海が答えた。

「ガルドルと比べ物にならないほど大きいよ。さすがは都だけあってこの国の最も活気のある都市じゃ。国内屈指の科学技術に長けとる都市でもある。と言ってもその技術の殆どは王宮でしか享受してないがな。都市の中央に凄く高い塔みたいな建物があってね、そこには皇帝が御座す。街に何か不安があるとすれば、皇帝の跡継ぎが二年前に病死して、未だに新しい継承者はいないって事ぐらいかな」

「皇帝はどんな人ですか?」と海は聞いた。

「んー、会った事はないから実際にどんな人なのかは言えないが、とにかく暴君とかそんなんじゃない。皇帝の統治に文句をつけとる人は少ないと思う。まぁ、最近まではね。とは言っても文句があるのは異能者ぐらいだろうけど」

「どういう事?」

海は首を傾げる。

「異能者狩り事件。アナトラス現象の余波を受けて神秘的な能力を持つようになった人が次々と現れた。市民はその原因を知らせられたんだけど、原因が分かったところで皆が異能者や異形者をそう容易に受け入れる事が出来なかった。誰も公然と言わなかったけど異能者であることは社会的不名誉となった。普通の人間とそうでない人間の間に敵対意識がだんだん強くなって、争いも頻繁になった。異能者がらみの犯罪によって状況は更に悪化した。そしてとうとう死人が出ちまった。普通の人間が異能者に殺された。その後、異能者に対する抗議運動が始まり、何日も続いた。とどのつまり皇帝は全ての異能者と異形者が都市を立ち退く法令を出した。だが、人は進んで自分の家を捨てる事は中々出来ない。あげくの果てに近衛兵は駆り出され、異能者は毎日のように密告されては強引に排除された。抵抗があった場合、近衛兵は実力行使に訴えるのを躊躇しなかった。その為の犠牲者もいた。抵抗した異能者も、そのとばっちりを食った普通の人間も。ガルドルの住人の大多数はメトハインから追放された異能者じゃ。二年が経った今でも、時折りあれからメトハインで鳴りを潜めていた異能者が伏せてきた正体がばれて追い出される事はあるよ」

「そんな事が···」

海はそのメトハインに行くのが急に不安になった。

「これでもう分かっとるとは思うけど都市に入ったら間違っても能力を使うなよ。大変な事になっちまうから」

中間地点で三人は木陰で休憩をとった。周りは今までと変わらない何もない風景だ。あるのは永遠に広がる草原,、丘、そしてトゥリエ森の縁を形成する木々。盗賊どころか旅人一人にも出会っていない。ここまでは望み通り。何か不満があるとすれば、それは才機はまだ一度もあの力をまた引き出す事が出来ていない。道すがら何度もあの変形を引き起こそうとしたけど毎回無駄だった。一回きりの奇跡だったかなと才機が思い始めた。二十分の休憩が終わったらまたメトハインに向かって出発。

「ゲンさんは盗賊に襲われた事あるの?」と才機がは尋ねた。

「さん付けなんていいって。こそばゆいったらないわい」

「はぁ···」

「でもあるよ。二回も。商品は洗いざらい持って行かれた。財布だけが無事だった」

「普通、真っ先に取られるのは財布じゃないの?」

「そうじゃろうね。その在り処が分かればの話じゃけど」

「ポケットに入ってるでしょう?」

「いや、旅しとる間はここ」

ゲンが腹をパタパタ叩いた。

「?」

「腹をちょっと伸ばして脂肪層の中に隠してある」

「ああ、なるほど。確かに腹の中まで探そうとは思わない」

海が感心の目でゲンの出っ張ったお腹を見た。

「でも、ま、お前さんがついとるならやらなくても平気か。その力の前では盗賊の凶器なんざ小枝同然じゃもんな」

「あ、ああ。そうだね」

才機は顔を背けて答えた。

海はそれがどういう意味かちゃんと理解していた。でも今日はついているみたい。願いが叶った。高めの坂を登り着るとメトハインはついに見えてきた。盗賊の方はどこにも見当らない。

「ほれ、あれじゃ。あの高くて黒い尖塔。あれがメトハインの都心」

二百メートルの高さを超えていそうなオベリスク形の塔が空にそびえていた。広さはもしかして百平方メートル。塔の麓に城壁を巡らした大都市が円形になっている。

「さあ、後一息じゃ。あっちに着いたらちょっと別行動に入るよ」


    • • •


やがて三人は市門まで歩いて行った。ゲンは槍で武装した門番に会釈して三人は門をく

ぐった。

「これからわしは少し忙しくなるからのちほどここで落ち合おう。そうね、二時間後でいいかな。その間思う存分に見物するといい。この都市の名物の一つはモモソース入りのはちみつパン。食べてみたらどうじゃ?」

ゲンは才機に銀貨を五枚を手渡した。

「但し、前に話した事をくれぐれも忘れない事じゃ」

その注意を残してゲンは二人と別れた。

「どうする?時間あるから回ろうか?」と才機は海に勧めた。

「そうね」

ゲンが言った通り、このメトハインは確かに賑やかな都市だ。どこも人通りが多くて、商店街ではどの露店も客が集まって品定めをしていて、あちこち芸や演奏を披露している人がいた。子供もそこら中色んな事をして遊んでいた。たまにはいい匂いが漂ってくるが、今は買い食いをしている余裕はない。メトハインの特産物を楽しむのもまた別の日にしないと。二人の経済状況と対照的に、都市の方は特に財政難がなさそう。道は広くて立派に舗装されている。当然この真っ昼間に点いていないが、通りに沿った街灯はちゃんと電球を使用している。ビルも全部いい状態で維持されている。まだ都市の六分の一も回っていないが、どうやらメトハインの構造は至って単純だ。この大都市は主に三つの地区に分かれている。住宅地区、商業地区、工業地区。最も外側なのは商業地区。次は住宅地区。最も内部にあるのは工業地区。そしてその三つの地区の中心にはあの巨大の尖塔が建っている。

「近くで見ると凄いな、この塔」

真上を見ながら才機はそう言った。

「でもなんでこんなに高く築き上げたんだろう。いくら皇帝とは言え、宮殿にしてはこの設計は非実用的過ぎるんじゃない?自分の家の中であっちこっちへ移動するのが大変そう。凄い物好き」

海は感心するよりも呆れる感の方が強かった。

「皇帝や王というのは得てしてそういうもんじゃないの?」

「私には理解出来ない」

引き続き探索をすると、周りの人が自分を忌み嫌っているという事を忘れてしまうほどいい感じの都市だ。事情が事情でなければ二人は単に暇つぶしじゃなくて、素直に楽しんでいたのだろう。ゲンとの待ち合わせ時間まで後三十分になってから市門に戻る事にした。その場所へ向う途中に、突如として直ぐ左の店の扉がぱっと開き、才機と海の二、三メートル前に十七歳ぐらいの少年が勢いよく後ろ向きに押し出されて歩道に背中から倒れ込んだ。少年はエプロンをしていて目には紛れもない恐怖が映っていた。押した方も直ぐに出てきて登場した。割と大きいな三十代の男だった。

「てめえ、異能者だったんだな!」

周りの人からざわめきが始まった。

「今の聞いた?」

「異能者だって」

「あら、怖いわ」

「まだいたのかよ」

少年は恐れで一杯になって動けずにいた。

「見たんだよ!こいつが皿と食器を空中で浮かせてたんだ!」とその大きい男がどなり散らした。

「ご、ごめんなさい!あれはわざとじゃなくて、手、手違いだった!悪気はなかった!」

少年が何とかどもりどもり言った。

「知るか!早くここから出て行け!よくも俺を騙しやがった!ここにはてめえみたいな危ない奴の居場所はない!異能者がここで働いていたら亡くなった娘が浮かばれない!」

少年を遠巻きにし始めた連中が右へならえをした。

「そうだ、出て行け!」

「迷惑なんだよ!」

「ずうずうしい異能者め!」

「何とか言ったらどうだ?!」

少年は座り込んだままだった。次に石が少年の方へ飛んで行き、腕に当たった。石がまた飛んで、今度は額に当たって赤い打ち身を残した。三個目も一直線に顔へ飛んで行ったけど、顔の前に手が伸ばされ、石をはじいた。それを見て海は少しほっとした。でもその安心も束の間。手の持ち主の正体に気付くと顔色を変えた。才機だった。大騒動になった為、海は才機が側から離れた事に気が付かなかった。

「あの、すみません。ここまでする事ないんじゃない?出て行けばいいだろう、この人?」

才機は周りの怒りに満ちた視線に直視出来ず、自分の視線を少し下に向けてそう言った。

「あいつを庇うのかよ?!」

「退け!」

才機は少年に手を貸して立ち上げらせようとした。少年がその姿勢に応えて才機の手を取ろうとしたその時に、石が才機の背中に当たった。それほど強く投げられなかったのでそんなに痛くなかったが、振り向くとまた石が飛んでくる。今度は頭に接近中。才機はぎりぎりで腕を盾にして受け流した。

キン!

そのキンと鳴った音であんなに騒がしかった辺りがたちまち静まり返って周りの人もあの少年のように動かなくなった。七秒間ほど。

「こいつも異能者だ!」

「どうりであの異能者を庇った!仲間なんだ!」

「お前ら何企んでる?!」

才機はあのガラスのような体になっていた。石だけではなく、他の物が手当たり次第に投げらてきた。今の才機には傷一つ付けていないが。

頭の中で「どうしよう」の一言を繰り返して慌てている海の後ろに二人の男が小さい声で話し合っていた。

「おい、誰か隊長を呼んできた方がいいよ」

「何人か既に呼びに行った。じきに来るはず」

才機はまだ暴徒に理を説こうとしていた。

「分かった!分かったから道を開けてくれ!直ぐ出て行くから!」

そして道が開いた。でもそれは二人を通す為の道ではなく、六人の近衛兵を引き連れる偉そうな人を入れる為だった。その人は正に典型的な悪役のような無愛想で不機嫌な顔をしていた男だ。おまけに警棒みたいな物で威嚇的に手の平を叩いていた。

「ルガリオ隊長だ」

「ルガリオ隊長が来たぞ」

「異能者が市内に現れたという報告を受けましたが二人もいるようですね」

その隊長はイライラした目で才機と少年を交互に見た。

「俺達はこれから出て行くので問題を起こすつもりはない」と才機が言った。

「それは当たり前です。でもそう簡単に行かせる訳にはいけません。場合によってはここを出る前に、処刑台に寄ることもありますから。この都市に来た理由を教えてもらおうか。見覚えのない顔ですが」

「え、何?この都市の人間の顔を全部頭に入れてあるとでも言うのか?」

「ふふ。確かに俺の記憶力はそれほどの物ではありません。だが匂うんだ。よそ者の匂いがね」

「俺がよそ者だと分かって、たまたまこの都市に入っただけで処刑されるのか?」

「よそ者でもこのメトハインは君のような人が来る所ではないのは分かっているはず。それによそ者だからこそ危険です。ここへ来て皇帝の暗殺でも企ているかもしれません」

「とんでもない言い掛かり、それは!俺はこの都市とは何の関係もない!皇帝の名前すら知らないんだ」

「どうやら協力する気はなさそうですね」

近衛兵が前に出て剣を抜いた。才機は手を握り締めて防御の身替えをとった。

すると、後ろから誰かが才機の手首を掴んだ。

「ちょっと失礼」

今度はその人がルガリオに向って言った。

「お騒がせして申し訳ありません。僻地の者で旅の途中なのです。少しばかり糧食を補給しようと思いましたが、用事が済んだのでここでおいとまします」

やせていたゲンだった。顔も少し歪んでいた。ゲンは才機と少年を引っ張って人込みの中で退路を切り開いた。

「止まれ!」

ルガリオ隊長はそう怒鳴ったけど三人が止まる様子は微塵もなかった。

「待って、海はまだ」

ゲンに引っ張られながら才機は後ろを見ていた。

「大丈夫。先に城壁の外に行ってもらったんじゃ」

ゲンは才機を安心させて群衆を押しのけて進んだ。

「追いましょうか、隊長?」

部下の一人が指示を仰ぐ。

「まぁいい、捨て置け。あの青二才に何も出来まい。今度会ったらこの都市に踏み入れた事を後悔させてあげるとしよう」

三人はメトハインを出て市門から五十メートル離れた所で待っている海と合流した。

「よかった〜。一時はどうなるかって凄く心配だった」

三人が近づくと海は胸をなで下ろした。

「ああ、助かったよ、ゲン」と才機が礼を言った。

海は今度少年の動転した表情を見た。

「大丈夫?一体何があった?」

「いや、僕のせいなんです。ぼうっとしていたのがいけなかった。注意していないとたまに能力が発生して周りの物が勝手に浮いてしまう。ずっと隠してきたのに、今日のミスで今までの努力が一気にぱあになりました」

「行く当てがないんじゃったらこの先にガルドルという町がある。そこでなら、まぁ、歓迎されるまでとは言わなんが、少なくとも拒絶される事はない」とゲンが提案した。

「ありがとうございます。でもやっぱり、実家に帰ります。ちょっと遠いんですけど途中で民宿があります。今から行けばちょうど日が暮れ始める頃には着くかもしれません」

「実家はどこか聞いていいんじゃろうか?」

「アラニアです」

「アラニア···。ならさっき言ってた民宿ってのはもしかして、黄金原オアシスの事?」

「ええ。ご存知ですか?」

「たまにあそこで商売をしとるからな。あの民宿を経営する夫婦はとても人がいいんじゃ。もし金で困っとるなら部屋代の代わりに家事や雑用をする代わりに泊まらせてくれるだろう。行商人のゲンからそう聞いたって言っておくといい」

「すみません。でも財布だけはあるから大丈夫です。色んな物を置いて追われちゃったけど、着のみ着のままという訳ではありません。また異能者であることさえばれなければ···」

少年は才機の方を向いた。

「申し遅れましたが先ほどは本当にありがとうございました。あなたがいなかったら無事では済まなかったかもしれません」

「いいえ、向こうが悪いんだ。完全に逆上してたんだよ」

「まぁ、とりあえずありがとうございました。お礼はそれぐらいしか出来ませんけど。それでは皆さん」

少年は頭を下げてそう言ってから三人と別れた。

「しかしねぇ、あんなに能力を使うなと言ったのに」

ゲンは才機を見てそう言った。

「すみません。何か無意識に体が反応したんだ。ってまたいつの間に元に戻ってる」

才機は自分の手を見つめた。

「でももしかして···」

何か見えない攻撃でも防ぐように才機は急に両腕を前に出して首を逸らした。そうしたら海とゲンの目の前に一瞬にして皮膚が変形し、光沢を帯びるようになった。

「出来た!」

海は目を丸くして手を合わせた。

「みたいだね。今まではこう···内から力を出す感じでやってみたんだけど、どっちかというとその逆だった。自分の身を守って力を引き込むような感じで変形を起こせる」

才機は目をつぶって深く息を吸い込んでからゆっくり吐いた。すると生身の体に戻った。

「そしてこうやって落ち着いて緊張をほぐすと元に戻れる」

「この騒動でせめて一ついい事があったみたいね」 と海は苦笑した。

「それって···」

二人の横で立っていたゲンだった。

「今まではそれが出来なかったって事?」

「えーと。満足に出来なかったっていうか、いざとなると出来るだろうというか···。すみません」

才機はゲンに向き直ってお辞儀した。

「まぁ、今は出来るなら問題はないか。と言ってもガルドルに戻ったら当分の間護衛は要らなくなったけどな。ほとぼりが冷めるまでメトハインに入らない方がいい。わしのあの二つ目の顔を忘れる時間も与えたいし。今の顔と違うとは言え、やはり似とるところはあるからのぉ」

ゲんは背中に背負っていたリュックを担ぎ直す。

「それじゃ、行こうか」


    • • •


中間地点を通り越して帰りは行きと同じく平和な遠足みたいな感じがした。

「ゲンってお人好しですよね?」

海がふと言い出した。

「ん?何じゃ急に?」

「だって、出会った時から私達を凄くよくしてくれて、自分が危険にさらされる事を顧みずに才機とあの男の人を助けて、危険を脱した後でも彼に色んなアドバイスをあげたじゃない」

「まぁ、わしは最初からそういう事をするような人じゃなかったけどね。これは償いなんじゃよ」

「償い?」

「気付いとるかもしれんが、わしはな、元々メトハインの住人じゃ」

「うん、そうじゃないかって薄々気付いてた。恨んだりとかしてないの、メトハインの人達?」

ゲンは鼻で深く息を吸い込んで、ゆっくりとまた鼻から吐いた。

「わしは以前、先ほど目撃した場面と凄く似たような境遇にいた事がある。但し、あの時、激怒した店主はわしで、わしの怒りの矢面に立った不運な人はお客さんじゃった。言ったじゃろう?以前は自分の店を経営したって。メトハインに住んどった頃、わしはさっきのあの暴徒とそんなに変わらなかった。自分も異能者でありながら、その事をまだ知れず異能者を目の敵にしていた。あのお嬢ちゃんをすっかりおびえせたんじゃろうなぁ。彼女に申し訳ない事をしちまった」

ゲンは才機を見た。

「あの時はお前さんみたいに暴徒から庇ってくれる人は出てこんかったけどね。他の異能者のことを密告した事もある。そして異能者狩り事件から約一ヶ月経った頃、わしは店に入ってきたお客さんを手伝おうとして目当ての品を指差した時に腕が急にぐんとの伸びた。あの人は飛び出して、真っ先に通報に行ったんじゃろう。最初は自分でも信じられなかった。でも間もなく近衛兵がやってきて、現実を受け入れざるを得なかった。このリュックに押し込めるだけの物しか持って行く事を許されなかった。ずっとあの都市で住んできて、腕が一瞬伸びた為、追放されるなんてそんな理不尽な話があるかって思った。こっち側に来るまではそういう見地から見ることが出来なかった。見ようと思っていなかったんじゃろう。それで異能者はどんな苦汁をなめてきたか身をもって体験したんじゃけど、異能者を侮蔑する人を責められない。責める資格なんてないんじゃ、わしには」

「そっか。ゲンも大変だったね」

海は視線を落とした。

「これは天から授かった報いじゃよ、きっと。まぁ、今の状況でせいぜい善処する」

もう少し歩いたら、海は才機の袖を引っ張って耳打ちした。

「何か、さっきから三、四人の気配を森の方から感じるんだけど、だんだん近づいてきている」

「そう?」

才機は森の方を見た。

「んー、どういう事かよく分からないが五十メートル以内に来たら教えてくれ」

「もうそこまで来ていると思う」

「そうか」

才機の体はガラス状になった。

「どうかしたのか?」とゲンが聞いた。

「んー、ちょっとね。付けられてるかもしれない」

ゲンは辺りを見回した。

「森にいるらしい」

才機は少しだけ頭を傾けて森の方を指した。

「大丈夫なのか?」

「まぁ、もし襲い掛かってきたら二人はあっちの方へ下がってて。俺はここで食い止める」

才機はまた右袖が海に引っ張られるのを感じた。海は左側にある森の方へ控えめに指差した。その指が指している方向を見ると、かすかだけど木々の間に動いている人の影法師が垣間見えた。

「二人とも、あそこの木に向って後ろで隠れてて」

才機は森から離れた前方にある大木を指差した。

海とゲンは言われた通りさりげなく小道から外れて大木の方へ向かった。そして二人は才機から二十メートル離れたところであの影法師は具体化し、才機に襲い掛かる三人の盗賊になった。才機は気を引き締めた。三人の盗賊は今の才機の姿に気付いていないのか、それとも知っていて構わず突撃したかは定かではないが、何の迷いもなく才機に向ってまっしぐらに走る。

「この男がボディーガードだ!伸してやれ!」

最初に攻めてきた男に才機は体落しを使って相手を地面に投げ落とした。狼の出来事をぎりぎりで思い出し、最後で手加減して力を抜いた。それでも男は背中から落ちると息を詰らせた。二番目の男に対しては軽く膝車で地面へ放り投げた。男はびっくりしただけだった為、直ぐに立ち上がった。三番目は攻撃するのを考え直して、まだ地面で咳き込んでいる男を見た。

「こいつ、そう簡単に倒れてくれそうにない。お負けに異能者だ。仕方ない。使え」

男は指示しを出して剣を抜いた。もう一人は二本の短剣を出した。

「悪く思うなよ。この弱肉強食世界で俺達は生き抜こうとしているだけだからさ」

剣を持った男はそう言って剣を振り下ろした。

狼に噛まれて平気だったから剣も大丈夫かもしれないが、才機にはそれを試す気がない。牙と鋼では大差がある。剣をかわし、後方に下がった。直ぐに短剣を振るっている男が追撃して才機に反撃するチャンスを与えない。この二対一の状態と二人の連係プレーを前にして才機は手も足も出ない。二人の男はパートナーを組んで戦う経験が豊富なのは明白だ。畳み掛けてくる敵の猛攻をかわすだけで精一杯。だがこれはいつまでも続けられない。いつ相手がうまく刃で当てたり、才機が足を踏み外してひっくり返ったりするか分からない。最初に出てきた男はそろそろ立ち直って戦闘に加わる。そうなったら確実にかわしきれなくなる。早く何とかしなきゃ。才機は怪力に物を言わせて攻守所を変える事にした。長剣を右に避けて、肩を狙う短剣を下にかわす。そしてその低い体勢で足を完全に伸ばし、全力ではなくても両方の相手の足をしっかりと払った。効果抜群。二人は地面の上で足を抱えてもがき苦しんでいた。これで一安心と思ったら後ろから海の悲鳴を聞こえた。

もう一人盗賊がいたらしい。その一人は機がさっきの三人の相手をして手がふさがっていた間に海とゲンを追い掛けった。そして今は海の首にナイフを運び込んでいた。

《くそ!どうやってあいつを見落とした?》

「さあ、兄ちゃんよ。その辺にしといてもらおうか?」

「おいおい、彼女は何も持っていないし、何も出来ない。相手にするのは俺だろう?四人がかりでも構わないよ。かかってこい」

まさかこの程度の挑発に乗ってくれると思っていないが、他に手が思いつかない。

「勘違いするな。俺達は用があるのはあのおっさんとその荷物だけだ」

盗賊はあごでゲンに指し示した。

「お前とこの女は邪魔者以外の何物でもない」

「分かった。抵抗しない。代わりに俺が人質になってやる」

才機は両手を上げて一歩前に踏み出しす。

「おっと、それ以上動くな。変なまねをしたらこの女の喉笛をぶった切って次にあのおっさんを人質になってもらうぞ」

才機は胸を冷やされて一気に戦意を失った。後ろの三人はふらふらしながらも立ち上がる。長剣を持った男は頭上に剣を持ち上げ、抜き足差し足で才機の背後に近づいていく。

「危ない!後ろ!」と海が叫んだ。

が、遅い。

ガキン!

男は力の限り剣を振り下ろし、才機は背中に重い刃が落ちてくるのを感じて頭をぐいっと上げた。凄い音の後、緑色の草は滴り落ちる血の赤で染まっていく。海を人質にしている男はちょっと警戒を緩めて、ナイフが海の首から離れた。護衛が始末されて緊張が解いた訳ではない。ショックを受けていた。あの赤い血は仲間の肩から流れ出ていた。それに引き換え才機は無傷だった。剣が才機に当たった瞬間に刀身が二つに折れたんだ。そして折れた部分は跳ね返って高回転速度で男の肩に切り込んだ。海は自分を捕らえている人が隙を見せている間に、ナイフを手にした腕をひっつかんで一本背負いを見事に決めた。いつも通りなら相手は足下で地面に叩き付けられるだけなんだけど、それがおよそ六メートル吹っ飛んた。一見、海も剛力の持ち主に見えただろうが、よく見れば地面に散らばっていた落ち葉や枝も一緒に吹き飛んでいた。海の周りの草も風になびくように揺れていた。この場合、風になびくようにと言うのは少し不適切な表現。なぜなら実際には風が吹いたからだ。そしてその風は海から発した。盗賊の連中はゲンの所持品がこんなに手間を掛けるほどの値打ちではないと判断した模様で、「化物どもが!」と言い捨てて全員トンズラした。

「はらはらしたわい。お嬢ちゃんよ、そんな事出来るんなら最初からやって下さいよ。出し惜しみは無用じゃ」

「いや、私が···やったのかな、今の?」

「大丈夫?切られてない?」

駆け付けてくる才機はあわてて海に傷がないか確認していた。

「うん、大丈夫。でも···何だった今のは?見たでしょう?いきなり強い風がどこから出てきて、男が飛んで行って、何か腕もしびれるし」

「いつからそんな事出来るようになった?」

「分かんない。たった今?」

「あれが初めてだったって言うんなら、能力が進化したのかな」

ゲンが顎をなでながら言った。

「進化?」と海が聞いた。

「ええ。前からあった能力がさらに変化して違う形で顕現する。たまにはあるんじゃ」

「でも、今までは人の気配を感じる事ぐらいしか出来なかった。あんな派手なのは初めてだった」

「んー、確かにその二つの能力はあまり関係ないんじゃな。進化じゃないんなら、その能力は前からあったが知らなかっただけかも」

「しかし不思議な感覚だった。あんなの感じた事ない。こう、体中が冷や冷やしていて、特に腕が」

海は上げていた自分の前腕を不思議そうに見ていた。

「そしてその冷や冷やした感触は一気に体の中を走って腕から出て行ったような」

そう思い出していると同じ症状がまた起こって、急に海の手から竜巻が舞い上がった。海を含めてそこにいる皆がびっくりして二歩引いた。突然嫌な物が手に落ちてきたように竜巻を落とすつもりで海は手を素早く引っ込めた。でもそうする事で竜巻の角度を変えただけだ。今度は才機とゲンにもろに吹き付けた。幸いに威力はそれほど高くなくて数秒で静まった。

「ごめんなさい!大丈夫?!思い出していたらつい出ちゃった」

「ええ、大丈夫。ちょっと驚いただけ」

ゲンは服に着いた葉っぱを払い落とした。

才機の方は痛そうに目をこすっていた。

「変形を解くんじゃなかった」

「ごめん···」


  • • •


一時間がちょっと過ぎると三人はガルドルへ戻ってきた。才機の手に六枚の銀貨

が落ちる。

「約束通り危険の上で無事に送ってもらったから五枚」

「今、六枚渡したけど」

「今夜の宿代。解雇手当じゃと思って。わしはしばらくこの町にいるから」

「ありがたく頂きます」

「もし定職につきたいならこの町でうまく行く事はまずない。西方にある町のどれかに行ってみるといい。そこでも異能者が受ける仕打ちはそんなに変わらないじゃろうが、新顔じゃから下手さえしなきゃ大丈夫かも。メトハインだけは止めておけ」

「西ですか。じゃ、そうしようか?」

才機は海にお伺いをたてる。

「うん、そうですね。今まで大変お世話になりました」

海はゲンに向ってお辞儀した。

「縁があったらまたどこかで会おう」

ゲンはガルドルの住民の中に紛れ込んで去っていった。

「五時回っているけど、どうする?チェックインする?」と才機は海に聞いた。

「んー、満室になる心配はないと思うがそうしといてくれる?私もこの新しい力を使いこなせるように町の外でちょっと特訓してみる」

「そっか。じゃ行ってくる」

才機は宿に、海は森の方に向かった。チェックインを済ませて才機はサンドイッチを食べながらさっきまで二人がいた場所に戻った。

《どこで特訓するか聞いておけばよかった》

町を出るとそんなに遠く探す必要はなかった。林縁で彼女は目を閉じていて竜巻の中心になっていた。髪は風に激しくなびいていて、海の周りに落ち葉が渦巻いて上の方へ上がる。その光景は何とも優雅で見ていると才機は恐れ入った。海の気を散らさないように邪魔をせず近くにあった切り株に座って見とれる事にした。考えてみればこんな風に海を見つめるのはこの世界に来てから初めてだった。でもやっぱり引かれちゃうんだよね、海に。そう思いながら小さな溜め息をついた。この奇怪な世界に来て心のどこかにちょっぴり嬉しく思ったりしていないでしょうか。こうして海と二人で一緒にいられる事を。今は二人の関係を深めている場合じゃないが、とりあえず一緒に過ごせる時間、海を見られる時間が増えた。元々それこそが求めていた事だから本望のはずだ。でもその海が不安で気が沈んでいるなら無意味だ。どうにかして元の世界に返してやらないと。ここでの生活に馴染んではいけない。無論、帰られるなら躊躇無くそうする。才機だって一刻も早く元の生活に戻りたいと思っている。

葉と草を踊らせている海は数分で才機に気付き、術を解いた。空中で舞っていた葉は少しの間だけ宙に浮いてから緩やかに地面に落ちた。

「いたのか。あそこで待たなくていいよ。危なくないから。意外と制御しやすい、これ」

才機は立って海の所まで歩いて行った。

「かなり集中していたように見えたからそっとしておいた方がいいかなと思って。もう自由に使えるようになった?」

「んー、少なくとも前よりはね。見てよ、あの木」

才機は海が指差した木に近づいて木の様子を調べた。傷だらけだった。傷はそれほど深くはないが、まるで誰かがナイフで何度も何度も切り付けたようだった。

「思いきりやってみたらああなったんだ。私が作り出す風は危険なものにもなれるらしい」

「確かにこんな事が出来る風に当たりくないな。あ、そうだ。はい、海の分」

才機は持っていたサンドイッチを手渡した。

「サンキュウ」

海は才機に背を向けるように斜面に座ってサンドイッチを食べ始め、才機は数秒ぐらい自分の指を見つめた。

「あの宿のマスタって見かけによらず料理の才能はあるな」

言いながら才機は海の左側に腰を下ろした。

「うん、美味しいよ、これ」

才機はもう一度自分の指を見た。

「今、サンドイッチを渡した時、海の手が凄く冷たく感じたけど、気のせい···じゃないよね」

「冷たいよ。ほら」

海は手の裏で才機の頬に触れた。

「うわ、つめたっ!平気なのか?」と才機はだじろいだ。

「少し待てば元に戻るはずよ。これが副作用みたい」

「ふむ...じゃあ、もう一回手を出して」

言われた通り海はもぐもぐしながら物をもらうような動作で左手を出した。

「ああ、そうじゃなくて、こう、握手する時みたいに」

その指示に従うと才機はその手を自分の両手に挟み、木の枝を回転させて火起こしする要領で海の手が暖まるように急速に両手を前後にこすった。

「凄い。だんだん暖かくなってきた」

「偉大なる摩擦の力だ。こんなもんでいいかな。はい、右」

才機は海の前に回った。

海はサンドイッチを左手に持ち替えて右手を差し出した。才機はその手をまた自分の手の間に挟んでひたすらにこする。海がちょうど食べ終わった時に才機も手を離して上体を後ろにそらした。

「ふ〜、ちょっと疲れた」

海は自分の手をこすり合った。

「ありがとう。大分暖まった」

才機はそのまま仰向けになった。二人はそうやってわずかに残っていた落日が沈むのを見た。

「この世界も夕焼けは奇麗だね」と海が言った。

「夕焼けかぁ。まぁ、赤い空はいつも見ている青空と違う感じがしてちょっとした気分転換にはなるが、心から鑑賞出来るほど風流人じゃないなぁ、俺は」

「奇麗だとは思わない?」

「おいおい、そう簡単にチャンスを与えていいの?簡単過ぎるだろう」

「え?チャンス?どういう事?」

「そんな事聞かれて俺は『海のほうが断然に奇麗だぞ』みたいな返事をするしかないじゃん。これ男のルールだ。ここで決めないと男が廃るってもんだ」

「な、何よそれ?お世辞は私に通用しないよ。ってか知らないよ、男ルールなんて」

海は突っ張ったが、恐らく単なるお世辞じゃなかったせいか、ちょっとだけ頬が赤くなった。

「もうそろそろ日が暮れるから宿に行こう」

そう言って海は立ち上がって町の方へ向った。才機は海を見ていなかったのでその恥じらう姿も、海がそれを隠そうとするのも気付かなかった。

   • • •


二人は宿に着いて自分の部屋に入った。昨日と違う部屋だったけど中身と大きさはまったく同じだ。

「疲れた〜」

海は椅に子ドスンと座る。

「一日中歩いてるとさすがに足に来る。今日は汗もかいたし、やっぱシャワー浴びてくる」

「そうだね。じゃ、終わったら俺も」

三十分後に水気でぴかぴか光っていた髪の海は部屋に戻ってきた。

「終わったよ。浴室にタオルは置いてある」

「そっか」

才機はポケットからお金を全部出してテーブルの上に置いた。

「じゃ、行ってくる」

シャワーを済ませて部屋に戻ると海はテーブルで座り、コインを使って塔を築き上げていた。

「ね、この二十七枚の銅貨は何?」

「ああ、あれは部屋台を払った時とサンドイッチを買った時にもらった。お釣りってとこだな。ルピスというらしい。サンドイッチをトレイキで払ったらその銅貨が十九枚戻ってきた」

「二十ルピスは一トレイクの価値があるとすれば···宿代の十二分の一ぐらいだったね。高級ホテルじゃないし、悪くないか。明日行く町でちゃんと仕事にありつくといいんだけど。今のところ稼いでるのは才機だけだから私も頑張らないと」

「少なくともこの町で探すより他で探した方が可能性は高いだろう。仕事を見つけたとしても俺達の力をずっと隠さないといけないのは気がかりだけど。メトハインで会ったあの男の二の舞だけは演じたくない」

「それはまずいなぁ」

「もし意表を突かれて何かがいきなり飛んできたらその場で変身しかねない」

二人そろって最悪の事態を想像していた。

「ま、今くよくよしても仕方ない。前向きに考えよう」

才機は気持ちを切り替えようとする。

「そうね」

海は窓の外を見た。

「それにしても日が沈むと暗くなるのが早いな」

海は窓まで歩いて窓台に手を付けた。

「うわぁぁ。ね、ね、見てよ、これ」

才機も窓に近づいて外を見た。

「へ〜。これは素直に奇麗だと言える」

「こんなに星が沢山きらきらするのを初めて見た。しかも大きい。夜間とは言え星がこれほどまでに出てると夜は暗い方が不思議のように思えてくる」

その満天の星空を見て才機は提案する。

「天体観測なんてやった事ないが、屋上に行こうか?」

「暇だし、ちょっとだけ行ってみるか」

二人は屋上に出て、頭上で輝いている無数の星を見上げた。その白い点々が見渡す限り続けていた。

「ちょっと寒いね。大丈夫?」と才機が聞いた。

「うん、平気」

少し縮こまっていた海がうなづいた。

二人はそこで空を見上げたままじっと立っていた。

「昨夜もこうだったっけ?」

才機は首を傾げた。

「さあ、全然見てなかったかも。でもルヴィアもいいところあるんだね。地球の星空もいつかまた見られるんでしょうか」

海は少し悲しそうに誰にともなく聞いた。

「きっとまた見られるよ、地球の星空も夕焼けも。どんなに時間かかっても、お前を地球に返す方法を見つけるまで俺は諦めないから」

「あんたも一緒に帰るんでしょう?」

笑顔になって海はちょっとしたツッコミを入れた。

「ああ、そうだったな」

才機は指で頬をなでた。

短い間の沈黙を海が破った。

「帰る方法を探すのにそんなに苦悩しなくてもいいからね。私は大丈夫だから。才機も一緒にいるし」

それほど強がっているようには見えなかった。才機はちょっとほっとしていた。

「さ、戻ろうっか。これ以上星を眺めていると首が足と同じくらい疲れちゃう」

海が戻ろうとしたらいきなり才機の早口を聞いて立ち止まった。

「地球に帰れますように、地球に帰れますように、ちき···」

振り返ると才機は頭を掻いて少し悔しい表情で海の方を向いた。

「ちぇっ、あと一回で間に合ったのに」

室内に戻り、二人は昨夜と同じ状態であの小さい部屋で寝た。


    • • •


翌朝は昨日と同じ朝飯だったが安くて美味しいから大歓迎。

「目的地までは長丁場だから出発前に必需品を揃えたほうがいいよね。食べ終わったらちょっと買い物に行こう」

才機はフォークに突き立てられたソーセージの端っこをかじり取った。

マスタが食器を片付けに来たら才機は尋ねる。

「食料などを仕入れたいんだけど、この町でその手の店はどこですか?」

「町の最も東北の辺りに二階建ての赤いビルがある。一階では色んな食品を売っている。まぁ、色んなと言っても選択の余地は他の町と比べたら少ないが、俺もそこで材料を買っている」

「そうか。ありがとう」

あまり苦労せずにその店を見つけ、飲食物とそれを入れる為のぼろっちい雑嚢を購入した。合計十二ルピス。これで準備万端。旅支度が出来たところでここはぜひバス料金も払いたいところなんだが、バスが現れる可能性はゼロに等しい。町のはずれに近づくと何だか騒々しい。道路で駐車中の荷馬車を見たらその原因が分かる。鶏だ。間近で見ると鶏を十五羽ほど積んでいる荷馬車だった。

「どうだ?育ちのいいやつばかりだろう?」

後ろから呼び掛けられた。

口にパイプをくわえた男だった。

「一羽二トレイキだ。二羽買ってくれたら一割おまけするぞ。こいつらなら直ぐに利益をもたらすはず」

「ああ···いや、特にいらいないかな」と才機は答える。

「そうか。残念。ま、気が変わったら来月もまた来るから」

男が運転席に上がり始めた。

「遠くから来たんですか?」と海は聞く。

「それほど遠くはないかな。メトハインだ」

二人の反応を見て、彼は更につ付け加える。

「あんた達を別に嫌ちゃいないよ。私にとってお客さんはお客さんだ。皆さんの能力よりも財布に興味があるんだ」

男はウインクして荷馬車に腰を下ろした。

「迷惑じゃなかったら俺達もメトハインまで乗せてくれないか?」

才機はポケットからコインを取り出して数え始めたが、男が上げた手に制止された。

「こいつらと一緒に乗るのが嫌でなければいいぞ。お安い御用だ」

男は後ろで歩き回っている鶏を親指で指した。

「ありがとうごうざいます」

才機はお辞儀してから海を馬車に上がるのを手伝った。

二人が腰を据えたところで男は言う。

「しかし···」

彼はパイプを座席の縁にはたいて灰を地面に落とした。

「本当にメトハインに行きたいのか?」

「メトハインは目的地への中間点なんで街の周辺まででいい」と才機が答える。

「そっか。そんじゃ、出発だ」

男は手綱で馬の尻を叩いた。

ペースは歩くのと比べて本のちょっとしか速くならないけど、これで少しは体力を温存出来る。

「この鶏は籠に入れなくて大丈夫ですか?」

海は自由に歩き回る鶏を見て男に聞いた。

「大丈夫、大丈夫。こいつらはひよこの頃から私がずっと育ててきた。逃げたりしないさ」

海は用心深い目で自分の周りをコッコッと鳴いて歩いている鶏を見ていた。

「なんか、テレビで見る時はこうやって人が馬車でヒッチハイクする時はいつも藁が積んであるのになんで鶏···」

海は独り言のようにぼやいた。

「嫌か?」と才機が聞いく。

「ちょっと臭い。そっちのが何か私を睨んでるし」

才機は海を睨んでいるという鶏を両手に取った。

「俺は可愛いだと思うけどな。触ってみ。こいつら結構おとなしいぞ。ほら、持ち上げられても全然暴れない」

「いいです」

「動物は嫌いなん?」

「猫とか犬なら分かるけど、鶏?足もなんか怖い」

海は鶏と遊んでいる才機を見て、ああやって一時でものうのうとした気分でいられるのを羨ましく感じた。才機は鶏を解放してあげた。

「俺はどっちかと言うと動物好きだから今は結構楽しい。鶏なんて滅多に見られないしね」

才機は隣に歩いてきた鶏をなでた。海は引き続き鶏を監視した。

こんな風に二時間が経った。海は結局見張りを怠って眠りの誘いに乗ってしまい、才機は未だに鶏の相手をしていた。海は荷馬車を運転している男の声で目が覚めた。

「着いたぞ、二人とも。この辺でいいか?」

才機は立って体を前方の方へ回した。メトハインの黒い尖塔がもうこんなに近くなってきていた。

「そうだね。ここで降りるよ」

馬車は停車され、才機は先に降り立って海が降りるのを手伝った。

「ありがとう、ここまで連れてきてくれて」

「ありがとうございました」と海も礼を言った。

「じゃ、ね。道中ご無事で」

手綱をピシリといわせて、男はメトハインへ続けた。

「羽毛だらけだよ」

海は才機に付いていた羽を払い落としてやった。

「お前も無事では済まなかったぞ」

才機は海の髪にくっついていた一本の羽を取ってから次の行動を宣言する。

「さて、これからは徒歩で行くんだな」

「でも、どこに行けばいいか分かる?」

「昨日メトハインで会った人はあの道を使って民宿で止まるって言った。とりあえずそこに向って西方にある町のことをもっと詳しく聞かせてもらおう」

その泥道を辿って二人は着々と進んだ。正午に今朝買った物を二人で分けて歩きながら昼飯を食べた。やがて木が生い茂ってきた。四時間近く経ったら、道に沿ったぽつんと立っている大きくて野趣あふれる丸太小屋が見えてきた。二階まであって周りに色とりどりの花が咲いていた。窓も鉢植えで奇麗に飾られていた。ドアの上でぶら下がっていた看板に金色のススキが描かれていた。丸太小屋の横に馬が三頭ぐらい入れる馬小屋に馬が一頭立っていた。何だか落ち着く雰囲気だ。

「これがあの民宿かな?」と海が聞いた。

「多分そうだ。入ってみよう」

才機はドアを開けて丸太小屋に入った。

「ごめんください」

中を見ると広い居間と上へ上る階段が部屋の中央の右にあった。何だか可愛らしい感じがした。階段の左に白いレースのテーブルクロスをかぶせられた長方形のテーブルとそれを囲む椅子が六つあった。薔薇が一本入ったか細い花瓶がぴったりテーブルの真ん中に置いてあった。戸棚や箪笥も三つ壁に沿っていて、上には色んな写真が入った額縁が立ち並んでいた。壁にも写真が飾ってあった。古風で趣のある、人より大きな柱時計まであった。部屋の右側に階段に背が寄せてあるソファーは暖炉に面していた。ソファーと暖炉の間に緑色のクッションが置いてある木造の揺り椅子が二つ向き合っていた。そしてそれらの物の中心にぎざぎざ模様の絨毯が敷いてあった。

返事がなかったので今度は才機がもっと大きいな声でもう一度呼び掛けた。

「ごめんください!」

「はい、ただいま!」と部屋の真向かいの扉から女性の声がした。

その扉が開くと四十代後半のおばさんが出てきた。

「いらっしゃい!黄金原オアシスへようこそ」

「あのー、すみません。俺達は西に向っているんですけど、西にある町にはどうやって行けばいいか教えてもらえないだろうか」と才機が尋ねた。

「西ですか?ここから一番近いのは北西にあるドリックと南西にあるアラニアですね。そのまま道を進めば二つに分けるからどっちかを辿れば簡単に見つけられるはずですよ。旅人かい?」

「あー、そうですね。その町に辿り着くのにどれくらいかかるの?」

「歩いて行くんでしたら日暮れになる前に辿り着けませんよ。三時間はかかりますから。アラニアならもっとです」

「そうか」

「今日はここで止まってはいかがですか?一泊十八ルピスになります。」

「どうする?ここで止まる?」

才機は海の意思を確かめた。

「夜道を歩いて迷子になったら大変だからそうしたほうがいいかな」

才機はポケットに入ったコインを手の平に集めて、必要な金額を探し当てた。おばさんは二人のを経済状況を悟って聞いた。

「もしかして、持っているお金はそれが全部かい?」

「ええ、まぁ、さっき言ってた町のどっちかで仕事を探すつもりなんだ」

「そうでしたか?では、これでどうかしら。ここでの仕事を少しばかり手伝えば半額で九ルピスに負けてあげます」

「いいんですか?」と海が聞いた。

「いいのよ。定職なしで旅をするのは大変なことです。もう休みたいんでしょう?今日はどちらからいらっしゃったんですか?」

「ガ」

才機はガルドルを言いかけたが海が急に割り込んできた。

「メトハインです」

「メトハインですか。立派な都市ですね。うちはあそこにあるようなホテルには及びませんが、のんびりした気持ちにはなれると思いますよ。しかし、メトハインで仕事を見つけられませんでしたか?あそこならあなた達みたいな若い者の需要がいくらでもあると思いますがね」

「私達には少し賑わいすぎる所です。出来ればもうちょっと静かな町で暮らしたいと思っています」

「そうですか。それもいいですね。では、少々お待ちください。今、うちの旦那を呼んで来ますので」

そう言っておばさんは入ってきた扉から出て行きました。

「別に嘘をつかなくてもいいんじゃない?ゲンはここの経営者は優しいって言ってた。実際そうだし」と才機が言った。

「それは普通の人に対してそうかもしれないけど異能者は分からない。ゲンの正体を知っているとは限らないでしょう?とにかく用心に越したことはない」

そう言われて才機は海と同意見を持った。二人を長く待たせずに主人を連れて女将は戻ってきた。

「おお、今回は若いカップルが来ましたね。黄金原オアシスへようこそ。私はこの人の夫で一緒にここの管理人をしています」

ドアから入ってきたおじさんが二人を歓迎した。

「お世話になります。カップル、じゃないんだけど」と才機が訂正した。

「あら、そうだったのかい?てっきりそうだと思いました。すみませんね」

女将が謝ってハッとなった。

「あ、という事は二つの部屋を用意しないといけませんね」

「いいえ、大丈夫です。部屋代は出来るだけ安くしたいので」と海が言った。

「そうですか。んーー。それでは、今日は他にお客さんがあまりいっらしゃらなかったらおまけ付きで二人それぞれの部屋を貸しましょう。ここは四つの部屋しかありませんので」

海は才機を見た。

「同じ部屋だと絶対に私を床に寝かせないからたまには彼もベッドに寝てほしいのは確かなんですけどね。割引して下さった上ですうずうしくも二つ目の部屋をただで貸して頂いて、本当に何から何まですみません 」

おじさんは女将の肩に腕を回した。

「まぁ、私達は半分趣味でこれをやっているから気にせんでいいよ。お客さんはそうしばしば来ないんだ。うちの女将は接客するのが大好きだし、せっかく来たんだから是非泊まって安らいでもらいたい。で、来た早々悪いんだけど暗くなる前にさっそく手伝って欲しい事があるんだ」

「はい、何でしょう?」と才機が聞いた。

「外までついて来て」

おじさんは手招きして才機を裏口まで案内した。残るは海と女将。

「さて、うちは洗い物をしていたところでしたが、手伝ってくれますか?」

「あ、はい」

「では、皿のほうをお願いね。うちはそろそろ洗濯物を済まして外で干します」

海は台所のシンクに置いてあった食器に取りかかり、女将はシーツなど満載の大きな籠を持って外へ出た。

外では才機とおじさんは二つの切り株の近くで立っていた。

「さっき、そこの薪を集めてきた。全部四等分にしたいんだ」

おじさんは木材の山を指差しながらそう言ってから刃が地面に埋められた木こり斧を持ち上げて、薪を一本切り株の上に立てた。そして斧を振り下ろすと薪を奇麗に真っ二つに割った。片方を立てて、さらに二つに割った。

「こんな感じでね。馬小屋の後ろにもう一つの斧があるはず。それを持ってきて」

才機はその指示に従い、直ぐに戻った。

「綺麗な馬を持っているね」

手に斧を持った才機が感想を言った。

「ああ、ネリーの事か。よく働いてくれるよ、彼女。馬が好きなのか?」

「ええ、まぁ、馬というより動物全般が好きですね」

「ふうん。馬に直接餌をやった事あるの?」

「いいえ」

「じゃ、私より薪を多く割れたらこの後やらせてあげる」

「いいですね」

「私の事をおじさんと思って悠長にやってりゃ負けちゃうよ?」

薪割り勝負開始。

そうこうしているうちに女将の方は二つ目の籠を物干し場に持ってきて作業を続けていいた。純白のシーツを洗濯ばさみで挟んで物干し綱に吊るすところで海が出てきた。

「洗い物が終わったからこちらもお手伝いします」

海は籠からタオルを取り出した。

「すみませんね」

「あの二人は薪割りをやってますか?才機に出来るかな。多分やった事はないと思います」

「でしたらうちの旦那は今さぞ楽しんでいるでしょうね。好きなんですよ。人に薪割り勝負を挑んで勝つのが。相手が素人なら腕を見せつけられるから弥が上にも嬉しいんですよね」

一方では才機が思いの外、手こずっていた。中々一発できれいに割るのが難しいものだ。なのに隣でやっているおじさんは訳無くばたばた割っていた。

「見た目より難しいだね、これ。一振りで割ろうとしたら、どうしてもずれちゃうし」

「まぁ、こつがあるんだ。私は何年もやっているから慣なれているだけだ」

言いながらおじさんはまた一本を完璧に真っ二つに割った。

「それにしてもあっちのあなたの連れは結構可愛いね。もしかして妻が別室をあてがって、いらぬ気を遣ったのかな?」

おじさんは意味ありげに才機に微笑を投げ掛けた。

「いや、そんな事は」

才機は平然と答えた。でも直ぐにその質問の本当の意味を理解して少しだけ恥ずかしがる様子を見せた。

「あぁ、俺達の間には何もないよ」

「そうか?あの子は一緒の部屋でもあまり嫌がっていなかったみたいけど。ずっと同じ部屋で寝てきたんじゃないの?」

「二回だけだ。それにそれはただ節約の為だった」

「ふうん。でもたとえ本当に何もなくても、同じ部屋を共用しているうちに何かが芽生えたりしても可笑しくない」

「いや、それはありえないと思う」

「でもやっぱり···芽生えて欲しいか?」

「え?あ、いや、だから、その···」

「ははは、冗談だよ、冗談。あなたの気を散らす策略だった。そして効果は抜群みたい。最後の一本頂き」

おじさんはさっきまで薪の山があった場所から最後に残っていた一本の薪を自分の物にして四つに割った。

二人は互いの労働の成果を見比べた。どっちの積み重ねが大きいかは一目瞭然。

「この勝負は私がもらったみたいだな」

「完敗だ」

「あそこにあるのは薪小屋。これを全部あそこに入れてくれ。」

おじさんはそう頼んで 丸太小屋に入った。

才機が薪を全部薪小屋に運ぶのに六往復かかったが、幸いにその薪小屋はそんなに遠くない場所にあったから速やかに片付ける事が出来た。薪小屋のドアを閉めたら、丸太小屋からおじさんがまた出てきた。おじさんは持っていたオレンジ色の細い物を才機に投げ、才機はそれを両手で受け取ってその正体が分かった。ニンジンだった。

「ネリーの好物だ。最後のほうでちょっとこすいなまねをしちゃったからあれをネリーに食わせてやって」

「そうか。じゃ、ちょっと行って来ます」

才機は急ぎ足で馬小屋へ向った。

「ここで待っているから、それが終わったら戻ってきて。次もある」

「はい!」

女達は干し物を全部出して、また台所に戻っている。

「それでは、次は絨毯ですね。階上の四枚を持ってくるから、居間の暖炉の前の一枚をポーチの柵に掛けて待っててくれますか?」

「はい」

女将は二階へ、海はぎざぎざ模様の絨毯をまとめて表口から出た。外に出ると才機であろう人が馬小屋の後ろに消えて行くのに気付いた。

《馬とでも遊んでいたのかな》

海は持っていた絨毯をきれいに柵に掛けて、女将は右手に四枚の小さな絨毯を、左手に絨毯叩きを二本持って出てきた。海はその負担を軽減しようと三枚の絨毯を手に取って柵に掛けた。すると女将は一本の絨毯叩きを海に渡して、二人が埃を容赦なく叩き出したが、普段から清潔にしておいている絨毯からはそんなに埃が落ちない。

「さて、後は中の家具の埃を払うだけです。この絨毯を元に戻していいですよ」

海は言われた通りにし、他の絨毯を階上に戻しに行った女将の帰りを待った。今度女将は雑巾を手にしていた。

「さ、この部屋から始めましょう。適当にやればいいのよ」

女将は椅子を踏み台にして食卓の上に天井からぶらさがっているランプに手を伸ばした。四方に広がる四本の蝋燭を囲む先っちょが切り取った蕪の形をしたガラスのカバーを一つずつ取り外し、丁寧に拭き始めた。海は隣で戸棚を拭き込んでいた。戸棚の上に載っていた色んな写真を見て海は言った。

「写真が沢山出されてますね。この大きい丸太を担いでいる六人の男は誰ですか?一人は旦那さんに見えるけど」

「旦那ですよ。他の人は皆友人。持っている丸太はのこの民宿を建てるのに最初に使った丸太。その六人の男の力でここは建てられたんだ」

「ふうん」

「いや、ちょっと違うかしら。七人目はいたけどあの写真には写っていません。右にある写真なら写っていますよ」

「これ?」

「そう」

「さっきの六人に比べて若いですね」

「ええ、あれはうちらの息子ですから」

「そうだったんですか?息子さんがいるのね」

「時間がある時、折に触れて彼も手伝いに来ました。今はアラニアに住んでいます」

その多くの額縁の間を拭くのを怠らずに海は他の写真にも目を通した。次は戸棚にかかろうとしたその時、女将は驚きの声を上げた。海は彼女がガラスのカバーを落とすのをちらっと目にした。雑巾を投げ捨てて海の反応は電光石火のごとく。テーブルにぶつかる直前に間一髪のところで無事に両手で受け止めた。でも安心するどころか、むしろ歯をくいしばって前より遥かに焦り出した。間に合わなきゃって思って手を思い切り伸ばしたら、思わず能力が発生したからだ。結果としてテーブルの花瓶と向こうの戸棚

の上にあった写真がいくつか倒れた。それに続いた静寂の中で、花瓶に入っていた水が床に流れ落ちる音しかなくて、海は動かずにランプのカバーをしがみついたまま。床に立派な水溜りが出来き、完全に静かになって初めてその沈黙が破られた。

「すみません!本当にすみません!そのつもりはありませんでした!ガラスが割る前に受け取ろうと思っただけで、こんな···わざとじゃないんです!本当!すみまさん!」と重々謝罪する海は上半身がほぼ水平になるほど頭を下げた。

女将は椅子から降りた。

「何をそう必死に謝っているの。事故だったんでしょう?」

「え?」

女将はガラスのカバーを優しく海の手から取った。

「このランプはね、凄く気に入っています。旦那からのプレゼントでした。水をこぼすぐらいで壊れずに済むなら安いもんですよ」

「お、こってないんですか?」

「怒っている?感謝こそすれ怒る道理なんてありません。さ、この水を何とかしましょう」

二人が水をふき取ったらテーブルクロスも取り替えた。最後に女将は倒れた額縁を立て直した。

「嫌ってないんですね、異能者」

海は新鮮な水を入れ直された花瓶の薔薇を特に意味なく弄って言った。

「ま、少なくともあなたの事は嫌いではありません。あなたのお友達も異能者でしたら彼もです。でもこの事は私の旦那に内緒にしましょう。彼は異能者を嫌っ

てはいませんが警戒はします」

外は少し暗くなってきた。男達の登場を知らせるように柱時計は三回鳴った。

「今日は大漁だ。大物を三匹釣ってきた」

おじさんは誇らしげな笑顔でそう告げた。

「三匹とも彼が釣ったんだけどね。俺が捕ったのはこれぐらいの雑魚二匹」

才機は親指と人差し指で八センチの長さを示した。

「まぁ、初めてにしちゃ上出来じゃない」

おじさんは才機の背中をポンと叩いた。

「では、うちらは下ごしらえをするから二人はここで休んでいて」

女将は海と一緒に台所に入って行った。

例の魚は台所のテーブルの上に置いてあったバケツに入っていた。海は才機が釣った二匹の魚を見て少し笑わざるを得なかった。


• • •


暫くしたら皿を持って女達は台所から出た。男達の前に差し出されたのは焼き魚とさいの目に切ったジャガイモ。女将はおじさんの隣、海は才機の隣の席についた。よく見ると才機と海の皿にだけ二個目のちっちゃい魚がある。

「美味しいね、これ」

焼き魚を一口飲み込んだ才機が言った。

「調理したのは女将さんだけど。私は食器の用意とジャガイモを切っただけ」

「お客さんの為だったら妻はいつも腕によりをかけて最高に上手いもんを作るからな。」

「それじゃあんたの為に作るのは二流の料理みたいな言い方じゃないか」

女将は旦那を横目で見た。

「いやいや、めっそうもない。あなたが作る私だけの為の料理はもっと上手いよ」

「も〜、うまいのはあんたの口なんだから」

呆れた顔つきで女将が言った。

「やっぱりうまかったよね、今の」

おじさんが才機に聞いた。

「ええ、とっさに出た割には感心した。勉強になります」

「とは言ってもそういうのに頼らなくていいように最初から女の気を悪くさせるような事を言わないほうが一番。肝に銘じておくといい」

最後のほうは才機にフォークを向けながらおじさんが言った。

「なるほど。聖賢の教えだな」

「いーや、あれは聖賢の教えなんかじゃなくて常識です」

コップを口に持っていた女将がそう言ってコーヒーをひとすすり飲んだ。

「ね?」

飲み込んだ後、海に向って付け加えた。

「まさにその通りです」

「やばい、女達は手を組んだんだ。こうなった以上、反論なんて出来ると思うなよ。逆らったら地獄を見る事になる」とおじさんが才機に言った。

「自分で忠告しておいて自分の助言通りに出来ないのね」と女将が突っ込みを入れた。

こうして皆は食事の時間を愉快に過ごした。海は才機とおじさんが楽しそうに会話しているのを見て思った。私達が異能者だって知っていたら、この二人はこんな風に気楽に話し合えたんだろうか。多分、出来なかっただろうね。主観的にそう決め付けるのは不公平ならおじさんに悪いけど、やっぱり発った町を偽ったのは正解だった。

食事が済んだら海は風呂に入ると言ってそのようにした。浴槽は石で出来ていて、それほど大きくはないが、下の炉で女将は水をちょうどいい湯加減にしてくれた。ゆったり出来るお湯だった。今日の疲れが取れた気がしたら湯から上がって自分の為に用意された部屋に退いた。体をベッドに投げ出して天井を見つめた。見た目通り寝心地のいいベッドだ。窓のカーテンとベッドスプレッドはちょっとおしゃれな感じがした。ベッドの前に置いてあった先刻掃除した絨毯もそうだ。愛らしい小さな鏡台もあった。

部屋の内装を感心して眺めていると誰かドアをノックした。

「はい」と体を起こした海が返事した。

ドアが開き、マグカップを持って女将が入ってきた。

「ココアを作りましたが、飲みますか?」

「あ、ありがとうございます」

海は暖かいマグカップを受け取った。

ココアに大きいマシュマロまで浮いていた。

「お友達にも差し上げましたよ。今、飲みながら暖炉の前で暖まっています。あなたもどうですか?」

「ん?私は別に平気」

「そうですか。うちの旦那はもう寝室で休んでいるからお友達は退屈しているんじゃないかと思いました」

「彼はそんなに退屈しやすいタイプなのかな」

「差し出がましい質問ですが、いつからのお知り合いですか?」

「一年余りですね」

「そんなにですか?知り合ってからそんなに経っていないのではないかと思い込みました。食事の時、二人は互いに殆ど喋りませんでしたし」

「私達、そんな感じがしますか」

「んー、少なくとも一年以上の付き合いの割にはちょっとよそよそしい感じがしましたね。おせっかいでしたら申し訳ありませんが、二人の間に何かありましたか?」

「え?あぁ、まぁ、ちょっと。でももう解決済みです。少なくとも解決したはずなんですが···」

「ですが?」

「何か、彼と話す時は、前と違って悲しい目をされる···ような気がします。いや、目が悲しい訳じゃないんですけど、何っていうか、光がない。彼の目はもう輝いてい

ない」

「目が輝いていないんですか?」

「んーー、変な言い方ですみません。うまく説明出来ませんが前にあった何かもう見当らないんです」

「まぁ、よく分かりませんが、これだけは言えます。本当にいい友達は大事にしないと。相当に得難いんですから、案外に」

そう言って女将は退室した。海はココアを飲んでみた。暖かい感覚が体中に染み渡った。

何とはなしに気付いていたけど、実際に口に出すまではあまり気にしていなかった。才機はどうも雰囲気が前と微妙に違った。具体的に何が違うかは特定出来ずにいる。目かもしれない。声かもしれない。笑顔かもしれない。もしかしてその三つ全部かもしれない。でも確かなのはその変化はマイナス方向に向いている。いきなり異境に送られてそれは無理もないだろうけど、根本的な原因はそれだけじゃないような気がした···。

マグカップの中身を飲み干し、残ったマシュマロがココアを吸収し切っていて茶色になっていた。それも食べてしまい、才機と一緒に暖炉のほむらを享受する事にした。

居間に降りると火がぱちぱちと燃えている音が聞こえた。でも才機の姿はなかった。直に戻るだろうと思って海はソファーに座って才機を待った。が、五分経っても未だに居間にいるのは海一人。

《どこに行ったんだろう?まだ自分の部屋には行ってないし、他に行く場所なんて···。あ。あった》

海は表口を出て手すりから身を乗り出して左の方へ覗き込んだ。案の定才機は馬と一緒にいた。とても優しそうに馬のたてがみを撫でていた。

海に気付いた才機は言声を掛けた。

「あ、ちょうどいいや。海を呼びに行こうと思ったところだ」

「そう?どうした?」

海は才機の隣に行った。

「鶏は苦手みたいけど馬はどう?綺麗だろう?」

「そうね。馬になら懐ける」

海は馬の頭を撫でた。

「馬を触った事あるの?」

「いや。今のが初めて。才機は?」

「二回目になるんだね。子供の時、動物園で馬に乗った事がある」

「手触りが気持ちいい」

「名前はネリーだ。そして好物はこれ」

才機は三分の一食べられたニンジンをポケットから出し、海に差し出した。

「食わせてみる?」

海はそのニンジンを手に取って馬の口の前に持ち上げた。

「うわ、はやっ。ちゃんと噛んでるの、この子?」と海が言った。

ニンジンがどんどん短くなっていく。後二センチまでに減ったところで海は手を離して残った部分が地面に落ちた。

「怖かった〜。指まで食いちぎられると思った」

才機は落ちたニンジンを手の平に載せて、ネリーに最後までおやつを満喫させてあげた。

「こいつ、ちょっと食い意地が貼ってるよね」

才機はネリーに餌を与えた手でまた撫で始めた。

「本当に動物が好きなんだね、才機は。何かペットを飼ってた?」

「いや。欲しかったけどね。猫か犬か何か」

「家には猫一匹あるけど、誰もあまり相手してあげない。まぁ、あの猫は私達の事もどうでもいいみたいな態度をいつも見せてるからお互いさまか」

「寂しい話じゃないか。俺は野良猫や野良犬に出くわす度に遊びたい衝動を抑えられない。殆どの時は逃げられてしまうけど」

「引っ掻かれるのが怖くない?」

「少し怖い。でも今まで一度も引っ掻かれたり、噛まれたりした事はないし、仲良くなれたら危険を冒した甲斐がある」

「ふうん。そういうもんか?才機って動物に好かれるタイプ?」

「どうかな。だったらいいけど、動物によって嫌な思いをさせられた事もある」

「嫌な思い?」

「一週間だけだったけど、アメリカに行った事がある」

「え?そうなん?初めて知った。」

「ホームステイってやつ。夜、裏庭に出た時スカンクに会った」

「スカンク?」

「うん。珍しいからこっちとしては興味津々だった。当然俺が近づいたら逃げたけど、それでもねちこく付きまとった。後をつけてる内にスカンクが少し追い詰められた状態になって、小便をひっかけてきた」

「うわ。臭かっただろう?どんな匂いだった?」

「んー、よく覚えてない。でも特定な匂いがしたっていうより···ただすんっげぃ強烈な臭いがつんと鼻に来た。本当に最悪だった。シャワー浴びた後でも匂いがそこはかとなく残っていた」

「ぷっ」

「おい、笑ったな、今」

「だって笑うだろう、普通」

今度はもっと無遠慮に笑った。

「まぁ、それもそうだね」

その時よそ風が吹いて来た。

「ちょっと寒くなってきたね。暖炉の前で暖まろうか?」と才機が提案した。

「そうね、そうしよう。じゃね、ネリー」

海は最後にもう一回頭を撫でて才機と一緒に中に入った。

二人がソファーに掛けたら海は才機に聞いた。

「今日は何の雑務をさせられた?」

「薪割りをした後、向こうにある川で釣りをした」

続きを待っているように海は黙って才機を見ていた。でも才機がそれ以上何かを言う様子はなかった。

「だけ?」

「うん」

「なんだ、ほとんど遊んでたじゃん。こっちはずっと忙しかったよ。洗い物、洗濯物、拭き掃除、炊事。っていうかあのおじさんは仕事よりただ遊び相手が欲しかったんじゃない?なんか、ずるっ」

「まぁ、ものは言いようだ。そのお陰で風呂を沸かす為の焚き付けと今夜の夕食にありつけた」

「よく言うよ。薪割りは絶対おじさんの方が沢山やってくれた。しかもあんたが釣った魚はあのちっちゃい二匹だけだった」

「それは言わない約束だろうが。無神経だなぁ」

「でも、まぁ···美味しかったよ。才機が釣った魚」

「そうか?あんな小さい物よく味が分かった。俺は多分知らないうちに食べちゃった」

「もしかしたらこれからもあんたが捕る魚を糧にして暮らすから頼りにしてるよ」

「善処します」

こうして寝るまで二人は火を見ながら久しぶりに何気ない会話をした。自分の部屋でベッドに入っている才機は薪割りをしていた時のおじさんとの話を思い出した。

《ちょっと、残然···かな》


 • • •


朝起きたら窓から入る太陽の眩い光線が目を襲ってくる。寝ぼけているが、才機は考えをまとめてみる。

《そうだ。今日こそ町に辿り着いて仕事を探すんだ》

シーツを退かしてベッドで起き上がった。

《海はもう起きてるかな》

昨日の朝は才機の方が先に目覚めて、海を起こす前にその寝顔を少しの間だけ拝ませてもらった。穏やかなその顔もぎゅっと胸に来た。毎朝、起き抜けにあれを見るのに簡単に慣れそうだ。そう思いつつ隣の部屋のドアがノックされる音が聞こえた。女将は朝ご飯の準備が出来たことを海に知らせにきたらしい。次は才機に同じ通知を。才機は部屋を出て、海の部屋を通り過ぎると本人が目をこすりながら廊下に出た。

「おはよう」と才機が肩越しに海を見て言った。

「おはよう」

さも眠そうに海が挨拶を返した。

「今起きた?」

「うん。あんたは?」

「先起きたばっかり。女将が起こしに来た数分前」

「今何時?」

「八時十五分」

「そうか。太陽があんまりギラギラしてて、そろそろ昼間かと思った。あ、何かいい匂いがする」

「俺達の朝飯にはハムか何かが出てるみたい」

ダイニングルームに降りてその匂いがもっと明白になった。才機の鼻がうまく当てていた。テーブルに置いてあった皿の上に載っていたは確かにハムだった。それを含めて今朝の献立にはスクラブルドエッグと細かく刻まれた茶色と白の積み重ねが加わっていた。二人は隣り合って座ってフォークを手にした。

「頂きます」

「頂きます」

気になって才機は真っ先にあの見慣れない茶色の物を食べてみた。

「何だ、芋だこれ。ゆでた芋を炒めた感じ」

海もフォーク一杯すくい取って口に入れた。

「あ、本当だ。結構いけるね」

「こっちへ来て、食べ物だけについては文句は言えないな」

食べ終わったら海が聞いた。

「今日はどっちの町を目指せばいい」

「そうだな。確かドリックという町の方が近いから、とりあえずそっちに行くか」

台所から女将がやってきた。

「二人とも終わったみたいですね。では、お皿をお下げします」

才機の皿を持って行ったらまた戻ってきて海の皿を片付けに来た。

「ごちそうさま。俺達はそろそろ行くので、お代はここに置いておくね」

才機は九ルピスをテーブルに置いた。

「もう行くのかい?またこの辺に来たらここで泊まるといい。割引しますから」

階段を降りてきたおじさんだった。

「ありがとうございます。ドリックは北西にあると言ってたよね?」

「そうですよ。ドリックに向うんですか?」と女将が聞いた。

「ええ。そっちの方が近いなら」

「ん〜。あなた達にはアラニアのほうを勧めしますが。距離的には二十分ぐらいの差しかありませんし」

女将は海の目を直視して言った。

「どうしてアラニア?」と女将の旦那が聞いた。

「ほら、つい先日、ドリックで異能者による放火事件があったって話でしょう?今は神経がとがっていて、よそ者に用心しているかもしれません。仕事を見つけたいならやっぱりアラニアに行った方がいい」

それも海をじっと見ながら女将が言った。海はその裏に隠された意味を見落とさなかった。もし、そんな緊張が高まった町で自分達が異能者だとばれたら事態が非常に険悪になりかねない。

「じゃ、やっぱりアラニアに行こう?」と海も才機に勧めた。

「仕事が見つかる可能性はあっちの方が高いなら特に異議はない。じゃ、お世話になりました」

「気をつけて行ってください」と女将が言った。

才機と海は黄金原オアシスを後にして旅のを続きをした。


• • •


暫く歩いたら道が二またに分かれた。都合の良い事には標識が立てられたからどの道がアラニアにつながるかが分かった。後は道なりに行くだけ。約三時間が経つと町が見えてきた。

「思ったより早く着いたね」と才機は言った。

「でも、何か変だよ。人の気配が感じない。いや、なくはないが、一人か二人だけだ」

才機は眉をしかめた。でももうちょっと近づいたら納得する事が出来た。その町は寂れたゴーストタウンだった。才機は頭を掻きながら周りを見渡す。

「一体どうなったんだ、これ?アラニアも異能者の襲撃を受けたのか?」

「違うと思うよ。少なくとも異能者の仕業だとしてもこの町がこうなったのは最近じゃない。埃だらけでクモの巣が氾濫している。どこもかなり朽ち果てている。人だって一人もいない。死体すらも。そう言えばさっきの気配は···」

海は目を閉じて集中するように額に手を当てた。

「やっぱりいる。二人。あっちの方向」

海は自分が感じていた気配のある方へ指で指した。

「調べに行くか」

二人は海が示した方向に歩いて行くと泣き声が聞こえてくる。

「誰かが泣いている」と才機が言った。

「子供みたいだね」

その泣き声を辿って発生源を見つけると二人とも立ちすくんだ。この世の物と思えないほどのでかいクモが目の前にいた。二人がこの世を熟知しているとは到底言えないが。

「あ、あれがゲンが言ってたグリゴ···だよね」

殆ど聞き取れない声で才機は言った。

「たぶん」

グリゴはまだ二人の存在に気付いていないみたい。二人がこそこそ話しているからではなくて、今その注目は二つの建物の間に追い込まれた何かに完全に注がれている。自分の体が大きくて入らないから長い足で何かに届こうとしている。先から聞いた泣き声もそこから聞こえるし、その「何か」とは分かり切っている。

「やばい、あの子達を助けなきゃ」

海は才機の袖を引っ張った。

「うん」

「···で?何突っ立てんだよ。早くあれを追い払え」

「俺が?」

「当たり前だろう。他に誰がいる?どうしたんだ?ちゃちゃっとぶっ飛ばしちゃえ」

「でも···海の風で吹き飛ばせるんじゃない?」

「体が変な感じになっちゃうからあれはなるべく使いたくないんだ。それにあんな大きいのをどこまで飛ばせるか分からない。怒らせるだけかも。才機なら楽々とけり飛ばせばいいじゃん」

「それが···出来ないかも」

「なんで?」

「その···凄く···苦手なんだよね、クモが。俺に危害を加えられないって分かっていても、あまり近づきたくない···かな」

「まじ?」

「まじ」

「···分かった。ここは私が何とかしてみる」

「恩に着る」

海は手の平が前方に向くように両手を前に出した。眉を寄せて、次の瞬間、手元から一陣の風がグリゴを四、五回転がして遠ざけた。グリゴは立ち直って頭に付いた十の目に海と才機が映っていた。それからぞくぞくさせる泣き声を立てた。 間違いなく怒らせた。子供達を忘れて今度は海と才機へ突進した。海は目を閉じてもう一度風を放った。今度は力の限り。しかし今回は不意を突かれなかった為か、グリゴが踏ん張って体は風に押されて低くなっただけだ。足や体に幾つか切り傷が出来たが、浅いらしくて気にしている素振りを見せていない。海の風が止まるともう一度二人に向かって突進する。海が後ずさりしていると才機は必死に周りを地面を探すが目当てのものが見つからず、とっさに隣の崩れている壁をガラスのような両手で掴んで一部を引き千切った。才機はグリゴを目掛けてそのおぞましい頭と同じ大きさの瓦礫を投げ飛ばした。飛んでいく石がグリゴの脚の付け根に命中するとその巨体が又しても五回くらい転がる。流石にあれだけ痛い目に合わせたら諦めがつく。グリゴは足を引きずりながら去っていき獲物を譲った。勿論、才機と海は子供達を食べたりするつもりは毛頭ないけど。二人はグリゴが入ろうとしていた場所を調べたら男の子と女の子が一人いた。男の子はもしかして九歳。女の子七歳。まだしくしく泣いているあの二人に海は聞く。

「二人とも大丈夫?」

子供達は泣いてばかりで返事はしない。

「あのでかいクモはもういないから怖くないよ。さ、出ておいで」

海は手を差し伸べて出てくるように促した。

男の子に先導されて二人は手を繋いでその狭い場所から出て来た。

「怪我はないか?」

男の子は頷いた。

「君達はこの町の生存者?」と才機が聞いた。

今度は首を振られた。

海はしゃがんで子供達と同じ目線になった

「じゃ、この町で何があったか知ってるの?」

少し落ち着いてきた男の子が答える。

「大地震と火事があったって親から聞いた」

「そうか。君達はこの町の人じゃないなら、どこから来たの?」

「アラニア」

「なんだ、アラニアじゃないんだ、ここ」と才機が言った。

「私達はアラニアに行く途中だったけど、一緒に行こうか?でかいクモが出たら

また退治してあげるから」

「うん」

「よし。じゃ、案内役頼むね」

四人は荒廃した町を出てアラニアへ進む。子供達によると三十分ぐらいでアラニアに着くはず。

「ね」

男の子が言い出した。

「さっき、あのグリゴは強い風に飛ばされたけど、それ、お兄ちゃんがやった?」

「いや、君達を救ったのは俺じゃなくて、海だ」

「格好よかったな。ね、エリス」

「うん」

「僕も出来たらいいな。お兄ちゃんも何か出来るの?」

才機は笑顔を作っ平手を左右に振った。

「大した事は出来ないよ。二人とも兄妹なのか?」

「うん」と男の子は答えた。

「どうしてあんな所に?」

「遊んでた。たまにあそこで隠れん坊をやってる。でもグリゴが出たのは初めて。お姉ちゃんみたいな力あったら怖くないけど。ね、もう一回見せて」

「あれを使うと変な寒気がするから必要以上にやりたくないかな。グリゴが出たらまた見せてあげる」と海が微笑した。

「出ないかな、グリゴ」

「出て欲しいんかい?!」


• • •


アラニアに着いたら子供達は才機と海を自分の家まで連れて行った。

「お母さんだ」

男の子は家の前でほうきで掃いている女の人を指差して、二人はその人の所へ駆け寄った。

「やっと帰って来たか?今までどこにいた?」

「隣の町で隠れん坊してたらグリゴに襲われた」と女の子が言った。

「バカ!」と男の子が妹を咎めた。

「あそこに行くなといつも言ってるでしょうが!聞き分けのない子達!」

「でも大丈夫だった。あの人達に助けられた。風でグリゴを吹き飛ばしたんだ」

結果が良ければ全て良しみたいに男の子が弁解した。

「風で···?」とお母さんは二人を見た。

《しまった〜!口封じさせておくべきだった〜》と才機が焦り出した。

「さ、そろそろお昼を作るから中にお入り」

子供達が家の中に消えるとお母さんは才機と海に向った。

「悪い事は言わん。この町であんまり派手な真似をしない方がいいですよ。一応子供達を救った礼は言うけれど」

そう言って家の中に入った。

「好調なスタートを切ったね。もうばれてる」と海が言った。

「でもあの様子じゃ暴露するつもりはないらしい。この町は割と大きいし。諦めるのはまだ早い。町の反対側で仕事を探し回ろう」

そう言って二人はこの町で頑張ってみると決めたら、多数の叫び声が聞こえた。

「今度は何?」と才機が聞いた。

それほど遠くない場所で煙が立ち上がっていた。その方向から逃げてくる人も騒ぎの原因を突き止めに行く人もいた。才機と海はその後者に加わっている。煙を立っていた火事が発生した場所はもう人だかりがしていた。皆の視線が噴水広場で立っていて手をポケットに突っ込んでいる一人の男に集まっていた。人込みの中から祖末な武器を持った五人の男達が大声を出してその男に突撃した。男は右手をポケットから手を出し、その手を男達に向けた。するとそれぞれの指から一条の炎が放たれた。炎は男達が持っていた武器を包んで炎上させる。更に自分と町の人の間に火の壁を立てた。武器を捨てた男達はもう相手を睨む事しか出来ない。彼は冷笑して大声で言った。

「いいか、お前ら?!異能者を迫害してるとこうなるんだ!この前、ここの異能者を追い出したそうじゃないか、え?!これがその報いだ!俺達はもう黙ってやられないから!」

男はもう一つの建物を焼き討ちにした。その時、誰かが炎の壁を踏み越えて男の方へ歩いて行った。その人の肌はまるでガラスのようだった。

《やっぱり行っちゃったんだなぁ、才機。どうしよう、どうしょう。私はここで見ればいいの?任せても平気かな。も〜〜、なんでこうなるんだ?!》

男は才機に気付いて言った。

「何だ、同志か。助っ人はいらねぇって言ったはずだ。俺一人でじゅう···」

才機は男の右手首を掴んだ。

「もういいだろう?このやり方だと逆効果だよ。立場悪くしてどうする?それに関係ない人まで巻き込んじまう」

「おい!貴様、何やってんだ?放せ!放しやがれ!リベリオンの者じゃいないのよ?!」

「リベリオン?何それ?」

「フン、ただの通りすがりか。あいつらの味方をするつもり?この町に関係ない人なんかいねぇ。直接関わってなくても皆俺達を見下してる!俺達は消えればいいと思ってやがる!」

「そうとは限らないよ。少なくともさっき俺が助けた子供達はそう思っていない」

「ちっ。どうせお前はああいう口だろう?誤りに誤りを重ねても正しくならないとか、暴力に訴えちゃダメとか、話し合えば分かるとか」

「まぁ···そうだが」

「アホウか!そんなんじゃ何も解決しないんだよ!ただの下らないきれい事でしかないんだ!」

男は掴まれていた腕を才機から引き離そうとしたが才機の手はびくともしなかった。

「きれい事、ね。知ってたか?きれい事ってのはな、本気で信じているときれい事じゃなくなる。それはもう信念だ」

「信念ならこっちにもある。俺達が立ち上がる時はようやく来るんだ。邪魔するってんなら異能者でも容赦しない」

男の右腕が急に燃え上がった。

だが望んだ通りの結果を得らなかった。才機は何ともないみたいにまだしっかり彼の腕を掴んでいた。

「やめる気になった?」と才機は問う。

《何なんだ、こいつ。熱くないのか?!ならば···》

「お前···そろそろ俺の手を離した方がいいぞ。もう手加減はしないから。俺の最高の炎をぶち込んでやる。限界まで超圧縮した炎なら直径四十センチの火玉しか作れねぃけど、てめえの骨まで灰にならいって保証は出来ない」

才機には分からなかったけど、先程から男の体温はどんどん上がっていた。だが数秒後に才機の目は自分が持っていた手首に行った。遂に熱を感じ始めた。

「時間切れだ。もう逃げても遅いぜ。あばよ」

男は左手をポケットから出して才機に突っ掛かった。

でも才機はそれを予測して使っていない手で彼の左手首も掴んだ。

「くっ」

「いい加減この立ち回りを演じるのを終わりにしたいんだけど、大人しくしてもらえないか?」

「フッ。いい事教えてあげる。俺はね、別に手じゃなくても···体のどの部分からでも火を出せるんだよ!」

「!」

反応出来る前に男は才機の胸部に頭突きをした。そしてその瞬間、男が溜めたエネルギが一気に解放された。火玉なんてもんじゃない。才機の上半身はあたかも小さな太陽に包まれたようだった。見通せないほどの濃厚な光。どの道、眩しすぎて周りの傍観者は一人も直接に見る事が出来なかった。

閃光が弱まって皆がどうなったかを見ようとしたら二人がいた辺りは蒸気で充満していた。

「やっと自由になった。あの野郎、なんつう馬鹿力だった。堅かったし、思いきり頭突きしなくてよかったー」

男はずきずきしている額をさすった。

そして蒸気が消散したら男の口がぽかんと開いた。

「信じられねぇ。こいつの死体が残ってやがる。下半身はともかく上半身は蒸発させたはずだ」

才機の伸びた体からまだ湯気が立っていた。服はズボンと靴しか残っていない。

「せめて溶けろよ、てめえ」

男は才機の頭を軽く蹴った。

そして更なるショックを受けた。

才機がうなった。

「こいつ···生きてやがる!」

せっかく自由になったのに今度は才機が彼の足首にしがみついてきた。

「む!」

「正直···今のは熱かった。···体がひりひりしてる。···目くらましとしても効き目は抜群だ。···でもこうなったら···意地でもこれ以上好き勝手させない」

男は何も言わず横たわっている才機を見る。才機はまだ顔を伏せていて荒い息をしている。

遂に男が喋った。

「そうか。そうかよ!お前を嫌っているこの連中がそんなに大事か?だっだらそこでぐずぐずしてられないな」

男は集まっている人の近くにある大木の基部に炎の矢を放った。

「今のも圧縮だ。あまり広がらない代わりにあっという間に接触したものを燃え尽くす。急がないと皆ぺちゃんこだよ」

町の人達はそうとは知らず少し離れていっただけだった。このままでは何人の人が確実に下敷きになる。才機は渾身の力を振りしぼって大木の方へ走り出した。何とか間に合って、木を受け止めてから足下に落とした。疲弊していて片膝を地面についた。

「てめえ···」

でも男の姿はもうどこにもなかった。

「才機!」

海は駆け付けてきた。

「来るな!」

「え?」

海は才機の二メートル前で止まった。

「体はまだすんげぇ熱いはずだ。近づくな。俺は大丈夫だから。俺よりこの火の方を何とか出来るか?」

「あ、ああ、分かった」

海は風を召喚してさっきの男が起こした火事を一つずつ吹き消した。幸いに燃えていてた建物は殆ど石で出来ていた。火が消されたところで才機はよろよろと噴水へ歩いて体ごとを水に突っ込んだ。

ジュゥ〜〜〜〜〜〜〜〜〜。

大量の蒸気が噴水から空に昇った。ずぶぬれになって才機は噴水から上がり、生身の人間の姿に戻った。肌は少し赤くなっていた。今にも倒れそうだったから海が支えに行った。

「体はまだ結構熱いよ。大丈夫?」と海が聞いた。

「いい気分とは言えないな。やばい。なんか···意識が···」

視覚が霞んでだんだん暗くなる。最後に分かるのは才機の名を何度も呼ぶ海の声が小さくなって行く事だ。


    • • •


才機の目が開けた時、知らない部屋でベッドの中に入っていた。上半身は首から下全部包帯に巻き付けられた。

「よかったー。どう調子は?」と海は聞いた。

「う〜〜ん。まぁ、前よりは大分よくなったかな。どこ、ここは?」

「町長の家。ここで安静にさせてもらっている」

「あれからどうなった?俺、何時間寝てた?」

「二時間ぐらいかも。よく分からない。でも気を失った後、町長がやってきて町の人に才機をここへ運んでもらった」

「そうか」

才機は起き上がった

「この町で仕事を見つけるのはもう無理だね」

「寝てなくて大丈夫?」

「うん。心配させて悪かったな」

「それなんだけど···才機、今回は余計な心配をさせたんだ。あんたが優しいから誰も傷つけたくないのは分かるけどさ···さっきのははっきり言って油断すぎ。あの能力を使うと確かにあんたの頑丈さが桁外れになるだけど、他の異能者がどんな力を持っているか知らないこの世界ではそうやって余裕かましている余地はない。別に力一杯殴れとは言わないけど、気絶させる程度なら出来るんでしょう?」

才機は何も答えず、ただシーツが掛けられた自分の足をじっと見ていた。

「もしあんたに万が一の事があったら私はどうしたらいいか分からないよ」

ドアを開けて男が入ってきた。

「起きたようですね。私はこのアラニアの町長です。お加減はいかがですかな?」

「お陰さまでもう良くなった。大騒ぎを起こしてすみませんでした」

「あなた達はこの町の人間ではないとお見受けしますが、何の用があってここの来たか伺ってもよろしいでしょうか?」

「俺達はただ旅をしているだけで、特に用は」

「あの火を操る異能者とはどのような間柄?」

「いや、今日で初めて会った」

「そうですか。いつぞやドリックを襲撃した異能者も火使いで異能者に対する仕打ちの報復として町を襲ったそうです。彼が言っていた事は本当かどうかは分かりません。でもそんな事があった可能性は十分にあることは否定しません。この町では異能者がいてはならないという法則はありませんが、皆の間にそういう暗黙の了解が成立しているかもしれません。まぁ、アラニアの町長としてそれは私が対処しないといけない問題です。今日の被害が最低限に抑えられたのはあなた達のお陰です。この町の住人に代わってお礼申し上げます。が···回復次第、お引き取りお願い出来ないでしょうか?あなた達を見れば町の皆が不安を感じるのはまた事実です」

「そう···だよね。分かりました」

「理解して頂いてありがとうございました。体調を完全に取り戻すまでここで休むといい。穿いっているズボンもあなたに差し上げますので返さんでいい」

「ズボン?」

「あなたが着ていたズボンはもう隠すところをろくに隠していませんでしたので」

海の顔がちょっぴり赤くなった。

そう言って町長は場を外して彼らをまた二人きりにした。才機はもう殆ど本調子だからその言葉に甘えて休む必要はなかった。町長の家を出て町の外を目指した。二人はずっと見られているような気がした。それもそのはずだ。気のせいではなく、実際に通り過ぎた人は全員横目で見たり堂々と見たりしていた。全面から送られてきた視線に何の想いが込められたかはか分からない。恐怖?憎悪?好奇心?いずれにせよ空気はぴんと張り詰めていて、町を出るまでの時間をやけに長く感じた。

「これからどうする?ドリックに行く?」と海は聞いた。

「そうするしかなくなったな。来た道を戻れば時間かかるよなぁ〜」

才機はちょっとだけ溜め息をついた。

「草原を通り抜けよう。道はないけど、この方向を真っすぐ行けばいずれはドリックへ繋がる道に出るはずだ。そうしたら何時間か削られる」

才機は本道に対して四十五度の傾斜で指差した。

「大丈夫かな。道に迷ったら大変だよ?」

「あの二またに分かれた地点からアラニアまでの距離はドリックのそれとそんなに変わらない。道のりをこれくらい切り詰めてもドリックを通り越す心配はないはず」

道筋は決まった。アラニアに来てからまだ三時間も経っていないのに二人はドリックを目指す。

「それにしても、あそこに着くまで俺はずっとこの格好かぁ。嫌だな」

「お兄ちゃ〜ん!」

男の子と女の子が二人の所まで駆け寄って来た。

「君達は···さっきの」と才機が言った。

「もう行っちゃうの?」

「あぁ、そうね。次の場所に行かなくちゃ」

「そっかぁ。早かったな。これ、お兄さんにあげてってお母さんが言ってた」

男の子はそう言うと妹が持っていた籠を才機に渡した。

籠の上には布が固まりが載っていて才機がそれを広げた。長袖のシャツだった。その下にはチーズ、パン、後、葡萄が少し積んでいた。才機はシャツをさっそく着てみた。

「サイズも悪くないね。助かるよ。お母さんにありがとうって伝えてくれ」

「うん。じゃね〜、お兄ちゃん、お姉ちゃん!」

手を振りながら子供二人は走って町に戻った。

二人が歩き出そうとしたら才機は心臓が急に冷え込むような感覚を覚えて両手を直様にズボンのポケットに突っ込んだ。でも指先目当てのものに触れると安堵の息をついてお金を取り出した。手に載っていたコインの枚数が前に確認した時より増えていた。


    • • •


二人は広大な緑色の草原をてくてく歩いていた。街道を使った時は誰にも会わなかったから、当然今のルートで行って誰一人他の旅人を見かけなかった。凄く静かで時折のさえずりと自分の足が草を踏む音しかしない。物思いにふけるにはもってこい。

「俺がやった事···正しいと思う?」

「ん?」

「その、首を突っ込んであいつを止めた事。ドリックのように警告代わりにやったなら、町ごとを焼き払うつもりはなかっただろう。被害はあの一箇所のみに局限されたもしれない。俺達は別にあの町に何ら執着はないし。目立たないようにしていれば町を出る事はなかった。むしろ町の復興を手伝う為に雇われたかも 」

「後悔してるの?」

「分かんない。後悔するかどうかは海の答えによるはずだったが」

「理屈はともあれ、火があの子達の家にも広がる可能性があったなら才機のやった事は間違っていないと思う」

「そっか。でも今回といい、メトハインの時といい、そうやって後先考えずに感情に流されて突っ込んでいるといつか取り返しの着かない事になるかも。もしそのせいで海に何かが···」

「私の事は心配しなくていいよ。自分の事は自分で何とかする。そんでもって才機のフォローも出来るだけやる」

才機はちょっと笑った。

「お前、いつこんなに心強くなった?」

「さぁ、あんたから移ったんじゃない?」

「ありがとうな」

「今さらなんだよ」

海は肘で才機の腕を突いた。

「当然でしょう?それに、才機のその正義感の強い所は嫌いじゃない。ただ、あまり無茶し過ぎないで。ね?」

「合点承知」

ぐぅーーーーー。

「町を出る前にちゃんと食料補給しなかった事を後悔しているけどね」

腹に手を当てる才機はとっくに空になった籠の中を見つめていた。

「ガンバ」


    • • •


「スイカ」

「かまぼこ」

「昆布」

「豚肉」

「クレープ」

「プディング」

「グレープフルーツ」

「漬け物」

「のり」

「リンゴ」

「ご飯。ちくしょう〜!って、さっきからなんで食べ物ばっか?ただでさえ空腹で死にそうなのに」

欲求不満のあまりに才機が頭を抱えた。

「仕方ない。今それしか頭にないんだ」

「頭ならもう満腹です。腹に分けて欲しい」

「もうずいぶん歩いてるんだけど、行けども行けども道も町も現れない。今何時?」

「えーと、今は···」

才機は手首を見ると腕時計がない。次はポッケトを全部まさぐってみたが腕時計は出てこなかった。

「あー!!」

あまりにも突然で海をぎょっとさせた。

「ど、どうした?!」

「あの放火狂野郎ー···俺の腕時計を。気に入ってたのに!」

「ああ、あの時ね。まぁ、あんな高熱じゃ当然といえば当然だけど」

「くっそ〜。あれがないと時間の感覚が全くないんだ」

「もうアラニアに着くのにかかった時間以上に歩いてる感じがするのは気のせい?」

やがて空も徐々に橙色になってゆく。二人は今までその認めたくない真実を口にするのを控えていたんだが、海はあえて言う。

「私達···迷子だよね」

「えーとー。迷子って言っても、それは一時的なもんで、ひょっとしたら今に道路や町が見えてくるかもしれない」

「もー、さっさと認めなさい。私達は迷子だ」

「はい、迷子です···。でもなんで??とっくにドリックへの道路に出たはずだ」

「アラニアに行った時みたいに道路は一本道とは限らない。もし途中で道路が急に違う方向に曲がったりしたら見つからない訳だ」

「んーーーーーーー、じゃぁどうする?あっち行く?あっちはどっちか知らないけど」と、おそらく南東の方へ才機は指差した。

二人は止まって辺りを見回した。どこもまったく同じ風景だ。でもその時、前触れもなく二人の目の前で何かが地面を突き破って出てきた。その何かとは大きいなミミズと類似している物だった。だがミミズと違って、この長い体を左右に揺れ動かしている物の頭部に三十センチほどのクワガタムシのような大顎が付いていた。体全体はどれほど長いかは分からないけど地面から突き出した部分はちょうど海の肩と同じ高さ。

「うわあーーー!」

「うわあーーー!」

言うまでもなく二人は完全に意表を突かれて反対の方向に逃げた。ミミズの化物は地中に潜ってまた二人の前に現れて退路を断った。そのパターンが四回ぐらい繰り返された。

「いい加減に···」

一瞬で才機の体は変形した。

「しろ!」とミミズの頭の上に拳骨を下ろした。

ミミズは地面のしたに退却した。でも今度はまた出て来なかった。

「本当に嫌な生き物がこの世界に住んでるみたいだな」

心臓がどきどきしている才機は尻もちをついた。

「そ、そうみたいね」

海はまだ警戒を緩めず周りを見張っていた。

「あいつが戻る気になる前にここを離れよう。もしかしたら仲間を呼んでくるかも」

「不気味悪い事言わないでよ」

「可能性の一つだ」

「じゃ早く行こう。···あのぅ。才機がさっき言ってた「あっち」ってどの方向?」

「え?ああー、あっち」とその方向に歩き出したら「いや、待って、こっちだ」と言って、二歩も歩かないうちにまたためらい、「···あれっ?」

「まさか···」

「やばっ···方向がさっぱり分からなくなった」

「え〜?うそ〜!」

「海は覚えてる?」

情けない顔で海に頼る才機。

「覚えてないから聞いただろう!」

「今日はとんでもない悪日だ」

「方角の見当は全くつかないの?」

「あっちだと思うんだけどなぁ···」

「あっちか」

海は溜め息をついた。

「仕方ない。ここは才機の勘に賭けるしかない。ここで迷っても何も始まらない。」

襲われてからおよそ三十分。坂を上って才機は違う方向へ進もうって勧めようとした時、景色が遂に変わった。もっと岩の多い地形になっていた。そして遠くには低い崖の麓に石造りの家があった。

「よかったー。あそこで道を尋ねよう」

海は才機の肩を叩いて家を指差した。

家まで歩いてドアをノックした。返事はない。二回目のノックでも返事は来なかった。

「留守みたいだ」と才機が言った。

二人はその周辺を歩いて家の裏手に小さな菜園を見つけた。

ぐぅーーーーーーーー。

「トマト···二個ぐらいなら誰も構わないよね。っていうか、気付きもしないだろうな?」と才機が言った。

「悪いなのは分かってるけど、大して好きでもないのにそのトマトは今凄く美味しそうに見える」

才機は蔓から二個のまるまるして完熟したトマトをもぎ取って一個を海に投げた。二人はそのトマトをとことん味わい、そして最後の一口を噛んでいたその時、後ろから人の声がした。

「おい、誰だ?!何をしている?」

両手にバケツを持った四十代のおじさんだった。二人はトマトで口いっぱい頬張っていて申し開きのしようもなかった。才機は口に入った物を飲み込んで言った。

「あぁ、この菜園の持ち主ですか?ごめんなさい、トマトを勝手に頂きました、って見れば分かるよね。もうずいぶん歩いてて、旅の途中で道に迷ちゃって、それでお腹もかなり減ってて、つい···」

そのおじさんは見るだけで二人が何者なのかを見抜く事が出来るかのように目を凝らして二人をつくづく眺めた。海は頬を膨らんだまま飲み込まずにじっと立っていた。まだ何も言ってこないから才機がまた口を開けた。でも喋ろうとした矢先におじさんが二人の方へ歩い行った。そして二人の間を通って菜園に入った。そこで持っていたバケツを置いて、もと来た方向に戻って行った。二人を通り過ぎた後、彼は止まらずに言った。

「ちょっとこっち来い」

二人は目と目を見交わした。おじいさんはどういうつもりか分からないが、付いて行くくらいなら問題はなかろう。

「いつまで口を一杯にしてるんだ?」

才機はひそひそ声で海をたしなめた。

海はようやく飲み込んで二人はおじいさんの後に付いた。

どこへ導かれているかは気になる。さっきからどんどん上の方に行っていた。おじさんはずっと無口のまま。五分で目的地に到着したみたい。おじさんは二人に向いて自分の後ろの方へ指し示した。

「あれ、何とか出来なのか?」

おじさんが指している方向を辿ると、その先に幅四メートルぐらいの川に佇む大きいな岩があった。

「あれって、あの岩?何とかと言うと?」と才機が聞いた。

「一週間前の地震でその岩が上から落ちて川のど真ん中に転がり込んだ。見ての通り、そのせいで流れがかなり悪くなってきた」

「はぁ···」

「つまり、撤去してほしいんだ」

「···そう言われても、俺達が押すのを手伝ったところであんなでかい岩は梃子でも動かないと思うよ」

「そりゃ、そうだろうな。あなた達なら別の手段があるのでは?」

「別の手段?」

才機は海と目交わした。

「岩を爆発させるとか、溶かすとか、浮かせるとか。異能者なんだろう?」

「なんでそう思いますか?」と海が聞いた。

「こんなご時世に旅なんかする人は居場所を無くした人ぐらいだよ」

海は少しの間おじさんの顔を注視した。

「手を貸してあげて」

海は才機の腕を後押しした。

この際、大丈夫よねと思いつつ才機はズボンを膝の上まで捲り上げてから変身して川に入った。それからたやすく岩を持ち上げてそっと川辺に置いた。

「なんだ、退かすだけか。地味だな」とおじさんが言った。

才機は川から上げてズボンと自分の体を元に戻した。

「ま、トマトの件はこれでちゃらにしてあげる」とおじさんは先に戻った。

「せっかく川があるからついでに水分補給しよう」と才機が提案した。

「うん」

水を心ゆくまで飲んだら二人はさっきの石造りの家にまた行った。おじさんは菜園で作業をしていた。

「あのぅ···」と海が声をかけた。

「ん?あぁ、道に迷ったって言ったよね。どこへ向っていた?」

「ドリックですけど、どっちに行けばいいか教えてもらえますか?」

「ドリッカか。それならあっちの方にまっすぐ行けば一時間足らずで着くよ」

「あっちですね。ありがとうございました」

「やめた方がいいと思うんだがな。この前ドリックは異能者から襲撃を受けた。皆気が立っている。町で異能者が見つかったらただでは済まないだろう」

「その話は別の人からも聞いたが、俺達は今他に行く当てがない」と才機が言った。

「南にアラニアと言う町がある。ちょっと遠いがそっちの方が安全だろう」

「それが···今日、同じ事件がアラニアにも起きていられなくなった」

「アラニアもか」

ずっと菜園の手入れをしていたおじさんが手を止めて二人を見た。

「ここは人里離れた場所で、今目の前に見える物しかない。私は一人でここで暮らしている。暫くの間ならここに止めてあげても構わないが、その代わりに色々と手伝ってもらう。清掃とか炊事とか」

「その申し出を受けちゃうか?」と才機が海に確認した。

「少しの間なら、いいよね?」

「では、謹んでその話に乗ります」

「そうか。じゃ、何もないけど中でくつろいでいて。今日ぐらいはゆっくりさせてやる。旅で疲れただろうし」

「お邪魔します」

海は誰もいない家に上がりながらそう言って才機はすぐ後ろからついて行く。

中は本当に何もなかった。部屋は全部で三つ。一番大きいのは台所兼ダイニングルームみたいな部屋。その部屋の左側には四つの椅子に囲まれた木造のテーブル、入り口の左に暖炉があった。部屋の南東の隅が台所になっていたが違う部屋というより、同じ部屋を小さく建て増しされた長さ二メートル幅一メートル部分みたいな感じだった。ドアもなく、低い暖簾が吊るしてあっただけだった。そこにはかまどと戸棚と壁に取り付けた調理台があった。後、色んな野菜が入っている籠。結構狭いスペースでそれ以上何かを入れたら調理する人が入れなくなるかもしれない。部屋の北部に二つのベッドルームに繋がる二つのドアがあった。一つのベッドルームに入っている家具はベッドと机。もう一つのベッドルームにはベッドのみ。家の探険が済んだら二人はテーブルで座った。

「もう他に行く場所はないかな」

海はテーブルの上に載せた両腕に体重を掛けた。

「少なくともこの辺りにはないと考えていいだろう。とりあえず、住む家が見つかっただけでありがたいか」

「あのおじさんはどう思う?異能者を嫌っているようには見えなかったね。なんで一人でこんな所に住んでるだろう?」

「さぁ。あのおっさんも異能者なんじゃない?」

「そうか。それなら筋が通る」

「まぁ、ただのへんてこおじさんという可能性もあるけど」

「駄目でしょう?そんな風に言っちゃ。あの人には恩があるんだから」

「分かってる。言い回しが悪かった。ともかく、ドリックで物事が落ち着いてきたらまたそこへ向おう」

「それってどれぐらい持つの?」

「一ヶ月なら···平気かな」

「一ヶ月世話になるんだ。ちゃんと役に立たないとね」

ぐぅーーーーーー−。

「やっぱトマト一個じゃ足りないなぁ」

海は頭をテーブルの上に落とした。

暫くしてから件のおじさんが家の中に入った。

「今、風呂を済ましたところなんだけど、あなた達はどうする?」

「お風呂はあったっけ?」と海が聞いた。

「ああ、あるよ。露天風呂だ。湯加減にはちょっと不満があるかもしれないけど」

彼は二人を風呂場へ案内した。

「自己紹介はまだだったな。私の名前はケイン」

「俺は才機」

「海です」

「才機と海ね。短くて覚えやすい」

さっきの川への道と同じだったが途中で違う方向に向って、やがて滝の音が聞こえてきた。滝と言ってもたかが六メートルだけど。

「ここだ」とケインが告げた。

「露天風呂って···池なのでは?」

才機は躊躇なく当たり前な指摘をした。

「そうとも言う。あなたがさっき退かしてくれた岩のせいで水位が下がったんだが、滝がまた勢いよく流れてる。直に元に戻る。ちなみにここは混浴だ。ここ以外体を満足に洗う所はないからな。ごゆっくり」

「ああ···俺も一緒に戻るから、海は先に入ってて」

そして海は一人っきりになった。まさに冷たそうな風呂。でもここまで来るのに大量に汗をかいた。体がべたべたした感じでさわやかな気分になりたい。やむを得ん。服を脱いで手近な木の枝に掛けた。最初は湯加減を見て足先だけを水に入れた。

「やっぱ冷たっ」


    • • •


海が石造りの家に戻ったら才機はテーブルで座っていてケインは料理をしていたそうです。

「あっちは俺達の部屋になるらしい」

才機は右側のドアを指差した。

「そうか」

「どうだった、風呂?」

「低体温症にかかるかと思った。でもさっぱりした」

「俺は寒いのに弱いんたよなぁ。しゃぁない。一風呂浴びてくるか」

「いってらっしゃい」

二十分後。

「寒かった〜〜〜〜」

「でしょう?」

ドアを閉めてテーブルの上に二人分の食事が置いてあったのに才機が気付く。

「丁度いいタイミングで戻った」

椀を持ってケインが暖簾の下から出てきた。

ケインはテーブルで座って才機もそれに続いた。ケインはシチューを作っていたらしい。中身はイモ、カボチャ、ニンジン、青エンドウ。

「いい匂いですね。いつも自分で育てた食材を使って料理してますか?」

お世辞抜きで海は素直に椀から漂ってくる香りを称賛した。

「まぁ、ね。たまには町に出て物々交換はするけど。今回肉は入ってないが許してくれ。今は切らしている。魚はシチューに合わないし」

「いやいや、これでも十分ありがたい。頂きます」

才機は手を合わせてから待ちに待った食事との出会いを堪能した。


    • • •


どこか暗くて松明の光でしか照らされていない洞窟みたいな所。男が後ろに手を組んで外を眺めている。どうやら男は高度の高い位置にいるようだ。

「ただいま戻りました」と後ろから声が来た。

「ラエルか。どうだった?」と外を眺め続けた男が言った。

「はっ」

ラエルはもっと近づいて、松明の光がその顔を明らかにした。アラニアで才機とやり合った人だった。

「それが、今回は邪魔が入りまして、予定より早く引き上げることになりました」

「一人でも大丈夫って言ってなかった?」

「大丈夫だったんですよ!ただ···」

「ただ···?」

「ただ、邪魔してきたのは異能者でした」

ついに男がラエルの方を向いた。

「異能者だと?」

「はい、それもべらぼうにタフな奴でね。俺の最高の炎を食らってきっちり生きていました。腕力も大したもんでした。ありゃガロンに引けを取らないかもしれない」

「なるほど。それじゃお前だって手に負えない訳だ。で、何でその異能者は彼らに加担した?」

「分かりません。ただ偶然通りかかっただけと思います。派手に暴れ始めるところで彼がいきなり出てきて止めました」

「異能者同士で争うなんて言語道断。ましては彼らを庇う為となれば」

「はい」

「我らに楯突くなら異能者とて敵に過ぎん。今さら異能者と普通の人間が協力し合って共存するなんて楽天主義者の空想。正義の味方でも演じているつもりか知らんがちょっかいを出されては困る。ある意味では普通の人間と組む異能者はその人間より厄介だ。イメージ的にも悪い。そういう輩はすべからく排除するべきだ」

「はっ。今度また会ったら必ず仕留めます」

「しかし、お前の話からすると彼は相当な力の持ち主。戦力になれる。我らの志を理解させて、その理想の為に動いてもらえないかな···。彼と直接接触したのか?」

「はい。俺の腕にしっかりしがみついて離しませんでした」

「ディンに臭いを嗅がせて監視を命じろ」

「はっ」

ラエルはその指示を遂行しに行った。

でも四歩も歩かないうちに動きが急に止まって身を引いた。近くで暗闇に立っていた人に気付いて驚いたからだ。その男は頭から足まで全身鎧に覆われた。

「なんだ、お前か。相変わらず存在感のない奴だな。ちゃんと生きてるか、その中に?っつうかなんでここにいる?」

「デイミエンがいる所に私がいて当然だ」

「チッ、またそれか?影じゃあるまいし」

ラエルはそう言い残して退出した。

もう一人の男はまた外へ注意を向けた。

「待っててシルヴィア。もう少しで全てが正される」


    • • •


「美味しかった〜」

二杯目のシチューを平らげた海は空になった椀にスプーンを置いた。

「気に入ってもらえって何より。なんせここではしばしば出るメニューだからね」

「片付けますね」

海は三人が使っていた食器を集め始めた。

「家の側面に樽が二つある。樽に入っている水で食器を洗える」

「はい」

「じゃぁ、後片付けは任せた。私はもう部屋に戻る。また明日」

「お休みなさい」

食器を洗って戸棚に戻したら海は提供された部屋に入った。才機はそこのクロゼットを覗いていた。

「この部屋は本当にベッド以外何もない」

才機はクローゼットを閉めてベッドに座った。

海はその才機の隣に座った。

「まぁ、居候しているし、贅沢を言えない。前向きにやろうよ、前向きに」

「農民としての腕を磨くチャンスだと思えばいいんだな?」

「あるいは漁師として」

「この前それはあまりうまく行かなかったなぁ···あんまり自信ないけど、頑張ってみるか」

「その意気だ。私も頑張るからこの住み込みバイトを最大限に活かそう」

「分かった。そうと決まれば明日に備えて一晩ぐっすり眠ろう」

才機は立ち上がった。

「それじゃ、俺は」

「ストップ!」

海は才機の言うことを遮ってで手のひらを突き出した。

「ん?」

「どうせ『俺は床に寝るから海はベッドで寝てて』とか言うところだっただろう」

「そうだが?」

「もー、馬鹿馬鹿しい。私達は中学生じゃあるまいし。二人は余裕でこのベッドに入る。こんな石の床でぐっすりなんか眠れるものか」

「でも···」

「そんなおおごとにするな。さっきまで同じベッドの上に座っていて平気だったじゃない?寝ている方がまだ安全だ。手出しは出来ない。意識すらないんだから」

「いや、その理屈ちょっと可笑しくない?」

才機は頭を掻いてベッドを見た。

「本当にもー、じれったい!それ以上つべこべ言ったら私が床で才機の隣に寝るよ?」と海は才機を引っ張ってベッドのところへ連れてきた。

「はい、座る。はい、横になる。はい、寝る」

順次にそれぞれの動作を半ば無理強いに才機にさせてから海はベッドの反対側に回り込んだ。

「でも枕は私がもらう。」

海は枕を我が物とし、毛布の下に潜り込み、背中をマットレスに預けて目を閉じた。

「俺···寝相が悪いかもよ」

「大丈夫。安眠妨害になったら蹴り起こしてあげる。お休み」

全然寝る様子のない目で才機は天井をじっと見ていた。ベッドに押し付けられてから身じろぎ一つもしていない。

《石の床よりこの状況で寝る方が難しいかも···》

才機はまんじりともしない一夜を過ごす覚悟をした。


    • • •


コンコンコンコンコンコンコン!

才機と海は目を覚めるとケインがフライパンをでかい木製のスプーンで叩いているのが見えた。どうやら昨夜はいつの間にか才機が寝る事に成功した。

「朝だよー。朝食は用意してあるから温かいうちに食べましょう」

二人が起きているのを確認したケインは台所に行った。

才機は肩と首を回した。どうやら何とか眠りについたみたいけど、睡眠不足だ。何時まであの天井を見つめたんだろう。二人は赤い目をしてテーブルの席についた。

「二人とも眠そうね。ま、食べて元気になれ」

昨日の食事中、ケインが言った事は誇張じゃなかったみたい。目の前の朝飯はまさに昨夜と同じ食べたシチューだった。その瞬間、皆がそう考えていたからわざわざ口にする必要はなかったけど。食べ終わったらケインが言い出した。

「今回は私が片付ける。その代わり···」

ケインは隅に置いてあった柄に雑巾が掛かった箒を取りに行って海に差し出した。

「家の掃除を頼む。最近ろくに掃除してないからちりが溜まってきてる」

海は雑巾と箒を受け取った。

「私の部屋も勝手に入って掃除していいから。これは毎朝の仕事になる。それほど汚れてなかったら一通り済ませればいい。才機はついてきて」

二人は外に出てケインが両方の樽の蓋を開けて覗き込んだ。

「こっちのはほとんど水が無くなってるな」

ケインは菜園からバケツを二つ持ってきて才機に渡した。

「川までの道は覚えてるな。この樽をその水で一杯にしてくれ」

「了解」

終わるまで十四往復がかかった。家に戻る度にケインは枝で何かを作っていたそうだった。十四回目にケインが才機に声をかけた。

「どうだ?そろそろ終わるか?」

「ええ、これで最後です」

才機が最後のバケツ二杯の中身を樽に注いでいた時にケインが様子を見に来た。

「お、両方を満水にしてくれたか。ご苦労さん。で、今、思ったんだけどね。あなたの力を使えば、樽ごと川まで運んで一往復で済ませたのでは?」

「···あ」

「ま、毎日この樽を一杯にするのが才機の仕事。どんな方法を使ってやるかは任せる。今度は菜園で草むしりをしてくれ」

二人は一緒に菜園に入った。才機はこまめに草を根こそぎ引き抜き、ケインは野菜の手入れ。草をむしっている内に才機は赤と緑色のナスの形をした物を発見した。

「あれ。これは···ナッチよね」

「そうだよ。好きか、ナッチ?」

「え?まぁ、悪くはない。でもこんな所に植えていいの?確か、水に当たると駄目になるとか」

「そうだな。普通は温室か何かに栽培する物だ。だから少ししか植えてない」

「ふうん」

もう少し時間が経つとケインが立ち上がって腰を握りこぶしで叩いた。

「ちょっと休憩にしよう」

「あ、はい」

二人は家に入ると海がこつこつ床の掃除をしていた。

「お、久々に綺麗になっている。ヘ〜、ここの壁ってこんなに白かったか。頑張ってるな」

ケインは三つのコップを外に持って行って、水一杯になって帰ったきた。

「さっ、ちょっと休もう」

才機と海にコップを渡してテーブルで座った。

「この家、おっさんが作ったの?」と才機が聞いた。

「いや、大分前にだけど実はここを偶然見つけたんだ。誰が作ったか知らないがその人はある時点でここを捨てた。どうせ誰も住んでいないからここを自分の家にした。ちょうど新しい住む場所を探していたし」

「やっぱり、ケインさんは異能者ですか?」

海は水を一口飲んだ。

「私が?いやいや、腰を簡単に怪我をする以外何の能力持っていないよ」

ケインは否定するように手を振った。

「でも異能者を怖がったり嫌ったりしてないみたいだね」と才機が言った。

「まぁ、そうだな」

「どうして?」と海が聞いた。

「怖がる理由はあるの?」

「それは、人を傷つけるほどの凄まじい力を持ってたりするから?···もしくは殺すほどの」

「何、剣や銃さえ握らせれば普通の人間にだって人を殺める力が備わる。私は生まれもって極めて合理的な考えをする人でな。そんなのは汚名を着せる理由にはならない」

「ケインさんってなんか凄いね」

「いや、それほどでも」

「そうだ。聞きたかったんですけど、掃除していたら綺麗な女の人の写真が机に置いてあったんですが、誰ですか?」

「私の妻です」

「妻ですか?」

「聞きたい事は分かる。彼女はもうこの世にはいないよ」

「すみません」

「平気よ。気にするな」

「病気、でした···とか?」

「異能者狩り事件で異能者に殺された」

才機と海ははっとした。

「それなのに、よく異能者を恨まなかった」と才機が言った。

「私の妻を殺した異能者は特に戦闘向きな能力を持っていなかったそうだ。密告されて、自分の家に立てこもった。近衛兵が力ずくで立ち退かせに来たら、彼は強く拒否してピズトルで家に近づいてきた近衛兵に撃ちかけた。妻はあの時、その辺を歩いていて流れ弾に打たれて間もなく死んだ。ただ自分の家に残りたかった人を恨むのは筋違いだ。恨むんならその事情を生み出したものを恨むべき」

「その事情を生じたもの?それって、アナトラス現象の事?」と海が聞いた。

「アナトラス現象か···」

ケインはコップを手でぐるぐる回して水に映った自分の顔を見た。

「そう···だな」

そうと言ってケインは残っていた水を飲み干した。

「さ、こんな辛気くさい話をこの辺にして、才機、あなたは釣りをした事がある?」

「一回ぐらいなら」

「よし、これから上流に行って昼飯を確保しよう。海、留守は任せた」

二人は外に出てケインはバケツと明らかに手作りの粗末な釣り竿を手にした。

「今朝はそこの二本目を作った。即席だけど十分使えるはず」

才機はバケツとケインが指差した家に立て掛けられた釣り竿を手に取ってケインについて行った。

「さて、ここでいいかな」

ケインはバケツを下ろして釣り糸を川に投げた。

「餌は?」

「ない。それに付いているルアーをうまく使えば捕れるよ」

「そうか?じゃ」

才機も釣り糸を投げた。

今日の収穫、ケインは一匹、才機は二匹を捕った。才機の腕は少し上がったようだ···と、言いたいところだが、ケインの一匹はやや大物であるのに対して才機の二匹はこの前に釣れた魚と大して変わらなかった。才機は不満そうにバケツの中身を見ていた。

「どうした、その浮かない顔は?こいつだけでも三人で分ければ十分だ」

ケインが自分の魚を指して言った。

「帰ったら絶対に笑われる」

「そんな事はないだろう。経験の浅いあなたならしょうがない。誰も責めやしないよ」


    • • •


「はははは!またかよ?」

「ほっとけ!難しいんだよ」

「まあまあ。海、今日の掃除はばっちりだったから昼飯の用意もお願いしたい。大いに期待してるよ」

ケインは才機の手からバケツを取って海に渡した。

「はい。任せて下さい」

「私達は菜園で仕事の続きをしよう」とケインは才機に言った。

三十分後に二人は家の中に入って海の前の釜に覗き込んだ。

「どれどれ、そろそろ出来たかな?」とケインが聞いた。

「うん。もうちょっとだと思う」

くんくん。才機は漂ってくる臭いを嗅いでみる。

「独特の臭いがするね···」

「言われてみればそうね···。ん?魚を煮ているのか?」とケインが聞いた。

「うん、こうして野菜と一緒にゆでれば一石二鳥」

「どんな香辛料を入れた?」と才機が聞いた。

「そこの戸棚にあった物を色々」

「色々ねぇ···」

ケインは怪訝な顔をしていた。

「もう直ぐ出来るから二人ともテーブルについて。あ、この皿とフォークも持って行って」

皿を持って二人は向かい合ってテーブルについた。ケインは手で声を才機の方に誘導して囁いた。

「今更聞くのは遅いかもしれないけど、海は料理出来るの?」

才機は同じく手で口を隠して囁いた。

「分からん。料理しているところ見たことない。彼女の手で作られた物も食べた事ない」

「なんか、紫色っぽかったぞ。魔女の釜みたいにどろどろに泡立っていた」

「野菜が悲鳴を上げていたような気がした」

二人は不安で満ちた目でお互いに顔を見合わせた。

「さ、お披露目。料理って結構面白い。はい、どうぞ」

海は三匹の魚と野菜が載せた大皿をテーブルに置いた。

「私はこれでいい」

ケインは才機が釣ったちっちゃい魚を自分の皿に置いた。

「お、俺も」

才機ももう一個の小さな魚を取った。

「なんだそれ?まるで食べたくないみたい」と海は文句を言う。

「いや、私はそんなに腹減ってないだけだ」

「先ずは初めにこれ。食べ終わったらお代わりするよ。かも」

ケインに「腹減っていない」作戦を先に利用され、他に何も思い付かない才機は最後の一言を自分自身も聞こえないほどの小さな声で言い足した。

海の顔は二人の言葉を疑っているような顔だった。

才機はフォークでその魚を刺そうとしたが触れた瞬間に粉状に崩れて刺すのが無理だった。それを見て才機はごくっとした。

男二人はお互いの皿を見て、もう一人が先に味見するのを待っていた。だがどちらにもそんな勇気はないようで、目だけでやり取りをしていた。

《おい、ケイン。いつまでダラダラとフォークで飯をかき集めてるんだ。いい加減不自然だ》

《私が先に食べるの待ってるんだね。そうはいくか。どう考えても海の連れのお前が先に食べるのは筋だ》

《察してくれ!俺が海の初めての手料理を悪く言えるはずないだろう》

《早く食わんか!流石に向こうが怪しく思い始めているぞ》

「信じられない!私の料理がそんなに信用できないの?分かった。私が先に食べて見せる」

海はスプーンをさっと取って大きい魚をスプーン一杯をすくい上げて口に入れた。才機とケインはしきりに海のリアクションを持った。長く待つ必要はなかった。海はがっくりと膝をつき、テーブルに顔を伏せた。

「シチュー···作ろうか?」とケインが聞いた。

「お願い」と海の一言。

ケインがお昼を作り直している間に才機は大皿を持って家から離れた所で海の料理を捨てに行った。これ以上海のプライドが傷つかないように、捨てた時に通りかかったトカゲが一口食べた後、仰向けになってぴくぴくしていた事を秘密にした。  


• • •


こんな日々を毎日三人で過ごすようになった。少しずつだが、才機は釣りも上達していた。海はケインに園芸の色んなこつを教わった。食事係は相変わらずケインがやったけど。そんなある日、才機は自分が倒した木を斧で細かく切り刻んでいた。最初の時はやっぱり自分の力を忘れて途中で地道に木を切り倒していたが、今は造作も無く木を押し倒しては、斧で四、五発入れて切り裂ける。それを何回繰り返せば薪の山出来上がり。その薪を持ち帰るとケインは勤勉に菜園で働いていたが、その様子は急に変わった。がっくり手とひざをついて、片手で胸を握りしめた。苦しそうに息をしていた。才機は薪を落としてケインの所へ駆け付けた。

「おい、おっさん!大丈夫?!どうした?」

才機はケインの背中に手を添えた。

「薬···机の引き出し···水も」

ケインはぜいぜいしながら家の方で指差した。

才機はドアをぱっと押し開けて走り込んだら海はびっくりしてぎょっとした。

「ど、どうしたの?」

「水を用意して!」

才機は海に見向きもしないでケインの部屋に駆け込んだ。

「え?」

よく分からないけど、とりあえず海は言われた通り、コップを持って外の樽の水を汲んだ。そうしたらケインは胸を握ってよろよろ歩いて来た。

才機は必死に引き出しの中をしらみつぶしにかき回して薬らしい物を探した。遂に白い丸薬が一杯入っていた小さなガラス瓶を見つけた。それを持ってダイニングに出たら海はケインを支えて家に入った。海はケインを椅子に座らせ、才機はガラスの瓶を見せた。

「薬ってこれ?」

ケインは瓶を手に取って丸薬を三個出した。それを海が持っていた水と一緒に飲んだ。数分でケインの呼吸が落ち着いてきた。

「すまない、二人とも。もう大丈夫」

「今のは喘息か何か?」と才機が聞いた。

「そうだね。でも発作はそうそう起きないんだ。今日はいつもより暑かったせいかな」

「顔色はまだ少し悪いよ。本当にもう大丈夫?」

海は手をケインの肩の後ろに添えた。

「ちょっと休んだらまた元気になるよ。少しの間寝るね」

ケインは何とか立ち上がって自分の部屋に行った。

これ以上してあげられる事はなさそうで二人は仕事に戻る事にした。海はケインの代わりに菜園の手入れの続きをしようと才機と一緒に外へ出た。

「小学生の時、喘息持ちの友達がいたんだけど、やっぱりああいうのを見ているとちょっと怖いな」

「俺達が来るまではずっと一人で対処してきたんだろうね。大変そうだ」

その時、海がはっとなった。

「誰かがいる」

「誰かって?どこ?」

「この上」

海は真上を向いて崖の縁にある木を見た。

「この上?何も見えないが」

才機は目をこらしてその木を見たが誰かがいたとしても木の葉はこんもりしていてよく

見通せない。

「やっと俺に気付いたか?」

上から声がしてきた。そうしたら木から男が降りてきた。

「狼男?」と才機がたじろいた。

「狼男じゃねぇよ。異形者だ」

その男の顔には確かに狼っぽい特性があった。

「それより、お前らはいつまでここであの爺とままごとをする気だ?どう見ても彼は普通の人間だし」

「あのー、悪いけど誰だ、あんた?」と才機が聞いた。

「俺?俺はリベリオンの一員だ」

「リベリオン?もしかしてあの放火狂の仲間か?」

「フッ。それってラエルの事だろうな。ま、そうだけど」

「何なんだ、そのリベリオンってのは?」

「いわば抵抗集団ってやつさ」

「なるほど。で、俺達に何か用でも?」

「厳密に言うとお前らに用があるのは俺達の頭領だ。どうやらあの方はお前に興味を持ったみたい。あんた、今のこの世の中をどう思っている?」

「どうって?特に何も思ってないけど」

本当はいかれていて、訳分からない世界で元の世界に帰りたいと思っているが、今そんな事言ったって仕様がない。

「何もだと?理由もなく普通の人間に憎まれ、いつ正体がばれるか知らず、ずっと追い出されるのを恐れ、社会が俺達の存在を忘れられるように都合よくごみみたいに陰へ払い除けられ、世界は変わらないといけないと思わないか?」

「まぁ、確かにこの世界は問題が山積みのようですね」

「ですねって···なんてのんきな。ひとごとみたいに言うじゃねぇか」

才機は言い返す事が何もなかった。実際に他人事だと思いたいし。

「リベリオンならこの世界の思考を変える事が出来る。俺達は元通りの暮らしに戻れるんだ。もしかしたらそれ以上にいい生活になるかもしれない。それだけの人数と戦力を集めているんだ。それを一緒に成し遂げたくないのか?このままで本当にいいのか?!」

「戦力って、戦争でも始めるつもりか?」

「必要であれば」

静けさ。

「お前は?」

男は初めて海に向って喋った。

「お前も異能者だろう?」

「···はい」と海が遠慮気味に答えた。

「ずっと黙ってるけどお前はどう思う?」

「私は···異能者が酷い仕打ちを受けていると思う。もちろん。この世界で変えるべき事もある。でも戦争に加わりたいとは思っていない」

「ふん。もしかしたら彼を説得するのを手伝ってくれると思ったが当て外れだったな。お前達は今までどんな扱いをされてきたか知らんが、甘い。甘過ぎる。それとも何?ただの腰抜け?」

「まぁ、あれだ。面倒くさいのは嫌だっていうか」

才機はうなじをさすりながらがら目を逸らしてそう言った。

「面倒く···?!」

男は面食らってから溜め息をついた。

「呆れた。まぁ、いい。今日はそういう事にしておこう。一応お前達の監視役を仰せ付かったからそんなに遠くにはいないよ。ここで現実逃避したけりゃ勝手にそうするといい。だがこれ以上俺達の邪魔だけはするな」

男はそう言い残して立ち去った。

「本当···面倒な事に巻き込まれたようだな」

才機は先ほど狼男が立っていた場所を見ていた。

「監視役ってどういう事だろう?」

「さぁ。監視するだけなら、別に構わないけど」

二人は今のをケインに言わない事にした。あれから誰にも会わなかったのように二人はケインと一緒にあの小さい家で頑張った。ある日才機は菜園で働いていたらケインは両手を腰に当てて、揃えるように家に立て掛けられていた一列に並んでいる大量のパイプを見ていた。

「どうした?あのパイプをずっと見つめているけど?」

才機は手を止めて聞いた。

「いやぁ、前にここで住んでいた人はどうやら水揚げポンプを据え付けるつもりだった」

「水揚げポンプか。それは便利ですね」

「でもこんな大規模なプロジェクトは私一人では始末に負えない。大体、道具は揃っていない。ここはスコップ一つもないんだから」

「スコップがあればいいの?」

「スコップとスコップを動かす労働者がね」

才機は立ち上がって土しかない所に移動した。そこで足下を見てしゃがんだ。そうしたら腕を上げ、地に突っ込んだ。その腕が降り下ろされているうちに瞬時にガラスの形状になって、才機の肩まで埋もれた。一気に腕を前に出して、土が共に打ち上げられた。残ったのはパイプを埋める為のちょうどいい大きさの穴。ケインは頭をかいた。

「それ···川の所までずっと出来るの?」とケインがあごをこすった。

「出来るんじゃない?」

ケインはまたパイプを見た。

「ふーむ。やってみるか」

後に続く日々、三人は一日の殆どを水揚げポンプの据え付けに全力を注いだ。才機は穴を掘り、ケインはパイプを敷設して接続して、海は才機と一緒に終わった所を掻き集めた土で埋めた。この作業を終わらせるのに丸四日掛かった。そしてようやく日頃の成果を得る時が来た。三人はポンプを囲み、ケインはハンドルを上下に動かした。これで水汲みは限りなく楽になる。と、思ったら何も出ない。

「もうちょっとかな」

ケインはハンドルを動かし続けた。

でも何も出ない。

「可笑しいな。どこかで接続を間違ったかな」

「まさか、問題の箇所を見つかるまでパイプを片っ端から掘り出さないといけないの?」と海が聞いた。

まだハンドルを動かしていたケインが顔をしかめて言う。

「そうなるよね···てっきりちゃんと繋がってたと思ったけどなぁ」

遂にケインは諦めた。

「駄目だな、こりゃ。今日はもういい。解決策は明日にでも考えよう」

三人は家のドアに向った。ポンプの近くを通った際に才機は何気なしにハンドルをもう一回動かした。

「あ。出た」

海とケインは振り返って地面の湿り気に気付いた。才機はもう一度ハンドルを動かした。すると水がどくどくと流れ出た。

「やった!」

海は大声を上げてケインの肩を揺さぶった。

「よーし、これは祝えずにいられない。今夜のシチューに焼きナッチを入れよう!」

その特上シチューを食べ終えたらケインは自分の部屋に行って、持ち出したボトルをテーブルの上にドシンと置いた。

「これは?」と海が聞いた。

「ずっと取って置いたワインだ。凄いんだぞ、これが。気を引き締めて飲めよ」

「ワインかぁ。俺は遠慮するよ」と才機が言った。

「なんだ、それ?今夜はぱっと行くんだろう?」とケインがボトルを更に才機の方に滑らせてもう一度アピールする。

「彼はこういうの駄目なんですよ。ワインもビールも酒も、アルコールが入っている物全部」

「ええ?そうだったのか?」

「まぁ、そういう事だな」

「何、弱いのか?」

「分からない。それ以前に飲み込むのが問題だ。苦くてまるでせき止めシロップを飲んでいるみたい」

「哀れな人だなぁ。酒の良さが分からないなんて。ま、私と海の分が増えるからいいけどさ」とケインは二つのコップを持ってきて海に酌をした。

「ささ、どうぞ」

海はそのコップを口に持ってきて、ゆっくりだけど最後の一滴が無くなるまでコップを降ろさなかった。

「おお、凄い飲みっぷりだな!これを一気に飲むとは珍しい」

「何これ?美味しい!」

「二杯目いけますか?」

「行ける、行ける!」と海はコップを差し出した。

仲間はずれになった才機はただゆったり座って、二人の酒盛りを横から面白がって観察した。二人は何を飲んでいたか分からないけど、どうやらケインの言った通り結構強力らしい。四杯目の途中でケインはコップをしがみついたまま失神していた。海はもう五杯目に取り掛かろうとしていた。

「ね、ね、聞いてる?」と真っ赤な顔で海は爆睡しているケインに聞いた。

「さい〜き〜、さっきからケインが無視する〜。酷いと、ヒック、思わない?」

「この祭は仕方ないかな」

「何それ〜?ケインの味方をするの?裏切り者」

「お前、相当出来上がってんな」

「出来上がってなんかないぃ!ヒック。いや、してるかも。まぁ、いいじゃない〜。才機も一緒に酔いましょう〜」

「あぁ、けっこうです」

「そんな事言わずに」とふらふらしながら海は才機の所へ歩いて行った。

たったの七歩の距離だったが、海は転ぶんじゃないかと才機は本気に心配していた。そして案の定、六歩目で海は体勢を崩した。才機は立ち上がって右手で海を、左手で海が持っていたコップを受け止めた。何とか怪我せずに、こばさずに済んだ。

「歩く事すら出来ないじゃん、お前。ほら、座れ」と才機は海を椅子に座らせた。

「大丈夫、大丈夫。それより、これ。飲んでみ」と海は才機の顔にコップを突き付けた。

「まぁ、確かにお前はこれ以上飲まない方がいいから、これをもらうよ」と才機は海のコップを取り上げた。

「なんだよ〜。飲まないなら返して」

海はコップを求めて手を差し伸べたが、狙いはかなり外れていた。

「だめだ。もう寝てろ」

「眠くないもん。最近生意気よね、あんた。そんな事言って、また私の胸を触りたいだけだろう」と椅子で揺れる海が言った。

才機はぎくっとした。

「お、起きていたのか?」

「起きていたよ〜」

あれは二日前ほどの早朝だった。才機が目を覚めて左腕がベッドとは違う何か柔らかい物の上に載っていた。自分の手を見たらその何かは海の腹だと分かった。そして手は海の胸に非常に近かった。眠気が一気に消えた。やばいと思ってここはこっそり手を引っ込みたいところなんだけど、そうしようにもその手は海の左腕の下敷きになっていた。なんてこった!こんな状態で海が起きたら誤解されてしまうかもしれない。そろそろ起きる時間だろうし、どうする?!

実は才機より先に海の方がこの状態で起きた。才機の腕を退かしたら確実に起こしちゃった後、きまり悪い場面になりそう。このまま、また眠りに就いてみようと思ったら才機が起きた。寝ているふりをしていた海は才機の慌てを察し、左に寝返りをうってあげて背中を才機に向けた。チャンスを逃さずに才機も手を引っ張り出したけど、その拍子で腕がしっかり海の胸にこすりつけた。この事は一生秘密にするつもりだったが···。

「あ、あれは不本意というか、不可抗力というか···」と才機は目を逸らした。

今度は海がまた立って、残っている集中力を使って狙いを定めようとした。

さっき言った事はもう忘れたかどうでもよくなったか分からないけど、海の目に才機が持っていたコップしか映っていなかった。でも才機は身長の差を利用し、海がつま先で立っても手の届かない所までコップを持ち上げた。

「返して、返して〜。なんで言う事聞かないの?こんなに頼んでいるのに〜。私の事好きじゃないの?」

「え?!好きって···一度も言ってないよ。気になるって言った」とまた目を逸らす。

不意をつかれて、うっかり手が下がった。海は危うく目当ての物を取り戻したが、指がコップをかすっただけで才機は反射的にまた腕を伸ばした。

「一緒だろう?」

「違うよ。ってゆか反則だよ、こんな時にあれを持ち出すの」

「なんで反則なんだ?本当だろう?」と海は再びバランスを失って、膝から崩れ落ちるように才機にもたれかかった。

「人の片思いに付け込むな」

「分かんないよ。考えてるから」

「ん?何を?」

返事が来ない。

「グーグー」

才機は溜め息をついてコップをテーブルに置いた。それから海をお姫様抱っこしてベッドまで運んだ。

「酔っているとは言え、これでまた色々複雑になるのかな」と才機が海の無表情の寝顔を見た。

ドアをそっと閉めて才機はダイニングでいびきをかいているケインの隣に立った。前にかがんで海の飲みかけのワインを手に取って少し味見をした。

「うえ〜。皆よくこんなの飲めるんだ」


• • •


海が目を覚めたら頭はがんがんしていた。窓を通る太陽の光はぎらぎらしていて目を開けたら直ぐにまた閉じる。

「おはよう。って、もうこんにちはって言った方がいいかな。やっと起きたか?」

才機の声だった。

「んーー。もっと静かに喋ってよ。そうやって叫んでると頭が痛い」

「叫んでないけど」と海の要請に応じて声をもっと低くした才機。

「んーー。最悪な気分だ。誰か部屋が回るの止めてくれない?」

やっと目を半分まで開けて、左に向いたら才機はダイニングの椅子に背もたれを抱え込むように座っていた。

「部屋を止められないけど、ほれ」と才機は床に置いてあった水を海に手渡した。

「サンキュウ」

「昨夜は大変だったよ。結局おっさんまで担いでベッドに入れる羽目になった」

「昨夜?んー、確か水揚げポンプの完成を祝って···ケインと一緒に飲んで···それから···それから···それから何があったっけ?」

「覚えてない?」と才機が頭を上げた。

「なんか、三杯目辺りから全てが真っ白になってる」

「そう···なんだ」

「何かあった?」

「いや、お前は酔ってちょっと手が付けられなくなったぐらいだ」

「そうか。普通は自分の限度が分かるんだけど、あんなに美味しいワインは初めてで後を引いた。今は凄く後悔してるけど」

「ま、そこで休んでいて。おっさんの様子を見に行く」と椅子を持って才機は部屋を出た。

《覚えてないか。まぁ、ならば好都合だけど》

ケインはベッドで起き上がって外を見ていた。

「どう、気分は?」

「ああ、久しぶりの二日酔いだ。もっと若かった頃を思い出すよ。それにしても驚いた。海ってとんでもなく強いね。パレダインをあんなに飲めるとは」

「今は後悔してるだって」

「ははは!いっててててててて」とケインは頭を抱えて痛みが治まるを待ってから続けた。

「今日は休日とういう事でいいかな。ゆっくりしていて」

そう言われて才機は外へ出て日なたぼっこにおあつらえ向きの平たい石を見つけた。その石の上で横になって色んな考え事をした。今夜は何のシチューにしようとか、そろそろトマトを収穫してトウモロコシを植えた方がいいとか、来週の天気はどうなるとか、川から水を引くパイプの格子を週に何回きれいにするべきとか。そしてこんな事を考えている最中に、才機ははっと気付いた。この生活になじみ始めていることに。考えてみれば、ドリックの様子を見に行くのに待った三週間はもう過ぎたし。いかん。これじゃ、海との約束を果たせない。でもどうすればいいんだ?明日になるまで、才機はずっとそれについて思い詰めた。思い詰めて、何一つ思い付けない自分が情けなくて悔しかった。


    • • •


次の日、才機とケインはお互いに後ろ向きになって菜園で働いていた。才機はシャベルを土に突っ込んでいきなり言い出した。

「ねぇ、おっさん。変な事聞いていい?」

「変な事?」

「その···この世界以外の世界とか···そういうの聞いた事ある?」

「この世界以外の世界···それって別の惑星か何か?」

「いや、そういうんじゃなくて···と思う。もっと···何って言うか···

殆どの人が知らない得体の知れない世界。おとぎ話に出てくるような別世界」

「その発想なら知っているけど。それがどうした?」

「俺と海はそういう世界から来たって言ったら、どう思う?」

ケインの手が止まった。

「そういう世界から来たと言いたいの?」

才機は否定しなかったからそう言いたかったとケインが受け止めた。

「あなたがそんな嘘をついて得る事は何もないはずだ。私の勘だとふざけているようには見えないし。でも正直に言うと、とても信じ難い。頭が可笑しくなったって信じる方がまだ簡単だ。この際だから疑わしく思うのを許してもらいたい」

「もちろん。俺だって元の世界でこんな事言われたら信じなかっただろう」

遂にケインが立って才機に向いた。才機はまだしゃがんでいて、ぼんやりとシャベルを土に出し入れしていた。

「仮にあなたが言っている事が本当だとしたら、なんでそれを私に打ち明けた?」

「ただ相談に乗ってもらえたらと思って。私はもう散々悩んだけどお手上げだ」

ケインは何かを考えていたそうだった。

「普通はこの人がちょっと気が狂っていると思って、この話題になるべく触れないようにするのが道理だろう。···だが少しは力になれるかもしれない」

「本当か?」と才機は急にケインと向き合った。

「まぁ、正確に言うと力になれる人物に紹介出来る。

「誰ですか?」

「そういう···異世界について研究している知人が居てね。誰も彼の研究をあまり本気にしていないけど。私も含めて。でもなぜか彼の研究を聞き知った女帝陛下に認められ、今は女帝陛下自身がその研究の出資者になっている」

「その人なら帰る方法を教えられるのか?」

「さぁ。あなたが異世界から来たって信じている訳じゃないよ。でもその人に会ったら少なくとも話が合いそうだ。悪い人じゃないけどちょっと偏屈でね。他の研究員があまり関わらないんだ」

「どこに行けば会えるの?」

「メトハイン」

「メトハインか···」

「付いて来て」

二人が家に入ったら海は調理用の場所を掃除していた。ケインの後に付いて、才機はケインの部屋に入ってドアを閉めた。

「メトハインの象徴である巨大なオベリスクを知っている?」とケインが聞いて、机の引き出しの中をかき回した。

「はい」

「あれででかいと思っているだろうが、本当は見た目よりもっと大きいんだ。あの建物は深く地下まで続いてその殆どが皇帝の研究所。あ、あった」とケインはバッジかカードみたいな物を取り出して才機に渡した。

「これは?」

「あれさえあれば研究施設を自由に移動出来る。後はその格好だが」とケインはクローゼットから白衣を取って、才機にあげた。

「それを羽織れば大丈夫だろう。これから会いに行く人の名前はクレイグ博士。確か、彼の研究室は地下二階だった。建物の中心に螺旋階段が上下に走っている。地下二階へ出たら反対側の廊下の一番奥の部屋だったはず」

「なんでおっさんがこんな物を持っている?あの塔についてやけに詳しいし」

「まぁ、誰にだって過去はあるって事さ」

あまり話したくないようだ。

「一緒に来てくれないか?」

「悪いがそれは出来ない相談だ。クレイグ博士に会いたければ単身で行く事だ。海はどうする?」

「いや、海をみだりにあの都市に連れて行くのをしたくない」

「だろうね。どの道二人分の白衣とバッジは無いし」

そう言ってケインは部屋を出た。玄関のドアを開け、釜を掃除している海を見てから菜園の仕事に戻った。


次の朝。才機はいつもより早く起きた。

「んーーーーー」

「ごめん、起こしちゃった?」

「今何時?」

「六時頃かな」

「六時?何でもう起きてるの?」

「少しの間留守にするよ。明日までに戻るかも」

「明日?どこに行くんだ?」

「メトハイン」

「ええ?!どうして?」

「俺達の世界に戻る手がかりが見つかったかも。ケインが教えてくれた」

「ケインが?」

「うん。全部話した」

「よく信じたね」

「信じてないよ。協力してくれただけ」

「···じゃ、私も行く」

「いや、危険だから海はここに居てくれ。俺はあそこに行きたくないが、やっと掴んだ手がかりだ。逃す訳には行けない」

「でも···」

「それにこのバッジと白衣がなきゃ駄目みたい。なるべく早く戻るから心配するな」

才機はバっジと白衣を袋に入れて、ダイニングにあった野菜もいくつか積み込んだ。

海はドアが閉まるのを聞いて、日が昇るまで落ち着けられずにただベッドに寝転んでぼうっと部屋の壁を眺めた。


    • • •


昨日、ケインに示された方向に進んでメトハインに至る道路に出た。三時間経ったら休憩を取ってお昼にした。そのお昼というのは、朝食に食べた同じ生野菜。キュウリ、ニンジン、キャベツ、トマト。寂しくて物足りないだけどこれで後何時間飢えをしのげる。しばらくしたら黄金原オアシスが見えてきた。挨拶なしで通り過ぎたけど、取っておいた根っこが付いたニンジンの部分をネリーにあげて行った。そしてその足でとうとう目的地に着いた。メトハイン。しかし、一日でこんなに歩いて足は流石に疲れた。この都市にいるのは出来るだけ短期間にしたいので入ってからより、今もう一休みした。足が満足に動けるようになったらこの旅を終わらせる心の準備に入った。

《この間、あんな事があったけどもう俺の顔は忘られているだろう。門前払いなんて事はないよな》

フードをかぶるという手もあったけど、どうもそっちの方が目立って怪しまれる気がしたので堂々と市門をくぐる作戦で行った。門番は二人。両方とも全身鎧を付けていて、見るにも重そうな斧槍を片手で立てていた。怖いけどもう門に向っていた。今更引き返せない。この前、南口の門を使った時門番はこんなに威圧感を感じさせなかったのに。門に近づけば近づくほど心臓の鼓動が速まった。門番と視線を交わすのを避けたんだが、二人がずっと自分を睨んでいるのを感じた。今にもその斧槍が降ろされ、行き先を阻みそうだ。二人の間を通った時、心臓の音が筒抜けほど高鳴っていた気がした。違うのか、構っていられなかったか、一言掛けられずに都市に入れた。最初の関門をクリア出来た。これからが難しくなる。しかし腹が減っては何も出来ない。鼻まで漂って来た匂いがそのことを思い出させた。売店で数多の種類のパンの中から焼きたてのハチミツパンを一個買って、食べながら都市の中心に向った。塔に着いたら裏手に回って誰もいないうちにバッグに入った白衣をまとってバッジを付けた。大きく息を吸って才機が塔の前に歩いて階段を上った。自然に振る舞ってさりげなく挨拶もしようと思ったが、口を開ける間際に門衛が扉を開けてくれた。才機は扉を通り抜けて中に入った。第一印象は以外と殺風景で装飾のない広間だった。どっちかというと兵舎みたいだ。そして兵舎なだけあって兵士が多い。玄関で不思議そうに周りを見るのは変だろうから真ん中のでかい柱の方へ向った。柱の中に確かに螺旋階段があった。

《よし。ここだな》

才機は螺旋階段を見下ろした。

「おい、君」

階段の入り口で見張っている兵士だった。

「はい」

その兵士は才機のバッジを睨み付けた。

「見慣れない顔ですが、新しく入った研究者?」

「はい」

「どこの所属なのか聞いてもよろしいですか?」

「クレイグ博士と一緒に研究しています」

「クレイグ博士?あの人の所に助手が入ったか。ふーん」

納得させたみたいで才機は階段を下りて行った。そして見えなくなるまで兵士はずっと才機を目で追った。

地下一階。

地下二階。侵入成功。

階段の吹き抜けから廊下に出て、進められる方向は三つ。左、右、真っ直ぐ。ケインによると階段から出た所の反対側の廊下に行くべきだ。そこを目指して才機は右に曲がった。運よくて廊下は今がらがらだった。窓は至る所にあったが、いずれもブラインドが下げられ、向こうで何をしているか見えない。ほどなく才機は目当ての廊下の一番奥のドアの前に立っていた。ここもやはりブラインドが下げられて誰かがいるかどうかすら分からない。でもここで突っ立っても何も始まらない。才機はドアにノックした。数秒後にドアが開くと同じく白衣を着た男が顔を出した。

「ん?何か用ですか?」

「あー、クレイグ博士ですか?」

「はい」

「あのー、クレイグ博士は異世界の研究をしていると聞いたんだけど」

「そうだが?」

「えっと、俺の名前は東才機。その···あなたの研究の事が耳に入って、ぜひ話したいと思った」

「そうですか?」とクレイグ博士は眉を一つあげて少し訝しむような口調で言った。

「あー、多分お互い助け合えるんじゃないかと思うんだ」

「助け合える?」

「その、俺もクレイグ博士にとって興味深い情報を提供出来るかもしれない」

「ふーん。あなたも異世界の研究をしていると?」

「いいえ、その···俺は異世界の人間です」

ピシャリ。

才機の目の前でドアがバタンと閉められた。

「悪いがこう見ても忙しいんでね。私の研究所が物笑いの種でも結構だが、君も研究者の端くれならここで油を売ってないで自分の研究に専念する事だ」

「いや、違うんだ!本気で言っている!冷やかすつもりはない、本当に!」

返事はない。

「俺の言い分を最後まで聞いて下さい!」

才機はドアに左手を付け、右手でトントンと叩いた。

「俺は研究者でもなんでもないんだ!俺達はただ地球に帰りたいだけだ。頼むよ。クレイグ博士が唯一の頼みの綱だ」

才機は額までドアに付けて、もう挫折感で完全にもたれていた。

数秒後、ドアは急に開いて才機が危うく中に転がり込んだ。

「今何って言った?」とクレイグ博士は真剣な顔で問い掛ける。

「え?あなたが唯一の頼みの綱···」

「いや、その前」

「えっと、俺達は地球に帰りたいだけ」

「その言葉はどこで聞いた?」

「言葉って?」

「チキュウだよ。どこで聞いた?」

「どこって聞かれても···俺がずっと住んでいた惑星の名前だ」

クレイグ博士は穿鑿するような目で才機の顔をじっと凝視した。

「中に入って」

才機はそうさせてもらい、クレイグ博士はドアを閉めた。研究室は少々散らかっていた。地球儀(ルヴィアの)、世界地図、星座早見表、望遠鏡、太陽系の模型、様々な備品や資料があっちこっちに置かれたり壁に貼られたりしていた。上下スライド式黒板が二つあって、難しい方程式と訳分からない図形で埋め尽くされていた。クレイグ博士は車輪付きの椅子に座って向きを才機が立っている方向に変えた。

「君がチキュウの人間か?それが本当なら聞きたい事は山ほどある」

クレイグ博士はなるべく平然とした態度を取ろうとしていたが、その顔は彼の興奮を完全に隠し切れていなかった。

「地球を知っているの?」

「その存在だけなら知っている」

「実際に行った事ないってこと?」

「そういう事だ。それこそが私の研究の目標なんだ。なぜ私がチキュウの事を知っているかというと君は二人目だからだ。私が出会ったチキュウ人」

「そうなのか?!」

「ええ。もう随分昔の話だけど。私が十歳の頃だった。あの日、父親に家の裏の林にあった小屋から物を持ってくるように頼まれた。とても小さな小屋で決して人が隠れられるような場所ではない。なのに取りに行った物を手に入れ、家に戻ろうとしたその時、小屋から変な音がした。それで音の原因を確かめる為に小屋のドアをもう一度開けたら人がいたんだ!私と同じぐらいの年の男の子。どこから来たかと問い詰めたら訳の分からない事ばっかり言っていた。そして話しているうちに彼はチキュウという惑星から来たことを知った。とりあえず家に誘ってあげたんだ。でも帰る途中に、現れた時と同様、忽然と消えた。真後ろで私と会話していたのに。言うまでもなく誰にも信じてもらえなかった。むしろ帰るのが遅かったから叱られた。全部まるで昨日起きた事のようにはっきり覚えっている」

思い出話を楽しんでいるみたいにクレイグ博士の目が上に向けていた。そしてその目を落としてまた真直ぐ見るようになると才機を吟味した。

「ま、懐古趣味はそれぐらいにしよう。今度は答えてもらいたい事がいくつかある」

と、クレイグ博士は口元の先に指を絡み合わせた。

「はい、何なりと」

「では、遠慮なく。そうですね···まず最初にいつこのルヴィアに来たか教えてくれる?今しがたじゃなさそうですね。後、どこで出現した?」

「えっと、きっかり言えないけど···一ヶ月前ぐらい···かな。気付いたらトゥリエ森って所にいた」

「そんなに?!あの子がここに居られたは長くて十分程度。なのに君は一ヶ月も。この世界に来る直前の事を出来るだけ詳しく話してくれ」

「来る直前の事?」

「そう。回りの状況、天気、持っていた物、何時だったか、何でもいい」

「んー、夕方の五時過ぎだったかな。天気は···異常だったよね。あの日、どこからともなく嵐みたいなのが発生した。雨が少し降っていて、風も強く、雷が鳴っていた。その落雷によって木が倒れたせいで走ってきたトラックがそれを避けようと、今度は俺達に向ってきた。それで橋から飛び降りて全てが真っ白になった。気がついたらこっちの世界にいた」

「そう言えば『俺達』って言ってましたね。他に何人がこっちに来ている?同時に来たのか?」 

「はい。海っていう、後一人俺と一緒にこっちに来た人がいる」

「そうですか。しかし私が思った通りですね、天気の様子。私の理論、聞いてみる?」

「是非」

「私が立てた仮説ではこの世界、いや、この宇宙は二通りにある。そしてこの二つの宇宙には距離なんてないんだ。宇宙船に乗ってどんなに遠く行っても行き来する事は出来なく、それでいて限りなく近くにある」

「はい?」

「次元ですよ。君のチキュウはこのルヴィアと異なる次元で同時に存在している。ただ、一つ違うのは多分、太陽の周りを公転する軌道が逆だろう。もしかしたらチキュウが自転する方向も。チキュウでは太陽が昇る方角は西?東?」

「東」

「やはり!」

「言われてみれば···こっちでは西から昇るんだよね」

「で、太陽の周りを公転する方向は知っているかな?」

「確か、反時計回りだって学んだ」

「そうそう!そして年に二回、チキュウとルヴィアが同調する時、つまり二つの世界が円軌道でぴったり重なる時に自然現象が行われる可能性がある。私はそれを星合現象と名付けている。その星合現象は主に天候異変として形を成す。でもその異変な天気は前兆に過ぎない。その周辺に開かれる扉のね」

「扉?」

「そう。二つの世界を繋がる扉。その扉の大きさやどのくらいの間開かれるかは分からないけど。毎回変わるでしょう。恐らくそれほど大きくはなく、長い間は開いたままでいられないと思う。数秒ってところかな。でももしその瞬間、扉に入るほどの大きさの物がそこに居合わせたら、もう一つの世界に引き連れて行かれる事はありうる。だが扉が大の大人を入れるほどの大きさになるのが至極まれな事だと思ていっる。その条件を全て満たしてもう一つの世界に移転される確率は万に一つ。君はよほど運がいいのね。いや、悪いか」

「この理論にどれくらい自信を持っている?」

「結構ありますよ」

「これが本当なら凄いよ。その扉を意図的に開く事が出来るの?」

「言っただろう?チキュウに行けたんならとっくに行っていた」

「あぁ、そうか。それにしてもどうやってこんな事を調べたんだ?」

「それを説明すると話が長くなる。それに説明したところでこの分野での経験がなければ直ぐに理解出来るような内容ではない」

「んー、やっぱり?でも本当に凄いよ。ずっと一人で研究してきたんだろう?」

「まぁ、ね。でも一人で達する事が出来た結論だとは言えないかもしれない。完全に詰まった時期はあったけど、情報人が持ってくれた情報のおかげで研究がかなり進展した」

「じゃ、地球の事を知っている人は他にもいる」

「少なくとももう一人が、いや、二人がいる···。誰だかは私の口から言えないけど。でもそれを気にしなくていい。チキュウに帰りたいならそれを手引きするのに一番適任の人はこの私だ。現在はチキュウに返す手立てはないんだが、君の協力があればそれは変わるかもしれない」

「俺に何かが出来る事があったら何でも言って下さい」

クレイグ博士は近くの机からノットを取った。

「ところで、どこで私の研究の事を知った?」

「あぁ、それはケインという人が教えてくれた。ここでの研究者だったのではないかと思っているんだけど。この白衣とバッジだって彼の」

「まさか、ケイン•フォグリ博士?!居場所分かっているの?!」

「え?あー、名字は聞いてなかった。もしかして、結構有名だったとか?」

「有名も何も、あの方は異能者のうみの···あ、いや、何でもない。私には関係のない事だ。さっきのは失言だった」

正直才機は今の話の続きが非常に気になっていたけどクレイグ博士はそれ以上触れるつもりはなさそうだ。

「さて、尋問は続けてもいいかね?」

「どうぞ」

クレイグ博士はノットを開いてペンを用意した。

「チキュウでは太陽暦の一年は何日ありますか?」

後一時間才機は色んな質問で攻め立てられた。うまく答えられる質問とそうでないのも聞かれた。地球の事だけではなく、自分の過去や個人的な質問も色々あった。

「チキュウとルヴィアの歴史は大分違いますね。だが根本的なところは多く共通している。例えば私達が同じグレダン語を喋べるという点もそう」

「グレダン語?日本語の事?」

「そっちではニホン語と呼ぶのか。まぁ、国の名はニホンだと言ったしね」

クレイグ博士は腕を組み、体を後ろにずらして座り直した。

「しかし、凄く気になるのはなんで君がまだこっちにいる。その理由がは全く分からない。宇宙は常に均衡を保とうとする物らしい。どんなにちっぽけな存在でも、もし星合現象によって向こう側に行った場合、それは一時的だと考えられる。居るべき世界に強制的に引き戻される。二十七年前にあの男の子みたいに。一ヶ月もこっちにいるんならルヴィアとチキュウの同期がもう大分ずれている。戻るんだったらとっくに戻ったはずだ。君は否でも応でももうしばらくここにいるよ」

「次の···星合現象を待つしかないってこと?」

「さよう。ま、それまでに何かの大躍進を遂げるかもしれない。今は君から得たデータをまとめたいので今日はもういいかな。どうすれば連絡を取ればいい?」

「住所とかないんだよね。それはちょっと難しいかも」

「でしたら、たまにはこっちに顔を出してくれ。月に一回ぐらいでもいいから。何かが分かったらその時に最新情報を提供する。新たな質問もあるかもしれない」

「じゃ···一ヶ月後にまた来てみる」と才機はドアに向った。

取っ手に手を付けると才機はクレイグ博士に問い掛けた。

「本当に···帰れると思う、俺達?」

「絶対に返してあげるなんて約束はしないけど、そう出来るように善処します。私も行ってみたいものだ」

「ありがとうございます。それじゃ、後はよろしくお願いします」

才機は背中から部屋を出た。そして前を向いたら巡回中の兵の背中にぶつかった。

「あ、すみません」と言って急いで塔の外へ出た。

雲が張り詰めていた空はもうオレンジ色な色調に変えていった。やっぱり日帰りは無理だ。気が進まないが今日はこのメトハインに一泊する事になる。通りすがりの人に安い宿の所在を尋ねて、シルヴァ•メロディという宿屋に辿り着いた。メトハインで一番安い所と言われたけど入ってみるとまだガルドルの宿よりましだった。予想通り、その料金も二倍。チェックインを済ませて才機はさっそく部屋に行った。今日の目的が果たされ、危なっかしい用事も終わった今、才機は気が緩んでこの長い一日でどれほど疲れたかようやく気がついた。ベッドに身を投げ出して目をつぶった。

《このまま明日まで眠れそう》

そして十分以内に次の日になるまで一度も途切れる事のない深い眠りに落ちた。

したがって真夜中、ちょうど誰かの目が部屋に覗けるほどにドアがゆっくり開いて閉まるのに気付かなかった。

翌日、午前四時ぐらいに目が覚めた。真っ先に思った事は

《お腹すいたー》

四時に起きるのはもう何年ぶりだが、用がなければ無用な時間をここで過ごす事はない。問題はこんな時間に営業している店はなかろう。海とケインの所に戻るまでに腹がとても持たない。途中で倒れそうだ。幸いに、チェックアウトした時、フロントで尋ねたら何も用意する事は出来ないが売ってくれる物は幾つかあると言われたのでパン二個、チーズの厚切り、ナッチをありがたく購入した。流石にメトハインもこんな早朝だと通りは人影がまばらである。メトハインのこの面を見るのは初めてで不思議な感じ。いつもはあんなに活気に満ちた都市がこんなにも静かになるもんだ。今は人よりもビルの方が目に入っていて、この都市は建築上も立派に出来ていると改めて思う。誰かと遭遇した滅多な際には挨拶してくれる。異能者に対する偏見さえなかったら暮らすのにいい所だろう。市門を出ると門番だって会釈した。

《これから偉く長旅がまた始まるんだな》


    • • •


海はケインと一緒に昼ご飯の片付けをしていた。食器を外の水揚げポンプへ持って行って洗っていたら海の頭がぐいと上がった。

「あ、帰った!才機が帰ってきた」

「ん?どこ?」

「あー、今帰ったんじゃなくて、後少しで」

「分かるの?」

「うん。人の気配が分かるんだ。最初は皆の気配が同じような感じをしたけど、最近は才機の気配だけを何となく識別出来るようになった。···でも、これは···」

「なんだ?」

「いや、なんでもない」

洗い物を終わらせて二人は中に入った。

「なんか、才機が帰ってくるって分かってから顔が一段と快活になったのは私の気のせいか?出かけてから一日半しか経ってないよ 」とケインが言った。

「え?いつもの顔をしているつもりだけど」

「そう?夫が長く続いた戦争から遂に帰ってくるのを知った妻みたいだ」

「気のせいよ」と海がテブルを拭き始めた。

「ふうん。じゃあ、私の見違いだったんだな。可笑しいですね」と誠意のかけらもなく言ってケインが自分の部屋に行った。

ほどなくして玄関のドアが開いて才機が入ってきた。

「おかえり」

「ぁ、ただいま」

「あれ、もう一人は?」

「もう一人?」

「うん。誰かと一緒に来ただろう?」

「いや、ずっとひとりだったけど?」

「え?」

海は目を閉じて首を傾げた。

「変ね。今は誰もいないけどさっきはてっきりもう一人の気配を感じた気がした」

「もしかしてあの狼男か。仕事熱心だこと」

「で、何か分かった?」

「ああ。その前に何か食べる物ない?まじで腹減った」

海は昼食の食べ残りを用意し、食べながら才機は見聞きした事全てを詳細に話した。

「つまり、分かったのは私達がどうやってこの世界に来られた仮説と直ぐに家に戻れないって事ね?」

「うん」

「まぁ、何も分からないままよりはましか」

「仮説はともかく、子供の頃に地球の人に会った話は事実だと思う。地球を口にした途端に手の平を返すような反応をした。彼が会ったという子供が帰られたんなら俺達も帰られる可能性はある」

「でもその仮説が本当なら後五ヶ月ぐらい待たないといけないだろう?それでも帰られる保証は何もない」

「今は賭けるしかない、彼の研究に」

「賭ける···か。最近の私達は運不足だけどね」

「あ、そうだ。これをケインに返さないと」

才機は白衣とバッジを袋から出してケインのドアにノックをした。

「どうぞ」

才機はドアを開けて部屋に入った。

「これ、返します。ありがとうございました。お陰でクレイグ博士と色々話が出来た。一ヶ月後にまた借りたいかもしれないけど」

「あげるよ、それ。私にはもう必要ない物だ」

「そうか」

「あなたが考えている事は分かっているよ。顔に書いてある。『これで信じてもらったかな』と。私の考えている事を教えてもいいよ。信じている訳でも信じていない訳でもない。そもそもそれほど真剣に考えていない。答えは『どうでもいい』。二人がここに来てから私はかなり助かった。真面目で愉快な奴らだ。私ももう毎日が寂しいと思う事はなくなった」

最後に一言付け加えたケインの声はもっと小さなものだった。

「なんならずっとここにいても別に構わん」

「ありがとうございます」

才機は部屋を出ようとドアに向ったが急に止まった。

「実はもう一つ聞きたい事があったんだけど」

「何だ?」

「クレイグ博士と話していた時、ケインの名前を言ったら凄いリアクションを見せたけど、おっさんの名字はもしかしてフォグリ?」

「ええ、そうだよ」

「結構、名高い人だったね」

「かもね」

ケインはこの話に乗る気があまりなさそうなものでこれ以上この件に触れるのをやめようと思ったが自分の好奇心に勝てなかった。

「途中で口をつぐんだけど、クレイグ博士はおっさんが異能者の生みの親って言おうとしたように聞こえたが···それはないよね」と才機が軽く笑った。

ケインは何も言わなかった。

「だってアナトラス現象が原因だったし」

ケインは読めない顔で黙秘したまま。才機は気まずい沈黙の中で突っ立って自分の好奇心を呪っていた。

「事実だったら私の事を軽蔑しますか?」

「···本当···だったのか?」

「そうね。そうとも言えるでしょう」

「でも···アナトラス現象は?ロケットに積んでいた化学物質は?」

「隠蔽ですよ。帝国が作り上げた、事実をもみ消す為のガセネタ」

「じゃ、ロケットの爆発なんか最初からなかったんだ」

「あったよ、ロケット。でなきゃアナトラス現象は誰が信じる?ただし、空だった。積んでいた物は一つだけ。爆弾」

「じゃ···異能者はどうやってこの世に生まれた?おっさんはどう関係しているの?」

「皇帝は軍隊を作りたかった。いつでも手早く身軽に出動出来て、武器持っていなくても高い戦闘力を発揮出来る軍隊。そんな部隊を実現させる為の研究を行う内命が出され、皇帝は随分とそれに投資した。私はその研究を取り仕切った研究員長だった。遺伝学を用いて長い年月をかけて研究や実験に明け暮れた。そして十六年間の末にやっと成果が出始めた。人の遺伝子を極端に変える方法を確立した。その治療を受けたある患者に超人的な能力が現れた。後はなぜ影響を受ける人と受けない人がいるかその理由と意図的に特定な能力を表す方法を突き止める事だけだった。だが、どちらの謎も解き明かせる前に、とある患者の能力が暴走して研究所が多大な被害を受けた。その過程において治療に使うガスの保管装置が破壊されて流失したガスが地上に波及した。酸素と化学反応を起こしやすい気体でね。酸素による化学変化で新しく出来た生成物は今度窒素と化学反応を起こして自己増殖する。後は想像がつくだろう。真実を知っているのはプロジェクトに参加した研究員だけ。クレイグ博士は···まぁ、参加していなかったが、私が研究チームに誘ったからプロジェクトの事は知っている。もちろん、全員口封じされている」

「おっさんは違うの?」

「先に口を割ったのはクレイグ博士。それに私はもうそこの研究員じゃない」

「そう言えば、なんでこんな所に引っ越したんだ?」

「世界に異能者が出てしまった以上対処する手段も必要だ。収拾がつかなくなったら必死に事態を繕おうと今度は皇帝が異能者になった人を全滅させるガスの開発を命じた。当然、異能者について最も知り尽くしている私にその勅命が下った。私達が招いた惨事のせいで罪のない大勢の人を殺害する。集団大量虐殺もいいところよ。そんな物を作って許されるか!研究データを持ち出してそれ以来ここで身を潜んでいる」

「わざわざ持ち出さなくても破壊すればよかったのでは?」

「なんだかんだ言って、私の生涯を通しての研究だ。この手でそう簡単に破壊する事は出来ない。それにもし皇帝がその気になれば治癒法を見つけるのにこのデータは不可欠だ」

ケインはクローゼットに入って壁から石を取り外した。その隠し場から物凄く厚いファイルを出して机に投げ出した。

「今でもたまにこれを見直して、異能者の変化された染色体をどうにか元に戻す方法を見出そうとする」

そのファイルを見ていたケインの目に嫌悪が映っていたのに、彼の手が同じファイルを大事そうにさすっていた。

「勅命とは言え、私はいとわず引き受けた。むしろそれが私の存在意義だと確信し、伝説を残したくて研究を成功させる為に精魂を込めた。その結果が今の世の中。笑える。

これで私のいきさつが分かった。どう?世界規模の悪党と呼ばれるに足りますか?」

ダイニングから海の声がしてきた。

「こっちの答えはも同じですよ。どうでもいい。私達は過去のケインがほとんど知らない。知っているのは何処の馬の骨とも知れない私達を迎え入れて、今でも世話になっているケイン。そんなケインには感謝している。それでいい」

「まぁ、そういうこった。俺は別におっさんを責めていた訳じゃない。ただ気になっていただけ。真実を知る数少ない人としてちょっとだけ鼻が高くではあるけど」

「そっか」とケインが言って椅子に座った。

「今日もまたこのデータを見直すか」


    • • •


それから三日後。朝食の片付けが終わったらケインは三トレイキを才機の手に落とした。

「これは?」

「たった今パンを切らした。二人ともドリックに行って買ってきてくれないか?」

「でも三トレイクって、一体どれだけ買えばいいの?」

「二キロぐらいかな。残ったお金でお前達の服を買っておいて」

「服?」

「今着ている服しか持ってないじゃない。池で入浴する時にその服も洗っているだろう?今は夏の真っ盛りだからいいんだけど、涼しくなったらそうはいかない」

「確かにそうね。どう、海?買い物行くか?」

「行きたい」と海が椅子から立ち上がって申し訳なさそうな目をしていた。

「二人はドリックに行くのが始めてけど大丈夫よね」

「ああ。店の中で海が興奮して台風を起こさない限り」

「しないわよ!」

「じゃ行っておいで」

「行ってきます」と二人が出かけた。


ドリックに着いたら先にパンの購入を済ませてから二人は衣料品店を探し出して中を見回していた。

「俺、ファッションセンス全くないから任せるよ」

「知ってる。大丈夫。いい物を見繕ってあげる」

海は並んであった服を一つずつ調べた。

「ね、このシャツとこのズボンはよくない?ほれ、試着室はそっち。着てみて」

着替えて試着室を出たら海は両手に服を抱えてそこで待っていた。

「お、いいじゃん!やっぱり私の目に狂いはなかった。はい、今度はこれ」と持っていた服を差し出した。

「え?また?いいって言ったじゃん」

「当然。才機に一番似合っている服を選ばないと」

海は才機に後三着を着てもらってから次は自分の服を探し始めた。最初の衣装に着替えたら才機の前で回転してみせた。

「どう?似合う?」

「似合うけど···なんだ、その帽子?」

「何って、 超可愛いじゃん」

「そうじゃなくて、別に最新流行を作り出そうとしている訳じゃないだろう?金を散財しないようにしよう」

「でもこの服にもこんなに合ってるのに〜。この黄色の色合いがぴったり」

「だめだ」

「ぶー。まぁ、才機の言う通りだけど」と海が帽子を取って元の所へ戻した。

「今度はこれを着てみるね」と海はまた試着室に入った。

才機は椅子に座って考え事をしていた。さっきはああ言ったけど、この世界に来てから海は初めて純粋に楽しんでいたようだ。普通ならこんなささいな事をいつでも楽しめるはずなのに毎日ケインの所で我慢して文句一つ言わない。自分が今ちょっと片意地張り過ぎかなと思い始めた。と、才機の一連の考えは急に海に邪魔された。

「で、こっちはどう?」

「ん?ああ、似合ってるよ」

海は後三回違う衣装を才機に見せた。

「うん、いい感じ」

「ちょっと、毎回あっさり言ってるけど真面目に考えてるの?」

「考えてるよ」

「どうだか」

「だってさ、そもそも俺は意見を聞かれるのに向いていないだ。海に対して偏見持ってるから俺の目では何を着ても似合うんだもん。モデルがいいんだからしょうがない」

「な、何それ?役に立たないじゃん」と海は試着室に入った。

「次はあの黒いのを着てみるんじゃなかった?」

海は素早く黒いワンピースを取りに行ってまた直ぐに試着室に撤退した。そのドレスについても結局また才機の意見を聞いたけど。

「さ、次行こう」といつもの服を着て海が試着室から出てきた。

「次?気に入ったのはなかった?」

「そんな事ないけどもっといい物が見つかるかもしれない。他の店にも寄ってみなきゃ。買物の基本でしょう?」

結局、全部で四軒回ることになった。

「うん、才機のはこれで行こう」

「お前は?」

「私は···やっぱ最初に行った所にあったセットがいいかな」

才機は海が選んだ服を店員が立っていたカウンターへ持って行った。

「これをお願いします」

次は海の欲しがっている服がある店に戻って海が先ほど試着した黄色いセットを買った。荷物を運んでいる才機と海が少し歩いたら、海が急に止まって周りをあっちこっち見回した。

「どうした?」と才機が聞いた。

「あそこに寄って行こう」と海が見つけた衣料品店を指差した。

店のドアの前まで行くと才機はシャツを後ろから引っ張られ、海に引き止められた。

「あの、ここで待っててくれる?」

「なんで?」

「買い忘れた物があるけど、才機がいると···ちょっとあれなんで」

「?」

「だから、見られる恥ずかしいよ」

「何が?」

「もー、鈍い奴だな!女物よ」

「あ、そ、そうか。じゃ、ここで待ってる」と才機は短い階段を下り、店に背中を向けて海を一人で行かせた。

海がもう店に入ったと思ったら、次は肩越しに手の平が才機の視界に入った。

「お金」


海は最後の買い物を終わらせて外へ出ると才機の姿はなかった。辺りを見回して見当らないと思ったら才機の呼びかけが聞こえた。

「こっちだ!」

右から才機が軽く走ってきていた。

「いた。あんたのも買っておいたから」

「俺のは見ていいのか?」

「どうせ男子の下着なんて半ズボンと大して変わらない。何、それ?」

海は才機が先ほど持っていなかった袋を見ていた。

「あぁ、これね。まぁ、おっさんがくれたお金で札びらを切るのは良くないけど、俺達の金なら帽子ぐらい買ってもいいかなと思って」

才機は手で首筋をさすりながら目を逸らして海に袋を渡した。

「···ありがとう」

「さぁ、帰ろうか」

「ね、せっかくだから、帰る前にもう少し回らない?」

「ん?ああ、そうね。いいよ」


    • • •


昼寝の真っ最中のケインはドアにノックする音に目が覚めた。三回目で自分をベッドから引き摺り出して応対に出た。半睡状態でドを開けた。

「今さらノック必要ないだろう。今いい夢」

ケインの顔が真っ青になって眠気が一気に覚めた。

「久しぶりです、フォグリ博士」

「ルガリオ隊長···なんでここに?」とケインは辛うじて口から発した。

「またまた。言わなくてもご存知でしょう。随分捜しましたよ、博士。もうとっくに海でも渡ったのではないかと思いましたがこんなに近くに隠れていましたね。まさに灯台下暗しです」

ルガリオは愛想よく笑っていたんだが、それが余計に心の平静を失わせる。

「ですから、何の用?私はもう皇帝の研究員じゃない」

ケインの隊長に対する不信は明らかに顔に出ていた。

「あくまで白を切るつもりですか?いいでしょう。乗ってあげますよ。二年前、あなたは異能者に対処する為の兵器の開発を命じられました。ところが、何らかの理由で義務を放置し、姿を消しました。それだけでも重大な問題だというのに、更にあなたの研究に関するデータはほぼ全て無くなっていました。博士、そのデータはどうなったかご存知ないのですか?」

「そんな物とっくに処分したんだよ。皇帝がやろうとしていた事は過激過ぎたんだ」

「残念ですがそれを決めるのはあなたではありません。しかし大事なデータを処分したとは。その可能性もありましたね。ですが私も、陛下もそうとは思えません。博士ほど研究熱心な方がそう簡単に十六年間の苦労を台なしにするとはとても信じ難いです」

「そう信じたいなら勝手にそうすればいい。でもない物はないんだ」

「博士よ。昔の話です。寛大な陛下はあなたを罰するつもりはありません。データさえ渡せば直ぐに先ほどのいい夢の続きを見させるのでここは協力して頂けないでしょう?」

「くどい!持ってないと何回言わせるつもり?」

ルガリオ隊長の笑顔はついに消えた。

「入らせてもらう」とルガリオはケインを押しのけて中に入った。

「みすぼらしい所ですね」

ルガリオは指をパチンと鳴らし、後三人の兵士が家に入った。

「徹底的に調べろ」とルガリオが命じて、三人はてきぱきと命令を遂行した。

「おい、何をしている?!」とケインが抗議した。

「ちょっとした家捜しですよ。何、こんな小さい家なら直ぐに終わるさ」

「やめろ!」とケインが兵士を止めに行こうとしたが、ルガリオの手がケインの肩を掴んだ。

「年寄りの冷や水は止した方がいいですよ、フォグリ博士。ここで大人しくするのは身のためです」とルガリオは力を入れてケインの肩を強く握った。

ケインは顔をしかめて、ひざについた。もう、止められない。

「どうしてここが分かった?」と床をじっと見るケインが聞いた。

「私の配下にいる者は優秀からです。宮殿で若者にしてはかなりセキュリティレベルの高いバッジを持っている青年を部下が見かけた。異なるレベルのバッジの見た目は殆ど変わらないから普通は気付かないでしょうが、あの青年にどこから見覚えがあったそうです。不信に思ったので声をかけて、話しているうちに思い出した。この前、街で騒動を起こした異能者でした。私がその報告を受けたらなぜ異能者が研究所に忍び込もうとしている理由を知りたくて兵士を探りに行かせました。すると思わぬ発見をしました。彼はフォグリ博士と関係のある人だと漏れ聞きました。この人を利用すれば博士の行方が分かるかもしれないと思い、彼が宮殿を去った後、尾行を専門する部下をつけさせてもらいました。期待以上にうまく行きました」

そのうち兵士がルガリオに報告しにきた。

「隊長、それらしい物は見つけられません」

「何をやっている?!ちゃんと捜しているのか?!」

ルガリオは剣を抜いてダイニングルームの椅子を真っ二つにした。それから中身を調べてもう一度椅子を断ち割った。

「どこに隠してあるか分かったもんじゃない!この家をバラバラにしても構わん!絶対にあるからあのデータを探し出せ!」

「はっ!」

ケインは手を胸に当てて、呼吸が少し粗くなった。探索が前より激しくなっていた。何もかもが破壊されて、用のないものは窓から放り出された。まるで家の中に強烈な竜巻きが発生したかのようだった。

「博士、この茶番を早く終わりにしたい。私とて忍耐強い人ですがそろそろ我慢の限界です。あなたの友達は今留守にしているみたいですけど、いつ帰りますか?彼を少々痛

めつければあなたは協力する気になるかしら」

「彼は······関係······ない」とあえぎながらケインが言った。

ルガリオはしゃがんでケインと肩を組んだ。そして冷淡な目でケインの顔をしっかりと見た。

「そうでしょう?あなたの強情さの為に彼が酷い目に遭ったらあんまりじゃないですか。私もそういうのあまり好まないけど効果的ですよ、これが。ですから、教えて下さい。盗み出したデータはどこですか?」

その時、大きいなファイルを持って兵士がルガリオの所に来た。

「隊長、壁の細工された場所にこんな物が」

ルガリオはファイルを手に取って目を通した。

「うん、これですね。よかったです、博士。これで誰もが傷付かずに済みます。さあ、引き揚げるぞ!」

兵士達は一列縦隊で家を出た。

「顔色が優れぬようなのでゆっくり休んで下さいね」とルガリオがまるで本当に心配するような口調で言って立ち去った。

ケインは這って自分の部屋に行った。机の残片から薬を捜したけど見つからなかった。もしかしたらこの乱雑になった部屋のどこかにあるかもしれないが、仮にそうだとしても捜す力がどんどん無くなって行く一方だ。


    • • •


「あれ?」と家が見えてきたら海が言った。

「どうした?」

「家には誰もいないようだ。ケインはどこに行ったかな」

「釣りにでも行ったんじゃない?」

「昨日行ったばかりなのに?」

ほどなく二人は家に着いてドアを開けた。

「?!な···」と才機は呆然自失して荷物を落とした。

「一体何があった?!」と海は先に中へ入った。

才機はまだ目の前の光景を消化しようとしていた。

「きゃあああ!」

才機は海がいたケインの部屋の戸口に駆け付けた。

「どうした?!」

海はただ手で口を覆ってじっと立っていた。才機は彼女の目線を辿って横たわっているケインが目に入った。

「おっさん!」

急いでケインの所に行って頭を起こした。

「おっさん!おっさん返事しろ!」と才機はケインを揺すった。

次は脈をとって鼓動を確認した。

「死んでる」


海の髪は風に揺れていた。才機は両手の拳を握っていた。二人は家の裏で先ほど建てた木材で出来た十字架の前で立っていた。

「誰がこんな事をした?」と海が囁いた。

後ろから声がしてきた。

「へー。死んでたのか、あの爺さん?」

振り向くと狼男だった。

「お前か?!お前がやったのか?!」と才機が彼の方を向いた。

「冗談。何で俺が?っつうか聞け。俺も知ったばかりって言ったろう」

「じゃ、誰がやった?この辺りを見張ってたんだろう?」

「さぁ。見てたかな」

「ふざけやがって、この狼男!見たのか?!教えろ!」と才機は彼の胸ぐらを掴んだ。

「狼男って言うな。俺の名前はディンだ。それにこれは人に頼みをする態度か?」

才機は少しの間ディンを正視して彼の胸ぐらを離した。ディンは自分のシャツをきちんと直した。

「別に教える義務はないけど見たよ。あれは近衛隊だった。隊長まで自らご出馬」

「近衛隊?なんで近衛隊が?」と海が聞いた。

「そんなの知るか。見たままを言っただけだ」

「じゃ、あいつらはどこに行った?」と才機が聞いた。

「さあ。装甲車で来たからその轍を辿れば見つかるんじゃない?」

「轍?」

「そこら辺にあるだろう」

才機は家の中に行った。

「もしかしてこれで二人の居場所が無くなって、また誘おうと思ったが彼は今気を取られてるみたいで俺の話を聞きそうもない。じゃ、ね」

まもなく才機が戻ってきた。

「あいつは?」

「行っちゃった」

「やはりケインの研究データが無くなっている。あれが目的だったんだろう」

「でもなんで今さら?ケインがここにいるって事知らなかったはずだし」

「クレイグ博士は無関心だったから彼が喋ったと思わないけど、どういうわけかケインと俺に関係があると感付かれて後を付けられたとしか思えない。研究室に盗聴器が取りつけられてるかも。くそ!俺のせいで」

二人はしばらく押し黙っていた。

「俺···ケインの研究データを取り戻す」

海は才機の顔を見て分かった。説得して考え直させるのは無理。だから何も言わずに黙った。黙って付いて行った。


    • • •


車の跡を辿っていると二人はまたドリックに来る事になった。町に入れば車の轍はないが装甲車には大抵の人が気付く。ちょっと聞き込みをしたら装甲車が容易に見つかり、小さな酒場の前で止めてあった。才機が酒場のドアまで歩いて行くと店員に迎えられた。

「お客様、申し訳ありません。当店は現在貸し切りでございますが、後ほどまたいらっしゃって頂けまれば喜んでお持て成し致します」

海は才機の腕を引っ張って離れた所へ連れ去った。

「まさかここで何かを始める気じゃないだろうね」

「いや。ちょっと連中を見てみたかっただけ。町を出よう。メトハインへの道で奴らを待つ」

やがて酒場での飲み会が終わって近衛兵達はメトハインを目指して出発した。そしてドリッキを去ってから五分後。

「隊長、前方に誰かが道を遮っているようです」

「ん?あれは···車を止めろ」

才機の三十メートル先に装甲車が止まって、ルガリオ隊長とその手勢が降りて腕組みをしている才機の所まで歩いて行った。

「おい、邪魔だ!何者だ、お前は?」と兵士の一人が問い掛けた。

「ただのしがない異能者だよ」

「何だと?!」

「彼の言った通りですよ。あそこの女の人は知らないと思いますが」とルガリオは道端の方でちょっと離れていた海をちらっと見てからまた才機に注目した。

「私の事を覚えていますかね?」

「顔はね。でもそんな事より、なんでケインを殺した?」

「ああ、フォグリ博士への案内ご苦労でした。君のお陰でずっと捜していた物をようやく奪回出来ました」

「それなんだけど、返してもらう、ケインの研究データ」

「返すだと?あのデータは元々帝国の物です。それに君にとっては何の価値もないと思いますが」

「ケインはそれがあんた達の手に渡って欲しくなくて持ち出したんだ。俺もそれでよかったと思う。今直ぐに返してもらいたい」

ルガリオは笑った。

「実は見たところ思ったほどあまり役に立ちそうにないんです。そんなに欲しければ差し上げてもいいでしょう」とルガリオは装甲車の中から封筒を出して才機の方で投げつけた。封筒は才機の後ろにぱたっと落ちて埃が立った。

「どうぞ」

最初は躊躇したが、才機は後ろを向いて封筒を拾おうとかがんだ。

《異能者ふぜいがこの私に指図するなど笑止千万。身の程を思い知らせてやる!》

ルガリオは剣を鞘から抜いて柄を才機の後頭部に力いっぱい振り下ろした。

ガキン!

ルガリオと近衛兵達は全員後ずさりした。無論、才機はこれを予想していた。ルガリオに背を向けると同時に変形を起こしたんだ。何も感じることすらしなかったかのように見せかけてそのまま平然と封筒を拾い上げた。

「やけに軽いですね、これ。あのデータが入っているとは思えない」とルガリオを真っ直ぐ見た。

封筒を投げ捨てて才機はルガリオの胸ぐらを掴んで彼を持ち上げた。

「今日までこんな力があってこれほど嬉しいと思った事はない。非常に気になるんだ。実力行使が通じなかったらお前みたいのはどうするのかな?」

口調こそ本当に興味津々という印象を与えるが、才機のルガリオを目には何の感情を見出せない。

「お、愚か者め!自分の周りはどうなっているかも知らないで。貴様の連れ

は私の部下が捕らえている。私に何かがあったら彼女の命はないと思え」

才機はルガリオと供に全身後ろを向くと海は両方の腕が兵士に掴まれていた。才機は溜め息をついた。

「なるほど。それが答えか。まぁ、別に驚きやしない。お前みたいな卑怯者がやりそうな事だ」

「フンッ!ほざいていろ。今直ぐに降ろせ」

「海、こいつらの遊びに付き合ってやることないよ。やっちゃえ」とずっとルガリオの目を見て才機が言った。

「うわあああああ!!」

二人の兵士は海の体から放たれた風に吹き飛ばされた。ルガリオのうぬぼれた笑顔が跡形もなく消えた。

「人質作戦は失敗だな」と才機が言った。

「己!帝国を敵に回す事はどういう事なのか分かっているのか?!後悔するぞ!」

「お前は目が見えないのか?俺達は異能者だ。既に帝国に嫌われてるよ」

もう一人の兵士は装甲車の方へ走った。彼は中に入ってアクセルを思い切り踏み込んだ。隊長への反動を最低限にする為に装甲車の左角で才機に突っ込もつもりた。

「危ない!」

海は才機に警告したけど才機は横目で装甲車を見て突っ立っただけ。装甲車は高速で才機に突っ込んだ。その結果、鋼鉄の柱に衝突するように装甲車の前部が凹んで右の方に弾かれた。そして才機もまた鋼鉄の柱らしく割とよく踏ん張った。少し前にのめって後ろから誰かに蹴られた程度のようだった。才機はもう一つの手をルガリオの頭の上に載せた。

「正直、俺はこの能力にはまだ馴染んでいない。力をどれぐらい入れたら頭蓋骨は割れるんだろう?ちょっと計りたいからゆっくりやろうね」

「分かった!分かった!データをあげる!君、ファイルを持ってこい!」

言われた兵士は装甲車からファイル持ってきて才機に渡した。

「本当はケインを殺した償いとしてお前をぼこぼこにしてやりたいが勘弁してやる」

「殺してない!確かに出た時具合は悪そうだったけど殺してはいない!」

海は歩いてきてルガリオを未だに持ち上げている才機の腕に手を添えた。

「思ったんだけど、ケインに外傷はなかった。多分、この人が殺したんじゃなくて、あの発作が起きて薬を飲めなかった。それで···」

「でもこいつらが原因ってことに変わりはない」

才機はルガリオを数秒見てから落とし、二人はもと来た方向に歩き始めた。

「あ、そうだ」と数メータル離れたところで才機が言って体をルガリオ達に向けた。

「俺達をぽかんと見とれている暇があるなら、運転手の生死を確認したほうがいいんじゃない?動いていないみたいけど脳震盪で済んでいればいいドリックで診てもらったら?」と、才機は装甲車の残骸を指差して海に追い付いた。


    • • •


「取り返してやったぞ」と才機はケインの墓場の隣の土を軽く叩いた。

「大分深かったけど、そこに埋めて大丈夫?彼らに見つからないの?」

「ケインが死んだ今、もうここには用はないはず。それに向こうは俺達が持っていると思っている。大丈夫だろう」

しばらくしたら才機は家を見た。

「ここにいるのは今夜で最後にしよう?」と才機が言って家の方へ行った。

「才機、あんた前から少し左足を引きずって歩くようになったけど、やっぱりあの時、効いたんじゃない?」と海はま眉をひそめた。

「平気よ、これぐらい」

「なんで避けなかった?」

「あいつに心の底から味わって欲しかった。完全な無力さを。おっさんが感じたはずの絶望。それぐらいやらなきゃ気がすまなかった」

「ひょっとして、内心では彼を···殺したかった?」

才機は真意を探るような目で海の方を見た。

「いや、心配するな。心がそこまで闇に落ちた訳じゃない」

海を安心させようと才機は少し笑って見せた。

「なんか、あの人を威嚇していた時の才機の顔、あんな顔を見たのは始めてだから···」

「らしくなかったか?ごめん。もののはずみでつい自分を忘れちまったみたい」

「ううん。謝らなくていい。ケインの敵を討つの才機一人に背負わせたもの。批判されるいわれはない」

「それは違うよ。一人でやりたかったんだ。海をそういうのに巻き込みたくない」と才機は家の中に入った。

今夜は最後というのに二人は何となく散らかった家を片付け始めた。

「やっぱりドリックに戻るの、明日?」と海が聞いた。

「もともとそういう計画だった。町の様子は普通だったし、もう大丈夫だろう。皆が特に警戒していたようには見えなかった」と才機は釜をかまどの上に戻した。

「うまくいくかな。ドリックも駄目になったら他に行く当てはなくなる」

「いざとなったらここに戻る選択肢はある。でも今は出来るならここを離れたい」

「うん。今までに暮らしてきた家と違うよね」

その夜、中の羽毛が半分床にばらまかれたマットレスを二人で共有して寝た。


次の日、ドリックに赴く前に最後にもう一度ケインの墓標の前で冥福を祈った。それが済んだら才機ほぼ満杯になった雑嚢をひょいと背負って海と一緒に出発した。ドリックに着くと早速就職活動に入った。景気が良さそうな大きい酒場のマスターに人手が足りているか聞いてみる。

「悪いが今は間に合ってる。新入りが二人が入ったばかりだし」

「そうですか。ありがとうございます」と才機が言った。

今は午前中だからそんなに客はまだ来ていない。老人が数人あっちこっち新聞を読んだり、コーヒーを飲んだりしていた。でも内装から判断するなら商売が繁盛しているようだ。

「これからちょっと別行動取ろうか?探す範囲を広く出来る。二人だと雇うのに抵抗がある所もあるかもしれないし」と才機が提案した。

「じゃぁ、後でここで落ち合う?」

「そうね。ニ時間後にこの辺りで合流という事で。もし何か見つかったらもう一人必要ないか聞いても損はないだろう」と才機は手を振って先に酒場を出た。

約二時間経過したら先に帰ったのは才機。店はお昼を食べに来た人で一杯だった。待ち合わせ場所にあった開いているテーブルに座って海を待った。まもなく海が来るのを見ると立って腕を振った。

「やっぱりどの世界でも人生は甘くないな。初日にそう簡単に仕事を見つけられると思ってなかったけど。海はどうだった?」と海が席につきながら才機が聞いた。

「一つだけ、仕事が提供されたけど···」

「え?やったじゃん!何の仕事?」

海は目を逸らして赤面した。才機は何となく海がどんな申し出をされたか見当がついたのでせき払いをして速く話を進ませた。

「んうん、とにかくくじける事はない。お昼でも食べて気を取り直してまた探そう」

その時、隣で二人の男が飲んでいたテーブルにもう一人の男がついて来た。

「なぁ、また近衛兵が町に来ているぞ」

才機も海も聞き耳を立てた。

「またか?」

「今度は勧誘してるみたいだ」

「勧誘?もう十分間に合っているはずだが」

「ま、勧誘って言っても臨時だけどな。どうやらメトハインで誰かが子供を拉致したんだ。近衛兵がその人をここまで追い詰めて来たって話だ。町の北面の家に立てこもっていて、捕まえるのを協力してくれる人を募集してるってわけだ」

「たかが誘拐犯を捕まえるために?近衛兵も地に落ちたもんだな」

「それが、相手は異能者って噂だ。それに家には色んな罠が仕掛けてある。六人のうち二人は既に負傷したそうだ」

「罠?」

「ああ。人様の家に侵入した訳じゃなくて、本人の家らしい」

「へー。北面の住居といえば金持ちばっかりじゃねか」

「誰かに援軍を要請に行かせたんだけど、子供に何かが起る前に出来るだけ早く救出したがっている」

「それで捨て駒が欲しくなった訳だ。めでてぇ話だ」

「せめてただでやってくれとは言ってないみたいけど。罪人が閉じこもっている部屋への道を確保した者に十五トレイキ、その上で検挙するのを手伝ったら二十トレイキ」

「坊主には悪いけどやらねぇよ。金があっても命がなきゃ意味ないや」

「もし死ななくてもどうせそのお金は医療費と入院費の足しになるのが落ちだ」

才機の目が海の目に向いた。二人は一言も交わさなかったが、顔の表情を通じてこういう会話をした。

「聞いたか?」

「まさか、やるの?」

「やる」

才機は椅子から立ち上がって酒場を出た。海はその後について行った。

「いい?無茶はするなよ。罠は大丈夫だろうけど、その異能者とやり合ってやばくなったら近衛兵に任せておいて」と海が言った。

「分かった。でも大丈夫な気がする。そんなにやばい相手だったらちゃっかり罠の向こうで隠れてないと思う」

「だといいが」

北の方に行くと確かに家からはもっと豪華な感じがしてくる。どの家も大きくて二階以上あって塀を巡らせてある。この拉致事件はどの家で起きているのかは誰かに聞くまでもなかった。正面に傍観者が雑踏している家に違いない。その家の表玄関の所で四人の兵士は人が近付き過ぎないように群衆を制止していた。才機と海はその人波を押し分けて近衛兵の前に出た。

「だからここから先は立ち入り禁止だ!」

「違う、俺達はこの件の加勢に来たんだ」と才機が言った。

「お前が?」と兵士が頭からつま先まで才機をよく見た。

「ほとんど子供じゃないか」

「腕には自信がある」

「これは遊びじゃないんだぞ。中には色んな危険な罠が仕掛けてある。俺達はもう二人が酷く怪我されている。下手をすれば死ぬよ」

「危険は重々承知している。任せて下さい」

「言っておくがあいつが閉じこもっている部屋まで辿り着けないと報酬は出ないよ?」

「分かっている」と才機が言って、海と一緒に家の方へ歩いた。

「レイナドの装備を持ってきて」とさっきの兵士が仲間に指示を出した。

才機は家の三メートル前で止まって家を見上げた。

「どう?どこにいるか大体分かる?」と才機が海に聞いた。

家をしばらく見てから海は答えた。

「二階。こっち側の角」

「角部屋か···今度は海にもやってもらいたい事があるかも」

まもなく上半身を守る為の防具と兜を持って兵士が才機の所へやってきた。

「多少大きいだろうけどこれを着けておいて。何もないよりはましだ」

才機には特に要らなかったけどこういう状況で断るのも可笑しいので取りあえず着けておいた。

「最初の二つの罠はもう作動したから鉄球の所に行くまでは心配ないかと思うが、その先に何が起こるか分からん。くれぐれも気をつけてください」

才機はドアを開けて敷居をまたいだ。真っ先に目を引いたのは直ぐ目の前の、間に一メートル強置かれた二つ飾ってあった鎧。その鎧は向かい合っていて、右の方は胸部分の前に剣を上方に真っすぐに持っていた。だが左の方は剣を横から振った後の体勢になっていた。そして刀身には赤い血痕がついていた。一人はこれにやられたな。再作動するように仕組んでいないみたいけど、一応二つとも押し倒してから奥へ進んだ。三人の兵士は家に入って、入り口で様子を見ていた。次に目に止まったのは階段の手前で天井から鎖にぶら下がっている鉄球。バスケットボールの二倍の大きさで、まともに食らったらたんこぶでは済まない。海によると犯人は二階にいるらしい。ひとまず二階に上がろうと思って才機は部屋の中央にある階段の手すりに右手を置いて最初の一段を踏んだ。するとその段が少し凹んで、階段の左側を形成する壁にあった四つの小さなハッチが開いて、それぞれに隠された銃口が姿を現した。階段の方に向けられた四つの銃が一斉に発射して煙を立てた。見ていた兵士は、またしても犠牲者が出たか、しかも早過ぎると思っていたところで驚いた事に才機はまだ立っていた。

「なんて運のいい奴だ。全部外したか?」と兵士の一人が言った。

もし誰かが確かめようと思ったんたら、反対側の壁に三つの穴しか開いていない事が分かる。二つ目と四つ目の間に開いているはずの穴はない。その弾はつぶれていて床のどこかに落ちていた。才機は銃を一つずつ抜き取って無造作に床に放り投げた。

《なんだこの家は?今度はお約束のでっかいとげとげ鉄球でも階段に転がり込んでくるのか?》と思いつつ才機はその階段を上った。

そして最上段に辿り着く寸前に踏んだ段がまた凹んじゃった。自分の予感が的中すると思って身構えたけど鉄球はとげとげのも、滑らかなのもすら来なかった。代わりに、目の前に来たのは二階の床からぱっと出て来た三つの小型クロスボウが放った矢だった。三本のうち、真ん中の二本目が才機の胸に命中した。

「おい、大丈夫か?」と兵士の一人が大声を上げた。

「ああ、平気」と才機は二本の矢を防具から引っこ抜いて投げ捨てた。

「浅かったか。あの防具を渡しておいてよかった」

本当はその防具がやすやすと貫かれた。

遂に二階に辿り着き、右に曲がって割と狭い廊下に入った。そして六歩も歩かないうちに、天井の仕切った部分から両刃鎌の振り子が落ち、弧を描いて才機に向ってくる。反応する時間が殆どなく、もろに胃に受けた。才機は自分の胃に当たった刃を見てから上を見てどういう仕掛けかを確認した。分かったところで鎌の振り子の後ろから出て先へ進んでまた右に曲がった。才機を見失った兵士達は階段を上がって廊下に入った。背中を壁にし、横歩きしながら惰性でまだ少し前後に揺れている鎌を慎重に通り過ぎた。

「かわしたのか、これ?」

「凄い反射神経してるんだ、彼」

才機が右に曲がるのを見た三人はまた追い掛ける。本人は今廊下の突き当たりにある分厚そうな鋼鉄の扉に向っていた。その扉の覗き穴が開いて、誰かの目が廊下を覗いた。

「あれかな、誘拐犯が立てこもっている部屋。よし、これからは我々が犯人の確保に移る。行くぞ」

三人とも才機に追い付けようと廊下へ進んだ。だが次の瞬間、その意気込みと供に才機の姿があっという間に消えた。兵士達は立ち尽くしていた。目の前で圧搾機みたいに天井が凄い勢いで落ちた。こうして見ると、落ちた天井の部分の正体は厚さ六十センチの鋼鉄厚板だと分かる。その厚板はそれに見合った太いピストンに繋がっていて、ピストンに結び付いている沢山のでかいケーブルが天井の奥から吊るされている。厚板と床の間に一センチの隙間もなかった。才機は完全に粉砕された。

「なんて悲惨な最期だ。直ぐそこだったというのに」

「くっそ!あれをどうしのげって言うんだ?!」

次の命知らずに挑戦するようにその大きい圧搾機はゆっくりと上がり始めた。顔を半分背けながらも兵士達はグロテスクな光景を目の当たりにする覚悟をした。

「ちょっと」と兵士の後ろから声がしてきた。

誰かが通りたがっているらしい。

「ホキンズは何やってんだ?ここは立入りき」と兵士が言い始めたが、振り向くとそこに立っていたのはぺちゃんこになっているはずの才機だった。

「お前···一体···」とその兵士が才機の屍があったはずの場所を見たら床には卵形の穴しかなかった。

もう一度才機を見るとさらにショックを受けた。よく見ると才機の顔は異常なほどにつやつやしていた。異能者だった。兵士達は道をあけてくれたのか、それとも単に才機から遠ざかったのか分からないけど通れるスペースが出来たので通らせてもらった。圧搾機の手前で止まってさっき落ちた穴の向こうを見下ろした。先ほどは完全に不意をつかれて、いつの間にか一階に戻って尻もちをついていた。才機は兜を取って穴の方へ投げつけてみた。そして獲物を逃さんと天井が一瞬にして落ちてきた。天井が上がると兜は床に埋め込まれていた。立っていられるだけのスペースが出来たら才機は圧搾機の下に飛び込んだ。今度は足を踏ん張って押してくる厚板を両手で受け止めた。それでも片膝つかされた。その膠着状態は数秒続け、才機の下の床板がみしみしと割れる音がして足はちょっと沈下した。ゆっくりではあるが才機は一定のペースで立ち上がり、圧搾機の方がずっと嫌な音をしていた。物凄い圧迫力によって歯車などに重過ぎる負担が掛けられる。最後に大きいな壊れるような物音を立てて圧搾機の断末魔が終わった。厚板はまだ天井から少し突き出ていたが、もう動く事はないだろう。最後の五メートルぐらい罠が仕掛けられていないことを願って才機は再び鉄の扉へ向った。扉の前で止まったら、ずっと覗き穴から見ていた目の持ち主が喋った。

「異能者のお前がなぜ近衛兵の味方をしているか知らんが置き手紙を残したはずだ。この子を返して欲しければ父親が直々に迎えに来るのが条件だ。期限は後十二時間だ。言っておくがこの扉を叩き壊して無理やり入ったら、坊やの安全は保証出来ない。一応人質だからね」

その男は脇に寄って椅子に縛り付けた男の子を見せた。次にナイフを見せびらかして覗き穴を閉めた。

「悪い。許してくれ。許してもらえないだろうけど」と才機が言った。

「別に謝る必要はない。父親をこっちに送ればそれでいい」と扉の向こうから返事が来た。

「いや、あんたじゃなくて、そこの子に言ったんだ」

ガン!

「おい、なんのつもりだ?!」

「何で俺が近衛兵の味方をしているか知らないって言ったな。あんたさえ突き出せばこっちに金が入るんだ。生死関係なくね。あんたのも人質のも。賞金首はそういうもんだ」

ガン!

「ばかな!おどしじゃないぞ。この部屋に一歩でも足を踏んでみろ。死ぬよ、この子」

ガン!

「だから、今謝ったっろ」

ガン!

扉の周りの壁にひびがいくつか入ってきた。

「いいのかよ?!父親さえ来れば解放してやるんだ!お前のせいで殺されちまうぞ!」

ガン!

「いい訳ないだろう。でも俺も必死なんだ。どうしても金が必要だ。そして早くかき集めないと俺と俺の大切な人が殺される」

ガン!

ひびが広がっていく。

《ちくしょう。捕まってたまるか。どうする?またこの子を眠らせて連れ出すか?いや、ここまで連れてくるのは簡単だったけどこんな荷物を引きずって逃げ切れると思わない。異能者が絡んできたのは誤算だった···。仕方ない。ここは作戦を諦めて高飛びだ。事情を説明すれば責められないはずだ》

ガン!

男は子供の後ろの殆ど空の本棚へ歩いた。隠された仕組みをいじって、何かのロックが解除される音がした。本棚ごと右に滑らせたら隠し通路が現れた。男はそこに入って本棚を元に戻すと鍵をかける音が再び鳴った。

ガン!

ガン!

ガン!

才機は左手で扉のかんぬきを掴んで、右手で定期的に叩いていた。それほど本気で扉をぶち壊そうとしている様子ではない。

「よし、そろそろかな。後三発ってところか」

ガン!

ガン!

ここで才機は覗き穴のふたを打ち抜いたた。覗いてみると部屋の真ん中にいる男の子しか見えない。

「行ったか?」と才機は男の子に尋ねる。

男の子は縦に首を振った。それを見て才機は扉ごとを壁から引っ張り出し、廊下に置いておいた。部屋に入って男の子を縛っている縄を解いた。彼のほっぺに湿った筋がついていた。泣いていたのだろう。

「もう大丈夫。あそこの人達はお家に返してあげるから。さぁ、行って」

涙ぐんだ目をぬぐって男の子は兵士達の方へ歩いて行った。才機は周りを見回した。確かにこの部屋に残っているのは彼一人だった。

「やっぱりなぁ」


一方では家の裏側の壁に隠し扉が静かに開いた。そこから出たのは先ほどの男だった。彼は家を巡らしている壁の下の部分の煉瓦を取り外し始めた。

「ふーん、才機の言った通りだった」

男は驚いて声の方へさっと顔を向けた。木の後ろから誰かが出てきた。

「誰だお前は?」といらいらした顔で男は問い掛ける。

「誰って···名前なら海だけど」

「お前の名前なんてどうでもいい。俺になんか用?」

「んーー、ありますね。私の友達はあんたが追い詰められたらひょっとして逃げ出そうとするから、ここを見張って逃げようとしているように見えたら止めてくれって言われた」

「はー?何言ってんだ?俺は今忙しいんだ。邪魔すんな」と男は最後の煉瓦を取り外した。

這って通り抜けようとしたんだけど突然の強風によって二メートルぐらい転がされた。

「お前も異能者かよ?!何しやがる?!」

「だから、逃げないように止めないといけないんだ」と海が少し恥ずかしそうに言った。

「ちぇ、どいつもこいつも。大体海って言うんなら風じゃなくて水を出せっつうの、このあま!」と男がナイフを出して海に突撃した。

「知らないわよ、そんなの!」と威力何倍増して再度の強風を放った。

今度は男が少し浮き上がって後ろから木に衝突し、その際に頭を打って気絶した。海は彼を両腕で引きずって玄関の方へ向って、途中で家の側面で走ってきた才機と鉢合わせした。男を引きずるのに夢中で才機が両手を海の肩に載せるまで気付かなかった。

「どうしたんだ?大丈夫?」と才機が聞いた。

「うん。ちょっとかちんときただけだ」

何が、と聞こうと思ったが、海は何とはなしに不機嫌な顔をしていたのでそういう事にしておいて男の運搬を肩代わりしてあげた。玄関に着いたら近衛兵達は男の子を囲んで質問していた。

「何があった?知っているのかい、君をさらったあの男?」

男の子は首を横に振った。

「外で遊んでたら話しかけてきた。そうしたら僕の顔に息を吐いたら急に眠くなって、起きたら荷馬車に乗ってた。手も足も縛られた」

「何もされなかった?」

男の子は首を縦に振った。

「何で君をさらったか言われなかった?」

また首を縦に振った。

「ふーむ」としゃがんでいた兵士が立って、才機が担いでいた男を見た。

「こいつは後でじっくり尋問しなくてはね」

次は才機の方を見た。才機はただ無表情な顔で視線を返しただけ。その兵士にもう一人の兵士が問い掛けた。

「どうしますか、班長?」

「報酬の件か?まぁ、いいだろう。欲しければ一緒にメトハインまで来るといい」と班長は男の子の背中に手を添えながら誘導して、一緒にその場から離れて行った。

「あの男を連行しろ。後、彼の息が眠りを誘うそうなんで猿ぐつわをはめておけ」

残った二人の兵士は男を預かって連れ去った。表玄関での人込みを通り抜けて全員軍用の車に乗ってメトハインに向った。これ以上見るものはなそうで傍観者は次々にそれぞれの日常生活に戻った。最後に残ったのは車が見えなくなるまでずっと見ていた一人の女性。その女性は先ほどの騒動の根源であった家の敷地に入って木に背中をもたれ掛かった。そこで腕組みして目を閉じた。

《作戦失敗です》

どこかの暗い洞窟みたいな所でその言葉がある男の頭の中で響く。その男は岩の上で座っていて顔をしかめた。

《失敗?どういう事だ?》

《さっきまで全ては計画通りでしたが、近衛兵を援助しに来た二人組が現れて、その後ディグルは逮捕されました》

《なんだそれは?後二人が近衛兵の助っ人に入った所で何が変わるって言うんだ?!》

《申し訳ありません。ずっと外から見ていたので詳しい事は何とも言えません》

《ったく。こんなチャンスは二度と来ないよ。今後は父親と同じぐらいに厳重に護衛されて近付けなくなる。父親は研究課のかなりの大物だ。皇帝にも直接に合っている。最近の研究の状況とか、王宮の設計とか、色んな貴重な情報を聞き出せたのに》

男は大きくため息をついた。

「どうかしたか?」と後ろで立っていて鎧に覆われた男が聞いた。

「しくじったそうだ」

男は目を閉じてまた女性に思いを馳せた。

《ディグルはメトハイン刑務所に連れて行かれるだろう。そうなると脱獄させるのは至難の技だ。もし俺達との関係が暴露されて本拠地の所在を吐かせたらまずい》

「報告か?」と女性に声がかけられた。

女性は急に目を開けて左へ見た。フード付きのローブを纏っている男が直ぐ側に立っていた。

「なんだ、ディンか。誰かと繋がっている時は話しかけるなって言っただろう。リンクが切れちゃったじゃない」

「そのリンクとやらをまた繋げればいいだろう?それに報告なら伝えってもらいたい事がある」

洞窟にいる男は頭の中にまた声が聞こえた。

《デイミエン様、もう一つ報告する事が》

《様は余計だといつも言ってるだろう》

《はい。どうやら近衛兵に加勢した二人はラエルがディンに指図した監視の対象だそうです》

《···》

《デイミエン···?デイミエン様?》

《かくも大きな目の上のこぶになるとは》

デイミエンは右手に頭を抱えた。

《これ以上のさばらせる気にはなれん。三回目はご免こうむりたい。残念だが勧誘は諦めてもう手を打つしかない。以下をディンに伝えて···》


    • • •


約一時間後、メトハインに着いた。長い一時間だった。どうも気まずくて、誘拐犯が気が付いて騒ぎ出した時の兵士の「黙れ!」の一言以外、出発から到着まで車の中で言葉は一切交わされなかった。車は市門の近くで速度を落として停止した。

「悪いがここで待っていてくれる?」と班長が言った。

異能者がいてはならないこの都市だから当然といえば当然だ。才機と海は降りて、門番と二人きりにされた。気まずさ続行。暫くしたらもっと小さな車に乗って先ほどの兵士の一人が戻ってきた。

「陛下は是非お二方にお会いしたいと仰るので、報酬は直接お渡しになるそうです」

才機は右の眉を上げた。

「なんで皇帝が私達なんかに会いたがっているの?」と海が聞いた。

「お礼を仰りたいのではないかと。詳しい事は伺っておりません。班長にお二方を連れてくるように命令を受けただけです」

才機は指一本でこめかみを掻いた。

「海はここで待ってて。俺一人で会いに行くから」

「お二方ともを連れてくるとの命令ですので」と兵士がその名を復唱した。

「そうやってまた一人でで背負い込もうとして。付いて行くよ」

「では、乗って下さい」と兵士が指示した。

二人はそのジープの後ろの席に乗って市門をくぐった。


「相変わらず凄い町だね」と海が言った。

「まあ、ね」

「ここだったら仕事にありつけそうだ」

「多分な」

「もののついでにゲンが言ってたモモソースのはちみつパンを食べられるかな?」

「さあ」

「どうしたの?さっきからなんか考え込んでいる見たいけど」

才機の目は前で運転している兵士に行った。

「別に」

海は才機に耳打ちした。

「皇帝は異能者の味方じゃないのは分かるけど、子供を助け出して誘拐犯を捕まえた事を切っ掛けに私達をいきなり投獄したり処刑したりしないだろう。本意が分からないが、お礼と報酬だけ受け取って帰ればいい」

「そうね」

都市の中心であるあの真っ黒の塔に着いたら、兵士がエレベーターまで案内すると言った。塔の扉を開けて三人が入ったら中をまだ見ていなかった海だけがその兵士の数で少しひるんだ。まさか、いきなり待ち伏せして捕らえる気じゃないだろうなと思いつつ海は二人の後に付いてエレベーターに乗った。そのエレベーター自体はそんなに速くはなさそうだが、それにしても随分と長い間乗っていた気がした。何階まで上がったのだろう?途中で空気圧の差の急な変更で耳がちょっとだけ詰まった。エレバーターがようやく止まると、目の前はかなり短い廊下と皆の三倍の高さの扉。見張りをしている近衛兵も二人。案内してくれた兵士が一人で扉を開けたのが何とか凄い力技に見えた。

「どうぞ」とその兵士が手で合図した。

二人はその広い部屋に入って真っ先に気付いたのは部屋の最も奥の部分でそれぞれの玉座に座っている二人の人物。左に男の人、右に女の人。皇帝と女帝。内側でも扉を見張っている近衛兵が更に二人。部屋の右側で侍女が三人エプロンの上に手を持って並んでいた。皇帝の右手の方向に部屋の真ん中で偉そうな人が立っていた。大臣でしょうか。突然、海が変な気持ちになった。なんだか回りが非常に気になっていたが、その人は二人に呼び掛けた。

「お待ちしておりました。陛下はお二方ともと話をなさるそうなので、どうか近付いてくれ」

才機と海はその人が立っている所まで行って、玉座が設置されている段の前に止まった。皇帝は機嫌が良さそうだ。それに比べて女帝は全く無関心のようだ。才機達をろくに見もせずに退屈そうな顔をしている。謁見なんて初めてで、どうすればいいかよく分からなくて、才機は取りあえずお辞儀をした。海も同じようにした。

「救助隊の班長から聞きました。どうやら我が兵があなた方の世話になりました。大儀でありました」

「いいえ、旅の途中でたまたま通りかかったので及ばずながら首を突っ込んでしまいました」と才機が言った。

「大変謙虚な方ですね。救助隊はもう打つ手はなかったそうです。それなのにそなたは単身でさらわれた子供を救出出来ました。大した偉業です」

「わたくしどもにはもったいなきお言葉です」

「そなたは自分の体をどんな攻撃も通じない無敵な鎧に変えて、すさまじい腕力を発揮すると聞きました」

「無敵までとは言えません。あの状態でも実際に怪我を負った事があります」

「まことであるか?なるほど。そして、」

今度は海を見た。

「そこの娘は風を自由自在に操れるのですね?」

「まだ自分の力に不慣れですが」と海が言った。

「実に興味深い。よかったら見せてはくれませんか?老人への余興だと思って賜れ」

「お安いご用です」と海が言って、そよ風を部屋の中に漂わせた。

「ははは、愉快、愉快。暑い日にはさぞかし気持ちいい物でしょう」と皇帝が言って才機に向いた「では、そなたは···そうですね。そこの二頭の虎が戦っている石像があるでしょう?あれは相当な重量です。持ち上げてみなさい」

「陛下!あれは凄く高価な品です!もし傷でも付いたら」と大臣っぽい人が抗議した。

「良いのだ、良いのだ。自分の目で見てみたい。なんなら大臣をジャグルリングしてもらおうか?」

「い、いいえ、それは···」

「なら異存はないな?」

「よろしいですか?」と才機が聞いた。

「どうぞ、どうぞ」と皇帝が手振りで示した。

才機は変形を起こして皇帝が言った像の隣に歩いた。

「ほ〜。なんと神秘な。本当にガラスみたいですね」

近くで見ると本当に立派な像だった。緑がかかった乳白色の翡翠。物凄く手の込んだ一流の細工品。しかもでかい。トラは本物より二倍の大きさ。その口を全開に開いた二頭の猛獣が後足で立って、互いに突っ掛かっている。巨大の像だけあって、支えとなったいる土台も厚くていかにも重そう。こんな重い物を持ち上げるのは初めてだ。正直持ち上がられるかどうかは分からない。もし本当にそれほどの力があってトラの足を掴んで持ち上げた場合、石像の重量で折れそうなんで、才機は像の横に回った。そこで膝を曲げてぎりぎりで両腕を土台の端に巻き付けた。大きな息を吸って才機は立ち上がった。あんなに力んだ割には意外と簡単だった。とは言え、けして余裕ではない。いつまでもこんな物を持ち上げたくはない。

「なんと!聞きしに勝る強さ。本当の事を言うと無理を頼んでいるとつもりでした。絶対にてこずるばかりと···」と皇帝が目を広げていた。

「むう降ろしても構いませんか?」と才機が聞いた。

「そっと、そっとね」と大臣が懸念溢れる声で言った。

こんな素晴らしい石像を壊すのはもったいないなという事は芸術がよく分からない才機にでも理解出来る。音を殆どせずに石像を元に戻して海がいた所に戻った。

「様々な異能者の能力について聞いた事はありますが、戦闘能力に関してはそなたのがまことに優れています。シンプルではあるが効果的。二人とも···なんと申すか?」と皇帝が問い掛けた。

「才機と申します」

「海と申します」

「では才機殿、海殿、こんな話を知っていますか?西にあるアラニアを焼き払おうとした異能者が現れ、その異能者を撃退し町の人の命を救ったのはまた異能者。肌を輝かせて極まりなく熱い紅蓮の炎に耐え、素手で落ちる大木を受け止めたという」

「はあ」

「その異能者とは、もしや他ならぬ我が目の前にいるそなたでは?」

「多分、そうです。こんなに話題になっていたとは知りませんでしたけど」

「まぁ、悪事は千里を走るなら善事は猛追してくるものだということ。そして今度は異能者にかどわかされた子供を助け、犯人も見事なまでに捕まえてみせる。異能者が異能者同士と対立してこんなに普通の人間を助けるとは希有な事です。何か事情でもありますかね?」

「いいえ。適材適所というやつです」

「ふーん、なるほど。実を言うとね、国民はこういう残虐行為を頻繁に受けています。その殆どはリベリオンという暴力団が行なっています。聞いた事はありますか?」

「記憶にはあります」

「アラニアでのならず者もレビリオンの一員でした。罪人の尋問はまだですが、恐らく今回の事件もあのやからの仕業です。誘拐された子供の父親はここの研究課の重要な人物です。彼らの目的は彼が持つ機密情報かと思います。このメトハインにも強襲してきた事がありますよ。幸いに何とか追い返せたのですが、こっちにも被害が多くて。本当に弱っています。そこでだが···」

《もしかして···》

「そなた達のような有徳の方々がリベリオンの対処に尽力してくれればどれほど心強いことか。彼らのアジトを突き止め次第、攻勢に出たいと思っています。その時はそなた達の支援を当てに出来ないでしょうか?」

《そういう事か》

「恐れながら、わたくしどもはもめ事になるべく関わりたくないと考えておりますので、出来れば遠慮させていただきたいのですが」

「もうかなり関わってきたのでは?」

「アラニアでの事は···ただの気まぐれでして、大した意味はありませんでした。そして恥ずかしながら今回は専ら金目当ての行動でした」

「もちろん、ただでとは言いません。それなりの待遇を約束します。この王宮に居住権も与えましょう」

才機と海はちょっと目を交わした。

「陛下は寛大過ぎて光栄です。でもやはり、好き好んでいざこざに関与しようと思えませんので、わたくしどもの参加しないという勝手な決断をどうか許して下さい」と海が頭を下げた。

皇帝は髭をさすって二人を注視した。

「皇帝になってから色んな人を見てきました。人の本心を多少察知出来るようになったと思っています。この部屋に入ってから二人は何かしら落ち着かないような気がします」

才機と海は何も言わなかった。

「何か気にかけている事でもあるのではありませんか?遠慮なく言ってくれ」

才機は頭の中で何かを思案しているように見えた。

「自由に申し上げてもよろしいですか?」

「なんでも申すがよい」

「先ほど申し上げた事は全て事実です。···但し、最初から気になったのはなんで皇帝がわたくしどもにこんなに好意をお抱きになっているかです」

「それはもう、多いに力になってくれているから」

「ですが···ご存知ないはずがありません。陛下の隊長の任務を妨害したのも私だという事」

皇帝は驚くようにぐいと頭を引いた。

「その証拠に海の能力についてご存知でした。今回の事件で海の力を目撃したのはその力を受けた本人だけです。つまり、突き出した誘拐犯です。その誘拐犯の尋問がまだだと仰るならその事を知りようがありません。となると、海の力がご存知だったのは当然隊長から報告をお聞きになったからです」

「はは、少しばかり失敗したようですね。そう、その話はあまり持ち出したくなかったがそれについても知っています」

「その割には随分と上機嫌のご様子ですが」

「信じがたいかもしれませんが、我はそんな命令を出していません。何故ならばフォグリ博士の研究データはもう必要ありません。我が研究課は順調にはかどっています。ルガリオ隊長は独断で行動していたに過ぎません。その為に彼は今重謹慎を命じられています。故フォグリ博士とはいくぶん親しくなったそうです。 ご愁傷様です」

「そういう事でしたか。疑って申し訳ありませんでした。しかし、それでもやはり、余計な争いに片棒を担ぐのを差し控えたいのでどうかご容赦ください」

皇帝は小息を吐いた。

「そこまで申すならこれ以上押し付けません。得難い人材ですが、不本意ながら諦めるとしましょう。さぁ、約束した報酬をもらいにくるがよい」

才機は皇帝が座っている玉座に行って、コインが一杯入っている袋を受け取った。近くに来た途端に、それまで客人に対して冷淡だった女帝に凄く熱心に睨まれていたような気がした。あまりにもどぎまぎさせらて、まともに見返す事が出来なかった。

「では、わたしくどもはこれにておいとまします」と才機が皇帝にお辞儀をした。

「もし気が変わったらまたいつでも訪れば良い」

才機はもう一回お辞儀して海と一緒に大広間を出た。そこまで案内してくれた兵士が廊下で待っていたようです。

「市門まで送りします」

エレベーターに入ったら海が言った。

「うまくいったんじゃない?」

「うん。考え過ぎだったみたい。ま、何はともあれ、しばらくの間は安心出来るかな」と才機がコインが入った袋を持ち上げた。

皇帝がいる部屋の裏の扉が開いて、人が出てきた。その人は皇帝の玉座の後ろへ回った。

「よろしいのですか、陛下、野放しにして?」とルガリオ隊長が聞いた。

「よい。確かに抱き込めるならそれに超した事はない。毒を以て毒を制するのが一番だからな。しかし我が物にはならないのならせめて牙がこっちに向かないようにするのが得策。あれじゃ地下牢に放り込んでも意味はあるまい」

「はっ」

「フォグリ博士のデータがあれば役に立つのは間違いないが、研究課が順調に進行しているというのは嘘ではない。あれがなくてもやっていける」

才機と海は王宮を出たら案内人が車を持ってくると言って二人をそこで待ってもらった。暫くしたら才機と海は案内人が持ってきた車に乗って市門まで送られた。

「ドリックまでは結構距離あるし、また黄金原オアシスに止まるか?」と才機が聞いた。

「んー、そうね。今回は気を使ってもらわなくてもいいね」

二人はメトハインを出て黄金原オアシスに行く道へ進んだ。

「それにしてもあんなに敬語を使わされたのは初めてだ。疲れる」と才機が言った。

「本当に全然才機らしくなかった。あんなに緊張していなかったら笑いを堪えられなかったかもしれない」

「いや、お前だってさ」

「お待ちください!」

才機と海は急に後ろから来たその呼びかけに振り返る。女の人が二人の方に走っていた。しかも見覚えのある女の人。さっきの大広間にいた侍女の一人だった。

「私は女帝に仕える者です。伝言を預かっております。是非女帝の馬車を使ってドリックに帰ってくださいとの事ですが、応じて頂けますか?」

「女帝が?まぁ···こっちとしては助かります。ね、才機?」

「う、うん」

「では、申し訳ございませんが少々ここで待っていて下さい。馬車は後ほど来ますので」と侍女が言って市門の向こうへ消えた。

「どういう事だろう?女帝はずっと座っていて一言も喋らなかった。私達に全然興味なかったと思った」と海が言った。

「そういや、金をもらいに行った時、女帝にすんげぃ睨まれていたような気がした」

「そう?んー、よく分かんないけど、これで歩かずに済みそうだ」

五、十分ぐらい待っていたら馬車が市門をくぐって二人の方に向ってきた。

流石は女帝の馬車だ。今まで見たそこら中の馬車より出来が違い過ぎる。それを引いている二頭の馬もたくましい。馬車が二人の隣で止まった。

「どうぞ、お乗りくださいませ」と御者が言った。

才機は馬車のドアを開けて馬車への段を踏んだ。そこで見た二つの物にびっくりして体が急に止まった。最初に目に入ったのは色んな豪華そうな食べ物が馬車の中央に設置されたテーブルの上に並んである様。二つ目は後ろの座席に座っている人物。女帝だった。

「さぁ、上がってください」と女帝が言った。

才機は戸惑いながらも前の席に座って、後から入った海は才機の隣に座る目に同じようなリアクションを見せた。中は結構広々としたていたから後一人が余裕で座れた。御者

はドアを閉めて馬を前進させた。

「あの、わざわざ送って頂き心より感謝申し上げます」と海が言った。

慣れない敬語を使った瞬間に才機の視線を感じて顔がちょっと赤くなった。

「いいんですよ。実は二人に話をしたかったんです」

「話ですか?」

「ええ、たまには旅人の話を聞いて遠い場所の事を知るのも楽しいものです。わたくしのわがままに過ぎないが許して下さい」

「いいえ、とんでもなありません。ただ···それほど聞きがいのある話はないかと思います」

「まぁ、ともかくお腹はすかないのでしょうか?急遽に用意してもらったのでアペタイザーしかないがよかったら好きに食べて下さい。それと、堅苦しいのはなしにしない?ここにはわたくし達しかいないし、その方が気楽に話し合えると思う」

何だか女帝は凄く優しそうな顔で笑顔を見せて、本当に楽な気分になった。

「では、お言葉に甘えて」と海はクラッカーか何かに載せた赤白色のペーストを味見した。

「美味しい、これ!食べてみて」と海が才機に勧めた。

才機は同じ物を手に取ってぱくっと口に入れた。

「ん、本当だ。海の幸ですね、これ。カニかな。もしかしてエビも混ざっている?」

「実はわたくしも何が入っているかあまり詳しくないけど、口に合ってよかったわ。他のも是非食べてみて」

「十種類以上もありそうだし、どれもうまそう。これがアペタイザーならメインディッシュは要らない」と才機が違う物に手をつけた。

「あなた達の旅はどこで始まったかしら?」

「遠い南の方から」と海が答えた。

「遠路はるばるご苦労ですね。それでは生まれもそうですか?」

「はい」

「そうですか?あんな遠くから来て、随分と旅慣れているんでしょうね」

「まぁ、普通に」

「しかも、若い。何才ですか?」

「十九才です」

「俺も十九才」と才機が指を舐めた。

「ふーん。で、何才まで故郷に住んでいた?」

「えーと。十八才まで」と海が答えた。

「もしかして、兄妹ですか?」

「いいえ、同じ学校に通ったんです」

「そう···なんですか。では、恋人同士?」

ペーストリーにかじりついた才機は噛むのを止めて全身動かなくなった。

「あぁー、いや···そこまでは行っていない」と海の瞳は少し才機が座っているの方に行った。

顔は真っ直ぐのままだから才機の表情が見えないし、才機もまたその目の動きに気付いていない。

《そこまで?じゃ、どこかまでは行ったって事?どこまでだろう?》と才機が心の中で問う。

「ここの天気は故郷より暖かいでしょう?辛くない?」

「全然平気です。と言うか丁度いい気候です」と海が言った。

「でも冬は寒いよ。油断すると肺炎にかかる事もあります。でも出身が南の方ならもう慣れているかしら?どんな所ですか、故郷は?」

「えーと。一年中寒いですね。雪がよく振っていて、厚い毛羽のコートか何か着ていないと外に出られない」

《エスキモーか、俺達は?》と才機が心の中で問う。

「それから、えーと···ほら、才機。食ってばかりいないであんたも話しなさいよ」

「え?あぁ、そうね···食べ物はこんなのに比べたら粗食に見えるだろう。 穴釣りをしたり、シロクマを猟ったりして」

《俺もバカだった!》

「まあ!シロクマですか?見た事はないが文字通り真っ白ですか?」

「え、ええ」

「不思議。でも、一応クマですから凶暴なんでしょう?危なくないんですか?」

「子供の頃から訓練を受けるから。それに必ず大勢で猟るのが原則だし」

「そうですか?大変そうですね。じゃ、二人の好きな食べ物は?趣味とかは?」

ドリックに辿り着くまでこんな感じで会話が続けた。特に意義のないささいな話だったが女帝は熱心に聞き入って誠実に喜んでいたようだ。当然、南方の事をあまり詳しく教えられなかったから、結局はほとんどゲンに出会ってからの事を話した。実際に着いたのは三時頃だった。馬車が止まって御者が到着を告げた。

「着いたみたいですね。改めてありがとうございました」と海が礼を言った。

「ごちそうにもなったし、本当に助かりました」と才機も礼を言った。

海はドアを開け、外に出ようとしたが後ろから急に手首が掴まれた。

「待って」と女帝が言った。

振り向くと確かに女帝の手だった。

「あの···よろしけらば、また会ってくれますか?」と女帝の目は海から才機へ、そしてまた海へ行った。

何だかその目が寂しそうで、海は一旦才機を見た。

「私達は暫くこの町にいるから、もしまた会いたくなったらいつでも誰かを捜しに遣わせて下さい。その辺の宿に泊まっていると思います」と海が言った。

「そう?ありがとう。ではお大事に」と女帝は海の手を離した。

二人は馬車から降りて、馬車が元来た方向へ戻るのをじっと見ていた。

「何だったんだろう?」と海が聞いた。

「さぁ。悪い気はしなかったけど」

「うん。凄く優しかったね」

馬車と馬の足音はもうほぼ聞こえなくなった。

「さ、宿を探すか?」と才機が聞いた。

「うん」

二人は町の方へ歩いた。

「それにしてもシロクマを猟る??何考えてたんだ?皆ペンギンも飼ってたのか?」

「仕方ないだろう。ありありと南極の風景を描いたのはお前なんだ」

「だとしてもあんな見え透いた嘘はないだろう!」

「いや、でも···ばれてないと思う」


   • • •


色んな所で値段を比べたあげく、二週間決めで支払うと割引してくれる宿に逗留する事にした。縦四メートル横三メートルの一間で、家具は左壁に添った鏡台、小さな丸いテーブル、二つの椅子、そして三人が丁度入るぐらいなベッド。奥に小さな浴室へ通じるドアが左壁に取り付けられている。そこには四本の脚が付いた古風な浴槽。

「暫くの間はここがお家か」と才機が雑嚢を床に置いた。

「渡された鍵はその一個だけ?下に行って合鍵をもらえないか聞いてみる。ついでに飲み物も買ってくる。女帝のお陰でお腹いっぱいけどのどはからからだ」

「じゃ、その間にトイレを探してくる。この部屋にそれがないのは唯一の欠点」

トイレを探すのに意外に苦労した上、やっと見つけたら取り込み中だった。前からずっと我慢していたのにゴールを目の前にして更にじらされるとはあまりも残酷だ。才機の後ろにもう一人必死そうな男が列に加わった。

《この人に悪いがもうちょっと待ってもらうよ。なるべく早く済ませるから》

何とか耐え忍んで自分の順番が遂にやって来た。用事を済ませてドアを開けると、トイレを完全に出られる前にもう一人待っていた男が飛び込んできた。ぎりぎりだけどどうやら間に合えそう。すっきりしたところで才機は部屋に戻って顔でも洗おうと思って浴室に入った。

最悪の展開。海が入浴中だった。

「きゃーーーーーー!!」

「ご、ごめん!もう帰ったとは知らな···!···ん?」

《海じゃない。っていうか、よく見るとこの人の頭頂部に猫の耳みたいなのが生えている》

「あれっ」と才機は慌ててドアの方へ見て自分の荷物が床にある事を確認した。

部屋を間違っていないようだ。

「いつまでドアを開けてんだよ?!出て行け!大声出すよ!」

「すみません!って言うか、もう出したし」と言いつつ、なんで自分の部屋なのにそんな事言われないといけないと才機が思う。

取りあえず、浴室を出て寝室に逃げ込んだ。考えを整理しているうちに、浴室にいた女の子が出てきた。女の子と言っても海と同じぐらいの年だろう。その女の人は今二枚のタオルを着用していた。一枚は体に巻かれ、もう一枚は頭の上に巻かれた。体を包んでいるタオルは左手が支えている。右手は威嚇的に入浴用の木製ブラシを振るっている。

「てめぇ〜!見たな?!」

泡たっぷりの泡風呂だったのでそうとも言えない。

「いや、見てない!ほとんど。じゃなくて、誰だ?!」

「話をそらすんじゃねぇ、この覗き魔!」

「のぞ···?」

その時、部屋へのドアが開いた。

「ごめん、下でカップに入れるものしか売ってなくて、隣の店でこの二本の」

と、言う事を終えなかった海が目の前の場面を見てじっと立っていた。

「どういう···事?」と体の自由を取り戻した海が二本のペットボトルを鏡台に置いた。

「なんだ?お前はこの変態の仲間か?」

「才機?」

「知らないよ!部屋に戻ったらこの人が風呂に入っていた」

「何それ?自分の部屋みたいに言ってるじゃない」

「自分の部屋だよ!」

「鍵を掛けなかった?」と海が才機に聞いた。

「掛けたよ。掛けたよね···」と才機は記憶を辿ろうとして目が斜め上の方向に行った。部屋に戻った時、鍵を開けて入ったんだけど、鍵が元々開いていたとしたらそのことは気付かないからな。鍵を開けっ放しにしたのかなと思ったら次にお金が入っていたバッグが非常に気になった。

「鍵なんて掛けてなかったよ。って言うかこれはあたし達の部屋だ!」

才機はバッグの中を覗いて、お金がまだ入っていると分かって少しほっとした。

「あたし達?」と海が聞いた。

部屋のドアがまた開いた。

「騒々しいよ、メリナ。一体···」と入ったきた男が先ほどの海と同じ反応をした。

才機には見覚えのある顔だった気がした。

「お兄ちゃん!どこいたんだよ?!」

「どこって、トイレだよ」

《そうだ。さっき中々トイレから出て来なかった人だ》

「それより何が起きてるんだ?そしてなんだあの格好は?!」

「風呂に入ってるところ覗かれたよ!そいつに!」とメリナは持っていたブラシを才機に向けた。

「なにぃぃぃぃぃぃぃぃ?!」と男は才機を睨んだ。

「おい、てめ。俺の妹を覗くとはいい度胸じゃねか。それなりの代償を払う覚悟は出来ているだろうな」

男は羽織っていたマントを少し退かしてその下に忍ばせていた剣の柄に手を付けた。

才機と海は一歩後ずさりした。そして、まだ才機を睨み付けたまま男はもう片手で海を指差す。

「お前の連れの裸も俺に見せろ!」

沈黙。

まだまだ続く沈黙の中で全員が思いも寄らない反応に立ち尽くしている。

部屋の後部からブラシが飛んできた。そして見事に男の側頭部に命中した。

「いってぇぇぇぇぇぇぇぇ!」と男が頭を抱えてしゃがみこんだ。

「バカお兄!そういう問題じゃないだろう!見られたんだよ!あたしの耳···」

さっきの痛々しい場面は演技だったのか、妹の言った事が痛みを忘れさせたのか、はたまた痛みに絶えながらも気を取り直したのか分からないが、男は何もなかったように立ち上がって、今までになかった深刻な顔付きになった。ブラシが頭に当たった時の音からすれば、おそらくは三番目でしょうけど。今度は持っていた剣を実際に抜いた。

「知ってしまったか?でも妹が異形者だって事を漏れさせる訳にはいかない。俺達はこの町で暮らすと決めた」

「ちょっと待って!」と才機が言った。

「元々覗いたお前が悪いんだ。悪しからず」と男が才機達に一方近づいた。

「ここはメトハインじゃあるまいし、異形者は追放の対象になってないだろう?」

「公式にその法律がなくても同じ事だ。妹の秘密がばれたら色んな人に嫌がらせや迫害を受け、どの道この町に住めなくなる。こっそりどこかに連れ去れて殺されないとも言い切れない。普通の人間のままでいられた人に言っても俺達の事情が分からないだろうけど」

「妹の秘密をばらさないよ。だって私達も異能者だもの」と海が言った。

「フン、この状況だから必死なのは分かるけど、そんな見え透いた嘘を信じると思うか?」

「本当だって!」

「じゃ、今直ぐに証拠を見せろ。出来なかったら口封じさせてもらうから」

海は右手を上げて小さな円形を何回も指で描いた。部屋の中の空気が循環し始めた。力の限りに作った竜巻きではなかったがそれでもメリナという女性の頭の上に巻かれたタオルが吹き飛ぶほどの風力だった。急いで巻いたせいでしっかり結び付けていなかっただろう。

「タオルが!」とうっかり手放した風船を手遅れになる前に取り返そうとする子供のようにメリナは両手をタオルへ伸ばした。彼女の頭に生えている耳が今よく見えていて非常に目立っていた。本当に猫のに酷似している耳だった。メリナはタオルの奪回に成功した。その反射神経も猫並みでしょうか。だがタオルを掴んだ瞬間、その急な動きで今度は体の方を包んでいたタオルが落ちた。

「きゃーーーーーーー!!」とメリナが速やかにうずくまって体を落ちたタオルで覆った。

「おい、見てんじゃねぇ!」とお兄さんが才機を戒めた。

「仕方ないだろう!」

「ちょっと見過ぎのような気がするけど···」と海が声を潜めて言った。

「もー!最悪だ!」とメリナは目をつぶって真下の方に顔を向けていた。

「うるさいぞ、お前ら!」と上から足が踏む音と共に不機嫌声が降りてきた。

僅かな沈黙。

「でも驚いた。その猫耳、本物?」と海が聞いた。

「本物に決まってるだろう!偽の猫耳なんて付ける奴どこにいる!?」

「いーーーーーないっ···よね。はは···は」と海は頰を引きつってから両手を後ろに組んでメリナの後ろへ回ってその後ろ姿を興味津々と見た。

「何よ?!」とメリナは海をはたと睨み付けた。

「いや、尻尾も付いているかなと思って」

「付いてないよ!馬鹿にすんな!」

「別にそういうつもりじゃないけど。むしろ、その猫耳だけで日本中の猫キャラ萌えな男は狂喜するだろう···」

「は?」

「あ、いいえ、何でもない」

「ちなみに俺は違うからね」と才機は手を挙げた。

「とにかくこれで分かっただろう?他人に知って欲しくないのはお互い様だ。異能者同士なんだから」

「じゃぁ、彼は?」と男は才機の方を見た。

才機はガラスの姿を取って自分に向けられた疑いを晴らした。

「で、お前は耳が生えてないみたいけど、マントの下に翼も隠してるのか?」と才機が聞いた。

「俺?俺は何の変哲もない普通の人間だ」

「普通かよ?!」

「うん」

「じゃなんで俺まで見せないといけなかった?」

「何となく」

「ああ!」とメリナはいきなり声をあげた。

「思い出した!あんただったのね。見たんだよ、メトハインで」

「は?」と今度は才機が混乱する番だった。

「さっきからどっかで会ったような気がしたんだけどその姿を見て思い出した。メトハインで助けたんだろう?暴徒に攻められていた異能者の少年」とメリナは立って両方のタオルを包み直した。

「あ、ああ」

「やっぱりだ。その時あたし達もいたんだ」

「どうでもいいよ、そんなもん。それより、この事を黙るんなら何もしないから部屋を出ていてくれないか?」と男が言った。

「だから、これは俺達の部屋だって!」と才機が反論した。

「何言ってんだ?ここは一○七号室」

才機は鍵をポケットから出して、その鍵から吊るされた札を男の前にぶら下げた。札に書いてあったのは107。

「え?」と男は驚いて同じく持っていた鍵を出して才機に見せた。

才機は小さなため息をつき、うなだれて親指と中指で額をもんだ。

「あのー、もう一回その札をよく見てもらえる?」

「ん?」と男が手に持っていた鍵の札を見た。

「あ、一○一だった」

「お兄ちゃんのバカ!一○七って言ったからこの部屋に入ったのよ!」

トントン。

誰かがドアをノックした。部屋中に完全な静寂が訪れた。

「あのぉ、すみません。さっきからうるさいとの苦情を承りましたが、大丈夫でしょうか?」

四人ともそれぞれに目を交わした。

「はい、大丈夫です。以後気をつけます」と才機が言った。

それで納得したようで様子を見に来た人が帰って行った。

「ほら、起こられたじゃないか?」と才機が言った。

「元はと言えばあんたが覗いたのが原因だ」とメリナがすねるように言い返した。

「部屋を間違えたお前達が悪いだろうが?!」

「細かいなぁ。お陰でいい物見えたから文句言わないの」

「な、こいつなぁ!」と才機が苛立ちで何かを握り潰したがっているような手をメリナに向けた。

「ほら、才機、静かにしないと」と海が言った。

「一番でかい声を上げてるのはこいつなんだけど。二回も」

「それで済んだのを感謝しなさいよ。女であるあたしがぶん殴っても許される状況なんだから」

「お前どれだけ理不尽なやつだ?」

「まあまあ諸君、ここでいがみ合っても何も解決しないんだ。メリナ、さっさと着替えてこい。風引くぞ」

メリナは反抗的な態度を直して素直にお兄さんの言う通りにした。浴室から出てきた時、耳はまた隠してあったがタオルではなく、バンダナをかぶっていた。

「迷惑をかけたな。俺達はもう自分の部屋に行く。おい、メリナ、お前も謝っとけ」

「わ、悪かった」

どっちかと言うと才機達じゃなくてベッドに謝ったように見えたけど、誠意は一応込めていたみたい。

「さ、行くよ」と男はドアを開けて部屋を出た。

メリナも後についた。

「とんだ災難だった」と二人になったら才機は大手を広げて後ろにベッドに倒れた。

「本当はちょっぴり嬉しかったんじゃない?」

「ぬかせ。あんなじゃじゃ馬と会うのは二度とごめんだ」

「ふーん」と海は雑嚢を開き、色んな物を取り出してクローゼットと鏡台の引き出しにしまい始めた。

「宿代だけに使えばもらったお金は一ヶ月ちょっとは持つ。明日から就職活動の続きだ」と才機が言った。

「何かのコネがあったらいいのに。どうも見つかる気がしない」

整理が終わったら海はもう一回部屋を見回った。

「悪くない部屋ね。テレビぐらい欲しいけど」

「確かに暇だよな」

「自分の部屋で勉強したい、なんて思う日が来るとはね。もし帰れたら毎日必ずまじめに勉強すると誓う」

「勉強かぁ。今となってはそんなに面倒くさく思わない」

「他の皆は今頃何をしてるかな。私達が急にいなくなって心配してるかな。お母さんは大パニックだろうな」

「俺の両親は多分気付いてもいないだろう。大学に入ってから連絡は滅多に取り合ってない」

「両親とあまり中が良くないの?」

「そうでもないさ。最初は隔週の日曜日に電話で話してたけど、なんか、こっちは元気でやっているみたいから、そんなに心配しなくてよくなった。大事な事がある時だけに電話するようになった」

「信頼されてるんだ」

「ま、ね」

「でも柔道部の皆はきっと部長がいなくなった事でうろたえてる」

「どうだろうな。さきと綾子は俺達が駆け落ちしたって噂でも流しているんじゃない?」

「ありうる」と海が鼻で笑った。

「っていうか、学校を休み過ぎると除籍されちゃうのでは?」

「もー、わざわざ言葉にする事ないよ、そんなの。余計に悲しくなるだけだ」

「でも分かんないよ。もしかして、テレビみたいに元の世界に戻ったらいない間に止まっていた時間がまた動き出したりして」

「そんなに都合のいいものなのかな。違うような気がする」と海が才機の隣に座った。「もう一ヶ月以上経つよね。一ヶ月。皆に会いたいなぁ。やっぱ才機は強いね。ここに来てから弱音一つも吐いてない。まさか気に入ったとか、この世界?」

「俺だって帰りたいさ。ここは苦労ばっかりだ。楽しみにしていたゲームがそろそろ発売されるはずだし」

「ゲームかよ。こんな状況で会いたい人くらいいるだろう?」

「ここに来るちょっと前に実家に帰ったから暫くの間は親に会いたくなる事はないだろう。それほど親しい友達もいないし。会いたい人は一人ぐらいいたかもしれないけどその人は今···」

「ん?今?」

「いや、なんでもない。ね、完全に暗くならないうちにこの辺りの下見をしてみない?明日仕事に応募する所を探しておく事ぐらいは出来る」

「そうね。どうせ他にやる事はないし」

そう決めて二人は部屋を出た。

「今度はちゃんと鍵を掛けてね」

「掛けます、掛けます」


    • • •


昨日はあっちこっち歩いて何箇所に目を付けた。今日はそれらの所、そして駄目だったら他の所でも尋ねてみる。だが先立つものは朝飯。八時半ぐらいに起きて顔を洗ったら一階で何かを頼みに行く。部屋のドアの鍵を掛けた時、左斜め向かいの部屋のドアが開いた。朝っぱらから文字通り、この世界で一番会いたくない女の人が出てきた。

《げっ。最悪のタイミングだ》

お互いなんか知らないふりをしてたけど、直ぐ後からお兄さんも出てきた。

「やぁ、諸君、おはよう」

「おはよう」と才機が挨拶を返した。

「昨日の事は悪かったな。俺達はこれから朝飯食べに行くんだ。お詫びにおごるけど、どう?」

「え、いいの?」

「いいぜ、朝飯くらい。ただあまり注文過ぎないいでくれ。一人人皿な?」

四人は下に降りて四角形のテーブルで席に着いた。兄妹の二人は斜交いの席に座っていて、才機はお兄さんの向こう側に、海はメリナ向こう側に座っていた。ウエイトレスが直ぐにメニューを配りにきて、四人の注文を受けるとシェフに伝えに行った。

「名前はまだ教えなかったな。俺はリース。妹のメリナは知っているよな。確か···お前は才機だっけ?友達は?」とリースは海の方を見た。

「海です」と本人が答えた。

「海ね。二人、結構若いな。まぁ、俺だってぴちぴちの二十二歳だけど。妹は三つ年下」

「じゃ、妹さんは私達より一個下ですね」

「ね、昨日の話に戻るけどさ」とメリナが才機に話し掛けた。

「あんただったよね、メトハインであの男を庇ったのは」

「まぁ、ね」

「あたし達もそこにいたんだ。凄くかっこよかったよ。結構勇気あるね、あんた」

「いや、メトハインに行ったのは初めてだったんで、何に関わろうとしていたかよく分からなくて」

「それでも凄いよ。あんな状況で誰かを守ろうとするのは中々出来ない事だ。異能者であればらなおさらだ。ん、どうした?なんでそこで引くの?」

「んー、何って言うか、びっくりした。昨日とはまるで別人みたい」

「もー、まだ根に持ってるの?急に知らない男に裸見られたから仕方ないじゃん。しかも本当にあたし達の部屋だと思ってたし、どう反応すれば良かったって言うの?」

「まぁ、一理ある」

「でしょう?それにもう怒ってないからお互い昨日の事はもう金輪際触れない。いい?」

「あ、ああ」

「で、兄があんた達の関係を勝手に友達と決め付けたんだけど、本当にそう?」

「ええ」

「ふーん。ちょっと似ているとこるあるからもしかしてあたし達みたに兄妹かなと思ったけど。そっか」

「さっき、才機をメトハインで見かけたって言ってたけど、よりによってなんでメトハインにいた?もしあのバンダナがふとしたことから取れでもしたら大変でしょう?」と海が聞いた。

「あれは仕事で行ったんだ」とリースが答えた。

「メトハインで働いてたの?勇気があるのはあなた達も一緒ですね」

「あの日はたまたまメトハインで仕事をしてただけ。俺達の生業はいわゆる何でも屋。どんな依頼でも完璧に成し遂げてみせる。自分で言うのはあれなんだけど、かなりいい実績をあげてるよ。契約を守れなかった際は指で数えられるほど少ない。どうだい?俺達に依頼したい事はないか?」

「いや、むしろ紹介して欲しいぐらいだ。俺達は今職を捜してるんだ」と才機が言った。

「そっかぁ。まぁ···それなら、出来ない事はないが」とリースは目を妹の方へ向けた。

「まともな報酬を得るにはそれなりの仕事をやらないと。あたし達が引き受ける依頼の多くはちょっとやばげな感じと言うか···。あたしを外して兄さん一人でやる時もある」とメリサはリースの台詞の続きを言った。

「やばいって、具体的に言うと?」

「そうね。例えば、ちょっと後ろ暗い組織が血眼になって探している爆発しやすい高性能爆薬をある場所へ配送するとか、悪名高い盗賊団のアジトに潜入して盗まれた物を奪い返すとか」

「うわ、それじゃ妹を巻き込む訳にはいけないな」と才機が言った。

「あの仕事はあたしも手伝ったよ」

才機と海は「え」って顔でメリナを見た。

「それでもやりたいと言うなら分け前をあげてもいいよ」とリ−スが言った。

「えーと」と才機は一旦海を見てから続けた。

「その仕事の内容を事前に教えてもらえば考えたいと思う」

「いいよ。今日はもう仕事が予定されてる。北の森に土地開発をしている連中は建設したいらしいけど、現場が森の生き物に乗っ取らちまった。それの退治の依頼を引き受けた」

才機は腕を組んで椅子の背に寄りかかり、上を見ながら熟考し初めた。

「はっきり言ってこんな仕事なら妹がいてもあまり力にならないから外すつもりなんだけど」

「こういう仕事って、能力を使ってもいい?」と才機が聞いた。

「まぁ、それはその依頼によるんだな。仕事をしているところが誰にも見られないならもちろん大丈夫。そうじゃない場合はその依頼人次第。異能者と関わりたくない人がいれば、是が非でも仕事を成功させて欲しい人もいる。建設現場は今放置されているから今回ははた目を気にしなくていい」

「じゃぁぁぁ···乗った、この話。海は昨日見に行った所で応募してみてくれ」

「また置いてきぼりにする気?」

「せめて一人がカタギの仕事に就いた方がいいよ。これは一時的な解決策」

海はまだ完全に納得していないようだが、異議をさしはさまなかった。

「それじゃ、決定か?俺達だけで現場に行って一掃作業をやる?」とリースが聞いた。

「ああ」

「だったら食べた後、依頼人のとこに行って挨拶してから早速北の森に行くぞ」

リースがそう言った直後にウエイトレスが皆の飯を持ってきた。食べ終わったら約束通りリースは勘定を払って全員宿を出た。海はリースに相談して求人していそうなところを教えてもらっていて、才機とメリナも話し合っていてちょっとだけ遅れて歩いていた。

「才機ってさ、もしかして困っている人を見たら放っておけないタイプ?」

「ん?どうかな。お節介なだけかも」

「ううん。きっと優しいんだよ。風呂に入ってるとこ見られて動揺していなければ男を見る目はあるつもり」

「二度と触れないって約束じゃなかった?」

「ダメなのは相手を責める為に蒸し返す事だよ」

「なるほど」

「とにかくもっと胸を張りなさい。あの人の命を助けたかもしれない」

「そんな大げさな」

「本気だよ。石を投げられて死ぬ事もある。才機は間違っていない。見る事しか出来なかったあたしが恥ずかしい」

「恥じる事じゃないよ。それが普通だ。俺はたまに考える前に行動する性質だけなんだ」

「ふーん。まぁ、世の中は幻滅させるような事ばかりだからくじけちゃ駄目。そのままでいてください」

「はぁ」

「自分の善行に気付いてない?それとも謙遜?どっちか分かんないけどなんかかっこいい。気に入った、あんた!」とメリナは何回も才機の背中を叩いた。

ちょっと前の方で歩いていた海は後ろの二人の会話が耳に入ってリースに言った。

「なんか、メリナはやけに才機になついてるんじゃない?」

「憧れてるだろう。あの子は似たような状況を経験しているからかな」

「似たような状況?何の?」

「メトハインで攻められていた少年」

「耳の事がばれた?」

「いや、あの耳が生える前の話だ。俺達が生まれた場所では妹のような赤い色の髪は結構珍しい。って言うか、村全体で茶色以外の髪をしている子供は妹だけだった。俺達の父親は元々村の人間じゃなかったんだ。俺はこの通りだが、妹の髪は父譲りだ。そのせいでよく他の子供達にからかわれたり、苛められたりしたんだ」

「そうですか?」

「妹は色んな手を使って髪を隠し始めた。見えなくても皆知っていたから無意味だったけど。もうそんな事をしなくていいように故郷を出て、あいつがせっかく人と打ち解け始めたって言うのに、今度は耳を隠さないといけないから逆戻りだ。だた普通に生きさせてやりたかっただけなのに、神様って意地悪だよな」

海は横目で後ろの方を見た。まだ大きな笑顔を振りまいて才機と楽しくやっているようだ。

「毎日苦労している割に元気ですね」

「強いからね、あの子は」

もう少し歩いたらリースが目指していた所に着いた。

「ここだ。これから仕事に入るって知らせるからお前もちょっと顔出して」

二人はビルの中に入って女達が外で待った。

「リースが一人で働く時はメリナは何をしているの?」

「あたしは適当に時間をつぶしてぶらぶらするだけ」

「よくある事ですか?リースが一人で仕事をこなして、メリナが残されるのが」

「んー、五分五分かな。こういう戦ったり、力が必要な仕事ならあたしじゃあまり役に立たないから」

「普通の仕事をやりたいと思わない?」

「あんた達異能者と違って異形者は自分の異状を完全に隠しきれない。さっきあたしに聞いたよね?このバンダナが何らかの理由で取れたら大変な事になるのになんでメトハインにいたって。メトハインにいたのはちょっとの間だけ。毎日大勢の人に接っしながら仕事をするのは危険過ぎる」

「そっかぁ。大変だね」

「まぁ、これでもあたしは運がいい方だと思っている。これを頭に巻いただけで町を出歩けるから。異形者の中には異状が極端過ぎて隠しようがない人もいる。それに、お兄ちゃんがいるから寂しくない」

まもなくリースと才機が戻ってきた。

「じゃ、俺達は直ぐに北の森に向う。面倒事に巻き込まれるなよ」とリースは妹を注意した。

「分かってるって」

「帰るのは午後だそうだ。頑張ってな」と才機が海に言った。

「うん。気をつけて」

別れの言葉を言い終えて男達は立ち去った。

「確か、海はこれから仕事を探すんだったよね」

「ええ」

「あたしも付いて行っていい?」

「私は構わないけど、メリナは町の中で仕事するの控えてるでしょう?」と海は男子達が行ったのと逆の方向へ歩き出した。

「うん。でもこの際だからちょっと話がしたいの」

「話?何の?」

「才機とか」

「才機?」

「二人はいつからの知り合い?」

「一年半前ぐらいかな」

「ふーん。それで友達として同居してる訳だ」

「まぁ、ちょっと···事情が」

「だろうね。でも一緒に住んでて、同じベッドにまで寝て、二人は付き合おうとか思っ

た事あるだろう?それともお互い好みは違う?」

「好みとかは関係ないけど···」

「じゃぁぁ、前者だ」

「そうは言ってないだろう?」

「否定もしてない」とメリナはにやにやしながら前にかがんで海の顔を読もうとする。

しかし海は読めそうな表現を顔に出さず、ただ歩き続けただけ。

「もしかして、才機はもう彼女が出来てる?」

「いないはずよ。まさかと思うけど、メリナは才機に興味があるの?会ったばかりだからそれはないよね?」

「さぁ。ありって言ったらどうする?」

「べ、別にどうもしないよ」

「ふーーん。ま、ないとは言えない。あたしって友達いないからな。話し相手って言えばお兄ちゃんぐらいしかいない。でもお互い秘密知られた以上、出来るかなぁと思って。隣人同士だしね。あ、もちろんそれ海も入ってる」とメリナが笑顔を見せた。


    • • •


才機とリースが現場に着いたら周りは静かだった。その森の開拓地の様子は労働者が全員休憩に入ったきり、戻ってこなかったみたいだった。途中まで切られた丸太は鋸がはさんだまま。斧は木の側面にめり込んでいる。積み重ねた丸太は片側だけ縛られた。

「仕事中に皆が襲われて逃げたんだな、こりゃ」とリースが言った。

「リースは大丈夫、あの剣一本で?それとも見かけによらずかなりの遣い手なのか?」

「見かけによらずとはなんだ?」

「いや、その、剣士って感じがあまりしないかなって」

「じゃ、剣士はどんな感じがするんだ?」

「え?あぁ、どんな感じって聞かれても···俺もよく分からない。見かけで判断しちゃいけないか、やっぱり?」と才機は頭を掻いた。

「ま、今回はお前の見立てが正しいけど。剣なんてろくに使えない」

「え?じゃ何で持ってるんだ?っていうかどうやって身を守るつもり?」

「これで」とリースは背中に手を回してスコープの付いたライフルを出した。

「こっちが専門だ」

才機は眉をあげた。

「さっきからあの肩掛けベルトはなんだと思ってたけど、マントの下に銃まで隠してたんだ」

「接近戦になるとこいつはあまり使い物にならないだろう?そういう時の為に剣も持っている。使い方が今一分からなくてもこのライフルをぶん回すよりましだ」

「なるほど」

「もっとも、俺はターゲっトを近付かせるような事は滅多にないけど」と意味ありげな目付きを見せた。

「お前こそ大丈夫か?体をピカピカにしたところでどうにかなる相手じゃないよ」

「俺なら心配ないよ、多分」

「そうか?じゃ、もうちょっと深いところまで行くぞ」とリースは先導して森の奥に入った。

「これから退治する対象なんだけど、殺さないと駄目なのか。追い出すだけでも報酬をもらえるの?」

「おとなしく追い出されてくれる相手ならそもそも俺達の出番はないと思うが」

もう少し歩いたら才機はリースに尋ねた。

「なぁ、まだ聞いてないけど、俺達は実際何を退治するんだ?」

リースは歩くのやめて、上の方へ見ていた。

「あれだな」

「あれって?」と才機も釣られて上の方を見たけど特に変わった事が見えない。

リースはライフルを上へ向けて一発打った。

「今、何を狙った?」と才機はリースを向いて聞いたが答えてもらう必要はなかった。

何か大きい物が木々の上のどこかから二人の十メートル先にドスンと地面に落ちた。まだリースの方を見ているから、それはかろうじてしか視界に入っていないけど、才機は血の凍る思いがした。

逆さまで、足が丸くなっていて、まだ少しぴくぴくしているグリゴだった。

「ま、まさか退治するのは···グリゴ?」

「そっ。そしてどうやらこの辺のグリゴは環境に順応していて木の中で自分をカマフラージュ出来るみたいだ。気を付けろ。どこから出てくるか分からない」

「ま、まだいるのか?」

「当たり前だ。群れだぞ。仲間がやられて黙って引き下がらないよ」

その時、身の毛もよだつような鳴き声が何回も森の中にこだました。才機はきょろきょろ回りを見て、そこ以外のどこでもいいから他の場所にいたいと強く、必死にねんじた。


才機は四つん這いになっていた。戦闘は十分もかからなかったが才機にとっては永遠に終わらない地獄だった。普通の体だったら顔は今汗だらけになっていただろう。周りはグリゴの死骸がごろごろしていた。死因は体に穴を開けられたか、強力な打撃を受けて死んだ。

「ね、大丈夫?もしかして運動不足?」

「大丈夫です」と才機は周りを見たくなくて、まだ真下を見ていた。

「俺が仕留めたのは十四頭。そっちは?」

「あぁ···よく分からない。」

それもそのはずだ。数えるどころか才機は敵をろくに見もしなかった。殆ど目をつぶて、近づいてきた物全てに力一杯蹴り飛ばした。

「流石にこれほどの数を期待してなかった。お前を連れてきてよかったよ。それにしても素手でグリゴと戦う奴なんて初めて見た。異能者とは言え、たまげたよ、本当に」

「どうせ使わないならお前の剣を借りればよかったとは思うけどな」と才機は疲れに満ちた顔であぐらをかいた。

すると銃の打ち金を起こす音が聞こえた。顔を上げるとリースが自分にライフルを向けていた。「え」と考えた途端にリースは引き金を引いて弾丸が才機の擦った。全く痛くなかったとはいえ、いきなりに味方に撃たれて当然才機は動揺した。説明を要求しようと口を開いたけど、声を出せる前に次の瞬間、背中に重みが掛かるのを感じた。肩にも何かが載っていて、それが何か確認すると自分の手と同じくらいの大きさの大顎だった。そしてその大顎に付いていたのは青い体液を滴る穴の開けられた複眼。

「うわああああああああ!!」

半狂乱の悲鳴を上げた才機が四つん這いでリースのところまで全速力で走った。そこで体を引っ繰り返ってさっきまで自分に乗っかていた死体を見ていたら心臓の鼓動が激し過ぎて破裂しないかとまじで不安がっていた。

「わりぃ。肩に当たちまったよな。大丈夫?」とリースが才機の側でしゃがんだ。

「うん、心配ない」

「あ、本当だ。無傷だ。なんだこの皮膚の強度は?」とリースは才機の肩を指関節でノックした。

「見ての通りだ。実際にどこまでのダメージに耐えられるか分からないけど」

「本当にかすり傷も付いてない。直撃されても平気なんじゃない?」

「かも。別に試したくないけど」

「ま、とにもかくにもお疲れ。帰って賃金をもらおうぜ」とリースは立つ為に才機に手を貸して、二人はその不気味な場面を去った。

「お前···」とリースが言い始めた。

さっきの事で頭が一杯でまだ緊張していた才機ははっとリ−スを見た。

「クモが怖いんだろう」

「···やっぱ気付いた?」

「だって、お前、ずっと目を閉じたまま戦ったんだよ。あの震えっぷりは武者震いだったとは言わせない」

素直に認めるしか出来なかった才機の顔がちょっと赤くなった。


    • • •


ドリックを臨む丘の上で体がローブに包まれ、顔もフードで隠されている人がいる。その人は頭の後ろに手を組んでいて、のんきに木陰で座って流れ行く雲を見ている。口にはさんだススキは上下に揺れる。そのうち、後ろから全く同じ格好をしている人が歩いてきて隣で足を止めた。三十代前半ってところ。但し、この人は何と言ってもでかい。普通の人より遥かに。高さは二百センチもあって、相応な胴回りが伴う。大の男が四人体を寄せ合ったら同じ大きさになるかましれない。

「遅かったじゃん、ガロン」とディン言った。

「当たり前だ」と今来た男が淡々と言い返した。

「ま、ね」

「あそこか、彼らがいる町ってのは?」

「ああ」

「なぁ、本当にやるのか?」

「かしらがわざわざお前を送り出したって事本気なんだろう?」

ガロンはドリックを見下ろし、深く息を吸ってゆっくり吐いた。

「じゃっ、あまり気乗りがしないが、さっさと終わらせよう」

「そう急ぐなって。あいつらの動きは監視されている。いいチャンスが来るのを待てばいいさ。シェリにお前が来たって伝えておきたいが、あっちからあの電波とやらが来るのを待つしかないのは不便だよな」


    • • •


才機が宿に戻ったら海はいなかった。精神的にかなり疲れたので、ただちにベッドに身を投げ出して寝た。

数時間後、ドアが開ける音に目が覚めた。

「あ、戻ってる、戻ってる」と海が言った。

「お帰り」とまだ顔を枕にうずめている才機の声が鈍く聞こえる。

「どうだった、今日の仕事?」

「最悪。思い出したくもない」

「怪我とかしてない?」

「してない」

「そう?ならいいけど。詳細聞くのを勘弁してあげる」

「あれっ、なんかいい臭いが」と才機は頭を上げて海の方へ見た。

「早速気付いたね。お腹減った?」と海は紙袋をちらつかせた。

「減った」

海は袋の中身を出して鏡台に載せた。確かにうまそうだが、どうみても一人分た。

「さぁ、召し上がれ」

「海の分は?」と才機は席についた。

「さっき食べたから気にしなくていいよ」と海はベッドに座った。

「じゃ、頂きます」と才機は遠慮なく食べ始めた。

「これ、下で買った?」

「ううん、金は一切払わなかった。ただだった」

「ただ?そんなうまい話あるの?」

「まぁ、ただって言うより、役得?」

「役得って?」

「見つかった、仕事。今日から正式にウエイトレスになった」

「へー、やったじゃん!」

「そして仕事が終わった後、売り残りをもらえる」

「いいね。食費が三分の二になった」

「メリナのお陰だよ。色んな場所に行ってみたんだけど全部駄目だった。そうしたらメリナが、いつも忙しそうな店を教えるって言った。そっちに行ったらちょうど後一人誰かを探してたらしい」

「そうか。後でこっちからも礼を言わないとな」

「メリナ、喜ぶだろうな」

「ん?」

「ずっとあんたの事ばかり話してたよ。才機にぞっこんかも」

「え?俺?」

「よかったね、可愛いファンが出来て」と当てこすり溢れんばかりに言いながら笑った。

「別にファンになってないと思うけど」

「他は否定しないんだ。可愛いって事も、よかったって事も」

「ん?べ、別に深い意味で言った、いや、言わなかった訳じゃない」

「どうかしら。自分の気持ちに気付いてないだけかもしれない。今朝はあんなに仲良くしてたじゃない」

「彼女は···ちょっと積極的だけで、気を許したら人なら誰に対してもそうなると思う」

マンガにたとえるなら海は今生えた悪魔のしっぽを思い切り振っている。

「じゃぁメリナと私、どっちが可愛いと思う?」

才機の目は一旦横の方へ行って、また海を捕らえた。

「メリナを見ていると確かに可愛いなぁと思う。だが海を見ていると可愛いなぁと思って、その上『おお、海だ〜!幸せだ〜生きていてよかった〜!』と思う。だから海の顔

を見ている方がずっと嬉しいよ」

海は特に反応せず、ただ瞬きしてなんとも言えない表情で才機を見るだけ。そうしたらまるで白昼夢から覚めたよう急に言い返した。

「ふん!そうやってはぐらかして。質問に答えてないじゃん」

「あんな質問されて、もう一人の女の方が可愛いって答えるほど馬鹿な男はこの世にいるか。だから例え俺が海の方が可愛いと思ってそう答えても、それは俺の本心かどうか分からない。でもさっきのなら···信じてもらっただろう?」

「な、なんでそういう恥ずかしい事をさらっとと言えるのよ?」

「んーー」と才機は頭を掻いて上の方へ見た。

「恥ずかしくないから?本当の事を言ったまでだ」

「もー、才機をからかってもちっとも面白くない。いつも真剣なんだから。早く食べないと冷めちゃうわよ」と海は才機に背中を向けて、ベッドにうつ伏せになった。

「結局質問に答えないし。でもそれが答えになっているのか?いや、より可愛くない方を見てもっと喜ぶって普通にありだからやっぱり答えになってない。幸せって何?可愛さは幸せ単位で測るものなの?でも最後は···例え話だったし···。もー、分からなくなってる。大体いつもそうやってきざなことばかり言おうとして。もっとシンプルに出来ないのか。もういい。考えない。頭痛い」とだだ漏れながら海はぶつぶつ自分に独り言を言っていた。

「うん。じゃ今度はもっとちゃんと空気を読んでみる」と才機は食事を続行した。

海はいらいらしているような、安心したような、複雑な気持ちと格闘していた。


 • • •


「才機、海、こっち!」

翌朝、下に降りたらメリナが兄と一緒にテーブルで座っていて、手を振りながら才機と海に呼び掛けた。二人は同じテーブルの席に着いた。

「聞いたよ。海に働き口を紹介したのはメリナだって」と才機が言った。

「いいえ、そんな大したことじゃ。ただいつも忙しそうな店を教えただけ。まさか本当に雇われると思わなかった」

「それでもありがとな」

「そう?じゃ、いつかあたしも何かをお願いするかましれないから、その時はよろしくね」

「仕事と言えば今日も一緒にどう?地味な仕事なんだけど」とリースが言った。

「いいね。俺は地味が別に嫌いじゃない。全然オーケー、地味」

「今回はあたしも手伝うよ〜」とメリナが手を上げた。

「どんな仕事?」と海が尋ねた。

「ちょっと変わった依頼だけど、一日鉱夫になるんだ」とリースが答えた。

「鉱夫?」と才機が聞いた。

「うん、ちょっと東の方に廃坑がある。もう採掘する物は殆ど残ってない故に廃坑なんだけど、依頼人は鉱石がまだ絶対にあるって信じてる。なんで今さら採掘を再開したがっているか分からないが金を払ってくれるなら文句は言わない」

「採掘かぁ。筋肉痛になりそうね」

「別に昨日みたいな仕事を待ってきても構わないぜ。どっちかと言うと俺はあっち系の方が面白い」

「いいえ、大丈夫です!や〜、ちょうど運動不足だなぁと思ってたし。今日は張り切ってやれそう!」と才機が肩をつ掴んで腕を回した。

「昨日は一体何があったって言うの?」と海は怪しむような目で才機を見た。

「こいつがね」とリースが笑い出した。

「別に!何もない!」と才機が割り込んだ。

「さぁ、今日は仕事に備えてたっぷり食べて栄養を付けましょう。すみません、注文は決まりました!」と才機がウエトレスを呼び寄せた。

「いや、まだ何も決まってないけど···」とリースが言った。


朝飯を食べ終わると皆が宿を出た。

「これから依頼人と会うのか?」と才機が聞いた。

「いや、この程度の仕事ならしなくていい。終わってから報告するればいい」とリースが言った。

「終わるのは何時頃?」と海が聞いた。

「午後遅くだね。五時ぐらいかな」

「じゃ、私がお昼を用意しとこおうか?昼休み中に持って行ける」

「おお、助かるな。昼休みはいつ?」

「十二時半」

「じゃ、その時はメリナを迎えに行かせるから部屋で待っててくれる?」

「分かった」

「行く前に一箇所寄らないといけないんだ」

「どこ?」と才機が聞いた。

「カンテラを買いに。暗いぞ、坑道は。準備はいいか?」

「うん。じゃ、行くから海も頑張って」

「後で迎えに来るからお昼は頼んだよ」とメリナが言って他の二人と一緒に去った。

「なんだか私だけ仲間はずれみたい」と海は小さくなって行く三人の背中を見送った。


• • •


必要な物を買ったら三人は廃坑に向った。鉱山への入り口は木製支保工に支えられ、その奥の暗闇に通じるレールがあった。少し進むとレール上にあった軌道車に通り掛かった。中には採掘用の道具が幾つかあった。

「ちょうどいいや。これを借りちゃおう。メリナ、これを持ってて」とリースはカンテラに火をつけて妹に渡した。

リースが軌道車を押し、三人は更に奥へ進んだ。


木の影で座っているディンは急に頭をあげて、ぼうっとしているように見える。

「今シェリから連絡が来た。鉱山に入ったそうだ。そろそろ出番よ、ガロン」


そのうちリース達は広い空間に出た。壁にたいまつが二本あったからリースはカンテラをメリナから取って、火を二本ともに移しておいた。さっき通ってきた坑道の他にもその広間には四つの坑道が繋がっていた。

「ふーん。どっちだろうな。才機はどう思う?」とリースが聞いた。

「いやー、さっぱり。ここはメリナに決めてもらおうか?」

「なんであたし?あたしもここに来るのは初めてよ」

「まぁ、本当はどれでもいいんだけどさ。用は掘って鉱石を探せばいいから」とリースが言った。

リースは左から右へ、そしてまた左へ視線を走らせた。

「神様の言う通りどっちらにし」

リースが終わらせる前にメリナはカンテラをお兄さんの手からさっと取った。

「左行くぞ」とメリナは呆れた口調で言って先に一番左の坑道へ向った。

リースは肩をすくめて、軌道車を押しながら後に続き、才機はしんがりを務めた。その坑道は一本道で奥まで進むと行き止まりに着いた。

「ここまでのようだね」とメリナがカンテラを持ち上げて周りを見た。

「じゃっ、掘るとするか」とリースが軌道車にあったつるはしを才機に渡した。

寂れた鉱山の中に鋼が石にぶつかる音が久しぶりにこだまする。才機とリースはひっきりなしにつるはしを壁に打ち込む。出てきたがらくたはメリナが集めて軌道車に放り出し、溜まったら軌道車をさっきの中心の広間に持って行って処分する。

「けっこう疲れるね、これ」と才機が汗を顔から流していた。

「もうへたばってるのか?まだまだ終わらないよ」とリースがつるはしを振り続ける。

「いや、まだ行けるけど、流石にに手も痛くなったきた。手袋か何かあった方がずっと楽だ」

「これを使う?」とメリナが首に巻かれていたスカーフをほどいて才機に差し出した。

「汚れちゃうよ、あれを使ったら」

「別にいいよ。洗えばいいから。古だし」

才機はまめが出来そうな自分の手を見た。

「じゃぁ、使わせていただこうかな」と才機はメリナからスカーフを受け取って自分の手に巻いた。

「あ、ずるっ!お兄ちゃんは?」とリースはメリルにごねる。

「だって何も言わなかった。それにスカーフはその一枚しかないんだ。汚して洗うのは構わないけど、半分に破いて後で縫い付けるのはやだ」

「ほら、本当はリースも辛かったろう」と才機が言った。

「そりゃ辛いさ。だが辛くても俺は辛抱していた。それが男というもんだ。だがその結果がこれとは、不憫過ぎるぜ」とリースがまた掘り始めた。

「なぁ、やっぱ、能力を使って一気にぶち抜いてまずいか」

「ったりまえだ。生き埋めになりたいのか?ここは地道にやるしかねぇよ」

「やっぱり?それにしても三人だけで依頼人は何を期待している?この仕事は無意味なんじゃない?」

「どんな仕事でも俺は雇い主を疑わない。それが何でも屋」

「しかし、その雇い主は俺達が実際に働いてるかどうかはどうやって分かるの?こんなんじゃ、ずっとサボってもばれないんじゃない?仮に何かを見つけたとしても自分の物にしようと思えば止めるものは何もない。ちょっと可笑しくない?」

「可笑しくても金を出せばなんだってやるのも何でも屋」

確かにそうだ。最終的にはギャラをもらえば問題はないはず。訝しく思ってはいたが、今はその不信の想いを気にせず、作業に戻った。

皆がもうちょっと頑張り、そのうちリースが言った。

「そろそろお昼の時間よな。海を向かいに行ってくれないか?」

「は〜い。なるべく早く戻ってくるから待っててね」とメリナは才機とリースを二人にした。

「何を用意してくれたかな。もしかして丹精を込めた愛妻弁当を食べられるのか?」とリースの期待が膨れ上がった。

「いや、それはない」

「率直に言うなぁ。二人はそんなに脈なしか?」

「そういう意味で言ったんじゃなくて、海は自分が調理器具に触れてはならない事をよーく知っている」


    • • •


ハックション!!

「風を引いてないよね、私」と海は鼻をすすった。

「でも危なかった。くしゃみをかけるところだった」

海は顔を下に向けて、膝の上に持っていた帽子に目線を戻した。才機がこの前買ってくれた帽子だ。一回も被っていなくてまだ新品。こうやって愛でる時はたまにあるけど。

トントン。

海は帽子を箱に戻して蓋を閉めた。

「開いてるよ」

メリナが入ってきた。

「向いに来たよ。準備は出来た?」

「ええ」と海は鏡台の上の袋に顔を向けた。

「よし、じゃ行こう」

「うん、あ、行く前にちょっとトイレに行ってくる」と海は部屋を出た。

戻ってくるとメリナは鏡台で座っていて、鏡に映る海の帽子を被っている自分を見ていた。

「あ、それは···」と海が言った。

「お、戻ったか。この箱にも食べ物が入ってるかなと思って、除いてみたらこんなおしゃれな帽子は入ってた。あたしのバンダナなんかよりずっと可愛いんだ」

「あ、ありがとう。さぁ、行こう?」と海は帽子をメリナの頭から優しく取って大事そうに箱に戻した。

「ね、たまには貸してくれない?」

「え?あぁ、でもこれはちょっと···」

「いいじゃん、たまには」

「大事な物なんだ、この帽子。私だってまだ使ってない」

「ほほ〜。ってことは大事な人からもらったってことかな?」とメリナの顔に大きなにや笑いが広げた。

海は返事しなかった。

「もしかして···才機があげたの?」とメリナは海をからかうように言った。

「そうは言ってないだろう?」

「じゃ、誰なんだ」

「誰だったいいじゃん。一時間以内に戻らないといけないから早く行こう。はい、一個持って」と海は袋をメリナに渡した。

二人は宿を出たらメリナは急に止まった。

「あ、忘れ物しちゃった」とメリナは引き返した。

「忘れ物?」

「お兄ちゃんの手袋」


    • • •


一方ではメリナが鉱山を出たちょっと後。

「まじで(カラン)疲れて(カラン)きた(カラン)」と言葉の合間に才機はつるはしを壁にぶつけた。

「こんなに疲れたのは久しぶり」とあえぎながら才機が言い足した。

「流石に俺もだ。早く飯を食いてぇ」

その時、才機とリースはどこかから大きなドンドン叩く音を聞こえた。驚いてリースが二歩引いたら、うっかりカンテラを踏み倒し、周りが真っ黒になった。

「あ!やっちまった〜」とリースが嘆いた。

「なんだ、今のは?」

「分からん。くそ〜、壊しちゃったか?」とリースは暗闇の中にカンテラを探り当てようとしていた。

「あった。んー。何とか使えそうだな。さっきの広間のたいまつの火を借りてつけ直そう」

少し後戻りしても暗闇はちっとも明るまず、さっきの広間が見えてこない。

「変だな。この坑道はこんなに長かったっけ?」と才機が聞く。

「ふーむ、たいまつの火も消えたかん、いて!」

「ん?どうし、いて!」

二人とも相次いで壁にぶつかっていた。

「あれっ、一本道じゃなかったのか?」と才機は額をさすった。

「一本道だよ。触ってみ。これは壁じゃなくて陥没だ」

「ええ?!さっきのは地震だったのか?」

「まさか···」とリースが小声で言った。

「ん?何?」

「いや、なんでもない。お前ならこの崩れたのを突き破れるんじゃない?」

「言われなくたって」と才機はすでに変形を引き起こしていた。

次の瞬間。

「いってぇ〜〜〜〜〜〜〜!!」

才機の叫び声だった。

「どうした?!」

「思いっきり蹴った〜!」

「そのつもりだったんだろう?」

「でも生身の足で蹴った」と苦しそうに才機が言った。

「なんで?」とリースは不思議そうに聞いた。

「いや、わざとじゃなかった。てっきりもう変身していたと思った。あぁ、いてぇ〜。殴らなくてよかったぁー」

「大丈夫か?」

「うん。よし、もう一回」

もう一度変形を引き起こして、今度はもっと用心深く小手調べに軽く蹴った。手応えが違う。

「可笑しいなぁ···」と才機が言った。

「何が?」

「体が変わらない。能力使えなくなった」

「え?!どうして?」

「分からない」

「参ったな。これじゃ閉じ込められる事になっちゃうぞ?メリルが戻ってくるのを待つしかない」とリースは腰を下ろした。

「ちょうど休憩したかったし、気長に待つよ」と才機も座り込む。

「こういうの前にもあった、力を使えなくなったってのは?」

「いや、使い慣れてから一度もなかった。疲れたせいかな」

「じゃぁ、少し休んでからもう一回やってみてくれ」

「うん。それにしてもお前と仕事するとハプニングが多いな」

「なんだ、この程度で怖気づいちゃあかんぜ。そのうち本当に凄い事が起きるから。その時はお前は降りるかもけど。あ、マッチがあったんだ」とリースがカンテラに火をつけた。

「ちょっと貸して」と才機はカンテラを足の近くに置いて靴と靴下を脱いだ「外傷はないようだ。まじで痛かった」

十分ぐらい経ったら才機ははっとなった。

「なぁ、酸素は大丈夫かな。空気がちゃんと循環してるだろうか?」

「ん?考えてなかったな。念のため火消そうか」

「やばっ。くそー、能力さえ使えば直ぐに出られるのに」と才機は自分の手を見た。

そして手がガラスみたいにつやつやになった。

「あ、出来た!」

「本当だ。また使えなくなる前に早く出してくれ」

「うん、よく分からないけど···」

ドカン!

塞がれた坑道は一気に開いた。

「あれっ」と才機は広間に出た。

周りをあっちこっち見たけど、今しがた才機が散らかした瓦礫以外、前に通った時と何一つ変わってなかった。

「崩れたのはその一箇所だけ?どんだけ運悪いんだ俺達は?」と才機が聞く。

リースは怪しむような顔になっていた。

「とにかく一旦ここを出よう」

鉱山を出て二人は声をかけられた。

「あれっ。もう一人いたのか?」

才機とリースは振り替えて鉱山の入り口の上に男が座っていた。

「やっぱり、そう簡単に閉じ込められてはくれないなぁ。直接手を下すしかないか。しかし···」と男は才機とリースを交互に見た。

「どっちだろう?」と男は少し困った顔になった。

「あのぉ···誰?」と才機が聞いた。

男は近くにあったバイクと同じぐらいの大きさの岩を引き寄せて、まるでサッカーボールでも投げ渡しているみたいに、気楽に二人の上に投げた。

才機はまたガラスの姿を取って右腕で岩をはじいた。

「そっちだな」と男は飛び降りて、人間ではなく象か何かが着地したような音がした。

目の前で見るとどれほど大きな人か分かる。才機やリースより四十センチはある。

「俺の名はガロン。典型的な悪役の台詞で悪いが、消えてもらう」

「はぁ?なんで?お前とは会った事ないはずだが」と才機が抗議する。

「上からの命令なんだ。お前さんが鼻つまみ者らしい」

「命令?誰の?」

「それぐらい教えてもいいか。リベリオンのトップだ」

「またリベリオンかよ?もう済んだ話はずなんだ。なんで今更···」と才機は皇帝の話を思い出した。

《アラニアでのならず者もレビリオンの一員だった。罪人の尋問はまだですが、おそらく今回の事件もあいつらの仕業だ》

才機はかがんだ顔を手に載せた。

「心当たりはあるようだな。俺はお前さんは何をしたか知らないが、命令が下された以上、それを実行するのみ」

「仕事熱心なこった。俺はただ誘拐された子供を助けただけだ。どう考えたって理不尽過ぎるだろう」

「文句なら俺は受け付けられないぞ。言ったはずだ。俺は命令を実行するのみ」

ガロンはその巨体で予想に反する素早さにて普通の人の二、三倍の大きさの拳で才機を殴った。

そして才機は飛んだ。

十メートルも飛んだ。

リースはおもむろに後ずさりした。しかしガロンはリースのことを歯牙にもかけず目に入らないようだ。才機はショックを受けていた。変形が知らないうちに解けたんじゃないかと思って自分の手を見たんだけどつやつやのままだった。今、この姿でありながら才機は初めて気に留める程の痛みを感じた。この前装甲車に突っ込まれてもよろめく程度だったのに。

「おたなしく殺されろなんて言わない。生きたければ死ぬ気で掛かってこい。手を抜いたら死ぬのはお前さんの方だ」

才機は立ち上がった。こうなったら引き下がる訳にはいかない。ガロンに突進して本気で腹と胸部の間にパンチをくらわした。

「俺を真正面から挑んできたか?フンッ。不正解だ」とガロンが言った。

粘土ででも出来たみたいにガロンの体に才機の拳が埋め込んでいた。全然効いていないようだ。ガロンはまた拳を固めた。


    • • •


二人揃って手から袋を下げながら海とメリナは才機とリースが待っている鉱山へ向っていた。

「何か聞こえない?」と海が聞いた。

「うん、なんだろう」

「何か凄く大きいな物が動いてるみたい」

もう少し進むとその音の原因が分かった。才機と正体不明の大男が激しい殴り合いの最中だった。二人の拳がお互いに当たる度にに凄い音が響いた。少なくともそう見えていたが、才機のパンチは当たっても実はそんなに大きな音はしていなかった。海とメリナは状況を把握しようと、ただ突っ立って目の前の場面をじっと見た。そうしたら背後から手が二人の肩を掴んで茂みの後ろに引きずり下ろした。誰に捕まえられたかを見るとリースだった。

「リース?一体どうなってるの?!」と海が聞いた。

「お昼は後回しだ。見ての通り才機は今喧嘩の最中だ。いや、死闘か」

「死闘ってなんで?!」

「俺も事情がよく分からない。向こうがいきなり現れて才機に消えてもらうって言い出したんだ」

「だったらどうしてここに隠れてるの?!才機を助けなきゃ!」と海は立ち上がったが、手首をリースに掴まれてまた引きずり下ろされた。

「俺達がどこうこ出来る相手じゃないんだ。さっき一発打ち込んだけど、あのでかぶつは気付いたかどうかすら怪しい。才機はともかく、俺達はあいつの攻撃を食らったらひとたまりもない。今んところ才機は勝ってはいないが、負けてもいない。ここはちょっと様子を見るべきだ」

その才機は自分の攻撃が頭部以外に当てても無効化される事にいい加減苛立ってきた。

「くっそーーー!」と殴るのをやめて払い腰でガロンを力強く投げ倒した。

地面に落とされたガロンはまた凄い音をした。今の少しは効いたかなと思って才機はちょっと距離を置いた。

「面白い技を使うなぁ。って言うか、俺と実際に歯向かえるのはお前さんで初めてだ」と仰向けになっているガロンが言った。

ガロンは頭の後ろをさすりながらゆっくり立ち上がった。

「しかし俺を投げられるとはお前さんもやるじゃないか。俺は見た目よりも重いんだぞ。馬だって乗れなくなった。上に乗ったら潰されちまうからね。もうどこへ行こうにも徒歩でしか行けないんだ。乗馬、大好きだったのになぁ···」とガロンは背中を才機に向けて違う方向へ歩いた。

もしかして諦めてくれるのかと期待を抱かせたが、ガロンが大木を根こそぎ抜き取ると彼の狙いは明白だ。頭上に降り掛かった大木を才機が両手で受け止めた。そして大木とその大木の反対側を持っているガロンごとを押し返した。だがガロンは足取りをしっかりして才機の前進を止めた。大木を中心に押し合いが始まった。

「ほー。力比べか?面白いっ」とガロンは腰を入れて本気で押し始めた。

どっちも顔を見て真剣なのは分かるが、どっちもまだ一センチも譲っていない。

「さぁ、ここはどうなるか?」と観覧席でリースが言った。

でもその勝負はつく事なく、分からずじまいだった。大木は増して行く圧力にとうとう耐え切れなくなって、二つに割れた。細かい木の破片が各方角に散らばり、足をすべらせた才機は前方に倒れて勢いよく地面に突っ込んだ。顔を上げる時間すら与えずに、ガロンはまだ持っていた大木の一部を全力で才機の背中の上に叩き込んだ。僅かだけど才機の体が実際に地面にめり込んだ。

「もう見てられないよ!」と海が顔を手に落とした。

ガロンは才機の背中の上に立たせている大木にもたれかかった。

「こんな力を得てお前さんは嬉しかったか?俺は不幸だ。これだけの力があれば俺達は怖いものが殆どない。腕力や体力が重宝される仕事とかも楽勝。だが俺は大事な物を失った」

ガロンは大木を持ち上げて再び才機の背中に振り下ろした。才機はさらに地面にめり込んだ。

「異形者となって社交的な関係はもちろんのこと、でもそれ以上に俺の生き甲斐だった乗馬が出来なくなった。子馬の時から育てた三頭の馬が持ち腐れになった。今はこの人離れした体格だが前は競馬の世界で少し名を馳せた騎手だったよ?笑えるだろう」

ガロンはまた大木を持ち上げて振り下ろしたが今度は下される前に才機は転がってぎりぎりで避けた。

「お前···身の上話をしに来たのか···俺を殺しに来たのか···どっちだ?」と乱れた呼吸で才機が言う。

「あら、失敬。俺と似たような力を持つ人に会えてつい口走ってしまった」

ガロンは大木を投げ捨てて才機に突進した。才機は戦略を変える事にした。力に頼るのではなくて、主に柔道の技を中心に相手を投げ倒す。その作戦で形勢は何とか才機に有利になった。流石は元騎手、戦い慣れしているとは言えない。喧嘩に関しては完全な素人と言っても過言ではない。リベリオンに入ってから争いを沢山経験しているとしても、一発で終わった戦いばかりだっただろう。しかしガロンのしぶとさに敬意を表しなければならない。何回投げられても勢いが衰える様子殆どなく、立ち上がってまた才機に襲い掛かる。

「これじゃ埒があかないな」とリースが立ってどこかへ行こうとした。

「どこへ行く?」と海が囁いた。

「ちょっとした下準備。お前とメリナはここで待ってて」としか言わすリースは行ってしまった。

ガロンは後何回投げ倒されたが、ガロンにも学習能力はある。突進するだけでうまくいかないなら周りの物、武器として使える物なんでも才機に投げたり、打ち付けたり隙を作る。そうやってそのうち才機の背後に回って、腕を才機の首に回した。そんでもって才機にてこの力を使わさせないように身長の差を利用してそのまま地面から持ち上げた。

《やばい!これじゃ手も足も出ない!》

才機は力一杯あがいたが、この状況でガロンの把持から逃げられない。そしてもがいているうちにガロンは呻き声をあげて、才機の足がまた地面に付いた。偶然とは言え男同士の戦いではやや卑怯な手だと言えるかもしれない。足を激しくばたばたしていたら、たまたまガロンのもう一つの『弱点』に当たった。流石にあそこは衝撃を吸収する事は出来ない···。才機はなぜ自分が下ろされたか分からなかったが、その隙に一本背負いでガロンを地面に叩き付けた。今度、ガロンは直ぐには立ち上がらなかった。

銃声が鳴り響き、それに引き続く弾が激しい息遣いをしている才機の肩に当たって跳ね返った。振り向くとリースがこっち来てって手で合図をしていた。リースがいた所に向ったが彼は逆方向に走って行った。こっち来てと言うよりは付いてきてのようだ。

「ま、待って!逃げる気?!」とガロンが才機の後ろから呼びかけた。

もう少し走ったら才機はリースが猿並みの器用さで木を登るのを見た。才機がその木の下に駆け付けた時にはもうリースの姿がよく見えなかった。木の上からリースの声が聞こえてきた。

「悠長に説明する暇はねぇ。そのまま真っ直ぐ走り続ければ百メートル先に峡谷がある。そこで葉っぱが集まっている場所を探して。どうにかあいつをその上に張り倒せ。やったら振り返らず一目散にずらかるんだぞ。いいな?行け!」

後ろからガロンが向ってくるのを遠方に見えたので才機が言われた通りにした。リースが言ったように先に進んだら幅二十五メートルの峡谷があった。

才機は周辺にざっと目を通した。右の方に葉っぱの小さい集まりが目立っていた。葉っぱの上に張り倒せと言うからには落とし穴でも隠されているかと思ったが、あんな短い直径じゃ、あの大男の足ぐらいしか入らなさそう。そこに行くと才機は唾を飲んだ。縁から三メートルしか離れていない。

《こんな所で戦ったら二人とも落ちかねない。突き落とせって言うのか?冗談じゃない。道連れにされるのが落ちた。でも確か、言われたのはそこの葉っぱの上に張り倒すと。

それぐらないなら何とか出来るかも》

「もう逃げ場はないみたいですね。覚悟しろよ」と追い付いたガロンは才機に突撃中だった。

あまり突然過ぎて才機は本能的に構え、掛かってきたガロンを肩車で持ち上げた。狙ってやった訳じゃないが、ガロンはばったり葉っぱの上に落ちた。そして落ちた途端に銃声が三回連続して響き渡った。才機は何かジュージューいう音も聞いたような気がしたんだけど、リースの指示に従ってひたすら逃げ出した。そして僅か五秒後に、後方の多重の爆発に驚かされてぴたっと止まった。振り返ると大きな土ぼこりが立っていた。少しずつ収まるにつれてガロンのシルエットが見えてくる。うつ伏せになった彼がゆっくりとひざに立った。体中は凄く汚れていたがそんなにひどく怪我してはいないようだ。でも様子はちょっと可笑しい。膝をついてから身動き一つも取らない。本人が気付いたんだ。さっきの爆発のせいでそれ以上動いたら足の下の地面が崩れ、自分が千尋の谷に落とされる。いや、このまま動かなくても今にも崩れそう。落下は避けられない。

終わった。

「やられたな」とガロンは首を右に回して才機を見た。

「とても競馬所で走るほどじゃないが、少しは面白かったかな」

才機は『ん?どういう事?』と言おうとしたが、その言葉が口から出る前にガロンの周りの地面が崩壊し、ガロンもろとも崖の縁の下に消えた。

才機はそこから動かず、ただついさっきまでガロンがいた場所をじっと見ていた。体が元に戻った。

「ちゃんと逃げられたみたいだな」と後ろからリースの声がしてきた。

「どうなってたんだ、今?」とまだ同じ場所に目が釘付けになっていた才機が聞く。

「葉っぱの周りにダイナマイトを三本仕込んでおいた。もしかしたら採掘で役に立つかなって思って買っておいたんだけど、違う使い道で利用してしまった。で、木の上からさっきの三発で導火線に点火した」

「弾丸で?」

「まぁ、正確に言うと導火線に結びつけておいたたマッチに点火した」

才機はようやくそこから動いて縁に近づいた。見下ろすと約六十メートル下のところで視界は濃い霧に阻まれた。

「死んだ···のか?」

「それはどうかな。二人とも頑丈さは桁外れだからな。それにこの下は沢山の茂みや木々があると思われている。落下のショックを和らげたかも。でも生きているとしてもそう簡単には戻ってこれないだろう」

才機が縁から離れてリースが立っている場所に行った。

「ありがとうな、援護」

「いいって。皆の所に戻ろうぜ。海がすんげぇ心配してたよ」

「しかしなぁ、ただ俺の注意を引く為だけに一々銃で打つのを勘弁してくれ」

海達とメリナとは途中で合流した。海は才機を目掛けてまっしぐら抱きついてきた。

「大丈夫か?!もー、凄く心配したんだから!」

「う、海···」

「ん?何?」

「痛い」

「あ、ごめん!」と海は素早く離れた。

「さっきの爆発はなんだった?」とメリナが聞いた。

「ダイナマイト」とリースが答えた。

「ダイナマイト?!相変わら兄ちゃんのやり方は荒過ぎるよ···」

「荒療治が必要な事態だった」

「でもそもそもなんでこんな事になった?」と海の目が必死に才機から説明を求めた。

「帰ってから話していい?なんか、疲れたんだ。早く横になりたい」


    • • •


翌日の朝、才機と海の部屋のドアにノックがあった。海が応対に出たらそこにリースが

立っていた。

「おはよう。才機の調子は?」

「体中痛いんだって。一日中安静にしたいらしい」

「そうか。ま、無理もないか」

「そういう訳だから、今日は仕事の手伝いが出来そうにない。ごめん」

「いや、それは別にいい。ただ、踏んだり蹴ったりだとは思うけど、その···昨日はただ働きをしたみたい」

「どういう事?」

「その後、依頼人と会って報告するはずだったが現れなかった。前に言われた宛先もがせだった。思うんだけど、大方昨日の依頼は才機をはめる為の物なんじゃないか?」

「その可能性は···あるね」

「えーと、まぁ、もう行くけど才機にお大事にって伝えてくれ」

「はい」

リースは手を振って下に下りた。

「今の話聞いた?」とドアを閉めてから海がベッドの上で腕を広げている才機に聞いた。

「うん。この先も刺客が現れるのかな?まじであのリベリオンとやらと縁を切りたい」

「リースと仕事をするのをやめる?」

「少なくとも昨日みたいな怪しい依頼からは外させてもらう。完全にやめる訳には行けない。でも海、お前も気を付けろよ。狙われてるのは俺だけじゃないかも」

「うん」

二人は暫く押し黙っていた。

「お腹減った?何か持ってこようか?」

「そうだなー。仕事に行く前にちょっとした何かを持ってくれたらありがたい」

食堂でリースとメリナは朝飯を食べていた。

「二人とも下りてこないね」とメリナが言った。

「来ないよ。才機は無理が祟って寝たきりだそうだ」

「ふ〜ん。じゃどうする?」

「どうもこうも。いつも通りやるさ」


正午に仮眠をしていた才機はドアをノックする音に目が覚めた。応対に出るのがちょっと遅過ぎてドアを開ける直前にまたノックが来た。

「メリナか。どうした?」とドアを開けた才機が既にベッドに戻って真ん中にうつ伏せになった。

メリナは入らせてもらってドアを閉めた。

「お見舞いに来たよ〜。どう調子は?」

「体中筋肉痛みたいだ。特に背中が」

「ま、あんなにぼこぼこにされちゃね。それぐらいの反動はない方が不思議だ」とメリナはベッドの隣に行った。

「まるで俺が一歩的にやられた言い様だな」

「どっちかっていうと才機の方がダメージを負ってたように見えたけど、違う?」

「生き残ったのはこっちだぞ」

「お兄ちゃんのお陰でね」

「言うと思った。見舞いに来たんだよね?なんかメリナが来てから全然元気出ないけど」

「まぁまぁ、そう言うなって。才機もよく頑張ったよ。あの後自分の力で歩いて帰ったし、本当はまだやれたんだろう?」

「やれたかもしれないけど、あの時は興奮していて、自分の体の疲れに気付いてもいなかった。戦いを終わりにしたお前の兄さんに感謝してるよ」

「でもやっぱり負けていた訳じゃない。凄く丈夫だね。感心したよ」

「それはどうも」と誠意のかけらもなく才機が言った。

「いいの?そんな態度をとって?いい物を持ってきたんだけど···」

「いい物?」と才機は顔をあげてメリナの方へ見た。

メリナは人差し指と親指の間に持っていた小さな瓶をぶらぶら揺らしていた。

「何、それ?」

「塗布剤だよ。効き目のいい奴」

才機は横たわったまま瓶をじっと見た。

「欲しい〜?」とメリナはからかうように聞いた。

「欲しい」

「素直でよろしい。背中に塗ろうか?」

「頼む」

「じゃ、起きて。シャツも上げて」

才機はあぐらをかいてシャツを頭から引き上げて脱いだ。腕はまだ袖に入っている。メリナは四つん這いでベッドの上に乗って才機の後ろに座った。

「やっぱあの時は効いたね」とメリナはガロンが大木で才機を叩いた時を思い出して才機の背中に手を付けた。

「まぁ、ね」

「そう言えば、なんか面白い技であの人を投げ倒したんだね。びっくりしたよ。才機ってあまり戦闘に向いてなさそうだ」とメリナはボ瓶を開けて塗布材を手のひらに注いだ。

「あぁ、あれは柔道って言うん、だ〜!冷たっ」と才機がびくっとした。

「わめくな、これくらいで。男らしくないよ」

才機は背中を元に戻した。

「海もやるんだよ。あいつも結構出来る」

「ふ〜ん、覚えておこう。二人はまだ他に隠している特技とかあるの?」

「ない···と思う。まぁ、海なら人の気配を探知出来るらしい。詳しい事はよく分からない」

「え?二人はずっと前から一緒じゃなかったの?」

「んー、一年半の付き合いかな。でも海も俺もこんな能力が現れたのは最近の事だ」

「最近?結構遅いね。あたしの耳はアナトラス現象後、二週間で生え始めた。三ヶ月足らずのうちに完全に成長しきった」

「海からちょっと聞いた。大変だったらしい」

「そうでもないけど。この赤い髪のせいで孤独にはとっくに慣れていた。元通りに戻っただけだ。まぁ、お兄ちゃんがいたから本当の孤独じゃないか」

「仲のいい兄妹だね」

「ま、ね。お兄ちゃんの馬鹿さ加減に付き合ってらんない時もあるけど」

「でも、まじな話、それほど悪くないよ、お前のその耳。もしかしたら···可愛いとでも言えるかも」

「な、何言ってんだ?!可愛い訳ないたろう。薬を持ってきたからってそんなお世辞は言わなくてもいいよ」

「いや、本当。俺は動物好きだからかな。でも勘違いしないで!俺は変人とかじゃないからね。あ、べ、別に変人じゃなきゃそんな風には思えないって意味じゃ···その、俺が言いたいのは···ん、だから·····あーー、もうやめだ!今のは取り消しだ!ごめん、忘れて!」

「···どこまで?」

部屋のドアが開いた。

「お昼を持ってきたよ。お腹すいてる?」と海が入って二人を見た。

なんだか、この部屋に入ってこんな気持ちになるのが前にもあったような気がした。但し、今度は半裸役が交代されていた。

「どうした、二人とも?」

「塗布材を持ってきたんだ」とメリナは何気なく塗り続けた。

「あ、そう。ありがとう」

海は持ってきた袋を鏡台に置き、椅子をベッドの隣に移動させて座った。

「やっぱ、まだ痛いか?」と海が才機に聞く。

「ちょっとな」

海は心配そうに才機を見た。

「これでよしっと」とメリナが瓶に蓋をした。

才機はシャツを着た。

「じゃ、あたしはもう行くね。薬は置いて行くから」とメリナは瓶を海に渡した。

「お兄ちゃんは組む人を見つけて嬉しいと思うから早く元気になってね」とメリナは部屋を出た。

「ごめん、私も薬を買ってあげる事ぐらい考えればよかった」

「気にすんな。それより鼻まで漂ってくるこの香ばしい臭いが気になる」

「あぁ、これ?」と海は袋から椀を取り出した。

「バイトで今日の日替わりランチだった。シーフードスープ」

「おお!まじ?!超好物じゃん、魚介類」

「うん、確か前にそう言ってた」と海は蓋を開けてスープとスプーンを才機に渡した。

湯気の立つスープにエビ、貝、鮭が浮いていた。最初の一口。

「うむ、うまっ。温度もちょうどいい」

椅子の背を脇に挟んだ状態で海は絡ませた指を椅子の背の上に乗せ、その指の上にほっぺたもまた乗せて才機が一匙を次々に飲むのを見ていた。

「やっぱ、手製の料理を食べた方が嬉しい?」

「手製だろう、これ」

「まぁ、そうだけど、その···出された料理が出した人の手製の料理だったらもっと嬉しいものなのかなって」と海は目を逸らした。

才機は食べるのをやめてほんの少しの間海を見た。

「俺は、別にどっちでもいいけど。美味しく食べる事さえできれば」

「オーナーは料理が大好きだし、優しいし、頼んだら多分キッチンを使わせてくれると思う。こつを教えてもらおうかななんてって思ったんだけど」

「え?料理···すんの?」

「ううわー、今思いっ切り疑っただろう!」

「そ、そんな事ないよ!」と才機はまた食べ始めた。

「私の顔ちゃんと見て言えなかったし!」

「食べてるだけだろう?考え過ぎだって」

「言っておくけどあの時は初めて料理しようとした!うまくいかなくても当然だ」

「そうだね。次はもっとうまく出来るよね」

「そうよ。今度オーナーに尋ねてみるから待ってなさい」

「じ、じゃぁ出来たら味見してあげるよ」と才機は下手な作り笑いをした。

「言ったね。絶対にびっきりさせてやるんだから」

才機はどんな風にびっくりさせられるのか非常に不安だった。


    • • •


《ガロンが見つからない?》

一本のたいまつに顔を照らされてデイミエンがそう考えて、その想いをシェリに馳せた。

《はい。ディンはガロンがあの人達を処分しに行ったと言っていましたが、その後、音信不通のままです。私も彼と直接リンクした事ないのでこの方法で連絡を撮れません》

《嫌な予感がする。で、その二人は?》

《はい、変わりありません》

《やっぱりそうか。ガロンは破られたと考えていいだろうな。しぶとい奴らめ》

《どうなさいますか、デイミエン様?》

《デイミエンだ》

《は、はい、デイミエン》

《そのまま監視を継続して。ディンに帰還するように伝えて。後はこっちの方でちょっと考える》

《承知しました。何かあったら連絡します》

デイミエンは祈るように指を組んで、額をその手に載せた。そしてしばらくすると、

「真っ向勝負じゃ駄目か···。ジェイガル」

全身鎧に覆われた男が影から出て後ろからデイミエンの左側へ歩み寄った。

「アイシスを連れてきてくれる?」

「はい、直ちに」


一方ではシェリはディンと話していた。

《デイミエン様から帰還命令が出た。本拠地に戻っていいよ》

《やっと帰れるか?まじで人使いが荒いぜ、うちの頭領は》

《何を言うんですか?デイミエン様は私達の未来の為に》

《分かった、分かった。ってか、本人もいつも様はやめろって言ってるだろう》

《わ、私の勝手だろう?今は本人と話していないし》

《はい、はい、命の恩人だもんな。別にどっちでもいいけど、俺は。ガロンの奴に悪いが、先に帰らせてもらう。じゃ、ね》

《そんな言い方はないだろう?ガロンは仲間ですよ。···死んでるかもしれない》

《あいつがそんなやわな玉かよ。それに、あの二人は誰かを殺す度胸ねぇよ。どこに行ったか知らないが鈍いあいつの事だ。遅れてのこのこ帰ってくる》


 • • •


翌日。才機は大分楽になった。またリースと仕事をするつもりだったが、仕事の予定は入っていなかったから今日も全治に向けて体を癒す為にのんびり部屋で過ごしていた。正直に言うとほっとした。仕事がない事に。あのリベリオンの連中はそう簡単に諦めるはずがない。もうこの前みたいな目に遭うのはまっぴらごめんだ。とは言ってもずっとこの宿にこもる訳にもいかない。海だって危険なのに一生懸命に働いている。本当に困った立場だ。ただでさえ訳分からない世界に行かされた上に、この来たくもなかった所で命まで狙わなければならない。あんまりだ。海は何となく才機のその絶望的なオーラに気付き、ベッドで横になっている彼に声をかけた。

「もう二日間ずっとこの宿にいるのね。そろそろこの部屋の壁が見飽きてきたんじゃない?」

「別に。元々そんなに刺激を求めるような人じゃないし」

「らしくないよ、こんなにしょげるなんて」

「いつも通りよ」と才機はごろりと寝転がって背中を海に向けた。

「私だよ?ごまかせないで。思い切り凹んでるじゃん」

才機は黙っていた。

海は彼の手首を掴んでベッドから引き摺り出した。

「ど、どうした?」

「付いてきて」

親が不満たらたらの子供の手を引っ張って連れて行くように、海に先導されて二人は階段を下りた。

「おい、どこに行くんだ?」

「気分転換」

階段を下りて右に曲がった二人は才機がまだ行った事いない廊下に入った。廊下の奥のドアをくぐって割と広くて何もない部屋に入った。

「何、この部屋?」

「分かんない。この間見つけた。でもいつも開きっ放しで、前に子供達が走り回って遊んでるのを見た。客は自由に使っていいと思う」と海は部屋の後部にある倉庫からマットのようなものを取り出し始めた。

「そこで見てないで手伝ってよ」

二人で九枚のマットを出して床に並ぶように敷いた。才機は今自分が敷いた十枚目を見下ろして両手を腰に当てた。

「もういいだろう?なんでこんなにマットを〜〜〜〜〜〜!」

ドシン!

気付いたら才機は投げ倒されていた。海の手によって。

「いきなり何すんだ?」と才機は疑っている目で海を見る。

「稽古だよ、稽古。久しぶりにやろう?」

「稽古かぁ」と才機はゆっくり立ち上がるように見せかけ、海の足を狙って、海を引っくり返した。

「きゃー!」

ドシン!

雪辱を果たした才機は再び両手を腰に当てた。

「手は抜かないから覚悟しろよ」



「何してんだ?」と宿の一階の廊下でドアをほんの少しだけ開けてその隙間から覗き込んでいるリースにメリナが聞いた。

リースは何も返事しなかったけどメリナが近くまで来たので自分で除いてみた。

「あの二人何やってんの?」

「稽古、ですかね。さっきからずっとやってるんだ。こっちにはまだ気付いてない」

「ふーん。そういや、ジュウドウか何かって格闘技をやっているって言ったんだ、才機」

才機は海を何回も倒し、色んな固め技で海を抑える。縦四方固め、三角締め、上四方固め。

「何それ?武道?あんなエロい武道初めて見るけど」とメリナが言う。

「焼いてるのか?」

「バカ言え」

「そうよね。そんなはずないもんな」

メリナは部屋に乱入して大きな可愛いらしい笑顔を見せた。

「二人だけで楽しそうな事をしてるじゃない。あたしも混ぜて〜」

「メリナ?」と才機は海を抑えていたあごをもたげた。

海も才機の緩めた把持から抜け出して身を起こした。

「と言われても、初心者がいきなり出来るものじゃないよね。怪我するかも」と海は額から汗を拭いた。

「だったら最初から教えればいい」とメリナが反論した。

才機と海は目と目を見交わした。

「ほら、海の仕事を見つけてやった恩があるだろう?だから、ね?」

「そんなにやりたいなら別に教えてもいいけど」と才機が言った。

「本当?!やった!どうすればいい?」

「そうね。まずは受け身を練習しようか。柔道ってのは負けた時の為に練習しないといけないものだ。受け身がちゃんと出来ないと本当に怪我するかも」

「へー」

「じゃ、その前に軽くウォミンガプしよう。こんな風に回転してみて」と才機は三回連続で前転した。

「楽勝、楽勝」とメリナも三回前転した。

次は逆向き。それから側転。続いて倒立公転もやったがメリナはちょっとてこずって海が体を支えなけらばならなかった。

「それじゃ、こうやって倒ればいい。最後にマットを叩いて」と才機は受け身の手本を見せた。

「何、それ?」

「これは正しい倒れ方だ。投げられたらこんな風に倒れるといい」

メリナは今一分からなかったが取りあえず何回も真似してみた。

「よし。次は実際に投げてみるか。柔道の基本中の基本は背負い投げ。まずそれをやってみよう」と才機はメリナの前に行って拳を上げた。

「もし俺がこんな風に攻めてきたらお前はどうする?」と才機はゆっくり拳をメリナの方に振り下ろした。

「それは、避けるだろう?」とメリナはそうした。

「普通はね。でも柔道では相手の攻撃を避けるんじゃなくて、相手の攻撃を利用して逆手に取る。このようにね」と才機は海に向けて襲い掛かった。

すると海は背負い投げで才機をマットに送った。

「まぁ、自分でやるのは一番分かりやすいだろう。海がやり方を教えてあげる」

海はメリナの襟と袖を掴んだ。

「才機とやらないの?」とメリナが聞いた。

「海の方が軽いからその分投げやすいはず」

「そうか」

「この状態で体を回しながらこうやって相手を背負って肩越しに投げる」と海は説明しながらゆっくりメリナを持ち上げた。

「はい、今度メリナやってみて」

「お、重い!海って見た目より力あるんだね」と辛そうに言いながらメリナは苦労して何とか海を肩に背負い、中途半端にマットに落とした。

「まぁ、私の場合はずっと前からやってるから。筋トレもそれなにやってきた」

「あれが難しいならもう一つ、力がそんなに要らない技を教しる。海、大外刈りを見せてやって」と才機が言った。

海がまたメリナを掴んだ。

「こうやって右足で相手の股の外側から相手の右足を刈り上げて倒す」と海はゆっくり見本を見せた。

「なるほど。これなら簡単に出来そうだ」と今度はメリナが挑戦する。

こんな風に四十五分ぐらい経った。疲れたのか飽きたのか、メリナはそれ以上付き合いきれなくて先に帰らせてもらった。才機と海は後一時間ほど稽古を続けた。終わった頃には二人とも仰向けにばったり倒れていていい汗をかく快感を噛み締めていた。

「どう?少しは気分が晴れた?」と海が聞く。

「そう、ね。結局今日もずっと宿にいたままだけど。外に出るのが海の目的じゃなかった?」

「じゃ、さ、明日どっかに行く?私、休みだし。そうだ、ピクニックでもしようか?」

「ピクニックか。リースとメリナも誘おうか?」

「いいんじゃない?彼らにも何か用意してもらおう。行きたければの話なんだけど。そうだ!この辺に花が咲いているところがないか聞いてみて花見を兼ねて出かけよう」

「よし、決まりだ。後は片付けなんだけど、負けた回数イコール片付けないといけないマットの数っていうのはどう?」

「ふーん。せっかく励ましてやったのにそんな事言うんだ」

「冗談てば、冗談。つうか、俺が片付けるよ。海は先に風呂にでも入って」

「流石は才機。中々いい紳士振り。じゃ、そうさせてもらう。ここは頼んだ」

と海は才機の肩を叩いて先に帰った。

才機は一人で後片付けを始めた。だがさっきまで取り付いていたもやもやはもう晴れていた。


         • • •


昨日リースとメリナにピクニックの話をしたら了承を得たので十二時が近付いたら海は彼らの部屋に呼びに行った。ドアにノックをして応対に出たのはメリナ。

「あ、ごめん。お兄ちゃんがピクニックに持って行く物を買いに行ったきり戻ってきてない。そろそろ戻ってもいい頃だけど。入ってきな」

海は自分と全く同じ構造の部屋に入った。そして海達と同じく飾り物などない、装飾や個性を欠けた部屋だった。

「あたしは準備していたところだったが、もうちょっとで終わる」とメリナは浴室に入った。

鏡台に置いてあったアクセサリーが海の目を引いた。それを手に取って、メルが常に付けているハートのペンダントだと分かった。ペンダントは粗雑に結び付けた革ひもに掛けられている。よく見るとそのペンダントは実はハートの形をした錠前だ。底に鍵穴がある。メリナは浴室から出たら海がその錠前を弄っているのを見た。

「あああ、気をつけて、それ!」

「あ、すみません。壊れやすいの?」

「いや···多分、大丈夫。ただ、元々それほど強い錠前じゃないんだ。古いし。ひもはもっと危ない」

確かに本格的な頑丈な錠前ではなく、どっちかというとおもちゃのたぐいだった。

「いつも付けてるのね、これ。手作りに見えるけど、そうなの?」

「うん。値打ちはゼロに近いだろうけど、あたしにとっては凄く大事な物。あたしにも

あるんだ、そういうの」

「大事な物?」と海は改めてそのいかにも安っぽい錠前を見た。

「あれ、本当は日記用の錠前だ。あるだろう?他人に読まれないように表紙に掛けるやつ。その日記はお兄ちゃんからの八才の誕生日プレゼントだった。友達がいなかったあたしに、話したい事とか欲しい物があれば全部それに書いてって言われた。日記と鍵はいつも家の机の中に入れておいたから、あたしがいない時にお兄ちゃんは日記を読むの。悩み事を書いたらお兄ちゃんは相談相手になってくれて、他の子達が美味しそうなお菓子を食べてるのを見て、食べてみたいって書いた時にお兄ちゃんが同じ物を買ってくれた。同じクラスの男子の二人があたしの髪に付けたリボンを奪って返さなかった時の事を書いたら、次の日学校に着いたら机の上にリボンが置いてあって、二人とも目に黒いあざが出来ていた。最初は普通に書いていたが、半分まで使ったら出来るだけ多く書けるように必ずページの端ぎりぎりまで書き始めた。結局書き尽くしたよ、あの日記。最後の方は余白なんてものがどこにもなかった。正にあたしの魔法のランプだった。日記は今でも実家にあるけど、錠前を首飾りにして、それと鍵だけを持ってきた」

最後の最後のページだけは『お兄ちゃん大好き。ありがとう』とでかでかと書いて余白は幾らでもあったが、流石にそれは恥ずかしくて言えない。

「ふーん。なんかいいね。そういうの」と海はネックレスを鏡台の上に戻した。

なんだかあのみすぼらしい首飾りは前より可愛いく見えた。

「でも日記を完全に埋め尽くした後はどうしたの?ランプの精霊はそう簡単に手放せるものなのか?」

「流石にね、無口でいつも我慢する自分に戻るのが嫌で、自分からお兄ちゃんに相談するようになった。お兄ちゃんに頼るのも大事だって教えてくれたんだ」

その時ドアが開いてリースは袋を下げて入ってきた。

「本当にいいお兄さんだね、リースは」と海はリースを通り過ぎざまにに肩を軽く叩いて部屋を出た。

「なんだ、いきなり?」

「準備が出来たんならもう行くよ」とメリアが言った。

二人は部屋を出て少しだけ待つと才機と海も袋を持って部屋から出た。海はあの黄色い帽子をかぶっていた。

「おや?初デビューかい?」とメリアは海の帽子に視線を送った。

「そうね」と海はメリナと目を合わせなかったが何気なく言ってのけた。

「初デビュー?」と才機が聞いた。

「何でもない。さ、行こう」と海がメリナの手首を取って先に行った。

「あの二人、仲良くなったのか?」とリースが聞いた?

「さぁ」


四人で宿を出ると海は思い出すようにはっとなった。

「そうだ。綺麗な花が咲いてる場所ってこの辺にある?枝が満開の花で一杯並木とか」と海がリースとメリナに聞いた。

「ん〜、そんな場所あったっけなぁ」とリースはあごに手を当てて考え始めた。

「思い当たる場所一つあるけど···並木とはちょっと言えないな」とメリナが言った。

「じゃ、取りあえずそこに行ってみよう」と海が言った。

メリナに案内されて辿り着いたのは街の外にある草原の丘で、花が咲いている木は確かにあるにはあったが、たったの三本。並んでいるのは二本だけで、もう一本はやや離れた場所でぽつりと立っていた。木の枝には花だけではなく、松かさみたいなのもまだらに付いている。花の方は桜と違って薄緑色をしていてユリに類似している。皆は木が二本ある方に足を運んだ。

「まぁ、これはこれで綺麗だよね」と海が才機に言った。

「うん」

シートはなかったので皆が適当に木の下で座った。周りに松かさが数個落ちていて、頭の上に落ちたら痛そうと思いつつ、才機はあぐらをかいて体重を斜め後ろに置いて両手にかけた。リースも同じことを考えていたのか、やけに上の方を気にしている。海は八種類のサンドイッチ、サラダ、様々な切った果物と飲み物を四人の真ん中辺りに置いた。リースは持ってきた袋から箱を出した。

「結構大きいね。何が入ってる?」と海が聞いた。

リースは蓋を開けて、中の立派なチョコレートケーキを全員に見せた。

「うわ〜、凄い!しかもでかい。四人で食べきれるの?半分残りそう」

「その心配はないと思うよ。お兄ちゃんはどうしようもない甘党だから」

「悪い?」

「別に。でも目を離すとお兄ちゃんは一人で半分以上食べかねない」

「しねぇよ、そんな事」

「今から五年前、九月十九日、お父さんが持って帰った三リットルの期間限定キャラメル•ナッチアイスが」

「おい、いつまで引き摺ってんだ、あんな昔な話?」

「あたしの限定キャラメル•ナッチアイスを返すまで」

「食べちまった物は返せねぇよ」

「じゃ、永遠にだね」

「まあまあ、今日は皆が美味しく食べられるよ。ほら八種類のサンドイッチもあるから好きな物はあるはず」と海は皿を見て七つのサンドイッチしかない事に気付いた。

「って、才機もう食べてるじゃん!いつの間に?!」

才機は肩肘にもたれかかっていた平然と食べていた。

「そこの兄妹が揉めていた間に」と才機が悪びれずに答えて噛み続けた。

「ちょっとは遠慮してリースとメリナに先に選ばせてよ」

才機は瞬きして自分が一口食べたサンドイッチを見た。そして上半身を起こして前にかがんだ。

「戻すな」と海の一言。

才機は元の体勢に戻った。

「もー、ごめんね二人とも。まだ沢山あるから好きなのを選んで。後、果物一杯持ってきた。ほら、リンゴ、メロン、ブドウ、イチゴ、そしてナシ」と海は果物が入った入れ物の蓋を取った。

「おお、イチゴは超大好物だ!」とメリナの顔が光り輝いた。

「どうぞ、食べてみて」

メリナはイチゴを取って先端をかじり取った。

「うむ、甘い!この味だ〜!」

海は皆に髪皿を配った。

「サラダはこの皿に盛って。どんどん食べてね。残っちゃうとこっちが困るだけだから」

海は小さなため息をついた。

「後はこの木から桜の花びらが散っていたら完璧なのになぁ」

「桜?」とメリナが聞いた。

「あー、私達の故郷にちっちゃくって奇麗なピンク色の花を咲かせる木があって、花びらが散るとますます奇麗になるんだ。実は毎年の春に花見というのがあって、そういう木の下で桜を見ながら酒宴を張るんだ」

「ふーん。見てみたいな、それ。お兄ちゃんにはそういうのちゃんと鑑賞出来ないかもしれないけど」とメリナは左手で既に限界まで盛り付けられた皿を持ちながら右手でサンドイッチを頬ばっているリースを失望の色が浮かんだ目で見た。

「それは花より団子って言うんだ」と海が笑った。

「ダンゴ?」とメリナはまた不思議そうに聞いた。

「その辺でやめておけ。埒があかない。ともかく食べ物な」と才機が簡潔に答えた。

「このサンドイッチ結構うまいぞ。海が使ったのか?」とリースが聞いた。

「それはない、ない。海の料理の腕なんか」と言い始めた才機が海の不愉快な視線を感じた。

「···はまだ上昇中です、はい」

話題を変えるような何かを探して才機はリースの後ろからはみ出しているライフルに気付いた。

「あれっ、こういう所にまで銃を持ってくるの?」と才機が聞いた。

「こいつはいつも携行してるんだ。まぁ、今日は使う事にはならないと思うが、念の為だ」

「そう言えば、お前もしかして銃に関してはかなりの凄腕だったりする?」

「お兄ちゃんの数少ない取り柄の一つだね。古里の射撃大会で毎回必ず優勝した。いつも『百発百中だ』って威張ってる」

「そんなに凄いの?」と海が聞いた。

「この前、俺があのでかい奴と戦った時、凄い距離からマッチを狙って当てたんだよ。ありゃ大技だ」

「あの時は百発百中だったかどうか分からないがね。流石にあんな距離じゃ三発も当てたって自信を持って言えない。もしかしたら一発だけ当てて連鎖反応で残り二本のダイナミトが爆発しただけかも。ま、俺のことだから三発全部当てた可能性は十分あるけど?」

「じゃ、何か芸を見せて」と海が所望した。

「芸ねぇ」とリースは辺りを見回した。

「じゃ、移動中の的を当てるのはどうだ?あそこの木の枝から垂れ下がっている松かさが見えるか?一番左のやつ」

約十五メートル離れた木に海はリースが言っていた松かさを見つけた。

「うん。動いてないけど」

リースはライフルを出して狙いを定めた。海は照準線に割と近かったので少し下がった。海と同じくらい照準線に近かったメリナは特に気にする様子はなく、そのまま平然と食べ続けていた。そしてリースが引き金を引いた。銃声がとどろくとともに松かさが地上へと落下し始めた。三秒も経たないうちに二発目の銃声が鳴り、松かさは空中で炸裂した。

才機は両眉を上げ、海は拍手しながらアンコールをせがんでいる。

「おおお、凄い!もう一回見せて!」

「こんな座興を何回も見せられないよ。弾はただじゃないんだから」

「ケーキを買う為なら金の糸目をつけないくせに」とメリナが言った。

「何、これは皆の為を思って買ってやったんだぞ。感謝してもらいたいくらいだ」

「ならあたしたち三人でほとんど食べても構わないよね?」とメリナは小悪魔的な笑みを見せた。

「無理しなくていいよ。苦しくなったら残ったケーキは俺が責任取って片付ける。それに食べ過ぎる太っちゃうよ。女は気をつけないと」

「お兄ちゃんみたいな食い意地のはった人と一緒に住んで太る訳ないだろう」

「んーーーーーーーー!」と海は仰向けになって両腕を伸ばした。

「やっぱいいね、こういう雰囲気。こういう景色。なんか、最近町ではよく見られてるような気がして落ち着かないんだ」

「リベリオンに狙われてるだろう?その可能性は十分にある」とリースが言った。

「もー、言うな、それ。分かってるけど、こんな時ぐらい気のせいだとか、安心させるような事言ってくれないかな」

「いや、リースの言う通りだ。決して気を許すな」と才機が言った。

「前にも襲われた事あるのか?」とメリナが聞いた。

「ううん。この前は初めてだった」と海が言った。

「相手も異能者だから油断は禁物だ。どう仕掛けてくるか分からない。お前のあの姿になると大抵の物理攻撃なら無効になるが、何かに弱いとかそういうのある?熱さとか寒さとか」とリースが問い掛ける。

「俺の知っている限りはないんだけど、色々試してきた訳じゃない。でも高熱にはある程度の耐性はあるみたい」

「海は風を操れるけどそういう防御的な能力とかはないよね?」とメリナが聞いた。

「うん。その辺に関して私はメリナやリースと変わらない。柔道の技なら知ってるけど」

「でも柔道が通じる相手じゃないだと考えた方がいいかも。連中は町の中ではあまり派手な事はしないと思うが、万一の場合は一人で対応しようとしないで必ず俺を探しに来て」と才機が海を戒めた。

「あれ〜、海の事そんなに心配してるの?」とメリナはからかうように尋ねた。

「ええ」と才機は普通に答えた。

「熱いわね〜。海への想いがぴんと伝わっくる 」

「ちょっと、勝手に脚色しないでくれる?」と海が言った。

「そなんに照れなくてもいいのに。もっと素直になれよぉ。二人とももう付き合っちゃえば?楽になるかも」

「だとさ」と才機は何の動揺を見せずに食べ続ける。

「な、何言ってんの、あんた?」とメリナに向って海が言う。

「才機は何かまんざらでもないって感じよ」

「俺は海のタイプじゃないんだよ、きっと」

「じゃ才機のタイプは?」

「俺?ないよ、そんなもん」

「じゃ海の事をどう思っている、実際?好きなの?」

「しつこいよ。これでも食べて」と海が文字通りメリナの口をリンゴの一切れでふさごうとするも華麗にかわされる。

「答えはどっちであれ、そんなの本人の前で言うのはまずいのでは?はいって答えたら自分の気持ちがばれる。いいえって答えたらそれは『お前なんて眼中にない』って言ってるのも同然だ」

「うわー。用心深いだな、あんた。何の隙も見せない。ま、海の興奮ぶりを見るのは面白くて、からかい甲斐があるけど」とメリナは何度も突き付けられているリンゴを遂に口で受け取って噛みながら海にやんちゃなにこ笑いを見せた。

海はそれに反応せず、ケーキを切るのに夢中になるようにして皆に配り始めた。リースの分を多目にする気遣いまでした。まだにこにこしていてメリナは手を果物が載せた皿へ伸ばした。でもその笑顔が長く続く事はなく、消えた。

イチゴが···ない。

「もうなくなってる!」とメリナは右の方へ顔を向けて、真っ赤なイチゴがリースの口に持って行かれ、消えてなくなるのを見た。

「あああ!お前、また〜!あたし二個しか食べてないのに!」

「だってみんな他の果物ばっかり食べていて、誰もイチゴ食べてなかったもん」

「気を使ってくれてたんだろうが!」

「はー?深く読み過ぎだよ、それ。な?」とリースは才機と海に聞いた。

「俺は遠慮していた」と才機は手を上げた。

「一応、私も」と海も手を上げた。

「ほら、見ろ!そしてあたしは好きな物を最後に取っておくのをお兄ちゃんは知ってるはず!」

「それなんだけどさ、もう何年俺と暮らしてきて、何回もこういう事になってるんだから、そろそろその癖を直した方がいいと思うんだけど」

「な···、な···」と怒りのあまりに言葉も出なかったメリナだった。

「そのケーキをこよせーー!」

メリナはリースの前に置かれたケーキが載った皿を鷲掴みにした。

「おい、返せ!イチゴが一番手近にあったから何となく食べただけだ!」

リースはケーキを取り戻そうとしてケーキに腕を伸ばしたが、メリナはリースに背を向いて回避した。そしてフォークを手に取り、リースのケーキから飛び切り大きいな一口を食べた。

「ああああ!分かった、分かった、イチゴなんて買ってあげるからそれ以上はやめてくれ!」

「約束だよ」

「約束だ!」

メリナはしぶしぶケーキを返した。

「四分の一無くなってんじゃん」とリースがケーキを受け取った。

「自業自得だ」

リースはがっくりとうなだれて目を閉じた。その時、ぐしゃっという音がして皿が少し重くなると目を開ける。ケークの上に小さな松かさが載っていた。ケーキはもう皆のところに回っていて、全員が話し掛けづらい目でリースを見ながら食べていてリースだけが食べずにその松かさに潰されたケーキをじっと見ている。やがてリースは松かさを取って無造作に肩越しに後ろへ放り投げて何もなかったようにケークを普通に食べ始めた。

「まあまあ、ケーキはまだ余ってるから大丈夫だよ」と海が慰めてみた。

「食い物の恨み、やっぱり怖いな」と才機が言った。

「才機ならそういう酷い事はしないよね。あたしは才機の隣に座るもん。海は別に構わないよね〜?」とメリナは立ち上がった。

「なんで私に断るのよ?好きにしたら?」

「本当に素直じゃないな。ならあたしがアタックしちゃうかしら」

メリナは才機の隣を目指して歩いたが、途中で風が吹いてきてスカートが捲られた。

「きゃあ!」と危機一髪でスカートを抑えた。

メリナは怪しむようなまなざしを海に送った。最初、海はなんで睨まれているか分からないような様子で無表情に視線を返したたけ。気付いたら両手を前に出してぶんぶん振った。

「私じゃないよ!本物の風だった!」と海が責任を否定した。

次の一陣の風が地面に置いた紙コップを引っくり返し、食べ滓しか残っていない皿を手の届かない所まで吹き飛ばした。

「風が出てきたな。そろそろ片付けて帰るか?」と才機が提案した。

「そうね、早くケーキを食べて帰ろう」と海が言った。

皆が直ぐに食べ終え、半分弱残っていたケーキをリース達に持って帰ってもらった。宿に着く直前に雨も降り始め、水を浴びないといけなかったのは本の数秒間。それから天気はますます悪化して本格的な雷雨になった。こうして最高のピクニック日和が一時間にて最悪の天気と化した。


    • • •


雨の恵みというべきか、雷の恵みというべきか、次の日の仕事が決まった。どうやら昨夜の雷鳴を恐れて家から逃げ出した猫が戻ってこなかった。当然、何でも屋としての仕事というのはその愛玩動物を探す事だ。普段ならリースはこんな屈辱的、さらに重要な事に報酬の少ない仕事を受けないが、依頼してきたのは沢山の宝石をぎらぎら光らせていた典型的なお金持ち婦人だった。約束した礼金も半端ではない。

「という訳で探せる範囲を出来るだけ大きくする為に手分けして三人で別行動を取るのが最善と思う。猫の特徴は白くて、毛がふわふわしていて、首に青いリボンが結ばれている」と朝食を食べながらリースが皆に説明した。

「結構楽だな、今回の仕事は」と才機が言った。

「楽だけど成果をあげなきゃ一ルピスも出ない。つまり監視されないからってサボんなよ」

「誰が?リースこそ遅れを取るなよ。俺は動物に好かれるタイプなんだ。その猫は向こうから寄ってくるって」

「なんだ、それ?動物と会話出来る能力も持っているか?」

「そう、心が通うんだよ。なんって言うか、俺の人徳ってやつ?」

「ほ〜。自信満々だな。何なら賭けようか?誰が猫を捕まえるか」

「面白いかも。何を賭ける?」

「じゃぁ、負けた方は勝った方に明日の朝飯をおごるってのはどう?」

「いいだろう。乗った」

「よし、そうと決まればさっそく捜索に入らせてもらう」とリースがパンケーキの最後の一枚をフォークで刺して頬張っり、まだ口一杯のまま宿を出た。

《案外そんなに遠く行ってないんじゃない?まずは依頼人の家の周囲を捜そう》

「あぁあ、張り切ってるんだな、お兄ちゃん」とメリナはフォークに立たせたソーセージを食いちぎった。

「賭け事になるとリースは本気になっちゃうようだね」と海が言った。

「負け嫌いだよ、お兄ちゃんは」

「本気過ぎだよ。例え見つけたとしてもリースじゃ猫を怖がらせて逃げられるだろう。猫を見つけさえすればこっちのもんだ。この勝負は勝たないことはあっても負けることはない。最悪でも引き分けに終わる」と才機が言った。

「あ、そうだ。才機、この前の話覚えてる?」と海が聞いた。

「この間の話?」

「絶対にびっくりさせるって話」

海の手料理の件が才機の脳裏を横切る。

「ああ、あれ···ね」

「今日持って帰るから覚悟してね」

《覚悟って···》

「オーナーからこつを教わってから作るんじゃなかった?」

「だから、今日色々教えてもらって作ってくるって。」

「そ、そう。頑張って」

メリナは話の内容がよく分からなかったが、二人を見ていて何かが妙に調子はずれだった。あえて聞かないでメリナは聞き捨てる事にした。


リースが依頼人の地所から出た。敷地での探索は不毛だった。

《他手がかりはない。適当にあっちこっち回るしかないか》

才機もメリナも同じような事をしていた。事細かく探していたのは前者の二人だけだけど。メリナはどっちかというとゆったり散歩している気分で、もし猫が運よく視界に入ったらついでに捕まえておこうって感じ。その点、リースと才機はどんな木の枝も壁の上部もチェック済み。今だって才機は角を曲がって並んである沢山のゴミバケツを一つ一つ蓋を上げて中を覗いている。そしてちょうど角にあるゴミバケツの蓋に手を付けたら、同時に別の者の手がその蓋を掴んだ。腕を辿って顔を見るとそれがリースの手だと分かる。

「なんだ、お前もゴミバケツを確認してるのか?」と才機が聞いた。

「俺は何事も徹底的にやる人だからな」

「聞きそびれたんだけど、依頼人の家はどこ?その辺をちょっと捜してみたい。俺の勘が当たると思うならリースも付いてきていいよ」

「残念。そこはもう捜してきた。外れだな」

「フンッ。自分だけ肝心の情報を独り占めしてちゃっかり抜け出そうとしたな?」

「別に。聞かなかったお前のミスだ。そこ以外にも他に当ては幾らでもあるよ」とリースは才機に背を向けてあごをこすり始めた。

《考えろ!俺が猫だったらどこに行く?》

「どうせ今『俺が猫だったらどこに行く』とか考えているだろう」

「な、な訳ないだろう?素人じゃあるまいし」

「そうか?ま、あまり無理すんなよ。今度会ったら俺は猫を抱いてるかも」と才機はその場から離れて歩き出した。

「今夜は晩ご飯抜きだな。明日の朝の為にお腹をすかせて一杯食べたいから」とリースがわざとらしく大きい声で言って才機と逆方向に行った。

そしてその場から誰もがいなくなると、角にあったゴミバケツの蓋が少しだけ動いて、魚の骨をくわえて何かが出てきた。それは白くて、毛がふわふわしていて、首に青いリボンが結ばれていた猫だった。


リースと才機は無闇に町を駆け巡って捜し続ける。今のところ、二人ともついていない。

「フワァ〜〜〜〜」

メリナのちょっとした休憩がいつの間にか仮眠になっていた。さっき、近くにいたハトの群れが一斉に飛び立つ音がメリナを起こした。公園のベンチに横たわっていて、メリナは首を回し、眠そうな目でハト達がさっきまでいた場所を見た。ハトの代わりに手をなめている一匹の猫がいた。白くて、毛がふわふわしていて、首に青いリボンが結ばれていた猫。

《猫か···可愛いな···》とメリナは二度寝した。

目をつぶって。

心地よくなって。

身を眠りの魅惑的な誘いに任せて。

···

···

···

「ああああ!」と最初から全然眠くなかったようにメリナは急に起き上がって猫を指差した。でもそこには猫はもういなかった。


リースは猫の鳴き声に引かれて暗い路地に入った。そこで発見したのは、なんと、三匹の子猫だった。しかしどれも捜している猫と違う。ため息をついてリースは頭をかいた。三匹の遊んでいる猫に目を取られて、後ろに本命の猫が走って通り過ぎるのを気付かなかった。次に通り過ぎたその猫を追って走る妹にも気付かなかった。でも妹はお兄さんに気付いたらしい。背走して路地にいるお兄さんに叫んだ。

「お兄ちゃん!いた!いた!」とだけ言ってメリナは追跡を再開した。


小道、広場、商店街。二人はしつこくどこでも猫の後を追う。大の男と女二人が猫を追い掛けているのは傍目から見ればさぞかし滑稽な場面だろう。 上げられた眉とあざ笑いの数は決して少なくはない。でもそのうち皆と違う反応を示した人がいた。目を見張って心の中に焦りを感じた。それは才機だった。猫を追い掛ける二人から猫を追い掛ける三人になった。

「おい、付いてくんな、今更!人の手柄を横取りするんじゃねぇ!」とリースが駆け付けた才機にに言った。

「依頼通り、俺はいなくなった猫を捜していただけだ。そして見つけた時に二人がそれを追い掛けていたってだけのことだ」

「っていうか、見つけたのはあたしだから、それを言うんならあたしが言うべきよ」

「余計な事言うなって。誰の味方なんだ?」とリースが文句をつける。

「あんた達のくだらない勝負に付き合うつもりはないよ。あたしが欲しいのは礼金だ」

猫は追っ手を振り切れず、遂に木を登った。高い枝の上にしゃがんで三人を見下ろしている。

「それで逃げたつもりか?」とリースはライフルを出して猫を狙った。

「ちょっと、何をする気?」と才機が聞いた。

「威嚇するだけだよ。枝を撃ち落とす手もある」

「これ以上怖がらせてどうする?それに枝を撃ち落としたら猫が怪我をするかも」と才機が銃口に手を付けて下げさせた。

「じゃどうするって言うんだ?」

「見てろよ」と才機が猫の真下の所に行った。

リースは不満そうに先手を譲った。メリナは近くのベンチに座った。

「いい子だ。おいで〜。傷付けたらりしないよ。お家に返すだけだ」と才機は手を軽く叩いて両腕を猫の方に伸ばした。

「なんだ、それ?猫が分かってるはずないじゃん」とリースが愚痴った。

「大事なのは気持ちだよ」と才機は手にポッケトを入れてナプキンを出した。

そのナプキンを開くと今朝の朝飯から取っておいたハムがあった。

「ほら〜、下りてきて〜」と才機がハムを振り回した。

「ずるいよ、餌なんか使って!何が気持ちだ?」

才機はリースの苦情をスルーにして猫に集中した。猫の方は警戒を少し緩めたそうだった。頭をぴょこんと上下に動かして才機を見ていた。

「よーし。いい子だ。怖くないから」

猫は下りたい素振りを見せていたが、やっぱりちょっと高過ぎて無事に下りられる自信がないみたい。しかし才機の激励、あるいはもしかしてハムの御利益のお陰で猫は飛び降りた。ところが、猫の狙いは才機の誘っていた手でもハムでもなかった。才機の顔だった。それを踏み台にして猫は地面に辿り着き、また逃げ出した。リースはチャンス到来と見た。

「もらった!」とリースは猫に飛び付いた。

一秒遅かった。猫が脇の間から抜け出した。それから猫はマリナの方に向った。メリナの膝の上に飛び上がって···そして、座って泣いた。

「あれっ」とメリナは猫と見つめ合った。

リースと才機はそれを見て呆然としていた。

「なんで?」と同時に言った。

「わかんない。脅威を一番少なく示していたから?」

「まぁ、とにかく依頼人に引き渡そう。また逃げ出す前に」とリースが言った。

「じゃ、二人ともはあまり近く寄らないで。嫌われてるみたいんで」

依頼人は愛するペットとの再会に歓喜した。

「ベシ〜!ママは凄く心配したんですよー!もう二度といなくなったりしちゃダメよ、

この悪い子。わたくしの可愛いベシを見つけてくれて本当にありがとうざました。はい、

約束した報酬ですわ」と依頼人がお金をメリナに渡して家の中に戻った。

「猫を捜すだけこんなにもらえるなんて金持ち大好き!これ使って何か豪華なものを食べない?」とメリナが言って才機に分け前をやった。

「ああ、悪い。ちょっと寄りたい所あるから先に帰ってて」

才機は手を振って小走りでリースとメリナと別れた。


才機が宿に戻ったのは海がそろそろ帰る頃だった。ベッドで休んで十五分経たないうちに海が帰った。

「お帰り」

「ただいま。猫見つかった?」

「うん」

「賭けは誰が勝った?」

「えーと。メリナ」

「メリナ?」

「見つけたのも捕まえたのも彼女だった」

「ふーん。ま、それでよかったよ、きっと」

「それはもしかして···」と才機は海が持っている袋の事を見た。

「うん。スープを作ってきた」

「へー。どんな?」

「野菜のスープよ。食べて驚け。絶対美味しいから」

「そうか。もう味見したんだ」

「いや、してない」

「してない?」

「オーナーが自分の料理を信じてあげなさいって言った。心が込めていれば料理は必ず答えてくれるって。

《オーナーよ〜。俺に何の恨みが?!》

「なら、きっと大丈夫ね」と才機は頑張って笑顔を作った。

海は袋から容器を出して才機に渡した。

「あ、スプーンを持ってくるの忘れちゃった。確かこの前の取っておいたよね」と海は鏡台の引き出し開けた。

「あ」と海を止めるように才機が手を出した。

「ん?何これ?」と海は小さな瓶を出した。

その瓶の中には沢山の丸薬が、外側に胃の絵が貼ってあった。

「薬?胃薬?胃薬買ったの?!」

「そ、その···なんっていうか、別に海の料理を食べて絶対に腹を壊すと思った訳じゃないよ?ただ万一の場合もあるだろう?材料が駄目だったとか···体質に合わないとかさ。そもそもそういうのはいつもあった方がいいだろう?どの家庭でも欠かせない代物というか」

海は当初の目的だったスプーンを取って才機の目の前に突き出した。

「食べて」と些か冷たい目で海が言った。

才機は海が差し出していた物をスプーンではなく、自分の腹を切る為に出されたナイフを受け取るように手にした。容器の蓋を取った。見た目は茶色。色は濃くて表面の下までは見えない。才機はスプーンを入れてみる。

手応えあり。

スプーンを上げると載せたのはどうやらジャガイモとニンジン。さぁ、正念場だ。最後の晩餐になるか?スプーンを口に持って行きながらも、あのもがいていたトカゲの姿が脳裏をよぎる。分別を無理やり押さえ込み、決心が弱くなる前に才機はスポーンを口に突っ込んだ。取りあえず意識を保つ事に全力を傾注したから味わうのを忘れたけど、味が悪くなかったような気がした。

「どう?」と海がちょっと不安そうに問い掛けた。

再確認の為もう一度味見すると才機はスープに向って言った。

「悪くない···悪くないんだ!」と才機はまた一口を食べた。

「うん、普通に食べられる、これ!凄いよ!」ともう完全に警戒心を解いて才機は心置きなく食べていた。

「確かに驚けと言ったけどそこまで驚かれるとなんかむかつく···」

でも完全に空の容器を返されたらそれもなんとなく許す事が出来た。


    • • •


「さ〜て。何を頼もうっかな〜。前からこれを食べてみたかったけど、流石にこの値段だからちょっとあれだったよね」とメリナは嬉しそうにメニューに目を通す。

「あの、やっぱり納得出来ない。お前は賭けに参加してなかった」とリースが言った。

「何よそれ?!参加していたに決まってるじゃん!お兄ちゃんが言った事をもう一回復唱しようか?『何なら賭けようか?誰が猫を捕まえるか。負けた方は勝った方に明日の朝飯をおごるってのはどう?』あたしも昨日の仕事に参加していた以上、賭けにも参加していたという事。二人だけの勝負だなんて誰も一言言ってなかった」

「もし俺か才機が勝ってたら自分は関係ないって言ってたくせに」とリースはメリナから顔を背けるぶつぶつ言った。

「よしっ、決めた!これにしよう。頼むよ、才機」

才機は目を大きくして、メリナの人差し指の下にあるスーパーデラックス朝飯定食の絵をガン見した。

「ええ?!そもそも食べきれるのか、あれ?」

「まぁ、才機のお金がなるべく無駄にならないように頑張ってみるよ」

「ちぇっ、おごられるべきなのは俺なんだけどな。あの猫は絶対に俺の胸に飛び込みたかったはずだ。本当はその耳が猫に電波か何かを発信してんじゃない?怪しい」と才機は肘をテーブルにつき、その手にあごをもたせかけた。

「してないよ。あたしの知っている限りは···。んーー、さすがに二人前はいらないからお兄ちゃんの分は海に使ってあげるね。食べてみる?スーパーデラックス朝飯定食」

「えっと、じゃあ半分を才機にあげる。お願いします」と海がリースに会釈した。

「はい、はい、それで満足か?」とリースがメリナに確認した。

「大満足!」とメリナは満面笑みを浮かべた。


「はい、今日の賃金だ」とリースは金が数枚のコインをテーブルの向こう側に滑らせた。

「え?今日はまだ何もしてないけど」と才機が言った。

「今度は依頼人に前払いしてもらった。知ってた?今日は北東地区の粗大ごみ捨ての日」

「知らなかった」

「昨日はあの辺を回って、ちょっとした料金の代わりに俺達が捨てに行ってあげるって色んな人と話をつけておいた。町を囲んでいる外壁の東西部分の外側は一時的な粗大ごみの捨て場になっている。北の門を使って皆が捨てた物をごみ捨て場まで運ぶ。という訳で、今日はちょっと肉体労働を頼む。もう分かってるだろうけど、生身の体で地道に働くんだぞ。町の外に出てもだ。誰かと鉢合わせするかもしれない」とリースは自分のフォークでメリナの皿にあるソーセージを刺した。

しかし取り上げる前にメリナのフォークもそのソーセージを刺して押えつける。

「何のつもり?」とメリナが言って、もう片手が持っているコップからコーヒーを一口飲んだ。

「いいじゃん!四本もあるんだから。それもハムもベーコンも」

「もし残したらあげるよ。まだ早い」

「けち」とリースは不満ながらフォークを引き出した。

「あの、今日は仕事が入ってないから私も手伝える」と海が言った。

「そうか?じゃー、二チームに分かれよう。俺とメリナは北北東を、海と才機は北北西の方を担当して。そっちは十二人から承諾をもらった。家の前に捨てる物を置いておくように言ったから見かけたらごみ捨て場へ運べばいい」

全員食べ終わったら、あげくの果てにメリナは五分の四をお腹に収める事が出来た。リースに残されたのはソーセージとベーコン一本、ハムのスライス二枚、トースト一枚といり卵が少し。外へ出ると薄暗い日だった。霧もちょっとだけ立ちこめていた。リースは皆に荷車を借りられる場所へ案内した。

「これらを自由に使っていいよ。一台を持って行って。こっち側からは十四人の依頼を受けたから、もしそっちが先に終わったら手伝いにきてくれ」とリースが荷車を持ってメリナと一緒に自分の担当している場所に向った。

「じゃねー。しっかり働いてくれよ、二人共」とメリナが手を振った。

才機と海は依頼人の家を捜すのにそんなに苦労はしなかった。

「うわ。流石に捨てる物がこんなに一杯あると金を払って他人にやってもらうかもね」と才機が言った。

「この荷車を使っても一往復で全部運べないよね」

「今日が休みだって事を後悔し始めたか?」

「いや。たまにはリースとメリナだけじゃなくて、私も才機と一緒に働きたい。最近仲間外れにされてるみたいな感じがしてさ」

「何言ってんだ?な訳ないだろう?俺から見れば海が堅気の仕事についていて一番えらいと思う」

「でもやっぱり···ちょっと羨ましい」ともっと小さな声で海が言った。

「ん?何?」

「何でもない。十二軒もあるんだろう?リースとメリナが先に終わったら格好がつかないからてきぱきとやろう」

結局どの家もごみを大量に積み上げていた。机、マットレス、鍋、椅子、部品、何でもあり。量が多くなかった場合は代わりに凄く重い物が待っていた。ソファーとか箪笥。積載した荷車の中身を西のごみ捨て場でぶちまけて、ずっとそれの繰り返し。もう何回往復したかははっきり覚えていないが、残り三軒となった。十軒目のごみを下ろしながら海が言った。

「そろそろ大詰めだね。リース達の方はどうなってるだろう」

「たまに他の人とは会ってるけど、彼らとは一回も出くわしてないな。東のごみ捨て場を使ってるだろう?」と才機は中型テーブルを今朝から着実に大きくなって行くごみの山に加えた。

「未だに霧が晴れないね。今日ずっとこうかし」

海が言い終える前に才機は何かが飛んで直進してくるのに気付いて、荷車から小さなコンロを下ろしていたた海をタックルした。

「いっててて。いきなり何するんだ?」

才機は返事しなかった。

「おい、何黙ってるんだ?っていうか重い!早く退いて」と海が少し苦しそうに訴える。

海は才機を押しやろとしたら手が濡れるような感じがした。しかも温かい。自分の手を顔の前に持ってきて、その理由が分かった。手が血まみれだった。上を見るとちょうど海が立っていた場所に半透明な刃らしき物が二本荷車に刺さっていた。その刃先は赤色に染まっていた。海は少し起き上がって、手で刃を触った。

《氷?》

次にまだ自分の上に倒れている才機に目が行った。酷く出血していた。かなりの深手のようだ。

「ちょ、ちょっと、才機?才機返事して!!死んでないよね?!」と海が大パニックに陥った。

弱った声ではあるが、遂に才機が喋った。

「やっぱり···あれはやばかったな。怪我···ないか?」

「何言ってんだ?!私は無傷だから自分の心配をしろ!見たんならなんで能力を使わなかった?!誰もいないじゃない!」

「いや···何っていうか···あの力は···自分の身を守ろうとする時に···発動するんだ···さっきは···海を守る事しか···考えてなくて、つい···」

「バカ!少しは自分の事も考えてくれ!こんなのやだよ!」と海は才機を激しく揺さぶる衝動に駆られたが、どう見てもこんな状態ではそれはまずい。

海は唇をかんで目に涙が浮かんできた。突然、聞き慣れない女の声が聞こえた。

「あら、やっぱりこんな霧の中で、しかもあんな距離じゃ二人とも同時に仕留めるのは無理だったか」

霧の向こうに人のシルエットが見えたきた。十メートルまで近付いてきたらそれは二十代後半の女性だと分かった。

「お願い!誰か読んで!この人凄くしている!」

「あら。聞いてなかったかしら。それやったのは私なのだれけど」

海はさっきの言葉をちゃんと聞いてはいたが、うろたえるあまりにその内容について思考力を割かず、取りあえず初めて見た人間に助けを求めた。

「誰だ、あんた···?」と海が今の状況を理解し始めたが、つい尋ねた。

「私は誰だと?この状況でもっとましな質問はないかい?どうすれば助けてくれるとか?」

「リベリオンか?!」と涙を堪えながら海の悲嘆が怒りに上回られた。

「まぁ、そういう事だ。せめての情けとしてさっきの質問も答えてあげるか。アイシスと言います。それにしても私って本当についてる。到着した早々二人とも目の前にいるんだもの。おびき出す必要もない。でも当てたのが彼でよかったー。どうやら厄介なのは彼らしいからね」

海は膝の上に抱いている才機の肩をぎゅっと握った。

「許さない···許さない!!」と海はアイシスの足元をすくうほどの風を放った。

アイシスは不意をつかれたが直ぐに体勢を直して、周りの空気に先ほどの氷の短剣を出現させ、海の方へ飛ばせた。海は手を瞬時に上げて、風の壁を作った。氷の短剣が壁にぶつかると軌道を変えられ、害を及ぼさずに地面に刺さった。しかし反撃のチャンスを与えないようにアイシスは攻撃を緩めなかった。多様な角度から刃をひっきりなしに発射して、海に防御の範囲を背後にまで広げさせた。

「そう言えば、彼はともかく、あなたの情報は割と少なかったわね。こんな事が出来るんだ。でも、守るのに手一杯みたいね。いつまで持つかしら?私なら数時間続けられけど?」

消耗戦となれば海は不利な状態になる。今のがはったりでない限り。海の手は少し寒くなってきて、長く続ければ寒さのあまりに痛みも伴う。そうしたら壁をちゃんと維持出来るかどうかは···。それにここで悠長に守っている場合ではない。一刻も早く才機に治療を受けさせないと。アイシスを見ると確かに余裕ありそう。彼女は平静を完全に保っていて肘を抱えていた。口を少しだけゆがめていて勝てる自信満々。その口のゆがみは海が思っていたように軽蔑していたからではない。仕掛けは後少しで完成するからだ。海は周りから飛んでくる刃を防いでいたが、頭上の方には注意が行き届いていない。全くがら空きだった。それに付け入ってアイシスは今必殺の巨大なランスみたいな物を海の真上に作っていた。そんなアイシスを見て、彼女の目がやたらと上の方に行き始めたのに海が気付いた。そして次の瞬間にアイシスは手を振り下ろす動作をしたと同時に、海は顔を上に向け、落ちてくる氷のランスを見た。海は反射的にだじろいで腕を盾にすると、上を含めて風の壁が海と才機を完全に囲んだが、やはり攻撃を完璧に防ぐのに少し遅かった。上の方で壁が貼られた時、ランスの先端が既に壁の向こうまで届いていた。よって先端だけが本体から切り離されて海のニの腕に辿り着いた。海はうめき声を上げた。幸いにその先端は僅かな十センチ。ほとんどの重さを失って、肌を破って血が出ていたものの傷はそれほど深くはない。壁を突破出来なかったもっと大きな部分が風の壁に沿ってドスンと地面に落ちた。

「ちぇ。気付いたか。苦しみを長引かせるよりいっそ楽になった方がいいと思うんだけどね」

命拾いしたとはいえ、状況が好転した訳ではない。押されているまま。手も痛くなってきた。正に万事休す。問題は相手がその氷を思いのまま好きな所に出現させる事が出来る。海は自分自身の元から風を発生する事しか出来ない。それでは、この状態で逆襲しても敵に勝つどころか相打ちにすらなれるかは怪しい。打つ手がない。

でも待って。

本当に出来ないのか?

実際に試した事がないだけでその事実は定かではない。でも仮に出来るとしても、この風の盾を保持しながら風の遠隔操作なんか出来るか?正直こうして全面的に二人をしっかり閉じ込めるような風を回し続けるのに集中力を使い切っている。アイシスの野次も耳に届いていない。盾を解除して相打ちになるのは駄目だ。海が助けを呼びに行けなくなったら意味はない。取りあえず実際に遠隔操作が出来るかどうか確かめるのが先決だ。左手に少し離れた所で落ち葉を見つけた。風で少し揺れていはいるがその場から動く様子はない。海はその葉っぱを見て集中した。葉っぱが軽い風で八センチぐらい舞い上がるのを心に描いた。強く、強く念じた。葉っぱは以前と変わらず、緩やかに揺れていただけ。もう一度。手の痛みを出来るだけ無視して、飢えているオオカミがやっとの思いで見つけた獲物を見るような目で葉っぱを見据えた。

《動け!動け!》

それでも葉っぱはその場から離れなかった。逆に、風の盾が少し弱まったらしい。今まで、海が作った障壁に接触して逸れたり砕けたりしていた氷の刃が一本、回っている風に進路を僅かに変えられただけで、障壁を突破した。通り抜けたやいばは才機の頬を掠って赤い血の線を残した。更に血を流す才機を見て、海は自分の無力さを呪った。そして、絶望した。上半身を才機の上に載せ、あの動かない葉っぱをどんよりした目でじっと見つめた。今はもう、ただ自分の力が尽きるのを待って、その先の末路を受け入れようとしていた。あの一枚の葉っぱを動かす事さえ出来たら、才機を救えたかもしれない。そう思うと胸が無念で一杯になり、涙を遂に流す。あのちっぽけな葉っぱ。あのたった一枚も葉っぱ。浮いてくれたら才機を助けられた。浮いてくれたらまだ才機と一緒にいられた。浮いてくれたら一緒に自分の世界に戻れる方法を見つけたかもしれない。浮いてくれたら才機に···!

海の目に急に光が少し戻った。

葉っぱが浮いた。

自分でもよく分からなかったけど何となくこつを掴んだ。自転車の乗り方を習おうとして、何度も失敗するうちに、何度目でいきなり転ばずにバランスを保てるように。

出来たんだ。

しかしやはり、僅か八センチしか浮かせなかったのに、浮いた途端に風の障壁の一部に小さいだけど、隙間が出来るのをはっきりと感じた。これで先ほど考えた問題の深刻さが実感出来た。やるんなら全力で。一撃で終わらせて相手の攻撃を止めさせなきゃ。二度はない。そんな強力な一撃を加えたら障壁は確実に消えるのだ。自分の急所に当たらないように祈るしかない。確かに分が悪いけど、持っている手札はそれだけだ。

その時、海は気付いた。

よく見たら、続々と飛んでくる刃は前みたいにそれほど正確に向かってきていない。微妙にずれていて、もっと下の方に向けていた。もしそのまま海の風を通ったら足に当たるような、ぎりぎりで外れるような気がした。さっきの大きいランスを降ろしたと同時に無意識に他の刃も下に向かせてのか?理由はどうであれ、相手が気付く前に今がチャンスだ。なるべく才機を庇うように海は自分の体を張って才機の身を覆った。そして真っ直ぐアイシスを見た。心臓の鼓動が急激に速まって破裂しそうで何とか落ち着くように一息ついた。障壁を解除し、切り裂くような風を呼び出す為に気力を限界の限り注ぎ込んだ。強烈な風の螺旋がアイシスの足元から生じた。同時に氷の刃を妨げる壁が消え、鋭い短剣が自由に目標へ進んだ。その殆どが海の直ぐ周りの地面に先端を埋めた。二本が海の左脚に、一本が右脚に、そしてもう一本がちょうど才機の頭を守っている海の右腕に差し込んだ。痛みで海が目を強く閉じて、歯を食いしばった。だが、痛みは海だけの物ではない。

アイシスの叫び声が鳴り響いた。未だに容赦ない風が彼女を巡り、ぴんと張った体の至る所に無数の裂傷が次々に現れた。風が沈静して、アイシスは倒れた頃には既に気絶していた。

勝った。

勝ったが、勝ち誇る時間はない。海は体を刺さっている氷の刃を一つずつ引き抜いて投げ捨てた。

「もう大丈夫よ。歩ける?んな訳ないか。ちょっと待ってて。今助け呼んでくるから。少し動かすね?···才機?···才機?」

さっきまであんなに急速に鼓動していた心臓がが瞬時に止まったような感じがした。

「ちょ、ちょっと、返事ぐらいしてよ。生きてるよね?」

返事は来なかった。

「私、頑張ったよ。あの人に勝ったんだから、これから手当してもらうんだから、しっかり···して···」と海の声が掠れた。

まだ返事がない。

「やだ···やだよ。一人にしないで!」と海はもう完全に涙声になっていた。

それほど離れていない所でストーブがどんと落とされた。ごみを捨てに来た町の住人だった。血塗れの才機と傷だらけのアイシスが目に入って、彼はうろたえた。

「た、大変!医者!医者だ!」と彼は慌てて元来た方向へ走り出した。

海は座ったまま才機をしがみついていた。ただひたすらに泣いた。そして涙溢れる目で才機を見ているうちに、他に見えてきた物があった。今まで何回か見た才機の気配が具体化した青いオーラだった。見るのは久しぶりだけど、それは以前より遥かに薄くて、消えてしまいそうだった。しかも、見た事がない黒い靄みたいな物が才機の傷に重ねて渦巻いていた。本能的にその黒い物が才機を蝕んでいるように何となく感じた。無駄だと分かっても他にどうする事もなく、海は半狂乱でその黒い靄を取り外そうと引っ掻いてやった。意外な事に、その黒い靄はほんのちょっとだけど、現に払われた。前に才機のその気配を触ろうとした事があったけど何の影響は与えられず干渉出来なかったのに。後、異様だったのは今まで非常に寒かった指先が暖かくなってきた。というか、焼けるような感じだった。その黒い靄に触れる度に、まるで擦り剥いた手をとげだらけの岩に擦り付けているみたいだった。しかし海は両手に走る痛みを構わず、意地になってその靄に八つ当たりでもしているように、半狂乱で全部剥がそうとした。

間もなく四人の人はその場へ走ってきた。その中にリースとメリナがいた。四人には海が才機の上の見えない何かと必死に戦ったいるように見えた。

「ど、どうなってんだ?!」とリースが聞いた。

「さっき市門の方で人が死んでるかもって叫んでいた男に会った。何があった?!」と次はメリナが問う。

「才機が···才機が···!」としか答えられなかった海はまだ黒い靄との格闘を続けていた。

靄はもうほぼ無くなっていたけど、気配は小さくてはかないままだった。

「とにかく才機を病院へ」とリースは海の前でしゃがんで、才機を抱き上げた。

「あの女は誰?」とリーサはアイシスの方へ見て聞いた。

「私達を襲ったのはあの女だ!多分死んでないよ。頼む、才機を助けて!」

リースはもう一度アイシスを見た。

「分かった。メリナ、海に手を貸して。彼女も怪我してるみたい」とリースが荷車にあった残り少ないゴミを退かしていたメリナに言って才機を荷車に乗せた。

「私は平気だ。才機を···」

海は立とうとしたが、 足から力が一気に抜いた。

《あれっ》

意識も霞んで全てが暗闇に負われた。


    • • •


近付く足音でアイシスの目が覚めた。もう、そこにはその足音の持ち主しかいなかった。その人はアイシスの直ぐ隣で止まった。体を満足に動けなかったアイシスはそれが誰だかすら確認出来なかった。

「本当にせっかちなんだから。任せりゃいいもの」

男の声だ。朦朧とした意識の中で声が遠くに聞こえたせいなのか聞き覚えはないけど。

「誰だ?」とアイシスはなんとか言えたが、声が小さ過ぎて聞こえなかったか、あるいは単に無視されたか男は答えなかった。

どの道、答えたとしてもアイシスはまた直ぐに気を失った。起きるのがまだ早かったようだ。男はアイシスを抱き上げてどこかへ連れて行った。


    • • •


海の意識が戻った頃にはもう夜だった。見知らぬ場所のベッドの上でその日の出来事を思い出した。夢であって欲しいと願ったが、左の方に顔を向けて点滴を受けている才機を見て、現実だと分かった。

「才機!」と海は起き上がろうとしたが、急に動いたら頭が凄くがんがんして元の体勢に戻された。

「大丈夫よ。生きている。まだ目は開けてないが安定してる」

声は右の方から来た。そこを見るとリースが脚も腕も組んで椅子に座っていた。隣の椅子にメリナが寝ていた。

「ここは病院?」と海が聞いた。

「ああ」

「どう、才機は?」

「危なかったよ。出血多量で死ぬとこだったらしい。幸いにこいつは才機と同じ血液型だから輸血で命を取り留めたんだけど···」

「だけど?」

「妙なんだ。才機のシャツはかなり血塗られたけど、あれは海が垂らした血なのか?」

「え?いや、あれは才機が流した血だ」

「そうか?」

「何が妙だ?背中に凄い傷があったんだろう?」

「それが、医者の話によるとあんなに出血した割にはそれほどの傷はなかった。背中に傷と言えば傷はあったけど、とても命に関わるよう傷じゃなかった」

「そんな···。私の目の前にあんなに血を流してたのに。リースも見ただろう?才機は意識も失っていた。死んだんじゃないかと思った」

「フワァ〜〜〜〜」

メリナが起きた。

「あれっ。海、起きてたんだ。もう大丈夫?」

「うん。頭が痛いけど」

「びっくりしたよ。海の怪我はそんな大した事なかったけどいきなり倒れるんだもん」

言われてみれば腕と足に包帯が巻かれていた。

「うん。私もよく分からない。急に力が入らなくなった。力を使い過ぎたかな」

「確かにあの時の海は変だった。駆け付けた時は平泳ぎか何かをしてた」

「あ、あれは···」

今のメリナの言葉であの黒い靄の事を想起させた。何となくあれが才機にとってよくない物と感じて打ち払ったけど、まさか、あれで才機が治った?海はまた左へ顔を向けて才機の気配を確認した。その青いオーラみたいな物はいつもの大きさに殆ど戻っていた。黒い靄もない。

「とにかく、この事件は謎がずっと解けないまま終わるらしい。医者も俺もさっぱり分からん。ま、皆無事だったからいいって事にするか」とリースが言った。

「あ、そうだ。あの女はどうした?」と海が聞いた。

「それが、先に才機と海を病に送って後で俺はあそこに戻ったが、もう彼女はいなかった。海の言う通り死んでなかったみたい」

「そうか」

「じゃ、海も無事に切り抜けたことで、俺達はもう帰るよ」

「ありがとう、みんな」

「また明日」とメリナが言った。

二人は病室を出て、海は安心してまた眠りについた。


    • • •


才機が意識を取り戻したのは翌日、午前遅くだった。最初に気付いたのは右脚がやたらと重い。脚の方へ見ると海が側で椅子に座っていて、才機の脚の上に腕と横顔を載せて

いた。眠っていた。

《助かったか》と才機はまた頭を枕に預けて目をつぶった。

そして数秒後にまた開けた。自分が今大怪我をしているはずだ。なのになんで包帯一枚も巻いていない。体もどこも特に痛んでいない。いつものように寝起きする感じだった。ぐっすり寝て起きた感じはしなかったけど。疲れは確かにあった。才機は起き上がって自分の背中を確認しようとた。その動きは海を起こした。目を開けて、才機が自分の背中を触っているのを見た。

「よかったー!やっと気が付いた!もー、本当に心配したんだよ!」と海は才機に抱きついた。

「という事は···夢じゃなかった。ならば、どうして俺は何ともないんだ?これはまだ自分の体だよね?あ、一応医療パッドみたいなのが付いているね」

才機と最後に言葉を交わしてからの事を海が全部教えた。

「じゃ、海が治したって言うの?」と才機が聞いた。

「分からない。でもそれでしか説明しようがない」

「本当にそうならそれは凄いぞ。奇跡そのものだ」

「とにかく私は才機が無事で何よりだ」

「お前のお陰だな。ありがとう」

「何回も言ってると思うけど、私ばかりじゃなくて自分の事もちゃんと大事にして。二回目だよ、あんたの病床を見守るのが」

「ごめん、心配かけて。本当にこれきりにするよう努力する」

「でも、こっちからも礼を言う。あの氷の刃で私が死んだかもしれない。ありがとう」

「お二人さん、朝から熱いっすね」

部屋に入ったリースだった。

「もう元気か、才機?心配したよ〜」と後に付いてきたメリナが嬉しそうに才機に抱きついた。

「ええ、おかげさまで」

「本当よね〜。痛かったよ、あの鍼。でもこれであたし達は永遠に結ばれている。責任とるよね?」

才機は混乱した顔になった。説明した時に海はその辺だけをはしょった。

「えっとー。さっき才機が一杯血を失ったって言ったよね。メリナは適合者だったから才機の輸血の為に献血者になってくれた」

「そう···だったのか。わりぃな」

「いいって、いいって。才機の耳が生えてきたらお揃いのバンダナ買いに行こう!」とメリナは楽しそうに手を胸元の前に合わせた。

「え?!!」

「冗談だってば。血が少し混ざったぐらいで生えないよ」

才機はちょっとだけほっとしたような顔になった。

「でも、輸血に参加した事ないし、正直分かんない」とメリナが付け加えて言った。

才機はこれ以上振り回されるエネルギもなく、頭の定めを運命に任せてため息をついた。

「生えたら、柄は俺に選ばせろよ」

「そんなにしょげるなって。生えないよ。多分。生えたって海はまだ才機の事が好きだよ」

「あんた、また考えなしにそういう事を」と海は顔をしかめた。

「俺が知りたいのは、才機、お前気分は?見た目はどうってことないけど」とリースが言った。

「うん。具合はいつもと殆ど変わらない」

「その理由は見当がつく?」

才機と海は目と目を見交わした。

「説ならあるんだけど···」と才機は部屋の外を通りすがる医員達を見た「宿に帰ってから話そう」

医者から見ても特に問題はなかったので退院する許可は容易に得た。宿に戻ったら全員才機と海の部屋で集まった。

「わざわざここに戻って話すって事は異能者である事に関係してるんだな。まさか、自分の傷が勝手に治る能力もあるとか?そうだったらお前は神の領域に近付いてるぞ」とリースが言った。

「異能者がらみではあるが、治したのは俺の力じゃない。海の力だったかもしれない」と才機が言った。

「海?」

「メリナ、言ったよね。私が泳いでいたように見えたって。あれは才機の生命の具現みたいな物から害を取っていた···と思う」と海が説明した。

「生命の具現?害?」とメリナが聞いた。

「私しか見えないの。集中すればリースとメリナのも見えるよ。うん。今は青くて、体中を覆っていて、メリナのはなんか生き生きしていて、リースの方は安定している。才機のはメリナと少し似たような感じだけど、怪我していた時はもっと薄くて、変な闇もかかっていた。その闇は害のように感じたから取り払った。もしかして、それで才機が治ったんじゃないかと思った」

「あたしは海の事を大体知ってるつもりだったけど、まだ知らない事が多いみたいだね」とメリナはびっくりするような顔になっていた。

「私だって昨日までは知らなかった」

「昨日まで知らなかった力···進化なのかな」とリースが言った。

「進化?そういや、ゲンから同じような事を聞いた気がする。それかどうかは分からないけど」と海は才機を見た。

リースは海を見て考えていたようだった。

「もし今の話が本当なら、誰にも言わない方がいいよ。たとえ同じ異能者でも。そんな凄い力は聞いたことないし、誰かに何らかの形で利用されかねない」

「うん。賛成」と才機が言った。

「ま、これで謎は恐らく解けた。一件落着だ。今日は仕事が入ってないからゆっくりしてて」とリースが言って、メリナと一緒に部屋を出ようとした。

「あ、昨日の仕事。後二軒残ってた」と二人は戸口をくぐったら才機が呼び止めた。

「気にすんな。残りは俺達でやっておいた。そうそう、今回のギャラはどうなったって思っているんなら、渡すのを忘れた訳じゃない。治療費に使わせてもらった」

「そうか。足りたか?」

「少し足りなかった」とリースはウインクして部屋のドアを閉めた。

「ここんところ事件が多くて嫌になるよな」と才機は座っているベッドに横になって目を腕で覆った。

「ここで暮らすだけでもう十分苦労してるっていうのに、これからもあのリベリオンの連中に絡まれなくちゃいけないのか?」

「二回目の失敗だから、諦めるといいんだけど。運がよければ才機が死んだって思い込んでくれるかも」

「その考えは甘いと思うよ。お前も言っただろう?誰かに見られているような感じがするって。大方、町にスパイがいる」

海は鏡台に寄り掛かって視線を床に向けた。

「そろそろ仕事が始まるんじゃない?俺はもう大丈夫だから行っておいでよ」

「そうか?じゃ行ってくる。今夜は何か美味しい物を持ってくる」

「サンキュウ」


気がちょっと滅入っていたけど、海はいつものようによく働いた。上がるまで後十五分のところで、よく知っているお客さんが入ってきた。

「才機?どうした、こんな所に?」

「考えてみれば、お前の職場見た事なくて、見物がてら向いに来た。ついでに食事もここで住ませるか」

「では、ご案内いたします。こちらへどうぞ」

才機は海が案内してくれた席についた。

「この間、お前が作ったスープを頼めるか?あれは結構良かった」

「ああ、あれね。かしこまりました。出来次第直ぐにお持ちしますので少々御待ちください」

スープが持って来られた時、ロールパンも付いていた。

「オーナーは才機が私の知り合いだって感付いて、パンをサービスするだって」

「人がいいんだね、ここのオーナー。頂きます」

海は帰る準備を終わらせてフロアに戻った頃、才機はもういなかった。残っていたのは空の椀と数枚のコイン。店を出ると才機はドアの隣で待っていた。

「お疲れさま」

二人が宿へ向って歩いていると海は持っていた袋を持ち上げた。

「才機はもう要らないでしょうけど、お礼にこれをリースとメリナにあげようと思った」

「そうだな。色々と世話になったんだ」

「しかし本当にびっくりした。まさかあんたが店に来るなんて」

「前からちょっと気になってたんだ。なんかいい雰囲気の店だね」

「昼間ならお客さんがわんさと来て大変だよ。オーナーが拡張を考えてるらしい」

「食べ物は美味しいしね」

「そう、せっかく来たんだから別の物を食べてみればよかった」

「比べたかったんだ。海の味とこの店の味。海の方が美味しかったかな」

「何あのわざとらしいお世辞?んな訳ないでしょう?」

「いやぁ、本当だ。俺もよく分からないけど、何かが違った。もしかして海は俺の為にエビやサケとかを一杯詰め込んでくれた?」

「普通の量だったと思うけど」

「そうか。まぁ、でもこれだけは言える。海のスープを食べた時の方が嬉しかった」

「口のうまい事言ったつもり?」

海は才機を軽く押しのけた。

「でもそんなに言うんだったらいつかまた作ってあげてもいいよ」と今度はちょっと嬉しそうな顔で言った。


宿に戻ったら海はリースとメリナの部屋のドアにノックをした。出たのはリース。

「あ、食事がまだだったらー、なんだその顔?!」

リースの左目の縁に真っ黒なあざが出来ていて腫れていた。

「うん、ちょっとな。どうした?」

「あ、えっと、まだ食べてないならこれを持ってきたけど」

「そうか?悪いな。どうぞ入ってて」

海と才機は部屋に入った。メリナは明らかに不機嫌だった。

「喧嘩···したのか?」と海がおずおず聞いて袋を鏡台に置いた。

「ああ、お兄ちゃんがね」

その不機嫌さが口調にも現れた。

「誰と?」

「あたしにしつこく口説いていた奴と」

「言っておくけど、こんな顔だけど勝ったのは俺だから」

「あたしもあいつの金玉に飛び切り素早い蹴りを入れたかった、あの馴れ馴れしい野郎」

「痛そうだね」と海はリースの目を見た。

「どうって事ないよ、これくらい」

海はリースの顔を凝視してその左目へゆっくり手を伸ばした。実際にリースに触れる寸前に、静電気によるショックでも受けたように手を急に引っ込んだ。

「どうした?」と才機が聞いた。

「ある。あの黒いの。才機の時ほど濃くはない。もっと小さいし。でもある。そしてやっぱり···触ると痛い」

海はまた手をリースの方へ伸ばした。

「おい、無理すんな。こんなの別に致命傷じゃないんだから」とリースは頭を引いて海の手を避けた。

「確かめたいんだ。本当に治せるかどうか」

自分しか見えてない何かに手を付けて、何かを剥がすような動作をしていた。海の顔の表現は苦しそうだった。

「本当に大丈夫?」と才機が心配そうに聞いた。

「大丈夫。後少し」と海は辛そうに言った。

その時、才機とメリナの口が同時に開いた。目の前でリースの左目が見る見るとよくなって行った。海が終わったらもう殆ど元通りになっていた。リースは自分の左目を触ってみた。

「凄い···凄いよ···。海が言った事を疑っていた訳じゃないけど、実際に治されると···凄い···」

「私も未だに信じられない。これが現実なのか?異能者の力って一体なんなんだ?何でも出来る···の?」

海の脚が急に崩れ、才機はくずおれる海を受け止めて支えた。

「やっぱ大丈夫じゃないじゃん!」

「どうやらこの力を使うと副作用が出るらしい」と海は自分の額に手を当てた。

「海、その力をみだりに使わない方がいい。永続的な作用だって可能性がある」

「一応礼を言うけど、俺の助言を聞きたいなら俺も同じ考えだ」

「今日はどんな気分だった?何か違和感とか感じなかった?」とメリナが聞いた。

「今朝起きたらいつも通りだった。仕事も普通にこなせた」

「とにかく、部屋に戻って休もう」と海を支えて才機は自分達の部屋へ向った。

「夕飯、ありがとう」とメリナが言った。

「いいえ、これ以上冷める前に食べてください」と海が言った。

「あ、そうだ、才機。明日の仕事は決まったけど、お前はどうする?」とリースが聞いた。

「町を出る必要はあるの?」と才機が尋ねた。

「あ、いや、町内での仕事だ」

「じゃぁ、やるか」

「詳細は明日伝えておく」

「わかった」

才機と海は自分の部屋に戻り、リースは鏡台に歩み寄ってほぼ治っていた目をよく見た。


    • • •


アイシスは洞窟の中で藁のベッドの上で横になっていた。よく知っている場所だ。ここはアイシスの部屋だ。謎の男に拾われて次に意識が戻った時は自分がどこかの野原にいた。その時は謎の男ではなく仲間の二人が起こしてくれた。そしてその二人がアイシズをアジトに連れ帰った。彼女の傷はまだ塞がっていないが、出血はとうに止まっていて、こうしてじっとしていれば傷はそんなに痛まない。海に味わわせられた屈辱が一瞬も頭から離れなくて、今もいらいらしながら天井となっているごつごつした表面を見ている。そんなアイシスにお客さんが来た。デイミエンという男だった。彼はアイシスの側に座り込んだ。

「デイミエン。わざわざこんな汚い所に来ていただかなくても、呼びさえすれば直ぐに行きましたのに。この無様な姿をあなたにさらしたくはありませんでしたけど」

「何を言う?ここはどこも汚いじゃないか。むしろこの辺りはあまりじめじめしていない分、他よりいい場所だ」

「私達がこんな所で住まなくていい日はいつ来るのでしょうか」

「来るよ。俺はここにいる皆が堂々と世間で生きられるようにして見せる。必ず。それは追い追い、具合が良ければ報告を聞きたいんだが」

「ええ。大丈夫です」

「君の遠距離攻撃なら彼らの不意をつけられると思ったんだけど」

「はい。安心して下さい。私はこの有り様ですけど、まったくの失態という訳ではありません。男の方を仕留める事が出来た。死んでいなければそれに近い状態のはずです。もし生きていれば、今止めを刺すのは造作もないでしょう。女の方は思いがけない力を発揮して油断しているところを襲われました。面目ありません」

「そうですか。今の報告は入った情報とかなり矛盾しているけど」

「···と、言いますと?」

「男はぴんぴんしているそうだ」

「ええ?!ありえない!何かの間違いでは?」

「いや、確かな情報だ」

「そんなばかな!っん!」

アイシスは急に起き上がったが体中の痛みで顔を歪めた。

「信じて下さい。本当なんです。彼に致命的な傷を負わせました」

デイミエンはアイシスを優しく仰向けに倒した。

「落ち着いて。君を疑っている訳じゃない。失敗したとしても俺がアイシスを責めないって事はお互い知っているし。嘘をついても何の得はない。だが君の言う事が本当なら何があったかを突き止める必要がある。君はもう休んでいて。後は俺達に任せて」

「申し訳ありません」

デイミエンは立ち去って暗闇に消えた。


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翌朝、海が起きたらもう何ともないと言った。見る限りもそうだったし、才機はそうい

う事にしておいた。今日の仕事は肉体労働の続きだった。リースとメリナと才機は一日運送屋をやるそうだ。どこかのお金持ちは自分の家を壊して一から立て直すらしい。三人の仕事は家の中の物を全部家の持ち主のもう一軒の家に搬送出来るようにトラックに積載する事だ。家が割と大きいので三人だけではなく、本物の運送屋と協力して仕事をする予定だ。

「しっかし、お金持ちの考える事が分かんないな。高が模様替えする為に家ごとぶっ壊すか、普通?」と三人が現場に歩きながら真ん中のリースが言った。

「でもそのお陰で今日の仕事が見つかったから感謝しなきゃ。やっぱり金持ち大好き」とメリナが言った。

「別に文句を言っていた訳じゃないよ。ただ解せないだけだ。ま、お金持ちになる日まではずっと解せないままだろう。なぁ、才機?」

「ん?あぁ、そうだな」

「どうした、没頭して?」

「ちょっと海の事を考えていた」

「朝ご飯を食べていた時は顔色が良くなっていたみたいけど、海は何か言った?」

「本人は全然平気だって」

「なら、信じてあげよう。くよくよしたってどうにもならないし」

「たまにはあたしの事も真剣に考えてくれてもいいよ」

メリナは才機に近寄って手を肩に載せた。

「ん?メリナもどうかしたのか?」と才機が聞いた。

「そう。病んでるよ、あたしの心が」

「心がねぇ。聞いてる、お兄さん?妹の精神衛生がとても不安だそうだ。その辺の配慮をちゃんとてるか?」

「この際は俺が配慮してもしょうがない。お前の方がそれに適任なんじゃないか?」

「もー、才機は意地悪なんだから。ま、その分、落とし甲斐があるんだけどね」とメリナが才機に微笑んだ。

「誰が意地悪?からかってるのはお前だろう」と才機が抗議した。

「なんでからかってるって言い切れる?」とメリナは真剣な声で才機の顔を真っ直ぐ見た。

「勘。それにリースは絶対に妹を過保護にするタイプだ。本気だったらリースは黙って見過ごさない」

「妹は誰と何をしようとこいつの勝手だ」

「ふーん。昨日のお前の顔を見て、それは信じ難いな」

「あれは別だ。メリナが嫌がってた」

「本気かどうか、証明してあげようか?海に内緒にするから」とメリナはもっと近付いて才機の耳元で囁いた。

才機は視線をメリナのと合わせて右の眉を上げた。

「ははは、その反応可愛い!やっぱ最高、才機は!」とメリナはリースの左側へ戻った。


例の家に着いたらリースは運送屋の人達と話を付けてきた。

「人使い荒いなぁ。さっそく二階を俺達に振った」

「えええ?この豪邸の二階は全部あたし達がやるの?」

「全部じゃないよ。向こうは一階から作業を始め、終わったら二階で俺達を手伝うことになってる。あっちは五人いるから一階は先に終わるだろう」

三人は家に入って二階を目指した。

「うわー。値が張りそうな物一杯あるな。お前らくれぐれも何もを落とさないように気をつけろよ」とリースが言った。

「この壺だけであたし達のギャラの何十倍だろう?」とメリナは階段で飾ってあった装飾用の壷を見た。

階段を上って家の幅に及んでいる廊下に出た。あっちこっち色んな絵画や彫刻などが並んであった。その殆どが一人で運べる物だったから三人は最初にその廊下を空にした。次は最も奥の部屋に取り掛かることにした。入ってみると見つけたのは豪華な寝室だった。

「これが寝室か。俺達の部屋は四つも入るじゃん」とリースが言った。

「これからこの屋敷で見る物にそんなに感心しない方がいい。空しくなるだけだよ」と才機が言った。

メリナは大きなな天蓋付きベッドに飛び込んだ。

「うわーー、ふかふかー!才機も横になってみない?」

メリナはちょっと誘惑的なポーズで隣の場所を軽く叩いた。

「そうしたいのは山々なんだけど悠長に寝転がっている場合じゃないだろう?ずっとサボっていたと思われたら給料が減らされちゃうかも」

「ぶー」

「俺達三人じゃこのベッドは無理だな。そこの箪笥も凄く重そう」

「じゃ二人掛かりで運べる物から始めよう。割と軽い物はメリナに任せるよ」とリースがより小さな箪笥へ向かった。

「はーい」とメリナはベッドから飛び降りてクローゼットに入っている物から手をつけた。

終わったら残ったのはそのベッド、箪笥、他に三人だけでは運べない家具が少々。

次の部屋。

書斎だった。その割には本がそれほど多くなかった。部屋の奥に本棚が三つしかなくて、後は机、ランプ、椅子、様々な植物。いつも通り才機とリースは二人で重い物を先に移動させた。本を下された本棚は三人掛かりでなんとか一階へ運べた。本しか残らなくなったら三人はそれぞれ自分のペースでその本を一階にあった段ボール箱に梱包した。メリナが書斎を出るところに才機が書斎に戻った。書斎に入ってドアの直ぐ右の壁に他のドアが取り付けられていた。何か入ってないか確かめようと才機がそのドアを開けた。

「うわ」

「どうした?」とリースが聞いた。

「これは単なる収納室だと思ったが···まぁ、収納室ではあるけど···」

リースは持っていた本を床に置いて才機の所に行った。

「なるほど。少ないと思ったぜ」

その収納室は本棚で埋め尽くされた。それもかなりの数だった。

「本物の書庫はここだったね」と才機は奥へ調べに行った。

リースも付いて行った。縦二列、横五列の本棚がそこに並んであった。二人が書庫を見ている間にメリナは帰ってきて、書斎へのドアを開けようとしたがドアが何かにぶつけて完全に開かなかった。その隙間から首を突き出して他のドアが邪魔になっているのを知った。邪魔になっているドアを閉じてメリナはリースが下ろした本の山を拾ってまた部屋を出た。急に真っ暗となった部屋にいた才機とリースはドアの所まで手探りで慎重に進んだ。才機はドアを開けようとしたが鍵がかかっていた。

「あ···鍵がかかっている。閉じ込められた」

「メリナのやつ。ちょっと中の様子を見てから閉めてほしいな。ま、どうせここは解体されるんだ。このドアを壊しても苦情はないはずよ」

「だよね。じゃ、こじ開けるよ。あれっ」

「どうした?まさかまた力が使えないとか?」

「そのようだ」

「まじ??なんでこういう時に限ってそうなるんだ?いや、ふざけてるだけだろう」

「いや、まじで。体が変形しないんだ」

「肝心の時に役に立たないんだよな、お前のその怪力」

「言い返す言葉もない。本当にどうなってるんだ、これ?」

「ま、メリナは直ぐ戻るだろう。少し待てばいいか」

メリナが戻るのを聞こえたらリースはドアをドンと叩いた。

「おい、メリナ!出してくれ!」

メリナははっとなって、リースの声が聞こえた方向へ向かった。奥の書庫へのドアを開けるとリースがそこで立っていた。

「先から見ないなって思ったら何やってんだ、二人とも?」

「何やってんだじゃねぇよ。お前が閉じ込めたんだ」

「あたしが?あ、そうか。で、なんで才機がそんな格好?」

リースが才機の方に振り向いた。

「あ!やっぱりふざけてたんだ!」

「え?何が?」とメリナがはてな顏になった。

才機は自分を見て、体がガラス状になっているのに気付いた。

「あれっ。いつの間に?いや、さっきまでは出来なかったよ、本当」

「お前、この期に及んでうまく話してごまかせると思うか。坑道の時は本当にそうだっただろうけど、こん」

リースが突然黙り込んで首をかしげた。何か考えているようだ。

「ちょっと試したい事がある」とリースはドアを閉めた。

「今、お前の体はどうなってんだ?」

「生身の状態」

「力を使ってみて」

「使えない」

リースはドアを開けた。

「じゃ、やってみて」

才機は変形するのに成功した。

リースはまたドアを閉めた。

「今は?」

「普通の体に戻ってる」

「あのガラスの体になれないよね?」

「はい」

リースはほんの僅かだけドアを開けた。一センぐらい。

「今は?」

「変身出来た」

リースはドアを閉めた。

「今は?」

「元に戻ってる」

リースはドアを開けた。

「お前、光がその力の源となってるんだ」

「らしいね。全然知らなかった」

リースとメリナは目と目を交わした。

「肌が光を吸収してるのかな」とメリナが言った。

「どうかな」と才機は自分をドアにはさんで、右腕を奥の書庫に入れて出来るだけ日が当たらないようにした。

その状態で体全体をガラスのように変えられた。

「そうでもないみたい」と才機が言って元に戻った。

「そりゃ、そういう事だったらつま先はいつも変わらないはず。靴の中にそんなに光が届いてないだろう。」とリースがあごをこすった。

「な、目をつぶってみて」

「目つぶっても出来るよ」

「いいから、やってみて」

才機が目を閉じるとリースは肩手を才機の後頭部を押さえ、もう一つの手で自分のマントを使って才機の目を隙間なく覆った。

「もう一回やってみて」

才機はそこで突っ立っているだけだった。

「やってるか?」とリースが聞いた。

「やってる」

リースは手を離した。

「なるほど。光は目にさえ入らなければいいんだ」

「そうか。異能者って不思議なものね」と才機が言った。

「ま、まぁ、ちょっと面白い事を発見したね。暗い所に閉じ込められないように気を付けるこったな」

「うん」

結局一日中やっても終わらなかった。次の日に戻って残った物をトラックに詰め込んだ。リースとメリナは先に帰ると言った。才機は特にやる事がなくて、暫くしたら海も仕事から上がるし、その辺をふらりと歩き回る事にした。時間になったら才機は海を向かいに行って、その足で二人は宿へ向った。

「そうやって俺の力は光がないと発揮出来ないって分かった」

「へー」

「ほんのちょっとでいいんだ。光が目にさえ入れば力を使える。それが星明かりでも」

「私も何かの条件であの力を使ってるのかな」

「さぁ。今まで力を使えなかったことはなかった?」

「ないね。疲れて使えなくなることはありうるけど」

宿に付いたら人が入り口の隣で座り込んでいた。膝を立てて、顔を腕に埋めていた。メリナだった。

「あれっ、メリナ?」と海が尋ねた。

メリナが顔を上げると二人は彼女の泣き顔に驚かされた。

「どうした?」と才機が聞いた。

「才機···助けて!」

涙が新しくメリナの頰を伝って流れ落ちた。

「え?あ、ああ、もちろん。何があった?」

「お兄ちゃんが···お兄ちゃんが危ない!連れて行かれた!」

「誰に?」と海が聞いた。

「四人の男。この間私に絡んできた男とその仲間」


**リースとメリナの帰り道にその四人の男達に見かけられた。

「おい、あいつだ。よくやってくらたな、この間。ずっと落とし前をつけようと思ったんだよな。ちょっと挨拶しに行こうぜ」

「お、弾薬のセールか。何があるかちょっと見てくる」と売店の広告を見たリースが言った。

リースを待っている間に、誰かがメリナと肩を組んだ。右を見たら前にちょっかいを出しにきた男が直ぐ隣で立っていた。

「あんた、また!」

メリナは尖った堅い物が背中に押し当てられるのを感じたら話しを途中で止めた。後ろにも誰かいるみたい。

「そうそう。あまり騒がない方が身のためだぞ。お兄ちゃんが戻ってくるのを大人しく待つんだ」

そのリースが間もなく戻ってきて、あの男が海と肩を組んでいるところを見ると瞬時に不愉快な顔になった。

「てめぇ、まだ懲りてないみたい。今度は暫く外に出られないようにしてやろうか?」

男は上着の中に忍ばせていたチャクラムを出して遊ぶ感覚で人指し指にかけて揺らしてみせ、海の後ろにいる男もメリナの肩越しにちらっとナイフをリースに見せびらかした。

同時に他の二人の男がリースを左右とから囲んだ。

「久しぶりじゃねぇか。そちらは俺のダチだ。ちょうどおめぇの話をしてたんで、皆会いたいってさ」

リースは険しい目つきになった。

「でさ、ちょっと面を貸してもらいたいんだよね。あまり騒動を起こさないで同行してくれるかな」

「妹をどうするつもり?」

「何もしないよ、協力してくれれば。あっちに着いたらちゃんと解放してあげるから。約束だ」

「その約束を守ってもらうよ。傷一つでも付けたらお前らを全員ぶっ殺す」

「おっかねぇー。でも覚えておく。では、行きますか?」

リースとメリナは孤立した地区にあるぼろぼろな倉庫に連れてこられた。そこでリースの手をつなぎ梁に巻いた縄で縛った。そうやってリースの手を真上へ伸ばした。

「なんで妹がここにいる?解放するという約束だろう?」

「そうだったな。おい、女を外に放り出して」と男がもう一人の男に指示した。

メリナは出入り口に連れていかれ、手荒に押し出された結果、メリナはつまずいて転んだ。後ろから扉にかんぬきが掛かるのを聞いた。**


「それかれここに戻って、才機に助けを求めに来たんだけど、まだ帰らなくて、ここで待ってた」

「なんで警察に行かなかった?」と海が聞いた。

「ダメなんだ。あたし達はなるべく警察と関わらないようにしないと。たまにいかがわしい仕事に手を出してるし、行ったってただの不良の喧嘩だって軽くあしらわれるだけだ。あたしはあんた達以外に頼れる人がいない!」

「分かった。リースが捕らえてる場所まで案内してくれ」と才機が言った。

そこに着くと才機は扉を開けようとしたがやはりかんぬきが掛けられていた。

「二人ともあそこら辺で隠れて待ってて。もし十五分経っても俺が出て来なかったら···ま、その時は四人が出て行くのを待って俺達の身を引き摺り出してくれ。死体じゃなきゃいいんだけど」と才機が言った。

「不吉な事言わないでよ。何をする気?」と海が聞いた。

「まだ考え中」

「考え中って···そんないい加減な」

本当はちゃんとした作戦がなければ行くなって言いたかったけど、メリナの焦っている顔を見るとどうしても言い出せなくて。才機は海の肩に手を載せた。

「大丈夫だ。無茶は最低限にするから。まず交渉出来ないか話してみる。早く行って」

最初、躊躇はしたが、海は心ならずもメリナと一緒に才機の言う通りにした。


中ではリースがぼろぼろな状態になっていた。

「おめぇ、治りは結構早いみたいだ。この間俺とやり合った痕跡は何もなかったじゃないか。今度はもっと徹底的にやってやる」と男は金棒でリースの脇腹を叩き付けた。

「ぐ!」

「そうだ。その目を元通りにしようっか」

男は左手でリースの顔を上げて右手で拳を作った。

その時、かん高い音に全員耳鳴りがした。

「なんだった、あれは?」

「さぁ」と仲間の一人が言った。

皆がいた大部屋への戸口で才機が現れた。

「おい、誰だそいつ?ドアにかんぬきを掛けてなかった?」

「掛けた···と思ったが、あれっ、忘れたかな」

「ね、兄ちゃん、俺達は今取り込み中なんで、出ててくれるか?」

「うん、俺もこんな所直ぐに出たいんだけど、問題は彼も連れて行かきゃならないんだよね」と才機がリースの方へ目を向けた。

「わりぃが、俺達はこいつに用があるんだ。出て行く気がねぇならおめぇも可愛がってあげてもいいぜ」

弱った声でリースは言った。

「何しに来たんだ?あれを使ったらお前も海もこの町で暮らせなくなるよ。うまくやってるだろう?さっそく帰れ。妹を頼む」

「それが、もう頼まれたんだ、妹に。どちらかの頼みしか聞けないんだったらやっぱ先に頼んだ方の頼みに応じるのが筋だろう?」

「バカ野郎。こいつらを全員殺す覚悟が出来てない限り、お前は勝てない。お前と海がせっかく掴んだ安住を無くしてもいいのか?」

「殺す?俺達?おいおい、何ぼけた事ぬかしやがる?この人数が見えないのか?そいつには勝ち目はねぇよ」

《確かに多勢に無勢。そしてリースの言う通り、ここで能力を使っちゃ駄目だ。俺の柔道だけではこんな人数にどれほど通じるか分からない。相手の戦闘力も不明だし。せいぜい出来るのはそいつらを怒らせて逃げる。運が良ければ四人ともが俺を追ってきて、その間にメリナと海はリースを助け出せる。もし全員が追って来なかったら二人くらいは自分で何とか出来るかも》

男は懐から二枚のチャクラムを出して才機の方へ投げた。二枚のチャクラムは才機の頭の両側の直ぐ近くを通って、後ろの壁に埋まった。

「最後の忠告だ。こいつとはどういう関係か知らねぇが、同じ目に会いたくなきゃさっさと消えろ」

才機は頭をかいた。

「それが答えらしい。俺に任せて」ともう一人の男が言った。

その男は金棒を拾い、才機に歩み寄った。才機は金棒を振り下ろす手を掴み、男を思い切り投げ倒した。

「野郎!」と残り三人の男も才機の方へ突進した。

才機は壁に埋まったチャクラムを一枚引っぱり出して接近中の三人に投げた。三人とも伏せてチャクラムをかわした。

「なんだ、フリスビーみたいだね」と才機はもう一枚を引っぱり出して立ち上がっている三人へ投げた。

今度は高過ぎてかわす必要もなかった。

「へ、最後の一個をふいにしたな。もう終わりだ」

才機は怒らせるのはこのぐらいで十分と思い、引きどころだと判断した。だが逃げようとしたその瞬間に先ほど投げ倒した男に足を掴まれて転んだ。もう二人の男はそのチャンスを逃すつもりはなく、意地悪そうな笑いで才機に襲い掛かった。才機は思いの外早く膝に立って、走ってきた男より先にあごにパンチを入れた。二人目の男ではそううまくいかず、才機に飛び掛かった。その男と取っ組み合っている間に才機の足を掴んだ男も才機を押さえるのに加わった。それでも才機は雄々しく戦ったが、三人目も加勢に入るとあがくのもすら困難になった。

「ここまでか。よーし。そのままあいつを取り押さえろ」とその光景を見ていた四人のチャクラム男がさっき落とされた金棒を拾い、それで手の平を叩きながら背を向けている才機へ歩いて行った。

才機はもう殆ど四つん這いの状態で身動き一つも取れなかった。男一人は才機のふくらはぎの上に膝をついて、胴も押さえていた。もう一人は才機の首に左腕を巻き付けて、右手で才機の右手を地面に押さえつけていた。三人目の男は才機の左腕を捻じって水平に引っ張っていた。才機はまだ振り解こうとしていたが無駄だった。後ろを見る事さえ出来なかった。

「威勢のいいやつだな、お前。その腕を折ったら大人しくなるかな」と男は金棒を持ち上げ、才機の左腕に振り下ろした。

ピシャリ!

以外な事に叫び声は出なかった。なぜかというと打たれた時に気を失った。金棒を持っていた男が。それに気付いた才機の左腕を掴んでいる男が右を向いたら、同じく伸される前に一瞬だけリースが頭の上に金棒を振り下ろすのが見えた。本当は才機が投げた二枚目のチャクラムは見事に的に当たった。その的とは男達ではなく、リースを縛っていた縄が巻かれたつなぎ梁だった。チャクラムはつなぎ梁に巻いた縄を切り、リースは解放された。今度は才機のふくらはぎの上の男は二人目の仲間がリースに倒されるのを見て、リースに突っ掛かった。体の自由をほぼ取り戻した才機は左手で最後に自分を捕らえている男にパンチを食らわせ、そのまま立って肩車で相手を投げ落とした。弱ったリースは十分に力を出し切れなくて、しかも手がまだ縛ったまま。相手に組み敷かれ、金棒を取り上げられた。その金棒をリースの頭蓋に振り下ろそうと、男は金棒を高く持ち上げたが、才機が横から男をタックルしてリースは助かった。今度はその二人が組んず解れつして、才機がさっき投げ落とした男が立ち上がって加勢に来た。斃れて後已む、リースもその乱闘に入った。

外では海とメリナはまだ不安を抱いて、ちょっと離れた所から廃倉庫を見ていた。そこからは何も聞こえない。中はどうなっているか想像に任せるしかない。才機が中に入ってから二人は誰かがそのドアから出るのをひたすら待っていただけ。恐らく、十分はまだ経っていないが、才機は偉く長い時間あの倉庫にいるような気がした。

「本当にごめんね、海。才機をこんな事に巻き込んじゃって。自分だって最低と思ってる。でもあたしじゃ何も出来なくて、お兄ちゃんがめちゃくちゃにされるのを想像したら耐えられなかった。しかし、もしあたしのせいで才機まで···」

メリナの顔と声から恐怖がはっきりと伝わってくる。

隣でしゃがんでいる海がメリナの肩に手を載せた。

「メリナのせいじゃないよ。才機は自分で行くって決めた。あんた達には世話になってるし、ほっておけない。今はうまくいく事を祈ろう」

海は強がってみせたけど、本当は居ても立っても居られなかった。

後五分待っていたら、倉庫の壊れたドアから二人の男が現れた。才機とリースだった。才機はリースに肩を貸していて、二人はゆっくりと海とメリナの方へ向っていた。清々した海はほっとため息をついた。メリナは二人が来るの待てず、リースの方へ走って抱きついた。

「いってぇ!お前見えないのか、このぼろぼろな体?」

「よかったー!本当によかった!」とリースに与えている痛みを気にせず、メリナは新たに涙を流した。

海は他の皆がいた所へ歩いた。リースも才機も本当に傷だらけで、痛々しい有り様だった。特にリースが。

「痛そうね」と海は心配顔でリースに手を伸ばした。

リースはその手を取って下ろさせた。

「いいんだ。自力で治す。お前達はもう十分やってくれた」

海はちょっと躊躇ってから才機を見た。

「俺もいいよ、これくらい。あの力は無闇に使うなって言ったろう?」

「あんた達がそう言うなら···」

「あの男達は?」とメリナが聞いた。

「中で伸びてるよ」とリースが言った。

「やっぱり、能力を使ったか?」とメリナは才機を見た。

「いや、彼はあの···なんだったっけ、ジュウドウだけであいつらに挑んだ」

「リースが言うと英雄譚に聞こえるけどそういうもんじゃなかったよ。助けに行った俺は結局リースに助けられた」

「とにかく、二人とも無事で何より。あの人達が気が付く前に帰ろう。ここは薄気味悪いし」と海が言った。

「そうだね。ここで長居は無用だ。早く行こう」と才機が賛成した。

それから宿に戻って、メリナはリースをベッドに寝かせた。

「お兄ちゃんの治療をするから、海も才機の傷の手当をしてあげて。今日はありがとう」

「もう大丈夫、二人だけで?」と海が聞いた。

「うん。後はあたしがやるから」

「じゃ、リースの事はお願い」と海が言って才機と一緒に部屋を出た。

暫くしたら、メリナはリースの顔をタオルで拭いていた。

「痛い?」

「少ししみる」

「水に薬を混ぜたからね。これで治りが少し早くなるはず」

メリナはタオルを洗面器に戻して水を絞った。

「うつ伏せになって。次は背中をやる」

リースは言われた通りにして、メリナは打ち傷のある所をタオルで当てた。

「ねぇ、お兄ちゃん」

「分かってるよ、お前が言いたい事」とリースは口を挟んだ。

「やっぱりやめよう!」とメリナは手を引っ込んだ。

「今さら?」

「もうあたしには出来ないよ!」

リースはため息をついた。

「情が移ったか?前からそうじゃないかと思ってた。ま、無理も無いか」

「お兄ちゃんだってそうだろう?本当はこの仕事を降りたいと思ってるはずだ」

「俺達は遊びで何でも屋やってる訳じゃないだろう?!仮にもプロだぞ、俺達は。真面目に商売やってるからこれで食っていける。今回の報酬も破格だった」

「お兄ちゃんの本当の気持ちを教えて!本当にそれしか考えてないの?」

「仕方ないんだ!この期に及んで、ごめんなさい、ずっと騙していた、なんて言える訳ないだろう!約束した日は明後日っていうのに」

「彼らが来てくれなかったら、お兄ちゃんの怪我はもっと酷かった。下手をすればお兄ちゃんが···ひょっとしたらお兄ちゃんが···」

「分かってるよ、そんな事!」

短い沈黙が部屋を訪れた。

「あんなに同じ時間を過ごして、話し合って、助け合ったのに、リベリオンに引き渡したら可哀相過ぎる···」

「今回の事で俺達二人にとっていい教訓になった。あまり深入りするなってな」

「あたしは二度とやだ、こんな仕事···」

「くっそ。残すところ二日でなんでこんな事にならなきゃならなかった」

次の日、才機と海は何回もリースの様子を見に行こうと思って彼らの部屋に訪れたけど、毎回留守だった。正確に言えば、留守だと思っていた。本当は二人が陰気な顔で留守にしているふりをしていただけだった。


    • • •


才機と海は朝起きて顔を洗う時間もなくドアをノックする音がした。海が出るとそこにリースとメリナが立っていた。

「二人ともどこにいた、昨日?朝からずっと部屋にいなかったじゃない」

「ああ、ちょっと用事があってな。帰った頃にはもう夜だった」とリースが言った。

「もう平気なの、歩き回って?」

「うん、ちょっとずきずきするけど、問題ない。ね、今日は休みだよな?」

「ええ」

「海にも仕事を手伝ってもらたいんだけど、大丈夫?」

「いいよ。準備が出来たら才機と一緒に下りる」

「じゃ、下で待ってる」とリースは食堂に向った。

一回も海と目を合わせなくて、海の左の空間ばかりを見ていたメリナがリースの後からついて行った。

才機と海が下に下りたら自分の朝食は既に頼まれていてテーブルの上で二人を持っていた。

「今日は二班に分かれて別行動を取るんだ。才機は俺と一緒に来て。海はメリナに同行して欲しい」

「何をするんだ?」と才機が聞いた。

「難しい事じゃないさ。あそこに着いたら依頼人から詳細を直接聞いた方がいい」

「そうか」

皆が朝食を食べていたが、どうも雰囲気がいつもと違う。

「二人とも大丈夫?なんか、やけに静かっていうか、いつもの二人じゃないっていうか」と海が言った。

「少し疲れているだけ。昨日は一日中忙しかったし」とリースが言った。

「昨日は何の仕事してた?言ってくれれば手伝ったのに。ずっと暇だったよ」

「ああ···ちょっとメトハインまで行ったんだ。二人をあんな所に行かせるのは悪いと思って」

「まぁ、元気出して。今日は私達に好きなだけ頼っていいから」

「ああ、すまん」

食べ終わったらリースはライフルをメリナに渡し、全員宿を出た。リースとメリナはお互い横目て見て、リースがかすかにメリナに頷いた。メリナは海を、リースは才機を連れて、二人は反対の方向へ行った。五分歩いたらリースと才機は人気の少ない広場に着いた。

「待ち合わせ場所はここだ。まだ少し時間があるな。ここでちょっと待ってく」

「ああ」

リースは近くの販売店に行って飲み物を二つ買った。ポケットから小さな包みを出し、それに入った粉を一つの飲み物に入れた。

「ほら」

才機が振り返るとリースが飲み物を差し出していた。

「え?さっき食べ終わったばかるじゃん」

「少し冷えてるだろう。待ちながら温かい物でも飲んで」

「俺は別に平気だけど。リースって冷え性?」と才機は差し出された飲み物を手に取った。

才機は一口飲んで舌つづみを打った。

「なんか、苦くない?リースの好み、これ?」

「うん」

「変わった嗜好だな」と才機は飲み続けた。

「そういや、ライフルをメリナに渡したけど、二人は何か危ない事やるのか?」

「いや、ちょっと狩りに行くだけだ」

「ふーん。海は狩りに行った事はないと思うよ。そんなに役に立てるかどうか分からない」

才機はあまり美味しく飲めなかったが、結局は全部飲む事が出来た。

「まだ来ないね。いつ来るんだ、その依頼人?」

「そろそろだな」

才機が持っていたコップは手から落ちた。その手は突如として襲ってきためまいのせいで額に行った。

「あれっ、なんか、急に···」

言い終える前に才機は崩れ落ちた。


メリナと海は町を出て、近くの林を歩いていた。

「メリナも銃の使い方知ってたんだね」

「基本ぐらいはね。お兄ちゃんに比べてあたしなんか目じゃないけど」

「狩りに行くって言ってたけど、具体的に何を狩るの?」

「逃亡犯人」

「ええ?!それって危なくない?男達に任せた方がいいんじゃ?」

「心配ない。聞いた話では丸腰で怪我している。万が一の場合海の能力もあるし。指名手配人が自分を連行した人を異能者呼ばわりしても誰も信じないから大丈夫」

「そう?まぁ、メリナがそう言うなら」

もう少し歩いたらメリナは止まった。

「何か聞こえる。海はここで待ってて。ちょっと調べてくる」

「一人で大丈夫?」

「うん。もし犯人がこっちへ逃げたら止めてくれ」とメリナは低木の向こうへ消えた。

メリナはああ言ったけど、海はやはり落ち着いていられなかった。全面的に青葉に囲まれた海はきょろきょろ回りを見始めた。真後ろで物音がして海は百八十度回転した。木の枝に割と大きい鳥が着地したんだ。安心の吐息をつける途端に、それほど遠くない場所で発砲がこだました。それから間もなく、何かが低木の中で動いているのを聞こえた。それは間違いなく海の方に近付いてきていた。海は後ずさりしたが数歩引いたらもう背中は木に押し付けられた。目の前の灌木が揺れ、さっきの大きい鳥が飛び立った。海は両手を前に出した。灌木から出てきたのはメリナだった。

「ちょっと来て!」

「え?!」

メリナは海の手首を引っ張って今来た方向へ走った。海が連れてこられたのは鹿の前。その鹿は地面に横たわっていて、後部が血塗れだった。

「間違ってこの子を撃っちゃった!このままだと死んじゃう!何とか出来ないの?」

「動物の怪我を治した事ないから分からない。でもやってみる」

海は鹿の隣にひざますいて銃傷に集中した。動物のオーラを見るのも初めてだったけどやれば出来るものらしい。例の黒いのも出てきた。才機が重傷した時みたいに濃くて渦巻いていた。

「これは···厳しくなりそう」

海は五分の間その指を焦がすような痛みに耐え、黒い物体を取り除いた。するとシカは立ち上がるほどの力を取り戻したら、直ぐにそうして急いで逃げて行った。海は額から汗が滴っていてその場で横に倒れた。ぼんやりと手が背中の後ろで縛られるのを感じた。

「な、何を」と海はほとんど聞き取れないほどの声で何とか言えた。

「ごめんね、海。実は、あたし達はあんた達を」

続きは聞こえず、海の意識が遠のいた。


海の意識が戻ったら最初に見たのは前の目に檻に入った男。その男はあぐらをかいて座っていて、手が鉄格子檻の外で縛られ、鼻から上はしっかり黒いビニルか何かで覆われた。明らかに才機だった。その目隠しみたいな物は恐らく光りを遮る為だ。海は後ろ手に縛られ、足も縛られていた。足を縛っている鎖は手を縛っている鎖と結び付けられて、海が立てないようにしていた。

「やっと目覚めたか?」

リースの声だった。声の方へ見るとリースとメリナと知らない男二人がいた。海と才機はどうやらああいう前方と後方からしか外が見えない古い幌馬車に積んであるらしい。

「どういうこと?何がどうなってるんだ?」と海が聞いた。

「ま、文字通り俺達はお前らを売った。リベリオンにね」

「ええ?!どうして?!」

「別にお前達に恨みがある訳じゃない。これは仕事なんだ。お前達に会う前に受けた仕事ね」

「何言ってるの?訳分からない!才機も何とか言ってよ!」

「もう言いたい事は特にない」と才機がきっぱりと言った。

「まだ分かんないの?俺達はリベリオンに雇われたんだ。その依頼はお前らを捕らえて引き渡す事。いや、ちょっと違う。本来、依頼はお前達を抹殺する事だったんだけど、俺達は人殺しだけはやらない主義だから抹殺を捕獲に変更させてもらって、お前達をリベリオンの好きなようにさせる事にした」

「ふん、ご殊勝なことだ。今日の様子が可笑しいと思ったよ。でもずっと騙していたとは。まんまとやられたね」と海は激越な口調で言った。

「そうなっちゃうね。お前達の情報を得て色々知る為に接触して親しくなる必要があった。でも楽しかったよ、本当に。満更演技じゃなかった。特に妹にとって辛かったよ」

「それは悪かったね」と海は皮肉をたっぷり入った口調で言った。

遂にメリナが喋った。

「ごめんね海、才機も。本気で言ってるの。こういう事になって欲しくなかった。あたしは本当にみんなを友達だと思ってた。出来れば自分の胸の中を探ってみて欲しい。あたし達を許せるすべを見つけられるかもしれない。

海はこれ以上二人を見たくなくて顔を背けた。メリナは海の肩に手を載せた。

「いい?こんな風に別れるのは本当に嫌なんだ。あたし達の身にもなって。胸に手を当てて自分の心を探ってみて。きっとあたし達を許せるはず」

海は自分の肩をギュッと掴むその手を払い除けたくて仕方なかったが、今の状態ではそれすら叶わない。

「この状態じゃそれはちょっと無理があるね」

「そうだったね。ごめんなさい」

「おい、いつまで金を確認してるんだ。全部入ってるだろう」と男の一人がリースに

言った。

「そうだね。毎度。また何かあったら何でも屋リースに御任せあれ」

「こいつは凄い怪力だって聞いたんだけど。あの程度で拘束出来るのか?」

「大丈夫、大丈夫。あの目隠しさえ巻いていれば何も出来ない。鉄格子が邪魔になっているから自分では決して取れない。そうそう。風で縄を切ろうと思っていたらやめた方がいいよ。間違って動脈切ったら大変よ?」

実際はそうしよう一瞬思っていたが、風で縄だけを切るなんて精密な操作は出来ないからリースの言う通りだった。男が幌馬車のカーテンを閉じ、仲間と一緒に運転手席に乗って馬達を走らせた。

「信じられない。まじで頭きた。何でずっと黙ってる?才機は悔しくないの?」

「悔しいよ。あいつをぶん殴ってやりたい。能力なしで、自分の生身の拳を使って。意識があるうちに何度も殴れるようにな。この縄をお前の風で何とかならいの?」

「残念だけどリースの言う通りだ。そもそもこんな分厚い縄を切れないんじゃないかな。強い風で切れたとしても間違いなく才機の手首も切れちゃう。縄を切れなくてもあいつらを一回吹き飛ばせばよかった。才機こそどうしてもその目隠しを取れない?」

「この鉄格子が邪魔だからな。檻は狭いし。やっと入るんだ。頭を下げるのに限界がある。くっそ。息苦しいよ、この目隠し。鼻の風穴くらい開けろっつうの」

「私が取れないかな」

海は苦労して少しずつ才機の檻の方へのたくって行った。急激な動きをする旅に頭ががんがんした。まだ鹿を治した時の疲労が残っている。才機の檻に足裏を押し付けて膝に立ち、縄が許すまで足を伸ばした。

「頭を下げて」

届かない。

「もっと下げて」

「ここまで下げているとこれ以上首が曲がらない」

海は精一杯手を上げようとしたが数センチ足りなかった。諦めて床に倒れてから海はうめき声をあげた。

「もーー、頭が痛いー」

「あまり興奮するな。無駄に疲れるだけだ」

「興奮せずにいられるか?!なんであんたはそうやって平然としている?」

「どうしようもないんだから。事態がどう展開するか見るしかない」

「私はむかつき過ぎて、あいつらにどう落とし前を付けるかしか頭にない」

次の二十分の間の殆どはこんなやりとりと脱走未遂に終わる試みが何度も実行された。

「しかも何よ、あの心を探れば許せるだの。許せる訳ないだろう!」

「海よりちょっとだけ早く目覚めたけど、俺も散々言われた、それ。聖者気取りか

何だか知らないけど」

海はもう一度手を縛っている鎖から抜け出そうとした。でもやっぱり悪あがきでしかなかった。海はため息をついた。

「大体なんで私だけ鎖で縛られてる?あんたじゃあるまいし」

前で乗っていた男の一人が前方のカーテンを退かした首を突っ込んだ。

「うるせぇよ、さっきから!よく文句を言う人だな。少しは気にいられたんじゃない?あんな可愛い錠前で縛り付けられて。先はまだ長い。頼むから黙ってろ」と男は注また前方の道路に注意を向けた。

「可愛い錠?」

海は鎖の錠前を手探りした。何だか···ハートの形をしている。

「これってまさか···」

《値打ちはゼロに近いだろうけど、あたしにとっては凄く大事な物。あたしにもあるんだ、そういうの》

「あれも嘘だったのか?でもそんな嘘をついて何の得がある?とても嘘をついているようには見えなかったし。だったらなぜ?」

《出来れば自分の心を探ってみてほしい。あたしたちを許せる方法を見つけられるかもしれない》

《 胸に手を当てて聞いてみて。きっとあたしたちを許せるはず》

《日記は今でも実家にあるけど、錠前を首飾りにして、それと鍵だけを持ってきた》

海の目は自分の胸ポケットに行った。あっちこっち体を動かしてみた。気のせいかもしれないが微妙にポケットに何か入っているような気がした。才機に向けて体を床から押し上げた。

「ね。私のポケットに何かが入ってないか確かめて」と海は才機に囁いた。

才機はどういう事かよく分からなかったけど、取りあえず手を前に伸ばした。今の才機は目が見えなくて、海が既に胸ポケットを才機の手の前に位置づけた事が知らなかった。

ぷにゅう。

才機は慌てて手を引っ込んだ。

「あ、ごめん!」

「いいから早く!」と頰を少し赤らめた海が低い声で言った。

今度はもっと慎重に手を海のポケットに入れたが、多少の接触は避けられなかった。何だか才機が今目隠しされている事に海が凄く感謝していた。ただでさえきまり悪い状況だというのに、事態が悪化するばかりだった。カーテンの向こうから手が現れた。男が様子を見に来た。ばれちゃう。

海は体全体を檻に押し付けて、才機にキスをした。

「静かになったと思ったら。あのな、あんた達は自分の立場分かってるのか?現実逃避にもほどがある」

無視されて、男は呆れて才機と海を二人にした。

「もう行ったよ。さ、早く」と海が囁いた。

才機がポケットから取り出した物。

それは鍵だった。

「鍵だ!絶対落とすな。今錠前を向ける。はい、開けて」

何回か試みて鍵穴をうまく見つけられなくて、四回目で遂に錠を開ける事に成功した。海は鎖を脱ぎ捨てて足を縛っている鎖も解けた。次は才機の目隠しを目の上から外した。なるべく音を出さないように才機は腕と頭を鉄格子に押し付けておもむろに檻をこじ開け始めた。だが、檻の錠が圧力に耐えかねて屈するとやはり物凄い音がした。

「やっと大人しくする気になったと思ったら今度は何?」と前で乗っている男はまたカーテンを退かして覗き込んだ。

海はまだ縛られているふりをして足と手を背中の後ろで隠して横たわっていた。才機は檻の扉を元通りにし、むき出しになった目を幌馬車の後方に向けて頭を檻の縦棒にもたれていた。幸いに手の縄をまだ取り外していなかった。男は海から才機へ、そしてまた海を見た。

「何だった今の音?」と男は二人を怪しい目で見た。

「さぁ、岩でも轢いたんじゃない?」と海が言った。

男は幌馬車の中にざっと目を通した。もうちょっとまめに調べようと思って男は幌馬車に入ってくる。一本の足を踏み入れたその時、幌馬車は割とでかい岩を轢いて、男は頭を頭上の骨組みにぶつけた。

「痛って!」

「ほら、言わんこっちゃない」

「ちくしょう、もっと丁寧に運転しろよな」と男は仲間に言って席に戻った。

今度は海に縄を解いてもらって静かに檻から出た。次は二人が幌馬車から飛び降りて着地した場所でじっとしていた。伏せたまま、二人は幌馬車がどんどん離れて行くのを見た。

「二人とも遅いよ。あたしの言った事の隠された意味に気付くのがそんなに難しかった?以外と鈍いね」

左を見ると道端の林の縁でメリナがしゃがんでいた。その隣にリースもしゃがんでいる。才機と海は二人のいる場所まで背を低くして走って同じくしゃがみ込んだ。

「もう一回説明してもらえるかしら?」と海は眉を上げた。

「あ、その前に、あたしの錠前と鍵は?返してもらっていい?」とメリナは少し遠慮がちに聞いた。

海はメリナが頼んだ物を差し出した。

「よかった〜。置いてきたらどうしようと思った」とメリナがが自分の宝物を取り戻した。

「ここで立ち話ってのもあれなんで帰りながら話そう」とリースが林に入った。

「また説明する必要は特にないと思うがね。俺が先ほど説明した通りだから」

「なら、鍵はたまたま海のポケットに入っただけで、気が済むまでお前をぶん殴っていい訳だな?」と才機が言った。

「まぁまぁ、確かに俺が言った事は全部本当だけど、それは楽しかったって事も辛かったって事も含めてだ。やっぱりやり通せなくて今日の案を練った。一応一流の何でも屋としての面子がある。約束されたお金も捨て難かったし。そう言えば、ほれ」とリースは才機に袋を投げ渡した。

「今回は主にお前達の働きによって仕事が成功した。報酬は八割お前らのものだ。お疲れさん」

「どこまでが本当でどこまでが嘘だったか分かんないよ。最初から私達を陥れるつもりだっただろう?」と海が聞いた。

「うん。あたしがあんた達の部屋に侵入したあの日から」とメリナが言った。

「ああ!やっぱり鍵をかけたんだ!」と才機が言った。

「うん。自分をそこまで疑ってくれて助かったよ」

「どうやって入った?」

「針で錠をこじ開けた」

「あっさり言うなぁ」

「だってあの程度の錠ならこじ開けるのはへっちゃらだ。あたしそういうのちょっとだけ得意なんだ」

「そういう事を自慢すんな」

「でも最初から私達をはめるつもりだったんなら、どうしてリベリオンに襲われた時に助けてくれた?」と海が聞いた。

「そりゃ、俺達がお前ら引き渡さなきゃ報酬をもらわなかったから。連中はせっかちみたいで、そっちもそっちで動いていた。いい迷惑だ、本当に」とリースが答えた。

「せめて俺達にも今日の作戦を打ち明けろよ」と才機が言った。

「海に教えるつもりだった。でもあの癒し能力を使ったら思っていたより早く気を失って妹が全部伝えられなかった」

「薬を飲ませる前に俺にも教えろ」

「だって、断ったかも」

「殴っていいよな、一回ぐらい?」と才機は海に聞いた。

「そう言うなって。全部丸く収まっただろう?」とリースが言った。

「もし私が目が覚めなかったらどうするつみだった?あるいはメリラが言ったことの意味に気付かなかったら?」

「色々と時間を稼いで海が起きるのを待ってたんだ。でももしそういうことになっていたらその時は諦めて二人を力ずくでも奪い返した。その為にこうして追ってきたんだ」

「最初から奪い返して欲しかった。脱走するのが大変だったから」と海が言った。

「大変って何が?鍵を持っているって分かればそっちのもんだろう?」とメリナが言った。

「鍵の事に気付いた後でも色々!」と海は急に口をつぐんで顔が赤くなった。

それを見た才機も赤くなった。

「え、何?」とメリナが聞いた。

「何でもない」と海が言った。

「機嫌治してくれよ。ほら、今からうまいもん食わせてやる。俺のおごりだ。今度は薬抜きで。それでどうだ?」とリースが言った。

「十割だ」と才機が険しい顔付きで答えた。

「ん?」

「報酬。今回は十割きっちり俺達のものだ」

「え〜?あの檻は安くなかったぞ?」

「それで一度失った信頼を取り戻せるなら安いもんだと思うがね」

これもまた重々しい口調で言われた。

リースは少しの間才機を直視し、本気だと判断するとベルトに付けられているポーチに手を突っ込んだ。

「信頼を金で売るとかありえないよ、この人。俺達より怪しい商売だぜ」とリースが数枚のコインを才機に渡した。

「でも全てが終わって本当によかった〜」とメリナが腕を伸ばした。

「これであたしが本気を出せるってもんよ」

メリナは海に意味ありげな視線を送りながらそう言い足した。

その視線を受けた海はよく分からない顔で目を前に戻したメリナを見ていた。


    • • •


「あああああああん」とメリナはスポーンを才機の顔の近くに持って行った。

「ん?何?」

「だから、食べさせてあげる」

「なんで?」

「あたしの才機へのお詫びの気持ちだと思って」

「いいって。ほら、海も結構傷付いたぞ。海に食べさせて」

「でも女同士じゃ可笑しいだろう、それ?周りの目を気にしてるの?私が機の恋人だと勝手に思わせればいいじゃん。遠慮しないであたしの好意を素直に受けなさい」

「だから、いいって。ご飯ぐらいは自分で食べる」

「ひどいよ!一生懸命に謝ろうとしているだけなのに、そこまで拒絶しなくたっていいじゃない?」とメリナは顔を手で覆い、泣き声で言った。

「いや、そうじゃなくて···」

「そんなにあたしが許せないの?じゃ、どうすればいいか教えてよ!あたしが嫌いなら気が済むまで殴ればいい!それで信じてもらえるなら耐えてみせるから!」

「分かった、分かった!怒ってないから食べさせてもらうよ。一回だけだぞ」

「三回」とメリナは人差し指と中指の隙間から才機を覗き、むせび泣きながら言った。

「はい、はい、三回」

メリナはあっと言う間に立ち直って笑顔で最初の一口を才機に食べさせた。そして才機の口がスプーンを囲んだと同時にメリナは海にも笑顔を投げかけた。ただ、今度のはもっと意地悪な笑顔だった。

《これであたしが本気を出せるってもんよ》

メリナが言った言葉の意味を理解した。

《何よ、それ?ライバルって事?私は別に···》

「俺はやらないぞ」とリースが海に言った。

「頼んでないから」と海が率直に返事した。

海は何も言わないで自分の食事を食べながらメリナが才機を食べさせるのを見た。でも腹の底で不愉快な気持ちが込み上げるのを否定出来なかった。


その夜、才機は腹一杯で寝た。そして真夜中の二時ぐらいに才機が眠りから目覚めた。とういうより、目覚めさせた。横向きに寝っていた才機に腕が巻き付いてきた。才機はうとうとしていてまだその手を完全に意識していなかった。でも次に海の体が自分の背中に密着するのを感じたら、眠気が一気に飛んだ。

《海の奴、どうしたんだ?寝てるのか?寝てるよね?一体何の夢を見ている?》

今度は足が絡み付いてきた。流石に才機は平然でいられなかった。目ん玉が飛び出そうになっていた。

《起こした方がいいかな。でもこの状態で起こしたら海が恥ずかしいだろうな。待てば元の体勢に戻るかも。ってゆうか、そもそも本当に寝てるのか?今まで海は寝相がいい方だったし。寝たままこんなに動くのってあり?まさか···意図的に?!》

才機は後ろを向こうとしたが、その体勢でよく見えなかった。

《やっぱり、確かめなくては》

「ねぇ、海。海?」と小さな声で才機が囁いた。

反応はあった。ただし、口頭の反応ではなく、才機は前よりもちょっと強く抱かれたような気がした。

《何それ?何それ?いきなり名前が呼ばれて思わず力を入れた?それとも本当に寝ていて、たまたま握力が強まったとか?あれじゃ分かんねぇ〜!》

もはや自分の目で確かめるしないと結論し、才機は体をねじって二人の目を合わせた。

「うわー!」と才機はベッドから落ちた。

「ん〜。何?」と才機の叫びで起きた海が目をこすった。

海は才機がいたはずの方へ向いた。

「な、何してるの?!」と海はびっくりした。

今の質問は才機に向けていたものではなかった。才機の代わりに、隣にいたメリナが問われていた。

「寝ている」とメリナは普通に答えた。

「どうやってはいっ···?!いや、聞かなくても分かる」と海は眉間に人差し指と中指を当てた。

「なんでここで寝てる訳?」

「別にいいじゃん?このベッドは三人まで入る」

「そういう問題じゃないだろう?なんで自分の部屋で寝ない?」

「寂しかった。最近夜はちょっと寒くなってきたし」

「だからってここに忍び込む必要はないだろう?っていうかそんなに寂しいならお兄さんがいるじゃない」

「この年にもなってお兄ちゃんと添い寝なんて恥ずかしくて出来ないよ。まぁ、出来ているけど仕方なく」

「今は恥ずかしくないの??お兄さんと添い寝して二人だけの秘密にすればいい」

「今は別に恥ずかしくないよ。あたしと才機は意気投合してるもん。ねぇ〜」とメリナは最後の方を才機に向けて言った。

落ちた場所であぐらをかいて左腕を左肘に載せ、右手を右膝に立てて体重を掛けている才機は未だに黙り込んでいて少し困った顔でメリアを見詰め返した。いたずらした子供に『しょうがない奴だなぁな』とでも言っているような顔。

「何が意気投合だ?明らかに困ってるだろう」と海が指摘した。

「そんな事ないよ。感じたんだ、才機の心拍。だんだん上がっていたよ。かなり興奮してたみたい」

「それはあんたが緊張させていたからに決まってる!」

「海は全然分かってない。教えてあげてよ、才機。あたし達の仲の良さについて」

「才機、はっきりしないとこの人は分からないよ。迷惑だって言って」

才機は交互に二人を見た。

「恥ずかしがらないで言いなよ」

「何黙ってるの?困ってるって正直に言いなさい」

才機は遂に口を開いた。

「お、俺は···その···んー、どう言ったらいいか···」

「才機!」と二人が同時に責めた。

どうも二人の目付きが怖くなってきた。

「俺は!······トイレに行かなくちゃ!」と才機が走って部屋を出た。

「もー、海が強引過ぎるから逃げちゃったじゃない」

「私が強引だと?!メあんたに言われたくない」

「まぁ、いいわ。才機がいないんじゃ、もうここにいる理由がなくなった。自分の部屋に戻る」とメリナはベッドから出た。

廊下に入って完全に消える前にメリナは言い残した。

「言っておくけどあたしは全力を出すつもりだから。だから海ももうちょっと真剣になってもいいよ。···負けたくなければ」

才機が部屋に戻った時、海はもう寝直したようだった。抜き足差し足でベッドへ歩いて潜り込んだ。才機に背中を向けていた海は目を開け、瞳が目尻に行った。それから何か考え事をしているみたいにその瞳は暗闇の中でひたすらに宙を見据えた。しかし、やがてそのまぶたを黙々と閉じただけだった。


    • • •


「眠そうね、二人とも。よく眠れなかった?」とリースが聞いた。

才機も海も目の縁に隈が出来ていて、食堂のテーブルを囲んでいた。

「誰かさんのお陰で」と海が言った。

「才機はそんなに寝相悪いのか?」

誰も答えなかった。代わりにメリナがあくびした。

「お前も目が赤いな」とリースが言った。

「へー。メリナも睡眠不足?ちょっと意外」と海が言った。

「あたしだって色々と考え事してた」

「まぁ、今日の仕事は昼間からだから、それまで休む時間が少しある」とリースが言った。

皆は活気がなくても食欲はある。全員残さずに朝飯を食べ終えた。と、思ったらリースはメリナがパンだけに手を付けていない事に気付いた。

「食べないのか、パン?」とリースはパンへ手を伸ばした。

リースの手中に陥る前にメリナはパンをさっと取り上げた。

「後で食べる」

メリナはパンを紙ナプキンで包んでポケットに入れた。

「そうか?んじゃ、十二時にまたここで集合という事で。海は今日仕事あるよな?」

「うん。私、そろそろ行った方いい」

才機は宿の入り口まで海と一緒に歩いて見送った。

「ね」と海が人混みの中に紛れ込んだら後ろからメリナがやってきた。

「ちょっと付き合ってくれない?」

「ええ?リースのアドバイスに乗って休むつもりだったけど」と才機は面倒臭い顔になった。

「でも今じゃないと駄目なんた。お願い」

「駄目って、何が?」

「行ってみてのお楽しみだ。絶対後悔しないから」


メリナに先導されて、才機は町の周辺にあった自然の池に連れて行かれた。人気が全くなくて、見る物と言えば二百メートルぐらい離れた町の石垣。池の近くの一本の丸太を除いて、周りはピンクか白い花だけが点在する一面の緑色の草原。

「ここ?」と才機が聞いた。

「うん」

「ここで何をするの?」と才機は辺りを見回した。

「取りあえず座ろう」とメリナは才機を中ががらんどうの丸太の方へ引っ張って才機の左に座った。

先客の蝶は狭苦しいだと思ったらしくて、飛び立った。メリナは左の空を見つめた。

「んー、まだ少し時間があるみたいからちょっと話をしない?」

「話?まぁ、構わないけど···そんなに話して面白い人じゃないよ?」

「そんな事ないって。あたしは才機と話すの好きよ」

「そう?物好きだな」

「何?海に才機と話すのが楽しいって言われた事ないの?」

「ないけど···多分、嫌がってはいないはず」

「ふーん。何かあんたと海の関係ってよく分かんないなぁ。一見仲良さそうで、どことなく互いに微妙な距離感あるみたい。二人でいつも何してるの?」

「何って言われても、別に大した事はやってないけど」

「そうなの?男女が寝食を共にしてりゃ、ちょっとエロチックな関係になっても可笑しくはないと思うが···」

「いやややや、なってない、なってない」と才機は断じて否定して首を横に振った。

「はは、冗談だって。そんなにむきにならなくていいよ。でも···そっかぁ」とメリナは両足を伸ばした。

「昨日まであたし達はあんたらに隠し事をしてたけど、あたしの事を友達だと思っている?」

「うん」

「じゃあ、本当に許してくれた?」

「俺は恨みを長い間根に持てる人じゃないんでね」

「よかった。海は?」

「まぁ、裏切られたと思った時は激怒したけど、もう怒ってないと思う」

「ふーん。これからは怒られるかもしれないけど」とメリナは小声で言った。

「ん?何?」

「あぁ、何でもない。ね···聞いていい?」

「何についてかはさっぱりだけど、拒否する理由は特にないな」

メリナは少しだけ前かがみになって自分の両足を交互に蹴り上げてはかかとをまた地に落とす様を見て少し躊躇していたようだが、五秒ぐらいで口を開けた。

「その···あれ、本当だったかな」

「『あれ』って?」

「あたしが才機に塗布剤をあげた日、覚えてる?あの時、言ったじゃん?あたしの耳は可愛いかもって」

「う、うん、言ったね」

「本当に···気持ち悪くない?」

メリナは既にバンダナで隠された耳を両手で更に隠すようのにした。

「本当だよ。それに何も人間は頭頂部が全てじゃない。その耳を買ってない人がいても、メリナには他にもいいところ一杯あるじゃない」

「も、もー、おだてても何も出ないよ」とメリナは才機の背中を叩いた。

「今、出てるじゃん。その笑顔」

才機が言ったメリナの笑顔は徐々に消え掛け、ちょっとびっくりした赤い顔と入れ替わった。

「物好きはどっちだ」とメリナが半ば文句のように言ってまた足を見るようになった。

しばらくの間メリナはそのまま黙って足元の草を見た。

「昨夜はごめんね。もうあんな無茶はしないから安心して。友達ごっこが終わってやっと本当に友達になれるって思ったら何かつい抑えられなくて」

「それを聞いて安心したよ、本当に。寝る前にドアを家具で塞がないと睡眠不足の日々がこれからも続くと思っていた」

才機もメリナもクスクス笑った。

「あぁぁあ、海はいいなぁ。あたしももっと早く才機に出会えたかった。二人はいつから知り合いだったっけ?一年半?」

「うん、そんなもん」

「もう一つ聞きたいけど、実際のとこ、海の事どう思ってる?」とメリナが左の空の方へ向いた。

「どうって、えっとーー、そう言われても、そう簡単に言葉に出来ないかなぁ。友達なのはもちろんのこと。付き合いも長いと言えば長いとは言えなくもし、それに、お互いちょっと並外れた事情を抱えてるし···」

才機が明らかに動揺してだらだらと喋り出した。

「動くな」と海が自分の手を才機の手の上に置いた。

「え?なんで?」

「じっとしていて」と海は真っ直ぐ前を見てびくともしていなかった。

才機はどういう事かよく分からなかったが、メリナに見習って身動きを止めた。その静寂の中で、先ほど飛び立ったかもしれらない蝶がまた近くの空間を飛び交う。但し今度は伴侶と一緒で、二頭楽しそうにお互いの周りを飛び回って戯れ、二人の目の前を横切った。時期に才機は何かパタパタする音が聞こえてきた。どんどん近付いてきた。次の瞬間、才機の視界は白い鳥で埋め尽くされた。ハトと同じぐらいの大きさで、鶏冠は虹色で、体長より少しだけ短い尾羽が三つ付いていた。その殆どが池の手前で着地し、数羽が池の中に水着した。全部で十五羽ぐらいいたかもしれない。メリナは自分の手を才機の手の上から退かし、取っておいたパンをゆっくりポケットから出した。先端を引きちぎって、粉々にしてから手首を振って鳥の方へひょいと投げた。二人に一番近い鳥達は一斉に餌に群がって貪り食った。出し抜かれた者は仲間の中をかき分けて突然現れた恵みの方に進んだが、あいにくパンはもうどこにも見つけられなかった。メリナはまたパンを投げた。今度は量を減らして、二人が座っている場所のもっと近い位置に。そうやって鳥達を少しずつ自分達の方へ誘き寄せた。足元まで来たらメリナはパンを才機の膝の上にまき散らした。最初は誰も反応しなかったが、その内勇気のある鳥が才機の膝の上に飛び上がってそこにあったパンくずを独占した。

「すごっ」と才機が言った。

「動物が好きって言ったしょう?あたしも好き」

メリナは才機の膝の上の鳥に自分の手からパンを食べさせた。そしてパンを真っ二つにして半分を才機に渡した。それから二人揃って楽しそうに鳥達にパンをあげていた。

「たまにはここに来て、こうやってパンをあげてる。最初はこんなに近くまで寄り付かなかったけど、ある日直接あたしの手から餌を取るようになった。凄いだろう?誰かに見せて一緒にやりたかったけど、お兄ちゃんは動物にあまり興味ないよなぁ」

「そうか?俺はこういうシチュエーションに憧れちゃうんだけどね。最近、動物とじゃれあう機会が全くないし、この間だってあの猫はメリナとしか懐かなかった」

「可愛かったね、あの猫。あたしも飼いたいけどお兄ちゃんは反対だ。才機は何かペットを飼った事ある?」

「うん、実家に犬がいる。コーラって言うんだ」

「いいなぁ。大きい?」

「いや、小さい方。猫よりちょっとだけ大きい。凄く可愛くて人が見境なく好きな奴。家族じゃなくても呼ばれたら誰にも喜んでついていく。いわゆる誰にでも優しいタイプ」

「ふーん。やっぱ、ペットは飼い主に似てるっていうのは本当かな」

「ん?どういう意味?」

「別に〜。でも動物はそういうところがいいんだよね。他者の見た目なんて意に介さない。優しささえ伝わればそれでいい。仲良くなれる。人間は互いにコミュニケーション取れるからその分伝わりやすいのに、どうしてうまくいかないのかな。あたしは人間の友達より動物の友達の方がずっと多かった」とメリナは何かを思い出しているようで少し寂しそうな顔になってその手の平にあったパンくずが我先にと足元に集まる鳥に食べられて無くなるのを見ていた。

二人で静かに手に載せた餌を鳥達に食べさせた。

「よ、よかったら、またここに、痛っ」とメリナが急に声を上げた。

「どうした?」

「噛まれた。悪気はないんだけど、たまに間違って手をつついてくる」

「そうか?俺の方が好かれてるかな。全然つついてこ、痛っ」

「ははは、今何か面白い事を言おうとしたんじゃ痛っ。おい、あんた達、わぞとやってないだろうね」

才機は左目を一瞬だけ閉じた。

「あ、またつつかれただろう。今絶対我慢した」

「うん」と才機はあっさり認めた。

爆笑する才機とメリナ。


待ち合わせの時間が近付いたら二人は宿に戻った。そこでリースと海ともう一人の男がテーブルを囲んで座っていた。

「海。なんでここに?」と才機が聞いた。

「オーナーが急用で五日間ぐらいいないんだって。才機はどこに行った?てっきり部屋で寝ていると思ってた」

「あ、んー、ちょっと散歩」

「二人でデートに出かけた」とメリナは才機の腕にしがみついた。

「デート?!」と海が才機を問い詰めた。

「違うんだ!デートじゃない!なんでそういう誤解を招くような事を言うのかな?」と最後の方をメリナに向けた。

「ごほん!」

リースのせき払いだった。

「あのな、依頼人の前だぞ。席に座らんか」

「すみません」と才機が言って、メリナと一緒にテーブラに着いた。

「いえいえ、正確に申しますとと私は依頼人ではなく、依頼人の使いです。皆さんを迎えに参りました。これで全員が揃いましたか?」

「はい」とリースが答えた。

「では、外に馬車が置いてあるので親方の所へ連れて参ります」

目的地に着くのに四十五分くらい掛かりました。メリナが降りると眼前の光景で目が輝き出した。

「ここってまさか、暫く前に出来た豪華スパリゾート?!」

「さようでございます。依頼人はここの経営者、そして私の主、ブランズワド様であらせられます」

「凄い〜!一度来てみたかったんだ!でかしたよ、お兄ちゃん!大好き!」

「バ〜カ。仕事で来てるんだよ。遊ぶ暇はねぇ」

「実物を見ると本当に素敵な所。仕事が終わってあのボロ宿に戻ると思うと気が滅入っちゃうよ。ね、海?」

「う、うん。はまりそうね、こういうとこ」と海が素直に感動していた。

「いや、ボロって言うほど悪くないだろう」と才機が突っ込んだがメリナは訂正する気がないようだ。

「ねぇ、お兄ちゃん、帰る前に少し羽を伸ばしてもいいだろう?」

「考えておく。さっそく依頼主に会いに行くよ」

中に入ったら豪華リゾートと呼ばれるだけの事はあるのが分かる。そこは惜しみなく宮殿の壮麗さで満たしていた。作りは殆ど大理石と青銅で、その主に白いカンバスを大量の植物の緑が色付けている。水がテームの一つらしくて、室内の噴水が小さくて簡素なものから水をあらゆる角度に噴射したり、流したりする大きくて物凄く手の込んだものまで至る所にある。水の音が絶えることは一瞬たりともない。リースだって感心せざるを得なかった。

「こちらへどうぞ」

男に先導されて皆が玄関広間の中心にある大階を上って二段の奥の部屋へ案内され、男が全員を部屋に通したら自分だけ入るつもりはないようでドアを閉めた。その部屋にいた人間は全部で六人。後二人は机で座っている四十歳ぐらいの男と部屋の左壁に沿ったソファーでクマの縫いぐるみと遊んでいる六歳ぐらいの女の子。

「ああ、君達ですか、何でも屋リースとその一行?」

「ええ。俺がリースです」

「私はここの経営者、ブランズワドです。君の業績は耳に入っています。頼まれた仕事の成功率は極めて高いらしいですね」

「お客さんを満足させるには完璧に仕事をこなすのが一番ですからね」

「それは頼もしい。ではさっそく私が君達をここに呼んだ理由を話そう。だがその前に、これから話す事は他言無用でお願いしたいのですがいいかね」

「もちろんです」とリースの目はソファーで遊んでいる女の子に行った。

「心配入りません。そちらはジェシカ。私の娘です」

「そうですか。では、依頼とは?」

「実は、このリゾートで殺人事件が起きています。それも二回も」

「殺人事件?それなら警察に知らせた方がいいのでは?」

「それが、もし三回目が発生したらそうするつもりですが、出来ればこのことを隠し立てしたいんです。この手のスキャンダルはこういう所にとって致命的なんです。犯人が不明で野放しになっていたらなおさら。こっちで処理出来るなら是非そうしたいと思っています。幸いな事に犠牲者は二人ともここで勤めていた身寄りのない男達。公にする必要はなかろう」

「俺達は別に異存はありません。但し、捜査となれば、何日かかるか分かりません。それにずっと現場にいた方が色々と都合がいいので、捜査中はここに泊めさせてもらえまないでしょうか?最低限のもてなししかいりません。寝る所と一日の三食」

「お安いご用です。他に必要な物は?」

「俺達はここの従業員として雇われたことにしたい。俺達を他の従業員にも正式に紹介してもらえますか?」

「ええ。この後、皆との打ち合わせが予定されています。ついでに君達を紹介しましょう。二十分後に二階の会議室に来てるといい」

「分かりました。では、また二十分後に。行くぞ、皆」

「あのー、ここにいる間はお風呂も使っていい?」とメリナは出し抜けに聞いた。

「おい」とリースが妹を注意した。

「すみません。礼儀も遠慮も知らない妹なんで聞き流してください」

「ははは!構わん、構わん!但し、しっかり働いてもらいたいから使うんなら営業時間後にしてくれ。三階には俺の専用の露天風呂がある。そこなら遅くても使用可能だ」

「本当?!ありがとう!」とメリナは右胸の前で両手を握った。

「はい、はい、よかったね。行くぞ」とリースはメリナの腕を引っ張って連れて行った。

「ね、この仕事なら何も最初から張り切る事なくない?期限もないし、気楽にやろうよ」とメリナが言った。

「期限がない訳ないだろう?成果を出さなきゃ俺達は首だ。ブランズワドも言っただろう。三人の犠牲者が出たら警察に通報するって。その前に片付けないと。って言うかお前、緊張感なさ過ぎ。その三人目の犠牲者はお前がならないように気を付ける事だな」

「不吉な事言わないでよ。殺人事件という事だけでもう鳥肌が立っている」と海は肘を抱えて縮こまった。

「俺達は別に探偵じゃないし、どう解決すればいいの?」と才機が聞いた。

「今やるべきなのは情報集めだ。俺達が他の職人に紹介された後、ばらばらになってスタッフに交わる。一緒に働いている内に、事件について聞き込みに入る。何かを知っている人が何人いるかも。どうするかはその後だ。無論、何か怪しい事に目を光らせておくのも大事。聞き込みはさり気なくやるんだぞ、さり気なく。職人が犯人という可能性は十分ある」とリースは説明した。

二十分後に会議が行われた。リース達はブランズワドと一緒に会議室の前で立っていた。

「皆さん、紹介します。本日で新しく仲間に入った四人です。例の事件で亡くした人の代わりにやってきました。皆はとても不安な状態だと思いますが、仲良くしてあげてください。彼らも事情を分かっていてここに来る事を決断しました。事件に関しては、引き続き外部に漏らさないよう御願いします。この悪行に終止符を打つ為に措置は既に取ってありますので安心して働いて欲しい。では、自己紹介してもらいましょうか?」

「シグニです。よろしく御願いします」とリースが言った。

次に並んだ才機はちょっとパニックした。偽名を考えようと思わなかった。

「あ、才、キシンです。よろしく御願いします」

次は海。

「花子···です。よろしく御願いします」

最後はメリナ。

「エズマです。よろしく御願いします」

「空いている所に座っていいよ」とブランズワドが手で合図した。

四人とも別々に席に付いた。

「それでは、今日の打ち合わせを始めたいと思います。まず、部屋掃除担当の者は···」

会議が終わったらバンズワドがリース達を泊まる部屋まで案内すると言った。それは三階にある部屋だった。誰もは気付いていなかったみたいけど、ずっと曲がり角の後ろから覗いて尾行する人がいた。クマの縫いぐるみを持つ女の子だった。

「ここを使って下さい。何もないけれど、広い部屋ではある」

「いいえ、これで十分です。心遣いありがとうございました」とリースが言った。

「後で誰かに寝袋を持ってきてもらう。大いに期待していますよ」とバンズワドが言い残して去って行った。

そして四人になるとメリナが鼻で笑った。

「何いきなり笑ってんの?」と才機が聞いた。

「あのふざけた偽名に決まってんだろう、サイキシン」とリースが呆れた口調で言った。

「あ、あぁ、あれね。リースがいきなり偽名を使うからちょっとうろたえた。俺も偽名を使うべきかどうか実際に決める前に口を開けちゃったから」と才機は恥ずかしそうに頭をかいた。

「多少名高いなのは俺だ。お前達は無理に偽名を作らなくても、別に本名でいいよ。前から変わった名前だと思ったがもっと変になった。海も海だよ。いくら準備してなかったからってハナコはないだろう」

「え、そう?」と海が聞いた。

「聞いた事ないよ、ハナコなんて。『海』の方がまだ信じられる」

「メリナだって偽名を使ったじゃない」と海はメリナに向かい合った。

「お兄ちゃんほどじゃないが、いつも一緒に仕事しているから、あたしの名前も知られてるかもしれない。用心というものだ」

「凡人で悪かったわね」

「何いじけてんの?偽名を使いたきゃ、使えばいい。でももうちょっとましな名前を考えろって話だ」

「ふん!私から見ればエズマは十分変な名前」

「何が変?ごく普通な名前じゃない」

「ハナコだって普通だ」

「どこの世界で?」

才機が介在してきた。

「まぁ、まぁ、過ぎたもんは仕方ない。誰もそんなに気にしてないと思うよ。一番ださい名前は俺のだし」

「じゃ、さっそく聞き込みに入ろう。あたしは才機と行く。」とメリナは才機の腕にしがみついた。

「か、勝手に決めるな」と海は異議を唱えた。

リースはメリナの襟の後ろを掴んで才機から引き離した。

「言っただろう。別々に行動するんだ。その方が聞き込みの範囲を広げられる。それに会議で皆は自分の任されている仕事を既に知らされた」

「分かってるって。先に行くよ」とメリナは部屋を出た。

四人が一人一人部屋を出て違う方向に向った。

才機は部屋の掃除、リースは部屋以外の掃除、海は洗濯物、メリナは厨房での手伝い。皆それぞれの仕事を一通りこなした。当初の目的を忘れずに他のスタッフと会話を初めて、何気なく事件について情報を聞き出した。勤務時間が終わったら四人とも外で集まった。

「地獄だった〜」とメリナは疲れたそうに言った。

「メリナは確か、厨房で働いてたよね?そんなに大変だった?」と才機が聞いた。

「そうよ。ずっとああいう美味しそうな物を目の前にして味見も出来ないなんて拷問だよ」

「そ、そう?」と才機は心配して損したみたいな顔になった。

「辛抱だよ。この仕事を完了出来たら、好きなだけ食わせてやる」とリースがメリナの頭の上に手を載せた。

海は手を挙げた。

「私は事件について大した事は聞かなかった。面白い事と言えばバンズワドが成金だって事くらい。このリソートを建てる前はどこにでもいる普通の商売人だった。彼はここの温泉を発見し、土地を買い取った。ここの温泉は鉱泉で、豊富な鉱物で恵まれて肌や病気に効能があるらしい。お陰でここは評判がいいけど、それにしても発達が早過ぎる。たった半年でこのリゾートをここまで作り上げた。ここの温泉以外の何かでバンズワドが伸し上がったって噂がある。事件に関係があるかどうか分からないけど」と海が説明した。

「何かって何?この地に眠る悪魔とでも契約を交わしたのか」とメリナが皮肉を言った。

「さぁ」

「なるほど。お前は?」とリースがメリナに尋ねた。

「いい情報が入ったぞ。二つ目の死体を処分した人と一緒に働いてた。彼の話によると胸部にナイフで刺された縦の傷が三つ奇麗に上下平行に並んでいた。そして最初の犠牲者の死因も全く同じ傷をだったらしい」

「ふーん。じゃ、二人を殺したのは同一人物だと考えてもいいだろう。しかも気がふれているみたいだ。あがいている相手に完璧に平行している傷を三つ負わせるのは無理な話。恐らく最初の一撃で相手を殺し、動かない死体に同じ傷を後二つ付けたんだろう」

「なんでわざわざそんな事をする必要はある?何かの印?」と海が聞いた。

「さぁ、ね。それは本人に聞かないと。大方、何かの儀式か署名的行動だろう。それより、狙われた二人は死因以外で何が共通点がないか知りたいが、残念ながら俺も大した事が分からなかった。二人が結構仲良かったって聞いたけど、それぐらいだ。最初の事件は五日前で、二件目はその二日後。両方夕方に行われた。あ、そうそう。どれほど当てになるかは分からんが、一緒に窓を磨いていた人が言った。二度目の事件の夜、一瞬変な物を見かけたって」

「変な物?」と才機が聞いた。

「彼もよく分からないんだ。露天風呂の掃除が終わって、休憩して飲んでいた時だったそうだ。一瞬だけ何か大きいものが視界に入って直ぐに通り過ぎて行った。見に行ったら誰もいなかったって。ま、そう言って上着の中に隠していた酒の小びんを出して、飲む前に俺にも勧めたけど。才機、お前は最後の希望だ。何が分かった?」

「ジョージュの好物は新鮮なハチミツらしい」

「ジョージュ?誰それ?」

「クマさんだ」

「は?」

才機は親指で自分の後ろを指した。他の三人が指している方向を目で辿るとビルの角の後ろから覗いている女の子がいた。自分が見つかった事に気付き、女の子は引っ込んでクマの縫いぐるみをぎゅっと胸に抱き締めた。

「あれっ、ジェシカだったっけ?」と海が呼び掛けた。

ジェシカはまた角の後ろから顔を出して、皆を見た。

「どうしたの?あそこで隠れなくていいのよ。こっちにおいで」と海はこっちに来るように手で誘った。

最初ジェシカは躊躇ったが、結局皆の所へ駆け付けてきた。そこで才機の手を掴んで、今度は彼の後ろに隠れた。

「ずっとこんな感じだよ。あまり聞き込みに行くどころじゃなかった」と才機が言った。

「随分と懐かれたみたいだな」とリースが言った。

「今日は才機と遊んでたの?」と海が聞いた。

ジェシカはうなずいた。

「あのクマか?ジョージュって言うのは?」

「よく見ればこのクマ、実はリュックだね」とメリナが言った。

「あ、本当だ。可愛いなぁ。何か入ってるの?」と海が聞いた。

ジェシカは才機の手を離して、クマの裏にあったチャックを開けた。そして色とりどりの飴玉が一杯入った小さな瓶を出した。才機に飴玉を一個あげた。

「ども」

次に海に一個渡した。

「ありがとう!」

三個目はメリナに。

「いいの?ラッキ〜」

リースにやったのは目線。リースも無表情に見返している。

「何無愛想な顔してんだ?何とか言え」とメリナはリースの足を軽く蹴った。

「え?ああ···美味しそうだね。俺ももらっていいかい?」

ジェシカはその小さな手を瓶に入れて、持ち出した飴玉をリースに差し出した。

「ありがとうね」とリースがしゃがんでひょいと受け取った飴玉を口に放り込んだ。

「ジェシカは事件について何か知らないかな?」とリースは駄目元で本人に聞いてみた。

ジェシカは首を横に振った。

「やっぱりそうか?」

「知る訳ないだろう、この子」とメリナが言った。

「聞いて損はないから。ん?この縫いぐるみ、いや、リュックか。まぁ、どっちにしても毛がいいね。ってか毛皮だ!すげ〜。流石金持ちの御令嬢だぜ。本物の熊の毛皮だ、これ?爪も可愛く見えるように加工されてるけどこれも本物っぽい。こりゃもう剥製術に近い」とリースが感心してジョージュを調べていた。

リースの関心をよそに、ジェシカは才機の手を掴んだ。

「ね、こっち来て。いい物がある」とジェシカは才機の手を引っ張った。

才機はジェシカに引っ張られるがまま、リゾートの裏手にある噴水に連れて行かれた。中心に沢山の小さな滝みたいな物が水を循環させていて、そこに三十センチ前後の魚達も泳いでいた。

「見て」とジェシカは近くの蒲をを一本摘み、前にかがんで蒲で水面を叩いた。魚達はどんどんそこに集まった。そうしたらジェシカは人差し指で水に小さな丸を描いた。魚達は餌の時間だと勘違いしてジェシカの指を口でつついてきた。

「面白いでしょう?お兄ちゃんもやってみる?痛くないよ」とジェシカは才機に言った。

「うん。やってみる」と才機はやる気満々で指を水に突っ込んだ。

「ちょっと、これあたしの戦略じゃない?」とメリナが言った。

「戦略?」と海が聞いた。

「あ、ああ、いや、何でもない」とメリナが笑顔を作った。

「で、ジェシカちゃんはなんで才機と一緒にいた?他にやる事ないのか?友達は?」とリースが聞いた。

「ううん、いつも一人で遊んでる。ここはジョージュ以外、友達はいないもん」

「何をして遊ぶの?」と海が聞いた。

「ジョージュと一緒に探検するとか、奇麗な石を探すとか、お客さんを見るとか。でも最近、お父さんに暗くなったら部屋を出っちゃ駄目だって言われてる」

「うん、お父さんの言う事ちゃんと聞いた方がいいよ。どこかに悪い人がいるかもしれない。人が多い場所で遊ぶのもいいかも」とメリナが言った。

「人が多い場所?じゃあ、もう地下へ行っちゃダメなの?」

「地下?」

「地下には面白い通路が一杯あって迷路みたいけど、誰もいないんだ」

「そうね。悪い人が捕まるまではそこに行かない方がいい」

「早く捕まらないかな」

「心配ない。その為に俺達は来たんだ。だから仕事中はお兄さん達の邪魔しちゃ駄目だぞ?才機にはちゃんと働いてもらわなきゃ。分かるよな?」とリースが言った。

「じゃあさ、じゃあさ、仕事が終わったら遊んでいい?」とジェシカは才機に聞いた。

「あ、ああ。いいよ」と才機が言った。

「じゃ、後でまた来る。頑張ってね」とジェシカがジョージュを背負って走って行った。

「やれやれ。持て持てだな、お前。でも浮かれるなよ。ままごとをしに来た訳じゃないから」とリースが言った。

「誰が浮かれてるんだ?七歳も越えてないだろう、あの子」

「そうだよ。才機はああいう小さな子に興味ないんだ」とメリナが言って、次に才機に向かって話した。

「ないよね?ロリコンだったとかそういう展開じゃないよね?」とメリナが割と本気で聞いていたようだ。

「当たり前だろう!」

「とにかく、これで手が空いたはずだ。今日は残った時間でひたすらに調べるだけだ。客も職員も、誰か怪しい人がいないか監視しておくんだ」とリースがリゾートの玄関へ向った。

「才機、一緒に回らない?」とメリナが聞いた。

「何度も言わせんな。手分けして範囲をなるべく広くするんだ」とリースが言った。

「ぶー。つまんない〜」とメリナも行った。

「俺達も戻ろうか」と才機は海に言った。

「うん」

十時になったら皆部屋で集まった。最後に来たメリナにリースが言った。

「お、いた。ちょっといいか?一緒に来てもらいたい所があるんだ」

「今から?もう疲れたんだ。朝になってからでも遅くないだろう?」

「この時間だからこそ今行きたいんだ。直ぐに終わるよ」とリースが部屋を出た。

メリナは不満そうにリースの後に続けた。二人が辿り着いたのは一階にあるドアだった。そのドアに赤い太字で立ち入り禁止って書いてあった。

「行きたい所ってここ?このドアの向こうに何がある?」とメリナが聞いた。

「階段。地下への」

「犯人がそこにいるって言いたいの?」

「いや。ジェシカが言ったように地下には誰一人もいない。あるのはいくつかの部屋だけ」

闇にまぎれて二人はトアを通り抜けた。

「今のドアは鍵が掛けてなかったが地下の部屋は全部鍵が掛かってる。そこでお前に鍵を開けてもらいたい」

「なんで、わざわざ?今、地下に犯人がいないて言ったじゃん」

「犯人がいなくても罪を証明するような証拠があるかも」

「こんな所に?」

「犯人が実はここの経営者···という落ちもありうるだろう?徹底的に洗ってるだけだ。それに俺の勘はどうもここが怪しいと言っている。地下への階段はここしかない。しかも随分離れた場所にある。何より廊下に据え置きのランプがある。それほど明るくはないが、電気だぜ?一体どんな大金をはたいて取り付けんだろう。なぜここだけ?匂う」

「でももしブランズワドが犯人だったらあたし達は報酬をもらえないよ?」

「何言ってんだ?そうなったら恐喝して報償以上の金額を絞り穫れる」

「腹真っ黒だよ、お兄ちゃん」とメリナが一応呆れたが大分慣れているようだ。

リースは鍵が掛けられたドアまでメリナを案内した。

「まずはここだ。開けそうか?」

メリナはライターを取り出して鍵穴を調べた。

「それほど複雑な錠じゃなさそう。何とかなるかもけど、時間は掛かる。宿のようにはいかない」

メリナはライターをリースに持ってもらって色んなピンが中で並んである生皮を出した。二本を選んで作業に取り掛かった。

「あれっ」とメリナが眉を寄せた。

「どうした?」

「いや、何でもない」

二十分くらいは経ったかもしれないが、やがてドアの蝶番がちょっぴり動いた。

「お!流石。さて、一体何が隠されてるかな」とリースはライターを消し、メリナに戻してからドアを開けた。真っ暗で部屋の様子をかろうじてしか見えない。部屋に入って最初に気付いたのは壁に沿って円柱形のものがずらっと並んであった。リースは目を凝らして前方の暗闇を通して見ようとした。

「ん?こんなとこにまで温泉か?」

リースはしゃがんで水に手を入れた。

「生温っ。っていうか何か変だぞこの水」

後ろからメリナも入ってきた。

「やっぱ暗いな。ちょっと灯を」とリースが言った。

メリナは言われた通りにし、リースはライターの僅かな光で照らされた自分の目の前を見て、細めていた目が大きくなった。するとメリナをたじろがせるほどの速さでリースは体を捻ってライターの火を吹き消した。

「ちょ、ちょっと、いきなり何を?!暗いんじゃなかったのか?」と驚いたメリナが言った。

「絶対につけるな」とリースは大真面目な口調で言った。


一方、才機と海は部屋で待って話していた。寝袋が四つ並んであって、才機は一番右の方の寝袋の上に、海がその隣の寝袋の上に座っていた。二人の話が才機にとってはちょっと触れにくい話題になりつつあった。

「それにしても最近メリナの態度はいつもと違うと思わない?」と海が言った。

「そ、そうか?」

「そうだろう。リベリオンに内通していた事を明かした以来だ。やたらに才機に絡んだりして」

「本来はああいう奴だったんじゃない?隠し事しなくてよくなって、本当の自分らしく振舞っている。最近まではずっと遠慮してたんだろう」

「本来の自分と遠慮する自分がこうも違う物なのかな?才機、幾らあんたでもそれほど鈍くないんだ。あれは絶対才機に気がある」

「お、思い過ごしよ、そんなの。単に揺らいだ信頼を強化しようとしてるだけだ」

「にしては才機との信頼ばかり強化しようとしてるけど。騙されたのは私も同じだろう?今夜は才機と私、どっちの寝袋に忍び込むんだろうね?」

「···」

「私には関係ないから二人が何をしたかは聞かないけど、今朝だってデートに行ったとか言った、あれは?」

「あれはただ海をからかってたよ。一緒に行ってほしい所があると言うから行ってやっただけなんだ。デートなんて海の前に出るまでは一言言ってなかった」

「じゃあ、もしデートに行かないって誘っていたら才機はどうしたんだ?」

「な、なんでそうなるんだ?デートじゃなかったからそれでいいじゃん」と才機は横になり、背中を海に向けた。

「別にメリナとデートに行ったら駄目とは言ってないよ。私はただ···才機の本心が気

になっただけなんだ」

二人は黙り込んで沈黙が訪れた。

《やっぱり、聞いちゃまずかったかな。やっと才機と二人でいる時間が出来たと思ったのに、なんか気まずくなっちゃった。空気がこれ以上悪くなる前に私も寝よう》

海も背中を才機に向けて横になった。

「デートの内容を事前に確認していた。そしてもし今日みたいに単に野鳥を見に行くだけなら断らなかった」

今朝からずっと気にかかった事を遂に聞けた。それぐらい十分無邪気なのだれけど、それでも気はあまり休まらなかった。何のつもりで野鳥観察に誘ったかは見当がつくから。その間、二人がどれほど仲良くなったかは知らない。そんな事まで聞き出すのも野暮だし、知る由もない。今、最も気に病んでいるのは、才機がどんな気持ちでさっきの発言を言ったかだ。何もなかったから心配しないでと言いたかった?それとも、ほら、お前の杞憂に過ぎなかった。大きなお世話だと。海はどう返事すればいいか考えた。

「今度···連れていってくれる、その場所?」

「いいよ。もしかしたら海も楽しいかもしれない。鶏より可愛いから」

やっと気が少し晴れた。あのまま寝るのが嫌だったが、これなら寝るのは勿体ない。話題を変えて何か面白い事を話そうと思ったらドアが開いた。リースとメリナが部屋に入った。

「戻ったよ」とリースが告げた。

「結局どこに行った?」と才機が聞いた。

「ちょっと地下へ。どうやら海が言ったバランズワドは成金っていうのは嘘じゃないかも」

「どういう事?」と海が聞いた。

「確かにここは温泉以外に他に何かがあった。このリゾートは石油鉱床の上に出来ていいるみたい。下にはかなりの石油備蓄がある。とんでもない秘密を知っちゃった」

「秘密じゃないかも」とメリナが言った。

「ん?」

「少なくともあたし達だけの秘密じゃない。ドアの錠がいじられた形跡があった。あそこに侵入したのはあたし達が初めてじゃない」

「へー。そうなんだ。これは事件に繋がっているのかな。関係が見えてこないが」

「口封じとか?」と才機が憶測した。

「仮にそうだとしてもバランズワドがやったって事になる。もしくは糸を引いていた。俺もさっき面白半分に同じような事を言ったけど、バランズワドが真犯人だったらなん

でわざわざ俺達を招いたか解せない」

「もう疲れたから明日考えよう。今日はもう寝よう。ってちょっと寒くない?」とメリナが言った。

「あ、さっき窓を開けたんだ。」と海は起きて窓を閉めに行った。

そして窓を閉めて皆の方を向いたら自分の寝床がメリナに占拠されていた。

「え?あのー···」

「おやすみ」とメリナは顔を枕に埋めた。

「ちょ、ちょっと、私がそこに寝てただろう?」

「ん?いいじゃん。寝袋は全部全く同じ物だ」

「いや、そういう問題じゃなくて···」

「海ったらいつも才機の隣で寝ているじゃない。一晩くらい離れて寝れないの?」

海は恥ずかしそうな面持ちになった。一時、メリナに譲りそうだったが、引き下がらない事にした。

「そ、そうさ!ずっと才機の隣で寝てきたからもう慣れちゃった」

メリナもそれにちょっとびっくりしたみたい。

「ならいい機会じゃないの?その悪習を直すのに」

「あいにく私達の部屋はベッド一つしかないんで、これからもずっと一緒に寝ないといけないんだ」

「お前ら何子供みたいに言い争ってんだ?」とリースは呆れた口調で言って、メリナの隣の寝袋を集めて才機の右側に敷いた。

「ほれ、これで誰も文句はないだろう?」

「才機の隣で寝ていられば文句はありませ〜ん」とメリナが言った。

海は才機の右側の寝袋に潜り込んだ。

「あ〜あ、俺だけ独り寝か。寂しいねぇ」とリースは最も左にあった寝袋に入った。

暫くしたら、全員暗がりの中で目を閉じていた。一番早く眠りについたはリースだった。残り三人は色んな考えが頭の中を走って、直ぐには寝られなかった。


    • • •


翌朝、才機が目を覚めたら初めて見た物は自分に向けられていた海の寝顔だった。二人とも横寝して向き合っていた。いつもなら起き抜けにこんな情景を見るのが大歓迎。でも今はその瞼が開けるのが怖くて、自分を睨み付けているような気がした。その理由とはまた誰かが背中に絡み付いている感覚があったからだ。そしてその誰かはリースではない。彼のいびきは離れた所から聞こえてくる。それも才機が直ぐに寝られなかった原因の一つだが。

《やべ、海に注意されたばかりだ。皆そろそろ起きるはずだ。こんなところ見られたらまずい。でもどうすれば?!》

誰も起こさずにメリナを自分の寝袋に戻す策を才機が頭を回転させ、編み出そうとした。しかし、どう考えてもそれは不可能だ。少なくてもメリナを起こす事は必然。そして起きる途端に何かと騒ぎ出す可能性は高い。ならば、手で口を押えたまま起こし、大人しく自分の寝袋に戻るように哀れみを請う目で泣き付くか?だがその作戦を熟考している最中、運も時間も尽きた。海は瞼を半分開けて身を起こした。海が目をこすっている間才機は決心した。こうなったら選択肢は一つしかない。

まだ寝ているふりをする。

知らない事は無実だという事。責められまい。

寝惚けていた海が才機の方へ見て何の反応を示さない。だが数秒があれば脳は目が中継している情報を処理した。

「え?なんでそこにいる?!」と海はびっくりした。

「ん〜〜、騒がしいなぁ。一体どうしたって言うの?」とメリナは起きて眠そうに言った。

メリナの眠気も直ぐに消え、海と同じく驚いた声で言う。

「あ!あんたは!」

才機はメリナの声がやけに遠いだと気付く。メリナじゃなかった。体を回して寝袋に侵入した者を確認する。

「ジェシカ?!」

「ん〜〜、おはよう、お兄ちゃん」

「お、おはよう。じゃなくて!なんでジェシカここにいるの?!」

「一緒に寝たかった。ジェシカの部屋は広すぎて、ジョージュだけだと寂しい。でも昨夜はよく寝た。ね、ジョージュ」とジェシカはその縫いぐるみ兼リュックを持ち上げた。

「そう···か。でも俺達がここにいるのは一時的なもんだからあまり慣れない方がいいよ」と才機が言った。

「でもいる間はいいよね?」とジェシカがせがんだ。

「それって今夜もここで寝る気満々?」

「うん!」

「えーと。お父さんの許可をもらったらそれでいい、というのはどう?」

「分かった!朝ご飯はそろそろ出来てるかな。見に行こう、ジョージュ」とジェシカは部屋から走り出た。

「才機、どういう事?寂しかったらあたしに言ってくれれば良かったのに。喜んで背中を暖めてあげた」とメリナが言った。

「さっきの話聞いてなかった?寂しかったのはあの子」と才機が言った。

「寂しいなら才機の寝袋に入っていいって事だね?」とメリナは才機の方へ転がり始めた。

届く前に才機はさっと海に引き上げられた。

「いつまでそこで座ってるつもり?早く顔を洗って」と海は才機の背中を押して、二人が部屋を出た。

メリナは「あらまあ」と言わんばかりの表情で二人が出て行くのを見た。

リースは寝袋を片付け、黙って全てを横目で見ていた。


今日は調査の続き。職員から得られる情報はもう得た。今度、皆は張り込みみたいなものをしている。但し、誰を見張ればいいか分からないと、それは困難だ。デッキブラシで適当に掃きながらリースはあっちこっち次から次へと移動していた。その内メリナと出くわした。

「あれっ、厨房で手伝ってたんじゃ?」とリースが聞いた。

「今日厨房はそんなに忙しくないから露天風呂の掃除をするように頼まれた。お兄ちゃんは何?まだ廊下や物置の清掃?」とメリナはちょうど隣にあったドアを開けて覗き込んだ。

「うわ。汚い。お兄ちゃんはまだやってないね、この部屋」

「いいんだ。本当に掃除しに来た訳じゃないんだから」

「何ヶ月分の埃だろう、これ?クモの巣もいっぱいあるし。ねぇ、いくら本当の仕事じゃなくてもこの部屋ちょっとは奇麗にしてよ」

「そんな事しても犯人が見つからない。そこにいる間、正に犯人だって顔をしている人が通っちゃうかも」

「それってどんな顔?それを知ったらもっと探しやすいからあたしにも教えて」

「そりゃあ、あれだ。目付きが悪くて、打算的で、周りをやたらに気にしてる人とか」

「それじゃお兄ちゃんが犯人になるけど···」

「そういう顔をしている俺じゃない人だ」

「あっ!」とメリナが急に大きな声をあげた。

「な、なんだ?」

「前言撤回。ここを掃除するな。使えるよ、この部屋。才機にここを奇麗にするのを手伝ってもらって、掃除している最中に『キャア、クモが』とか言ってどさくさに紛れて抱きついて助けられる。完璧だ」

リースが鼻で笑った。

「ん?今笑ったよね?プって何よ?」

「いや、お前のその作戦に根本的な欠陥があるって思って。それにしてもお前も十分打算的だな」とリースは自分のにや笑いを消すのに苦労していた。

「なんだよ、知ったような口をきいて。欠陥って何?」

「悪い、口止めされてるんだ」

「何それ?ま、いいわ。あたし、露天風呂に行くから」

「ちゃんと仕事しろよ。本来の仕事を」

露天風呂を目指したメリナは手を振った。そこに着いたらメリナはモップを探し出して拭き始めた。しかし本当に立派な露天風呂だ。大きくて、周りはは生い茂る草木だらけ。まるでジャングルみたい。メリナはもっと近くで見ようと少しだけ奥へ歩いた。冷たいコケの感触が素足に快適だった。ヤシの木やシダに露のしずくがまだ残っていた。

《気持ちのいい場所だ。少しぐらい休んでも平気だよね》とメリナはコケの絨毯の上に横になって枕代わりに頭の後ろで手を組んだ。

そして知らない内に、昨夜寝られなかった分をここで補っていた。自分でもどれぐらい寝ていたか分からなかったけど、誰かの声に起こされた。

「やっぱりいいよね、ここの温泉」

「生き返る〜」

男が二人いた。

《やっば、寝ちゃった。って、ここは男の風呂場だったのかよー!こっちはまだ気付かれてないみたいだ。今は出ちゃまずいよな。彼らが出て行くの待つしかないか》

メリナは諦めて身動きせずに二人が出るまで音を立たないでじっと待つことにした。それまでにこれ以上客が入らなければいいけど。

「しっかし、どこに消えたんだあいつら?」

「全くだ。一言も言わないでどっかに行くなんて、まさか怖じ気づいて逃げたのか?」

「そんな奴らじゃないはずだけどね。今回のは結構美味しい話だし」

「だよなぁ。ガキ一人さらえないでどうするってんだ」

何やら物騒な話らしい。メリナは聞き耳を立てた。

「いくら搾り取れるかな」

「石油王だぞ、ここの所有者。間違いなくたんまり金を持ってんだ。石油備蓄の事を知ってるって言ったら、しこたまもうけられるよ」

《この人達か、地下の部屋に侵入したのは?ジェシカを誘拐して身の代金を要求つもりなんだ。やばいよ〜。このリゾートが新たなスキャンダルに巻き込まれるよ〜。殺人犯が次にこの二人を狙ってくれたら一網打尽出来きそうけどね》

メリナはシダの間から覗いて、二人の顔を突き止めようとしたが、二人は岩の向こう側で浸かっていてちっとも見えなかった。

「でもいつまでもここに泊まってたんじゃ元手が無くなっちまう。早いとこガキをさらって戻りてぇ。俺達は向こうで待っているはずだった」

「大丈夫だ。ここの経費はしっかり返金してもらわうんだから。利子付きでね」

男達はくすくす笑った。

「もう少し待って、誰かから連絡が来なかったら俺達だけでもやる」

「しっ!誰かが来た」

露天風呂にもう一人男が風呂場に入った。

「お、こんなに朝早く先客がいたか?私も一緒で構わんかね?」

「ああ、どうぞ」

「やっぱ朝風呂はいいよね」

「そうだね」

《ちぇ。増えてやがる。これから人はどんどん入ってくるんだろうなぁ。いつになったらここから脱出出来るの?》

予想通り、それから人数は増える一方だった。露天風呂が遂に空きになって抜け出す隙があったのは昼ぐらいだった。最初に入った二人の男がいつ出たかすら分からなかった。メリナは他の皆を探しに職員用の食堂へ行って、三人とも座って昼食を取っているのを発見した。皆の所へ歩み寄って、最初にメリナに気付いたのは才機だった。

「あ、メリナ。どこにいてた?皆待ちくたびれたから先に食べちゃったよ。って言うか、もう殆ど終わった」

「食いっ逸れたくなきゃ早く何か頼んだ方がいいよ」と海はスプーンでカウンターの方へ指した。

「それどころじゃないいんだよ!さっきとんでもない事を聞いちゃった!」

「事件に関するか?」とリースが聞いた。

「いや、違うけど、同じぐらいビッグニュースだ」

リースと才機と海はお互い目と目を交わした。

人のいない場所に移動して、メリナは状況を説明した。

「どうする、お兄ちゃん?」

「まぁ、確かにビッグなニューズだね。だが俺達の仕事とは関係ない事だ···と、言ったら怒られるだろうな。どうすっかねぇ。才機、ジェシカは始終お前を付きまとってるだろう?」

「うん。まぁ、昨日ほどじゃないが」

「時間が出来たからもっと遊べるとか言って、彼女をそばに置いておいて。そうしたらあっちは迂闊に手を出せない。俺達は今まで通り殺人犯を追う。才機はジェシカの護衛に専念して。それでいい?」

「はーい」とメリナは立ち去った。

「どこに行く?」と海が聞いた。

「食堂。腹ぺこなんだ」

「俺はブランズワドに話してくる」とリースが言った。

「そうね。父親に教えた方がいい」と海が言った。

「ついでに保護金も要求しないとね」とリースがウインクし、親指と人差し指で輪を作ってお金のサインを見せた。

結局は静かで平凡な一日が終わりを迎えようとしていた。もう九時過ぎで、海はブランズワドの専用露天風呂に浸かっていた。専用と言ってもきちんと男女に別れていた。ブランズワドだけではなく、特別な客や要人の為にも作ったのだろう。海が露天風呂を独り占め出来たのは暫くの間だけ。引き戸が開いて、メリナが入ってきた。

「あら、海が入っていたんだ。あたしもご一緒してよろしいかしら?」

「どうぞ、ご自由に」

メリナは頭にタオルが巻いてあった。どうやら、海と二人きりでも耳は見せたくないらしい。あるいは用心しているだけかもしれない。彼女は風呂に入って海の隣に座った。

「いい湯加減だね。この時をずっと待ってた」

「そうだね。夜の空気も寒すぎず暑すぎない」

二人とも目が閉じていて、首から下が水面下に没している。さも気持ちよさそうに風呂を満喫している。

「ところでさ、びっくりしたよ、昨夜」とメリナが言った。

「何が?」

「だって、てっきり海が引いて才機の隣を何も言わずに譲ってくれると思った。最近あまり気にしてないように見えたけど、やっぱり好きなのか」

「そういうメリナはどうなの?ただ楽しんでいるようにしか見えないけど。才機をからかってるつもりなのか、私をからかってるつもりなのか分かんないよ」

「あら、あたしは真剣だよ?口説き方が海と違うなだけなんだ」

「口説いた覚えは特にないんだけど」

「ま、確かにあたしの記憶にもないね。このままだとますます遅れをとる事になっちゃうよ。後で後悔しても知らないから」

「遅れをとるって、別にメリナと勝負している訳じゃないんだ」

「そうか。そうよね」とメリナがちょっといらいらした口調で言って遂に目を開けた。

メリナは立ち上がり、両手を腰に当てて海の方に向いた。

「それって何?才機はもう自分のものだと確信してるのか?それともあたしみたいな変な女は勝ち目ないから眼中にないって事?」とメリナ少し目を細めた。

「別にそんな事言ってないだろう?」と海の目を開けてメリナを見上げる。

「言っておくけど、あたしは才機とうまく出来る自信がある。こっちから見ればあんた達の方が全然ダメだ」

「どういう意味、それ?」

「言った通りの意味。どう見ても二人は中学生同士みたいな関係だ。一年間以上一緒にいるのに何の進展もない。その点、あたし達はもうお互い裸見せ合ってる」

「え?!いつ才機が裸を見せた?!」

「まぁ、上半身だけだけど」とメリナは才機の背中に塗布材を塗った時を回想した。

海は怪しむ目でメリナを見た。

「あ、あんた達はどうなのよ?まだキスもしてないだろう」とメリナが言った。

「キスした事あるよ」と最初は自慢げに言ったが、海は直ぐに目を逸らした。

「うそ!絶対うそだよ!」と今度はメリナが驚く番で後ずさりまでした。

その様子はあんまりにも心底驚いていて海はなぜかちょっと癪に触った。

「ふん!本当だとしてもどうせ事故か演技か何かだろう。あんた達はぜっっったいにそういう関係じゃないんだ」

「だから、そういう関係じゃいないって言ってるだろう」

「まぁ、いいわ。あたしには他にも取り柄がある。た、と、え、ばー···あたしの方が大きいんだ」と最後の方はつっけんどんに言った。

「な、何がだ?」と海はしらばくれたが明らかに動揺していた。

メリナはただ誇らな笑みで胸を張った。

「言う?!言うの、それ?!だ、だからなんだ?そんな事で···才機はそんなに喜ばないよ」

「そうかしら?」

「大体、胸がちょっと大きいからって男に選ばれたい女って感心出来ないね。私だってない訳じゃないのに···」

海は最後の方を独り言みたい小さな声で言った。

「自分の気持ちを口に出す事すら出来ない女より断然いいと思うが?」

二人はお互いを睨み合った。

するとまた引き戸が開く音がした。今度は男用の風呂場だった。

「よーし、今日も溜まった疲れを吹っ飛ばさせてもらおう。なぁ、才機」

「ああ、そうだな」

リースと才機だった。この露天風呂は男と女の湯が共用されていて、たった一枚の高い柵で分かれている。除かれる心配はまずないが、音は筒抜け。海は話題を変えた。

「そ、それにしてもいつまでここにいるんだろう。犯人、早くぼろを出してくれないかな」

「なに話を逸らしてんだ?私の胸の方が大きいなのがそんなに悔しいの?」とメリナはわざとらしく大きいな声で言った。

「ちょ、ちょっと!聞こえちゃうじゃない!」と海が怒ったひそひそ声で言った。

「別にいいんじゃない?案外もう知ってたりして。裸見られたんだから」とメリナがさっきと変わらない声で言った。

「お、大きいって言ってもそんな大した差じゃない。気付かない、普通」と海は同じぐらい大きいな声を出した。

「あのな、二人とも。もっと静かに出来ないか?俺達はリラックスしに来たんだ」と向こうからリースの声が来た。

メリナは不本意そうに海の隣に戻った。

リースが求めていた静かな時間は束の間だった。男風呂の引き戸が開いてタオルに巻かれた小さな人間が現れた。

「ジェ、ジェシカ?!何でここに?!」と才機が聞いた。

「ジェシカも皆と風呂に入る」

メリナと海は顔を上げて男風呂の方へ見た。

「いや、ここは男用だよ?」と才機が言った。

「ん?いつもお父さんと一緒にここに入るよ?ダメなの?」

「ダメ!!」と、海とメリナが一斉にに叫んだ。

「お姉ちゃん達もいた。じゃあっち行っていい?」

「おいで、ジェシカ。背中を洗ってあげる」と海が言った。

ジェシカは元来た方向へ戻って女子達と混ぜてもらった。それからリースが求めていた静かなリラックスする時間は女達が仲良くそうにしている声だけに妨げられた。

「どうよ、才機?風呂に入ってるところ、いい女が乱入して一緒に入るのが有りがちな夢だけど、ちょっと想像してたのと違ったな?」

「今の聞かれたらまずいんじゃない?」

「大丈夫、大丈夫。彼女らは自分達ではしゃいでいてこっちの話を聞こうともしてない。そうだ。いい機会だから聞いておこうか」

リースは声を潜めて才機に尋ねた。

「どっちが本命だ?」

「え?本命って」

「とぼけるなよ。俺はあいつの兄だからって遠慮する事はないよ。二人の女がお前の事で張り合ってんだ。どっちがいいかぐらい考えたろう」

「勘違いだ。少なくとも海は俺の事で張り合ってなんかいない」

「あくまで白を切り通すつもりか?ま、それなら別にそれでいいんだけどよ。女に浮かれてなきゃ仕事に集中出来るからな」

「その辺なら抜かりはないからご心配には及ばず」

「心強いなぁ。じゃ、そろそろ出ようっか?」

「驚いた。もっとしつこく答えを聞き出されるかと思った」

「そりゃ、答えは既に分かってるから。多分。だがなぁ。これだけは言っておこう。いつぞやお前が言ったことは本当だ。俺は妹に対して過保護するタイプだろうな。あいつがお前に甘えるの見て正直複雑だ。本音を言うと割って入って思っ切り邪魔したい。でも初めてなんだ。十九歳になっては初めて男に興味を持った。あの子の今までの人生を考えればそれも仕方ないかもしれないけど、せっかく俺以外の人に打ち解けようとしているからやっぱ邪魔したら酷だよね?だから邪魔はしない。ただ、せっかく他人に心を開く気になった結果が傷付くことになったらそれも酷だろう?だから応援もしない。この三角関係はいつまで続くか分からんが、あまり長く続くのもなんだし、ここでお前の答えを面前で聞き出せたらのめり込む者がのめり込み過ぎる前に決着がつくと思ったが···おっと、プレッシャをかけるつもりはないぜ。お前は自分のペースで自分の好きなようにして。メリナに同情する必要なない。して欲しくない。でももし本当に俺の弟になるってんなら考えてやらんこともない」

リースは才機の肩を一回叩いた。

「さ、なんか冷たいものでも飲みにこうぜ。いい加減熱くなってきた」とリースが上がって脱衣場に入った。

「答えはとっくの前に出したよ。もう俺にどうしろって言うの?」と才機が低い声で言って同じく上がって脱衣場に入った。

「あ、男達が上がったみたい」と引き戸を聞いたメリナが言った。

それを聞いたジェシカは何かを思い出したのように急に風呂から上がって着替え始めた。

「あたし達も上がるか」とメリナが言った。

「そうだね」

二人が脱衣場に入ったら、ジェシカはもう半分着替えが終わっていた。急いでいるようだったが、メリナと海は自分のペースで着替えた。着替えが済んだらジェシカは濡れた髪のまま走って脱衣場を出た。やがて言葉一つ交わさずに、海とメリナも着替えを済ませ、メリナは自分の持ち物を持ち上げて言った。

「さっきはごめん。ちょっと言い過ぎた。海はあたしの事を変だなんて思っていないのは分かる。ただ···海があまりにも平然としていて、自信をなくしちゃう。許してくれる?」

「胸の事は謝らないんだ」と海は少し意地悪そうに言った。

「だって、あれ本当だもん」とメリナが少し申し訳なさそうに微笑した。

苦笑いを返して、海も私物をかき集めて二人で出て行った。すると、二人が見たのは長椅子に座っている才機と才機の膝の上に座っているジェシカ。才機はタオルでジェシカの頭を拭いていた。リースは隣の椅子で座り、冷や水を飲んでいた。

「髪くらいちゃんと乾かしてね。風邪引くぞ?」と才機が言った。

「誰かが乾かしてくれると気持ちいいの。たまにパパがやってくれる。次はくしでとかして」

「持ってるのか?」

「うん」とジェシカは隣の席に置いた籠からくしを出した。

「二人じゃなくて三人だったな」とリースが水をちびちび飲んで椅子で上体を後ろに逸らした。

「ねぇ、チョウサはうまくいってる?」とジェシカがまた才機に上がった。

「正直、あまり進んでないね。二つの事件の共通点がもっと分かれば次に狙われる人くらいは見当がつくが」と才機が答えた。

「キョウツウテン?」

「そう。二つの事件にともにある同じ事情とか」

「んーーー。それならジェシカ知ってるよ。事件があった日は怖い夢を見た」

「へー。予知能力か?どんな夢?」

「怖い人の夢。そして起きたらいつも変な所にいた」

「変な所?」とリースが聞いた。

「行った覚えがない所で起きた。廊下や露天風呂。ここの露天風呂じゃなくて、お客さんが使っている方」

「露天風呂か」

才機はタオルをかごに置き、くしでジェシカの髪をとかした。とかされている方はいかにもご満悦の態で足を前後に揺らしていた。メリナはこの才機の膝の上に座っている三人目のライバルの前に歩いてしゃがんだ。

《才機がロリコンじゃないって言ったのは信じてるけど、万が一の事もあるし、変な趣味に目覚めないようにしないと》

「ねぇ、ジェシカ、あたしと遊ばない?」

「ここがいいの」

「そうか。厨房で何かのおやつを作ろうと思ったけど、食べたくない?」

「おやつ?!んーー、やっぱいいや」

「ねぇ、ジェシカ、ジョージュが見当らないけど、どこにいる?」と海が聞いた。

「あ、ジョージュ!風呂に入るから部屋に置いてきた」

「一人で寂しいだろうね。向かいに行ってあげよう」

「うん、ジョージュをとってくる」とジェシカは才機の膝の上から飛び降りた。

「じゃ、ついでに厨房によってメリナにおやつを作ってもらおう。ジョージュはきっと喜ぶ」

「うん!」

三人の女達が男子を二人にして先に行った。

「縫いぐるみに負けたよ、才機」とリースが言った。

「別に負けてもいい勝負だった、これは」

リースは残っている水を飲み干して、グラスをテーブルに置いた。

「今、仮説を立てたんだけど、聞きたい?」

「仮説?何の?」

「この事件の。犯人はジェシカと言ったらどう思う?」

「ジェシカ?どういう了見だ、それ?」

「メリナの話によるとジェシカを狙っていたはずの人が数名いる。少なくても二人。その人達が行方不明になった。つまり殺されて処分された可能性がある。そしてジェシカは事件が起きた日、両日とも誰かに襲われる夢を見た。殺されたのはここの従業員。だったらブランズワドの秘密を知った可能性は高くなる」

「んー、ちょっと飛躍し過ぎやしないか?でも仮に行方不明になった人と事件で殺された人が同一人物だとしても、ジェシカが殺したとは限らないだろう。大体、正当防衛で相手を殺したとしたら、あんな妙な殺し方はにはならないと思う。っていうかあんな幼気な少女には無理だって。百歩譲ってそういうことだったとしても誰かに助けられたんじゃない?」

「そういう事だったらジェシカは覚えているはず。ジェシカを守った人だって名乗り出ればいい。ジェシカは露天風呂で起きたって言った。俺と話していた職員はどこで化物を見たって言ったか覚えてる?」

「露天風呂。···まさか、ジェシカが化物となって彼らを殺したって言いたいの?」

「俺達は今どんな時代に生きているのか忘れたか?俺は同じぐらいありえない事を何度もこの目で見てきたぜ」

才機は頭をかいた。

「じゃ、どうする?それをブランズワドに伝える?」

「あくまで仮説だよ。仮説は証明しないと」

「どうやって?」

「そりゃ、簡単だろう。ジェシカを襲う」

「やっぱり?」

「まぁ、ジェシカが誘拐されそうな場面を作るだけだよ。もしも何も起こらなかったらお前は飛んできて俺を追い返す。ちょろいもんだろう?」

「で、もしジェシカが本当に化物になってお前を殺そうとしたら?」

「お前は飛んできて俺を救う。どの道ヒーロー役だから不満はなかろう」

「嬉しいとも思わないないが、確かめるのに有効な策ではある」

「そんじゃ、仮面か何かを探してくる」


メリナは冷蔵庫から次々にデザートを出してテーブルに置いていた。

「アイスクリームもあるし、ケーキもあるし、フルーツもあし、この豪華そうな何だか分からない物もあるし···」

「あのー、何かを『作る』って言ったよね?」と海が言った。

「あたしの炊事スキルは中の下だ。海が何かを作ってくれるなら大いに期待して楽しみに待つけど?」

「私はまだ···野菜のスープしか作れない」

「どう?野菜のスープ食べる、ジェシカ?」

ジェシカは首を横に振った。

「じゃ、この中から選ぶんだね、どれがいい?」

「アイスクリームがいい」

「はい、アイスクリーム」とメリナはアイスクリームとスプーンをジェシカに渡した。

「でもいいのかな、勝手に冷蔵庫を漁って」と海が言った。

「いいのよ。これぐらいでブランズワドの懐は痛くも痒くもない。護衛の経費で落とせる。海は何がいい?」

「プディングはある?」

「プディング、プディング、あった」とメリナはチョコレートプディングが載せた皿とスプーンを海に渡した。

「あたしはー、そうね、ケーキにしよう」

ジェシカをはさんで三人とも美味しそうに甘い物にふける。

「あ、これ、プディングじゃなくてムースだ。久しぶりに食べた」と海が言った。

「アイスクリーム美味しい、ジェシカ?」とメリナが聞いた。

「うん。美味しい」

「ジェシカは今夜も私達と一緒に寝るの?私の寝袋を分けてあげるよ」と海が言った。

「ううん、パパは皆一日中働いているから夜くらい休ませてやれって言ってた。皆いいなぁ。ジェシカも皆みたいにお兄ちゃんと寝たい」

ジェシカはメリナの方へ顔を向けた。

「お姉ちゃんはお兄ちゃんの彼女?」

「え?いや、まぁ、彼女じゃないけど、お兄ちゃんと仲が良くて、一緒にいると楽しくて、よく彼の事を考えていて、でももし彼女になれたら才機を幸せに出来るんじゃなかいかなぁなんて思ったりして···」

「そっか、友達だ」

メリナはガンとなって左手にもたれていたあごが滑り落ち、危うくケーキの上に落ちた。

ジェシカは今度海の方を見た。

「じゃ、こっちのお姉さんは彼女?」

「違うよ!ただの友達」と海は手を顔の手前で左右に振った。

「なんだ、皆友達だ。だったらジェシカも一緒に寝てもいいでしょう?」

「んー、まぁ、こっちとしては別に構わないけど、お父さんはきっと何か考えがあって決めたんだ。やっぱ、ここはお父さんの言う通りにしていい子にすべきかな」とメリナが言った。

ジェシカはぶーって顔になったけど、アイスクリームをまた頬張ると機嫌を直した。皆が食べ終わった頃に才機が厨房に入ってきた。

「皆まだいたんだ」

「今終わったところよ。才機も何か食べたかった?」とメリナが聞いた。

「あ、いや、ちょっと二人と話があっただけだ。ジェシカ、先に行ってくれる?」

「何?内緒の話?ジェシカも聞きたい」

「ごめん。この話は二人のみにするように頼まれた。ジョージュを持ってきて。ここで待ってるから」

ジェシカはスツールから降りて、ジョージュを取りに行った。

「いいのか、一人で行かせて?一応狙われてるだろう?万が一襲われたらどうしよう?」と海が聞いた。

「襲われるよ。今から」

「?」


ジェシカは自分の部屋に向って走っていた。だが角から忽然と出てきた男を見てジェシカは早急に停止した。男は顔にスカーフみたいな物が巻かれて、目しか見えない。

「とうとう捕まえたぞ!こっち来るんだ!」とリースは声色を使って言った。

ジェシカは目を大きくして尻込みした。そしてぐるりと向きを変えて逆方向へ逃げた。しかし二歩も動く前に後ろから掴まれ、口もリースの手で塞がれた。

「高く売れそうだねお前」

ジェシカは抵抗しようとしたが大の男にかなうはずがなく、疲れたか諦めたか分からないがジェシカは腕を降ろしては大人しくなった。

《何も起こらない。俺の勘は違ったか。あれっ···》

リースの目が細くなって後ずさりした。急なめまいで一瞬だけ意識がもうろうろとしたが、頭を激しく横に振って何とか気力を取り戻した。

《おっとやっぱり少しのぼせちゃったかな。なんで温泉ってああも温度高いんだ》

ジェシカはまた暴れ出し始めたからリースがもっとしっかり押えた。そこで才機の声が聞こえてきた。

「誰だお前は?!ジェシカを放せ!」とダッシュで接近中の才機が言った。

《お芝居は終わりか?そんじゃ、俺はこの辺で退場させてもらう。悪いな、ジェシカ》

リースはジェシカを放して逃げて行った。

「ジェシカ、大丈夫か?」と才機はジェシカの前でしゃがんだ。

答えとしてジェシカはわんわん泣いて、才機に抱きついた。海とメリナは後ろから駆け付けてきた。

「よし、よし、怖かったか?もう大丈夫だ」と才機はジェシカの頭を撫でた。

「あんたが言うな」と海は小さな声で言って、拳骨を才機の頭の上に落とした。

「あっ、あいつを追い掛ける。海、ジェシカを頼んだ」と才機がしがみついているジェシカの手をどうにか引きはがし、海に預けてからリースの後を追った。

海に抱えられてジェシカは顔を海の胸に埋め、涙で海のシャツを濡らしていた。

《あの馬鹿どもが》

「むう大丈夫よ。あの人は才機が捕まえるから心配しないでね。そうだ。お父さんに内緒にするから今夜は私達と一緒に寝ようね」


リースは椅子に座り、顔を隠していた物を外した。

「どうやら俺は間違ったようだ。ジェシカには悪い事をしたな」とリースは歩いてきた才機に言った。

「間違いで安心したけどね。もしジェシカが犯人だったら色々と複雑になるから」

リースは頭を垂れて両手で顔を隠した。

「大丈夫か?」と才機が聞いた。

「うん。ただ、さっきちょっと変な気分だった。急に意識が消えそうな感じがした。何か、こう、眠気に逆らっているようだった」

「疲れてるのか?」

「そうかもしれない。或いは風呂が長過ぎたかな。ああ、それにしても以外と演技がうまいな、お前。真に迫っていた」

「そうか?」

「うん、あれじゃ女子達も本当に誘拐未遂だったと信じる」

「いや、話したから」

「え?!なんで?」

「まずかった?」

「まずかったっていうか、これじゃもう叱られるよ?俺もお前も。いっそ本当の出来事だって信じてくれた方が都合がよかった」

「そうか。そこまで考えてなかった」

「ばか正直だなぁ。ま、もう腹をくくるしかないよ。もうちょっと時間をつぶしてから戻ろう。何か飲み物でも買おう」とリースは才機の肩を叩いて先に行った。

二人が部屋に戻ってドアを開けた頃、海とメリナは向き合って寝ていた。そして二人の間にはジェシカもぐっすり寝ていた。

「説教は明日みたいだな」とリースは小さな声で言って同じく自分の寝袋の上に横になった。

女子達は海と才機の寝袋を使っていたので才機はメリナの寝袋を借りた。


    • • •


「おはよう、ジェシカ。よく寝れた?」とメリナが側で起きたジェシカに言った。

「うん。ジョージュがいなくて寝るのは久しぶり」

「で、その後どうなった、才機?」と海が聞いた。

「ああ、逃げ足早かったけど誘拐犯を捕まえたんだ。昨夜、警察に突き出したし、もう心配しなくていいよ」と才機が言った。

「よかったね、ジェシカ?これで安心して遊べるね」とメリナが言った。

「しかし、ジョージュは随分ほったらかしにしたね。向かいに行ってあげたら?きっと寂しいよ」と海が言った。

ジェシカはその提案に同意して海の言う通りにした。

「立ち直ったみたいだね」とリースが言った。

拳骨がリースの頭の上に落とされた。

「立ち直らなきゃいけない状態にした張本人が言うか?」とメリナが言った。

「悪気はなかったよ。確かめるにはその方法が一番手っ取り早かった」

「あんな穿ち過ぎた仮説を確かめる為にあの小さな子を凄く怖い目に会わせたんだよ?泣き止むのにどんなに時間かかったと思う?」

「そりゃ、大変な役割を押し付けたのは分かるけど、結果しか知らないからそれが言える。俺と才機と一緒に同じ場で話し合ってたら納得したはずだ」

「誰があんな無謀な策に納得するものか?」

リースは才機に指差した。

「男って本当にデリカシーってもんが知らないのね」

「面目ないす」と才機が言った。

「じゃ、何?『ジェシカってひょっとして異能者?』って直接聞いた方がよかった?そんなの誰が認める?」とリースが言った。

「まぁまぁ、もう過ぎた事だし。とりあえずジェシカが犯人じゃなくてよかったという事で」と海が割り込んだ。

「ほら、お前も海みたいにちょっとは前向きに考えてみよう。許容範囲の広い女の子っていいよね。なぁ、才機?」とリースが最後の方は才機に同意を求めた。

「ん?あ、ああ、そうだね」

「わ、分かったわよ」とメリナが少しだけすねて寝袋に戻り、ばったりとあぐらをかいて座って、腕を組んで話題を仕事に変えた。

「で、振り出しに戻ったけど、何か策は?犯人の手掛かり一向に見つからないし。あの二人だけ殺してとっくにどっかへ行ってたらどうする?」

「それだけは言うな。もしそういう事だったらここまでの苦労が水の泡となる。ブランズワドに報告するまで後三日。頑張ろうぜ」とリースが言った。

「それだけは言うな。もしそういう事だったら次どこでまた犠牲が出るか分からない。俺達が捕まらなきゃ。···の間違いなんじゃ?」と才機が言った。

「止してくれ。正義のヒーローじゃありまいし」

「うわぁ。そこまでずばり言われるとなんかモチベーシオンが···」

「当たり前だ。生活費がかかってるんだ。お前達のもな。立ち退かされるの想像してみ。モチベーシオンが幾らでも湧いてくる」

「あまり幻滅しないでやってくれ。お兄ちゃんはああいうけど、本当に連続殺人を終わらせたいと思ってる。ただ、報酬のついでにって感じ」とメリナが言った。

「あるいはもしかして、実は人助けが大好きなお人好しで、目にお金が映るのはただの照れ隠しだったりして」と海が言った。

「お兄ちゃんが?んーー、どうかな。それが本当ならあたしもちょっとびっくりするかも」

「俺を突き動かすものについて議論する暇があるんならさっさと食べに行こう」とリースが先に部屋を出た。

「今、照れてた?」と海が聞いた。

「まさか」とメリナが言った。


朝ご飯を済ませていつもの日課が始まった。殺人事件の他にやっぱりジェシカが誘拐される心配もあるので、才機は軽く掃除しながらジェシカにべったりついていた。傍目から見ればジェシカの方が才機にべったりついていたように見えたでしょうけど。才機にくっついたらり、手を引っ張ってどこかへ誘導したり。お昼も一緒に食べた。

「どう?お昼美味しかった?」と才機がジェシカに聞いた。

「うん、ジェシカはパスタが大好き。ナッチパイも甘くて美味しかった」

「うん、俺も気に入った、あれ。ナッチは普通に好きだけど、パイにすると結構いける。そういや、ジェシカはナッチパイの一部をナプキンに包んでリュックに入れたけど、後

の楽しみに取っておいた?」

「ううん。パパにあげるの」

「へー。優しいね。きっと喜ぶよ」

そして二人はまた行動を共にした。このリゾートの職員よりもジェシカのお守り役だと

思われても仕方ない。しかしそんな才機でも客に呼び掛けられた。その男は大きな見晴らし窓に向ってローンチャアーで日光浴をしていた。

「すみません。もう一杯頼んでいいですか?」と男は空のグラスを才機の方に差し出した。

「え、あぁ、俺は」

「氷は多めにね」

「あぁ、はい···。何を飲まれていたのでしょうか?」

「ピニャコラーダ」

「分かりました。少々お待ちください。ジェシカ、ここで待ってて」

才機はカクテルラウンジに行って頼まれた飲み物の注文を入れた。飲み物は直ぐに出来て、才機はさっきの男の所に持って行った。

「お待たせしました。ピニャコラーダです」

「ああ、どうも、どうも」と男が立ち、飲み物を受け取ってから才機にコインを渡した。

男はグラスを唇に持って、才機は辺りを見回した。ジェシカが見当らない。

「あのぉ、女の子が一緒にいたんですけど、どこに行ったか知りませんか?」

「ああ、あの子ね。何かが彼女の目を引いたのかな。あっちの方に走って行ったよ」と男が去って行った。

《何を見たっていうんだ?》

直ぐに戻るだろうと思って才機は両手を腰に当ててまた辺りを見回した。すると少し離れた所に椅子に座っている老婆に話しかけられた。

「あなた、もしかして女の子を探していますか?」

「あぁ、はい。知ってますか」

「今朝から何回も見かけて、凄く中良さそうでしたから覚えていました。あっちの方に行きましたよ」

老婆が指した方向はさっきの男が指したのはと正反対でした。

「あっちですか?」

「ええ」

才機は何か胸騒ぎがして老婆が指した方にジェシカを探しに行った。そっちに進むと殆ど何もなかった。会議や宴会を開催する為の部屋が多くて、そんなものが行われていない今、誰もいない。···と思ったら遠くに「やだ!放して!」って女の子の声をわずかに聞こえた。声を聞いた方向に急ぐと今度は叫び声をはっきりと聞こえた。男の叫び声。その叫びの元となった部屋のドアを凄い勢いで開けて、才機は目の前の光景を見て肝を潰した。先ほど才機と話していた男が血の海の上でうつぶせになっていた。でも本当に才機を立ちすくむような状態にしたのはその男の後ろにあった。知らない男が人と同じぐらいの大きさの奇形なクマみたいな物の爪に胸部を刺されていた。男の口と胸から血がぽたぽた落ちていた。

《あれは···ジェシカ···なのか?》

その後脚に立っているクマみたいな物は腕を振って男を壁に投げつけた。そのはずみでクマが体を転回した時、才機がまたショックを受けた。そのクマっぽいものの背中にジェシカが張り付いていた。意識がなく、ただそこでリュックの肩ベルトみたいなものでだらりとぶら下がっていた。

《まさか···あれがジョージュ?》

言われてみれば確かにどことなく縫いぐるみっぽい姿をしている。但し、可愛いとか、そんば風には到底思わせてくれない。どっちかというと不気味でめちゃくちゃ怖い。いずれにせよ、どう見てもあの奇形なクマは今ご機嫌斜めだ。そして次は才機に狙いをつけた。才機が思わず後ずさりした。

《あれと戦うのか?ここに誰もいなくて助かった》

だが、クマは後ろを向いて、背中に張り付いているジェシカの手足がぶらぶらしているまま向こうのドアから逃亡した。緊張が少し解けて、才機はその場面を再確認した。

二人の男の体を調べた上で既に死んでいると判明した。

《ジェシカをさらおうとしていたのはこの連中か》

これで最初の二つの死体になぜあんな刺し傷が三つ綺麗に揃っていたか分かった。あのクアの手から三つのでかい三角形の「爪」が生えていた。いつものジョージュもそうだったが、強度が段違いのようだ。それを誰かの胸に突っ込めばああはなる。とりあえず、追い掛けた方がいいと判断して、才機はクマが逃げて行った方向へ急いだ。さっき、あのクマは一切音を出さなかった。まるで音を出す能力がなかったみたいだった。だとすれば、あれがどこかで隠れてじっとしていたら探し出すのが困難かもしれない。才機はクマが通った痕跡を探しながら慎重に歩いた。そういう痕跡は目に入らなかったが、奥の方へドアのない部屋を見つけた。念のため調べる事にした。その部屋には他にも三つのスイングドアがあって才機ほ一番近い方から開けてみた。覗いてみると物置みたいな所だ。ざっと目を通せば、クマがいないと分かった。次のドアを開けてみた。同じく何もなかった。だが、急に後ろから気配がした。才機は自分の肩が掴まれるのを感じると目を大きくして急速に百八十度転回した。目の前には引っ込んだ手を空中に上げているメリナだった。彼女も才機の反応と慌てた顔を見て驚いている。

「ど、どうしたのよ?声を掛けようと思ただけだけど」

「メリナかよ。なんでここにいる?」

「厨房のキッチンタオルが底を突きそうだから持ってくるように頼まれた。ここにあるはず」

「なんだよ、びっくりさせるなよ」

「大体なんでそんなにびびっている訳?」

「それが、殺人犯が見つかった。ここに来る途中で何か変な物見なかった?」

「変な物?」

「人間じゃないんだ。少なくても直接手を下しているのは人間じゃない」

「どういう意味?」

「実は」

何かが落ちた音が才機の話を遮った。廊下の向こうの部屋からだった。そこもドアがついていない。

「ここで待ってて」と才機はその部屋を調べに行った。

まだ説明を聞かせてもらっていないメリナは好奇心に駆り立てられて才機の注意を聞き流して後をつけた。この部屋はさっきのと違って窓がなく、仄暗くてよく見えない。だから才機は降り掛かってきた手を眼前に来る直前まで気付かなかった。その衝撃で才機の頭は壁に凹みを残すほど強くぶつかった。メリナは悲鳴をあげた。そして彼女は次の標的。クマはでかい手を振り上げた。しかし壁に凹みが出来た理由も、才機が無事な理由も、掛かってくる手を見たら瞬時に装甲した体になったからだ。メリナに飛び掛かってクマの攻撃を背中に受けた。

「痛っ!」とメリナは床に転んで才機の下敷きになった。

「ごめん。早く下がってて」

才機がどいたらメリナは座ったまま後ろへ退いた。

追い詰められた今度は二人を見逃す気はないようだ。攻撃が続いた。人ならざる強さではあったが、あのガロンと言う男の拳に比べたらまだまだ余裕だ。とは言え、才機も全力を出せない。あのクマの背中にジェシカが付いているという事を忘れていない。下手にぶっ飛ばしたり投げたりしたらジェシカが怪我をするかもしれない。何とかクマの手を才機のそれぞれの手で動きを封じた。

「一体なんなんだ、あれは?!」とメリナが遂に声を出せた。

「ジョージュ。だと思う」

それにしても妙な気分だった。こうして二人が猛烈に戦っている最中なのに、この獰猛な獣は何の音も出していない。才機は無理やりクマを床に押さえ付けて自分の腕を首の周りに巻いた。それでもクマは大人しくする事はなく、今まで通り暴れていた。少しは痛めつけるしかないと思い、才機が首をやや強く絞めた。効果無し。もしこの物が生きているなら殺すのは可哀相だからなるべくしたくなかったが、他に手はなさそう。今度は首を完全に折るつもりで腕に力を入れた。だが効果どころか手応えすらなかった。脊髄とういうものを持っていないみたいだ。

「こいつ、内蔵や骨格はないようだ。どう止めりゃいいんだ?!」

次の策を練る才機だったが、何も思い付かない。でも考えている間、クマがようやく落ち着いてきた。それだけじゃない。見る見る小さくなって行った。驚いて才機はクマを放して、ジョージュに戻るのを目の前で見た。

「ジェシカ?!なんでここに?」

「ジェシカはさっきのとくっついていただけだ」と才機はまだ失神しているジェシカを近くのソファーまで運んだ。

「あれ、本当にジョージュだったんだ」

ソファーに寝かせた間もなく、ジェシカは起き始めた。才機も元通りに戻った。ジェシカのぼやけた視界がはっきりにになったら、才機が見下ろしているのが見えた。

「あれっ。いつの間にか寝ちゃった。どこ、ここ?暗い」

「ここは···」と才機は自分の周りを見た。

「控え室みたいな物かな」

「お兄ちゃんがジェシカをここに連れた?」

「ええ。ちょうど寝心地のよさそうなソファーがあったから」

「いつ寝ちゃったんだろう?」

「俺があの男が頼んだ飲み物を取りに行った間だ」

「そっか。そんなに眠かったかな?あ、そこ、お姉ちゃんもいたの?」

「え、ええ、あたしよ。どう、今の気分は?」とメリナが聞いた。

「ん?平気」

「もしかして、また夢を見た?」と才機が聞いた。

「夢?···あ、うん、見た!」

「どんなやつ?」

「また怖い人の夢だった」

「昨夜の事のせいで変な夢を見たんだろうね」

「あの飲み物を欲しがってたおじさんは子供に飴を配っていた所を教えたからそこに行って、行ったら誰かに捕まえられた。そうしたらあのおじさんがまた現れて『やっとあの子守りから引き離した』と言って、それから、それから···よく覚えてない」

「ふうん。なるほど。ね、ちょっとリースと話があるからそろそろここを出よう」

「あのお兄さんと?」

「うん。どこかにいるはずだから早く探すに行こう。手伝ってくれる?」

三人は部屋を出て他の客がいる当たりに向った。途中で才機の目は今し方二人の男が殺された部屋に行った。あれも誰かに見つからない内に片付けなきゃいけない。才機とメリナは歩き続けたが、ジェシカは足を止めた。

「あ、この部屋だった···かな」とジェシカはドアの取っ手を回してドアを開けた。

「寄り道しない。言っただろう。急がなきゃ。」とジェシカが覗き込む前に才機がドアを閉めてジェシカの背中を軽く押して進ませた。

「あの、さっきはありがとう。助かった」とメリナがジェシカが聞こえないように小さな声で言った。

「気にすんな。怪我はなかった?俺の体がああなるとちょっと堅いから」

「打撲程度だろう。あの化物の一撃を食らうよりずっとましだ」

「ならよかった。早くリ−スを見つけよう」

リースは二階で他の職員と一緒に窓の掃除をしていた。

「あ、いた。ジェシカはここで待っててくれる?」と才機がジェシカを持ち上げて近くにあった椅子に座らせた。

ジェシカはうなずいた。

「あ、サイキシか。それにイライザだ。どうした?」と二人が近付くのに気付いたリースが言った。

「いい知らせと悪い知らせがあるんだけど、どっちから聞く?」

「悪い方からかな」

「また人が殺された。しかも二人」

「え?!いつ?!」

メリナにも初耳だったので他の職員と同じく驚いた顔になった。

「たった今。遺体がまだ一階の宴会場にあるから、早く片付けた方がいいかと」

「分かった。バンズワドに知らせて」とリースは隣の職員に言った。

彼は走ってバンズワドの所に言った。

「いい知らせ今の話を上回るほどのものじゃないだろうね」

「どうかな。事件が解決されたと言ったら?」

リースの眉毛が上がって、才機の視線は後ろで無邪気にジョージュと遊んでいたジェシカに行った。


「うそ!ジェシカが?」と海は自分の耳を疑った。

才機、リース、海、メリナは自分達の部屋に集まっていた。今、海は全部リースから説明を受けていた。

「信じられないだろう?」とメリナが言った。

「あんな小さくてあどけない子がそんな事が出来るとは···確かに信じ難い」と海が言った。

「いや、そうじゃなくて、あたしが何より信じられないのは必死だったお兄ちゃんの考えが正しかったって事だ」

「なに人が藁にもすがっていた見たいな言い方してんだ?俺はだな、色んな事を考慮した上でその結論に達した」

「どうだか」

「お前は単に自分が間違ったって認めたくないだけだろう」

「ジェシカはそれを知っててどうだった?」と海が聞いた。

「ジェシカには言ってない。本人も気を失った間の事は一切覚えていない」と才機が言った。

「そうね。知らない方がいいかも。無意識にとは言え自分の能力が人を殺しているもんね。六歳の女の子には重過ぎる」

「それは断言出来ないよ。あの子の力はどんな風に働いていたのか俺達は分からない。クマを自由自在に操って、その時の事を目を覚ますと覚えていないだけかもしれない」とリースが言った。

「例えそうだとしたら、きっと自分の身を守っていただけで、殺す気はなかったと思う」

リースは肩をすくめた。

「でもこれで仕事が終わったんだよね?バンズワドに自分の娘が犯人だって言えばいいの?」とメリナが聞いた。

「それだけじゃなくて、異能者だって事も教えないといけない。彼はこれをどう受け止めるかは問題だ。最悪の場合、断じて否定して報酬を払ってくれないかも」とリースが少し不安な表情を見せた。

その時、ドアをノックする音がした。

「開いてるよ」とリースが言った。

ドアが開くと、そこにこのリゾートまで案内してくれた人がいた。

「バンズワド様がお呼びです。オフィスまでいらっしてください」

全員バンズワドが待っていたオフィスに集まった。

「直ちに来てくれてありがとう。皆さんが知っての通り殺人犯がまた動き出しました。しかも今回は犠牲者が二人。警察沙汰にはなって欲しくなかったが、そろそろやむを得ん。営業停止になるでしょうね。もし···あなた方はまだ何も突き止めていなければ、ですけど?」

「それについてなんですが、実はこの件の真相が先ほど分かりました。先ほどの犠牲者はこれで最後かと」とリースが言った。

「おお!本当ですか?では、もしや犯人は既にあなた方が捕らえましたか?」

「えーと···それが、泳がせてはいますが、犯人ならいつでも直ぐに拘禁出来るし、もうこれ以上誰かを殺す事はないと思います」

「どういう事かね?」

「落ち着いて聞いて欲しいです。信じたくない気持ちは分かるが、この事件の犯人はジェシカ、あなたの娘です」

バンズワドはきょとんとした。

「これは何かの冗談ですか?六歳の小娘にあんな事が出来る訳がない。親としてではなくて、客観的に言ってますよ」

「普通の六歳の娘ならそうかもしれない。でもあなたの娘は異能者です」

バンザワドはもくもくとリースを見ていた。

「娘が犯人と言われた時のように驚かないんですね。もしかしてご存知でしたか?」

最初、バンズワドは答える気じゃなさそうだったが、やがって椅子で上体を後に逸らして口を開けた。

「どうしてそれが分かった?あの子があなた達の前で何かをやらかした?」

「俺の前です」と才機が答えた。

「そうですか。確かに娘が異能者です。それは認めます。だが、四人も殺したというのはまだ納得出来ない。あの子の能力は殺害に使えるようなものではありません」

「娘の能力について分かっている事を教えて頂けますか?」とリースが聞いた。

「あれはそもそも本人が自分の意志で使えません。動揺したり、緊張したりする時に逃亡本能みたいに働きます。意識が体から離脱して別の物に宿ります。手短かな物にね。有機体でさえあれば何にでも憑依出来ちゃうみたいです。例えそれが知覚を持たないものだとしてもだ。いや、むしろ知覚があると駄目です。意識を既に宿している人間なら侵入してくる彼女の意識を拒絶して排除するみたいです。私は何回そうやって入ってくるジェシカの思いを一時感じた事があります。物に取り付いた場合、なんか活性化してその物が動いたり形を替えたりする事もあります。ある時、娘が鉢に植え付けたひまわりを私に見せようとして持ってきました。私は仕事で忙しくて、しつこく見せようとした娘につい怒鳴っちゃってね。泣き出してあのソファで静かになったと思ったら膝の上のひまわりがだんだんしぼんでいくのに気付いた。最終的にはタンポポと大差なかった。触ってみるとその葉っぱは泣き付くように私の指に絡んできた。娘がいつも大事にしている気に入りの縫いぐるみもありますが、それにも憑依したことがあります。目覚めたら本人は一切覚えていませんけど。娘にはこれの事を話していませんから何も知りません。控えめに言っても奇妙ではあるが、人殺しには向いていない能力だ」

「なるほど。でももし彼女の動揺に応じて、その能力がより強く発揮されるとしたら?」

「と、言いますと?」

「まぁ、実際見たのは才機だから、才機、お前が説明してやれ」

「俺が見たのは多分その気に入りの縫いぐるみ。クマのリュックだろう?」

「ええ」

「でも本来の姿を殆ど保っていなかった。五倍ぐらいでかくなっていて、一人の大人の人間と同等の大きさ。可愛い顔は消えていて、代わりに悪夢で見そうな鬼の形相をしていた。そして二センチにも満たない爪が男の胸を貫けるほど大きくなっていた。それを容易に出来るほどの腕力も備わっていた。そんな物が目の前でジェシカの縫いぐるみの姿に戻った」

「そう···なんですか。あの子の力がそんな事まで出来たとは」

「前に言いましたね?あなたの石油備蓄の存在を知り、娘を狙って身の代金を要求しようとしている者がいますと」とリースが言った。

「ええ」

「その者達が今日ジェシカを襲って、今才機が話した物によって殺された。前の犠牲者もその仲間だと考えていいでしょう。ま、詭弁をちょっと弄して、殺したのはジェシカではなく、そのクマだって事にしても構いませんがね」

「大変優秀な刑事ですね。石油備蓄の事といい、娘の事といい、私の秘密を二つも暴いてくれました。残る問題は後一つだけ。これらの事を黙ってもらいたいんですが、どう?口止め料をはずめば済む事ですかね?」

「もとより喋るつもりはありませんでしたので、それは無用です。俺達の事を困っている人に薦めてくれればそれでいいんです」

メリナはすんでのところで「ええ?!」と声に出すところだった。

「まぁ、口止め料を受けた方が気持ち的に安心出来ると仰るなら断りませんが」とリースが言い足した。

「ほ〜。まことに殊勝な男ですね。よかろう、私の口からは好評を期待出来ます」

「じゃー、少なくとも後一夜だけここに止めてもいい?」とメリナが頼んでみた。

「なに、それだけ?安い、安い。一夜でも一週間でもいるといい」

「では、お言葉に甘えて。一夜だけでいいんですけど」と最後の方はリースが妹に向けて言った。

「今夜にでもまたここに来てくれ。それまでに報酬を用意しますから」

「分かりました。して、娘の方は放っておいていいんですね?」

「流石に六歳の娘が無意識にやった事の為に警察に突き出す気にはなりません。誘拐しようとした連中には気の毒ですが、結局は自業自得。但し、そろそろ娘に話した方がいいかもしれません。自分の感情をちゃんと管理するように教えないとね」

「では、私達はこの辺でで」とリースが言った。

「ああ、ご苦労様でした」

「お疲れ、皆」とブランズワドのオフフィスを出たらリースが言った。

「お兄ちゃんどうしたの?なんで口止め料をもらわなかった?今朝言われたことをそんなに気にしてたの?」

「な訳ないだろう?ああいう人に宣伝してもらえると後々いい仕事が入るかもしれないからな。それに事態は事態だ。賭けだけどこれほどの秘密を知ったんだから口止め料はどの道払われると思うよ」

「でもこれでやっと終わったのね」と海が言った。

「ああ。明日の朝はドリックに戻るから今夜は出来るだけリフレッシュしとおいて」

「はい、はいー。今から思う存分にリフレッシュさせてもらいまーす」とメリナは手を上げて走って行った。

「どこ行くんだろう?」と才機が聞いた。

「おそらく温泉だな。あいつああ言うの結構好きなんだ。しかも今は専用の風呂を使えるから頭にそんなに警戒しなくていい」

「海も入ったらどうだ?次の機会がいつ来るか分からないから」

「そうね。才機はどうする?」

「部屋で横に寝てりゃ十分リフレッシュ出来る。このリソートで見られる物はもう既に見たしね」

「俺は···そうね。カクテル=ラウンジで色々試飲とするかな。では、解散」とリースがさっそくバーに向った。

「本当に今日の残りの時間は部屋で寝腐るつもり?」と海が聞いた。

「駄目か?」

「駄目だよ。せっかくこんな所に来てそんなのもったいない。風呂から上がったら向いにくるからどっかに行くよ。何があるか分からないけど、娯楽室みたいなのが二階にあった」

「そうか?まぁ、それもいいかも。部屋で待ってる。風呂でゆっくりしてていいよ」


海が着替えて風呂場に入ったらメリナは既に水に浸かっていた。

「やっぱり専用の風呂はいいよね」と海が言った。

「まさにその通りだ。こんなにリラックス出来たのは久しぶり。いや、もしかして初めてだ」

「私も久しぶりだ。最近はこんな事をしているどころじゃないって感じだったし。しかしお湯に浸かって思いっきり手足を伸ばすのはやっぱりたまにはやらないとね」

「しかも二日連続。もういっそここに住みたい。あの二人は?」

「リースは飲みに行った。才機は部屋で休んでいる」

「お兄ちゃんが飲みに?後で担いで部屋まで運んでいかなければいいんだけど。見た目ほど酒に強くないんだ」

暫くしたら海はメリナの肩にあるあざに気付いた。

「あれっ、昨日はそんなあざあったっけ?」

「あぁ、これ?」

メリナはその肩をさすった。

「これは今日出来た。あの縫いぐるみに襲われた時、才機は体を張って庇ってくれた。ただ、その時才機はあの能力を使っていた。ああいう才機の体は堅いからね」

「そんな事があったんだ。もっと丁寧に人を助けるように言わないとね」

「いいえ、この程度で済んだのは幸福だったよ。でも、才機ならあんな力がなくても同じ事をしたような気がする」

「そうだろうね」と才機が自分を暴走したトラックやアイシスの攻撃から守った時が海の頭に浮かんだ。

「あのね、こんなリゾートに来てよかったと思う理由がもう一つ出来た」

「何?」

「ここの雰囲気。ここって好きな人に告白するのに丁度いい場所と思わない?」

さっきから目を閉じていてひたすらに風呂を満喫していた海の目が瞬時にあけた。でも動揺の源である隣のメリナとその目を合わせなかった。

「な、なんで?誰かに告白するつもり?」

「ここまで来てとぼけても滑稽だけだよ。誰の事だか十分分かてる」

「だって···大体、本当に才機が好きなのか?会ってからそんなに長くないし」

「好きだよ。海もそうだろう?」

「それは···関係ない、今は」

「じゃ、別にいいよね?あたしが告白しても」

「で、でも才機の気持ちはどうなんだ?い、一方的に告白するのはちょっと勝手なんじゃない···かな?」と海はどもりながら言った。

「あんた、何言ってんの?その気持ちを確かめる為に告白するんだろうが。告白というのは一方的なものなの。大丈夫?」

「私が言いたいのは速まらないでって事」

「ここまで反対されては才機の事が好きなのは明らかだ。いい加減認めたら?」

「だから、それは今関係ないだろう?」

「じゃ何?才機はあんたの事が好き?そう言いたい訳?」

「それは···分からない。でも前に告白してくれた事がある。その時···私が断ったけど」

「ふ〜ん。なるほどね。でもそれは昔の話だろう?人の気持ちは変わるものだ。あ、でも海だからそんな事言わなくても分かるよね」とメリナは意味ありげにほのめかした。

海が気にしていた事がずばり言われた。

「今の話のお陰で少し自信が出て来た。もしかして二人は暗黙の了解で互いに約束してあると思ったが、そうでもないみたい。素直になれないあんたより、あたしといる方がきっと才機が幸せだ」

「私達はどんな困難を一緒に直面してきたかも知らないのに勝手に決めないで」

「あら、自分の事は関係ないと言わなかった?好きなくせに」

「それが分かってるならどうしてあんたが才機に告白するんだ?!」と海は遂にメリナの方へ向いた。

「恋愛に卑怯もへったくれもないでしょう。海が告白すれば?あんたには才機の気持ちを確かめる機会なんていくらでもあったはず。聞かなかったのはあんたが悪い」

「一度振ったんだよ?!もう振ったからそんな簡単に言えないのよ!一体どの顔下げて告白しろって言うんだ?!どっちみち···才機の気持ちは聞けないんだ。聞きたいけど出来ない」

「だから才機が教えるのを待つ訳?一度振られた才機だって海のことがまだ好きだとしても本気を出せないじゃん!そんな迷惑を掛けるような人じゃないのはあたしだって知ってる!聞くのが怖いからって才機に任せるのは可哀想だろう!···あたしだって怖いさ。でも勇気を出さなきゃ何も始まらないじゃない。しかもあたしにはこんな変な物が付いてるよ?」とメリナは両手を頭に参ったタオルを当てた。

「しかしこれでも彼は可愛いって言ってくれた。だから···才機には他の選択肢もあるって伝えるの」

「違うんだ。怖い訳じゃない。いや、少し怖い···けど、聞かないのはそれだからじゃない。今は聞けない。聞いちゃいけないんだ」

「何それ?」

「言えない」

「ならこっちが遠慮する必要はないね」とメリナは立ち上がった。

「決めた。今から自分の気持ちを伝えに行く」

メリナは風呂から上がって脱衣場に入った。そこで着替え始めて三十秒も経たないうちに、戸が荒々しく開けられ、そこに海が立っていた。

「待って!どうしても行くんなら先に見て欲しいものがある。それを見てからまだ行くって言うんなら止めない」

二人は無言で着替え、海がメリナを案内した時も一言も交わさなかった。やがて着いた所は洗濯室だった。

「ここ?」とメリナが尋ねた。

海は洗濯室に入って、メリナはその後に続いた。

「ここ」と海は奥にある物置のドアを開けた。

「ここに何がある?洗濯用の道具ぐらいしか」

バタン。

メリナの後ろからドアが閉まる音がした。

「あんた···まさか」とメリナはドアを開けようとしたけど、鍵がかかっていた。

「ごめん。でもメリナが言ったでしょう?恋愛に卑怯もへったくれもないって。メリナの助言に従って告白してみる」

「ちょっと、そんな事言ったかもしれないけど、こんなの···こんなの···卑怯だ!」

「じゃ、直ぐ戻るから」

「え?あんたこんな大胆なことをする人だったっけ?信じられない。先に告白するって言ったのはあたしだ!」

「ここは譲って!お願い!お願いだから!」

「今更なら言ってんの?!開けて!ここ開けて!」とメリナがドアをバンバン叩いた。

返事がない。海はもう行ったようだ。

海は才機が待っている皆の部屋へ向った。本人は言った通り寝ていた。

《私の心臓が張り裂けそうなのに、こいつはこんなに呑気に》

「寝てないから、こっそりしなくていいよ」

「そう···だったんだ」

「いい風呂だった?」

「うん」

「じゃ、あの娯楽室とやらに行ってみるか」と才機は起き直った。

「あ、うん。えーっと。その前に···ちょっと···話があるんだけど」

「ん?どうした?」


《まずい。これは先に告白した方が有利な状況だったのか》

メリナは自分の周りを見回した。凄く細いけど窓があった。ぎりぎりで抜けそうだ。但し今のままでは手が届かない。メリナは大きな桶を探し出し、窓の手前に逆さまに何個か積み重ねた。それに昇って窓の掛け金に手を伸ばしたが指先で触れるのが関の山。一旦下りてもう一層の桶を積み上げたら、窓を開けるのに成功した。自分を持ち上げて窓によじ登った。途中ではまったかと思ったが、何とかくぐり抜けて海に出し抜かれないように才機のところに急いだ。


「本当は、まだ聞いちゃいけないような気がする。私達の世界に帰って元の生活に戻ったら···そうしたら言ってもいいと思った。けど、事情があって待てなくなった」

「ん?何の話?」

「これだけを信じて欲しい。私達が今この状況になっているから聞く訳じゃない。切っ掛けになったかもしれないけど、私の本心だ」

「だから何なんだ?言ってみ」

「だから···吊り橋効果とかそういうのじゃなくて、まぁ、この場合は吊り橋じゃなくて異世界効果というのかな。でもそういうのじゃない···はずだ」

「?」と才機が首を傾げた。

海は目を閉じて深く息を吸って、そして吐いた。

「もし、才機がまだその気なら···私と···付き合ってみない?」

才機はぽかんとした表情で海を見た。

「ほら、あんたが前に言ったじゃん?誰かを好きになるのに一番大切なのは思いでだって。ここに来てから才機と大事な思い出を沢山作ってきた。心細いからとか、私達の世界に戻るのを諦めたとかそういうんじゃないから。二人でここに来た事が切っ掛けだったかもしれないけど、その理由だけで今の質問をした訳じゃない」

才機は海に言われた事を噛み締めていたようだった。

「俺は」

「ちょっと待ったーー!」とメリナぱっとドアを開けて部屋に飛び込んだ。

「よくやってくれたわね。だがこれ以上の抜け駆けは許さないよ。才機、あたしからも言わせてもらう。才機の事が好きだ。あんたみたいな人に出会うのずっと待っていた。付き合ってください」

メリナと海はじっと才機を見ていた。まだ寝袋の上に座っている才機は交互に二人の視線を何度も返した。

「俺に···決めろって言うのか?」

「こうなったらそうするしかない。才機が好きな方を選んで」と海が言った。

「···参ったなぁ。一度も告白された事ないのに遂にこの日が来て同時に二人に告白されるとは、神様もいたずらが好きなんだな」

「自分の気持ちを正直に言って。あたしも海もそれでいいはずだ」

才機は小さくため息をした。

「どっちかを選べって言うんなら···」と才機は海を見て、それからメリナを見た。

メリナは歯をくいしばった。

才機は腕を組んで視線を自分の脚にやった。

「どっちも選べない。俺は二人にも愛着を感じていて、恐らく、どっちとでも幸せになれる。だから、俺にはどっちかを否定する事が出来ない」

「って事は···この先でもあたし達二人は才機が好きでいる限り、どっちも選ばないって事?」

「そうなるかな」

「なんか、嫌だよ、それ。それじゃ皆ずっともやもやしていて心の整理が出来ない。いっそう誰かを選んで、二人だけでも幸せになって欲しい」と海が言った。

「あたしは海と同意見だ。その方が諦めがつく」

才機はまた海からメリナへ視線を向けた。メリナは唇を噛んだ。

「二人は本当にそれでいいの?」

二人が頷いた。

才機は目を閉じて何やら考えているようだった。その目が開けたら海が映っていて、口を開くと同時に目はメリナに行った。

「そう言われても···そもそも選びようがないんじゃやっぱ仕方がないよ」

部屋中が静かになった。

「選べないんだったら選択しを減らせばいいよね?」とメリナが提案した。

海は何のつもりだと言わんばかりの顔になった。

「一人が手を引けば残った方がより才機の事が好きって事になるだろう?」とメリナが続けた。

「それって誰なのかどう決めればいい?私は手を引くつもりないんだけど」

「簡単さ···あたしが降りる」

「え?」と海は自分の耳を疑った。

「二人を見るのがじれったくてたまらいでさ。だからいつも才機をからかっていた。すると、ほら。それが功を奏してこうやって海がやっと積極的になって告白する覚悟まで決めてくれた。まぁ、告白した時点であたしの仕事は終わったけど、最後にもう一回だけちょっかいを出してみたかったよね。やっぱ、ちょっと意地悪なところあるんだよ、あたし」

「本当に···そうなのか?」と才機が聞いた。

「やだ、も〜。真に受けないでよ。そんなに気を悪くするなって。彼氏にしたいとは思ってないかもしれないけど、才機は愛嬌のある人と思うよ。大事なのは海が才機の事をそれ以上思っていること。絶対に期待に応えなさいよ」とメリナは才機の肩を軽く叩いて部屋を出た。

メリナは廊下を歩き始めて角で曲がろうとしたら、リースが腕を組んで背中を壁にもたれていた。ちょっとびっくりして足が急に止まった。部屋から出て十歩たらず歩き、ここにリースがいるって事はさっき部屋で行われた事を知っている。

「なんだ、飲みに行ったじゃなかった?」

「限界に達した」

「で、いつから聞いてた?」

「状況を全て理解出来るくらい前から」

「ま、二人をからかうのは面白かったど、もうこれで終わりか。もう少し楽しみたかったなぁ。新しいおもちゃを見つけなきゃ」

リースは左手で妹の横顔を自分の胸に押し当てた。

「···」

メリナは反応するのに困っているようだ。

「よく頑張ったな。あのままじゃ才機のやつが損するだけだ。ちゃんと分かってたみたいだな。彼が本当に好きなのは誰だか。辛かっただろうけど、あれで正解だったよ。それにしてもあんな風に譲るとは、結構優しいんだな、お前も」

メリナは頭を回して顔をリースの胸に隠した。そしてリースは胸に少し濡れた感触がした。

「お兄ちゃんはあたし達の三角関係にあまり関知してなかったみたいけど、笑っちゃうよね、この結果。ちょっとは期待してたよ?あたしの完敗だ。この真っ直ぐ過ぎる性格じゃ当然だ。でも仕方ないじゃん。あたしを受け入れる人はそうそう見つからない。ああいう幸せを手に入れるなんて夢見ちゃいけないよな」

「やっぱ才機が言った通りだよ。俺は過保護な兄だ。ずっと黙ったのは才機の本音が分かってたから。本当はお前をそう簡単には預けねぇよ。才機はいい奴が、お前に相応しいほどの器だって決めてない。しゃくだけど、お前の恋愛はいずれ来る。それまで一番妨げになるのはお前の性格でも、ましてこの耳でもない。俺だ」

メリナは鼻をすすった。

「お兄ちゃんのせいでいい男に逃げられたら絶対承知しないからね」

「可愛い妹に悪い虫が付かないように出来ればそれもやもえん」

「お母さんかよ」

「番犬だ」


「私にこんなベタな台詞を言わせるんだけど、私じゃ、いや?」と海が才機の前に正座した。

「え?まさか!」

「あの日から才機の気持ちが変わっているかもしれない。心がメリナに傾いていても可笑しくはないし。認めたくないが女の私から見ても凄く可愛い。私を選んでくれるならもちろん嬉しい。でも無理に私を選んで欲しくない。そうしないといけない義理を感じているんだったらその考えを捨てて。メリナが気になるなら応援するから。本当に」

「確かにメリナに対して全く何も感じていないと言ったらそれは嘘になる。でもメリナが入る前に俺が言おうとしたのは、俺の気持ちはあの時から変わっていない。それが真実だ」

「じゃ、私でいいと信じていいよね?」

「はい、完全に」

「なら、私の事だけを見るようにすればいいんだね」

「海だったら簡単に出来るだろう。ただ、一つだけ質問がある」

「何?」

「正式に付き合っているという事になったんだけど、それで何かが変わるの?もう同性してるし、俺的にはとっくに付き合ってるみたいなもんだと思う」

「確かにそうよね。じゃぁぁ···記念として···キスする···とか?」

「そっか。付き合ってる人はそういうのやるんだったな」と才機は何か新しい発見でもしたかのような顔になった。

才機は腕を組んで下を向いた。何かを考えているようだ。やがて顔を上げて海を見た。

「俺の変なところ···聞いてみたい?」

「え?何?」

「俺さ、キスの魅力が今一分からん」と才機が上体を後ろに逸らしてありていに言った。

「は?」

「いや、最後まで聞いてくれ。割り切って考えればキスってのは相手と唇をこすり合ってを楽しむものだ」

「そうね···キスだから」

「愛情の表れとして理解出来るよ?でも何だか勿体ないくない?物足りないっていうか。どうせこすり合うんだったら、ちょっと立ってみて」と才機が立ち上がった。

海も要望通り立つと才機は海を思い切りが優しく抱き締め、横顔を海の横顔に押し当てた。

「こっちの方が当たる表面積が多くていいと思うんだ」

「うん、悪くないね、これ」と顔をほころんだ海も両手で才機を抱き返して頭を才機の肩の上に載せた。

「やばっ。想像していたよりいい。何か他のバリエーションも試したくなってきた」

才機は海を放し、手を引いて壁の方に連れて行った。そこで壁を背にして座り、伸ばした脚を少し広げてから両腕を海に伸ばした。海は才機の意を汲み、背を向けてその脚の間に座った。才機は海の体に腕を回し、海も鎖骨に添えているその腕に両手を掛ける。

「おお、すげぇ。海まじ抱き心地いい。ずっとこれやってみたかった」

「これからもたまにやろうね」

そのて体勢で約二十秒が経ったところで、

「よし、取りあえずこれぐらいでいいかな。続きは戻ってから出来るからそろそろ行くか?」と才機が突然言い出した。

「行く?どこ?」

「あの娯楽室を見に行くんだろう?」

「あ、そうか。完全に忘れてた」

「では、初デートという事で。言ってみよう」

「初デートはもっと緊張するものじゃなかった?」

「海は緊張してるの?」

「別に」

「俺もだ。楽しくやれそうね」


その娯楽室は他の客も利用していたので二人きりのデートというわけにはいかなかったが、二人はそこにあったゲームのやり方が分からなかったので、やっている他の人を見て遊び方を大体理解出来たから助かった。ミニーシーソーとハンマーみたいなものを使って投石機みたいに小さな木円盤を飛ばして相手側のネットに入れるのが目的だ。それぞれの相手は五つのネットを有していて、入り難いほど特典が多いようです。ラウンドの始まりにボタンを押すとその木円盤は二、三十枚ほど台の下の層に落とされ、どこにあるかは見えないが、台の側面についている複数のある程度引き刺し角度も変える器具を駆使して円盤を探り、出来るだけ多くを自分のトレーの方へ弾く。そうしたら両プレイヤーは自分が確保出来た円盤を交代で相手のネットに入れようとする。ハンマーに入れる力が少な過ぎると相手のネットまで届かず、かといって力を入れ過ぎると円盤は突き出ているネットを飛び越えて後ろのボードに当たって無様に台の上へと落下する。しかもボードに当たると相手に自分の持っている円盤を一個渡してしまうらしい。台の上が賽銭箱みたいになっているので外した円盤は全て台の中層に落ちる。これが中々楽しくて一時間以上は続いた。チェスか何か見たいなボードゲームもあったが、流石に見ていてもルールがよく分からなかった。駒が三角形で、盤の上での向きに意味があるようだ。しかも何だか自分の駒を重ねることも出来て高ければ高いほど駒が強くなる感じだった。だがそれで才機は駒がしっかりくっつけるように出来ているのに気付き、色違いの自分の駒と相手の駒をくっつけてそれで二人がオセロを打った。それが不思議そうに彼らを見てどんなゲームか聞いてきた二人の中年男子にオセロを教える展開にもなった。少し暗くなってきた頃に二人が最後にもう一度風呂に入ると決めた。

今度は二人で露天風呂を独占出来て、柵一枚に隔てられて静かにお湯に浸かった。昨日より妙に恥ずかしくて殆ど言葉を交わさなかった。その内海はそろそろ部屋に戻ろうかと尋ね、二人共上がって着替えに行った。先に着替えを終えた才機は脱衣場の前で海を待ち、梅が出ると二人で部屋に戻った。

海がドアを開けると中には誰もいなかった。

「まだ誰も帰ってきてないみたいだ」

「ふむ。ならばさっきの続きをやろうとするか」と才機はまた床に座ったが、今度は外の星空が見える窓の近くの戸棚に背中を預けた。

海は才機の方へ歩いて二人は部屋を出る前と同じ体勢になった。

「これ、凄く落ち着く。勇気出してよかった」と空を見ながら海が言った。

「後は自分達の世界で出来れば文句無しだな。帰ったら真っ先にしたいことは?」

「やっぱり家族に会いたいなぁ。どう説明するか分からないけど、皆をぎゅっとしたい」

「俺は試合に出たいかな。命掛けの戦いじゃなくて、安心して出来るルールのある真剣勝負。もう負けてもいい。こんなの乗り越えたら負ける気があまりしないけど」

「それもいいかもね。後、コンビニに行きたい。最近食べてないお菓子を買いまくって一度に食べたい」

「俺はご飯が食べたいなぁ。おかずはいらないからほかほかの白米を口に入れたい」

「それなら私でも出来そう」

「いや、出来るよ、ご飯炊くぐらい。出来なかたら致命的だよ?」

「そうだ。才機の弁当作ってみようか。お母さんに作り方教えてもらってさ。二人分を大学に持っていく。それも出来ると思う?」

「あんなうまい野菜のスープ作ったんだ。出来るだろう」

「後ね、カラオケに行きたい、才機と二人で。凄く好きな曲があって、バラードなんだけど男女が歌うデュエットで、もしいつか彼氏が出来たら一緒に歌いたいと思ってた」

「ふーん」

そこで海は目を閉じて小さな声で歌い始めた。才機の知らない歌だった。今歌っている節は女性のパートだろうかと才機が思った。

「帰ったらその曲を聴かせてもらわないとね」

才機は海の歌声を聴きながらいつの間にかそのまま眠りについた。海の歌声もまた次第に小さくなり、心地いい才機の温もりを感じながら歌のテンポが非常に遅くなって、やがて口が完全に動かなくなった。


結局リースとメリナが部屋に戻ったのは翌朝だった。バンズワドに挨拶を済ませて来たらく、皆が出かける準備をしていた。身の回り品を集めていた時にジェシカが部屋に入ってきた。

「皆もう行っちゃうの?」

「そうだね。仕事が終わったし、もう帰らないと」と才機が言った。

「じゃ、最後にもう一回一緒に魚達を見に行こう。さよなら言わなきゃ」

「そうだね。ここで片付けたら行こう」

「あたしは先に外で待ってる」とメリナは鞄を持ち上げた。

メリナはジェシカの前でしゃがんだ。

「じゃ、ね。お父さんの言う事ちゃんと聞くんだぞ。そしてジョージュと遊ぶ時はなるべく楽しいこと考えよう」

「うん」

メリナはジェシカの横を通りながら彼女の頭を撫でて部屋を出た。

外に出たらバンスワドの使用人がそこで待っていた。

「馬車を回しましょうか?」

「はい、他の三人は直ぐ来るはず」

その三人で次に来たのは海だった。

「馬車は?送ってくれるよね?」

「あのバンズワドの側近らしい人が回してくるって」

会話はそこで終わりそうだったが、やがて海はまた喋った。

「聞いていい?」

「何?」

「何で手を引いた?昨夜のあれは嘘ばっかりだった」

「引いたんじゃない。負けたんだ。才機の目を見て分かった。いつも海の方を先に見てた。彼の海を見る目とあたしを見る目は違った。あたしを見る目に悲しさを感じた。どっちかを選べないとか言ってたけど、あたしを傷付けたくなくて選ばなかっただけだ。あたしに少し好意を抱いているかもしれないけど、彼の心は海にある。だから棄権勝ちだったと思わなくていいよ。才機はちゃんとあんたを選んだから」

「そう···なのか?」

「しっかし、あんたと幸せになる事を捨ててまであたしを傷付けたくなかったなんて。あれほど優しい人と付き合って海も妙な苦労をするかもしれないね」

「ありうるね」

「あたしに気を使わなくていいよ。立ち直りが早い方だから。もし才機の事で相談したい事があればいつでも乗って上げる」

「ありがとう」

そこでリースがリゾートから出た。同時に馬車も回ってきた。

「確か四人のはずですね」と御者が言った。

「ええ、もう一人は直ぐに来ると思う」とリースが言った。

そう言って、皆と違って才機だけは玄関からではなくて、ビルの角を曲がってきた。

「よし、じゃあ行こうか」とリースが言った。

全員馬車に乗ってドリックに向った。


    • • •


「仕方ない。お前を煩わせるほどの事じゃないと思ったが、行ってくれるか?」

デイミエンは両手をポケットに突っ込んで何百メートル下の草原を見下ろしながらそう言った。そこは山の中の通路で、縁に立っているデイミエンが一方でも前に進んだらこの世を去る事になる。

「デイミエンがそう望むなら直ちに赴く」とジェイガルが言った。

彼は相も変わらぬ真っ黒な鎧をまとって、暗い岩窟の中ではそこにいると分かっていなければ見落としやすい。

「考えてみればお前がじきじきに手を下すのは久しぶりだ。あれから同志を沢山集めて、戦力が想像以上に増えたもんね。手を汚す事を惜しまず、俺達の志の為に自ら尽くした人は十二分いた」

「それは全部デイミエンのお陰。あなたは世間に見捨てられた私達に希望を与える。私達をここに招いて、苦難でしかない現実に抗う意志を持たせてくれた」

「皆が考えていることを声にしただけだ。そんな大層な事じゃないよ」

「いいえ。声に出す勇気を持っていたのはデイミエンだけだった。本当に色んな意味で私達異能者の力になる。皆のあなたへ信頼は深い」


**デイミエンが街を歩いてふっと騒動が耳に入った。騒動の元となっている袋小路を覗き込むと三人の男が地面で体を丸めているもう一人の男にリンチを加えていた。その場面いる者は全員デイミエンと同じ二十歳ぐらいだ。

「よくこの街をのこのこ歩き回れるもんだな」と一人が男のわき腹を蹴った。

「友達が親衛隊を呼びに行ったからここで待ってろ。来るまで俺達が可愛がってやる」

「ま、彼は方向音痴だから戻るのにちょっと時間がかかるかもしれないれどね」と男がせせら笑った。

三人が楽しそうに男を痛めつけ続けた。そうしたら、一人は誰かが自分の肩に手を載せたのに気付いた。振り向いた途端に、それは誰だかを確認する機会もなく伸ばされた。仲間が急に倒れるのを見た他の二人が振り返った。

「おい、何してるんだ、てめぇ?!」

「お前らがやってる事と同じ事をしているだけど?」

「こいつは異能者なんだよ!立場を教えてやってるんだ!」と男はリンチの対象を指さした。

「そして俺は一人の相手に寄ってたかって襲っている三人の卑怯者を成敗している」

「野郎···てめぇも纏めてぼこぼこにしてやる!」

二人はデイミエンに襲い掛かった。だがデイミエンはいとも簡単に二人の攻撃をかわし、素早く、正確に反撃した。明らかに戦い慣れしている。二人掛かりでも敵わないのは男達が直ぐに理解した。

「くっそー。覚えてろ!」

「こいつを忘れるな」とデイミエンは最初に叩きのめした男を仲間の方へ押しやった。

三人とも恨みがましく立ち去った。デイミエンは地面に横たわっている男に向いた。

「親衛隊が来るまでそこでやられて待つつもりだったのか?」

「秘密がばれたんだ。遅かれ早かれこの街から追い出される。せっかく半年近く待って忍び込んだのに。うっかり能力が発生したのが悪かった。そういうのはやっちゃいけないって事をこの体に直接覚えさせるのもいい手だと思わないか?」と男が苦笑いをして起き直った。

彼は壁にもたれて、口から垂れた血を手の裏で拭った。

「本気でそう思ってるのか?無意識にやった事、しかも望んでもいない能力のせいで起こった事はあんたがこんな目に遭うのを正当化するって言うの?」

「お前には関係ない。普通の人間でいられた人は私の気持ちが分かるはずない。お前の同情もいらない」

「同情なんかじゃない。あんたに分けたいものがあるとすれば、むしろ矜持だ。それに誰が俺はまだ普通の人間だと言った?」

「···。お前はどうであれ、私を助けた以上、お前ももうこのメトハインにいちゃやばい。正義のヒーローみたいに振る舞うんだったらヒーローらしく仮面で顔ぐらい隠せ」

「ふん、正義だと思ってるんだ。あんた、名前は?」

「···ジェガー」

「俺はそろそろこの街を去ろうと思っている。一緒に来るか?」

「お前と行ってどうするって言うんだ?」

「さ、な。革命でも起こそうか?」**


「その信頼は報われないといけないんだね。この戦いを出来るだけ早く終わらせたい。そうしたら少しは楽になれるかな、シルヴィア。また手伝ってくれるか、ジェイガル?」

「聞くまでもない」とジェイガルは完全に暗闇に引っ込んで消えた。

「今度は心配いらないか」


    • • •


「帰った、帰った!」とリースは腕をいっぱい伸ばして馬車から降りた。

「しかも結構設けたんじゃない?ブランズワドからもらった袋をちらっと見ただけだけど、袋が渡されたこと自体は相当の金額を渡されたってことででしょう?」とメリナも馬車から降りた。

「ま、ねー。やはり口止め料をつけてきた」

次は才機が降りて、海が降りるの手伝った。

「ただいま···か」と海が低い声で言った。

「でも今回のは才機の手柄だな、一杯おごってやる」とリースが言った。

皆が宿屋の食堂でテーブルを囲んでリースはビールを注文した。

「どうだ、ルピスじゃなくてトレイキで支払われるのはやっぱり嬉しい気分だろう。しかも三日分の働きで十八枚も入った」とリースは九枚のコインをテーブルの向こう側に滑らせた。

「いかがわしい仕事ではあったがな。もし俺はあれが出来なかったら、今みたいにこの報酬をもらえるような体じゃなかったかも」と才機が言った。

「本当よ。よくこんな危ない仕事を引き受けるんだ」と海が言った。

「殺人事件だとしか聞いてなかったよ。クマの化物が出るなんて思いもよらなかった」

「殺人事件だという事で既に十分怪しいけど」

「まぁ、まぁ、ほら、ビールが来たよ」

ウエイトレスはビールで満ちたピッチャーと四つのマッグをテーブルに置いた。リースはピッチャーを持って皆に酌をした。

「それじゃ、乾杯!」とリースが言って全員マッグを上げて飲んだ。

リースはまた皆のマッグを一杯に注いだ。だが才機の番が回ったら殆ど飲んでいなかったようだった。

「ん?どうした?まさか飲まないとか言わないだろうな」

「飲まないよ、才機は。苦い物は駄目なんだって」と代わりに海が言ってあげた。

「なんだそりゃ?子供じゃん」

「別にいいじゃないか。行き渡るビールが増えたって事」とメリナは才機のビールを自分の物にした。

「これはいかん。才機、お前」とリースは言いかけたけど、才機と海の間にやってきた女の人に話の腰を折られた。

「お楽しみ中に失礼致します。才機殿、海殿、お久しぶりでございます」

「あ、あんたは!」と海がびっくりして言った。

才機も同じようにびっくりしていた。

「あんた達の知り合い?」とメリナが聞いた。

「ええ、まぁ」と才機が言った。

「それにしても凄い格好だな。メードか何かっすか?」とリースが聞いた。

「そう思われてもらって結構です。」と女の人が答えた。

「この人はメトハインのあの塔で仕えている人だ」と海が説明した。

「申し遅れました。シンディです」

「へー。そんな人はどうしてここに?」とリースが聞いた。

「そう。っていうかどうしてここが分かった?」と才機が聞いた。

「ちょっと調べさせて頂きました。二人の人相を当てにあっちこっち尋ねてようやくこの宿屋に辿り着きました。ここ二日間はお留守だったようですけど」

「うん、仕事でちょっとね。その間ずっとここで待ってたのか?」と才機が聞いた。

「はい」

「私達に何か用件でもあるの?」と海が聞いた。

「はい、女帝陛下は今一度あなた方にをお会いになりたいと仰いました。またいらっしゃっていただけないでしょうか?」

才機も海も明らかに驚いてシンディをじっと見ていただけだった。床に液体が大量に零れる音が二人を我に返らせた。リースとメリナの方を見ると二人も随分驚いているようだ。リースは自分のマッグにお代りを注いで、ピッチャーを傾けているまま。とっくに満杯になったマッグに注がれたビールが床に零れ落ちていた。

「あのー」と海が言った。

「お兄ちゃん、ビール、ビール!」

「え?おっとと!」とリースは慌ててピッチャーをテーブルに置いた。

メリナはカウンターへ行って、タオルを借りてきた。一枚をリースに渡して二人は零したビールを拭き取り始めた。

「それで、いかがでしょうか?」とシンディが再び聞いた。

「そう···だね。行った方がいいよね?」と才機は海に確認した。

「この前は凄くよくしてくれたし、いいんじゃない?」

「ありがとうございました。長い仕事から帰ってきたばかりで疲れているでしょう。今日はゆっくり休んではいかがですか?明日いらっしゃるように女帝陛下にお伝えします」

「そうか?じゃ、頼む」と才機が言った。

「では、明日宮殿の前までいらしてください。お待ちしております」とシンディはお辞儀して去った。

ビールを拭き取っていたリースは急にテーブルに戻って才機と海の方に上半身を前にかがんだ。

「お前達が女帝陛下と知り合いなんて聞いてないよ!」とリースが低い声で言った。

「知り合いって言うか、一回だけ会ってごちそうになった。ね?」と海は最後の方を才機に向けて言った。

「うん」

「ごちそう?!一体どんな物が出された?!」とメリナもテーブルに戻った。

「えーと。実際になんだったのかはよく分からない。色々あった」と海が言った。

「美味しかった?」

「うん、美味しかった」

「やっぱりそうよね?いいな〜。女帝が食べるような物、匂いだけでも一度嗅いでみたい」

「で、何だって女帝陛下に会えた?」とリースが聞いた。

「お尋ね者の逮捕に助力した」と才機が言った。

「助力したって言うより全部私達でやった事なんけど」

「それで報酬をもらいに行った時、直接皇帝と女帝に会った」

「まぁ、それならありえなくはないけど、それだけでごちそうにまでなるとは。しかももう一度会いたいって。どういう事?」

「私達もよく分からないが、気に入られたみたい」と海が言った。

「気に入られた?女帝の気に入りって、あんた達どれだけ運が向いているの?迷う必要ないじゃん。絶対行くだろう」とメリナが言った。

「まぁ、でもどの道そろそろあっちにいる知り合いに会わないといけないし、ついでに彼のとこにも寄る。ちょうどいいタイミングだ」と才機が言った。

「知り合いって、あのクレイグっていう人?」と海が聞いた。

「うん。···あ!」と才機は何かを急に思い出したようだった。

「何?」と海が聞いた。

「今日一緒に行けばよかった。明日だとメトハインまで歩かないといけないくなる」

「あ、そうか」

「馬を借りたら?一日ぐらいならそんなにお金かからないよ」とメリナが提案した。

「馬?いや、乗れないよ。海も乗れないよね?」

海は首を横に振った。

「乗れないか···。な、メリナ、俺達も最近行ってないよね、メトハイン。潮時かな」

「ん?んー、そうね」

「実は俺達もメトハインに用事がある。皆で行こうか?馬を二頭借りれば二人乗りで行ける」

「そうか?歩いて行くよりましだな。それでいこう」と才機が賛同した。

「よし、じゃ明日までは自由行動だ。さっきのメードさんが言った通り今日は休むとしよう」

「二人は休むのか?せっかくだからカップルとして初デートに行ったらどうなんだ?」とメリナが提案した。

才機は海の方を見た。

「初デートねぇ。確かに昨夜のあれは初デートとしてはちょっと物足りなかったかも」

「え?もう行ったのか?早っ。恋人同士になった途端、時間を無駄にしてないのね。この調子だともしかして今夜辺りでも本格的に大人の関係に移るのか?」とメリナは肘で海の腕を突いた。

「何勝手に想像してるの?昨夜は娯楽室で少し遊んだだけだ。でもそうね。オーナーはまだ帰ってきてないはずだから今日は暇だし、どっか行こうか」

「特に行きたい所は?」と才機が聞いた。

「なってないなぁ、才機。男ならお前が計画を立てて楽しませてあげないと」とリースが言った。

「そういうもんなのか?」と才機は海に向って聞いた。

「いいんじゃない?才機がどんな所に連れて行ってくれるかちょっと興味あるし」

才機は腕を組んで頭を後ろに反らせた。

「あ、そうだ。才機が考えている内にちょっと着替えってくる」

「え?なんで?そのままでいいじゃん」

「着替えたいのっ。いいから、あんたは今日をどう過ごすか考えておいて」と海は階段を上がった。

才機はそうした。そして直ぐに何かひらめいたようだった。

「ちょっと行ってくる。直ぐ戻るって海に伝えて」と才機は宿屋を出た。

残された二人はそれぞれのビールを飲み干した。メリナはピッチャーを手に取って最後の一杯を自分のマッグに注いだ。

「それ、最後だろう?半々にしようよ」とリースが言った。

「あたしは今酔いたい気分なの。お兄ちゃんの分はそこだろう?」とメリナはビールで飽和されたタオルを指差した。


才機が戻ったら海一人がテーブルで待っていた。海が着ていた服は先ほど着ていた物と何もかもが違った。今着ている物は才機が買ってくれた帽子に完璧にマッチしている。このしゃれた服を着た可憐な女性が腕の立つ柔道家だと誰も思うまい。

「実際に被って出かけるのはこれで二度目か」

「特別な日に取っておいていてるの」

「凄く似合ってるよ。服のセンスはいいね」

「どうも。今どこに行ってきた?」

「あぁ、ちょっと偵察かな」

「で、今日の予定は?」

「そうね···どこにしよう」

「今偵察に行ったんじゃなかった?」

「うん。そうだけど、駄目だった。他の場所にしないと。あ、そうだ!昨日ナッチパイっていうのを食べた。結構いけた。確か、あれを売っている店がこの街にもあったはずだ。それを食べてみよう」

「じゃっ、案内せよ」

そういう事にしたのだが、才機の記憶にある店を中々見つけられなかった。あっちこっち行ったり来たり、やっとの事で辿り着いたら、結局ナッチパイは売り切れだった。代わりにナッチパイを売っているもう一つの店の情報をもらった。しかし、そこも探し出すのに同じぐらい苦労した。結局ナッチパイを味わう事が出来たのは宿を出てから約一時間後。

「いきなり出だしでつまずいたな。ごめん」と才機が謝った。

海はナッチパイの最後の一口を飲み込み、指先を舐めた。

「割と美味しかったよ。あの酸味が甘さに変えられたみたい。いい物食べさせてもらった。しょうがない。私も奥の手を明かすか」

「奥の手?」

海は立って、ナッチパイを買った店に戻った。何かを注文しているらしい。それを才機の所に持って帰った。

「はい。働いているレストランで食べたことある。才機はこういうの絶対に気に入ると踏んでオーナーが帰ってきたら作り方を教えてもらおうと思ったが、ここで感想を聞こうかな」

才機は海が渡した小さな箱から丸いケーキみたいな物を取り出した。凄くリッチな味と最初のふんわりした食感は歯が中身まで食い込むとナタデココに似た歯ごたえになる。今まで食べた事のない風味。口の中で蕩けて行く。

「面白いね、これ。独特な食感。そして美味しい」

「でしょう?」

「これ、作り方まだ習う気あるんだよね?」

「作って欲しいと?」

「海流のをも食べてみたい。あのスープみたいにもっと美味しいかも」

「そう言うんなら努力してみる。こういうのはスープを作るのと訳が違うけどね。うまく作れる約束は出来ない」

「じゃ、期待してるよ」

「ちょっと、聞いている?本当に難しいんだよ。識別出来ない固まりを持って帰るかもしれない」

「その時は全部食べて見せる」

「安請け合いして後で後悔しなきゃいいんだけど。そう言えば、言ったっけ?才機が好きなシーフードスープを作るの練習してるんだ。今度はあれを披露しようと思う」

「まじ?楽しみだな」

「野菜のス−プよりずっと大変よ。感謝なさい。さてと、次は?」

「次。次、ねぇ」と才機は顎のしたの肌を引っ張って周りを見た。

「本当に何も考えてなかったのね。まぁ、いいや。適当に歩き回って何か面白い物ないか見てみよう」

「わりぃ。今はそうしよう。」

少し歩くと面白い物が目に入った。大道芸人が何かをやっているみたい。約二十五人の引き付けられた観客が彼を囲んで見ている。その半分ぐらいが子供。

「何をやっているんだろう?」と才機が言った。

「行ってみよう」

二人は人込みに混じってよく見える位置に移動した。そこにそれぞれの手に皿を十枚ぐらい持ちながらボールの上でぐるぐる回っている男がいた。

「うわ、すげっ」と才機が言った。

男はボールから下りて皿を他の色んな道具が並んであった場所に置いた。ちょうどその芸が終わるところに来たようだ。

「さて!次は誰か一人ボランティアが必要です。手伝ってくれる勇敢人はいませんか?実はこの間買った卵を長い間忘れてずっと放置したせいでもうすっかり腐っちゃいましてね。でもやはりもったいないからどうにかして使いたい。そこで思った。この卵を使ってボールの代わるにジャッグル出来るんじゃないかな。しかし、ただジャッグルだけじゃつまらないでしょう?誰かここに横になって卵を手渡して欲しい」と男は綺麗なシートを敷いた。

子供達が何人か手を上げた。

「そしてジャッグルしながらその人の上で私の華麗な舞いを見せしたいと思います」

上げられた手は全部同時に降ろされた。

「上と言っても踏み台にするつもりはないのでご安心を。お客さんにそんな真似が出来るものか。上を飛び越えたり、周りを踊ったりするだけですよ?」

観客の様子は変わらなかった。

「仕方ありませんね。勇敢なボランティアにはこのマイスター劇場のチケットを進呈します!今日まで有効です!」

動機としては物足りないようだ。と思ったら一人だけ手を上げた。驚く事にそれは海だった。

「おお!ありがたい!しかもこんな美人は大歓迎。さ、さ、シートの上にどうぞ。仰向けになって下さい」

海は帽子を才機に預けて言われた通りにした。

「では、腕を真上に伸ばして両手を開いて」と男は六個の卵をカートンから出して海のそれぞれの手に二個置いた。

「それでは皆さん、始まります。心配はいりません。私は来る日も来る日も鍛錬してもはやプロの領域に達してます」

男は持っている二個の卵をジャッグルし始めた。それから海の上をぴょんと飛び越えながら彼女が持っている卵を一個取り上げた。三個の卵をジャグルするようになった男は何回回り、また海の上を飛び越えて卵を追加した。男は同じような事を海が持っていた卵を全部引き取るまで繰り返した。そして六個になった時、たゆまず海の回りや上を踊った。踊るといってもそれほど華麗なものじゃなかった。単に回って海の上を飛び越えただけなんだけど、かなり余裕がありそうで確かに大した手並みだった。でも本当に卵が腐っていようがいまいが、海は今一張羅を着ていてデートの最中だ。才機はやはりハラハラしながらでしか見ることが出来なかった。

「実はね、今までは五個が限界だったんで初めて六個に挑戦しだ。凄いでしょう?」

彼のその動きを見て初めてとは思わないが、急に動きが不器用になった。わざとやっているとしか思えないくらい今までの動きと違った。

「あ、あれっ、あれれ、やっぱり、無理があったかな。やばっ!」と男が海の真上を飛び越えた時にジャッグルを続けられなくなった。というよりも意図的にミスをしたようにも見えたが、どっちにしろ腐ったはずの卵が海の方に落ちて行く事に変わりはない。海は小さな悲鳴をあげて手で顔を守った。才機は歯を食いしばった。観客にいる婦人が口を手で覆った。そして何個の卵が海の上に落ちた。

《最悪だ》と思う海だが、卵は割れなかった。一個も割れなかった。

男は卵を一個拾って膝に何回かぶつけた。

「なんてね。作り物だ。ごめんね、ちょっと意地悪させていただきました」

海はほっとため息をついた。周りの人も緊張が解されて笑顔に戻った。

「とても寛容な方ですね。皆さん、彼女に拍手をどうぞ!」

観客から拍手の音が響いた。

「そして約束通り、このチケットを差し上げます」と男は立ち上がった海にチケットを二枚渡した。

「どうも」

「それでは、ちょっと休憩したいと思いますので少しでも面白かったと思ったら、興味深かったと思ったら、せめて注射を打たれるより楽しかったと思ったら、心ばかりのお捻りで今月の家賃を払いたいと思います」と男は被っている帽子をとって逆さもに地面に置いた。

海が才機の所に戻って人だかりの何人が前に出てきて帽子の中にコインを投げ込んだ。

「はらはらしてたよ」と才機が言った。

「はらはらしてたのはこっちよ。服が台無しになるかと思った」

「等価の報酬をもらってきた?」

「さぁ。劇場と言ったから何かの芝居かな」

「マイスター劇場。どこだろう?」

日常に戻っていく観客が解散すると道が開いて二人はその劇場を目指した。今度はあまり迷わずに辿り着く事が出来た。見た目はけして壮麗な物ではなかった。劇場にしては小さい方で、手入れがどっちかと言うと標準以下と言えるかもしれない。窓口で次の上演はいつと尋ねたら、五分に始まると言われた。チケットを渡して二人は中に入った。才機と海は真ん中の方で座り、暫くしたらステージに人が現れた。思った通り芝居でした。才機も海も映画館なら何度も行った事あるが、紙芝居や文化祭で生徒達が演じるものを別として芝居を見るのは初めてだった。所要時間は二時間近くだった。ポップコーンや飲み物はなかったにも関わらず、芝居を割と楽しむ事が出来た。恋愛コメディーで二人は声を出して笑った事は何回かあった。

「結構面白かったね」と劇場を出た海が言った。

「そうね。斬新な転回でした。流石異世界の物語は違うな」

「少しお腹減ってない?お昼にしよう」

「いいだろう。どこかに店がないかこの辺を歩こう」

歩き回っている内に通り越した窓の向こう側にあった物が海の注意を引いた。

「才機、見て」と海は窓を指し示した。

「ん?」と才機が見るとでっかいパフェを一緒に食べている二人がいた。

「ああいうの一回食べて見たかった」

「パフェ···だよね。あれ食べたら昼はいらないな」

「才機もアイス好きだろう?」

「そうだな。ま、海はあれがいいって言うならいいよ」

二人は店に入ってテーブルで座った。ウエイターが来たら才機は大型パフェを注文した。

「明日、何かいい知らせがあるといいね、クレイグ博士」と海が言った。

「今でも地球に帰せる、なんて言ってくれたら、二度と授業に遅れないで毎晩勉強すると誓う」

「なんか、緊張する。家に帰れる可能性が少しでもあると思ったら期待しちゃう」

「海も何か誓ったら?そうすれば期待に答えられなくても少しは安心感が出るかも」

「結果はどうであれ何かいい事があるようにね。んー、どうしよう。じゃ···もし明日帰れたら···もうアイスは食べなくていい。今日は最後にする」

「ほ〜」

「いや、待って」と海はテーブルに腕を置き、腕に顔を埋めた。

「今のはなし。えーと。そうじゃなくて。···毎日うちの猫を構ってあげて、弟の面倒をもっと見る。あ、後、才機の居残り柔道の稽古に必ずいつも付き合う」

「ちょっと、まるでそれが面倒臭いみたいな言い様じゃないか」

「面倒臭いよ、当然」

「副部長であろう者がなんて事言うんだ?」

「副部長だったよね。もう随分昔の事のように感じる···。やりたいなぁ、才機との居残り稽古」

「今の言葉、忘れないからな」

「うん」と海は地球を探しているかのように窓の外の空を見つめた。

「御待たせしました。大型パフェです」

二人の間に三十五センチのグラスが置かれた。盛り上げられたアイスを含めれば四十五センチになる。だがアイズだけではない。色とりどりの甘そうな丸い塊の数々の他に果物、シロップ、お菓子も入っていた。

「うわ、近くで見ると本当にでかい。二人じゃ食べきれないかも」と才機が言った。

海はスプーンを手に入れて先に試食をした。

「甘い〜」

「そんじゃ、俺も」

二人で協力してアイスの山が段々減って行った。

「ね、才機、この赤いの食べてみて。よく分からない味だ」

「どれどれ。うん、なんだろう。面白いけどね。でもやっぱあのキャラメル味のがまだ一番よかった。こっちのオリンジ色のを食べてみ。多分ナッチだと思うよ」

やがてグラスの中は二人の細長いスプーン以外、何も残っていなかった。

「凄い、全部食べ切ったんだ。それも結構簡単に」と才機が上体を後に逸らした。

海はお腹に手を当てた。

「ふ〜」

「どう?苦しい?」

「少しはね。まだ残っていたら食べられるけど。超美味しかった」

「俺はこれでしばらくアイスの事は考えなくていい」

「ちょっと歩いて腹ごなしするか」

「うん、今はいるのかな」と才機が独り言を言っているような感じだった。

「誰が?」

「ん?あ、いや、なんでもない。さぁ、行こう」

二人は店を出て街を当てもなく歩き回っていた。少なくとも海はそのつもりだったが、才機は売店を目指していたようだった。そこでパンを買った。

「まだお腹すいてた?」と海が聞いた。

「いや、買っておいただけ」

海は首をかしげたが、特に何も思わなかった。歩き続けていると気付いたら二人は市門の手前にいた。

「街を出るの?」と海が聞いた。

「そう。無駄足じゃなきゃいいけど」

才機が先頭に立て二人は街の外れを歩いた。草ぐらいしか生えていないが、暫くしたら池が見えてきた。

才機が急に立ち止まった。

「お、いた、いた」

「誰が?」と海は辺りを見回した。

才機は海の手を取ってそれまでと違う方向に誘導した。目的地は目の前の池だったらしいが、才機は遠回りをして違う方角から池に近付いた。そこにる鳥達を正面から寄ってきて警戒させない為だ。海は虹色の鶏冠を持った白い鳥達を才機の後ろから見た。

「ここってもしかして···」

「連れてて欲しいって言ったろう?ここだ」と才機は海を丸太の方に連れて行った。鳥達は飛び去らなかったものの、二人からちょっと距離を置いた。

二人はそっとそこに座り、才機はさっき買ったパンを出して半分を海に渡した。次にパンを手の中で細かく砕けて鳥達の方へ投げた。先ほどそっぽを向いた鳥達は手のひらを返すように一丸となって突然現れた餌をむさぼり食いきた。

「奇麗だね、この子達。見て、あのちっかいの。可愛いー」と海が言った。

「見た目に惑わされるな。手で食わせてみ。こいつらに出来たら手ごと持て行かれちゃうよ」

「手でやれるの?やってみたい」と海はパンを少し千切って差し出した。

取りにくる者は出てこなかったので才機はもう一度パンを粉々にして足元の近くに散らかした。鳥達はもうちょっと寄ってきたが、まだ少し距離を置いていた。二人の足の直ぐ近くのパンくずを食べにこなかった。

「今日はシャイなのかな」と才機が言った。

海はパンを出したままにしておいたけど、やっぱり誰も来なかった。しかし、自分より大きい仲間にずっと出し抜かれた小鳥が我慢出来ず、海が持っていた大きなパンの塊を取って逃げた。それを見た他の鳥は勇気を出して足元にあるパンくずを食べにきた。今はもう二人に出された物が誰に取られるかは競走して早者勝ちで決められている。その内海はこういう鳥に手をつつかれる痛みも知った。

「いいな、ここ。落ち着く」と海が言った。

心地よい微風が海の髪の毛を揺らした。

「ね、もう一つやってみたい事あるんだけど」と海が言った。

「何?」

「ちょっと横になって。」と海は才機の両肩を掴み、回転させて丸太の上で仰向けになるように促した。足を上げると鳥達はびっくりして一旦逃げたけど直ぐに散らばっているパン粉を食べに戻った。海は才機の頭を自分の膝の上に載せた。

「それで、どうすんの?」と才機が聞いた。

「何も。これだけ」と海は才機の遠い方の肩を握った。

「あぁ、なるほど」と才機は目を閉じた。

その顔は安らぎその物だった。

「うん、ナイスアイディア。癖になりそうだ、これ」と才機は目を閉じたまま言った。

二人はそうやって、暫くの間そこをその日の最後のデートスポットにした。餌を食べ尽くした鳥達はもう入浴に戻り、才機は熟睡していた。それに気付いた海はうつむいて、鳥達に見せでもしないかのように二人の顔を帽子で隠し、起こさないように才機の唇に軽くキスした。才機はああ言ったけど、やっぱりキスしてみたいものだ。


才機と海がデータを楽しんでいた間にリースは明日借りる馬を予約しに行った。馬房を次々に通り過ぎて、強そうなのが目に留まるとその鼻梁を撫でてみた。馬は鼻を鳴らし、悪い気分でもないようだ。

「そっちが眼鏡にかなったのかな」と後ろから声が掛けられた。

「ええ。こいつと後もう一頭貸して欲しい」

「こっちが頼んだ仕事もやってもらいたいが、あの二人はまだ自由に動き回っているようだ」

リースは後ろを振り返った。フードで顔を隠している男がそこにいた。

「その仕事ならもう完璧に仕上げたぜ。仲間から聞いてない?」とリースはまた馬の方に関心を向けた。

「仲間から聞いた話はいつの間にか脱走したとのことです」

「そうか。でも引き渡した時点でこっちの仕事が終わったから、悪いがその責任は取れない」

「今でもあの二人と一緒にいるようだけど、何があったか知らないかな」

「いや〜、こっちもびっくりしたよ。最初はお前達が解放してあげたと思った。そりゃ向こうは俺達を相当恨んでたが、それは金で解決出来た。世の中殆どのものはそれで解決出来るからな」

「では、もう一度依頼を受ける気はない?」

「あぁ、それはちょっと難しいかも。向こうは前みたいに俺達を完全に信用していないし、なんだかんだ言って仕事の助けにはなる」

「ふん。まぁ本気で依頼していた訳じゃない。ただの確認だ。だが注告だけはしておこう。俺達の目的は変わらない。それを邪魔したらそっちも一緒排除するのみ。行動する際に覚えておくといい」

リースは横目で男が去っていくのを見ていた。


    • • •


次の日はちょっと早起きして皆で馬屋を訪ねた。二人乗りなら必要な馬の数が半減するので昨日リースが予約した丈夫そうな二頭を借りた。もっとも、才機と海は馬を乗れないので誰かと一緒に乗せてもらう必要がある。

「さて、重さは均等に分布するんだったら男女ペアで行った方がいいけど、恋人になったばかりの二人の間に嫉妬の種をまくのもあれだし、才機、不満だけど俺にしがみつかせてやる」とリースが馬に乗った。

「お兄ちゃんはあたしが男に抱かれるのが嫌なだけだろう?」とメリナもう一頭の馬に乗った。

「違うって。気を使ってんだよ。そして『抱く』とか言うな」

「別にどっちでもいいけど」と言いつつ才機はリースが乗っていた馬に乗った。

海はメリナの後ろに座った。

「しっかり捕まって」とメリナが忠告した。

「分かった」と海は腕をメリナの腰に巻いた。

拍車で馬の肋をつついて、早足でメトハインを目指した。横に並んで四人とも道路を駆けた。

「なんだよ、それ?凄く変だけど」とメリナは大声で才機に叫んだ。

才機はジェットコスターでも乗っているみたいに背筋を伸ばしてリースの両肩を掴んでいた。

「別いいだろう?落ちなければ」

「何で男はそんなに同性のスキンシップを怖がるのかな」とメリナが海に聞いた。

「さぁ、今、女が見ているから?」

「なるほど、二人きりの時にべたべたすんだ」

「いや、断じて違うから」と才機が言った。

「お前ら黙って乗れ。舌を噛んだら知らないから」とリースが忠告した。

メリナはそんな事を恐れていないらしくて、舌をリースに向かって出した。だがリース

の要望通り、それからはメトハインに着くまでは黙々と進んだ。街に入って酒場の裏手の馬房で馬を繫ぎ止めた。

「用が済んだらここで落ち合おう。先に戻った方はビールでも飲みながら待つ。才機の場合は水か」とリースが言った。

「じゃ、俺達は宮殿に行く」と才機が言った。

「何か出されたらあたしの分も取っておいて。約束だからね」とメリナは海に言った。

「善処する」と海が才機と一緒に女帝に会いに行った。

「さて、俺達も行くか」とリースが言った。

「うん」


才機と海が目指している場所は街のどこに降ろされても直ぐ分かる。空にそびえる塔の方に向かえばいい。途中で才機は回りの風景に見覚えがある事に気付いた。

「ね、今通っていろこの道、覚えてる?」と才機は海に聞いた。

海は回りを見た。

「ん?あ、もしかしてここってあの時の」

「そう。今頃何やってるかな、ケンとあの男」

「あの時は人が沢山集まっていて、ここがどんな所かあまり見えなかったから最初は気付かなかった」

そして二人はくだんの男が追い出された店を通り過ぎようとしたら、店との距離があの時と同じに埋まった瞬間、ドアが開いた。あの事件が再生されるかのようで、二人は一瞬どきっとした。でも出たのは普通の客。その後に続いたのはあの時の店長。但し、今度は別人と思われるほど客を見送る大きな笑顔をしていた。最初はその違いのあまり才機は思わず見とれていた。だが、もし自分の顔が覚えられたらまずいと思って、通り過ぎるまで顔を逆の方へ向けた。宮殿に辿り着いて二人は塔への階段の手前で止まった。

「考えてみればここまで来たのはいいが、着いたって事をどうやって伝えればいい?」と才機が聞いた。

「門番に女帝に誘われたって言ってもそのままうのみにしないよね。かえって怪しくみえるかも」

「どうっすかねぇ」

「お待ちしておりました。よく来てくださいました」と真後ろから声がした。

才機も海も驚いてぐるりと回るとそこに昨日探しにきたシンディがいた。

「案内致します。付いて来てください」

シンディの後を続けて二人は宮殿に入り、前にに来た時みたいにエレベーターに乗った。この間は塔の上の部分まで上った気がしたんだけど、今回は割と早く降りた。そこからもう少し歩き、シンディはあるドアを開けて二人が入るようにしぐさで示した。

「連れて参りました」

「ご苦労、シンディ」とソファーに座っている女帝が言った。

どうやらそこは客室らしい。だけど、なんという豪華な客室。その広さだけでも自分達が済んでいる部屋より二十倍近くはある。ベッドから小さな噴水まで、あらゆる家具が惜し気なく備わっていた。天井から如何にも高そうな大きいシャンデリアが六つもつり下がっていた。ここを自分の家に使ってと言われて不満な人は少なかろう。シンディは部屋を出てドアを閉めた。

「来てくれて、本当に嬉しいわ。ドリックからの道程を歩いて疲れたでしょう?軽い食事を用意してもらった。どうぞ食べていって下さい」

「それが、実は馬を乗ってきたんです、今回は」と才機が言った。

「あら、そうですか。それならよかったわ。ここまでは少し距離があるからね。今思えば誰かを向かいに行かせればよかった。本来はシンディと一緒に来てもらう予定でしたが仕事で疲れていてたとか」

「いや、いいんです。誘ってくれただけで気前が良過ぎます」

「まぁ、とにかくこっちへきて楽にしていてちょうだい。そして好きなだけ食べて」と女帝は自分が座っているソファーの向かいのソファーを手で示した。

才機と海は言われた通りにして、二つのソファーの間のテーブルの上の女帝が言っていた軽い食事を目にした。これが軽い食事ならフルコースで一体どれだけの食べ物が出されるという感じだった。皿に盛った料理は五つ。全部見慣れない料理だ。

「海は前よりも奇麗になったような気がします」と女帝が海に言った。

「そんな。いつもと変わらないです」

「でも何となく雰囲気が違う。笑顔がもっと自然というか、幸せそうというか」

「そうですか?」と海はちょっとだけ赤くなった。

「見当違いでしたら許しておくれ。おばさんの戯言だと聞き流してください」

「とんでもありません。嬉しいです」

女帝は二枚の皿に色んなものを乗せて二人に渡した。

「すみません、いつもこんな手間をかけさせて」と才機は皿を受け取った。

「呼び出したのはわたくしですから、これぐらい当然のもてなしです」

「急にシンディに女帝陛下が会いたいって言われてびっくりしました。俺達に何かご用はあったでしょうか?俺達に出来る事なら協力します」

「そうですね。顔を見たくなった、と言ったら僭越でしょうか?」

才機も海もまたまたびっくりして瞬きした。

「最近皇帝陛下も忙しそうですし、ろくに話していません。またあなた達の話を聞けたら嬉しいと思っただけです。迷惑だったでしょうか?」

「いいえ、そんな事はない。むしろ光栄です」

「何か私達に凄く好意を抱いているようで、感謝はしていますが、何か訳ありですか?私達は女帝陛下からこんな恩を受けるような事はしていないと思いますが」

「そう考えるのはもっともですね。こんな事を聞いて気に障らなければいいのですが、本当の事を言うと二人は亡くなった娘と息子に似ています」

「あぁ、すみません、聞いちゃまずかったかな」

「気にしないでおくれ。でも似ていると言ってもあの子らが弱冠三と二歳で亡くなりました。自分でも不思議と思ているんですけど、二人を見ていると似た感じがします」

「そんな事があったんですか」

「ばかばかしいでしょう?でも二人がいると本当に心が和むわ」

「そうか。まぁ、話でいいならちょっと面白いのはあるかもしれない」と才機が言った。

「是非、聞かせてください」

才機が話したのはこの前の温泉リゾートでの仕事。海しか知らない場面は海が語った。女帝の方は心から楽しんでいたらしい。話にちょっと手を加えさせてもらったけど。犯人は経営者の娘ではなく、そのリゾートで止まっていた大富豪の娘だった。犯人の目的も石油備蓄ではなく、大富豪がどこかに隠した宝石の山。

「あの娘の手にかかったとは。それは思っても見ませんでした」

「ええ、皆もそうでした」と海が言った。

「あら、今、何時でしょか。二人は時間が大丈夫ですか」

「はい。あ、でも···せっかくここまで来たので、ついでに済ませたい用事があるんですが」と才機が言った。

「用事とは?」

「ここで研究をしている知り合いがいるんですけど、その人と会う約束したので連れていて頂けないでしょうか?」

「それは別に構わないんですが、わたくしは滅多に研究の層には行きません。あなたが探しているという知り合いを見つけるのにあまり力になれないかと」

「あぁ、それなら実はその知り合いを紹介してくれた研究者に研究室へ連れて行ってもらったことがあるので、どこにいるかはもう知っています。警備の人に俺達を通させてくれればそれでいいです」

「そうですか。今でも行きましょうか?」

「いいんですか?」

「ええ、研究施設でしょう。案内します」

三人とも客室を出、またエレベーターに入って下へ降りた。女帝というヴィプパスを得て二人は警備の兵と言葉すら交わさずに地下への螺旋階段を降りた。それから才機の方が先頭に立って海と女帝は後からついて行った。女帝は一番後ろで歩いていてから、二人は気付かなかったが進めば進むほど回りの事を気にしていたようだった。

「そこです」とクレイグ博士の研究室が見えてきたら才機が言った。

「ここ···ですか?」と女帝が聞いた。

才機がドアにノックをした。返事がない。もう一回ノックしても誰も出なかった。

「いないかな」と海が言った。

「電気がついているみたいけど」と才機はドアの取ってを回してみた。

「あ、開いている」

才機は部屋に覗いてみた。

「クレイグ博士?いますか?」

誰もいないようだ。才機は中に入らせてもらって、海はその後について行った。少し躊躇ったみたいけど女帝も中に入った。

「このコーヒー、湯気を立っている。ついさっきまでいたんじゃない?」と海が言った。

「そうだな。戻ってくるのを待ちましょう。大丈夫ですか?なんか、顔色がちょっと悪いような···」と才機は最後の方を女帝に言った。

「ええ。大事ありません。そこの椅子に座ってちょっと休みます」と女帝が部屋の隅にあった椅子に座った。

「本当に色々調べてるみたいだね」と海は研究室の様子を見た。

「覚悟した方がいいよ。お前を見たら色んな事根掘り葉掘り聞かれるかもしれない」

「標本二号って事か」

「そういう事。けっこう研究熱心なもんで」

「でも今、それはちょっとまずくない?」と海は瞳で女帝が座っている方へ示して低い声で言った。

「そうだな。でもいきなりこんな事を他人に悟らせないほどの分別はあるはずだ。また別の時に改めて来るように頼まれるかも」

その時、ドアが開いてクレイグ博士が登場した。ドアを開けてそこで才機が立っているのを見たらクライグはその場で止まった。

「君!」

「久しぶりです」

「そうか。そろそろ一ヶ月が立つもんね。あ、隣の女性はもしや···?」

「ええ、この間話していた海です」

「ほ〜。なるほど」とクレイグは部屋に入ってドアを閉めた。

「他にも客人がいるんだけど」

「ん?他にもチキュウ」とクレイグは言いかけたが、その客人は誰だったか目に入った。

「じょ、女帝陛下!何故ここに?」

「そこの方々がクレイグ博士の知り合いらしくて、話があると言いましたので連れてきました」と女帝は椅子から上がった。

「そうですか?ここまでいらっしゃって頂いたのは、ずいぶん久しぶりですね。でもちょうどいい。そろそろ報告しようと思っていました。実は、この二人はチキュウの人間ですよ!」

《ええええ?!言っちゃったー!》と才機も海も明らかにショックを受けているような顔になった。

それを聞いて女帝はどう反応するか。尋問されるのか?監禁されるのか?異世界から来るのは別に犯罪ではないはず。でも色んな実験に使いたいと思いかねない。そもそも信じているのか?だが結局は予想外れのリアクシオンだった。女帝は失神して床に崩れ落ちた。

一国の女帝が目の前で倒れば自然とパニック状態になる。まずは回りにいる人にどうすればいいかを仰ぐ。その回りの人が同じように自分から指示を求めている事に気付くと、自分でなんとかしなきゃと決断する。とは言え、気付け薬でもなんでも持っていないこの状況で出来る事は果たしてあるのか。

「取りあえず···椅子に座らせよう」とクレイグが提案した。

「うん」と才機はクレイグを手伝って女帝を椅子に持ち上げた。

「異世界人が実在するなんて相当なショックだったみたい」と海が言った。

「いや、そんなはずがないよ。私がこんな風に研究出来るのは女帝陛下の援助あってのことだ。異世界を観察する方法がないか調べるように頼んだのは他でもない女帝陛下です」

「なぜそんな事?」

「私も分からない。なんで異世界の存在をああもあっさり信じた理由も。ある日、この研究室にいらっして、私の研究の事が小耳にはさんで資金を提供したいと仰った。私には断れない話だった。資金をもらえるのが嬉し過ぎて、もらった理由はどうでもよかったのだ」

皆が気を失っている女帝を見た。

「それで、何か分かった?俺達を地球に返す方法について」と才機が聞いた。

「あれから色んな事が分かってきた。だが意図的に物質をを一つの世界からもう一つの世界へ送り込む事までは···」

「そうか。そうだよね。そう簡単に出来る事はずがないよね」

才機はそう言ったが自分の中の失望の大きさを否定する事が出来なかった。海もきっと同じような気持ちだ。

「まぁ、そう絶望するな。こっちは十年以上経っても諦めてないんだから。もう少しって感じだよ。後何か重要なヒントがあれば···。ところで···元気でやっているか、フォグリ博士?」とクレイグが近くのノートを拾って目を通すように見せた。

海は視線を落とした。言いづらそうだったので才機が説明した。

「実は、一ヶ月くらい前に亡くなったんです。発作で」

クリイグはノートをテーブルに戻した。

「そうですか。惜しい人を亡くしたな。フォグリ博士は実は私の先輩でね。同じ科学技術大学院大学に通ったんだよ。彼は私よりずっと優秀な研究者だったのに、いつも私に一目置いてくれて。彼の研究に誘って頂いたこともあったが、私の興味が他にあったから断るしかなかったがね。お互いの研究に大して関心ないのにたまに一緒にコーヒーを飲みながら自分達の研究に関する悩みや大躍進を話してさ。彼もどうでもいいとか思ってただろうなぁ。フォグリ博士が研究を続けていたらこの世の中にどれだかの発を生み出せたか考えると無念でしかない」とクリイグが残念そうに首を振った。

「研究者としてのケインはあまり知らなかったが、凄く良くしてくれました。もっと助けになりたかった」と海が言った。

短い沈黙は女帝の唸り声に遮られた。

「ん〜〜〜〜」

「気が付いた。大丈夫ですか?」と海が聞いた。

女帝がゆっきり目を開け、才機と海のぼやけた姿がはっきりになると、再び予測出来なかった行動を見せた。

目から涙が落ちこぼれた。

「ど、どうしたんですか?」

「二人とも···本当に···本当に別世界から来たのですか?」

「はい···」

女帝は両手を伸ばして、才機と海、それぞれの頬を愛撫した。

「よくぞ···よくぞ帰ってきた」

「え?」と才機と海はどう反応すればいいか困っていた。

「えっとー、俺達が分かりますか?才機と海です。今日、お話しする為に誘ってくれました」と才機が言った。

「ええ、わたくしの子供達です」

「さっき、頭を打ったのかな」と才機が海に言った。

「陛下、先ほど子供達が亡くなりましたと言ったのでは?」と海が聞いた。

「にわかには信じ難いでしょうけど、わたくしには分かります。あなた達はわたくしの子供です。但し、子供の生存については本当は分かりませんでした。わたくしが···わたくしが別世界へ送ってしまったからです」

「なんと!まことですか、陛下?!」と今度はクレイグが興奮する番だった。

「博士、見せたいものがありますが、本来は王家の者のみに知られている極秘です。くれぐれも他言しないと約束してもらわなければ」

「わ、分かりました」

「では、付いてきてください。二人とももいらっしゃい」と女帝は椅子から立ち上がった。

全員研究施設を出た後、またエレベーターに乗った。エレベーターは三階ぐらい上ったらまた止まった。

「寝室に寄りますのでここで待っていて下さい」

女帝は寝室に入って箪笥から素朴な宝石箱を出した。開けると一本の鍵が入っていて、女帝はそれをポケットに入れた。箱が上げ底になっていて、それをめくってもう一本の鍵が現れた。それもポケットにいれて、皆の所へ戻った。今度エレベーターに入ったら、女帝は鍵を出してハッチを開けた。ハッチの後ろは一つのボタン。それを押してエレベーターがまた動き出した。ただ、上に上がったのは本の数秒で、それから横に移動する感じがした。横への移動が数秒続くと再度上の方へ向かっていった。

「このエレベーターは今最上階に向かっています。そこには家宝や大事な文書、色んな物が保管されています。見てもらいたいのはここに移築したされた遺跡の一部です」

「遺跡ですか?」とクレイグが聞いた。

「ええ。現在の皇帝陛下のひいお祖父さんが発見した物です」

「今の皇帝陛下のひいお祖父さん···七代目皇帝ですね」

「そうです。遠征が好きな方だったらしくて、よく探検隊を編成しては自分自身も加わりました。そしてある日は遠い北の洞窟でとんでもない物を見つけました。本人は最初ただ珍しい形をしている石刻だと思ったでしょう。しかし、それを調べていた時に石刻が発光し始めたそうです。そして次の瞬間、探検隊の眼前で皇帝が消えたと。探検隊が大騒ぎで血眼になって皇帝陛下を捜していたが、十分足らずで皇帝は消えた時と同じように突然現れました。但し、遺跡の外から一人でまた入りました。皇帝の話によると一時間以上が確実に経ちましたが、やっぱりあっちではこっちより時間の流れが早いみたいです。僅か二年間で二人がこんなに大きくなりましたから」と女帝は才機と海を見た。

「まさか、異世界に行かれたのですか?!」とクレイグが聞いた。

「皇帝が仰るにはそうです。突如として見た事のない物や風景が目の前で広がっていた。異世界でなくても文明がわたくし達のより優れていたのは明らかだったそうです。今帝国が使っている自動車は別世界に行った七代目皇帝がそこで見た物を基にして作られたそうです」

エレベーターは減速して停止した。そしてエレベーターのドアが開くとエレベーターと同じ幅の狭くて、長さ二メートルの通路があった。その通路の末端には扉があった。女帝はもう一本の鍵で扉の鍵を開けて中に入った。才機と海はどんな財宝を目に出来るのかちょっと好奇心をそそられたけれど、銀行の中みたいに区分された引き出しだらけで思いの外地味だった。女帝は三人を奥のドアまで案内した。

「ここです」と女帝はドアを開けて皆を先に入れた。

部屋の中心に石で出来た不思議な彫像があった。それはロープ仕切りに囲まれていて、高さ約二百センチで、例えるならトナカイの二本の枝角が逆さまなハ文字のように地面から突き出ているみたいな物だった。それぞれの最先端は大きな翼のような形になっていた。

「これが···先代皇帝をチキュウに転送した遺跡···」とクレイグはロープ仕切りに寄り掛かった。

「気をつけた方がいいですよ、博士。異世界に転送されたのは先代皇帝だけではありません。その後も実験が行われて調査の為に兵士をも何人か送り込みまれました。その中で帰ってこなかった者もいました」

「それってこれを使ったら直ぐに家に帰れるって事?」と海が聞いた。

「その可能性はあるかもしれませんが、極めて低いと思います。さっき帰ってこなかったと言いましたが、それは兵士達の意識の事を言っていました。体は必ず戻ってきました。例えそれがもぬけの殻だったとしても。その危険に気付いてから実験は動物で行われたが、結果は大抵同じでした。しばらくすると植物状態で動物が戻ってきました。一回だけ転送された羊が戻って来なかったが、その原因を解き明かせませんでした。結局実験が中止になってこの遺跡だけをここへ移築されました」

短い沈黙が部屋を訪れた。

「二年前に異能者狩り事件があったの知っていますか?」と女帝が聞いた。

「ええ」と海が答えた。

「ちょうどあの頃でした、二人が異能者の特徴を表し始めたのは。次子の方、ヘンドリックのは異形者の、あ、失礼しました。才機のは異形者の特徴で一目で分かりました。体がガラスみたいに硬くなることが多かったです。海の周りに吹くはずがない不自然な風邪がたまに吹きました。皇帝は自分の子供が異能者だという事が明るみに出たら王家の汚名になると···二人の死を命じた」と女帝は目線を低くして、膝の前に両手をしっかり握りしめた。

「皇帝に懇願しましたが里子に出すのにも反対され、もう死なせるしかないと思った時にこの遺跡のこと思い出した。二人に生きてもらう方法はそれ以外思い付かず、部が悪いと知っていながらそれに賭けました。わたくしがあの夜にやった事で、今でも責めさいなまれています。無邪気に寝ている二人をそこの台に載せてしまい、時間が少し経つと目の前で消えてしまった。あの瞬間、本当に胸が裂けるよう苦痛で死にそうでした。一日千秋の思いで一度君達を手放したこの手で戻ってくる二人をもう一度抱き上げるの待ち侘びましたが、幾ら待っても戻ってきませんでした。意識のない二人を迎える覚悟でやったことでしたが、神様の導きがあったか別世界へ辿り着けたらしい。とはいえ、あっちに着いてどんな運命が待っているか知る由もなく、気はあまり晴れませんでしたが。皇帝の望み通り、二人は病死したことになりました。虫のいい話だとは重々承知していますが許してくれ」とまた女帝の目から涙が零れた。

才機と海はどう反応すればいいか今一分からなかった。

「そうか···それでまだここに···?」とクレイグの独り言が声に出た。

「博士?」と女帝が言った。

「陛下、兵士達の体だけが戻ってきたのはある時期を境に起きた出来事ですか?それとも無作為に起きた事ですか?」

「そこまでは分かりかねますが、その時の記録を読めばもしかして分かるかもしれません」

「その記録を見せて頂けないでしょうか?」

女帝は才機と海の方に向けた。

「二人がクレイグ博士を訪ねた理由は察しがつきます。こっちとしては二人がずっとここに残りたいと思ってくれたら嬉しい限りです。望みさえすれば君達がこの宮殿に住むように手配するのも造作もない事です。しかし···やっぱりあそこへ帰りたいですか?」

才機は頷いた。

「分かりました。二人が無事で幸せに暮らしっている事を知っているだけで十分です。あの日からずっと気がかりでした。博士、この遺跡に関する記録を閲覧する許可を与えましょう。どうか、この二人がうちに帰れる方法お見つけて下さい」

「出来る限りの事をやってみます。これだけ記帳なデータやサンプルが揃えばきっと皆さんも期待出来ますよ」とクレイグは声と顔で出ている興奮を隠しきれなかった。元々隠そうとしていないかもしれませんが。

「だた、少し時間が掛かりそうですね。色々と実験をもしたいし、また一ヶ月後に来てもらえるかな」とクレイグは才機と海に聞いた。

「はい、もちろん」と才機が言った。

「その時はわたくしとの面会を求めるといいです。宮殿を自由に出入り出来るようにします」と女帝が言った

「ありがとうございます」と海がお辞儀をした。

「さて、私達が出来る事はここまででしょうか。後は博士に任せて客室に戻りましょう」と女帝が言った。

女帝は先の部屋に戻って沢山の引き出しの中から特定のものを探し始めた。目当ての引き出しを見つけたら、鍵を開けてファイルを出した。

「ここにある文書は全て持ち出し禁止となっていますので、ここで読んでもらわないといけません」

「承知しました」とクレイグはファイルを受け取った。

「ここを出るとドアは自動的に錠が掛かるので、また入りたい場合はわたくしの所に来てください」

「はい、では、よろしければ直ぐにでも始めたいのですが」

「ええ、よろしく頼みます。では、戻りましょうか」

クレイグを残して三人ともエレベーターで下りて客室へ戻った。

「一遍にとんでもない事を沢山知って混乱しているであろう」と女帝がソファーに座った。

「それは···まぁ、確かに急に自分が違う世界で生まれたって言われるとぴんと来ない」と才機が言った。

「あの日、子供達と似たような能力の二人が目の前に現れたらただの偶然だと思いました。異能者のことはあまり詳しくないですし、色んな能力の希少性についてよく分かりません。でもそのお陰でずっと君達のことを考えていました。そして君が近くまで来て顔がよく見えたら思ったのです。息子がこの人くらいの年だったらこんな顔をしていたのでしょうって。遠目でしたけど海にも娘の面影がありました。まさか本当に君達だったとは夢にも思いませんでした」

「っていうか、もしかして才機も養子なの?私はそうなんだけど···」

「うん、実はそうです。小学校の時に打ち明けてくれた。海もか」

「偶然···にしては出来過ぎかな」

才機は無言で頭を掻いた。でも何かに気付いたように急に顔を上げて女帝の方を見た。

「待って。この話が本当なら俺と海は実は姉弟ってこと?!」

「ええ。あぁ、まぁ、厳密に言えば血が繋がっていない姉弟ですけれど。実はタン、失礼、海は私が養女として引き取りました」

才機と海は同時に安堵の溜め息を吐いた。

「海の母がわたくしの親友でして、妊婦四ヶ月だった頃に旦那が事故で亡くなりました。ライザはそのことで悲しみに暮れて自分のことおろそかにし始めた。妊婦八ヶ月だった時までに割と弱くなって、海を生んだ時に旦那の後を追いました。その時はわたくしは中々子供を授からなくて、海を引き取ると言い出しまた。凄く可愛くて自分の子供のように愛しました。そして海も幸運を運んでくれたのか、一年後に才機を生みました」

「そうなんですか。でも···やはりここが私達の故郷だとか···女帝が私達の母だと実感があまりしません」と海が言った。

「当然ですよ。今更母上と呼びなさいなんて言いません。君達には君を大事に育ててくれた母上がいるんですもの。そうですわ!是非君達はあっちでどんな風に育ってきたか聞きたいです。今度は本当の事を知りたいの」

「それならお安いご用だ。えーと。初子だった海から聞きますか?」と才機が聞いた。

「いいでしょう」と女帝は視線を海に向けた。

「私から?えーと、どこから話そうか。···東京という凄く込んでいる都市で育ちました」

話している内に時計の針がどんどん進んで、終わった時にはもう三時になろうとしていた。

「もうこんな時間ですか。日が出ている内に帰りたいんですよね。ずっと付き合ってくれてありがとう」

「いいえ、私達の方が色々とお世話になりました」

「博士の研究とは関係なくても、また来る気になったら遠慮なくいらっしてちょうだい。わたくしに出来る事ならいつでも力になります」

「ご好意をいただきありがとうございます。では、俺達はこれで失礼します」と才機は立ち上がった。

海は才機に付いていてドアへ向かった。そしてドアをくぐる直前に海は急にくるりと踵を返した。

「あ、そうだ。忘れるところでした」


二人が宮殿を出たら待ち合わせの酒場を目指した。

「何か···今日は色々あったな。信じてるの、女帝の話?」と才機が言った。

「辻褄は···合うよね。あんな嘘を言っても何の得はないはず。凄く誠実そうだったし。ここに来る前は他にも世界があるって言われたら絶対信じなかったけど、こうして私達が現に違う世界へ来てしまった。そしてここに異能者とか異形者がいて、もう『ありえない』の範囲が分からなくなってきた」

「だよなぁ」

「だた···」

「何?」

「気のせいと思って気にならなかったけど、この前ここに来て皇帝に会った時、あの拝謁の間を見て凄いデジャビュを感じた。あれはもしこっちでの記憶だとしたら···。才機は何も感じなかった?」

「んー、いや、特には。女帝の話によると俺は次子で、記憶に残るのに幼過ぎたかも。初めて女帝を見た時はどことなく自分に似ているとは思ったけど」

「私も···」

「···ま、あまり深く考えるのはやめよう。本当でも嘘でも俺達のやる事は変わらない」

「うん」

「正直、俺達の世界に帰るのと比べて問題にもならない。女帝の話が本当で俺達がその子供だとしても重要なのはそれで帰れるヒントになるかもしれない。それ以外は割とどうでもいい。養子だってこと知ってたし、本当の親に会いたいと思っていなかった。俺を今まで育ててくれた親には感謝しているし、好きだ。っていうか別世界に来れた時点であんな遠に知っていたことはショックでもなんでもない」

「うん、私も今のパパとママが好き。私のことをどれほど大事にしているかよく分かっている。弟は間違いなくママが生んだけど、正直パパとママは私の方が可愛いだと思う」と海が少し申し訳なさそうに言った。

「弟より何歳年上だっけ?」

「四年」

「仲良い?」

「うん。ちょっとうざい時もあるけど、弟にも会いたいな」


酒場に着いて、ドアを開けると鈴が鳴った。この時間になるとみんな仕事から上がって一日の疲れを癒しに来るでしょうか、中は人で一杯。才機と海はリースとメリナが既に来ていないかざっと回りを見た。すると名前が呼ばれるのを聞いた。

「お〜い、才機、海、こっち!」

リースの声だった。彼とメリナは隅のテブルから手を振っていて、才機と海はそっちに行ってテブルに座った。

「遅いぞ、二人とも。三時間も待ってた」とリースが言った。

「悪い、以外と時間が掛かった」と才機が言った。

「このビールはお前らおごりだな」とリースはコップを唇に持ち上げた。

「で、何の用だった?」とメリナが聞いた。

「ああ、少し話しがしたかっただけだった」

「え?何の?」

「大した事ないよ。最近の様子とか、昔話とか」

「それって、世間話する為にわざわざ来てもらった?」

「んー、そうなるかな」

「何それ?!あんたら女帝陛下と友達か何か?」

「バカ!声でかいぞ」とリースはメリナの頭の後ろを手の平で叩いた。

「いってぇなぁ。叩く事ないだろう?」

「いーや、あるね」

「まぁまぁ、ほら、お土産」と海が持っていた袋から箱形の入れ物を出してテーブルに置いた。

「何これ?」とメリナが聞いた。

「何って、頼んだだろう?」

メリナの目はきらきら光り始めた。

「これはもしや···?!」

メリナは息を飲み、箱の蓋を開けて中を覗き込んだ。そこにあったのは見たことのない珍味の数々。

「海大好き!」

「はい、はい。それぐらいあれば十分満足できるでしょう?」

「うんうん!こんなに一杯、女帝陛下様ふとっぱら〜!いて!」

「だから、うるさいよ、お前!」とリースが言った。

威力が増した打撃でメリナは頭を抱えた。でもそんな痛みなんて直ぐに忘れて眼前の宝石みたいに輝いている佳肴を目で味わい始めた。

「でも本当に珍しいものばっかだな。こりゃ、楽しみだ」

メリナはおもむろに首を回してリースを見た。その目は細められていて警戒の色が映っていた。いや、これはもう歴然とした敵意と呼ぶしかないだろう。

「お兄ちゃん···言っておくがな···万が一···万が一この状況でも一人で殆ど全部食べるような真似をしたら絶交だからな。いや、まじで今後は一人っ子だと思え」

「メ、メリナ?目が怖いぞ?ついでにお兄ちゃんも怖いぞ?」とリースがメリナの圧力に怯んだ。

「まぁ、こんなこともあろうと思って」と海がさっきの袋をリースの前に置いた。

そこにもう一個の箱があった。

「これで問題ないでしょう?」と海が言った。

メリカは席から上がって海の後ろへ歩いた。そこで後ろから海を無言で抱き締めた。あまりにも優しくて愛おしく抱き締められて海の頰が少し赤に染まった。

「え、えっとー、二人の方は何の用だった?」と海が聞いた。

「俺達?ああ、色んな知り合いと会ってたさ。ちょっと情報共有してた」

「仕事の事とか?」と才機が聞いた。

「うん、そうだな」とリースは残りのビールを飲み干した。

「じゃ、妹がこれ以上何かを口走る前にそろそろ帰ろうか。勘定は任せたぞ」

リースはメリナの箱を袋に戻して立ち上がったり、それから袋に手を伸ばしたが、ハンドルに手を閉じる前に袋はぐいと横へと引っ張られた。

「お兄ちゃんは持っちゃ駄目。途中で何個か消えそうだ」とメリナは片手でまだ頭を摩っていた。

「メリナの分からは取らないって」

「間違って取るかも。念の為だ」

四人で馬房に行って来る時と同じ組み合わせで馬に乗った。乗馬しながら荷物を持つのは少々難儀なのでひとまずお宝は海に預けた。ドッリクまでの道程を四分の三行ったところでメリナにあるアイディアが閃いた。

「ね、またピクニックをしよう」

「何の話?」とリースが聞いた。

「だって今美味しい物あるし、天気もいいし、たまにはいいじゃん?」

「ま、別にいいけど。どう二人は?休憩にするか?」

「構わないよ」と海が言った。

「特に異存なし」と才機も同意した。

馬から降りて、皆は回りの林の木がまばらに生えている場所を探した。随分開けた場所を見つけ、そこで座って女帝からもらった二つの入れ物を開けた。

「あ、中身が違うんだ。うまそー。でもどうしよう。それぞれの物は三つしかない。全部食べみたいのに〜!」とメリナは悩み出した。

「私と才機はもう食べたから三つ目は二人で半分こにする」と海が言った。

「いいの?やった!じゃあ、頂きま〜す」

全員木陰で太陽から身を隠し、満足そうに食べていた。

「皿とかないから手で食べられる物ばかりで助かった」とメリナが言った。

「うん。飲み物も詰めていれば最高だった」とリースは指を舐めた。

「贅沢言わないの。海がいなければこんなの一生食べられなかった」

「別に文句じゃないよ。ただ、もし飲み物もついていれば本当に最高だったって言っただけだ」とリースは次の料理を箱から取り出した。

「ならいいんだけど。ちゃんと海に感謝しなさい」

「いいえ、感謝されるべきなのは女帝陛下だ。頼んだら二つ返事で使用人に用意させてくれた」と海が言った。

「女帝陛下万歳!」とメリナは食べている物を高く持ち上げてから、ぱくっと口の中に入れた。

幸せそうに噛んでいるメリナは急に顔を上げ、表現が真面目になった。

「どうした?」と才機が聞いた。

「今···何か聞こえた」

「何かって?何も聞こえなかったよ」

「いや、誰かがいる。この耳はだてじゃない」

「メリナがそう言うんなら間違いない。問題は誰でどこにいるのかだ。こんな所でうろちょろするのは呑気な俺達と盗賊ぐらい」とリースはライフルを抜いて回りを見た。

「動物か何かじゃ?」と才機が言った。

「だといいが···」

才機と海も辺りを見回したが誰もいない。そこで海は目を閉じて集中した。

「本当だ。いる。そこに」と海は指差した。

でもやはりそこには木々しか見えない。

「これでは不意打ちはまるで論外ですな」

木々の向こうから発せられたその声を聞いて全員立ち上がった。

「誰だ?!」とリースは問い掛けた。

「まぁまぁ、そうかっとならないでくれ。本当に不意打ちを仕掛けるつもりなんてなかったから」と沢山の木の後ろから人の輪郭が近付いてきた。

「ふん、そりゃばれたからそんな事は言えるけどね。···あ、知っている、この人」とリースが言った。

皆の前に出たのは全身鎧をまとった人間。

「リース達の知り合い?少なくとも敵じゃないかな?」と才機が聞いた。

「それは言い切れないかと。なんせリベリオンンだから」とメリナが言った。

「リベリオン?」と才機は海の前に立って構えた。

「才機と海の暗殺依頼をを持ってきた人だ。ジェイガルだったっけ?」とリースが言った。

「覚えてくれて光栄です。しかしこれはどういう事?二人は受けた依頼を必ず果たすって聞いたのだが、失敗するどころか依頼主を裏切るとは。これが知られたら何でも屋のリースの評判は地に落ちるだろうね」とジェイガルが言った。

「謂れのない言い掛かりはやめてもらいたいね。お前達との契約はちゃんと守った。捕まえて欲しかった人間を捕まえて拘束した状態で渡したんだ。もしその後、逃げられたらそれは自分の部下の責任だ。そして仕事を終えた俺達は誰と付き合おうが俺達の勝手だ。お前が言ってるのは下世話に言う名誉毀損だ」

「あくまで、とぼけるつもりか。まぁ、どうでもいい、過ぎ去った事は。あなたの屁理屈を聞きに来た訳ではない」

「じゃあ、何しに来た?不意打ちのつもりじゃないなら、さてはお前もピクニックか?」

「いいえ。そんな悠長な事をしている贅沢は許されないもんで。そこの二人とちょっと話があってさ」とジェイガルは才機と海の方を見た。

「それは何の話だろう?」と才機が聞いた。

「二人に取ってとても利益のある話だ。何しろ、生き延びるチャンスを与えに来たからだ」

「どういう意味?」

「前にもこの申し出をされたとは思うけど、レベリオンに入らない?本来、君みたいにこれほど私達の邪魔になった人を入れる訳にはいけないが、やっぱり君の能力は我々の理想への確実な貢献になれる。もちろん彼女の居場所も用意するよ」

「あの狼男がその話を持って来た時、断った理由は二つあった。一つはお前達の戦いは俺達には関係ないから。もう一つはお前達のやり方か気に食わないからだ。今の所その辺は何も変わっていない」

ジェイガルは溜め息をした。

「今、自分が死にたいと言っているのが分からないのか?私達はただ前のように堂々と生きていたいだけなんだ。リベリオンに入って協力したらこの国は私達異能者にとって今よりずっと住みやすい場所になるんだよ?なぜそれを拒む?それか殺されるかの二者択一でなくても前者を選ぶだろう、普通」

「まぁ、この国にはそれほど長居するつもりはないとでも言いましょう」と才機が言った。

「それに殺されるってお前に?一人で来たって事はそれなりの自信があるようだが、才機を殺せるほどの力も併せ持ってるのか?」とリースが聞いた。

「確かに力で彼には到底及ばない。だが頑丈さに関しては私は負けていない。もしかしたら、私の方が上かも」とジェイガルは言った。

ジェイガルは小手を外して足元にあった枝を拾った。厚さ五ミリぐらいの細い枝だった。それを見てから才機に投げ渡した。

「ほれ」

才機はその枝を受け取った。

「何、これ?」

「折ってみ」

何のつもりか才機に分からなかったが、取りあえずは付き合って折る事にした。

「才機の力を試してみたいならそんな小枝じゃなくて木丸ごと倒させたら?」とリースが言った。

リースはそう言ったが、才機はその小枝すら折るのに以外と苦労していた。ジェイガルは鼻で笑った。

「違う、違う。そうじゃなくて能力を使って折ってみろと言ってるんだ」

才機は体の変形を起こしてもう一度枝を折ろうとした。しかし、出来なかった。

「あれっ、折らない」と才機が言った。

「何?ちょっと貸して」とリースは才機から枝を取った。

リースは精一杯力を入れて折ろうとしたが、その細い枝にひび一つも入らなかった。

「何なんだこれは?」とリースが言った。

「皆さん、ブロコニウムは知っていますか?この世で最も高い耐久性のある且つ衝撃を吸収しやすい化合物だ。少々希少な化合物でもあるがね。御偉いさんやお金持ちの金庫とか避難小屋の建設に使われる事が多い」とジェイガルが言った。

「それがどうした?この枝がブロコニウムで出来てると言うのか?」とリースが聞いた。

「そうでなきゃ、さっきの講義はしなかっただろう。私は触れた物の原子を自在に操る事が出来る。大体二日以内に再度接触しないと次第に元に戻るんですが、その間は私の思うがまま。さて、問題です。私が今着てるこの鎧は何で出来ているんだろう?」とジェイガルは小手を付け直した。

「まさか、全部ブロコニウム?」とメリナが聞いた。

「半分正解。模範解答はブロコニウム以上に強化された私が生み出した独創的な化合物。それはどういう意味か分かる?この鎧を着ている限り私は無敵なんだよ」

「そう?それほど凄い物だったら近衛兵全員使っているんじゃない?」と才機が言った。

「ブロコニウムの鎧を生産するって事か?それは可能かどうかは分からないが、出来るとしたら決して容易な事ではないはずだ。ブロコニウムはあまりにも耐久性が高くて、その加工はかなり困難。壁の基礎みたいな物に形作るのはやっとかと。鎧みたいな入り組んだ物にするのは至難の技だ。仮に出来るとしても、出来たところで使い物にはならない。凄く重いんだよ、ブロコニウムは。纏っている人間が無事でも、まともに動けないんじゃ仕方ないだろう。だが知ってる?陽子の数を保って中性子だけ取り除けば元素を変えずに質量を減少させる事が出来る。この鎧を使えるのは私一人って訳だ」

「えーっとー···まぁ、お前が打たれ強いなのは分かった···かな」とリースが言った。

「分からないなら素直にそう言えば?」とメリナが言った。

「うるさい。お前も分かってねぇだろう」

「まぁ、これでも前は科学者だったからね。分からなくても気にするな」とジェイガルが言った。

「とにかく頑丈さだけじゃ才機を殺せないと思うよ」とリースが言った。

「どうだろう。その答えには私も興味津々」とジェイガルは二つの短剣を抜いた。

「短剣?短剣で才機を切ろうってのか?」とリースが笑った。

「もう一度言う。どうしても私達の仲間にはならないか?君の答えはその女の命運も決めるんだぞ。悪いが欲しいの君の力だ。彼女だけ賛同しても相談は成立しない」とジェイガルは一つの短剣を二人に向けた。

「私は才機と同意見。あんた達と一緒に事を構えるつもりはない」と海が言った。

「海なら俺が守る。指一本触れさせない」と才機がジェイガルに宣言した。

「残念です」とジェイガルが言った。

鎧を着ている人間ととても思えない速さでジェイガルは才機に突っ掛かった。才機は腕で降り掛かる短剣を受け流した。

カチン!!

ジェイガルは一旦引いて自分の短剣を見た。特に変わりはない。才機も無事のようだったし。

「ほら、そんなもんじゃ歯が立たないだろう?分かったら帰れ。俺達は別に追ったりしないから」とリースが言った。

才機は自分の腕を見た。痛かった。まじで痛かった。ただそれよりもびっくりした。さっきので鋭い痛みを確かに感じた。そして腕を見ている内にゆっくりだが、赤い線が現れた。血。この姿で才機は初めて血を流した。

「いいや、ちゃんと効いてるじゃないか。期待していたほどではないが」とジェイガルが言った。

確かに才機の傷は浅い。浅いが切られたのは事実。命に別状はないが、何度も負いたい傷ではない。血管を切るのに十分の深さだろう。もしそうなったら絶体絶命。

「もちろんこの短剣もブロコニウム。普通ならブロコニウムをこれほど鋭く研ぐ事は考えられないが、まぁ、二度説明する必要はないよね。今までこの刃で切れない物はなかった。君のその肌も例外ではななそうだ」

「おい、才機、大丈夫か?」とリースが聞いた。

「ああ。海、下がってて」

海は木の後ろで隠れた。

「さて、続きと行こうか」とジェイガルはまた才機を狙った。

今度は才機が次々と来る斬撃をかわす事に専念した。たまには隙を見つけて反撃はするけど、相手も華麗にかわし攻撃を続ける。争いのはずみで女帝からもらった箱が踏み込まれて引っ繰り返え、中身は草にぶちまけられた。攻撃をかわすのはジェイガルの方が上だ。才機はもう六箇所から血が滴り落ちている。一つの傷は才機の喉に非常に近い。完全に押されている。

バン!

ジェイガルのヘルメットに弾丸が当たって跳飛した。

「おいおい、銃ごとき本気で通じると思った?」とジェイガルはリースを嘲った。

「いや。多分効かないんだろうなと思った。でも気をそらさせる事ぐらいは出来るんじゃないかなと踏んだ」

「?」

ジェイガルはまた才機の方に注意を向けた。すると接近する拳が見えた。しかし見る事以外は何も出来なかった。反応出来ず才機のパンチをもろに顔面に食らった。ジェイガルの体は飛んでいき、凄い勢いで木にぶつかって短剣を落とした。地面に座っている状態でジェイガルは動かなかった。

「あのヘルメットを被っていると回りがよく見えないようだな。って聞こえないか」とリースが言った。

「ちゃんと聞こえてるよ」とジェイガルが言った。

「あいつ、平気なのか?!」とリースが言った。

「言っただろう?ブロコニウムは衝撃を吸収する性質がある。しっかし、やっぱ大した怪力だ。生身だったら即死だろうな。怖い、怖い」

「お前···かなり戦い慣れてるな」と才機は荒い息で言った。

「先生が良かったんだ」とジェイガルが立って一つの短剣を拾った。

二つ目を拾いに行った瞬間に、急に後ろから強い風邪が出てきた。その風邪はジェイガルの短剣を林の向こうのどこかへ転がり込んだ。

「小賢しいまねを。軽くしたのが裏目に出たね。まぁ、いい。後は君も始末をすれば帰れる」とジェイガルが海を睨み付けた。

「俺の事を忘れてないか?この程度の傷じゃ死なないよ」と才機が言った。

ジェイガルはまた鼻で笑った。それから小手を外し、残りの探検を生身の手で握ってその腕を上げた。

「いい事を教えよう。私が原子を操ると僅かだけど性質や質量などが変化するのにちょっとしたタイムラグがある。タイムラグと言っても一秒程度だから別に弱点にはならないが、物を投げた直前にその質量を増やせば、移動中に同じ瞬間速度を保ったままその質量が増える。その結果···」

ジェイガルは短剣を思い切り投げた。しかしその狙いは才機ではなく、海だった。空中を突進する短剣は海が隠れている木を貫通して紙一重で海の眉間に届かなかった。

「きゃあ!」

その刃は海の前髪を三本ぐらい切り落とし、海はひっくり返った。

「てめえー!」と才機は小手を付け直すジェイガルを掴もうとしたが、またかわされた。

ジェイガルはそのまま才機の足元をすくって、真っ逆様に地面に突き落とした。そして才機が地面に落ちる前にジェイガルは既にまっしぐらに海に直進していた。才機は自分をひっくり返した時には、ジェイガルはもう海までの距離を半分以上縮んだ。

《速い!》

リースは海の前に駆け付けて何発ジェイガルに当てたが、ジェイガルは少しも減速しなかった。リースは一旦打つのを止めて狙いを定めた。次の銃声と共にジェイガルは完全に停止した。銃弾はちょうどジェイガルのバイザーの隙間に挟まった。無論ジェイガルは無傷だが流石にびっくりして足を止めた。もしバイザーの覗き穴がもう少し広かったらどうなってたか思いたくないものだ。

「ちっ」とジェイガルは弾を取り除いた。

一方、才機は立とうとしてジェイガルを追おうと思ったが、股の切り傷の痛みでまた膝をついた。

「くそっ!」と才機は痛みをこらえて立ち上がった。

弾を投げ捨てたジェイガルはまた海に向かってまっしぐらに駆けた。リースがライフルに弾丸をこめ直そうとしている時に、ジェイガルは流れるような動きで短剣を木から抜き取り、もう一方の腕でリースをぶっ飛ばし、続いて海にぶつけて組み敷いた。

「恨むならあの頑固な兄さんを恨むんだな」と海の上に覆いかぶさるジェイガルは短剣を振り上げた。

すると、後ろからメリナがジェイガルに飛び掛かって短剣を奪おうとした。才機はまだ少し離れているし、思うように走れない。メリナは直ぐに軽々と振り払われて、大した時間稼ぎにもならなかった。ジェイガルが短剣を海の心臓へ突き掛かかると海は目を閉じて運命を甘受せざるを得なかった。

ガン!!

バスケットボールよりちょっと大きい岩が物凄い速度でジェイガルの背中に命中した。

「うわぁー!」とジェイガルが前方に倒れて、海を捕らえていた足は今海の頭の左右両側に伸びていた。

ジェイガルは何が起こったのかよく分からなかったが、まずは体勢を直した。しかし四つん這いになったら右腕と右足を掴まれた。最初は「誰だ?」と思ったが、手軽に持ち上げられるとその答えが分かった。才機はジェイガルを木のない辺りの真ん中に連れて出してジェイガルの腕と足を持ったままくるくる回り始めた。回転速度はますます速くなって目も回り始めた。そろそろめまいで倒れそうになったら才機は力任せでジェイガルを空へと投げ飛ばした。ジェイガルの姿がどんどん小さくなって、やがて木々の向こうの何処かへ消えて見えなくなった。

リースは口笛を吹いた。

「あれじゃ、無事でも直ぐには戻ってこれないな。待つ義理もないし、ドリックに帰ろうか?」

「ああ」と才機は崩れ落ちて地面に座った。

「ちょっと、大丈夫?傷はそれほど酷くないが、顔色悪いよ」とメリナが言った。

「少しめまいがするだけ。平気」と才機は変形を解除した。

「今、直すから待ってて」と海が駆け付けてきた。

「いや···あの力を使うな···これぐらいの傷···なんとも···」

言い終える前に才機は気絶した。

「才機!」と海は才機の隣で膝をついた。

海は彼女しか見えない青いオーラを見て才機のあっちこっちにあった小さな黒い靄を取り払い始めた。おなじみの痛みを耐えながら才機の切り傷を一つずつ直した。急所は外されたし、深くはない。そんなに時間はかからなかった。

「才機、聞こえる?もう大丈夫よ」と海は言った。

でも才機は目を開けなかった。海は才機を揺り動かしてみた。

「才機?才機?なんで起きないんだ?傷は全部直したのに。あの黒い靄はもう何処にもない。···でも気のせいか、何か、才機のオーラはいつもより色あせているような···」

「オーラとやら見なくたって顔見りゃ分かるよ!真っ青だ!」とメリナが言った。

海は才機のオーラばかり見ていて才機の顔色に気付かなかった。本当だった。メリナは才機の額に手を当てた。

「体温は普通みたい」と次は耳を才機の胸に当てた。

少し聞いてからメリナは急に頭を上げた。

「大変だ!心拍がめちゃちゃに遅い!それにこんな顔だし。お兄ちゃん、これはもしかして···」

「才機を馬に載せるよ。あの短剣を持ってきて」とリースはメリナに指示した。

リースは才機を担いで馬へ連れていた。

「え?何?!何なの?!」と海はリースとメリナを交互に見た。

リースを追い掛けようとしたが足に十分な力が入らなくて転んだ。小さな傷でもやはりあの癒しの能力を使うと負担が掛かるみたいだ。

才機を馬の上に載せてからリースも乗った。メリナは走ってきてジェイガルが落とした短剣をリースに渡した。

「先に行ってるよ」とリースは手綱を鞭打って急いで出発した。

「だから何なんだ?!」と後ろからやってきた海はメリナ揺すって問い質した。

「猛毒だよ、おそらく」


ジェイガルは高度が下がってくると木の枝にぶつけてドスンと地面に落ちた。それから二十メートルぐらい縫いぐるみ人形みたいに転がり続けた。遂に止まったらそのまま動かなかった。

「うぇ〜。目が回る。気持ち悪い」

少し休んだら回りを見た。

「何処だここは?どっちから飛んできたかも分かんねぇ」

ジェイガルは起き直った。

「ま、これでまず一人。女の方は次こそやる」

《ジェイガルさん》

《ん?シェリか。今男の方を片付いたよ》

《それなんですが、デイミエンから伝言を言付かりました。ザンティスに光線走りを使って全てを観察させたらしいです》

《そうか。女なら今度必ずやるから心配無用って伝えておいて。伝言って何なんだ?》

《そう、デイミエンから新たな指示を預かりました》


    • • •


病室から医者が出てきた。

「どうなんですか?」とミリナが聞いた。

「凶器から毒の種類を判明して解毒剤は施した。処置は早かったからよかったものの、リゼナフィムは厄介だからな。毒が一定以上広がるともう助からない。後は治療が間に合った事を祈るしかないですね」

「そうですか。ありがとうございました」

「入っていいんですか?」と海が聞いた。

「ええ、どうぞ」

海、メリナ、リースの三人は病室に入った。海は椅子をベッドの近くに持って行って座った。

「間に合ったよね?リースは直ぐに才機をここに連れてきたからそんなに時間は経たなかったよね?」と海は才機の手を取った。

「十五分ぐらいかな。リゼナフィムは一時間で殺す毒物というからきっと大丈夫だ」とリースが言った。

でも短剣を分析するのにも時間が掛かった。もし間に合ったらぎりぎりのはずだ。

「もう、嫌なんだ。後何回才機の病床で生死の境をさもよっている所を見ないといけないの?」と海は額を才機の手に当てた。

「ねぇ、海。しばらく街を出ない方がいいと思う。あのジェイガルって奴はまだ生きているだろう。諦めの悪い奴って感じだったし、次はあんたが狙われるよ」とメリナが言った。

「そうだな。あの格好でのこのこ街に入ったら目立って直ぐに分かる。距離を置くのがそんなに難しくないはず」とリースが言った。

今の海はちゃんと聞いているかどうかちょっと不明だ。

「海?」とメリナが声をかけた。

「ったく。いつまで海に心配をかけるつもり、こいつは?起きたらぶん殴りそうだからまた後で来よう」とリースはメリナの肩を軽く叩いた。

「ん?ああ、じゃ、また来るね」とメリナはリースと一緒に病室を出た。

海は才機の腹の上に載っている手を握ったまま彼のウエストを枕にした。そうやってずっと才機を見ている内に眠りについた。


海が起きてゆっくり目を開けると、もう才機の手を握っていないことに気付いた。握っているはずの手は海の頭の上に載っていた。今は才機の顎しか見えなくて、起きているかどうかは分からないが、手が海の頭の上なら意識は眠っている間に戻ったはずだ。

「才···機?」

「俺ってやっぱ、ここの健康保険に入った方がいいよな?」

海は自分の頭に載っている才機の手に自分の手を重ねて目を閉じた。二人はそのまま静けな病室の中で過ごした。その内、医者が入ってきた。

「おっ、起きているか?どうかね、気分は?」

「うん、ちょっと疲れたけど、それ以外は特に」

医者は才機の瞳孔と脈を見た。

「峠を越えたようですね。これで心配はないと思いますが、もうしばらく様子を見たいから退院は明日まで待ってもらうよ。今ナースを呼んで血液検査を行わせる」と医者が病室を出た。

間もなくナースが来た。

「失礼します。今検査を行いますので外で待って頂けますか?」とナースが海に言った。

「俺はもう大丈夫だから、帰って休んでいいよ。明日、退院したら俺も帰るから」

「そう?じゃ、待ってるね」と海は才機の手をもっと強く握った。

「リースとメリナにまた迷惑をかけたな。代わりにお礼を言ってくれる?」

「うん。後はよろしくお願いします」と海はナースに言って病室を出た。

海が宿に戻ったらちょうどリースとメリナが出て来た。

「あ、海。今病院に行くところだったけど···どう才機の具合は?」とメリナが聞いた。

「意識が戻った。ありがとうだって」

「よかったー。一緒に帰らなかった?」とメリナは才機の姿を探した。

「明日まで様子を見たいんだって」

「どうした、その浮かぬ顔は?無事なんだろう?明日になれば帰ってくる」とリースが言った。

「うん、そうなんだけど、またいつかこういう事になるんだろうと思うと不安でならない。次はこうも運がいいとは限らない」

「まぁ、街にいる限りそんなに危険はないと思う。とにかく中に入ろう。結構暗くなってきた。温かい飲み物を注文してやる」

中に入って海とメリナがテーブルで座った。後からリースがコップを持って

きた。湯気が立っているそのコップを海の手前に置いてリースも座った。

「あ、この匂い、ココア?」と海がコップから漂ってくる香りを嗅いだ。

「うん。それ飲んで体を温めて」

「ありがとう。久しぶりだな、ココアを飲むのは」と海が一口飲んで黄金原オアシスの二人が今頃どうしているかなと気になった。

「ね、海、聞きたいんだけど」とメリナが言った。

「ん?何?」

「さっき、才機がジェイガルに言ったよね、この国に長居するつもりはないって。どこか行っちゃうの?」

「うん、まぁ、一応そういう予定なんだけど、それはいつになるのか私達も分からない。でも、直ぐにって訳じゃないよ。その日が来るとしたらまだ先の事だ」

「そっかぁ。でもまだ先の話でよかった。二人がいないと超寂しくなる」

「でも、もし本当に異能者への差別から逃げる為に他国に行くんだったら無駄足だと思うよ。恐らく、どこに行っても異能者に対する軽蔑の気持ちはあるだろう」とリースが言った。

「ううん。そういう事じゃない。私達はただ、ただ行きたい所がある。そこはどこなのか、まだ分からないだけ」

メリナは首をかしげた。

「ふーん。ま、分かるまでここでゆっくりするといい。ここにいる限り俺達はお前らをサポートするよ」とリーサが言った。

「うん。ありがとう」と海はまた一口飲んだ。


翌朝、海は一人で起きて左側の空虚を見た。起きて隣に才機がいないのは黄金原オアシスで泊まった夜以来初めてだった。今日また会えると分かっても意外と寂しいものだ。明日は海が働いている店のオーナーが帰ってくる予定だ。今日は仕事しないで一日才機と過ごしたい。もしリースが何かの仕事の話を持ってきたら今日は断念させてもらわないと。

「そうだ。才機が帰ったらあのシーフードスープを食べさせよう。二回も店で練習したし、私の料理でも病人食よりは美味しいはず。よし、そうしよう」

準備が出来たら海は直ぐに買い物に出かけた。まだ割と早かったので、海以外の客は僅かな数人ぐらい。でも今朝起きた時より上機嫌で色んな材料を選んで籠に入れた。食べる人の喜ぶ顔を想像するとこういう雑事も案外楽しい。最後に調理をする為の小さな鍋も買った。

「買い忘れしてないよね。才機が帰る前に早く支度しないと」

宿に戻って誰でも自由に使える焜炉を借りた。

「誰も使ってなくてよかった。さて、始めるか。しっかり作らなきゃ」

この料理を一人で作るのは初めてになる。今度は全てが順調に進むように見てくれる人がいなくて海はちょっと不安だった。教えてもらった事を全部思い出して海は一時間近くかけて丁寧に作った。遂に完成させると最後に味見をした。

「うん、我ながらいい出来だ」と海が唇を舐めた。

スープを椀に入れ、蓋をかけた。それを部屋に持って行って鏡台に置いた。

「よし、後は待つだけだ。才機はきっとびっくりする」と海は椅子に座って引き出しからスプーンを出した。

腕枕をして海はスプーンに映った自分の顔を見た。


才機は病院から出て背伸びした。

「せめて飯を食わせて返して欲しかったなぁ」

ぐ〜〜〜〜〜〜〜〜。

「やべっ、早く帰って何かを食べよう」


「まだか。そろそろ来ないとスープを温め直さなきゃ」

海は窓を開けて身を乗り出した。人はあっちこっち行ったり来たりして宿の側面を通り過ぎて行っていた。海の視線は行商人から果物を買っている婦人に止まった。多量に買い込んでいて持って帰るのが大変そうだ。

「そういや、少し作り過ぎたな。そうだ。リースとメリナに分けて皆で食べよう」

コンコンとノックする音がした。

「あ、才機は今、鍵を持ってないんだったね」と海が窓を閉めて、ドアを開けに行った。

「随分遅かったね。体の調子はもう」と海はドアを開けた。

そしてドアを開けた途端に布が海の鼻と口元に押し付けられ、誰かが部屋に押し込んできた。悲鳴を上げる間もなかった。


才機が宿に戻ったらやけに人が集まっている事に気付いた。気になって才機もその人込みに混ざった。

「どうなっている、これ。何かあった?」と才機は隣の男に聞いた。

「俺は見なかったけど、どうやら誰かが女を抱えて宿の二回の窓を突き破って飛び降りたらしい。ほら、あそこにガラスが落ちているだろう?」

才機はガラスを見てからその上の破れた窓を見た。血の凍る思いをした。才機と海の部屋だった。

「飛び降りた人はどんな奴だった?!その二人、どこに行った?!」

「いや、見てないからそこまでは」

「大きいマントとフードを被っていたからどんな人か分からないけど、そこの北門を出て真っ直ぐ走っていたよ」と才機の後ろの女の人が言った。

才機はそっちの方へ押っ取り刀で駆けつけた。門を出て誰も見当らなかったが、走るのを一瞬も止めず真っ直ぐ進んだ。やがて林に入り込み、次々と木をかわしながら必死に他の人間を探した。ずっと何も見つけられず、結局林を二つに分ける深い峡谷に辿り着いた。その下を見ると底がよく見えない。顔を上げると才機は峡谷の向こう側に探していたものを発見した。マントとフードを被っている人間。

「ジェイガル!!!」

振り向いたその人はジェイガルじゃなかった。見知らぬ人だった。その人は一人で、無言で才機を見ていた。

「いるんだろう、ジェイガル?!出て来い!」

「呼んだか?」と聞き覚えのあるジェイガルの声が返事してきた。

マントを着ている男の後ろの林の奥からジェイガルが出て来た。海と一緒に。ジェイガルは腕を海の首に絡みついて、手前で歩かせていた。才機は左右を見た。前にリースとの仕事であっち側に渡る為の橋を使ったけど、その橋は左の方でずっと下がった所にあったはずだ。今から行っても皆を見失ってしまう。

「君ってタイミング最悪だね」とジェイガルが峡谷の縁まで出てきた。

「ちょっと、なんで海を人質にしている?!」と才機が三人の真向かいの縁に行った。

才機は二十メートルの割れ目で海と隔てられていた。

「人質?それは勘違だ。君がタイミングが最悪と言ったのはこれからこの子の処刑を実行するからだ」

才機はそれを一番恐れていた。だからあえて海が人質だという前提で話していた。違うと確信した今、才機は歯ぎしりして焦り出した。

「分かった。分かったからお前達の仲間に入ると約束する。だから···海を解放して」

「ふーん。素直だね。最初からこうすればよかったのか。だが···この状況だから仲間に入ると言っているだけで、この子を返したらいつ裏切られるか分かったもんじゃない。いずれにせよ、残念だが上から新しい命令が出されんでね。その話はもうなかった事にするってさ」

「どういう···意味?」と才機は縁により近付いた。

「こういう意味だよ」とジェイガルはもしかしたら本気で残念そうな口調で言って、短剣で後ろから海の心臓を貫いた。

海は口を大きく開いたが悲鳴にならない短いうめき声しか出なかった。

「海—————!!!」と才機が叫んだ。

海の前から突き出ている刀身は血塗れで、その血は短剣の刃を逆に流れ、どんどんシャツに広げて行く血痕に更に血が加わる。海は才機に到底届けかない手を伸ばし、何かを言おうとしているが、口が動くだけで声は出ない。ジェイガルは短剣を引き抜き、海は唇から血を流しながらも最後に才機に笑顔を見せてそのまま峡谷に落ちた。才機は両膝をついて、落ちて行く海に掴めるはずのない手を伸ばした。たったの数秒の間で海は殺され、才機の視界から消えていった。才機は今ショックを受けている。今の出来事が実際に起きたと信じられなかった。

「正直、君が生きているとは驚いた。十分毒を施したつもりだったけど、ま、また今度彼女に会わせてあげるから寂しい思いをするのは少しの間だけ」とジェイガルは短剣を鞘に納めて、もう一人の男に後を付けられて林の中に消えた。


何時間経ったのだろう。才機がただそこで座って峡谷の中を見つめていた。頭の中で何度も海の最期を再生して。太陽が沈みかけ虫の泣き声がし始めた頃、才機はようやく街に戻った。死んだ目をして才機は宿の階段を上って部屋に向かった。ドアの取ってに手を付けると後ろから才機の肩にも手が付けられた。

「よ、やっと戻ったのか?お前も海もずっといなかったから病院に行ってみたけど···おい、どうした?」と才機は反応しないからリースが才機の左に回った。

才機の顔を見たらまるで魂が抜けていたようだった。

「ちょっと、退院して平気なのか?そんなに弱っているならもう少し病院で世話になった方がいいんじゃない?入院費用なら俺達」

「死んだ」と才機がいきなり言った。

「え?誰が?」

「海」

「は?何言ってんだ?」

「殺された。ジェイガルに」

「···ちょっと待って。どういう事かちゃんと説明して」とリースは才機の両肩を掴んで向き合わせた。

「北の林にいた、海とジェイガルともう一人の男。見つけた時は峡谷の向こう側に渡っていた。だから···助けられなかった。目の前で海が刺され、峡谷に落ちるの···見るしか出来なかった」

才機の声に一切の感情を見出せなかった。まるでトランス状態で話していたようだった。

「あれほど言ったのになんで街を出たんだ?!」

「拉致された。この部屋から」

「拉致された?いつ?」

「分からない。昼前。窓を突き破って連れ去った」

リースは才機を放した。

「確かに昼前は自分の部屋からガラスが割る音を聞こえたような気がした。まさかそういう事だったのか。ごめん。俺がいながらこんな事が···」

質問は終わったようで才機は自分の部屋に入った。リースはかける言葉を見つけられなくて、ただドアが閉まるのを見るしか出来なかった。才機は暗い部屋で立ち尽くしていた。彼は壊れている窓を見ていた。今はその場しのぎのプラスチックが貼られている。部屋がちょっと冷えていた。鏡台の前の椅子に座り、ぼうっと天井を見上げた。暫くしたらある香りが鼻まで漂ってきた。才機は鏡台の上の椀に気付いて蓋を開けてみた。いつぞや海が持って帰ったシーフードスープだった。本当に作ってくれたんだ。

ぐ〜〜〜〜〜〜〜。

そう言えば、朝から何も食べていなかった。その香りは才機にそう思い出させた。あんなにお腹がすいていたのに、才機は食べるかどうか迷っていた。自分でも実際に何で迷っているのかよく分からなかった。食べない事で海を助けられなかった自分への罰なのか?こんな時に食事を楽しむのは無神経だから?それとも海が最後に残した物を大事にして残したいから?結局は答えに辿り着かなかったが、手はゆっくりとスプ−ンの方に行って、スープを一口食べた。

とっくに冷めていた。そのスープは、凄く冷たくて···凄く美味しかった。

「うまい」

才機の頬を流れる涙はスープの中に落ちた。拭っても拭っても絶え間なく湧き出る涙が顎からスープに滑り落ちた。それを構うことなく一滴も残さずに食べた。そうしたら、椀を膝の上に抱えて眠りにつくまで鏡台に横顔を載せて泣き腫らした。


    • • •


コンコン。

才機はドアがノックされる音で目を覚ました。目を覚ましたが反応はしなかった。何も考えたくなくて、また眠りにつこうとした。昨日は海の夢を見たし。そして夢の中で海が死んでいると気付いていなかった。いっそ寝てそのまま起きなくてもいい。

「才機、いる?」と鍵はかかっていなかったからメリナが入ってきた。

「やっぱりいるんだ。うわ、寒いよ、この部屋。そこで寝たら風邪引いちゃうよ?」

才機は身動き一つしなかった。メリナは才機の隣でかがんで才機を抱き締めた。

「ごめんね。今は何を言っても何の慰めにはならないのは分かる。でも海の為にあんたを堕落させる別けにはいけない。そろそろ昼だよ。下りて何かを食べよう?そうしたら一人でここにいないで一緒に悲しもう」

またドアがノックされる音がした。

「はい」とメリナが返事をした。

「ども。壊れた窓を補修する為に来た者です。今は大丈夫ですか?」

「ええ、お願いします。ほら、才機、修理をしている間は下にいよう」とメリナが才機の腕を引っ張って無理やり部屋の外へ連れて出して行った。

「ん?それは置いてきていいでしょう?」とメリナは才機が持っていた椀を取って部屋の鏡台に戻してきた。

下でメリナはコーヒーとサンドイッチを買って才機が座っているテーブルの上に置いた。

「せめてこれだれでも食べて。食欲がなくても体に栄養を与えないと」

確かに才機は食欲なかった。でもサンドイッチぐらい食べられるのは困難な事ではないし、メリナは中々諦めないだろうから、ここは素直に食べた方が面倒を避けそうだ。メリナは何も言わないで才機が食べ終わるまで待った。

「よし。次は最後に海を見た場所まで案内して」

「どうして?」

「墓標を作るのよ」

メリナは才機と一緒に北の林に入って橋を渡った。海はどこで峡谷に落ちたか正確に分からなかったが、才機峡谷を沿って血の跡を探した。中々見つけられなかったので大体の所にした。

「ここね。才機は石を一杯集めてきて。あたしは花を摘んでくるから」

才機は黙々と石を集めに行った。五往復したらそこそこの数になってきた。メリナも丁度戻ってきた。左手に何本の花を、右手に花輪を持っていた。メリナは才機が峡谷の近くに積み重ねた石の上に持っていた花を全て飾った。

「奇麗なお墓だ」とメリナが地面に座った。

「才機も楽になって」とメリナは隣の地面を軽く叩いた。

才機はそうして、海の墓をじっと見た。

「才機のせいじゃないからね。今はああすればよかったとか、沢山のもしもに苛まれているだろうけど、あまり自分を責めないで。海はきっと恨んだりしてないし、才機にそんなに苦しんで欲しくないはず」

「うん」と才機が一言返した。

本当にそう思っているかどうかはまた別の問題だけど。

「あたしももっと仲良くなりたかったな。海はあたしにとって初めての女友達だよ?これからは女同士ならの喋りを沢山出来ると思ってた。才機の話とかはもう結構してたよ。認めるのに時間かかったけど本当にあんたの事好きだった、海は」

メリナは少し涙でかすんだ目を拭った。

「もー、今まで涙をこらえられたのに」

「別にいいんじゃない?俺も昨夜散々泣いた」

「そうか。じゃ、あたしも少し泣かせてもらおう」とメリナは涙を自由に流れさせた。

二人は暫くの間そうやって過ごした。いずれは風が出てきて、母なる自然のひんやりとした手がメリナの肌に触れた。

「ちょっと冷えてきたね。何か海が風を吹かせて早速帰りなさいって言っているみたいだね。そろそろ帰ろうか」とメリナが言った。

「うん。もうちょっとここにいるから、先に帰ってて。後少しで俺も行くから」

「そうか?じゃ、風邪を引かないようにね。帰ったら教えて。何か温かい物を飲もう。お兄ちゃんももう帰っているかも」とメリナは先に宿に向かった。

才機は即座に作った海の墓をずっと見ていた。遺体がないのでは、簡単に建てる物だ。正直、あまり乗り気になれず作業をした。こんな物を作ったところで気が少しでも晴れるはずがないと思った。やるせない気持ちは相変わらずだが、こうして座ってみるとここはやはり海に一番近い場所のよに思えてきた。一人であの部屋にいるのはやるせなくて帰りたくない。いっそジェイガルが現れてここで殺してくれたら楽になれるでしょうかと思った。何も出来なかった自分には相応しい最期かもしれない。だが自己嫌悪に浸っていられるのは束の間。ジェイガルの姿が思い浮かぶとその気持ちが別のものに変化して行く。憎悪という感情に。今になって初めて怒りが腹の底から沸き上がる。海が死んだ時は悲嘆のあまりに誰かを恨もうとも考えなかった。でも今は海にあんな憂き目に会わせて、自分をこんなにも苦しい想いをさせている人に対する殺意がどんどん、どんどん高まる。そんな時、肩に手が置かれるのを感じた。その手の持ち主はジェイガルだと強く念じて、思いがけず恐ろしい期待で振り向いた。

「だ、大丈夫か?」と才機の顔を見てリースが少し驚いた。

一瞬、てっきり才機からとんでもない殺気を感じたような気がした。

「リースか。どうした?」と才機はまた海の墓に目を戻した。

「あぁ、メリナからお前がここにいるって聞いた」

「そうか。今まで仕事してた?」

「いや、ちょっと探索に行ってた」

「探索?」

「ああ。この下の川が流れ込む湖でね。そしていくら探しても死体が見つけられなかった。もちろんどこかで引っ掛かったり、動物に持って行かれたり、単に俺が見過ごした可能性は十分あるけど」

「だから本当はまだ生きていると言いたい訳?」

「あ、いや、別に変な期待を持たせたいとかそういうんじゃなくて。あんな事があって助かるはずがないから。ただ、気になってた。何かがずれてるような」

「何の話?」

「だってさ。可笑しいと思わない?海を殺すのが目的なら何でわざわざここまで連れ出す必要がある?部屋に侵入した時に出来たはずなのに」

「騒ぎを起こしたくなかったんじゃない?」

「あの連中が?騒ぎを起こしたくない人は真っ昼間で窓を突き破って二階から飛び降りたりしない。目立ち過ぎだろう。それにちょうど才機が連中を見つけた時に海を殺したってのもタイミングが良過ぎる。あるいは悪過ぎるか。林に入った途端にやればよかったものを。それが林の奥に来て、峡谷まで渡った。才機に海が死ぬところを見せ付けたかったとしか思えない。お前に死んで欲しいなのはともかくとして、そんな趣味があるとは思わなかった」

「今となってはどうでもいい事なんだけど」

「そう···だよね。でもどうしても俺達は凄く大事な事に気付いていないような気がしてならない。単に趣味が悪いという理由じゃかなったら、海が死ぬところを見せたかったって事は、お前に海が死んだのを知って欲しかったって事だ」

「そりゃ当然だ」

「あるいは、死んだと思わせたかった」

「···」

「さっき言ったばっかりの事と矛盾しているだけど、もしかして、本当に万が一の可能性だけど、海は···生きているかも。何かの理由で海を捕虜にしたかったんなら、才機が見たのは海を諦めさせる為のやらせかもしれない」

「心臓が貫かれたんだよ!俺の目の前で!」

「本当にそうだと言い切れるの?そう見せかけて急所を外したかもしれない。異能者の集団だから空を飛べる誰かが海を受け止めたかもしれない」

「何もかも『かもしれない』。ただの憶測じゃないか」

「むちゃくちゃ言ってるのは自分でも分かるけど、何かが変だ。それは確か」

「だから俺に何をしろって言うんだ?」

「···分からない。ごめん。真実を確かめるにもリベリオンを探るしかないが、そのリベリオンの本拠の在り処は知らない。でももしそれが分かったら、海について何かが分かると思う。それは海が生きているとは限らない。だが、すがりたい物が欲しいんだったら、これを使えるかと。まぁ、深入りするかどうかは任せる。調べた結果を教えたかっただけなんで、先に行く。あまり遅く帰るなよ。メリナが心配するから」とリースは才機の肩を軽く叩いて先に帰った。

「リベリオンに侵入してあのジェイガルって奴を全部吐かせるってのか。無理だよ」と才機は立てた膝に額を置いた。


    • • •


昨夕、海は目を覚ましてみると駆け出している馬の上に体をへの字にし、腹這いになっていた。足と縄で縛られた手が馬の両側でぶらぶら揺れていた。今までの事を思い出した。宿で才機が帰ってくるのを待っていた時に、あの狼男が部屋に押し込んで薬で自分を眠らせた。どこに連れて行かれているんだろう。馬を操っている人に聞いても答えてくれなさそうだ。目的地に着くのを待つしかない。

途中で目印になるようなものはなかった。殆ど砂漠状態だった。ただずっと山脈の方に移動していた。その山脈に辿り着いたら、まさかこれから山越えをすると思ったら、馬が停止して馬を操っている人は降りた。やっぱりあの狼男だった。

「なんだ、起きてたのか。随分静かだったな。ま、ずっと『放せ放せ』とかぎゃあぎゃあ喚かれるよりはましだけどな。こっちだ。言っておくが風で変な真似はするなよ。怪しい風が出てきたら即お前をのしてやるからな」とディンは海を馬から降ろし、山裾の高さ二メートルぐらいの傾斜の上で作られた入り口へ連れて行った。

そこでもう一人見覚えのある顔の人が待っていた。アラニアでビルを放火していた異能者だ。

「お、うまくいったようだな」とラエルが言った。

ラエルは海を頭からつま先目までじっくり見た。

「ふーん。この女がね。まだ信じられないな」

「まぁ、直ぐに分かるさ。早速デイミエンの所に行くよ」とディンが言った。

三人で山の奥へ進んだ。そのトンネルを歩いていると何度も分岐点に差し掛かった。トンネルが二つに分かれることがあれば、三つに分かれることだってある。等間隔で設置された松明や焚き火は唯一の光源。たまに広い空間に出たと思ったらまたトンネルに入って登る。しかしどこに行っても変わらない事は一つ。明らかな窮乏。どこも汚くて、ぼろを着ている人間がごろごろしている。小さな子供から老人まで年齢層は幅広いが、全員異能者か異形者だろうか。熱を求めて火を囲む者も、もう寒さに構う気力すら残っていなくて地面に転がっている者もいる。何かの遊びをしている子供や、だべっている人は見当たらない。ここはスラム街以下の状態。何度目かトンネルに入ろうとしたら、ディンは止まるように手で合図した。

「ここで待ってて。デイミエンの指示を仰いでくる」とディンは暗闇に消えた。

海は回りを見た。近くで母親が子供二人、男の子と女の子と一緒に小さな焚き火を囲んでいた。その火が段々小さくなっていた。やがて火は温もりと言えるほどの熱を出せない燃えさしとなった。女の子は体を丸めて手に息をかけた。

「母さん、寒いよ」と男の子はお母さんに訴えた。

他に為す術がなく、母親は二人の子供を抱き寄せた。ラエルが燃え尽きようとしている焚き火の近くにしゃがんで手を薪の上に置いた。すると大きな炎が薪の上に赤々と燃え

上がり、暗かったその辺りを明るく照らした。まるで一瞬で夜が昼になった。

「ありがとうございます」と母親が礼を言った。

「気にすんな。弱くなったらまたでかくするから」とラエルが男の子の頭を撫でて微笑んだ。

ここに入ってから海が初めて見た笑みだ。

「そうだ。今日はいい物が手に入った」とラエルはポケットに手を入れてお菓子を取り出した。

それを二つに分けて子供達にあげた。

男の子は喜んで受け取って、口に放り込んだ。しかし、女の子の手の平に落ちた瞬間にそのお菓子が消えた。

「あ」と女の子が驚いた。

何かの存在を確かめるように女の子はお菓子が落ちたはずの所を指で二回突いてみた。手応えがあったらしくて、恐らく透明になったであろうそのお菓子を彼女は人差し指と親指に挟んで口に入れた。嬉しそうに何かを舐めているのはその証拠だ。母親は頭を下げて感謝の気持ちを表した。

「遅いから明日にするって言ってた。今日はもうこの女を部屋に入れるんだ」と戻ってきたディンが言った。

「へいへい。付いてきて、お嬢ちゃん」とラエルが海を案内した。

二人が着いた海の部屋とういうのはこの山に幾らでもあるただの空洞。割と広かって、真ん中にプラスチックで出来たでかい球体の上半が置いてあった。人をぎっしり詰めれば二十人ぐらいは入れる大きさ。

「ここがあんたの部屋になる。今まで住んでいた所ほど豪華じゃないが心配するな。別に差別じゃないよ。他の皆の部屋だって同じようなもんだから。あんたはそこの家具があるだけましだと思ってもいい」とラエルはプラスチックの半球形を指した。

海はその空洞に入って回りを見渡した。特に見る物はないけど。本当にそこにはあの謎の半球形と入り口の両側にある松明だけだった。

「ま、座って楽になれば?しばらくの間はどこにも行かないんだから」

「あなたが私の見張り役?」

「ジェイガルが戻るまではね。早く戻ってくれないかな。そろそろ巡回しなきゃ」

「巡回?ここは襲われる可能性あるの?リベリオンのアジトの所在は一般の人に知られてないと聞いたけど」

「そういう為の巡回じゃなくて、さっき見ただろう?あの家族が使っていた焚き火が消え掛かっているのを。皆がちゃんと暖を取れる為の火があるようにするのは俺の役目だ」

「ここを全部巡回するのに結構時間が掛かるのでは?」

「だから早く帰ってきて欲しいんだ、ジェイガル。ったく、俺には他にも責任があるって事を覚えておいてもらいたいもんだ」

「ここにいるのは全部居場所を無くした異能者?」

「全部じゃない。異能者に成り済ましてここで生活している人もいる」

「···何でそんな事を?」

「自分が異能者でなくても家族がそうかもしれないからだ。母親が街から追い出される自分の幼い子供を見捨てる訳にはいかんだろう」

海は先ほどの家族を思い出した。娘以外は普通の人間だったのだろうか。

「あなた達はここで何をしようとしてるの?リベリオンの目標は異能者がもっと住みやすい世界を作るとか言ってるが、異能者じゃない人を脅しているだけじゃない?その人の肩を持つ異能者も···」

「全てはもっと大きな目的を果たす為だ。俺達は見下されるべき存在じゃないって事を皆によく理解させないといけないんだ。まずは世間の考え方を訂正させるのが重要だ。それが出来なきゃこの世界はずっとここまま。皆はあんたみたいに虐げられるのを耐えながら恐怖の中で生きたい訳ではない。そもそもその選択肢すらない奴もいる。ここにいる連中に言ってみるか?ずっとこうして山の中で生きろって」

「そんな。私は別にそのつもりじゃ···」

「ま、あんた達の事はまだばれてないから分からないだけだ。一度理由もなく家から立ち退かされ、今まで苦労して手に入れたものを失ってみればその考えは一変するだろう」

確かに海は異能者である故の苦難はそんなに体験していない。隠すべき人からは何とか隠し通してきた。背中を半球形に合わせた海は座って膝を立てた。それから二人は静かに待っていた。いずれ沈黙を破ったのはラエルだが、それは海に向けた言葉ではなかった。

「やっと戻ったか。じゃ、後は任せた。俺は巡回に行く」とラエルはどこかに行った。

代わりに現れたのはジェイガルだった。

「やぁ、久しぶり。ようこそ我が家に。殺されなくて済んでよかったね」

「なんで私はここに連れて来られた?」

「詳しい事情はそのうち分かるさ。俺もゆっくりしていけないんで直ぐにまた出て行く」

「どこに行くの?私の見張り役じゃなかったのか?」

「ちょっと違うな。見張る必要もない。助けを待っているなら期待しない方がいいよ。君の連れが知っている限り、君はもう死んでいる」

「どういう事?」

「幻覚を見せてやったんだ。君が俺に殺される幻覚。そういう事が出来る仲間がいる。いやぁ、大変だったよ。彼は錯覚しか起こせなくて幻聴までは起こせない。そして錯覚って言っても何でも見せられる訳じゃないけど、目さえ合わせれば他人が他の誰かに見えるように暗示することぐらいは出来る。幸い、君の役にぴったりの人材もいてね。自分の体に平気で穴を開けることが出来る。その際は穴から血がにじみ出るけど、今回はそれが好都合で、君が刺される演出を見事に出来た。彼が自分の体を操れるのは穴を開くだけじゃないぞ?ムササビみたいに体を平らにしてある程度の滑空も出来る」

それを聞いて海は才機の事を凄く気に病んだ。あんな事を見せられたら才機はどうなる?今は恐らく、物凄く苦悩している。

「ま、見張りは不要だが、あれに入ってもらえる?ちゃんとした牢屋がなくて悪いね。自分で持ち上げられるはず」とジェイガルは半球形に指差した。

割と厚かったが、ジェイガルが言った通りそれほど重くはない。海が中に入ったらジェイガルは小手を外して手を半球形に置いた。

「最初の質問についてだが、薪を調達しに行く。ここには沢山の人がいるからな。急に無くなったら大変だ。明日の朝、向かいに来るからそれまでくつろいでいて」とジェイガルが海を一人にした。

海は半球形を押してみたが、やっぱりびくともしない。あのブロコニウムとやらだろう。どんな目的があって自分をさらってきたか知らないまま日が終わりそうだ。穴でも掘らない限り脱出する方法もない。だが地面がこんなに堅いとシャベルがあったとしても無理っぽい。海は観念して才機との再会を眠りにつくまで祈った。


    • • •


約束通りジェイガルは翌朝海を起こしに来た。海の牢屋をプラスチックに戻して昨日の三人家族がいた所に連れて行った。今はその三人がいないみたいけど。今日はそこで止まらずもっと奥へ進んだ。そして進んで行くと二人の人がいた。一人は海が一生忘れない顔。アイシス。流石は氷を操る人だけあって凄く冷たい目で睨まれていた。その隣に男が岩の上に座っていた。二十六歳ぐらいで見た事のない人だ。その人が声をかけてきた。

「お初にお目にかかります。海ですね。昨日は会わなくて悪かったね。ここまで連れてこられて、もしかして疲れたんじゃないかと思った。私は誰だか分かる?」

「リベリオンの首謀者?」

「まぁ、間違ってはいないが、首謀者って···ちょっと印象悪いと思わないか?団長とか言って欲しいな」とデイミエンがにっこり笑った。

「···」

「昨日はよく寝た?」

「···」

「あぁ、地面に寝たんだからそんな訳ないか。もっと持て成してあげたいところなんだけど、こっちはぎりぎりの生活必需品を揃えるのに苦労してるんでね」

「···」

「あまり喋らない人ですね」

「ね、本当にこの女に頼らないといけないの?」とアイシスが明らかに苛立っていた。

「まぁまぁ、そうかっかするな。今の状況だと緊張して当然だ。じゃ、海、聞きたい事があるんだけどいいかな?」

「何でしょう?」と海が遂に返事した。

「異能者同士だから、隠し立てしなくていいよ。海はどんな能力があるの?」

「風を少し操れる」

「そうだったね。お陰さまでアイシスが随分と世話になったな。そのせいで海の事ちょっと恨んでるかもしれないけど、気にしないでくれ」

「ふん!」とアイシスは腕組みをし、背をデイミエンに向けて誰もいない壁の方を見た。

「他に何か出来るの?」とデイミエンが続けた。

「いいえ、それぐらい」

「本当に?」

「···」

「森の中で初めて会った時は俺の居場所を探知出来たんじゃないのか?」とジェイガルが言った。

「あぁ···あれ。人の気配を何となく感じることはある」と海は目線を低くした。

「ほー。有能な方ですね。素晴らしい能力ばっかりじゃないか。他には?」とデイミエンが聞いた。

「特に何も」と海は更に目を逸らした。

「ふーん。そっか。ね、ちょっと行きたい場所があるんだけど、付き合ってくれる?アイシス、馬車を回してくれ。ジェイガルは海を外まだ案内して。多分右も左も分かってないから」

アイシスは先に行った。次はジェイガルに案内されて海は山への入り口まで連れて行ってもらった。アいシスはまだ馬車を回してきていないみたい。そこにいたのは海とジェイガルだけじゃなかった。男二人が話していた。

「よくここを見つけた。偶然?ここは散歩をするような所じゃないけど」

「あぁ、いや、前に他の異能者に教えてもらったんだ。もし他に行く当てがないならここに来ないかって誘われた」

「そうか。誰だ、その人は?」

「名前が分からない。背が高くて、茶色の髪と髭を生やしていた。元はメトハインに住んでいた人」

「んー、それだけだと絞らないな。まぁ、いいや。空き部屋だけはいくらでもある。先客さえいなければ好きな所を使うといい。但し、ここにいる皆は自分の仕事がちゃんとあるから、落ち着いたら俺のとこにまた来て。そこの通路のもっとも奥の部分だ。仕事の内容とここのルールを説明する。腹減ってんならあっちで何かをもらっとけ。まだ朝食を配っているはず」

もう一人の男は頷いて山の奥へ行った。

「また新入りが入ったか?」とジェイガルが男に聞いた。

「あぁ。今週で三人目」と男が言った。

「この山はでかいけどトンネルは全体的に広がっている訳じゃない。何人入るかな、ここ」

「ここに住んでいる人はそんなに多いんですか?」と海が聞いた。

「小さな村と同じ規模なのかな。百人は超えたんだろうね」

「ガルドルみたいな異能者の為の街があるのになんでわざわざこんな所に来るの?」

「あんな街でも生きていけるのにお金が必要なんだ。着の身着のまま追い出されるのは珍しくない。特に前はね。それに、ここに来る連中の殆どは住む場所だけを求めてここに来たんじゃない。この世の中を変えたいと思っている。その為に一時的な不便に耐えられる」

馬車がやって来る音が聞こえた。かなりのおんぼろで、どこかで捨ててあったのを拾った感がある。アイシスは馬を二人の前で止めた。前部座席と後部座席を合わせて六人まで乗れる。六人も乗ったら崩れそうな感じもしたけど。ジェイガルは海が乗るように合図した。海は後部座席に上がってジェイガルはその隣に座った。するとデイミエンともう一人の見た事のない男がやってきた。心なしかデイミエンは足を引きずっていたような気がした。男はジェイガルの隣、デイミエンはアイシスの隣に座った。どうやら馬車は五人の体重に耐えられるようだ。

「あ、そうだ」とデイミエンはポケットから八個のビーズを出して海に渡した。それぞれ色が違っていた。赤、青、黄色、緑、オレンジ、紫、黒、白。

「それ、二個あそこの木の後ろに置いてきてくれる?残りは自分のポケットにでも入れといて」とデイミエンは三十メートル離れた枯れ木を指差した。

「はい?」と海はデイミエンがやらせようとしている事の意図が見えなかった。

「ちょっとした遊びだ。付き合ったくれ」とデイミエンは木を首で示した。

デイミエンの考えている事がさっぱり分からなかったが、取りあえず海は言われた通りにした。指摘された木の後ろに二個のビースを手から落とすつもりだっだがうっかり三個を落としてしまった。二個でも三個でも大した変わらないからあまり気にせず、馬車に戻った。

「それじゃ、行きますか?」とデイミエンが言った。


目的地はどこかの街を臨む割と高い丘。麓で四人子供が走り回って遊んでいる。

「さて、君は何色のビーズを置いてきたか、当ててあげようか?」とデイミオンは海が知らない男に目配せした。

その男は空を見上げて太陽を直視した。すると彼の黒目が見る見る縮んで殆ど無くなった。それから二ミリメートルとなった黒目が目玉のあっちこっちを素早く跳ね回った。暫くしたらその目が元に戻ると男は海を見た。

「この女は指示に従うのが下手らしい。三個置いて来た。赤とオレンジと黒」

「この人はザンティス。太陽の光さえ差していれば、遥か遠い場所でもそこにいるかのように見える。疑うなら残ったビーズを確認して」とデイミエンが言った。

海はポケットから五個のビーズを出した。赤とオレンジと黒のビーズがない。

「あの日も天気が良くて凄く晴れていた。なぁ、ジェイガル?林で才機って人と戦ったあの日」とデイミエンが言った。

海は手にあったビーズを強く握った。

「ああ。皆のピクニックを邪魔するのが悪いと思った」とジェイガルが言った。

「この話はどこに向かっているのか分かっているよね。単刀直入に言う。俺はそろそろまた都に襲撃をかけたいと思っている。軍勢がそれなりの数になってきたし、頃合いだ。但し、色んな意味で俺が先頭に立つのが肝要だ。でもこの前の襲撃で俺の不注意のせいで左足と右腕に深手を負った。以来、左足はちょっとしか上げられず、歩くのはままならなくて、走るのは論外だ。右腕も似たような状態だ。俺が参戦するのはもう不可能だと思ってた。でももし君が傷を直す力があるなら夢ではなくなる。アイシスの話によると才機に重傷を負わせた事がある。なのに次の日はその才機が何ともないみたいに歩き回っているという報告が入る。彼女はいくら彼が半死半生だったと言い張っても、きっと見誤ったと思ってた。でもそんな力があるんなら納得出来る。海。俺の足と腕を直してくれ」

海の目線は地面に向けていた。だが、ほどなく何も見ようとしていないその目に痛みが映った。アイシスは海の髪の毛を掴んで上の方にぐいと引っ張った。

「もうしらばくれたって無駄なんだよ!お前のとぼけっぷりにはうんざりだ!さっさとデイミエンの傷を直せ!」

海はあまり抵抗せず、アイシスの思いのままになっていた。

「やめなさい、アイシス。彼女には助けてもらうんだからもっと丁重に扱わないと」とデイミエンが言った。

「っちぇ。協力する気ないんじゃない?」とアイシスが海の髪を離して、海は崩れ落ちて両膝をついた。

デイミエンは海の前にしゃがんだ。

「そんな事はないよね、海?だって海も才機も含めて俺達が自由に生きられる為だ。手伝ってくれるよね?」

「出来ない」と海はずっと自分の膝を見ていた。

「なんでだ?ずっと人に化物扱いされ、蔑まれて生きて行きたいのか?元の生活に戻りたくないのか?!俺なら、リベリオンならそれを可能に出来る。君には君にしか出来ない事がある。自分の為じゃなくても苦しんでいる人の為にそれを果たす義務がある」

「戦争を起こす為だと分かって出来る訳ない!」

「戦争じゃない!聖戦だ!そしてこの戦いを仕掛けたのはあっちの方だ!こっちが正義だと分からないのか?!彼らが勝手に俺達を異能者にして、勝手に俺達を排除しようとしている!何も皇帝を暗殺しようとは思ってない。俺達の存在を認めてもらって苦痛を味わった異能者に補償してもらうんだ」

「多くの人を傷付ける事には変わらない!」

「皇帝に逆らって革命を起こそうとしてるんだよ?!犠牲は付き物だ!」

「···」

デイミエンは立って街の方に歩いた。

「アイシス、そこの子供の一人の頭蓋に氷刃を突っ込んでやれ」とデイミエンが遊んでいる四人の子供を見た。

アイシスはデイミエンの所へ行った。

「ちょ、ちょっと何をする気?」と海が聞いた。

「デイミエンの命令が聞こえなかった?そこの子供を一人殺す」とアイシスが何気なく言った。

「なんで?!」

答えたのはデイミエンだっだ。

「君は犠牲という物から目を逸らしているようだ。しっかり見てもらわないといけないらしい。そこの子供を殺さなくてもこのままでは代わりに異能者の子供を死なせる事になるだろう。一人で駄目なら二人。それでも駄目なら三人目、四人目。異能者の子供が同じように容赦なく殺されるという事実に目を向けるまで続く」

「子供には関係ないだろう?!」

「そう思うならこの体を直して俺に大人達に責任を取らせろ!!その四人が足りないなら次は街の方に進んでもっと犠牲を出す」

海は物凄い焦燥感のあまりに大声で叫びたい気分だった。どうすればいいかを悩みながらアイシスは手を上げてその上に氷の刃が生じた。

「ダメ!」と海はアイシスの腕にしがみついた。

「こら、離せ!」とアイシスは海を振り落とした。

アイシスはもう一度構えて、氷の刃を子供の方へ飛ばした。その死をもたらす刃は高速度で坂を下り、標的にどんどん近付いた。途中でいきなり現れた疾風が刃を振るわせ、僅かに軌道からずらさせた。結果、男の子の後頭部を数センチで外れて、刃は先端を地面に埋めた。

「ん?何これ?」と何かが後ろで通るのを感じた男の子が氷の刃を見た。

「氷だ!」

「霰が降ってるの?」

「でも、何も降ってこないよ」

アイシスは自分の足の隣を見た。そこで胸を波打たせている海は四つん這いで手のひらを子供達の方へ伸ばしていた。

「この···!」

アイシスは海の肋を蹴って海が横に倒れた。

デイミエンはうつむいた顔を手で覆ってため息をついた。

「誰か彼女を押さえてくれ」

その命令をジェイガルが引き受け、海を立たせてその両腕を背中に回して押えた。アイシスは再び手を上げて二本目の氷の刃を生成した。

「分かった!」と海が叫んだ。

アイシスの手は空中で止まった。

「直せばいいでしょう?!」

デイミエンを見て発したその言葉に海の悔しさが溢れ出ていた。

「そう、直せばいい」とデイミエンが答えた。

ジェイガルが海を放すと海はデイミエンの前にしゃがんで左足に集中した。青いオーラと共に左足の膝の辺りに黒い物体が現れた。その黒い物体は今までで一番濃い色だと感じた。濃過ぎていつもみたいに渦巻いているかどうか分からなかった。そんな事すら出来ないほど濃縮した塊だった。本当に真っ黒で後ろの青いオーラを見る隙間は微塵もないくらい密集していた。まるでそこは光が存在出来ない空間みたいだった。海がそれに触れるとおなじみの痛みが手を走った。しかし、こすってもこすってもその黒い物を崩す事が出来なかった。

「駄目だ」と海が苦しそうに息をした。

「何がだ?」とデイミエンが聞いた。

「いつもみたいにうまくいかないんだ。見た目だっていつもよりやばい感じがするし。傷がそれだけ酷いなのか、古いだからか分からないけど、効果はない」

「適当な事言ってんじゃないわよ!そんな嘘誰が信じるもんか!」とアイシスが言った。

「嘘じゃない!本当なんだ!」

デイミエンは海を見た。何かを考えているようだ。そうしたら手を海の肩に載せてその視線はもっと熱心なものになった。

「もう一度やってごらん」

「だから、効かないんだ。あなたのは普通の怪我じゃない」と海は痛そうに手をこすった。

「いいから。もう一回だ」

海は腹を据えてまたデイミエンの膝に手を伸ばした。今まで以上の激痛が手から腕を通って体中に広がった。そして更に驚く事に、黒い物体を僅かだけどに取り除いた。しかし、五回くらいやると力を使い果たしたらしい。

「汚れが···少しだけ···取れた」と顔に汗をかいて海はあえぎながら言った。

「汚れ??何言ってんだこの女?垢擦りじゃないんだぞ!」とアイシスが言った。

「そういう···物なんだ。取れば···取るほど治る。なぜか···今回は出来た」

「それは俺のお陰だろう。俺の能力は俺一人だとどうにもならないが、周りの異能者の能力に影響を与える。その範囲内の異能者の能力は何倍も強くなる。分かるか?近衛兵が数でまさっても、強い能力者がいればその差を力で埋められる。百人力とはまさにこういうことです。効いているんなら続きなさい。その汚れが全部なくなるまで」とデイミエンが言った。

「これ以上···無理。···凄く疲れる。痛い···」と海が両肘を抱えていた。

「そうか。じゃ、休むといい。無理はさせたくない。でも治療が一日に二回やってもらうぞ」

デイミエンがそう言い終わった途端に海は意識を失った。

「本当に疲労が激しいみたいだね。ジェイガル、馬車に運んでやれ。皆、戻るぞ」


海の意識が戻った時、既に独房に入っていた。がんがんする頭に手を当てた。あんなに力を尽くしたのに黒い物体は本の少しだけ取れた。足と腕、両方の治療が終わるまでどれぐらいかかるだろう?それまでに体は持つなのか?確か、デイミエンは一日に二回の治療って言ったような気がした。今は何時?後何時間で治療をやらないといけないのだろう?そう思ったら飯を持ってジェイガルがやってきた。

「お昼だよ」とジェイガルは半球形を少し上げて皿とコップを下に滑り込ませた。

皿の上は米と小さな乾燥した肉。コップには水。昨夜出された物と同じ。

「今は十二時ぐらい?」と海が聞いた。

「うん、そんなもんかな。次の治療なら夕方だろうね」

「やっぱりあなた達は間違ってる。無実な子供達を殺すまで自分の目的を達したい。異能者の子供はそう無残に殺されるなんて信じられない。そんなのでたらめに決まっている。普通の人間よりあなた達の方がよっぽど酷い」

「確かに、今は子供でも大人でも、異能者だって分かったところで殺される事はないだろう。でも前はそうでもなかった。異能者狩りの事件では子供だって殺された。例えば···デイミエンの妹」

今のは海の胸にぐさりときた。

「だ、だからって関係ない子供を殺していいと言うの?」

「あのな、無関係な子供を殺したくてああやったんじゃないよ。君があんなに頑固だったからそうするしかなかった。だが現に今は直接誰かの手に掛からなくても異能者の子供は貧困のせいで栄養失調や病気で死ぬ。何も知らず刃で頭を刺し貫かれて一瞬で死ぬのと一家毎路頭で餓死にするのとどっちが無残だろうね。それに早く気付いて協力してくれたらあんな事にはならなかった」

「···」

「ま、食べて体力を付けておけ。これから必要になるんだろう」とジェイガエルは海を一人にした。

海は膝を立てて体を丸めた。

「でもやっぱり間違っている。この世界の何もかもが間違っている。帰りたいよ。才機···」


    • • •


その才機はリースの言葉が頭にこびりついて離れなかった。もし海が生きている可能性はかけらでもあれば、それにすがらなければ毎日はただ断腸の思いで過ごして、朝起きる気力も湧かない。それがただの現実逃避だと分かっても。しかし役に立つような情報は何一つ入らない。二週間リベリオンについて何も掴めなかったあげく、今日はやっと興味深い噂が耳に入った。リースのお陰で。

「確かな筋から仕入れた情報だ。帝国軍が最近色々と軍備を拡張しているそうだ。噂なんだけどその理由とは···リベリオンのアジトを見つけたからだ。近々リベリオンを急襲するつもりだ」

「見つけたか?!本当か?!」

「だから、あくまで噂なんだ。でも軍の動きに変化があるのは確かだ」

才機は席から立った。

「どこに行くんだ?」とリースが聞いた。

「軍に志願する」

「志願って。俺は後を付ける事を勧めようと思ったんだけど。そもそも噂が本当かどうか確かめないと」

「それなら、確実に確かめられる方法はある」

「どんな方法?」

「皇帝に聞く」

「···は?何言ってんだお前?そんな事」と才機の変わらない真剣な顔を見たらリースは途中で口をつぐんだ。

「いや、女帝の友達だったもんな。もう何も疑わない。でも軍に入ったとしても異能者と戦う事になる。自分の能力を使わずに乗り切れるのか?」

「その必要はない。もう誘われているんだ。異能者だと知られた上で。歓迎されるだろう」

「そうなのか?俺に出来る事はしてあげたいけど、流石に戦争に行くのは···ちょっとな」

「いい。そこまでやらせたくない。この情報だけで十二分だ。もし死んだりしたらメリナに合わせる顔はない。それに、あのジェイガルって人に会ったら、お前もそこにいて欲しくないような気がする···」

「せめて、メトハインまで送ってやる。馬、乗れないんだろう?」

「ああ、悪い」

「メリナは···まぁ、いいや。後で俺から話す。お前なら絶対帰ってくる。行こう」

正午までに二人はメトハインに辿り着いた。

「じゃ、武運を祈っている。どさくさに紛れて背中を刺されないように気をつけろよ」

「分かった」と才機は馬から降りて街に入った。

街の中心にある塔で才機は門番の二人に率直に言った。

「名前は才機だ。皇帝との拝謁をお願いしたい。名前を言えば許すはず」

「皇帝に会う約束はありますか?」

「ないけど」

「あのな。皇帝に会いたくてここへぶらついてくる人を全部通したら切りがない。さぁ、帰った、帰った」

「だから、俺の名前を出せば必ず会ってくれるって」

「しつこいんだよ。皇帝はあんたみたいな名のない人に会うわけないだろう。さっさと帰らないと力ずくで排除するまでだ」

ここは何で皇帝に注目されているか実演する必要はありそうだ。才機は手を握りしめた。

「才機殿?」と後ろから声がした。

振り向くとそこにシンディがいた。

「あ、シンディさん」と才機が言った。

「この男を知っていますか?」と門番が聞いた。

「ええ。女帝陛下の知り合いです。またいらっして下さってお喜びになるでしょう」

「そ、そうだったんですか。とんでもないご無礼を許しください。どうぞ中へ」と門番は扉を開けた。

才機はシンディに続いて中に入った。

「助かったよ。もうちょっとで早まった事をするところだったかも」

「女帝陛下に会いに来て下さったのでしょう?案内致します」

「いいえ。実は皇帝に話したくて来たんだけど、何か、俺が来たって皇帝に伝えてもらっていいかな」

「皇帝にですか?何の用件でしょうか?」

「俺が最初にここに来た時の事を覚えている?一緒にリベリオンと戦ってくれないかって誘われたんだろう?もし気が変わったらまた来るように言われたんで、まぁ···気が変わった」

「そうですか。では、あそこで待って頂けますか?皇帝陛下に知らせて参ります」

「その···聞いた噂なんだけど、軍がリベリオンの本拠を攻めるっていうのは本当?」

「分かりかねます。お見えになったら皇帝陛下に訊ねるといいでしょう」

才機がシンディに示された場所へ歩いて席に座った。ちょっと落ち着かないが、近くを通る人は才機の事を特に気にしていない。入ってしまえば、もう素性は疑われないみたい。シンデイが戻るまで二十五分ぐらい待たされた。

「皇帝陛下は才機殿に謁見をお賜いになりました。こっちへどうぞ」

才機はシンディに付いて行って最初に皇帝に会った場所まで案内された。そこで皇帝が玉座に座っていた。隣の席は開いていた。この前いた大臣らしい人は今回も皇帝の隣で立っていた。そしてその人の隣には才機がよく知っている人物がいた。ルガリオ。後は数人の警備員。

「久しぶりですね。聞いた話ではリベリオンとの戦いで加勢する気になったそうです」と皇帝が言った。

「はい、その通りです」

「どういう風の吹き回しか聞いてもいいかな?」

「強いていうなら復讐です。リベリオンは消したい存在です」

「そうか。復讐か。それもまた信頼出来る動機ですね」と皇帝は顎をこすった。

「私からも質問して構いませんか?」

「何なりと申せ」

「リベリオンのアジトを突き止めたというのは本当ですか?」

「やはり噂は速く広がるものです。奇襲を仕掛けるのが困難になるからこっちとしては困りますがね」

「では、真実ですね」

「ええ。そして君はやっと間に合いました。明日出陣する予定です。今日はここで泊まるといい。ルガリオ隊長、彼を宿舎まで案内せよ」

「はっ。かしこまりました」

「ルガリオとは以前折り合いがよくなかったかもしれないが、あれから本人は反省しています。わだかまりに囚われる必要はないはずです」

「では、こちらへどうぞ」とルガリオは才機の横を通った。

宿舎は塔の直ぐ隣だが、二人はずっと無言で歩いた。才機に使わせる部屋は他の誰かが使っていないようだ。

「明日は向かいに来るからここで気合いでも入れ直すといい。戦場でまた気がふらりと変わったらかなわんからな」とルガリオはドアを閉まって行った。

あの隊長と肩を並んで戦う事になるとは考えても見なかった。まさかこの前の事で解雇されると思っていなかったが、降格ぐらいはされて欲しかった。ケインの事を思い出すとわだかまり無しなんて無理だ。相手もこっちの事をそんなに快く思っていないはずだ。恐らく自分の力を利用したいだけなのだ。それぐらいは才機にだって分かる。だがそれでもいい。才機も帝国軍を利用しているからだ。リベリオンの本拠を見つけてやる事をやれば軍とは縁を切る。これ以上気合いを入れる必要はないし、才機はベッドに入って昼寝をする事にした。

ドアにノックする音で目が覚めた。翌日まで寝たかと思ったら窓の外を見ると夕方だった。応対に出たら兵士が一人立っていた。

「ルガリオ隊長に食事の時間だと伝えるように言われて来ました」

「そうか。確かに腹減ったな」

「では、行きましょう。食堂まで案内します」

食堂では沢山の兵士が既に席に着いて食べていた。才機と向かいに来た兵士も行列に並んだ。

「名前はまだ言いませんでしたね。ラスティ二等兵です。」

「才機だ。階級は···ないかな」

「ルガリオ隊長から聞きました。今日入ったばっかりですって?災難でしたね。入った早々戦争とは」

《異能者だって言ってないか。まぁ、向こうもそれを伏せたいだろう》

「まぁ、ね。ここの飯はどうなんた?うまい?」

「ん?そうですね。心に残るような味ではないが、けしてまずくはありません」

「ふーん」

順番が回ったら才機の椀にシチューが注がれ、盆にパンが置かれた。二人は開いている場所を探して隣同士で座った。

「うん。まあまあの味だね」と才機が言った。

「それにしてもこんなに急に軍に入れてもらえるなんて、才機ってもしかして凄い人?」

「さぁ、ね。ルガリオ隊長から何って聞いた」

「ただ、新しく入った兵がいると」

「そっか」

「明日の戦い、敵は誰だか聞いてますよね?」

「リベリオンだろう」

「そう!何か怖くないんですか?同じ剣をふるう相手ならいくらでも戦ってやるけど、異能者はとんでもない事が出来るんですよ?」

「帝国軍には勝ち目はあると思う?」

「こっちの方は数がずっと多いから勝算は十分にあるはずだけど、損害はどれほど大きくなるやら。あっちには二十人の兵を一瞬で倒せる異能者だっているかもしれない」

「十分ありうるね」

「こんな時期に自ら入隊たいしてあんな物騒な集団と一戦を交えるなんて勇敢ですね」

「いかれてるだけなかもしれない」

「はは、どの道明日はよろしく頼みますよ。お互い無事に帰りましょう」

「それに乾杯」

才機はコップをぶつけたい気持ちを一切見せず勝手に一人で水を飲んだ。

「異能者なんて目に物見せてやろう!」

それに対して才機は少しにやりと笑った。


    • • •


翌朝は約束通りルガリオは才機を向かいにきて他の兵士が待っている所に連れて行った。

「取りあえずは私の側にいればいい。あっちに着いたら次の指示を出す」

才機を引き連れてルガリオは外で待っている兵士達に向かって激励演説を始めた。

「嘘は使わない。今日は恐らく、とてつもなく辛い戦いになる。相手は異能者だ。その中には特に破壊的な能力を持つ者もいよう。数多くの兵は無事に帰ってこられないだろう。だがそれでも我々は民を守る為にそのテロリストの集団を根絶やしにしなければならない。このまま放って置けばいずれは私達の平和な日々は脅かされる。そうならないようにあなた達勇敢な者に共に戦った欲しい。しかし、悪い便りばかり伝えにきた訳ではない。実は今日の作戦で頼もしい助っ人が加わる。私の隣にいるこの男は強力な能力を持つ異能者。彼は我が軍の先兵となって多くの敵を打ち破ってくれるだろう」

兵士の中から疑問を抱く声ははっきりと聞こえる。

「そのことに不満を持つ者もいるかもしれないが、彼の忠義を私が保証する。諸君達も負けないように力を全て発揮して下さい。今からリベリオンの本拠を打って出る。覚悟はいいか?!」

「おおおお!!」

「ならば総員配置につき、私に続け!」

ルガリオの命令を速やかに実行して兵士達はそれぞれ行くべき場所に移動した。

「いいのか、俺が異能者だって皆にばらして?」と才機が聞いた。

「勘違いするな。確かに私は異能者が気に入らない。人が出来るはずない、いいえ、出来てはいけない事をする危険な存在だから。人間への冒涜で、社会の秩序を乱す。そう思っている兵士も少なからずいるだろう。だが、今日リベリオンを討つのは異能者だからじゃない。危ない連中だからだ。兵士達もそれが分かっているはず。それに今日の戦いで異能者がこっち側にもいる事は彼らにとって心強い」

「俺を盾に出来るから?」

「ずばり言ってそうですね。言っておかないと敵だと勘違いされて後ろから打たれたのではせっかくの盾が台無しだ」

暫くするとメトハインからは歩兵、騎馬隊、そして装甲車何台が次々と繰り出した。先頭を切って進んでいる装甲車の後部に才機とルガリオと六人の兵が乗っている。才機は特に睨まれているような感じはしなかった。才機の事を気にするよりも皆が自分の緊張感と戦っているようだ。特に言葉にする事はないので全員車のエンジンの音だけを聞いてリベリオンのアジトへ赴いた。


一方そのリベリオンのアジトでは、ディンは薪を持っている男に近付いてきた。海が二週間前に見た、新入りを慣れさせるのが役目らしい人だ。

「どうした、困ってそうな顔をして」とディンが言った。

「いやぁ、二週間ぐらい前に新しくきた人がいたんだけど、飯を食べに行けって言ったきり見かけてない。仕事も割り当てていないし、どっかでぐたぐた過ごしているのかな」

「まぁ、何があったか俺達には分からん。まだショックを受けているかもしれない。気持ちの整理が出来たら出てくるだろう」

後ろからラエルの声が聞こえてきた。

「そうだな。自分の毛深い顔をずっと気にして一ヶ月も引きこもった奴もいたよね」

「うるせぇ!」とディンが言い返した。

「ほれ、今日は四羽も捕まえたぞ」とラエルは結び付けた四羽のウサギを男に渡した。

「ご苦労」と男が言った。

「じゃ、それよろしくな」とラエルが去って行った。

「あの野郎···た〜まにはいい仕事するからいい気になって」とディンがぶつぶつ言った。

「ディンもよくやってるよ。気にすんな」

急にディンの頭がぐいっと上がった。

「ん?どうした?」

ディンの頭の中でシェリの声が聞こえた。

《大変だよ!帝国軍が動き出した!恐らくその行き先は今皆がいる所!繰り返す!帝国軍は今そこに向かっている可能性が高い!》

「これ、頼むね。デイミエンの所に行かないと」とディンは薪をその男に押し付けて走って行った。

「え、何だよ、おい!」と男は四羽のウサギと薪を落とさないように頑張ってた。

ディンはその入り組んだトンネルを躊躇なく駆け抜けた。通り過ぎた人達はちょっと彼を目で追うぐらいで、迫ってくる危機について全く知らない。デイミインのいる所に着いたらラエルとアイシスもそこにいた。

「デイミエン!やばいぞ!」とディンが走ってきた。

「分かってる。俺達も聞いた。本当に帝国軍がこっちに向かっているなら最低でも六時間はかかる」とデイミエンが言った。

「どうするんだ?!まだ準備が出来てないんだろう?」

「慌てるな。初めからここが嗅ぎ付けられる恐れはあった。予定より早いかもしれないけど、ここで返り討ちにすれば帝国の軍事力が著しく低下する。そうなればやすやすとメトハインに乗り込む事が出来る。入り口の近くのトンネルにいる人を全員もっと奥の方へ避難させるようにジェイガルに指示した。山の最も奥の部分に辿り着くのにあの鍾乳石が一杯ある凄く広いエリアを通らないといけない。でもそのエリアに行くトンネルは狭くて一度に流れ込める人数は多くて二人。そこで帝国軍を迎え撃つ。攻撃に向いている異能者を集めてそのエリアに待機させて。最も有利に戦える場所だ。敵がいくら攻めて来ても必ずそこで食い止めるんだ」

そこにいる他の三人はデイミエンの指示を遂行しに行ったがアイシスは呼び止められた。

「アイシス、お前は俺と一緒にいて」

「デイミエンは行かないんですか?あなたがいたら皆の力を増幅出来る」とアイシスが聞いた。

「都を占領するのに確かに俺の能力は不可欠。だが、あんな小さなトンネルから出て来る兵士をここにいる全ての異能者で対応すれば俺が出るまでもない。俺達は違う行動に出る」

「違う行動?」

「戦いが始まったら俺達はそこの穴から外に出てお前の力を使って山を下る。そうしたら帝国軍の背後に回って攻撃する。俺が一緒にいればお前は大人数の兵でも軽々と掃討出来る。あいつらが何が起きているか気付く前に終わらせる」


帝国軍がその山に着くと人の気配は全くなかった。こんな何もない所がリベリオンのアジトだととても思えない。装甲車から兵達が出て戦闘隊形に入った。ルガリオは彼らに向かって宣言する。

「これからリベリオンのアジトに突入する。見つけた者を全てすべからく連行すべし。だが、何より自分の命を最優先する。抵抗する者がいた場合、射殺許可が出ています。今朝紹介したこの人は先に敵の領域に入り、我々はその後に続く。それでは、作戦開始。では、よろしくお願いします」と最後の方を才機に向かって言った。

でも才機はもうルガリオが作戦開始と言った時点で既に山の入り口に向かっていた。

「何か防具とかあげなくても大丈夫ですか?」と隣の兵が聞いた。

「ふん。あれは要らないよ」とルガリオが目を細めて向かっていく才機の後ろ姿見ていた。

山の入り口の手前で才機は止まってポケットから小さなボトルを出し、中身を一気に飲み込んだ。

「あれでも戦いの前は緊張するみたいだね」とルハリオが嘲笑った。

才機が山に入って間もなく躊躇った。いきなり道が三つに別れていた。才機は左、真ん中、右、順番に見た。後続の兵士達が追い付くところだったので、才機は左の道に行ってみた。三十秒でそれが何もない行き止まりだと分かった。才機はバツが悪そうに百八十度方向転換して無言で真後ろにいた兵士を見た。

「こ、後退!」とその兵士が命令を出した。

その命令は兵士の列の後ろの方へどんどん遠のきながら何度も叫ばれ、そのうち実際に後退し始めると才機は最初の分かれ道に戻れた。兵士達は他の通路には行かず、そこで待機していた。どうやら、もしどこかに地雷でもあったら、それを才機に踏ませるのが決定されているらしい。今度は右の方に行った。人がいた形跡はなく、本当にここで合ってるかと才機は疑問を感じ始めた。合っているとしても帝国軍がここに来る事を察知して逃げたのでは?突き当たりででかい釜とか食器とか調理に使えるような道具が沢山あった。少なくとも一時は人がいたらしい。一通り見回して戻ろうと思ったら何か丸い物に踏んで危うく転んだ。下を見ると踏んだのは薪。その直ぐ近くにウサギが四羽結び付けていた。二回も外れて戻ると兵士達は相変わらず待っていた。後は真ん中の道のみ。それを辿ると···また分かれ道。才機はいらいらしてきた。兵士達に斥候してくるから一旦そこで待つように言って凄く早いペースであっちこっち歩いて目は必死に何かを探している。そしてある所に出た途端に急に攻撃を受けた。何がなんだか分からなかった。いきなり飛んでくる物が多過ぎって前が見えないぐらい。


デイミエンとアイシスの所に誰かが走ったきた。

「始まった!始まったぞ!」

「よし、ご苦労。他の皆と避難して。アイシス、行くぞ」とデイミエンが言った。

二人は山に穴が空いている所へ行ってデイミエンはアイシスの肩に手を置いた。それからアイシスはしゃがんで氷を生み出した。その氷はジグザグに山を下った。氷の階段を作った。

「でこぼこにしたけど、一応氷ですから、滑らないように気をつけて下さい」とアイシスが忠告した。

デイミエンは足を氷の上に置いて前後に滑らせてみた。

「ここ、結構高いですし、滑り台的なものに出来ないかな。ガードレールありきで」

「え?あぁ、そうですね。少し時間かかりますが作り直します」

「頼む」


幸いに才機の変身は瞬間的なので無事だった。兵士が先に入っていたら即死だったんだろう。でもこうも攻撃を受けていると誰が何処から何で攻撃しているか分からない。騒音を聞き付けてきた兵士達も後ろで才機に対する猛攻撃を見て動揺している。敵にこんな罠を仕掛けられては突破しようがなさそう。しかも助っ人で来た人も何もせずにやられる始末になるみたいだ。攻撃が緩み始めたら今度は全身が石ぽくなっている人が上から才機の頭上に落ちてきて堅そうな拳を才機の頭骨に振り下ろした。才機に膝をつかせるほどの衝撃だった。それから次々に打撃が才機の背中に降り掛かる。最初の一撃にびっくりして、引けを取ったが才機にとっては頭を戸口にぶつけるようなものだった。今背中に受けている連打もそれほど効いていない。他の攻撃が止まったこの隙に目の前の相手を掴んでいの一番に見つけたもう一人の敵に投げつけた。それから直ぐに索敵に入った。そのエリアにいる異能者はまた一斉攻撃を始めたが、才機は既に次のターゲットを見つけて、そっちにまっしぐらに突進した。その人にぶつけて気絶させた。まだ止まらない。才機は何人の敵から攻撃を浴びながら手当り次第にその数を一人一人減らす。そしてようやく、敵の攻撃が止まって誰も視界に入ってこないと思ったら、かん高い音に耳鳴りがした。才機の体から力が一気に抜けた。振り向くと直ぐ後ろに男が才機に向かってひたすらに叫んでいた。才機が思わず四つん這いになって耳を両手で塞いだ。だが、そうしても頭が張り裂けそうな感じは一切好転しなかった。意識がなくなるような気がした。才機には聞こえなかったが、その時銃声が鳴った。耳から血が滴り落ち初めて意識が飛びそうだった時に、才機を苦しめていた音がぱたりと停止し、隣の男が倒れた。それに気付いて才機は逆の方向を見るとラスティがこっちに銃を向けていた。銃口から立ち昇る煙が程なく消えた。

「よし、作戦続行!各自展開し、この山を一掃せよ!」とルガリオは指示を出した。

ラスティも含めて兵士達はばらばらになって色んなトンネルに入って行った。彼がトンネルに消えてゆく前に才機と数秒だけ見つめ合っていた。それは何とも言えない表情だった。「俺を騙してたな」でも「異能者は皆が皆悪い訳じゃないかも」でも考えているかもしれない。才機は未だに痛みから解放されていなくて、正直どっちでもいいと思っていた。その耳鳴りが治まったら、立ち直って周りを見た。倒れていた異能者の中でジェイガルも見覚えのある人もいなかった。どれも情報を聞き出せるような状態ではないので才機は適当にトンネルに入って進んだ。闇雲に歩いていて誰にも会わなかったが、間も無く悲鳴があっちこっちから響いてきた。始まったようだ。もう少し進むと才機が誰かを見つけた。その人は才機を見て逃げたような気がした。そのまま前進して突き当たりで曲がるとその人を追い掛けようと思ったがもういなかた。その人はいなかったけど、違う人がトンネルの末端で横切って角の向こうへ消えた。才機は自分の目を疑った。確か···今見たのは···海だった。恐らく見間違いだと自分に言い聞かせたけど、才機は走ってその人を追い掛けた。どこかで曲がる度にその人の姿を危うく見失っちゃうが、松明の光でほのかに照らされるその横顔を見れば見るほどそれは海だと確信出来た。

「海?!海だよね?!待って!」

そして後四回ぐらい角を曲がると本当に見失った。才機が辿り着いた所は足場の少ない場所だった。壁に沿って進まないと暗くて深そうな小峡谷に落ちそうだ。海を最後に見た時はこっちに来た。でも才機が見回すと誰もいない。その時、いきなり後ろから何がぶつかってきて小峡谷に落ちた。

「やった!やったぞ!」と腕だけが非常識なぐらい大きい男が大いに喜んだ。

「なんて単純の奴だ。これであの女の幻に引っ掛かったのは二回目だ」

もう一人の男が後ろから歩み寄ってそう言った。

腕のでかい男の方は声のした方に向き直った。

「そんなにつらく当たったら可哀相だろう。声まで真似出来ない事を除いて、お前が作る幻覚は本物と区別がつかないから」

「あとは帝国軍を何とかしないと」

普通の体格の男は踵を返して元来た通路の暗闇を見透かそうとしていた。よって、後ろで小峡谷からガラスみたいな手が現れるのに気付かなかった。その手は腕の大きい男の足首を掴んだ。男はそれが誰の手なのか振り返って確かめられる前に大きな叫び声を出して崩れ落ちた。男の足首は真っ赤で見るに痛々しく握り潰されていた。もう一人の男は何事かと振り返ると目に入ったのは地面の上に足首を抱えて蠢いている仲間とその傍らに先ほど小峡谷から這い上がった才機だった。男は後ずさりして背中が後ろの壁にぶつかった。才機は彼の頭を挟んで両手を力強く壁に当てた。その際に才機の手は二センチ程あの石の壁にめり込んだ。

「ここへ来る時はリベリオンの一員を見つけ次第ちょっと痛めつけてやろうと思ったが、さっきの話を聞いて俺は今機嫌がいい」と才機は言うがそれほど良さそうな機嫌ではない。

「俺に機嫌のいいままでい続けて欲しいならその話をもっと詳しく聞かせろ」


デイミエンとアイシスは既に山を降りて、麓の入り口から入った。奥へ進むと膠着状態に陥っている軍隊がいると期待していたが誰一人いなかった。デイミエンの顔に少し不快感が出ていた。狭いトンネルを通って広いエリアに出たらあっちこっちリベリオンの一員が伸されていた。

「どういう事、これは?」とデイミエンは左から右へゆっくり見回した。

「そこ!動くな!皇帝陛下の名においてあなた達を拘束する!」と槍で武装している兵士が違うトンネルから走ってきた。

デイミエンはそれを無視して違う方向に歩き出した。

「止まれ!止まらないと」

兵士が言い終わる前に氷の刃が彼の喉を切り裂いた。兵士は自分の致命傷から流れる血を見て程なく息絶えた。

「これからどうしますか?」とアイシスはデイミエンに追い付いた。

「どうもうこも、見ろよこの部屋。俺達の戦力は何分の一に激減された。こうなったらまだ動ける同志を探しながら帝国軍の兵を一人でも多く倒して、違う場所でまた戦力を蓄える」

「こんな状況でもまだ諦めないんですね」

「諦められるものか。お前もそうだろう、アイシス」

そこでアイシスは追想する。過去の記憶を。


**約一年半前、アイシスはとある町の酒場で勤めていた。かれこれ五年間そこで働いてかなり板についていた。それぞれの手になみなみと注がれたビールジョッキを三つ持ちながら酔っ払いを支える椅子だらけのフロアを掻い潜るのはお手の物。たまに飛んでくる言い寄りを、相手の気を悪くしないように無下に拒否せず華麗にいなす。大抵の客はそれで済むのだが、時折しつこいのが湧いてくる。

空になったビールジョッキをカウンターに戻しに行くアイシスは尻に手が添えるのを感じる。

「ギーさん、何でも言ってるけどここはそういう店じゃないの。手はそのジョッキから外さないでもらえると助かります」

「つれないこと言うなよ、アイシスちゃん。長い付き合いじゃないすか、俺達は」とギーが悪びれることなく赤い酔い顔で甘える。

《こっちとしては長過ぎるんだよ》

「ね、アイシスちゃん、君まだ独身だろう?いい男見つけなくていいのか?」

「あいにく私には寄って来ないんですよ、いい男」

アイシスは最後の言葉を強調した。

「なぁ、この間競馬で遂に当たちまってよ、今度の週末、俺がおしゃれなレストランにでも連れててあげようか。嬉しいだろう?」とギーがまた手を出したがアイシスにかわされた。

「ごめん、予定が入っていて行けそうにないです。仕事に戻るのでギーさんは気をつけて帰って下さいね」

《今直ぐ帰ってくださいね》

声に出した言葉と頭に浮かんだ言葉はそんなに変わらなかったのにその口調は正反対。出来ることなら今ジョッキに注いているビールで口直ししたい。遠回りになってもギーが座っているテーブルを避けて他のお客さんに注文を届ける。それでも彼の視線を感じることはある。殆どの男から見ればアイシスはセクシーの部類に入るだろうから男の視線には慣れているが、ギーの視線はどうも他より不愉快に思える。

どうにか疲れる一日の終わりをまた迎えて店を出る。シフトが終わるのは夜だから外は暗い。でも治安がいい街だし、徒歩十五分で家に帰れる。家路について五分経った頃、後ろから誰かの気配を感じた気がした。振り向くと誰もいない。気のせいか。そうでなくてもこの時間でも人が出歩くのは別に可笑しくはない。現に自分もそうしている。あまり気に掛けず再び帰り道を辿る。しかし、数分後にまた誰かの気配を感じる。何だか後を付けられている気がしてならない。振り返らず歩調だけを速める。幸い家はもうすぐだ。家に着くと速やかに入ってドアの鍵を掛ける。窓から外の様子を見るが特に変わった様子はない。一人暮らしのこういう時だけは心細い。取りあえずは蝋燭ランタンに火を灯して寝室に持って行く。夕食は仕事場で済ませるから家に帰ると大抵は次の日に備えて寝るだけだ。アイシスは簡素な白いネグリジェに着替えてから蝋燭の火を吹き消してベッドの毛布にくるまった。今日の嫌なことを全部忘れようと目を閉じて眠りの誘いを持った。


翌日。シフトは残すところ一時間だけど珍しくギーは来ていない。アイシスにとっては願ってもないことで余計なストレスが溜まらずに済む。明日からは週末だし、これで三日連続であの人の顔は見なくてよくなった。週末と言えばアイシスが決まって家事をこなす時だ。土曜日に起きて家の中の埃を人通り払うと次は洗濯物。今日は洗濯日和で直ぐに乾きそうだ。先ずは仕事で使っているディアンドルを集めて外に用意した木製洗濯桶で洗う。服はそんなに沢山持っていないので普段着としても使っているけど。それが終わったら次はベッドのシーツと枕カバー。洗濯桶の前にしゃがんでシーツをゴシゴシ洗う。満足がいって物干し棒に掛けようとした時だった。

「お、アイシスちゃんじゃねか!」

その声を聞くと本能的に歯を食いしばる。そして振り返ると恐れたことを確認出来た。

「な、なんでここが···」

「いや〜、たまたまここを通っていてね、中々美人がいるなと思ったらよく見たらアイシスちゃんだった」と屈んで低い柵に両腕を乗せていたギーが微笑んでいた。

「でもー、今日は予定が入ってるって言わなかったっけ?」

「見ての通り忙しいでしょう?」

「そんなのいつも出来るじゃん。こんないい天気の日だ。どこかに出かけなきゃ損だぜ?」

「こういう日だからこそ色んな掃除と洗濯を済ませたいのよ。悪いけど他を当たって下さい」

「何だよ、アイシスちゃんは俺が嫌いか?」

《聞く必要ある、それ?》

「仕事とプライベートを混同したくないの。他に用がないならそろそろ家事に戻りたいんだけど」

ギーの笑みは一瞬消えたけど、また直ぐに作り直した。

「わかった、わかった。今日は俺の負けだ。あんまり強引なのもあれだしね。じゃ、また店で」

ギーは手を振りながら帰って行った。視界からいなくなるとアイシスは吐息を漏らした。シーツをもう一度掛けようとしたが、手で持っていた部分はいつの間にかガチガチに凍っていて半分に畳まれた形で固定されていた。氷を溶かせる為にシーツを洗濯桶に戻し、余分な水を絞り出してから物干し棒に掛けた。


翌週、仕事に行くといつものようにギーがそこにいた。そのしつこさは相変わらずで、高じたわけでも和らいだわけでもない。いつも通りだ。取りあえずはまた家に現れなければそれぐらいは我慢出来る。仕事場のみならず休みの日にまでこの人を相手にしないといけないなんてたまったものではない。金曜日は寝る前にギーが次の日に来ないよう祈ったが、神が願いを聞き入れたのか偶然なのか、翌日は雨が降った。但し、これでは洗濯物が出来ない。明日が晴れば明日出来るけど、今日は家の中を軽く掃除して刺繍と読書に興じる。その本の圧巻なるところに進むと閉じることが出来ず、極め付けはベッドで読みながら取っておいたナッチシナモンクッキーを食べる。ついつい徹夜で読破した。お陰で目が覚めたらもう昼過ぎだった。今日はお天道様は機嫌が良く、昨日やり損なった洗濯物を片付けそうだ。そうとなれば、早速服を集めて園庭の芝生へ持って行く。洗濯板にドレスを擦り合わせて泡が増殖して行く。

「アイシスちゃん、こんにちは〜」

その声は背筋に寒気を走らせた。首だけ回して振り向くと、またギーが柵の反対側にいる。その顔を見ると明らかに飲んでいた。

「もうこんな時間から飲んでいますか。爛れた生活は健康に良くないですよ」

決してギーの健康を気にしているわけではないが、アイシスの口調からすればそれは普通に分かることだ。

「だって〜、幾ら待ってもアイシスちゃん出てこないから」

「···うちを見張っていたのか」とアイシスがもう一度首だけ動かして振り向くとその目に映る嫌悪感が剥き出しになっていた。

ギーは自分の失言に気付いて少し慌てて取り繕おうとする。

「あ、いや、その···今朝ここを通ったらいないなって気付いてよ。挨拶しよと思ったが、まだ寝てるかなって思って一杯飲みに行った。休日だし」

アイシスは洗濯物に再び取り掛かった。適当でいいからさっさと終わらせて速く家の中にも戻ることにした。

「頑張ってるな〜。いい嫁になるよ、アイシスちゃんは。こんな小さな家で一人で暮らして寂しくないのか?」

アイシスは答えなかった。

「やっぱ大変だろう、女一人で。家に男がいると色々と便利だぜ?」

だがアイシスは反応せず素早く残り一着に手を付けて水に突っ込む。もう石鹸すら使っていない。

「どれ、手伝ってあげよう」とギーが小さな門扉を開いて庭に入った。

ギーは後ろからアイシスに近づき、屈んでその左肩に自分の手を乗せた。ギーの手を感じるとアイシンはビクッとした。ギーが門扉を開けて近づいてくるのを聞こえたから驚いたわけではない。ただその感触があまりも不快だったので体が勝手に拒否反応を示した。一方ではギーはひっくり返るほど驚き、その唖然とした表情は中々顔から消えない。なぜなら肩を触られたらアイシスの体は他にも勝手な反応をして、手を浸けていた水が一瞬で凍った。

ギーはぽかんと空いている口から言葉を発するのに少し苦労していたが、間も無く声を見つけた。

「お、お前がやったのか?」

アイシスはまるで象のようで身動き一つしなかった。

「異能者だったのか?」

ギーは尻もちをついたままゆっくり後退し、少し距離を取ると脇目も振らずに逃げた。アイソスは洗濯物を放置して家の中に逃げ込んで食卓に座る。椅子で少し屈んで両手で自分を抱きしめた。ばれた。とうとうばれた。どうしよう。ギーは誰かに言うの?少し酔っていたし、彼の見違いだと言って誤魔化せるの?そう思うとアイシスは外へ走って証拠となる洗濯桶を回収して家の中に持ち込んだ。洗いかけのドレスの半分が氷に取り込まれて抜け出せない。氷を直ぐに溶かす方法を必死に考えようするが、何も思い付かないとクローゼットに隠した。それから椅子に戻って膝の上に手を組んだ。そうやって一時間ぐらい待ったけど、特に何も起こらなかった。もしかしてギーは誰にも言わなかった?こっちに気があるから黙ってくれるのか?窓の外を見るといつもの変わり映えしない風景しか見られず、ちょうど窓の前を通り掛かった男と目が合って帽子を軽く持ち上げられまでされた。だがアイシスは一向にも安心しない。椅子に戻ってさっきと同じ姿勢で静かに待つ。

夕方が迫り、明日は仕事に行きたくないと考え始める。アイシスはおどおどして家のドアを開けて外の様子を見る。近所に同じ店で働く子がいて、調子が悪いので今週は出られないかもしれないと店長に伝えるように頼みに行った。確かに顔色が悪いわねと言われて笑えなかった。


翌日。昨夜はよく寝れず目にクマが少し出来ていた。一日中外に出ないで家でひっそり過ごした。やけに長く感じた一日だったが、何事も無くその日の残り僅かの時間を時計の秒針が数えるのを見届けた。

朝十時ぐらいに起きてアイシスが思った。自分がどうなるのかずっと気が気じゃなかったが、もしかして杞憂だったのか。ギーが酔っていたから酔っ払いの戯言だと鼻であしらわれた?それとも本人は酒が見せた幻覚だと思い込んだのか?どうなったのか分からないが、今日は仕事に行っていいのかな。そう思うと一昨日干した服がそのまま吹きさらしになっていることに気付く。外に出て洗濯物を物干し棒から降ろして取り入れる。すっかり乾いたその服を寝室に持って行ってクローゼットにしまい終えると、クローゼットに隠しておいた洗濯桶に目が行く。氷はもう完全に水に戻っていて、抜け出せなかった服がそれに浸かっている。その服を外に干すべくアイシスは洗濯桶ごと台所に持って行ったが、台所に足を踏み入れるなり洗濯桶を落として水が床と自分の足にバシャと飛び散る。ドジって落としたのではない。台所の椅子にギーが座っていた。その後ろには閉めたはずのドアが少し開いている。

「な、なんで勝手に入ってるのよ?」

落ち着いた声で堂々と言おうとしたがやはり恐怖の音が混じっている。

「あ、ごめんね。勝手に上がらせてもらって驚かせたね。昨日、アイシスちゃんが店に来なかったから心配でね。様子を見に来たんだ」

ギーは微笑んでいたが、決して暖かい笑みではない。それよりもっと邪悪な印象が伝わる。今は珍しくしらふのようだ。

「この通りなんともないよ。今日は仕事に行くつもりだから出て行ってくれる?準備がしたいので」とアイシスがタオルを取ってこぼした水を拭き始めた。

「そうか?俺を避けているんじゃないかと思った。この間あんな事があったし」

「なんの事かしら」とアイシスが空惚けて水を拭き続けた。

「おいおい、俺達の仲じゃないすか。嘘つかなくていいんだぞ?その水···あの時の水だろう。服がまだ入ったままだし」

アイシスはピタッと動きを止めた。どうやらあの出来事をちゃんと把握しているようだ。

「心配しなくていいよ。誰にも言っていない。言うつもりもない。アイシスの秘密はちゃんと守るよ」

言葉こそ優しいが、どうもアイシスを安心させる効果は全くない。

「だからさ、俺達はもっと仲良くなった方がいいと思う。お互いの事をもっとよく知れば俺は色々と相談になれるだろう?」とギーが椅子から上がってアイシスの方に行く。

アイシスの隣にしゃがんで近くで囁く。

「秘密がばれたらアイシスちゃんがどんな目に遭うか想像したくもない。俺達がもっと親密な関係になればお前を守ってあげられる」とギーはアイススの肩に腕を回した。

「あの、本当に仕事に行く準備しないといけないので」

ギーはアイシスの体を回して自分に向き合わせた。アイシスは抵抗したけど、ギーの手から逃れられない。結局ギーに押し倒された。それぞれの手首がギーの手で押さえつけられている。

「や、やめなさい。やめて!放して!」

「俺が秘密を守ってやってんだぞ!もう少し協力的になってもいいんじゃない?」とギーが膝をアイシスの太ももの間にねじ込んで少し広げた。

アイシスは抜け出そうと必死にあがいたが、男の体重に押し潰されて為す術がない。ギーの左手はアイシスが着ているディアンドルの肩の部分を求めて掴んだ。引き降ろそうとしたがアイシスは自由になった右手で何とか阻止する。

「おい、大人しくしろ!秘密がばれてもいいのか?!」とギーが一気に力を入れてディアンドルの肩の部分を外そうとし、その拍子で服が破れてアイシスの肩が完全に露わになった。

「きゃあああああ!!」

右手を宙に上げて開く。その中に鋭い氷の刃が三秒で生成されていく。それを掴んでギーの肩に突っ込んだ。氷の刃はギーの肩を普通のナイフみたいに簡単に貫いて深く差し込まれる。

「がああああああ!!」

ギーは大声で叫んでアイシスの上からどいて尻もちをついた。血を流す左肩から突き出ている氷の刃を苦痛に満ちた目で見ながら震える右手をその冷たい凶器に伸ばすものの、実際に触れるのを憚れる。アイシスは立ち上がってもう一本の氷の刃を出現させ、それをギーに向けた。

「出て行け!今すぐ出て行け!」

「ば、化け物が!」とギーが言い捨てて、刃が肩に刺さったまま家から飛び出した。

乱れ髪に視界を一部遮られ、アイスムは荒い息遣いでギーが出て行ったドアをじっと見る。力んだ体から力が抜き始めると氷の刃はゆっくりと手から滑り落ちる。アイシスはドスンと椅子に座る。両手をだらんと垂らして目は我ここにあらずという感じだ。もう終わった。こうなったら人生は狂うしかない。何分そこで座って何もないテーブルを見つめたか分からない。その内床がまだ濡れていることに気付き、何となく水を拭き取る作業を再開した。ちょうど終わる頃にざわめきが聞こえてくる。外に人が集めているようだ。

「そこにいるのは分かっている!出てこい異能者!出ないなら引きずり出すまでだ!」

知らない声だ。アイシスはドアを開けると前庭に三人の男がいる。その内の一人はギーで、肩に包帯が巻かれている。柵の外に二十人ぐらいの群衆が出来ていた。

「お前だな、この人を襲ったのは!お前みたいな危険な異能者にこの町での居場所はない!出てもらうぞ!」

先ほどの声はこの人のようだ。

「違う!襲われたのは私の方だ!自分の身を守っていただけだ!」

「嘘だ!俺がこの女の秘密を知ったから俺の口を封じようとしたんだ!」

ギーに指差されているアイシスの格好を見れば彼女の言い分に真実がある可能性を否めないはずだが、耳を傾ける者はそこにはいない。

「言い逃れは無駄だ!抵抗するならもっと痛い目に遭うぞ!」とギーの隣にいる最初の男が言った。

今度は群衆の方から野次が飛んできた。

「お前見たいなのが要らない!」

「私の息子も異能者に大怪我させたわ!」

「出て行け!」

「死亡者が出る前に追い出せ!」

前庭にいた三人目の男は家畜でも捕まるように投げ縄でアイシスを捕らえた。アイシスは首を縄に締め付けられ、男が引っ張ると玄関から引きずり出された。

「や、やめて!私は何も悪くない!」

「さっさと来い!」と男がまた縄を引っ張ってアイシスを無理矢理歩かせる。

群衆は二つに分かれてアイシスを誘導する男に道を開けたが二人を囲んでその後をみっちり付ける。しまいには騒ぎに引き付けられて子供まで集まって来て外側から覗き込める人だかりの隙間を探している。男が首に巻いた縄を引っ張る度に首が締め付けられ、息が出来ない。体力を奪われるアイシスは転んで道で横たわっている。

「立たんか!」と男が縄を容赦なく引っ張る。

アイシスはそれ以上耐えられず、手に氷の刃を生成して縄を切った。それから立ち上がってっ狂乱状態で周りの空気を無差別に切り掛かり始めた。

「近付くな!私に近付くな!」

叫ぶアイスガが激しく回るとまだ首に巻いている縄の紐は宙を切る。周りの人が全員数歩引く。

「危ない!離れて!」

「異能者が暴れている!誰か!」

他より度胸のある男が角材を持ってアイシンの背後に忍び寄り、彼女の頭の上に振り下ろした。アイシスは崩れて地面に落ち、頭の天辺から流れる血が横顔をすっと伝った。だが意識を奪うには及ばず、アイシスは氷の刃で上の方へ薙ぎ払って男の手を切った。男は痛みで呻いて角材を落とした。

「大人しくさせろ!」と今度は石が飛んできた。

それに倣って他にも石を投げる者が出てきた。その中にこの間アイシスが店長に自分は休むように伝えるようお願いした子もいた気がする。アイシスは腕で自分の頭を守っていると、群衆をかき分けてアイシスの方に歩いて行く者が現れた。

「おい、危ないぞ!あまり近づくな!」

男はその忠告を無視しアイシスの方へ歩み続ける。

「来るな!殺してやる!全員殺してやる!」

自分の前にしゃがんだ男を目掛けてアイシスは氷の刃を突き刺した。だが男はその手を左手で掴み、刃の先端は喉元のすぐ前に止まった。男はアイシスしか聞き取れない声で喋べり出した。

「素晴らしい力の持ち主ですね。こんな素晴らしいことが出来るってだけでこのクズみたいな連中にここで殺されてもいいのか?君の力はまだこんなものじゃない。君なら彼奴らを止められる。君の本当の気持ちをさらけ出してその想いを能力で表明しろ。俺が力を貸すから」と男がもう片手をアイシスの肩に乗せた。

この時はアイシスがまだ知らなかったが、目の前にいる男は自分が仕える異能者の集団のリーダーになる男だ。

アイシスは体の中に感じたことのない感覚が湧き上がるのに気付いた。その抑えられない気持ちでアイシスはハッと息を呑んで頭が後ろの方へ跳ね上がった。アイシスの上空に細い氷の塊がゆっくりと形成され出していく。塊が伸びると先細りし、最終的に見れば危険性が直ぐに伝わる研ぎ澄まされた刃となった。氷の刃がそうやって一個ずつ増えていく。今までは離れたところに氷を出したことはなかった。その事象を見ているアイシスは本当に自分の意思でやっているかどうか今一よく分からなかった。男に触られた時に中から込み上げて来た感覚が勝手にそうさせているのか。それとも···。そう考えている内に氷の刃の出現がどんどん速くなって、その数は刹那に凡そ六十本に達し、膨大な数故に水蒸気が氷に凝華して固まる音が大きく響いた。その音で混乱気味なアイシスは我に返って、空に浮いている凶器の多さを把握した。把握して···これから起こり得る展開について考えた。あの氷の刃を生んだのは自分の意思かどうかともかくとして、止めることは出来たのだろうか。そもそも、止めようと思ったのか。

周りの人は恐怖の目でその光景を見ていた。誰か早くあの魔女を始末しろだの、怒声を聞きながらアイシスもずっと上を見ていたが、今はもうその鋭く光る刃を見ていない。アイシスの目は他に何かを見ているようだげど、それが何なのかは彼女しか知らない。その両目から涙が流れ出る。そして涙が顎を伝って零れ落ちるとその周囲に反響するけたたましくて悲痛な泣き声を上げた。まるでそれを合図に氷の刃が一斉に雨のように群衆の方へ降り掛かった。群衆が散り散りに逃げ出す中、多くの悲鳴が上げられ、そして多くの血も流された。辺りが静かになった頃、アイシスの周りに先まで自分を囲んでいた群衆の半分が倒れていた。体は複数の氷の刃に貫かれ、その殆どが死んでいて、二人か三人は唸り声を出している。残り半分はどこかへ逃げ延びて姿がない。アイシスは依然として上の方を見ている。

「俺と来い。その力は俺達みたいな人の為に使おう」とデイミエンが言ってその場を立ち去る。

アイシスは一回だけ回りを見た。亡骸の海の中にはやけに小さな腕も混ざっていたかもしれないが、アイシスは立ち上がってデイミエンが死体の間を歩くその道を辿る。足元には喉に氷の刃が刺さったギーの体が横たわっていたが、アイシスは気付かない。彼女が見ているのはデイミエンの背中、たったそれのみ。**


「確かに、そうですね。諦められません」とアイシスが苦々しい口調でデイミエンの質問に答えた。

「なら、行くぞ」

アイシスは迷わずにその背中を追った。


才機はさっきの男が親切に教えてくれた指示に従って海が監禁されているはずの場所に向かった。道が別れると毎回右に行けばいいらしい。四回ぐらい右折したら才機は何か見えない力でいきなり空中に押し上げられた。手足を激しく揺り動かしたが下りられない。

「あ!あなたは!」と左から声が聞いた。

そっちに向くと長い間見ていない顔が見えた。交差しているトンネルで一人の少年が壁に手を当てて立っていた。メトハインで才機が庇った少年だ。

「私を覚えていますか?前にメトハインで助けてもらいました」

「あ、ああ、覚えってる」

少年は才機を下ろして駆け付けた。

「なんであんたはここにいる?」と才機が聞いた。

「リベリオンに入ったんです。しかし、あなたもレベリオンの一員だとは知らなかった。あの時は既に入っていましたか?」

「いや···リベリオンの一員じゃない」

「え?じゃなんでここ···」

少年は後ろへ下がった。

「まさか···帝国軍の側に付いてないよね」

才機は何も言わずに少年をただ見ていた。

「否定しないんだ」と少年はいきなりまた才機を空中に浮かせた。

「なんでだ?!なんであっち側に付いてる?!」

「色んな事情があってこうなったんだ。あんたこそなんでこんな連中と一緒につるんでんだ?実家に帰ったんじゃなかった?」と才機が天井に押し付けて何とか足を地面に戻そうとしていた。

「帰ったのさ。でもそこにもいられなかった。メトハインでの出来事を目撃した人の中には私が生まれ育った街の人間もいて、私と顔見知りだった。そのせいで私が異能者だって噂が広がり始めた。それからは毎日のように色んな嫌がらせを耐えなければならなかった。私だけではなく、両親まで脅された。そんな所に住めるはずないだろう!ここだけなんだ、私を受け入れる場所は。ここにいればいつかは私を自分の故郷すらから追い出した奴に目に物見せてやれる!」

才機はため息をついた。

「お互い色々あったみたいだな。俺の話は勘弁してあげる。でもこの先に進めないといけない。通してくれる?あんたと戦いたくない」

「それは出来ない。ここは誰も通すなってジェイガリに任せられた。俺の力はここで認められてるんだ」

《やっぱりいるんだ、ジェイガル》

「じゃ、どうする?ずっと俺をここに浮かせるのか?」

「いや。いずれは私が疲れるからそれは無理。恩義のある人に悪いけどその前に大人しくしてもらう」と少年が才機を勢いよく壁にぶつけさせた。

才機はまだ意識があったようでまた壁にぶつけさせた。意識がなくなるまでそれを繰り返すつもりらしい。才機の方は特にダメージを受けていないが、このままだとずっと身動きが取れない。そこで天井にぶつけられたら手で天井の一部をはぎ取った。作戦はその石の塊を気絶させる程度まで少年に投げつける事。しかし、自分もあっちこっち投げつけられていて狙いが定まらない。でも相手は直ぐにやめる気はなさそうだし、神頼みして少年を目掛けて石を投げ飛ばした。少年は才機からの攻撃を全く予想していなかった為、反応出来なかった。でも石は五十センチほど少年を外した。

「危ない、危ない。壁にぶつけるのをやめにしよう。どの道全然効いてないみたい。この山にはいくつか外に出る穴が空いている。あれを使って山から放り出すしかない見たい。あなたなら命に危険はなさそうだし」

少年は才機を水平に浮かせてから引き摺ってどこかへ連れて行く。そして才機に背中を向けている間、才機はもう一つの手で隠し持っていた瓦礫を持ち上げた。投球するように構えてよく狙った。瓦礫が少年の後頭部に当たった瞬間、才機は急に落下した。立ち直ると才機はうつ伏せになっている少年に近付いた。瓦礫が当たった所を調べたら血は出ていたが少年はまだ生きていた。力の手加減をうまく出来たみたい。六回右に曲がれば海がいる場所に辿り着くという話だったので後少しで会えるはず。その六回目の右折をした直後、才機は大きな半球形の形をした物を見つけた。その中に人がいた。部屋に入るとそれは紛れもなく海だと分かる。寝ているようで才機には気付いていない。才機は今複雑な気分だ。物凄い安心感と憤怒が同時に込み上げる。本当に海と才再会出来るなんて夢みたい。思わず涙が一滴頰を伝った。だが一方では海のその姿は無残だった。彼女は今完全に疲労しているように横たわっていた。寝ているというより失神したような感じだった。服も体も凄く汚れていて、髪の毛がそれ以上なれないぐらいぼさぼさになっていた。心なしか少し痩せていたようだった。海に歩み寄りながら才機は彼女をこんな風にした奴らをぶん殴ってやりたくて仕方がなかった。その時、後ろから声を聞いて才機の足が止まった。

「なるほど、君だったとは。派手に暴れ出してくれたようだね。うちの可愛い若者に容赦なし」

才機の目は左の方を見たけど振り向かなかった。その必要はなかった。今の声は紛うことなきジェイガルの声だった。

「しっかしここまで追ってくるとはね。何?復讐しに来た?それともこの女が生きていると知ったのか?」

ジェイガルは才機のそばを通り過ぎて海の方に歩いて行った。才機は答えなかった。ジェイガルは才機に背を向けたまま海を見た。才機は後ろから攻撃しないと信じているか、そもそも脅威と思っていないのどっちかだ。

「だんまりか。まぁ、いい。あ、起こしてしまったようだ」

海はゆっくり目を開けた。ジェイガルの後ろに才機が立っているのを見て、夢か錯覚ではないかと思った。それでも才機を呼ぼうとしたが声が殆ど出なかった。

「さっき、俺達のリーダーの治療をやってもらったんでまだ回復してないようだ。凄いんですよ、この女の力。君だけ独り占めするなんて利己的だね」

「その為に海を拉致したのか?」と才機が聞いた。

「ずばり言ってそうですね。そしてまだまだ働いてもらわないといけないんだ。今俺達のリーダーから直々に命令を受けてきた。この女を連れ出して新しい場所に移転するようにね。だからまだ君に返す訳にはいかない。でも安心して。こんなに助けてもらっているんだ。もう殺すだなんて言わないよ。むしろ、この子に免じてここは君を見逃してもいいくらいだ。今回だけはね。ここまで来た君の気持ちは分からんでもないが、次に無断で俺達の家に邪魔したら、この間与えられた任務を全うする」と最後の方はジェイガルが大真面目に言った。

「直ぐにだ」

「はい?」

「今直ぐに海を返せ」

才機は沸き上がる怒りを辛うじて押えていたようだ。その顔が影に覆われて表情までは見受けられない。才機の声を聞いて海は少し我に返って頭を上げた。

「あのさ、悪い事は言わない。意地張ってないで引け。いずれはこの子を解放するだろう。君はそれを待てばいいんだから。彼女だって君が死ぬのを見たくないだろうよ」

「海は今直ぐに返してもらう」

ジェイガルは吐息をついて海に話し掛けた。

「聞いただろう?私は彼にチャンスをやったんだから恨むなよ」

ジェイガルは二つの短剣を抜いた。

「この前の事は忘れた訳ではあるまい。君は私に傷付ける事が出来ない。逆に私は幾つかかすり傷を負わせるだけで勝つ。今度は救助してくれる仲間はいないぞ。それでもやる気?」

才機はジェイガルに向かって歩いた。

「あっそ」とジェイガルは才機に突進した。

才機を横を通り過ぎざまに腕に傷を負わせた。才機は足を止めて攻撃をしようともしなかった。

「おい、おい、本当にやる気あるの?もう戦意を失ったのか?」

才機は動かず黙っていた。ジェイガルはその背中を見てヘルメットの中で片方の眉を上げた。

「何もしないならこっちから行くよ」とジェイガルはまた才機に襲い掛かった。

いくら才機の傷を増やしても本人は動かない。でもジェイガルは一応警戒していた。可能な限り距離を置いて浅い傷しか与えなかった。

《一体何を考えている、こいつ?全然掛かってくる気を見せない。まぁ、いい。こんなに隙だらけなら止めを刺すか》

ジェイガルは後ろから接近して力一杯短剣を尖った部分から才機の左肩に突っ込んだ。刃が一センチほど才機のガラスみたいな肌に埋まった。血が刀身を流れてジェイガルの小手に移った。

「終わりだな。これぐらい深けりゃ毒は確実に体を回る」

言って、ジェイガルは油断して刺したばかりの腕に捕まった。才機は今ジェイガルの首をしっかり掴んでいる。短剣がまだ肩に刺しているまま、才機は人形でも扱っているみたいにジェイガルを部屋の真ん中にある半球形の所まで引き摺って、その半球形に彼を激しく叩き付けた。半球形は既に壁に付けられているのでびくともしなかったが、その音で中にいる海がぎょっとした。ジェイガルは才機の手を退かそうとしたが無駄だった。力の差は大き過ぎる。

「勘違いするな。俺はお前とやり合うつまりは毛頭ない。俺は海を取り戻す。そしてそれを邪魔する者を即刻排除するだけだ」

才機の右手は拳になり、後ろへ引いた。そして一直線にジェイガルのバイザーにパンチを一発見舞いした。すさまじい音が山の中で響いた。今の音で海の目がすっかり覚めた。夢じゃなくて、本当に才機が来てくれた。海の顔に笑顔が浮かび始めたが、完成までには至らなかった。才機の顔を見ると全く無表情だった。そんな顔をしながら何度もジェイガルのバイザーを力の限り殴っていた、普段虫を殺すのに躊躇う才機が。何となくその何の感情を見出せない顔は怒った顔よりも怖かった。

「無駄な事を。ちなみにそうやって無駄に動くのを勧めないよ。毒がその分早く体を回るだけだ」とジェイガルは余裕を持って言った。

才機はただくり返し殴り続けた。

「おい、いつまでこれを続ける気?言って置くけど鼓膜がちょっと痛いだけだよ」

もう殴られる度にその威力で半球形の後ろの壁に入ったひびが少しずつ広がっていた。実際にジェイガルに危害を加えていないとは言え、才機があんなに平然な顔で抵抗出来ない相手をそうやって叩きのめしている姿は海を怖がらせていた。海は半球形の後ろへ下がって耳を塞いだ。うるさくて耳がそんなに痛かった訳ではない。ただ、才機が情け容赦なくジェイガルの顔を殴る度に、その音が背筋をぞっとさせた。

「そろそろ疲れない?っていうかよく未だに立っていられる。もう毒でいつ倒れても可笑しくない」

「倒れない。この山に入る前に解毒剤を飲んでおいた」

「なっ?!毒が施されてないのにリゼナフィムの解毒剤飲んだら毒みたいなもんだよ?」

「ああ。正直具合がちょっと悪くなってきてたんだ。今の毒のお陰で中和され始めたのかな」

そう言って才機はまたジェイガルを殴り始めた。今までと違う音が混じっていた。ジェイガリのバイザーにも小さなひびが入ったからだ。

「え?」とジェイガルは耳を疑った。

それから才機がジェイガルのバイザーを殴る度にひびが広くなるのが聞こえた。

「あ、ありえない···嘘だろう?!」とジェイガルが焦ってまた才機の手から逃れようとした。

ひびはジェイガルのヘルメットを全面的に覆うようになった。才機は拳を上げ、渾身の力を入れた。それから極まりなく強力な打撃がジェイガルのバイザーを粉々に砕き、ジェイガルの素顔をさらした。ジェイガルは目をつぶってバイザーの破片を顔から振り落とした。目を開けると才機は最後の一撃を加える体勢になっていた。ブロコニウムを粉砕した拳の前ではジェイガルの頭蓋なんてひとたまりもない。

「そう軽々しく買うもんじゃない、人の恨みは。他人の大事なものに手を出す前によく考える事だ。二度と出来ないようにする」

「ま、待って!」

しかし才機は貸す耳がなかった。彼の拳は無防備なジェイガルの頭に向かって飛んだ。

「やめてーー!」

叫んだのは海だった。

才機の拳はジェイガルの鼻に触れていた。鼻が潰される直前で止まった。いや、実際には潰れいてはいたが、まだ不快感を感じる程度だった。

「もう、やめて!人殺しにはならないで!こんな才機は見たくない!見たくない!彼を放っておいて帰ろう?早く帰りたい」

海は耳を覆い、目をつぶりながら地面に向かって嘆願した。

そう言われながら才機ずっとジェイガルをガン見していた。彼の顔は汗ばんでいて歯を食いしばっていた。やがて才機は拳を降ろした。

「海が入っているこれがまだ壊れていないって事はあれだろう?ブロコニウムで出来ている。もっと柔らかい物に変えろ」

ジェイガルは小手を外して半球形に手を当てた。

見た目は変わらなかったが半球形がジェイガルの重さで容易に凹んだから柔らかくなったみたい。ジェイガルを壁の方へ投げ捨てて才機は海の独房に手を当てた。

「その独善的な態度、へどが出るなぁ」とジェイガルが言った。

手をドームに添えたまま才機の瞳だけがジェイガルの方へ向かって何も返事しなかった。

「人の大事なものは常に奪われている。お前の場合は単に大事なものから引き離されただけ。取り返せるだけましだ。どうあがいたって絶対に取り返せない大事なもののあった人がわんさといるよ!!」とジェイガルが怒鳴って手のひらに爪が食い込むほど拳を強く握った。彼の双眸と声にあらわに出ている憤慨からすれば彼もそのわんさといる人の一人なのだろう。

才機はジェイガルの前へ歩いてしゃがんだ。そして拳を固めて、ジェイガルの顔面に突き付けた。

「な、なんだよ」とジェイガルが言い終えてから才機は人差し指で彼のでこをピシッとはじいた。

人を気絶させるには十分だ。

「聞きたくない」

才機は気を失ったジェイガルをそのままにしてまた半求刑に注意を向けた。

元々伸縮性のある物で出来ているみたいで、才機は破るのをやめ、持ち上げて放り投げた。それが地面に落ちる間もないうちに海は才機に抱き付いてきた。石像を抱き締めているみたいで手触りはそれほど気持ち良くないが離れたくなかった。でも海は目を開けると、才機の肩に刺さっている短剣が目に入った。

「あ、肩が···」と海は一旦離れた。

才機は今まで忘れた短剣をしかめ面で引っこ抜き、傷口から血が流れ出た。今の才機は傷が固定していて、肩に開けた小さな穴が閉じない。ゆっくりけど傷が出血し続けた。

「どうしよう、これじゃ何かで結び付けても殆ど無意味だ」と海が言った。

「まぁ、大した怪我じゃない。もしかしたら、こうすれば···」と才機は生身の体に戻った。

そうしたら傷口を閉じてからまた体を固めた。

「まだ痛いけど、これで血が止まったみたい。それにこんな場所だし、しばらくは体をこのままにしておこう。それよりもお前をここから連れ出して早く帰ろう」と才機が海と肩を組んで二人はその場を後にした。

「さっきはごめん。どうかしていた、俺」と才機は謝った。

「ううん。ありがとう、来てくれて。才機は私が死んだと思っているって聞いた」

「思ってたよ。恥ずかしいが、ここに来る当初の目的はあいつの言う通りだった。復讐」

「恥ずかしくないよ。ずっと閉じ込められた私は大変だったけど、才機も結構大変だっただろう?もし私が才機は死んだと思ってたら、多分正気でいられない」

「でもありがとう、止めてくれて。彼をそのまま殺したらいつかは後悔してたかもしれない」

歩いているうちに急に才機がバランスを崩して、横から壁にぶつかった。肩を組んでいた海も道連れになってびっくりした。

「どうした?大丈夫?」と海が聞いた。

「ちょっと力が抜いただけ。薬剤師には注意されたんだけど、やっぱりあの解毒剤を飲んだ副作用か。何ともない時に飲む物じゃないな」

「さっきの毒で中和されたと言わなかった?」

「まぁ、ね。でもそううまくはいかない。ちょっと楽になったと思ったがまだ安心は出来ないらしい」

「私の方が才機を支えるべきかな。と言っても私もまだ完全に体力を取り戻してないし、普段のあんたでも十分重い」

「じゃ、お互い支え合うという事で。今まで通りに」

そうして二人は次々とトンネルを通り抜けた。

「あれっ、ここを通ったっけ?この方向で合ってる?」と才機は海に聞いた。

「私は出口に連れ行かれたのは一回だけだからよく分からない」

「参ったなぁ。一秒でも早くこんな所を出たいっていうのに。こっちに行ってみるか」

そのうち向こう側で外に通じる出口のある部屋を見つけた。

「お、やった。外だ」と才機が言った。

二人はそこを目指したが外に踏み出す直前に止まった。外は外だけど、いつのまにか地上が数百メートル下になっていた。

「そう言えば、さっきこの山にはいくつか外に通じる穴があるって聞いた。これがその一つね」

「何これ?見て。ここからずっと下まで氷の道みたいなのが出来ている。もう大分溶けているけど」

その時、後ろから声が聞こえた。

「俺は毎日見ているよ、その代わり映えしない風景」

海は前よりも強く才機にくっ付いた。才機が振り向いたら人が二人いた。男と女。海のよく知っている二人だけど、才機が会うのは初めてだ。

「俺達、ちょっと迷ったんだけど、出口はどこにあるか教えてくれないか?」と才機が聞いてみた。

「出口はどこにあるか教えてくれないかって?ハハ!これは傑作だ!こんな状況で俺が笑えると思わなかった。海よ。俺は誰だか教えてやれ」と男が言った。

才機は海の顔を伺った。でもその顔は自分の足元にしか向かなかった。

「彼は···リベリオンのリーダー」

「名前はデイミエンだ。お前は誰だか言わなくても見当がつく。そして俺が思っている通りなら、ここがこんなに簡単に侵略されたのも得心がいく。才機···だな?」

「ああ。リベリオンのトップに出会えて光栄だ···そして有り難い」と最後の方は悪意が混じったような口調になっていた。

「お前はどうやってここまだ辿り着いたかは分からない。でもあえて問わない。ここで会ったのは好都合だ。今日という今日は俺達の邪魔をする最後の日だ。アイシス、お前の力を極限まで引き出すから彼を消せ」とデイミエンはアイシスの肩に手を置いた。

才機は周りの空気が急に冷たくなったと思ったら、アイシスの前方につららが生じた。先端の凄く鋭そうなつらら。それがどんどん大きくなった。才機は海を自分の後ろに引きつけた。

「それはやめて欲しいね」とアイシスが言った。

「何が?」と才機は聞いた。

「彼女を守りたい気持ちは分かるけど、今はあんたの後ろが一番危ないのよ?これがあんたを完全に貫いたら彼女まで死んでしまう。安心して。あの子はまだ必要だからあんたしか狙わない」

「そうかよ」と才機はアイシスを直視しながら彼女が言った事の妥当性を計った。

すると、才機はダッシュでアイシスの左へ走った。

「才機!」と海が呼び掛けた。

一発目をどうにか外せたら二発目が来る前に反撃出来ると踏んだ。

「あまい!」とアイシスはつららを才機へ発射した。

直撃。

強い衝撃で才機は壁へ飛ばされた。つららはの先端は才機に当たった瞬間に粉々になった。突き刺さる事はなかった。才機は面食らわされたが、それ以上何ともなかったみたい。

「ほー。確かに頑丈ですね」とデイミエンは才機が立ち上がるのを見た。

「さて。出口を教えてもらうのは取り消しだ。その代わりに、海に何を治させたか教えて」

「はい?」

「だから、海に何を治させたか言え」

「右腕と左足だけど?」

「分かった。今、元に戻す」

才機はデイミエンを目掛けて突進した。

「下がっていろ」とデイミエンがアイシスを左手で後方へ押し戻し、自分から走ってくる才機の方へ歩いて行った。

そして回し蹴りを繰り出した。

デイミエンの蹴りは才機の横顔に正確に当たって、才機はそれを全く予期しなかった分、滑稽に見えるくらいいとも容易く張り倒された。

今の蹴りは痛かった。でもその痛みよりも、実際に痛かった事自体が地面に横たわっている才機を戸惑わせた。

「解せない顔してるね。どうした?もう終わりか?」とデイミエンが才機を嘲った。

才機は立ち上がってデイミエンを注視した。見た目は怪力の持ち主という感じではないが、事実上、才機を蹴って倒した。相当な力を有しているはずだ。しかし攻撃力があってもそれと同等の防御力を兼ね備えているとは限らない。今度、才機はもっと慎重にデイミエンに近付いた。二人はお互いの出方を見ていた。才機は構えてデイミエンの周りを回っていたに対して、デイミエンは余裕そうで構えず才機を視界から完全に出さないようにしていただけ。そこで才機は最もデイミエンの視界に入っていない時を計らって仕掛けた。だがデイミエンはひょいとかがみ、才機のパンチをかわした。それから華麗に才機の背後に出て才機の首筋にチョップを入れた。才機は四つん這いになった。

「まだ気付かないのか?言って置くけど俺は別にべらぼうな腕力を持っちゃいないさ。これは普通の人間の力。まぁ、一般人よりちょっと強いだろうけど、でかい岩とか持ち上げられないよ?」

「才機、腕が!」と海の心配そうな声が響いた。

才機が腕を見るとジェイガルに与えられた傷が出血していた。知らないうちに変形を解けたらしい。才機は傷を閉じてまた体を固めた。いや、固めようとした。でも何回やっても変化なし。まさかと思って、才機は振り返ってデイミエンを見た。

「やっと気付いたみたいだね。お前が俺に突進した時からずっとその姿だった。海からは私の事何も聞かなったのか?いやぁ、待て。海には言わなかったかも。俺は周りの異能者の能力に影響を与えて普段発揮出来ない力を引き出す事が出来る。先のアイシスのようにね。あれほどの力は普段の彼女一人なら出せない。でもその逆も可能だ。異能者の能力を完全に無効化する事も出来る。笑えるだろう?俺は異能者でありながら、異能者の天敵でもある。だけど誰かさんと違って異能者の味方だから異能者の為にこの力を使う」

才機はまた立ち上がった。

「でも才機には触っていなかった。どうやって···」と海が当惑していた。

「だから、俺の周りにいればいい。範囲はそれほど広くないが直接触る必要はない。あぁ。君やアイシスに実際に手を触れているのは単にその方が楽だからよ。こればかりは説明出来ない。他人が持っていない筋肉の力の入れ方を教えようとするようなもんだ」

デイミエンは再び才機の方に向いた。

「俺の武器と言えばこの生身の体だけだ。十年間近くひたすらに鍛え上げてきたこの肉体と技。普通の喧嘩なら自分の腕に自信がある。まだ本調子に戻っていないが、大分良くなった。海の治療を受け続ければ完全に復活出来る」

「治療されたいなら医者に頼め。海は俺が連れて帰る」

「しかし皮肉だよな」とデイミエンは才機の言った事を聞き流した。

「あの時、この能力があると分かっていれば妹は近衛兵に殺さずに済んだんだろう。自分も異能者だったなんて思いもよらなかった。まさか俺のせいで妹が···。いや、断じて俺のせいではない。そんな卑屈な考えをするものか。帝国が悪いんだ!」

「今、本心が出たと思っていいのか?」と才機が聞いた。

「何の事?」

「異能者の味方とか英雄的な事を言って、本当はその妹の仇を討つのが本音なんじゃないのか?」

「ふん。知った風な口を。挑発のつもり?」

「いや、別に。ただお前がやって来たことがその為なら本当に不条理だなと思って。妹が兵士に殺されたから異能者がいない街に嫌がらせをする?どこかの研究員の七歳もなっていない息子を誘拐する?俺と海を殺そうとする?妹の事は本当に気の毒だけど俺は関係ない。海は関係ない。お前が罰そうとしている人は関係ない!」

「関係ないだと?!彼らは俺達への不当な仕打ちに目を閉じ、助けようともせず、俺達を憎んで、いない方がいいと思っている!十分関係ある!関係なかったのはシルヴィアだった!あの子はアリを踏む事すら出来なかった凄く優しい子だった。異能者狩り事件が起きたあの日、俺達はただ夕食の材料を買いに行っていただけなんだ。妹が異能者だってことを薄々気付いていたけど、他人なら知る由もないような能力だ。肌の色がほんの僅かに変えるだけだ。それも極ゆっくりにだ。気付いたとしても少し日焼けしたとしか思わない。それでもあの日にあんな法律が施行されるって知ってたら外には出さなかっただろう。どの肉を買って帰るか選んでいる時に三人の兵士が逃げていた少年を捕らえた。十六歳にもなっていないであろう少年だ。どうやってかは分からないけど彼は兵士の一人に傷を負わせて抜け出した。少年は止まらないと撃つという兵士の忠告を無視して俺達の方へ逃げてきた。そして俺達の横を通り過ぎる寸前に弾丸が彼の後頭部に埋め込まれた。もう少し近かったら妹はあの少年の血を浴びるところだった。俺達はその死体を恐怖の目で見詰めていると兵士がまた叫ぶんだ。『そこの女も異能者。動くな』と。見れば私と手を繋いでいる妹の肌は虹を構成する色んな色に次から次へと変色していた。妹は自分が異能者だって知っていたかどうかは分からないけど、あの時の現象は初めてのはずだった。動揺した俺があの子の能力を思わず増幅させたのだろう。兵士にどやされ、体に訳わからない異変が発生し、同じ境遇で自分と同い年の男が目の前で射殺され、そりゃ逃げ出したくなるよ。妹は俺の手を放して逃げると俺も追いかけようと手を伸ばしたが、直ぐに妹の背中にも穴が開いた。血塗れになった妹を拾って周りの人から必死に助けを求めたが誰一人応じない。皆目を逸らして見て見ぬ振りをしていた。そんな最期、不条理ではないと言うのか?!妹の体を引き渡さなかった俺なんて公務執行妨害で逮捕されたよ!」

「妹の事は気の毒だって既に言ったはず。でも結局はそっちへ持って行くんだね」

デイミエンは大きく息を吸って平静を取り戻した。

「確かに妹を失った事が引き金になったかもしれない。殺されなきゃ今頃一緒にメトハインで暮らしいたかもしれない。だがそうだとしても、それで俺が今やっている事は少しでも正当でなくなる事はない。異能者が社会に認められるのに必要な事だ。もし今、妹と一緒に暮らしていたとしても俺達はきっと今の俺みたいな人が現れるのを待ち焦がれていた」

「そうやって自分の考えを他の皆に勝手に押し付ける。お前と意見が合わない人は幾らでもいる。異能者を含めてね。妹だってお前が言うほど優しい人だったらこんな事を望んでいないはずだ」

「俺の妹はもういない!向こうがあっちの考えを押し付けたからだ!向こうがこの戦いを始めたんだから俺が終わらせてやる!俺のやり方で!」

「だからお前の戦争に巻き込むなと言ってんだよ!海を!俺を!手段を選ばないんならやっていることは同じだろうが!」

デイミエンは溜め息をついた。

「話して分かり合えるならこんな事にはなっていないだろう。ここはもう近衛兵がうじゃうじゃいやがる。海は見つけたし、お前とゆっくり議論する暇はない。さっさとお前を始末してここから離れるんだ」と今度はデイミエンが仕掛けてきた。

才機はもう能力に頼れない。自力で切り抜けるしかない。そう思ったらパンチを繰り出してきたデイミエンの手首とシャーツを掴み、そのまま一本背負いを決めてデイミエンを投げ倒した。デイミエンは反応が早くてぎりぎりで片手を使って受け身でダメージを軽減した。転がって逃げるとデイミエンは体勢を立て直した。

「ただの能力にすがるちんぴらじゃなかったようだな。なら全力を持って相手をしよう」

デイミエンは攻撃を続行した。今度は容赦なくパンチとキックの連鎖で才機を圧倒させる。才機はガードしか出来ないのにガードし切っていない。デイミエンの攻撃の半分がうまく才機に当たっている。柔道だけを使った戦いなら才機は対抗出来たかもしれない。でもデイミエンは有りと有らゆる技で攻めてくる。ある時は空手じみた、ある時は拳法じみた、またある時はムイタイじみた攻撃で襲い掛かる。流石は九年越しの武道家。しかもこれでも本調子ではないという。その九年間の内、最後の二年は一体どんな執念で訓練したのだろう。才機の体力はどんどん減っていて遂に倒れた。デイミエンは無防備な才機に止めをさすつもりのようだ。そのデイミエンの周りに柔らかな風が出てきた。風が急に強くなって、デイミエンの髪と服を掻き乱した。彼は海の方を見ると彼女の手はデイミエンに向けていた。デイミエンの海を見る目は細くなった。すると突如現れた風は同じように忽然と消えた。

「そこで大人しくしていて下さい。もうすぐ終わるから」とデイミエンが海に言った。

どうやら自分の能力の範囲を広げて海も含めるようにした。知らないうちにアイシスは海の後ろに回って海を拘束した。右腕を捩じられて背中の後ろに持って行かれ、更に首をしっかりアイシスの腕で絞められた。完全に身動きが取れなくなった。才機は四つん這いになって、側に立って自分を見下ろしているデイミエンを見た。素手でデイミエンに敵わないのが嫌というほど分かった。ここで負けて、再会出来たばかりなのに海をまた失うと思うと悔しくてたまらない。デイミエンが皆に与えている苦しみをデイミエンに味わわせてやりたい。才機一心にそう思った。

「まだそんな反抗的な目が出来るのか?いい加減受け入れろ。お前の負けだ」とデイミエンは絡み付けた両手を持ち上げて才機の背中に振り下ろした。

《ちっくしょうー!》

と思ったら、後ろから攻撃を受けたデイミエンの方が才機の上に倒れた。

「誰だ?!」とデイミエンはさっと後ろを向いた。

誰もいない。デイミエンとアイシスが入ってきたトンネルしかない。デイミエンは立ち上がって左から右へ見回した。

「近衛兵か?!出て来い!」

アイシスははてな顔でデイミエンを見ていた。デイミエンが背中を才機に向けている今がチャンス。この隙を狙って才機は立ち上がり、後ろからデイミエンを攻撃した。でも才機の動きは全部デイミエンの耳に届いていて、やっぱりよけてアッパーカットで反撃した。ただ、デイミエンの拳が才機の頭を後ろに逸らした瞬間、倒れたのはデイミエンだった。才機は何もなかったかのようにデイミエンを困惑した表情で見下ろしている。デイミエンの方は物を言えないほど驚いていて、何度も瞬きして才機をガン見していた。気のせいか、才機の目が微妙に光っているような気がした。

「アイシス!そっちの能力を使えるようにするからこいつに氷の刃を当てろ。でも急所を外せ」

才機が後ろを見るとアイシスは海を地面に投げ捨てて氷の刃を才機の足に投げつけた。刃は才機の脹脛を裂き、切り傷から血が滴り落ちた。それなのに痛そうに脹脛を握ったのはアイシスだった。才機は顔を歪めることすらしなかった。

「何なんだこれは?お前にこんな力はなかったはずだ!」とデイミエンが叫んだ。

「俺も初めて知った」と才機は自分の手を不思議そうに見た。

「今、この戦いで進化したというのか?!ありえない!そうだとしても俺は異能者の力を無効化する。お前は何も出来ないはずだ!」

「よく分からないけど俺に対する攻撃は全部攻撃者に跳ね返るみたいだから、お前のその異能者を影響する力もそうなんじゃない?」

「そんなばかな!俺は認めない。異能者の能力は何であろうと俺はそれを封印する!」デイミエンは立ち上がって才機に歩み寄った。才機より少し背のあるデイミエンは才機の数センチ前に止まり、数秒間お互い挑戦的な目で睨み合った末、デイミエンは才機の目を真っ直ぐ見ているまま手を才機の肩に乗せてからその胃に膝頭を思い切りめり込んだ。手を才機の肩に乗せたのは恐らくその能力を抑えようとしていたのだろうけど、結果デイミエンは自分の腹を抱えながら三歩後ずさりした後、尻もちをついた。

「デイミエン!私が彼の心臓を貫いて一気に息の根を止める!」

「ダメだ!どうなるか分からない。彼が死んだとしてもそのショックでお前まで死にかねない」

「これが天の配剤ってやつかな。形勢逆転みたいだ」と才機はデイミエンの胸ぐらを掴んで持ち上げた。

「そっちの勝利が後一歩のところで悪いがこの勝負は勝たせてもらう」

才機は拳を上げてデイミエンの如何にも悔しそうな顔に突っ込んだ。すると才機はデイミエンを放して尻もちをついた。才機は自分の頬に手を当てて、デイミエンが初めてそうなった時と同じ顔をしていた。二人は地面に座っていて、信じられないという表情をはっきり顔に出しながらお互いを見ていた。

「は···ははは!何だあのふざけた能力は?!関わる事を拒んで高みの見物を決め込むお前には似つかわしい能力だ」とデイミエンは声に怒りと苛立ちを込めて才機に問ったが、最後の方はただあざ笑っていた。

「何が形勢逆転だ?俺はまだ負けてない。攻撃は出来なくても取り押さえる事は出来る。でもそれはお前とて同じだ。俺はみすみすお前が海を連れ去るのを許さない。そしてお前も同じ気持ちのはずだ。ふっ、勝たせてもらう?ステイルメイトだ、これは」

その時、剣も刀身がデイミエンの肩の上に置かれた。

「いや、チェックメイトだ」とその剣の持ち主が言った。

後ろからやってきたのはルガリオ隊長と数名の部下。

「久しぶりです、リベリオンのリーダーさん」

「デイミエン!」とアイシスは空中に氷の刃を生成した。

「大人しくしてもらおうか?お前のリーダーがここで散って欲しくなければ。ま、この人を始末する口実を与えてくれるというのなら全然構わないんですけど」とルガリオは剣の刃をデイミエンの喉笛に当てた。

アイシスは怒りで爆発しそうだったが、仕舞いには浮いていた氷の刃は害を及ばずに地面に落ちた。兵士達がアイシスを囲んで拘束し、デイミエンも両手を縛り付けられた。ルガリオはその部屋を見回し、才機、それから海を見た。

「なるほど。そういう事ね。何で急に我々を肩入れしたいなんて言い出すかと思ったんだが」

ルガリオは兵士達に向けて告げた。

「これでリベリオンの首謀者も確保出来て任務終了。捕らえた異能者の護送の準備が出来次第、首都に帰還せよ」

ルガリオを含めて兵士達はデイミエンとアイシスを連行して撤退した。それを見た才機と海は自分が迷子だって思い出したら慌てて後を付けた。だが才機が走り出して間もなく、また直ぐに倒れた。四つん這いになって自分の胃と足を握った。

「どうした?大丈夫?」と海が聞いた。

「大丈夫、じゃないかも」

才機はそれまで攻撃者にはじき返していた痛みを感じ始めた。

「やばっ、置いて行かれちゃう。手を貸し手くれる?」と才機が頼んだ。

海は才機の腕を自分の肩の上に載せて引き上げた。才機は殆ど力が尽きていたみたいで、かなり重かった。でも何とかそうやって兵士達の足音を頼りに出口まで辿り着いた。そして久しぶりに空の下に出ると海は思いがけない歓迎を受けた。入り口の下に沢山の兵が集まていて、盛大な声援で二人を称えているようだ。どっちかという才機を称えていたけど。

「よくやってくれた!」

「あの反乱者どもを見事打ち噛ましてやった!」

そういった賞賛が次々に述べられた。混乱した海は下の兵士達を見回し、それで状況が掴めなかったら、次は周りを見て事情が分かるような何かを探した。見たのは兵士達が意気消沈した人達を集めて何台の装甲車に詰め込んでいる様子だった。喚き声が海の注意を引いた。元凶の方を見ると見覚えのある人だと分かった。装甲車に続く行列の中に、初めてここに来た時に会ったあの三人母子家庭がいた。息子は母親のそばにいるけど、その妹が見当らない。

「娘が!娘が!」と母親が半狂乱に叫んで手を山の方へ伸ばしていた。

「えい!早く入らんか!」と母親を押さえていた兵士は手荒く装甲車に入れ込んでから続いて泣いている息子を持ち上げて一緒に入れた。

海がここでずっと目の当たりにした惨めさや苦難は走馬灯のように駆け巡った。兵士達の声援が何となく頭痛を起こすようになってきて海は耳を塞ごうとした。

「どうかした?」と才機が聞いた。

「もう、やめて」と海が小さな声で言った。

「ん?何を?」

「やまて、やめて、やめて」と海の声がだんだんと大きくなった。

才機は心配そうな目で海を見た。

「もう、やめてよ!!」と遂に海は下方の兵士達を黙らせるような大声で叫んだ。

才機だってびっくりして危うく足を崩しそうになった。

「何よ、皆して?!何がそんなに嬉しい?!何もかも失った無防備な人達を苦しめるのがそんなに楽しい?!訳分かんない!あんた達がそうだから皆はあいつの歪んだ理想像に縋り付くんだよ?!」

今度は賞賛の代わりに野次が飛んできた。

「誰だ、あの女?」

「見た事ないよ」

「リベリオンの捕虜か何か?」

「偉そうに言って誰だ、あんた?」

「異能者のシンパは引っ込んでろ!」

海はちょっと不気味にくすくす笑い始めた。

「異能者のシンパ?あんた達は立派な異能者だそのものだ!」と海が言い切った。

「はー?何だよこの女?頭可笑しくない?」

兵士達が笑い出した。

「ずっと考えてた。人のオーラを見るとなんで穏やかなのと活発なのがあるかって。もしかしたらと思ったけど、ここで過ごして確信した。活発してる方は異能者の物だ!」

「おい、何訳わからないこと言ってんだ?」

「あんた達の中に異能者が沢山いると言ってるの!私には分かる。そしてここだけじゃない。メトハインにだって異能者は結構いる!皆はただ隠しているか、その能力が地味過ぎて自分でも気付いてないだけ」

「何だよ、それ?そんなふざけたことあるか!」

「そう、あんた!あんたもそうだ!」と海はその兵士を指差した。

「で、でたらめ言うな!俺が異能者何かじゃねぇ!」

「あんたも!あんたも!そこの二人もだ!」と海が立て続けに兵士を指名した。

指定された兵士達の反応は二つに一つ。怒るか否定するか。

「言い掛かりをつけるのはいい加減にしろ!」

海の後ろから威圧するような声が出てきた。ルガリオ隊長の声。

「お前ら!何こんな所でぐずぐずしているんだ?ここでの任務が完了したんだ。さっさと出発する準備をしろ!」

兵士達は速やかに散らばって自分の持ち場に向かった。

「俺の隊の中で不信感を生み出すような発言を控えてもらおう」とルガリオが海に言った。

次の言葉を才機に向けた。

「衛生兵はあっちだ。その傷の手当てを受けるかどうかは任せる」

それだけ言ってルガリオはその場を離れた。

海はむしゃくしゃしていて泣きたい気分だった。

「おい、気にするな。俺は格好いいと思ってたぜ」

才機は海の肩に乗せていた手で海をより強く手繰り寄せた。海は才機に抱きついて目を才機の肩に埋めた。才機も同じく海を抱き締めてその頭を優しく撫でた。

「ママーーー!」

子供の泣き声で海の頭が跳ね上がった。山の中から女の子の手を引いている兵士が出てきた。先ほどの母親の娘だ。二人が海と才機の側を通りかかったら海は「ママが捜してたよ。直ぐに会える」と言ってあげたかったが、今の彼女には届かないだろう。聞いてくれたとしても実際に会えるかどうかは分からない。その子は同じ言葉をずっと繰り返し、他の皆みたいに装甲車へ連れて行かれた。母親と違う装甲車へ。でもあの子が無事だと知って海は少しだけほっとした。

「捕まった皆、どうなるのかな?」と海が言った。

「さぁ。メトハインに異能者はいちゃいけないから、小物を放り出して幹部の人を処刑でもするのかな」

「まさか全員処刑されるはずないよね?何もしてない子供達もいる。異能者じゃない人だって」

「それほど冷酷だとは思いたくないけどね。さ、俺達もそろそろ帰ろう」

「うん。その傷も手当てしてもらおう」

二人は衛生兵がいる方に向かった。


才機と海が海が捕らえられていた部屋を出てから少し時間が経った後、壁を背にして床に座っていたジェイガルはまだ意識が彷徨っている状態で声が聞こえた。自分の名前を呼ぶ頭の中の声。

「ジェイガル」

「ジェイガル」

「ジェイガル」


**「ジェイガル。ジェイガルってば!」と幾ら呼んでも本人が起きないから女性はその肩を揺さぶる。

「ん、あ、ごめん、プリス」とテーブルの上に自分の腕を枕にして寝ていたジェイガルが目を開けた。

「もー、せっかくジェイガルが皇居の研究施設の研究員に任命されたことを祝っているのに。そりゃ凄い行列で注文するのに大分待たせたけど、さては昨夜また徹夜で本読んでたでしょう」

「はい、読んでました···。でもそれだけじゃない。ここは陽射しが凄く気持ちよくて眠くなくても夢の世界にいざなわれてしまう」

「ふーん。何の夢?」

「本の夢···」

「ジェイガルらしいだね」とプリスがジェイガルに優しく微笑みかける。

「まぁ、別にいいんだけどさ。料理が来るまでは二度寝する?」

「いや、もう大丈夫です。夢より現実世界でプリスと話したい。ここは有名な店だって?」

「うん。友達が皆そう言っていた。ここの料理凄くうまいんだって」

「あの長蛇の列を見れば説得力あるな。普段は食べ物にそれほど興味が湧かないけど、これはちょっと楽しみかも」

「お、あのジェイガルが本以外に興味を示すとは。これは責任重大ね。もしこれで頬っぺたが落ちなかったらジェイガルは一生食べ物に期待を持つことは二度とないかも」

「あり得るね。でも大丈夫。食べ物に興味を持てなくても本以外に興味を持つものは必ず存在する」

「へー、例えば?」

「プリスとか」

プリスが鼻で笑った。

「君がそういうことを言う性格だったっけ?」

「たまにはいいだろう。事実だし」

「そうですか。ありがとう」

その時、周りがざわついてきた。見れば多くの人は空の方に注目している。

「あれ、なんだろう?」とプリスが聞く。

ジェイガルは目に手をかざして陽射しを遮り、雲のない青空を見上げる。遠い空に小さな黒い点があった。目を細めてよく見ると星のような形をしている。爆発?

「まさか···」

「ん?何か分かるの?」

「研究施設で聞いた話。まだ正式に発表されていないが、確か今日はロケットを打ち上げる予定だったはずだ。それで色々事件を行って成功したら医学技術は飛躍的に進展するとかで。でもこの様子じゃ失敗だね。残念」

「そうだったんだ。今度はジェイガルがそのプロジェクトに参加して成功に導かないとね」

「いや、私の専門は科学で宇宙工学はからきし駄目だ」

「そう?宇宙工学の本も読んでいそうけど」

「それは否定出来ないが、だからってそんなに大した素養がある訳じゃない。ロケットに積む化学物質はともかくとして、ロケットそのものの爆発を防ぐ為の方法論に詳しくない」

「あら。じゃ、その問題はその辺の有識者に任せて私達はランチを楽しもう」

プリスがそう言うと同時にウェーターが二人の食事をテーブルの上に置いた。魚料理のようだ。

「これが友達のおすすめメニュー。いい匂い」

「では、食べてみるとしよう」

二人はフォークとナイフでそのカレイ目の身の一部を切り取って口に入れる。

「うん、美味しいこれ。評判に負けていないな」

「悪くないね」

「微妙な反応だねぇ。ジェイガルの中では失敗?」

「いや、そんなことないよ。頬っぺたは落ちてないが、美味しいよ、ちゃんと。来た甲斐があった」

「なら良かった」

食べ終わると店を出て肩を並んで歩く。今日の予定は全てプリスが決めたのでジェイガルは行き先が分からない。数分後に辿り着いたのは公園だった。プリスに誘導されてその奥くへ進むと、特に何もない所でプリスが急に止まってジェイガルの方に向きを変えた。

「ここだ」とプリスがジャジャーンと両手を広げた。

「ここ?」

ジェイガルが周囲を見回したが、本当に草と木とベンチ数台しかない。

「私の好きな本を原作とした劇が最近始まったから本当はそれを見てもらうと思ったけど、ジェイガルは疲れているみたいだし、ご飯を食べた後だから途中で寝てしまいそうだ。よって、予定変更で今からお望みの日なたぼっこにしよう」

「ん?別にいいよ、劇で」

「いいから、いいから」とプリスが手近なベンチに座り、ジェイガルも座ろうと言うように隣を手で二回叩いた。

ジェイガルはそれに従って座ると小さな驚きの唸りを上げた。

「気付いた?ここのベンチは席の後ろの方が深い下向きの湾曲になっていて、背もたれも普通のベンチより後ろに傾いている。このベンチをデザインした人は絶対に座る人間を眠らせたいと思っていた。木陰になっていないし、日なたぼっこに打って付けの場所だ」

「確かに、それには反論できないな」

「ここは図書館に近いからたまに昼休みはここで過ごしてさ、うっかり寝てしまって危うく寝過ごして昼休みから戻るのが遅くなるところだったことがある」

そう言うとプリスはジェイガルの肩に頭をもたせ掛けて目を閉じた。せっかくのデートで二人は昼寝をするらしい。

《ま、私達はこれがお似合いか》とジェイガルがプリスの顔を見る。

ジャンルは違えどプリスはジェイガルに負けない本好きで、二人のデートの大半は家デートでどっちの家であっても軽く夕飯を作って、後はソーファで一枚の毛布を共有して本を読む。会話がそんなになくても隣にいるだけで安心感を味わい、心が確かに満たされる。今日みたいにたまに外に出ていつもと違う経験をするが、それは主にプリスが友達付き合いを円滑に行う為で、自分で楽しむのは二の次な気がする。本ばかり読んでいてはそれ以外の会話があまり成立せず、ジェイガルと違ってプリスの友達は読書家ではないそうだ。思えば二人の出会いも本がもたらしてくれた。この日から遡る二年前。科学技術大学院大学から家まで歩く時間も惜しいんで大抵は本を読みながら家に帰る。だが、そういう風に考えるのジェイガルだけだはなく、ビルを沿って歩いているとその角でぶつけ合ったプリスも同じく本を読みながら歩いていた。二人が衝突すると二人共本を落とし、プリスに至っては持っていたペットボトルも同時に落とした。最悪なことに二人の本は開いた状態で表向きに地面に落ち、その上にペットボトルが落ちて転がりながら中身をドクドクとページの上に流し出す。

「あ、ごめんなさい!前見ていなくて!」とプリスが謝る。

「いいえ、こっちにも非があるので」

「大変!本が!」

「まいったなぁ。こりゃえらいことになったね」

「あの、私についてきてもらえますか?この本を何とかします」とプリスが濡れた二冊とペットボトルを拾い上げた。

「え?ああ、構いませんよ」

プリスがジェイガルを連れて行ったのは近くの図書館だった。二階に上がってある部屋に入った。プリスは本を机の上に置いてジエイガルにそこで待つようにお願いした。戻ってきたプリスは大量のペーパータオルを持参して現れました。

「もしかして、ここのスタッフですか?」

「はい。濡れた本を綺麗に乾かすのは時間との勝負ですから私を真似してご自分の本を乾かして下さい」

「おぉ、分かりました」

「こうやって十、二十ページごとにペーパータオルを挟んでいきます」

ジェイガルは自分の本を取り、プリスに言われた通りにした。

「本全体に染み込むほどの水じゃなかったので、真ん中の部分だけでいいみたいですね。次は平置きにして抑え込んで水分を吸収します」とプリスが両手で本を上から優しく押した。

これもジェイガルが見よう見まねで再現した。

「次はペーパータオルを敷いてその上に本を開いて立てる。ページをなるべく均等に広げるようにしてね」

ジェイガルがそうしている間にプリスはフォルダーを二枚持ってきて一枚をジェイガルに渡した。

「最後はそれを使って扇ぐんです」とプリスが机の椅子を引き、そこに座って扇ぎ始めた。

ジェイガルは隣の机の椅子を持ってきて同じく本に向かってフォルダーを上下に振る。

「詳しいんですね。流石図書館員」

「これくらいは図書館員になる前から知っていたんですけどね。昔から本が大好きでいつも読んでいます。そうなるとこういう事故がたまにあっても仕方ないことです。その本、教科書のようですが、生徒ですか?」

「ええ。私も本が好きで、その甲斐あって学問には多少秀でて今は科学技術大学院大学で勉強しています」

「凄い。私の場合はそういう難しそうな本ではなく、小説などを読む方です」

「そういうのもたまにいいですね」

「一番好きな本はありますか?」

「そうですね。高校の時に読んだ『今、俺と···』が特に印象深かったかな」

「私もそれ読みました!いい話ですよね〜。人間って頑張れば本当にどんな困難でも乗り越える力があると思わせてきます」

「思わせますね。こっちだけの話···少し、泣けました」

「どの辺ですか?待って、私が当ててみます。最終章の前の章でゲリーとジェニーが遂に」

言い終える前にジェイガルは大きく頷いて肯定した。

「やっぱり!あれは感動しましたよね〜。思い出すと胸がキュンとなってきます。私も泣きました、はい」

「あなたの一番好きな本は?」

「ん〜〜、難しいですね。候補はがあり過ぎて一つだけ選ぶのは辛いですが、あえて言うなら···『三つの風が吹いた日』」

「ふむ。それは読んでいないですね」

「絶対オススメですよ。どんな人でも一度は読んだ方がいい。ルヴィアの皆が読んでいたら世の中は絶対によりいいところになるはず」

「へ〜。どんな本ですか?」

「それはですね···いや、どんな些細なことでもネタバレしたくありません。もし読んだら先入観を一切持たずに読んで欲しい」

「ふん〜。顔は『語りたいです』って言ってますけど」

「めちゃくちゃ語りたいです」とプリスが率直に答える。

「気になりますね、その本」

「気が向いたら是非読んでみて下さい。後悔しませんから。でも今は話題を変えましょう。えっと〜。あなたは食べながら読む方、それとも食べながら読まない方?」

「食事しながら読むのはしょっちゅうですね。というか、読まない方が稀ですね。間食しながら読みませんけど。間食はそもそもあまりしませんから。本に集中し過ぎて小腹がすく程度なら気にならないし、食べるのにその集中力を割きたくないです」

「私と逆ですね。食事しながら本は読みませんが、本が汚れちゃうかもしれないからいけないと分かってもおやつを食べながら読書しますね」

そうやって夢中で喋っていたお陰で一時間が経っても本を扇ぐという単調作業が少しも嫌に感じなかった。

「そろそろペーパータオルを取り替えましょう。そうしたら窓を開けておくから本を一晩窓の近くに置きましょう。明日はまた取りに来て下さい」

翌日、ジェイガルは先日より早目に図書館に行った。勿論、昨日図書館に来たのは初めてではなかったが、プリスに見覚えがなかった。今までたまたま会ったことがなかったか、会っているとしてもあまり気に留めなかっただろう。貸し出しデスクにいるおばさんのところに行って、そこで気付いた。あの人の名前を聞いていなかった。おばさんに彼女の特徴を教えて直ぐに分かったみたい。

「ああ、プリシラね。ちょっと待ってください」

《プリシラっていうんだ》

おばさんが戻ってくるとプリシラが間も無く来ると伝える。二分でジェイガルの本を持ってプリシラが早歩きでやってきた。

「はい、本はもう乾いているので、家に着いたら横にして上下を板か何かで挟んでその上に重いものを載せて下さい。そのまま一日放置すれば大丈夫です」とプリシラが本を渡した。

「まだ終わっていなかったんですね。分かりました。えーと、家に帰る前に借りたい本があるんですが、『三つの風が吹いた日』でしたっけ?」

プリシラの顔がパッと一段と明るくなった。

「かしこまりました。少々お待ち下さい」

プリシラが例の本を持ってきて表紙の裏の伝票を取り出した。

「お名前を伺ってもよろしいですか」

「ジェイガルハラウィツです」

プリシラはその名前を伝票に書き留める。

「返却日は今日から一週間になります」

本を渡すとプリシラが言い足した。

「そういえば名前を言いませんでしたね。プリシラと言います」

「プリシラですね。では、自分はこれで」

ジェイガルが手を振って去るとプリシラは振り返して見送る。

三日後にジェイガルは図書館に戻った。貸し出しデスクにちょうどプリシラがいて呼び出す手間が省けた。

「こんにちは」

「あら、こんにちは」

「プリシラの言う通りにしたら本はすっかり元通りになりました。ありがとう」

「良かったです。これでジェイガルも濡れた本の対処がばっちり出来ますね」

「ええ。これ、細やかなお礼ですが、良かったらもらって下さい。ただのチョコレートですが、一口サイズで砂糖菓子でこーティングされているから本は汚れないかと」

「いいんですか。ありがとうございました」とプリシラが満面の笑顔でそのお菓子を受け取った。

「それから、これ」とジェイガルは三日前に借りた本を返却した。

「早い!もう読み終わったんですか?」

「ええ。それで···その···」

ジェイガルは落ち着きなく頭を掻き始めた。

「もし良かったら···この後、食事しながら感想を聞いて頂けないでしょうか」

プリシラは最初驚いたが、視線を下ろすと少し赤面しながら先ほどよりずっと控え目な笑みで「はい」と答えた。


それがジェイガルとプリシラが公園のベンチで一緒に日なたぼっこする事態に至った経緯だ。ジェイガルはベンチにもたれてプリシラ同様目を閉じ、太陽が射す光の温もりとプリシラが発する体温の温もりを噛み締めた。


数週間後にジェイガルは慌てた様子でプリシラの住むアポートにやってきてドアを激しくノックする。

プリシラが対応に出ると少し青ざめたジェイガルの顔がそこにあった。

「どうしたの?何かあった?」

「入っていい?」

「ん?え、ええ、もちろん」

プリシラが脇に退いてくれるとジェイガルが中に入り、プリシラを通り過ぎてからまた彼女に向く。

「プリスは最近どう?何か変わったことはない?」

「特には···」

「この間の爆発したロケットの事件で、特定の人は突然変異が生じる可能性があるって発表があっただろう?」

「うん」

「私···特定の人みたい」

「え?何か変異が起こったの?」とプリスがますます心配顔になった。

ジェイガルは周りを見ると近くにあった鉛筆を人差し指と親指の間に挟んでプリシラの目の前に持ち上げた。するとその鉛筆はまるで靴紐みたいにぐにゃぐにゃになって指の間でぶら下がる。

「どういうこと?」

「何か···触ると分かるんだ、構造が。それだけじゃない。操ることも出来る」

「気分は?」

「気分は···別にいつもと同じ」

「何か変な副作用がなければいいが···医者に診てもらう?」

「こんなの医者はどうにも出来ないよ。でも、さ。直してもらえるとしても、これはこのままにしたいかも」

「なんで?」

「触るだけ物質の構造が分かるんだぞ?化学者にとってこれ以上便利な能力はあるか?研究は一気に進む!」

ジェイガルの顔には歓喜と呼べるような表情はないが、その能力が持つ可能性で興奮はしている。

「危なくないなら···それでもいい···かな」

「危険は特にないと思う。有機物には効果がないみたいだから間違って他人に害を及ぼすことはない」

「ジェイガルがそう言うなら···」

そして研究は確かに進歩した。ジェイガルの新しく得た能力のお陰で色んな発見がどんどん出来て、学界で多大な功労を成した。それを妬ましく感じて快く思わない同僚もいたけど。全てその変な能力のお陰で、本人を優れた化学者として認めていない。だが、化学の深い知識あってこその成果だ。ジェイガルはこの分野に精通しているからこそこの能力を活かすことが出来る。一方、研究で多忙になったせいでプリシラと会う時間がかなり少なくなった。プリシラがそう訴えて、二人が辿り着いた解決策は同棲することだ。場所的にはプリシラのアパートの方が便利だったのでジェイガルはプリシラのアポートに引っ越すことになった。これで夜は毎日一緒に入られて二人はそれまでにない幸せを掴んだ。

数ヶ月後、ジェイガルはいつもより暗い顔で帰ってきた。

「どうしたの?何か浮かない顔だね」

「何かさ、最近異能者への風当たりがかなり強くなってきただろう?」

「うん、そうね。でもそれは危ない異能者に対してでしょう?ジェイガルがそんなに気にする必要はないのでは?」

「どうかな。最近は見境なく異能者を糾弾する団体が現れていて王宮の前で抗議運動を起こしている。ちょっと不安だ。私が異能者だってことは誰かに言った?」

「一応、両親には言ってある」

「それだけなら問題なさそうだけど、今度会ったらあまり言い触らさないように言っておいてくれる?」

「いいけど」

ジェイガルは椅子に座っり、テーブルに両肘を立てて寄り掛かり、組んだ指に口元を持っていった。

「ご飯が用意してあるわ。少し食べる?」

「ん?ああ、そうだな」

「それから、ちょっと知らせがあるんだけど、せっかくこの間ジェイガルにここへ引っ越してもらったのに···また引っ越す必要になりそう」

「え?なんで?」

「その···ここだとちょっと窮屈過ぎるかも、三人には」

「三人?」と最初はジェいガルが当惑した表情を見せたが、その目は直ぐに大きく見開かれる。

「お前、ここんところ具合が悪かったのはそういうことだったのか?」

プリシラは静かに頷く。

ジェイガルは椅子から飛び上がってプリシラを抱き締めた。先程の暗い顔は嘘のように消えていて今は抑えられない笑顔が張り付いてる。

「お前って奴は一体どれだけの幸せを俺にもたらせば気が済むの?」

「いや、今回はあなたが少なからず貢献したと思うよ?」

もう少し家庭に適した間取りのある住まいを探して引っ越すのに三週間が掛かった。それから一週間後、猪者狩り事件が起きた。

その日を皮切りにジェイガルは必要以上に外に出るのをやめた。研究所にいる時間も減らし、或いは行かなかった。そして四日目の夜、ジェイガルが書斎で読んでいた時に玄関でノックする音がした。

「どなたですか」とプリシラがドア越しに尋ねる。

「近衛兵です。ここを開けろ」

「え?近衛兵が何の用?」

「開けろ。命令だ。開けないならドアを押し破る」

プリシラは仕方なくドアを開けるとそこにライフルを背負った三人の兵が立っていた。兵士達は押し掛けて周りを見る。

「ジェイガルハラウィツはここに住んでいるはず。今どこにいる?」

「書斎にいるんですけど、なんなんですかこれは?」

兵士達はプリシラの質問の無視して奥へ進む。机に座っている男性がいる部屋を見つけるとその中に入る。

「あなたがジェイガルハラウィツで間違いないか?」

「なんで近衛兵がここに?」

「質問だけ答えて下さい」

極端に不安な顔をしてプリシラは書斎へのドアに現れた。

「はい、私ですが」

「あなたが異能者であるという報告を受けている。取り調べの為に同行してもらう」

ジェイガルが恐れていたことだ。恐らく研究所の同僚が自分のことを密告した。

「そんな···私は王宮研究施設の研究委員!大きな成果を挙げてきたんだ!」

「皇帝が発した勅令により異能者はこのメトハインから追放されることになった。抵抗すれば実力行使に出ざるを得ない」

「私の研究は始まったばかりだ!まだこれからなんだ!私の今までの努力を台無しにする気か?!家族だってこれから支えないといけない!」

「抵抗する意思があるということで宜しいですね?」と前に出ていた兵士が手を上げると後ろの二人がライフルを構えた。

「待って下さい!」とプリシラが兵士達の横をささっと通り過ぎてジェイガルのところに行き、彼を庇うように兵士に向かって立ちはだかる。

「お願いです!連れて行かないで下さい!その報告はデマです!この人は普通の人間です!」

「複数人からの証言がある。その真偽は我々が取り調べて決める」

「その者達は嘘つきです!この人は決して誰かを傷付けることような真似をしません!どうか!」

「くどい!というか彼を庇う君も怪しい。君も取り調べの為に連行する」と兵士はプリシラの手首を掴んで引っ張った。

「彼女は異能者じゃない!私が行けばいいんだろう?!」

「いや!放して!」とプリシラが兵士の手を外そうとする。

「抵抗するなと言っただろう!」

兵士は警棒を腰から取り外して先端をプリシラの腹部に強くめり込ませる。プリシラは痛々しい唸り声をあげてお腹を抱え込んだ。それを見たジェイガルの中から言いようのない怒りが湧き上がって爆発した。

「やめろ!!」

ジェイガルは兵士の警棒を掴んだ。次の瞬間、掴んだ部分はジェイガルの手の中で溶けて警棒の上部分が床に落ちた。兵士は驚いて尻もちをついた。

「た、助けて!溶かされる!」

「撃て!」と後ろの兵の一人が叫んだ。

「ダメーーー!!」とプリシラがジェイガルに抱きついた。

銃声が二つほぼ同時に響く。そしてジェイガルは腕の中のプリシラがどんどん重くなるのを感じた。

「プリス!!」

プリシラの目はゆっくり閉じ、その体から力が完全に抜かれる。ジェイガルはプリシラを抱えて両膝をついた。手には生暖かい濡れた感触がある。

「プリス!プリス!」

でもプリシラは反応しない。

尻もちをついた兵士は立ち上がり、背中に付いているライフルを両手に取ってプリシラのあだ名を連呼するジェイガルの頭の上に銃床を叩き込んだ。

それからはただの闇。**


闇が晴れてジェイガルは気が付くと鎧が剥がされて拘束されていた。無意識の間に両手を後ろで縛れてどこかのトンネルに運ばれたようだ。やったのは恐らく二メートル離れた所で自分に背を向けて話し合っている三人の兵士だ。

《負けたか。私達はこんな風に終わるのか?惨めだな。ごめんな、プリス》とジェイガルが自嘲気味に微笑む。

ジェイガルはあの夜から半年が経った頃、メトハインに忍び込んでプリシラの墓を探した時のことをふっと思い出した。その墓を思い浮かぶと、遠に知っていたはずのことを自身の目で確認出来た自分が墓の前で佇んで誓ったことも思い出す。消えかけていた決意を新たにした。

《いや···このままでは終わらない。終わらせるものか》

腕をおもむろに体の脇に戻すとジェイガルの手を縛っていた縄は煮過ぎた麺類のようにあっけなく静かに破れる。足音を立てないようにして兵士達の背後に忍び寄り、それぞれの手を二人のヘルメットの側面に置いて二枚のシンバルのを叩き合わるように頭蓋骨をぶつかり合わせた。防御力を失って紙同然となったヘルメットはその衝撃を緩和するのに何の役には立たない。

「貴様!」と叫んだもう一人の兵士は槍でジェイガルに向かって突き刺したが、ジェイガルはそれを脇で捕らえて奪い、石付きで相手のこめかみに強打を見舞って返り討ちにする。槍を投げ捨てるとジェイガルは倒れた兵士の防具を自分の物とし、着け終わったら槍を拾い直してそのまま暗いトンネルへ消えた。


ルガリオは兵士と話をしていた。

「今日の作戦の結果報告を」

「はい。こちらは怪我人を八名出しています。死亡者一人。リベリオンの方では七人死亡。残りは逮捕に成功しました。ただ···」

「ただ?」

「一人、逃げられた可能性はあります。奥の方では鎧を着けていた者がいて、気絶していたので鎧を外して拘束したんですが、行動の自由が奪われたはずなのに目を離した隙にその者が兵士の不意を着いて防具を盗んだそうです。おそらく、隊に紛れ込んで隙を見て逃亡したかと。あるいは、今でも私達の中に···」

「逃げたと思ってもいいでしょう。一人で何かが出来る訳ではあるまい。帰る準備はもう済んでいるのか?」

「はい、今し方」

「なら皆に引き上げるよう伝えてくれ」

「はっ」

才機と海がやってきた。

「来ましたね、二人とも。一緒に帰るんだったらこっちの車に乗れ」とルガリオは隣の装甲車の助手席に入った。

才機と海は他の兵士達と一緒に後ろに入り、討伐隊がリベリオンの元アジトを後にした。


来る時と同様、皆はお装甲車の中で無言で過ごした。海は才機にもたれ掛かって寝てしまった。起きたのは才機が沈黙を破った時だった。

「あれ、ドリックよね?俺達はそこまででいい」

「隊長?」と運転手がルガリオに伺いを立てた。

「ここで降りたければ好きにさせればいい。メトハインまで同行する義理はない」

ドリックに近付いたら車が止まって、才機と海は降りた。ドアを閉めて、他に言葉を交わさずに装甲車が去って行った。

もう随分遅くなっている。六時といったところか。才機と海は手を組んでドリックの道を歩く。他人から見ればデートから帰る途中のカップル。二人が実際どんな日を過ごしたか誰も想像もつかないだろう。遂に二人は宿に着いた。海がいなくなったことを知っている人はリースとメリナぐらいなもんだから、公表する必要はなく、真っ直ぐ自分達の部屋に向かった。そのリースとメリナの部屋に寄ってドアをノックしてみたが返事はなかった。今は誰もいないみたいだ。自分達の部屋に入ってドアが閉まった途端に才機は溜め息をして後ろから海に両腕を回した。そのままドアに背中を合わせて床に滑り落ちた。海は一緒に引きずり込まれ、才機の立てた膝の間に座った。

「この部屋に帰るのがこんなに嬉しくなれるとは思わなかった」と海が言った。

「海がいなかったこの部屋に帰るのが苦痛でしかなかった。もう二度と放さないから」

「ごめんね、本当に」

「謝るな。海が謝る事じゃない」

二人が暗い部屋にただ座り込み、お互いの温もりを感じ合った。そんな時にぐーーと才機の腹が鳴った。

「あら、お腹すいてるのね。何か食べようか?」

「いや、放っておいていい。今はこうしていたいだけ」

「そっか。我慢出来なくなったらいつでも言ってね」

「あ、そうだ。うまかったよ。海のスープ」

「ん?スープ?」

「ほら、海がさらわれたあの日、残しておいただろう?」

「あ、そう言えば作ったわね。完全に忘れてた。本当は皆で食べようと思ったんだけど、まさかあんな事になるなんて。私が帰った事をリースとメリナに知らせなきゃね」

「二人に悪いけど、今日はもう海を独り占めしたい。明日話そう」

「才機がそう言うなら」

暫くしたらコオロギが泣き始め、本格的な夜が迫ってきた。海にとっては久しぶりの音色で心地良い気分で聞いた。

「明日、作りなそうか、スープ?やっぱり才機と食べたい」

返事がなかったから海は才機を見上げた。寝ていた。海は身を落ち着けて同じく目を閉じた。


    • • •


コンコン

才機と海が目を覚ましたら朝だった。結局一晩中そこから動かなかった。窓から入ってくる光線は眩しくて起きたばかりの人はとてもじゃないが直視していられない。

コンコン

「才機?もう帰ってきてる?いないかな」とメリナの声がしてきた。

二人が立ち上がってから才機はドアを開けた。

「いたんだ。メトハインでの事は」

才機の後ろから海出てきた。

「え、うそ、ほんとう?」とメリナが口に両手を当てた。

「ただいま」と海が微かに微笑んだ。

まだ自分の目を信じられず、メリナは更なる証拠を求めて海の顔を両手で触ってみた。

「本当なのね?よかった〜〜〜!」とメリナが海を抱き締めた。

「ごめんね、心配かけて」

「帰ってるよ!海が帰ってるよ!」と今に泣きそうな顔をしているのにメリナは興奮した子供みたいに才機の腕を揺さぶった。

「お兄ちゃん!お兄ちゃん!海だ!海がいる!」とメリナは自分の部屋へ走って行った。

「ほら、見ろ!」

間もなくリースはその部屋から頭を突き出して、廊下に出た海の姿が見えた。

「ぶったまげた···本当に見つかりやがった」

リースは部屋から出て、海の目の前で海を頭からつま先まで全体的に凝視した。

「って事は、リベリオンに捕らえられたのか?」

「詳しい話は食べながらでもいい?めちゃくちゃ腹減ってんだ」と才機が言った。

「ん?おぅ。じゃ、先に俺の分も注文しておいてくれ。ちょっくら行ってくら」

「どこ行くの?」と才機が聞いた。

「海の墓標を取り壊すに。あんなのがあったら縁起でもない」

リースは階段を下りる為に角を完全に曲がる前に言い足した。

「海、よく帰ってきた」

「ありがとう」

メリナは後ろから海に抱き付いてきて危うく本人を転倒させた。

「私の分もお願いね。久しぶりにちゃんとした風呂に入りたい」と海がメリナの腕に手を添えて頼んだ。

人前でするような話ではないので結局皆は才機と海の部屋で集まって朝食を食べた。

「そうだったんだ。幻影を見せられたとは。それじゃ、誰だって騙されちゃう」とメリナが言った。

リースは椅子に脚を組み、コーヒーを一口飲んでからマッグをテーブルに置いた。

「しかし、俺が凄く気になるのはリベリオンのボスとの対決。もうダメと思った時に進化したのか、才機の能力?」

「そう···みたい」

「で、その状態だと全ての攻撃が敵に跳ね返られる」

「でも、実際にダメージを受けるのは俺。相手に跳ね返られるのは感覚だけだから精神的なものだと思う。何かの催眠術の一種か何かかな。一時的に相手に私の痛みを感じさせながら相手の痛みを俺に感じさせる。跳ね返るのは痛みとは限らないみたいけど諸刃の剣だ。しかも催眠術が解けたら全てが元通りに戻る。負ったダメージが消える訳じゃない」

「って事はもし致命傷を受けたら、死ぬよぬ?」

「そうだろうね」

「ふーーん。でも面白そう。ちょっとやってみよう」

「え?何を?」

「その痛みの交換のやつ。心配するな。思い切り殴る訳じゃない。なんなら才機が俺を殴ってもいいぞ。色々試してその能力をもっと理解出来るかも」

才機は考える仕草を見せた。

「でもどうすればいいか分からない。あの時は勝手にそうなった」

「能動的にやれないか」

「まぁ、あれから試してないから分からないけど」と才機は目を閉じた。

才機は首をかしげて集中しているようだ。すると才機の肌が見慣れたガラス状になった。

「それ、いつものやつじゃん」とリースは才機の堅い肩をトントンと叩いた。

「あ、悪い」

才機は元に戻ってもう一回集中してみた。

「やっぱり駄目だ。その感覚すら覚えてない」

「あったんだな、特別な感覚」

「いや、言われてみれば特に変わった感じがしなかった。いつの間にかそうなっていただけ」

「じゃ、今出来るかも。ちょっと歯を食いしばってみる」とリースが才機の方へ歩いた。

「え?いや、多分出来てない」

「一回殴ってみないと分からないだろう」

「いや、これ絶対出来てないから。何もしてないんだから」

「お前そんな女々しい奴だったのか。分かった。このフォークがあるからこれで足をちょっとだけ刺してみる」とリースがフォークを取りに椅子に戻った。

「なぁ、この実験やめにしない?」

すると床に座っているメリナは寄ってきたリースのズボンを引っ張った。

「別にいいじゃん、そんなの。リベリオンが壊滅した。これで狙われる心配はもう無くなった。前からあいつらのやり方から気に入らなかったんだよね」

「よく言うよ。そのリベリオンから依頼を受けたのは誰だ?」と海がメリナをからかった。

「あれは単にお金の為だった。仕事だと選り好みは出来ない」

「はい、はい。仕事は、ああ!!」

「な、何を急に?」とメリナがたじろいだ。

「仕事だ!どうしよう?!ずっと無断欠勤だった!才機はオーナーに何か言った?」

「いや、何も」

「まずいよ。怒ってるだろうなぁ。もう首にされたかな。メリナ、何か欠勤した絶好の言い訳思い付かない?」

「なんであたしに振るのよ?堅気の仕事やった事ないし」

「だって嘘つくのうまそうだ」

「失礼わね」

「本当の事だけどね」とリースはまたコーヒーを飲んだ。

「無断欠勤する言い訳ねぇ···」

「もう考えてるし」

「これなんてどう?ものすごーく体調を崩して、ほぼ昏睡状態だったのでずっと寝たきりだったとか?まぁ、それを雇い主に伝える事くらい出来なかった才機は随分無責任に見えるけどね」

「病気かぁ。しかし、どうも定番なんだよねぇ。他には?」と海が聞いた。

「それがいやなら、他に言い訳になりそうな事は···テロ集団に拉致されてずっと監禁されていたとか」

「ごめん。犠牲になってくれ」と海は才機の手を握った。

「仕方ないか。任せておけ」

「じゃ、今日は一緒に謝りに来て。私一人じゃ説得力に欠ける」

「お」とメリナが何か閃いたらしく、右の握り拳で左の手のひらをポンと叩いた。

「病気になった原因はオーナーへの感謝の気持ちとしてメトハインまでプレゼントを買いに行ったけど、帰りに何かに怯えた馬から落下して意識を失ったが中々戻らなかった。で、これからなんか適当にプレゼントを買って壊すの。落ちた時に壊れたって申し訳そうにオーナーに渡す。この場合は病気じゃなくて怪我か」

「おお!それいただき!やっぱメリナは頼りになる〜」

メトハインという言葉が出てきてリースはある疑問が思い浮かんだ。

「なぁ、捕らえた異能者達はメトハインに連れていかれてからどうなった?」

「俺達はメトハインまで行かなかったから分からない。ここで降りさせてもらった。どうして?」と才機が言った。

「あ、いや、気になってただけだ」

メリナは何やら好奇の目をリースに向けた。

「さーて。今日は海の無事帰還を祝おうか?」とリースが提案した。

「いいよ、別に。あ、でも今晩は皆で食べよう。腕によりをかけて美味しい物を作ってあげる」

「それ、逆じゃない?あたし達が海の為に何かやらなきゃ」

「気にしないで。本当はあの日、お昼を作ったからさらわれる前に二人を誘うと思ってた」

「分かった。じゃ、あたし達も何か持ってくるね」

「その前に仕事して腹を空かせなきゃ。どうだ、才機、久しぶりにやるか?」とリースが椅子から立った。

「もうちょっと休ませてくれ。今は一分でも長く海と過ごしたい。それに、今日は海と一緒にオーナーに謝りに行こうと思った」

「じゃ、そろそろ行こう。この上遅刻して行ったらまずい。プレゼントも買わなきゃ···」と海が言った。

「今日はいい日になりそうだ。もう二度とさらわれるんじゃないぞ。海が死んだと信じた才機は半分死んでいるようなもんだったから」とリースは部屋を出た。

才機と海がレストランに着いたら、海を知っているウェートレスが駆け付けてきた。

「海!一体どこに行っていた?辞めたの?」

「いや、そうじゃない。この数週間は、ちょっとね。オーナーは奥にいる?」

「うん」

「怒ってた?」

「んーー。まぁ、面白くないのは確かだけど」

「だよね。話してくる」

ちょうど厨房に入ろうとした時にオーナーが出てきた。

「海!どこに行っていた?連絡もなしで」

「申し訳ありません。とんでもない迷惑をおかけしました。少し前まではずっと寝た切りでした。実は馬から落ちて、落ち方が悪かったみたいです。一週間以上意識がなかったらしいです。その間、てっきり彼が私の事情を知らせておいたと思ったけど、どうやら知らせませんでした」

「海の事で心配過ぎて、看病の事以外、何も頭に入ってなかった。まぁ、自分は定職がないせいか、そういうのにあまり気が回らなかった。すみません」と才機が頭を下げた。

「あのー、いつも料理を教えてくれるお礼にお土産を持って帰りましたが、落ちた際にちょっと壊れちゃって、使い物にならないかもしれないけど」

海は鞄から出来のいい木製のお玉杓子を出してオーナーに渡した。カップの部分の近くに柄が折れていて変な角度になっている。

オーナーはお玉杓子を見てから海を見た。

「正直海がいない事でここの能率が下がるのがはっきり分かった。だから三日前にアルバイトを募集し始めたんだ」

「そう、ですか」と海の声に落胆の色があった。

「しかし、まだ誰も見つけておらん。続く気があるならフロアに出てタニャとクレリスを手伝ってやれ」

「はい、ありがとうございました」と海はお辞儀した。

「私からも礼を言います」と才機が言った。

「このお玉杓子はよく出来ている。ちょっと取り繕えば使えるようになる」とオーナーはがお玉杓子を目の前に持ち上げて精査した。

海は奥へ着替えに行った。

「私からも礼を言います」と才機が言った。

「ま、仕事に影響が出ないようにちゃんと看病してくれたんなら相子にしておこう」


海の仕事が上がる十五分前に才機はまたレストランに来て外で海を待った。

「お疲れ」と才機はレストランから出てきた海を迎えた。

「くたくただよ。張り切り過ぎちゃったかも」と海がちょっと疲れそうな顔で言った。

「あまり無理するなよ。ずっと監禁されながら酷使されたんだ。体は多分まだ本調子じゃないんだ」

「でも、突然いなくなった分をどうにか巻き返さなきゃ」

「ほどほどにな。俺とオーナーの間では海を全快させた事になってる。ま、早く帰って休もう」

「駄目だよ。忘れた?リースとメリナを夕食に招いた。先に買い物しなきゃ」

「あ、そうだった。じゃ、荷物運びは俺に任せて」

二人は商店街に行って必要な材料を揃った。宿に戻ったら海は料理を始め、才機は観察側に回った。海がてきぱきとアサリをパージしたり、魚をさばいたりしている姿を見ると才機は感無量だ。

「段違いだな」

「ん?何が?」と海が薄切りにしたニンジンを鍋に加えた。

「今、海がケインの家で作った物を思い出してさ。あの頃の海とは大違いだなって」

「当然よ。あの時、包丁を握るのは初めてだったんだもん。誰かに教えてもらえばそれほど難しい事じゃない」

海はお玉杓子でだしを掬って味見した。

「うむ。こんな感じかしら。才機はどう思う?」

海はお玉杓子を才機の唇の前に持って行った。

「うん、うまい」

「じゃ、後少しで完成だね」

「やっぱりここにいた」とメリナが宿の小さな台所に入ってきた。

「お帰り。リースもいる?」と海が聞いた。

「うん。二人の部屋に誰もいなかったからここで準備してるかなと思って。ん?おお!何これ?いい臭いだ〜」

「シーフードスープ。もう直ぐ出来上がるよ」

「うまそう〜。あれっ、前に海は料理が出来ないとか言わなかった?」とメリナは才機に聞いた。

「言ったっけ?ま、少し前なら俺が言いそうな事だけど。でも嗅いだ通り、今そんな事はない」

「ふーん。手伝う事はない?」

「じゃあ、この食器を私達の部屋に持っていって準備してくれる?はい、鍵」と海が鍵を渡した。

「あいよ」

海と才機が晩飯を持って部屋に戻った頃には準備が済んでいてリースとメリナはテーブルを囲んで座っていた。

「おお、待ってました」とリースが言った。

才機はスープが入った鍋をテーブルの真ん中に置いた。

「メリナが言った通りいい臭いだ」とリースはその香ばしい匂いに気付いた。

「肝心なのは臭いよりも味の方ですよ。好きなだけ装って」と海が言った。

先に海の言葉に甘えたのはリースだった。彼は海のスープを一口食べてゆっくり味わた。

「才機よ、お前って奴は羨ましいー。こんなうまいもん好きな時に食べられるなんて」

「むっ、美味しい!店張って売り物にしたら儲けるんじゃない?」とメリナが言った。

「その店は既にあるんだよ。私はそこで働いてる」

「好評を博してよかったな」と次は才機が自分の分を装った。

最後に海が席について自分のボールにスープを入れた。

「やっぱ温かいと益々うまいな」と才機が独り言を漏らした。

最終的に鍋には何も残らなかった。残り物を保存する心配はなさそうだ。

「ごちそうさま」と才機が空になったボールの中にスプーンを置いた。

「あら、まだ終わってないよ。私達も何か持ってくるって言っただろう?」とメリナは席から立ち上がって自分の部屋へ行った。

戻ってきたメリナは箱をテーブルに置いた。

「じゃじゃ〜ん!」

メリナは箱を開けて中にあるイチゴケーキを皆に見せた。

「うわぁ〜、美味しそう。デサートもあるんだね」と海が手を合わせた。

最初はメリナの顔に大きな笑顔が浮かんでいたが、首をかしげてケーキを綿密に調べ始めた。

「ん?どうしたの?」と海が聞いた。

メリナは答えず、目を細くしてもっと綿密に調べた。最終的にその訝しげな眼差しをおもむろにリースの方へ向けた。リースはと言えばそっぽを向いてメリナの視線に気付いていないようだ。しかし、一瞬だけちらっと妹の方を見て目が合ってしまうと、ほんの僅かに焦るようにまた何もない空間を見始めた。

「信じられない!」とメリナが叫んだ。

「それはこっちの台詞!何そんなにまじまじとケーキ見てんだよ?!」

「開き直るな!お前をケーキと一瞬でも一人きりにしたあたしが馬鹿だった」

「どうしたの一体?」

なんのことやら全く分からない海が再度問う。

「ほら、見てよここ」

メリナはケーキの縁にある複数の生クリームがくるくると盛り上がった部分の一つを指差した。

「他のと比べて微妙に小さいし、形もちょっと歪だろう?そして周りの生クリームが少し凹んでる。こいつ、この盛り上がった部分の上の方を食べて周りの生クリームで誤魔化そうとした!」

「ちょっと味見しただけじゃん。大騒ぎする事ないって」

弁解するリース。

「と言いつつ、隠すのに偉く手間をかけたな」と才機が指摘した。

「そう!それだよ!メリナが注目してる所が違うって。凄い出来栄えだろう?それ完成したら、もー、自分でも感心したよ」

「なーに言ってんだ、あんた?!誰が感心するか!」

「いや、正直俺は恐れ入りました。大した完成度だ。それを見抜いたメリナの目も凄いけど」

才機は改めてリースによる工作を近くで吟味していた。

「ほら、才機が認めてくれたぞ?」とリースが言った。

メリナは溜め息をしてケーキを切り始めた。

「じゃ、お兄ちゃんが手を付けたこの部分はお兄ちゃんので決まり」

「そう、そうすりゃいいんだ。お前はいつも大げさに反応し過ぎ」

メリナはリースの前に皿を置き、皿の上のケーキはその小さな盛り上がった部分から下のみがきっちり切り取られた一切れとは言い難い幅二センチ強の四角柱だった。

「あの···ちょっと···」


    • • •


それからの日々、才機は浮気がばれていつもより気が利く彼氏みたいになっていた。毎日海を仕事場まで同行するわ、上がる時間までに迎えにきてくれるわで、海は一人でいられる時間がほぼ無くなっていた。相手が才機なら本人はそれが別に嫌だとは思っていないが。お陰で才機の方はここのところあまり働いていない。リースから紹介される仕事は四時までに終わりそうになければ全部断っていた。メリナは才機が海を独占し過ぎだと訴えて、海の休みの日を狙って女だけの半日も掛かった買い物に連れて行った事もあった。今日も海と一緒に宿を出かける才機だが、その前にリースに声を掛けられた。

「あ、才機、ちょっと話があるんだけど、帰ってからでいいからここで待ってる」

「おう、分かった」

宿を出ると海が才機に言った。

「私の事ならそんなに心配しなくてもいいよ。リベリオンはもういないし、また狙われる事はないだろう。たまにはリースの仕事を手伝ってあげたら?」

「別にまたさらわれる心配をしていないけど、俺はただ海と一緒にいたいだけさ。それにリベリオンがいなくても他の危険なんていくらでもある。暴れ馬が走ってきたり、逃走中の犯罪者に人質にされたり、窓から何かが落ちてきたりしたら俺がいた方がいいだろう?」

「何それ?ありえないでしょう?結局は心配してんじゃん」

「だって、せっかく取り戻せたんだ。可能性だってゼロじゃないだろう?心配させてくれ」

「ゼロじゃなくてにゼロに等しいよ、そんなの。まぁ、お金は今んところ大丈夫だから別にやれとは言わないけど···」と海が言った瞬間に才機の上に水が打っ掛けられた。

頭上の窓から女の人が二人に呼び掛けた。

「ごめんなさい!ちゃんと見ていなかったわ。花にあげる水だけだから大丈夫よ」

才機は注意深く周りを見た。

「この辺に馬はいないよね?」

「な、ない···と思う」

「店に急ごう」と才機が海の手を引っ張った。


「そういや、この前、異能者とそうでない人は見るだけで区別出来るって言ったね。本当か?」

「うん。その能力はどれほどの物かは分からないけど。単に目を色を変えられる男の子とあのラエルという炎を生み出せる人のオーラは大体同じに見える」

「ふーん。そしてこの街にも紛れ込んでいる異能者は少なくはないっか」

「うん」

「今はどう?結構いるのか?」

「んーー。この辺にはいないみたい。あ、一人いた」

「そうでない人はまだ圧倒的に多いって事ね」

「でもこんなに普通に一緒に暮らしている。その事実を知れば共存出来ると分かるはずなのに、きっと異能者を追い出したくなるだけでしょうね」

店に着いて結局才機の予言は一つしか当たらなかった。無事海を送った後、宿に戻ってリースが言った通り待っていた。

「え?何?雨降ってんの?」

「いや、ちょっとした事故に遭っただけだ」

「そうか。ま、俺が言った話っていうのはお願いだ」

「お願い?」

「そう。急だが明日から俺とメリナはしばらくの間こっちにはいないんだ。いつまでははっきり分からないけど、長くて一週間近く。それで、明後日に予定されている仕事を才機に頼みたいんだが」

「そういう事は任せて。どうすればいい?」

「明後日は十時に市役所に行って、ヴィニーという人にお前が俺の代行だって言えばいい。詳しい事は彼が教えてくれる。そんなに時間は掛からないと思うから四時までに終わるはずだ」

「分かった。しかし、一週間もいないって事はかなりの大仕事だろう?そっちは手伝わなくていいのか?」

「あ、ああ。俺達二人で大丈夫だ。じゃ、明後日の事は頼んだ。悪いな」とリースは席を立って宿を出た。

《久しぶりに一働きするか。どんな仕事だろう。魔物退治?賞金首の捕縛?人質救出?一人で大丈夫かな》


二日後。

「頼んだぞ〜」と頭上の穴から男が才機に呼び掛けた。

「今回ばっかりは俺の能力は全く役に立たないな」

才機の右手にはビニル袋、左手には軍手。

「くさっ!」

才機は今下水道にいる。その仕事とは詰まりかけた排水路の掃除。数々の鉄格子に掛かったゴミや···正体不明な物を取り除く作業だ。口で呼吸しながら才機はビニル袋を少しずつ一杯にした。

《リースはこれがやりたくなくてサボってるだけじゃないだろうな。大体どこに行った?普通、仕事が予定に入ってるなら同じ日に別の仕事を入れないだろう》

そんなにリースを疑っていた訳じゃないが、この状況で愚痴は言いたくなるものだ。いつもプロがどうだとか説いているリースは仕事を放り出すような真似はしないだろう。でもリースが言った通り、そんなに時間は掛からなかった。まだ海を迎えに行く余裕がある。勿論、その前に宿に戻ってシャワーを浴びるけど。

そのまま平穏無事な日は五日経ったが、リースとメリナは帰ってこなかった。六日目には才機が宿で昼を食べていた。海が働いている店で出る物の方が才機の口に合うが、流石に働いている時も才機がいたのでは、海はその顔を見るのを飽きてしまう。それで今日はシーフードスープではなく、チキンサンド。それをかじっている時にリースとメリナが宿に入ってきた。

「お、お帰り。本当に一週間近くいなかったな。大儲けしてきた?」

リースとメリナは才機が座っているテーブルに向かったが、久しぶりに会ったというのに何となく二人の顔がちょっと陰気過ぎるような気がした。

「実は仕事に出たんじゃない」とリースが言った。

「え?あ!まさか本当に下水道掃除が嫌で俺に押し付けただけなのか?」

「下水道?あぁ、そうだ。頼んでおいたな。いや、違うんだ。んー、どっから話せばいい?ただ働きってのはどう思う?」

「え?」

「そこじゃないだろう」とメリナがリースに言ってから才機を見た。

「才機、あんたに力を貸して欲しい」


久しぶりに海は一人で宿に帰ってきた。才機が迎えに来なかったということは恐らくまたリースの仕事を手伝っているという事だから、部屋に入って才機が椅子に座っているのを見たらちょっと驚いた。

「いたんだ。てっきりまた何かの仕事をやっていると思った」

「もうこんな時間か。考え事をしてたらつい時間の事を忘れちゃった」

「ふーん。で、何をそんなに真剣に考えていた?」

「リースとメリナが持ってきた話」

「帰ったんだ」

「うん」

「じゃあ、話って仕事の事?」

「ん、まぁ、ね」

「そんなに悩まないでやればいいのに。言っただろう?私の事は気にしなくていいって。私ばかり稼いでいたら男としてのプライドに傷が付くんじゃない?」と海はからかってみた。

「ギャラは出ないよ」

「え?何?ボランティア?」

「そう考えてもいいかな」

「で、やるの?」

「先に海と相談してから答えるって言った」

「···それって···危険な事をするの?」

「勘がいいな、海は」

「どれぐらい危険?」

「一から十の段階で評価すると、八かな」

「だったらやらなきゃいいじゃん!考えるまでもない」

「でも···やりたいかも。それに、俺がやらなくてもリースとメリナはもうやるって決意した。俺を入れての危険度八。俺抜きだと九や十にもなる」

「なんでリースとメリナがそんな危険な事をやらなきゃいけないの?何の事か詳しく教えて」

「じゃ、まずは、リースとメリナが俺達に黙っていた事がある。二人は異能者に同調する秘密結社の一員だ」

「何それ?リベリオンみたいな集団?」

「いや、そのメンバーの殆どは普通の人間。そしてリベリオンみたいに公然と行動はしない。だから秘密結社。リースとメリナはこの数日メトハインで他のメンバーと密議していたらしい」

「よりによってなんでメトハイン?」

「さぁ。灯台下暗しの原理を応用しているつもりかも。結社の本拠はメトハインにあるそうだ。で、ある情報が手に入ったからその真相を確かめていた」

「ある情報?」

「この間、リベリオンのアジトに仕掛けた襲撃で捕らわれた異能者は非人道的な実験に使われている事。そしてそれが事実だと分かった」

「実験?」

海はリベリオンのアジトで会った子達がモルモットのように扱われているのを想像した。

「彼らは全員あの塔の下の研究施設で幽閉されているそうだ」

「仕事ってまさか皆を脱獄させる事?」

「そのまさかだ」

「無茶だよ!本当に出来るの、そんなの?」

「作戦は練ってあるらしいから不可能って事はなさそうが···少人数で動くから最悪の事態になって失敗しても俺達三人は逃げるくらいは出来るはず」

「はっきり言って私は反対だ」

「やっぱり?」

「当たり前だろう?でも···さっき、やりたいかもって言ったよね?なんでやりたいと思っている?」

「リースとメリナを助けてやりたいのはもちろんの事、気に食わないんだよ、帝国が。勝手に異能者を生み出したのはあっちで、しくじったら事実を隠蔽する。その上異能者になった人を根絶させたがっている。もしかしたらこの実験はその為に行われているかもしれない。異能者を殺害する化学兵器でも作ったら俺達だってやばい。人体実験というのも気に入らないし」

「そこまで考えたんだね。私も実験で使われている人は可哀相だと思って、助けられるんなら助けたいけど···リスクがあまりにも···」

「でも考えてみ。帝国が剣や銃でしかぶつかってこられない。それくらいは俺がいればどうとでもなる。見つかったら捕虜の解放は諦めるしかないけど、脱出するのは十分可能はずだ。全員覆面をすれば正体もばれない」

ベッドの上に座っている海は横になって頭をかきむしった。考え直しているだろうか。才機は飽くまで海に決めさせるつもりだ。海がまだ反対だというのなら彼女の意志に従って側に居続けるまでだ。かなり無茶をしようとしているのは否定出来ない。

「条件がある」と海が言い出した。

「条件?」

「私も一緒に行く」

「え?!なんで?」

「私だけここでずっと心配してるのは嫌だ」

「だからって海まで余計な危険に晒す事はないだろう」

「自分で言ったじゃない。脱出だけは絶対に出来るはず。それにかなり役に立てると思う。見つかったらやばいだろう?私なら回りにどこに誰がいるかは分かる。うっかり警備員とかとばったり鉢合わせするのを防げる」

「···」

「ほら、後、もし逃げることになって誰かが怪我して走れなくなったら私がいれば治してあげられるから足が引っ張れることはない」

「いや、そうなったら治療したお前を担ぐことになるからプラマイゼロだよ」

「んっ。と、とにかく探知において私以上に適している人はいない。才機を入れて危険度が八に下がるなら、私も入れれば六か七には下がるだろう?」

「そう言われると一理はあるが···まじで付いてくる気?」

「大まじ」

今度は才機が頭をかきむしった。

「四人は少人数のうちに入るかどうかはリースに確認する必要があるけど」

「じゃ、私も来るって事でいいんだね?」

才機はどっちかというとここで待っていて欲しい。でもそれを言ったら自分が行くべき論拠が弱まる。

「飽くまで決めるのはリースだ。明日の朝に答えを出すと言ったからその時にリースに聞こう」


    • • •


リースは部屋を訪ねてきた才機と海にずばり言った。

「決めるのは俺じゃないよ」

「え?じゃ、誰が?」と才機が聞いた。

「皆さ。あっちに戻ったら四人目を加えても作戦が成立するかどうか皆で決めないと」

「でも確かに海の能力を考慮に入れれば便利よね」とメリナが言った。

「でしょう?」と海が透かさず言った。

「そりゃ、俺も認めるけど、取りあえずは一緒にメトハインに来ればいい。それからどうするかは皆で話そう。それでいいか?」と最後の方はリースが海に向けて聞いた。

「分かった」

「そんじゃ、飯食って早速向かうとするか」

「私は職場に行って休みをとってくる」

残った三人は下へ下りて注文した朝食を食べていた。

「ありがとうな、乗ってくれて。必ず成功させよう、この作戦」とリースが言った。

「この前帝国と協力した事でまだ悪い後味が残っているんだ。口直しとしてはちょうどいい」

「そうか。ま、どの道よろしくな、相棒」

「あ、海が戻ってきた。オーケーから許可をもらった?」とメリナが聞いた。

「それが···もらうまでもなかった。あっちに着いたら、同僚が扉の前で立ち往生していて、二日間休業ご迷惑をかけて申し訳ありませんってメッセージがドアに掛けられた」

「ふーん。急病か何かかな」

「さぁ」

「ま、良かったじゃない?ほら、海のはこっち。飯を済まそう」


朝食を食べた四人は前と同じペアを組んで二頭の馬を用いてメトハインに向かった。メトハインに着いたら才機と海が連れていかれたのは小さな金物屋。

「ま、少し見回るといい」とリースが提案した。

才機と海は特に必要な金属製品がなかったが、取りあえずリースとメリナに習って言われた通りにした。他に二人の客はいたが、店を出た途端にリースは店員に言った。

「俺達は奥の方へ行く」

店員は頷いただけで、無関心の表情は変わらない。四人は奥へ進んだが、金物の在庫しかなかった。そこでリースは目につかない上げ板を引き開けて才機と海についてくるように手で合図した。狭い階段を降りて明かりが見えた。蝋燭の光だ。上に蝋燭が六本載っているテーブルはあって、男二人と女一人がそのテーブルを囲んでいた。左の男は四十代、後二人は五十代かそこらぐらい。真ん中の男はリースに問い掛けた。

「彼ですか、作戦に加えて欲しいというのは?」

「はい。賛同してくれたんで作戦の成功率はかなり上がる思う」

「女の方は?」

「彼女も異能者で、回りの人間の気配を感じる事が出来る。一緒に連れて行けば何かと便利と思っていたが」

「んーーー。本来は二人だけでこの作戦を実行するつもりでした。四人にしていいのかはフリツの意見を聞いて判断しましょう」

「フリツって誰?」と海はメリナに囁いた。

「宮殿の下にある研究施設の科学者」とメリナが答えた。

「そこで異能者が人体実験に使われているという話は彼が持ってきました」と真ん中の男が言った。

「彼もそろそろ来るはず。取りあえず席に着いて。この作戦について逐一説明してあげる」と右の女性が言った。

全員席に着いて真ん中の男はまた喋り出した。

「王宮下の研究施設で何十人の異能者が内密に人体実験に使われている。例え犯罪者であってもこれは断じて許すべき行為ではありません。自ら異能者になると決めた訳でもありませんし、異能者になる事は人間ではなくなる事を意味しません。彼らには人権があります。その人権を踏みにじっている帝国は言語道断。ですから解放せねばなりません。フリツの話によると皆は最下層で捕らわれています。地下四階です。研究施設の構造はこの通り」

男はテーブルの上にあった用紙に指をつけた。

「研究施設の図面だね。肝心の四階は?」と才機が聞いた。

「ありません。この図面を書いてくれたのもフリツ。でも四階まで下りるのに許可が必要。フリツでも立入り禁止です」と左側の男が言った。

真ん中の男は話を続けた。

「でも一階から三階までの図面を見ると共通しているのはそれぞれの階の東と西側の壁にかなり大きいな部屋が二つ隣接されています。主に保管所として利用されているそうです。四階も似たような構造でしたら大勢の人を監禁出来る場所はこの部屋しかありません」

「むしろその部屋であって欲しい。もっと正確に言えば西側の部屋」と女性が言った。

「なぜですか?」と海が聞いた。

「脱出経路がそこにあるから。どの階でも西側の壁の裏にはかなり大きい管が設置されている。歩いて通るのはとても無理が、這って進むには十二分だ。でもそれも十メートルぐらい。そのパイプは近くの下水道に繋がっている。鉄格子は既に取り外されてある。ホリス、あれを出してくれ」と女性が言って、左の男が部屋の隅に行って一巻の用紙を持ってきてテーブルの上に広げた。

女性は説明を続けた。

「これが下水道の構造。あなた達が研究所から入るのはここ。このルートを使って南の方へ向かう」と女の人は指で用紙の上で指を滑らせらた。

「ここまで来くればメトハインの外だ。もう少し進めばこの辺で出られるけど、地上の人の援助が必要だ。なので救出を手伝う為の団体をここで待機させる」

「脱出と言いましたけど、潜入も同じルートでですか?」と海が聞いた。

真ん中の男が答えた。

「それは無理です。西側の壁に穴を開けるにはフリツが用意した爆発物を使います。作戦は真夜中で実行するとは言え、まだ警備員がいます。爆発音を聞いて調べに来るはずです。壁を壊してから皆を解放しては遅いです。全員を集めて、壁が壊れたら直ぐに脱出を開始せねばなりません。捕虜達が西側の部屋じゃなくて東側でしたらなおさらだ。警備室は地下一階にあるからまずはそこに行って監房の鍵を探す必要はあったが、リースの話によると君は鍵がなくても捕虜の監房をこじ開けられると言いました」と最後の方を才機に向けて言った。

「ああ、それは大丈夫だろう」

「ならば凄く助かります。鍵を手に入れるのがこの作戦の一番の難関でした」

「しかし、実際にどうやって潜入するかはまだ聞いていないけど···」

その時、 上げ板が開けられ、もう一人の人物が下りてきた。

「それについては彼が協力してくれます」と真ん中の男が言って今しがた入った人を見た。

「彼がフリツです」と女の人が言った。

「ちょうどいい。どうやって研究施設に潜り込むかはフリツから説明してもらうかね」と真ん中の男が言った。

「その前に確認しておいて方がいいだろう。フリツ、また変更になるが、三人ではなく、四人を連れ込むのは可能?」と女性が尋ねた。

「今度は四人か?一応私の助手として連れて行く訳ですから、四人は流石に怪しくないでしょうか?」

「そこは何とかならないのか?この子は人の気配を感じる事が出来るそうです。一緒に行動してもらえば警備員と遭遇しないで済みそうだ」

「四人···。本当にこれ以上増やすのを勘弁して下さいね?自分の立場も考えないといけないので、あまり目立つのは···。もし捕まったら」

「分かっています。今回のフリツの貢献が大きい。万が一捕まったとしても、あなたの名前は出しません。彼らの独断でやった事にします」真ん中の男が言った。

「いや、前向きに考えましょう。こんな人材が揃っているし、適材適所と言えよう。さて、さっき言いましたけど、あなた達は私の助手を演じてもらいます。私の研究室は地下一階にあるので、夜になるまでそこで身を隠せばいい。今日は他の研究者が来ないはずです。大体九時になったら皆が帰って警備員は部屋のチェックをして戸締まりをします。だから、九時に私が帰ったら皆は物置に隠れていて下さい。四人じゃ厳しいだろうけど、我慢してくれ。中からドアを開けられるから警備員が去ったら地下四階を目指して。そこはどうなっているか分かりません。関係者以外は立入り禁止だから私も四階までは下りた事ないです。自分達で何とかするしかありません」

「後は先ほど私達が話した通りです。質問や異存はありますか?」と真ん中の男が確認した。

才機と海はお互いを見てから才機が答えた。

「ないです」

「では、正午工業地区2—3でまた会おう」とフリツが言った。

「工業地2−3区···」と海の声に不安が聞き取れる。

「大丈夫よ。俺達についてくれば分かる」とリースが言った。

「私は色々と準備があるから先に出ます」とフリツが地下貯蔵庫を出た。

「面目ないが私達がしてあげられるのはこれまでです。後は皆の成功を祈るしか出来ません。大変な役割を全部あなた達に任せて申し訳ありません」と真ん中の男が言った。

「気にすんな。ばっちり決めてみせるから。大船に乗った気でいろ」とリースが言った。

左側の男はまた部屋の隅に行って何かをリースに持ってきた。

「これが爆発物だ。このスイッチとこのスイッチを同時に押せば三十秒から逆算し始める。途中で中止したければこっちのボタン。でもタイマーをリセット出来ないから残り五秒以内に中止したらもう使い物にならないと思っていい。誰かが犠牲になってくれない限りね。こいつが爆破したら範囲十メートルにいない事だ。あと、これ、保護テープ。効果を最大限まで発揮させるんなら壁の中心に張り付けた方がいい」

「分かった。じゃ、行こう皆」

「図面とかも持って行かなくていいの?」と海が聞いた。

「いい。ここに入ってるから」とメリナは自分のこめかみをつついた。

「こう見えても俺の妹は記憶力半端ない」とリースが言った。

「こう見えてもは余計だ」とメリナは異議を唱えた。

「いやぁ、こんなに美人だから誰もそうは思わないって意味だよ」

「どうだか」

「さ、行こうぜ。正午まで二時間もないんだ」

四人は都市の他の住人のように平然と街路を歩き、集合場所を目指した。相変わらず、異能者が迫害されなければ平和そうな都市だ。たまには行商人の呼び込みの対象にもなる。だが、もしメリナのバンダナがひょっこり落ちたらどうなるのだろう。そう考えるといくら楽しそうな所でも誘われたらどうしても手放しでその情緒を賞玩出来ない。工業地区に入ると人気が薄くなった。皮肉な事にこのうるさくて機械ばっかりの場所の方がよっぽど落ち着ける。

「ここが2—3区の中心部だ。ここで待とう」とリースはベンチに座った。

「この組織って二人を除いてあの四人だけ?」と才機が聞いた。

「いや、地下貯蔵庫にいた三人は幹部みたいなもんだ。実際何人か分からないがまだまだいるよ。あの婆さんが言っただろう?街の外に助っ人を送るって」

「今更だけど、これから随分思い切った事をするんだね」と海が言った。

「いいか?降りたきゃ責めたりなんかしないよ。お前もだ、才機」

「いや、俺の気は変わってないが···」と才機は海の顔を伺った。

「私もそうよ」と海が慌てて両手を自分の前で左右に振った。

「ただ、何って言うか、全然緊張していないって言ったら嘘になる。リースとメリナはこういう危ない仕事を何度もやってきたんだね」

「ま、これほど危ない橋を無料で渡るのは流石に初めてけどね」とリースが肩を落とした。

メリナはリースの隣に座った。

「ある意味、今回の危険度は前にやった仕事に比べて低い。なんたって命を落としかねないような仕事を何回かやった事あるからね。才機も海もそうよ。最初はそういう事になるような依頼だと思わなかったかもしれないけど。今回は生き延びるよりも成功する方は困難だ。万が一捕まったとしたら、殺したりはしないだろう。最悪でも終身刑ってところかな」

「それを聞いて気が楽になったとは言えないな」と才機が苦笑いした。

「何を言ってる?お前を閉じ込める牢屋なんてあるの?」とリースが言った。

「脱獄出来ても指名手配書に顔が載ったら人生がめちゃくちゃだ」

「あ、そうだ」とリースはウエストポーチから黒い布みたいなもの出して、他の三人に一枚ずつ投げ渡した?

「これは···覆面ね。これを被せたら銀行の強盗犯にしか見えない」と海が言った。

「そして狙いはこの国の最大の宝物。その民だ」

「ぷっ」とメリナは笑いを抑えた。

「何だよ?今のは格好よかったじゃん」

「いやぁ、お兄ちゃん以外の人が言ったら格好いいかもしれないけど、あんたはそういう柄じゃないだろう」

「やはり狙いはこの国の最大の宝物か。その民だ」と才機が大真面目な顔で真似してみた。

今度は海が笑い出した。特に堪えようとせずに。

「んー、案外格好よくないかも。あるいはこのメンバーの男子に似合わない台詞だ」とメリナが言った。

「あんた達最高本当に、こんな時に笑わせられるなんて」と海が気を落ち着かせた。

「本気で言ったんだけどねぇ···」とリースがベンチの背もたれに両腕をもたせ掛けて青空を見上げた。

その内、十二時になって皆の前にフリツが現れた。

「皆揃ってますね。王宮に行く前に寄る所があるから着いてきて」

フリツが言った寄る所は工業地区にある路地だった。

「奥の段ボール箱の中に作業着が四人分あるからそれに着替えて。普通に服の上に着てもいい」

リースは箱を開けて青い作業着と帽子を皆に配った。作業着は上半身と下半身が一緒になっているタイプで、履いてからチャックを上げるだけ。

「マント外した方がよくない?」とちょっと苦労しているリースを見て才機が提案した。

「駄目だ。この作業着だけじゃライフルが見えちゃう」

少し嵩張っていたが、何とか作業着を着れた。帽子を被って変装完了。

「じゃ、二人掛かりでその二台の機械を運んで」とフリツが指示した。

「これ?ゴミだと思った」とメリナが言った。

「ゴミさ。だが作業員らしく何かやらせた方がいいと思ってね」

「ぐ、重い!せめて中身を取り出せばよかったんじゃない?」

「まぁ、王宮は直ぐそこだから頑張って。さ、行こう」

フリツに先導だれてリースとメリナで一台を、才機と海でもう一台を運んだ。王宮に近付くと何やら正門で騒ぎが起きている。階段を上がるとそこに男の子の手を握っている女の人が門番達と揉めていた。

「まだ娘に会えないの?!」

「だから、皆をどう処分するかまだ検討中だ」

「七歳の女の子よ?!処分も何も母親に返すべきでしょう?!」

「判決が下ったら、きっと返ってくる。こう毎日毎日来ても手続きが早く済むわけじゃない」

「あの子は何も悪くないんだ!皇帝に会わせて下さい!」

「殿下は御多忙です。いちいち文句のある奴にお見えになるはずがなかろう。ほら、後ろ並んでるよ。邪魔だ」

「もう返して!娘を返して下さい!」

門番は腕の甲で必死に訴えている女の人を押して退かした。もう一人はフリツと話した。

「あの連中は?」

「はい、私の研究を手伝っている者です。今、研究室に向かうところ。これが身分証明書です」

お母さんの手を握っている男の子は海をじっと見ていた。やはりリベリオンのアジタにいた三人家族だ。男の子もまた海に見覚えがあるようで、海は頭を垂れて顔を帽子のつばの後ろに隠した。

「はい、通っていいですよ」

五人は中に入って親子のいる所を後にした。ドアが閉まる前に母親の抗議が再会するのを聞こえた。

「こっちです」とフリツが地下への階段に向かった。周りはあっちこっちに兵がいたが特に怪しまれる事なく、フリツの研究室に辿り着いた。

メリナは運んできた機械を遂に降ろすことが出来た。

「腕が死にそうだ。海は疲れない?」

「重い物を持ち上げるの慣れてるから。私も才機も。物じゃなくて、人だけど」

「ああ、あのジュウドウってやつね。あたしも何かの格闘技を学べばよかったなぁ。こういう時に役に立つんだろうね」

だがリースはそうは思っていないみたい。

「いいや。出来れば誰にも会わずにこの任務を果たすのが一番。警備員を伸ばしたところで誰かが侵入した形跡を残すだけだ。爆弾がドカンっとなるまで俺達がここにいるって事を悟られたくない」

フリツは研究室の向こう側に向かった。

「そううまくいくといいがね。取りあえず何かやって忙しそうにしていて下さい。俺は一応いつも通り研究を続けるから」

「王宮に入るの初めてだ。真っ先に見たあの兵の数にびびった」とリースが言った。

「あそこは兵士達の休息所みたいなもんだ。夜になったら殆どいなくなる」とフリツが説明した。

「しかし、入り口でのあの騒ぎは何だったんだろうね」とメリナが言った。

「お母さんだ。ここで小さな女の子にまで実験を行っているかも」と海が嘆かわしい口調で言った。

「え?なんで分かるの?」とメリナが聞いた。

「リベリオンのアジトにいた時に会った三人家族だ。あの二人は異能者じゃないから釈放されたんだろうけど、娘は···」

「くそったれが。ここの連中は人道ってもんの一欠片もないのかよ?壁一つと言わずに研究施設毎ふっ飛ばしたい」とリースが言った。

「それは勘弁してくれ。地下四階はともかく、他の研究者が凄い物を開発している。世の中の為になるようなもの」とフリツが言った。

「そればっかりじゃないだろうけど。大体帝国はけち臭いんだ。聞いた話では幾つかの発明を完成しているのに世界に出さず、独り占めしているとか」

「それは···」

才機と海はクレイグ博士の研究に何か進展があったんだろうか急に気になった。

「ともかく、捕虜達の救出に専念して下さい。それだけでも大した偉業だ」とフリツが言った。

「夜が待ち遠しくなった。あーあ、いらいらする。隅っこで仮眠してるから時間になったら誰か起こしてくれ」とリースがバタリと隅っこで座り込んで目を膝の上に伏せた。


やがて時間が過ぎ去り、九時が回ってきた。フリツは腕時計を確認した。

「九時五分前。そろそろだね。おい、皆、物置に入って置いて」

フリツが言った通り手狭くて、四人がぎりぎり入れた。

「これで私はもう帰るけど、しばらくしたら宿直がやってくるはず」

「その時は誰かがくしゃみしたら承知しないからな」とリースが三人に注意した。

「あんたが言うな」とメリナが言い返した。

「とにかく、宿直が去ったらこの施設に警備員しか残ってないと思っていい。だからそれまでは出るなよ」とフリツが続けた。

「分かった。明日、出社してきたら大騒ぎになっているから覚悟しておいた方がいい」とリースが言った。

フリツはドアを閉めると真っ暗になって、ドアの下の隙間からほんの僅かの明かりが見えるけど、フリツが研究室を出るとそれすらも消える。お互いの顔も見えない状況で四人は黙って待っていた。その内海が囁いた一言がその場の全員に歯を食いしばらせた。

「来た」

研究室のドアが開く音がした。それから入ってくる足音。足音からすると警備員は研究室の中を歩き回っているらしい。近付いてくると懐中電灯の光がドアの下から見える。全員固唾を呑んだ。こういう時は自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。幸い警備員が聞こえるほどではなさそうだ。特に異常が見つからずて去って行った。物置のドアがゆっくり開いて四人はこっそりと出た。廊下の明かりは薄暗くなっていたがまだついている。

「それじゃ、いよいよ作戦開始。メリナ、先頭はお前だ。その次は海。誰か来たら知らせてくれ。後、覆面を忘れるな」とリースは低い声で言った。

メリナはなるべく音を立てないように慎重に研究室のドアを開けて出た。海の次は才機で、しんがりを務めているリースは同じく用心してドアを静かに閉めた。まさに泥棒みたいに四人は抜き足差し足で階段に向かった。そして滞りなく地下二階に下りた。

「何で次の階に行く為の階段を別に作ったか全く分からない。普通なら一気に最下層まで行けるのに、わざわざ二階も三階も通らないといけない」とメリナが愚痴った。

今度は地下二階の横断を試みた。角を曲がる前にメリナは必ず誰かがいないか除いて確かめた。そこまでは順風満帆だったが、急に海はメリナの手を掴んだ。メリナが振り向くと海は何かを探しているように慌てて周りを見回していた。どうしたと聞ける前に、海はメリナを引っ張ってつい先通り過ぎた部屋に連れ込んだ。ドアはなく、入ったら直ぐに入り口の左の壁に背中を合わせて身を隠した。才機とリースは右側で同様に動いた。その部屋は小さくてコヒーでも飲んで休憩する為の給湯室らしい。十秒ぐらいそうやって待っていて、懐中電灯の光が見えてきた。幸いな事に警備員は真面目で休息部屋を利用するつもりはなかった。彼は通りかかってそのまま進んで行った。うまくやり過ごせたようだ。いなくなっても四人は一分くらい待ってからまた動き出した。

「警備員は皆あの携帯電球を持っているみたい。向こうの位置が分かるから助かるがね。もう進んで大丈夫か?」とリースは最後の方を海に聞いた。

「うん。大丈夫みたい」

「階段まで後少しだ」とメリナが部屋を出た。

「よし、行こう」とリースが言った。

階段をまた下りて三階到着。難易度は数字に応じて高くなるなら今度は特に気をつける必要がある。しかし運よく誰にも会わずに四階への階段に辿り着いた。最後の階段を下りて、そこにあったのは見るからに重そうな扉。取ってらしい物は何処にもなく、右側に配電盤があっただけ。

「これ、パスワードが必要みたいだよ?」と配電盤を見ている才機が言った。

「どれどれ」とリースが配電盤の前に寄り付いて入力し始めた。

「い·の·う·し·ゃ·に·し·を」

コンピュータ化した声が返事をしてきた。

*入力終了。異能者に死を*

「すごっ、パスワード知ってたのか?」と才機は感心した。

*パスワードが違っています。二十秒で訂正しなければ警報が鳴ります。入力し直して下さい*

「おい、間違えたよ!早く訂正して!」と才機が声を上げないように気をつけたが慌てて出した。

「いや、分かんないよ!入力してみただけだ」とリースが言った。

「は?!」

「警報が鳴るなんて知るかよ?!」

「フリツからパスワード聞いてなかった?!」

「フリツはここまで来た事ないんだ!この扉の存在すら知らないだろう!」

*十秒で警報が鳴ります。入力し直して下さい*

「どうしよう?!警備員が間違いなくここへわんさと押し掛けるよ!」とメリナが言った。

「っく、目の前にあるっていうのにここまでか?!」とリースがその扉を睨み付けた。

「ちくしょう!」と才機が言って拳を振り上げた。

ガラスの鉄拳が配電盤にどかんと衝突した。そこにいる全員は像のごとき身動き一つもせず、壊れた配電盤に埋め込んである才機の腕をじっと見た。警報が鳴るまでの数秒を心の中で数えながら神に祈った。その間に聞こえるのは電気回路がショートしている音だけ。そうやって十秒ぐらいは立ち、才機はゆっくり腕を引っ込むと配電盤の破片がばらばらと床に落ちる。皆は止めていた息を遂に吐いた。

「早くこっちだ」とリースは階段の後ろに隠れた。

他の三人は後に続いた。さっきの音で誰かが来るかもしれない。だが三分待っても誰も来ない。

「もしかしたら四階には宿直がいないかも。警備が既にこんなに厳重だし」とリースが推測した

「それならいいんだけど、どうするの、これ。流石ににヘアピンじゃどうにもならない」とメリナはその分厚そうな扉に手を置いた。

「配電盤が壊れたんじゃ開かないんじゃ?」と海が言った。

才機はメリナの隣に行って扉に手を付けた。そうしたら誰かと握手するように伸ばした指先を扉の割れ目に合わせた。思いっ切り押すと才機の指は付け根まで扉の間に突っ込まれた。その指をてこ代わりに使って、人一人が通れるだけの隙間が出来るまで扉を押し開けた。

「まじかよ。百人力どころか千人力じゃねぇ?味方でよかったー」とリースが言った。

メリナは首を才機が作った隙間に入れて扉の向こうの様子を見た。

「この階の構造はちょっと違うみたいだ。誰もいないよね、海?」

「うん、近くには」

「じゃ、捕虜達はどっちの方向にいる?」

「よく分からない。こんなに人が大勢いる街のど真ん中だから沢山のオーラを感じる。これじゃ四十メートルぐらい以内じゃないと人が近くにいるかどうか分からない」

「だったらどっちかを選ぶしかないな」と才機が言った。

「東に行こう」とリースが提案した。

「東?捕虜達が西側にいて欲しかったんじゃなかったのか?」

「だからさ。この階に警備員がいない、あるいはこれから来ないって決め付けられない。本当に西側にいて全員を移動させなくていいなら、喜んで先に東側に行って無駄足を踏む」

「なるほど。それって楽観的に考えているか、悲観的に考えているか分からないけど」

「とにかく急ごう。警備員がこっちに来てこの扉を見たら俺達の存在が知られちゃう」

地下四階がよく分からない為、試行錯誤で探し当てながら少しずつ東へ進んだ。それ以上東へ進めなさそうな所まで行ったら、他のの階と同じ保管所であろう部屋へのドアが幾つか並んであた。メリナはドアを開けようとしたが、やっぱり鍵が掛かっている。

「多分ここだ。どう、人はいる?」とメリナが海に聞いた。

海は目を閉じて集中した。

「いや、誰もいないみたい」

「よっし、ラッキー。西側に向かうぞ」とリースが言った。

どやらこの階には本当に宿直がいないようだ。少なくともいたら四十メートルまでは近付いて来ていない。反対側まで行って海は人の気配を探ってみた。

「ここだ!この壁の向こうに人が沢山いる」

「大当たりだ。ドアを頼む」とリースが才機に言った。

才機は取っ手を丸ごともぎ取ってドアを開けた。四人が部屋に入ると真っ暗で殆ど見えない。

「確か、明かりをつける為のスイッチがあるはずだ。どこだ?」とリースはもうちょっと奥の方へ行った。

海はリースが求めていたスイッチをドアの近くで見つけて入れた。そこは保管所と言うよりは刑務所みたいだった。リースの右手に九人の人も詰め込まれている六畳の部屋より少し狭い監房がずらっと並んであった。左手にもあったがその監房は全部空だった。

「おい、夜ぐらい寝させろよ!」と監房から不満な声がした。

「大丈夫だ。俺達はお前らを脱獄させにきた」とリースは覆面を取った。

他の三人も暑苦しい覆面を取ってリースの隣に並んだ。まだ寝ている者もいたが、監房に入った人達から沢山の声が上がった。

「本当か?!」

「確かにこの人達、研究員には見えない」

「やっと出られるのか?」

「あまり騒ぐな。準備が出来る前に感付かれたら何もかもおじゃんだ」とリースが全員に注意した。

「どうやって俺達をここから出すんだ?鍵持ってるのか?」

「あぁ、どんなドアでも開けられる魔法の鍵さ」

「だったら先に一番奥にいる人を助けてやってくれ」と捕虜が左の方へ首で示した。

「誰よりも実験に使われてかなり衰弱している。兵士に抵抗するから乱暴されて枷まで嵌められてる」

「才機、その人を出してやってくれ。俺はこいつを設置しておく」とリースは爆弾を出した。

「分かった」と才機が左へ向かった。

人が入っている監房は全部で八つで、捕虜は約七十二人。海は一つずつ監房を見ていた。何かを探しているようだ。

才機は次々と空の監房を通り過ぎて、奥の方へ走った。

《しかし何でこの人だけをあんな離れた場所に入れるんだ?ただでさえ一番酷い仕打ちを受けてるのに話す相手もいない》

可哀相と思いながら才機は最後の監房まで来た。そしてそこに覗き込むとさっきまであった同情の思いが一挙に消えた。

デイミエンだった。

彼は首を前に垂れていて長椅子に座っていた。手と足に鎖で繋がった枷が嵌まっている。動き回るのに何の不自由もない長さの鎖だが、お得意の格闘術は使えまい。才機に気付いていないか、ただ興味がないか、才機の方へ顔を向かない。

「お前は···」と才機が言った。

遂にデイミエンは顔を上げた。

「なんだ。今度はお前が護送してくれるのか?ここの兵士は臆病過ぎだ。こんなんじゃ、俺に何が出来るって言うんだ。それにしてもどこまで落ちるんだ、お前は?あの普通人に魂まで売ったのか?」

デイミエンは髭が生えていて顔に打ち身もあった。この前会った時の彼の憎悪で満ちていた目が今死んでいた。その貫禄も今となっては見受けられず、見る陰も無し。一瞬彼の事を哀れと思ったが、こいつは海を似たような目に合わせた事を思い出すとその感情は怒りに負けた。

「言って置くけど、皆をここから逃がす為にきた。それもお前が嫌いな普通人が立てた計画なんだ。嫌なら別に残ってもいいけど」

才機は本気で言っていた。デイミエンが意地を張ってプライドを守る為に断ってくればいいと思っていた。

「何だよ、それ。ここで何が起こっているか公表されるはずないだろうが」

「確かにそうだ。だがこの研究施設で働いている人なら知る機会はある。研究員が自分の立場を危うくしてお前達の事を異能者を味方する普通人の組織に密告した。俺達がここまで潜入出来たのも彼のお陰」

「何言ってんだ、お前。そんな組織聞いた事ない」

「何事だ?!」と入り口の方から聞き覚えのない声がした。

リースは壁に貼っていた爆弾を慌ててウエストポーチに戻した。振り返るとそこに研究員の人がいた。

「やばっ!」と才機はデイミエンを放って置いて皆がいる所に行った。

リースはライフルをその研究員に向けた。

「お前、大人しくしてそこの空の監房に入りな。そうすれば痛い目に遭わないから」

「無礼な、このならす者。私は誰だと思っている?」

「知らないし、興味はない。さっさと監房に入れ」

「どうするんだ、この人?」と才機はリースに耳打ちした。

「大人しくしていれば別に何もしないさ。逃げて助けを呼ぶなんて考えるなよ。お前の足より俺の弾の方が速い」

リースがそう言った途端に五人の兵士が急に研究員の前に飛び出てきて銃をリースに向けた。

「あなた達遅過ぎ。なんで私が先に着いているんだ?」と研究員が偉そうに言った。

「申し訳ありません。ウェバー研究所長が言っていた試作品を探し出すのに少し手間取りました」

「そこ、武器を捨てろ」と兵士の一人がリースに命令した。

リースの撃てる精度が幾ら高くても、五人相手に勝つほどの速さで撃つことが出来ない。一人は他の四人と違った、性能が分からない銃を持っているし。少なくとも銃口は銃というよりもトランペットのベルみたいな形になっている。ここは言われた通りにして、才機に任せた方が良さそうだ。リースはライフルを床に置いて後ろに下がった。

「ここまで来て諦めるのはあれだし、あの五人を何とか出来そうか?」とリースが才機に聞いた。

「多分」と才機は海の前に立ってガラスの姿に変身した。

「ほー。やはり異能者がいたか。この階への扉の壊しっぷりを聞いてそうなんじゃないかと思った」とウェバーが言った。

「やっぱあのままにして置くのはまずかったか」とリースが言った。

「それじゃ、頼むよ」とウェバーが兵士に言った。

あの変なライフルを持った兵士が才機を狙って引き金を引いた。何も起こらなかったからリースは不発かと思った。でもメリナも海も才機も頭痛でもあるように一斉にこめかみに手を当てた。

「ほほー。三人もか。これは、これは」とウェバーはちょっと嬉しそうに言った。

「おい、どうした皆?大丈夫?」とリースが聞いた。

「ああ。頭の中で変な感じがしただけで···あれっ?」と才機は自分の変形が解いている事に気付いた。

「びっくるした?顔にそう書いてある。そう、あなた達はしばらくの間能力を使えなくなった」とウェバーが自慢げに言った。

才機はもう一度変形しようとしたがやっぱり出来なかった。海も風を作り出すのを試みたが無駄だった。周りの人の気配も感じられない。

「全員ボディーチェックをして拘束してちょうだい。抵抗しないのは身の為ですよ」とウェバーは最後の方をリース達に言った。

兵士二人がその命令を実行し、他の三人は構えし続けた。まずはリースから調べられた。

「何だこれは?」と兵士がリースのウエストポーチから爆弾を持ち出した。

ボタンが付いている包み物にしか見えないので実際何なのかは分からないはず。

「お弁当だ。勝手に食べるなよ」とリースが言った。

もう一人の兵士はメリナの身体検査を行っていてバンダナを外そうとした。

「ダメ!」とメリナは両手でバンダナを頭の上に固定させようとした。

「手を退け!」と兵士は強く引っ張ってバンダナを取り外した。

「おおお!」とウェバーは有頂天になってメリナの方に走って行った。

「異形者だ!これは貴重な標本が手に入った。思わぬ棚ぼたですね。被検体の中に異形者がいたが、あれはもう使えないしねぇ」

最後の方はデイミエンが入った独房に向かって言ったが、反応がないと見てウェバーはまた直ぐにメリナに注意を向けた。

「てめ、妹に何かしたら絶対ぶっ殺すぞ!」とリースがすごんだ。

でもウェバーは無我夢中でメリナの周りをぐるぐる回わり、隅々まで見ていて聞こえていないらしい。兵士は次に海に注意を向け、肩を掴んで手荒に回したせいで海は体勢を崩して危うく転んだ。

「おい、そんなに乱暴しなくても」と才機がその兵士の腕を掴んだ。

報いとしてもう一人の兵士が才機の後頭部をライフルの台尻で打った。

「才機!」と海が叫んだ。

意識が遠くなった才機は床に崩れた。


    • • •


才機が目を覚めたら真っ白な狭い部屋にいた。そこには何もなくて、窓や扉すらない。才機は自分の手を顔の前に上げた。

「能力なら使えないよ」とどこからウェバーの声がした。

音からすればどこかのスピーカーが発生源だ。そして彼が言った通り能力は使えなかった。

「安心して。能力が永久的に消えた訳ではない。いや、永久的に消えた方が安心出来るかな。でもそんな事が出来たら実験する必要もないしね。まぁ、完全に不要にはならないが」

「他の皆はどうした?」と才機が聞いた。

「あぁ、昨夜はよくここまで侵入出来たもんね。何の目的でここへ?」

「···」

「黙りか。ま、言いたくなければいいんだけど。私が本当に興味を持っているのは別にあるからね。で、さっきの質問だけど、異形者ではない方の女の子ならあなたが思っているより近くにいる。あれは素晴らしい能力を持っている」

「海に何かしたのか?」と才機は今に切れそうな口調で言った。

「ここはどこだ思っている?実験に決まっている。あなたは今なぜ能力を使えないか説明してあげよう。三週間ほど前にリベリオンという暴力団は帝国軍によって解散された事を知っていた?その集団に属していた異能者は全員ここへ連行されたんだ。その異能者はどんな能力を持っているか、それをどうにか利用出来ないかあれこれ調べていました。検体が多くて様々だから色々分かりそうだった。ただ、可笑しかったのはレベリオンのリーダーが能力を持っていなかったようだった。でも異能者の集団のリーダーともあろうものが異能者ではないはずがなかろう。いくら説得しようとしても本人は自分から教えてくれないし、ああやって協力する気を示さない場合はショック療法などで強制的に能力を誘発するか喋りたくなるようにするが、彼には全く効果なかった。そう思っていたが効果はちゃんとあったんだ。私達はそれに気付かなかっただけだ。ある日、偶々近くで他の異能者の実験を同時に行っていたら分かったんだ。彼は他の異能者の能力を影響する力を持っていた。彼一人で実験した時に何の効果が見られなかった訳だ。彼はどうやって異能者に影響を与えるか知っているか?音波だ!彼は人間では感知出来ない音波を発する事が出来る。私達はそれを解読して再現出来るのに成功した。その音波の周波数を増やしたり減らしたりする事で効能を変化する事も可能。超収縮したものなら一回晒されるだけで二十分ほど能力を使えなくなる。その際は頭の中で微小な痛みが伴うらしいけど。更に、最近新しく知ったのはその音波を逆再生すれば、異能者の能力は強まる。但し、異形者にはあまり効果がないようだ。と、最初はそう思ったが実は異形者にも効果を現す方法があるんだよ!出力の問題だ。ただ、こちらが幾ら増幅しても足りないようだ。ここからがちょっと興味深い話だが、外部からあの異能者の集団のリーダーに音波を晒すと本人にも影響が出る!彼自身が増幅器になるんだ!しかし、それでも出力不足、身体的な接触が必須。石みたいな体をしている異形者もちょうど被検体の中にいてね。二人とも拘束してリーダーの手を異形者にくっつけてから能力を強化する方の音波を当てた。すると異形者の体はみるみるうちに完全に石になってゆく。最終的に正真正銘の石像になっていた。いや~、でも失敗だったね。最初に能力を弱める音波を施すべきだった。石像になった異形者はもう生きていなかったからか次に弱める方の音波を使用しても効果はなかった。大幅な増幅には身体的な接触が必要という原理は分からないが、その謎もその内解き明かされよう」

ここでウェバーは喋り過ぎて疲れたのか、吐息をついた。

「一遍に色んな事言われたけど、大体理解出来たかな?これで···海でしたっけ、の実験の話に戻るが、あなた達は親しい間柄であると見受けたんだけど、どうなんですか?もしかして恋人とか?」

「取りあえずは海にもしもの事があったら俺はお前をこの施設毎破壊すると誓って置こう」と才機が脅迫の言葉を発した。

「そんなに仲がいいのか?それは何より。では、海はそろそろ起きるはず。会いたいですよね?」

部屋の壁の一部が沈下して戸口になり、隣の部屋への出入りが可能になった。足しか見えないけど隣の部屋に誰かが実験台の上に載っている。才機はその部屋に移って、その人が海だと確信した。まだ起きていないようだ。入った途端に壁が元通りになって才機をそっち部屋に閉じ込めた。海は手足が革ひもで実験台に縛られていた。近くまで寄ると海の服にはあっちこっち切られた形跡があった。海の体自体にも深くはない切り傷が数箇所にあった。

「てめ!海に何をしてた?!」

「勘違いしないで。その傷を負わせたのは私達ではない。まぁ、私達は完全に無関係とは言えないが。さっき言っていたよね?音波を逆に再生すれば異能者の能力は強まる。で、その超収縮版を使うと、なんと、異能者は自分の能力を制御出来なくなり、暴走するんだよ。この人は周りの空気を操られるらしい。でも強力になり過ぎた彼女の力は自分にも被害を及んじゃった」

「何が及んじゃっただ?!全部お前が原因じゃないか?!」

海が唸った。気が付いてきているみたい。

「とにかくだ、彼女は自分ではどうにも止められなかったらしいので寝かせておいた。私が思うにはこれが精神的な問題。彼女一人だと無理でも、親しいあなたを守る為なら抑えられないんだろうか」

「下種が」

「一応忠告して置くけど、そんなに近く寄らない方がいいかもしれない。あなたをこの部屋に入れる前にあの音波をもう一度施したから」

海は目を開けた。

「海、大丈夫か?!」と才機が聞いた。

「···才機?ここは···?」と海が言い始めたが急に目を強く閉じて呻いた。

「どうした?苦しいか?」

「ああああああああああ!!」と海が悲鳴をあげた。

才機は海の体の周りにいきなり生じた風に吹き飛ばされて壁にぶつけられた。猛烈な風はその部屋ので吹き荒れる。たまには一際強い疾風は才機の体に切り込んだ。強風の中心である海の方がもっと頻繁に切られている。これは危ない。運悪く海の手首でも切られたら···。

「海やめろ!ここままじゃ、やばい!」と才機が風と戦いながらまた海の所に行こうとした。

「く、来るな!制御出来ないの!は、離れなて!」

「いいから、集中しろ!何とかして抑えろ!」と才機が海への距離を半分まで縮めたところで右目の真下が切らて引っ繰り返った。後数ミリ上だったら右目は失明していた。その傷から出る血も風によって吹き払われた。

「む、無理!出来ない!出来ない!」

「海!!」と才機が一躍して実験台に到達し、海の上に身を乗り出して両手で彼女の顔をしっかりと抱えた。

「奴らに負けるな!俺はこんな所でお前を失わない!」と言いながら才機の傷が一つ一つ増える。

海はただ苦しそうな表現を顔に出し続けた。

「くっそー!頑張れ!」と才機は躍起になって海にキスをした。

海は苦しい顔から驚いた顔に変わって目が大きくなった。ぴんと張っていた体が緩み、そして荒れ狂う風はだんだん静まって消えた。完全に消えると才機は海の唇から離れた。

「やっぱお前をここへ連れてくるんじゃなかった。俺は大馬鹿だ」

「これって···愛の力でしょうか?」とウェバーの隣にいるに研究員が聞いた。

「バカ言ってるんじゃないよ。恐らく、びっくりしたせいで体の生理的な反応が関係している。驚かされるとしゃっくりが止まるのと同じように」

ウェバーはボタンを押し、スピーカーを通じてまた才機に話し掛けた。

「お陰で興味深いデーターを収集出来た。感謝する」

「てめ!隠れてないで出てきやがれ!能力なしでもお前をぶっ飛ばしてやる!」と才機は部屋を見回した。

かっとなった才機は後ろの壁を拳の側面で叩いた。その壁にぶつけた拳はガランとなった。才機はガラスの姿になっていた。

「あら、戻っちゃったね、能力。そろそろだったな」とウェバーが言った。

今度は才機が本気で壁を殴った。だが驚く事に壁は凹みもしなかった。

「あなたがそうなると凄まじい身体能力を得るらしいだね。でも無駄だよ。この地下四階では異能者ほどの危険な存在で実験を行っているからにはそれなりの非常事態対処方針を採用している。その部屋の壁はブロコニウムで裏打ちされている。あなたでも壊す事は出来ないよ」

才機は四つの壁を色んな場所で攻め続けていた。海は肉体的にも精神的にも疲れ切っていて才機を見る事しか出来ない。

「諦めが悪いだね。無理だって」

「ブロコニウムは壊せないかもしれないけどお前はどこから俺達を見ている。マジックミラーか何かある。それを見つければ向こう側にお前がいる」と才機はまた壁を殴った。

「それはそうだけど、見つからないよ?」とウェバーがスピーカーを通さないで言ってボタンを押した。

ウェバーはガラスで出来た床の上から才機と海のいる真下の部屋がガスで充満されて行くのを見た。

「てめ、ゴホン、どこまで卑怯なんだ?ゴホン」と才機はむせびながら言ってガスに参った。

才機と海がいる部屋の天井の一部が下って傾斜路になった。ガスマスクを付けた兵士達はそこから下りて気を失っていた二人を運び出した。


リースは一階の留置場で一人で幽閉されていた。

《能力のない俺には用なしか》

リースは指を頭の後ろで組み合わせ、長椅子で仰向けになって天井を見つめていた。

《どうしたもんだ、これは。異能者の能力を封じる武器を開発していたとは。まじでやばいよ。フリツが俺達の事を知っているとしても何も出来ないんだろうな。作戦が失敗したとなると、後は帝国を公然と告発するしかない。だが証拠なしじゃいい結果は期待出来ない。たとえうまくいったとしても、捕虜が釈放されるまでに皆は無事でいられるか分からない》

リースは起き直り、背を丸くして両手を強く組んだ。

《考えろ!何か打つ手はないか》

リースがそうやって苦悩している時に近付いてくる足音が聞こえた。それは誰だかを見ようと顔を上げたが、その人がリースの監房の前に現れる直前に足音が止まった。見張りか何かと思ったらリースに話し掛けてきた。

「あなたですか、研究施設に潜り込んだのは?」

誰だか知らないけど姿を見せないつもりらしい。男だってことだけは分かる。

「噂は速く広まるもんだな」

「そりゃ、ここに侵入する馬鹿がいると直ぐに人の耳に届くよ」

「この施設の地下四階で何が行われているかも速く人の耳に届いて欲しいもんだね」

「質問なんですけど、確かあなた一人で来た訳じゃないよね?」と男はリースの言った事を完全にスルーした。

「それが何か?」

「その仲間の名前を教えてくれないか?」

「なぜそんな事を教える必要はある?特に教える義務ないな」とリースはまた仰向けになった。

「答え次第ではあなたをここから逃がしてもいいからです」

リースはまた直ぐに起き上がった。

「こっちの話に興味を持ったかね?では、その仲間の名前は?」

「というかそっちの話が本当かどうかすら分からないけど」

「他に頼る人がいなければ信じて損はないと思うが」

確かに獄中では自分じゃどうにもならない。

「ジークと言うんだ」

「ジークですか。ごめん、私の勘違いだったみたい」と男が歩き去り始めた。

「待って!今のは嘘だ。お前の出方を見たかった」

足音はまた近付いてきた。

「忙しい身なんでね、今度は本当の事をお願いします」

「三人だ。才機と海と俺の妹のメリナ」

男はまた去って行った。

「おい、ちょっと!どこに行く?!」とリースが立って監房の鉄棒の外に頭を突き出して覗いてみたが、留置場のドアの向こうに白衣が消えるのしか見れなかった。

「くっそ。やられたか。何だったあいつ?」とリースは長椅子に戻った。

「俺も必死だなぁ、あんな口車に乗って」

約十分後にまた足音が聞こえた。いつもの場所で止まって監房の中に何かが投げ込まれた。

鍵だ。

「今度はうまくやれよ」と男が言った。

「あれどうやって?」

「なーに、武官に適当な事を調べてもらって席を外している内に鍵を借りさせてもらっただけだ」

「借りた、ね。返却は出来ないと思うよ?しかし、武官はそう簡単に持ち場を離れて放置にするのか?ここの兵は案外無責任だな」とリースは鍵を拾った。

「とある···高貴な方に直々に至急で調査を命じて頂いたもので。では、失礼」

「待って。なんで助けてくれた?」

会話が少しの間ぷつっと途切れた。

「あなたの妹は知らないけど、他の二人は私の研究に深く関わっている。彼らの知り合いからその特徴も聞いていて、昨夜捕まった異能者の中には私の研究に関わっている人の一人と同じ能力を持っているそうだ。それでもしかしたらと思った。あの二人がここで捕らえられては困る。後少しで研究の成果が遂に出そうなのに」

「何の研究?」

「それはもう、彼らの故郷について」

「故郷?」

「そう。え?まさか知らないのか?仲間なのに?」

「何が?」


才機が次に目を覚めた時は手術台の上だった。手足が縛っている。

「お目覚めかい?」と目の前にいるウェバーが聞いた。

才機が周りを見た。ウェバーの他に二人の研究員に囲まれて、兵士も三人部屋の壁に沿って立っていた。三人ともライフルを装備している。

「今の状況を説明するね。あなたの変形した体の強度を試したい。可能ならサンプルも切断したい。あ、別に腕を丸ごと取るとかそんなつもりはないから。皮膚少し回収出来たらと思っている。簡単に取れないだろうから電流や酸、色々試してみたいと思う。そこでだが、そこにスイッチを握っている兵士がいるだろう?スイッチを切れば音波は消える。その時はどうぞ能力を使って下さい。但し、くれぐれも暴れないように。もし逃げようとしたりしたら彼は即時スイッチを入れる。その時は受けている荒療治を生身の体で体験する事になってしまう。いいわ、ね?」

「相変わらず話しが長過ぎる。海はどこだ?」

「ご心配なく。今の所は彼女を使うような実験は予定していない。では、そろそろいいかな?」

「いずれ落とし前は必ずつける」

「お願いします」とウェバーが兵士に言って、兵士はスイッチを切った。

ウェバーは電動のこぎりを持ち上げて電源を入れた。才機は彼がうるさい電動のこぎりを抱えながら無表情の顔で自分を見て待っている姿を少し睨んでから体を変身させた。金属が高回転でぶつかる耳障りな音が地下四階中に響き渡った。


空を眺める為の窓もなくて正確に何時だか分からない。でもそろそろいいんだろうね。リースは鍵を使って監房の扉を開けた。留置場の外を覗くと誰もいなさそう。リースは取り調べを受けた場所を目指した。まずは取られた銃と爆弾を取り返さないといけない。がっかりな事には武官がまだそこにいた。思っていたほど夜が更けていないか、ここは二六時中誰かが部署についている。その武官が椅子から立ち上がってリースの方に向かった。リースはそこから逃げ出して外の角を曲がって隠れた。武官がリースに気付かず通り過ぎた。どこに行ったか分からないが今がチャンスだ。リースはもう一度中に入って押収品が保管されそうな所を探した。運よくそれが割と簡単に見つけた。リースのライフルは直ぐに見つかったが、爆弾の方は捜し出す必要があって少し時間が掛かった。目当ての物を手に入れてリースはそこから離れようと思ったが、外の様子を見たらさっきの武官が戻ってきていた。今出たら絶対に見られる。リースはドアの後ろに隠れ、取ってを握ってドアを出来るだけ自分に引き付けた。武官が通り過ぎたらリースは直ぐにそっと出て行った。リースが次に目指したのは便所。誰も利用していないかを確認して一番奥の仕切った小部屋に入った。謎の研究者に頼んだようにそこに白衣とカルテと眼鏡があった。


**「もう随分助けてもらったんけど、まだ頼みたい事がある」

「何だ?」

「一番近い便所はどこにある?」

「トイレならそこにあるじゃない」

「そう、じゃなくて。便所の一番奥の小部屋に白衣を入れておいて欲しい。そうね、後、カルテと眼鏡も」

「なるほど。そういう事か。地下への階段の右にあるよ。用意しておこう」

「最後に、伝言を頼みたい」

「伝言?」

「街の九番地区にゲントリオズという金物屋がある。そこの店員に今夜作戦続行って伝えればいい」

「いいけど。他には?」

「いや、それで十分。恩に着る」**


リースは白衣を着て眼鏡をかけた。カルテを手に持ち、便所を出て研究施設への階段を下った。やはりまだちょっと速かった。殆ど誰もいなかったようだが明かりはまだついていて、たまには廊下で研究員に出くわす。その度にリースが目を合わずにカルテを読むふりをしながら擦れ違った。その調子で地下四階へ辿り着いた。修理の形跡はあったがやはりこんな短時間で扉を直せない。今回は言葉通りのこの最大の難関は問題にならずくぐり抜けた。この地下四階に出入れ出来る人は限られているから、ここで誰かを見かけたら顔を見せないように完全に避ける事にしようと思ったが、精鋭少数の為か誰にも遭遇しなかった。この階で働く研究員の大多数はもう帰ったみたい。捕虜達が監禁されている所に辿り着いたらそっちのドアもまだ直っていない。中に入ると暗いが、あえて明かりをつけない。

「メリア、才機、海、いるか?」とリースは囁いた。

「お〜い。いたら返事して」

「リース?リースなの?」と海の声が聞こえた。

「お、海か。無事だったか?」

「あ、ああ、大丈夫。どうやってここに」

「その話は後だ。他の二人は?」

「いない。メリナならついさっきどこかへ連れて行かれた。何かの実験を始めると思う」

「っちぇ。夜遅くまでご苦労なこった。誰か、この鉄棒を壊せるような能力持ってないか?」

「ねぃ、よ。あったとしてもスピーカーから定期的に流れる音で能力を使えない」と捕虜の誰かが言った。

「うん。この部屋の中心にスピーカーあったな。才機がいればそれを壊せばいいと思ったが。とりあえず壊して置こう」

リースは目を細くして暗闇の中でスピーカーを探した。

「あれか」とリースがライフルをこん棒にしてスピーカーを叩き落とした。


メリナは実験台に縛り付けられ、研究員と二人で地下四階のどこかの部屋にいる。

「研究所長は人使いが荒い。遅いし、今日はもう帰りたい」とその研究員が愚痴をこぼした。

「あたしに何をするつもり?」

「ん?開発中の活性剤ってところかな。君達異能者の能力を音波で影響を与えることは出来るが、もっと永続的な効果が望ましい。そこで注入によって音波以上の効能を出したいと思っている。まぁ、あの音波はどのように異能者に働き掛けているのかまだ完全に理解していないから成果は直ぐ出ないだろうけど、その為の実験」

研究員は薬瓶に注射器を差し込んで何かの液体でたっぷり満たした。

「こっちは力を増加する方なんだけど、多少の効果はあるみたい。音波の異形者への影響は微々たるものらしいから研究所長は是非異形者に試したいというんだ。どうなるんだろうね。その耳は大きくなるのか?増えるのか。他に何かも生えてくるのかな。予想外の副作用も十分にありうるけど」と研究員が注射器を持ってメリナに近寄った。

「あ、あたし、注射凄く苦手なんだよね。やっぱ別の方法で試してみない?」とメリナが焦って束縛から逃れようともがいたが、当然無理だった。

研究員はメリナの所望を無視してガーゼで彼女の腕に消毒剤を塗った。準備が出来たところで彼は注射器をメリナの腕に持って行った。

「や、やめて···」とメリナが近づく針を恐怖の目で見ながら無駄に腕を外そうとした。

バシン!

「ぐっ!!」

今の音でメリナも研究員もびっくりしてドアの方に向いた。ドアが開けると他の研究員が入ってきた。

「一体どうした」とメリナの隣の研究員が言い掛けたが、入ってきた研究員は片手で気絶した兵士を引き摺り、もう片方で自分にライフルを向けた。

「その注射器が彼女の肌に触れた時はお前の脳に弾が打ち込まれる時だと思え。直ぐに離れろ」とリースが低いけど怒りで満ちた声で言いながら背筋が凍るような恐ろしい目を研究員に向けた。

「お兄ちゃん!」

研究員はゆっくり後ずさりした。

「後ろを向け」とリースは兵士を床に落としてドアを閉めた。

研究員は言われた通りにした。そして程なく後ろからリースに打たれて倒れた。リースはメリナの束縛を解くと妹に抱き付けられた。

「怖かったー!なんでお兄ちゃんがここにいるか分からないけどよかったー!」

「俺はまだ才機を探さないといけない。こいつらを縛り上がるのを手伝ってくれ。ここらの機械のコードを使って」

兵士の手足にコードを巻いているとリースはその人のホルスターに入った銃に気付いた。麻酔銃だった。

「ほー。これは便利だ。銃よりずっと静か。貸してもらおうと」

兵士と研究員の自由を完全に奪った後、リースは保護テープを出した。

「こういう使い方もあるからね」とリースは二人の口の上にテープを貼った。

「さて、才機はどこにいるか心当たりはないか?」とリースが聞いた。

「さっぱりだ」とメリナは首を振った。

「じゃ、俺一人で探してくる。捕虜達がいる部屋で待っていろ」

「大丈夫か?」

「多分。この階で人はあまり残っていない。さっきのように不意打ちにすればこっちのもんだ。兵士は研究員がいきなりアッパーカットを見舞ってくると思わない。一番の問題は警備員が巡回し始める前にここをトンズラしらないと。さ、速く行って」とリースが先に出た。

リースはあっちこっち歩き回ってさり気なく色んな部屋の窓から中の様子を見た。その殆どは誰もいなかった。たまには研究員が資料に目を通したり、何かを調合したりしていた。そしていよいよ才機がいる部屋を見つけた。但し、さっきみたいにそううまくはいかない。なんせ、研究員も兵士も三人ずついやがる。研究員の一人はウェバーだった。中に踊り込んだところで兵士のどれかにやれるだけだ。リースは何回もその部屋の窓を通りかかって横目で中を見て何かの隙を見出そうとした。一方、才機は未だに同じ実験で使われていた。ずっと才機の左腕の断片を何とかして回収しようとしていた。

「今日はもうそろそろやめますか?何時間もやっていて一向に進捗しません」と研究員の一人がウェバーに言った。

「電流、酸、高熱、凍結、振動、浸し、何をやっても無駄。この体の特性は一体何なんだ?···もうちょっと続けよう。電圧を増してもう一度電流を流してみよう。」とウェバーが言った。

痛みこそないが、こんなに左腕をいじられたんじゃ少し痺れる。研究員がもう一度才機の腕に留め金を付けた。普通ならスタンガンで感電される気分が、今の才機には痺れを僅かに悪化させているぐらいだ。しかし、だからと言って無論愉快な経験ではない。才機はそろそろ堪忍袋の緒が切れそうだ。こいつら、何様のつもりだ?平気な顔をして同じ人間にこんな真似が出来る外道だ。少しは他人の痛みを味わわせて欲しい。そうだ。こいつらを小さい部屋に閉じ込めたり、体中を切り裂いたり、酸を掛けたりしたらこんな実験を続けられるのだろうか?

「所長、彼の目を見てくさい。何だか光っていませんか?」と研究員が言った。

「光ってますね。どういう事だろう?君、その目はどうした?」

「目?何のこと?」

研究員が自分の左腕を掴んだ。

「何だか急に腕が痺れてきました。過労ですかね」

「うん。私も急に来た。やっぱり続きは明日にした方がいいかな」とウェバーがライトペンを出して才機の光る目を調べようとした。

だがライトを才機の目に近付かせた途端にウェバーが自分の目を閉じて怯んだ。

「も、もしかして目に強い光を感じましたか、今?」と研究員がウェバーに聞いた。

「え、ええ」

「私もです」

二人は少しの間お互いの顔を見ていた。

「ハリソン、目や腕に何か異変を感じないか?」とウェバーが忙しそうにノートを殴り描きしているもう一人の研究員に聞いた。

「ん?別に何も」とその研究委員がノートを書き続けた。

ウェバーはもう一度才機の目に光を当てた。本人は何ともなかったかのに、また自分が目を開けていられなかった。

「これは···」

ウェバーは才機の腹を軽く叩いてみた。自分は特に何も感じなかった。もっと力を入れて拳を才機の腹に落とした。特に何も感じなかった。

「今のちゃんと感じている?」とウェバーが才機に聞いた。

「感じてるけど?」

ウェバーは指の側面で唇を擦って考えていた。

「君はくすぐったがる方?」

「···人並みに」

ウェバーはテーブルに行って羽ペンを手に取ってから才機の足の方に回った。

「彼の目を見ないようにして」とウェバーが才機の隣に立っている研究員に指示した。

ウェバーは才機の靴と靴下を外して羽ペンで足裏をくすぐってみた。才機は足を引くという極普通の反応を示した。

「じゃ、今度は彼の目をしっかり見て」

研究員は少し屈んで才機を目をじっと見た。ウェバーはもう一度才機の足裏をくすぐってみた。すると今度は反応しなかった。代わりに研究員が後ずさりした。ウェバーと研究員が視線を交わすと研究員が頷いた。

ウェバーはもう一度考える仕草を見せてから研究員に指示を出した。

「彼にあのヘッドホンを被せてくれ」

研究員がそうしている間にウェバーは操作盤に歩み寄ってダイアルを一気に回した。才機にヘッドホンが装着しているのを確認して次の指示を出す。

「今度は見なくていいよ。私が見る」

ウェバーは一瞬だけ操作盤のスイッチを入れてからまた直ぐに切った。その一瞬の間に部屋にいる誰もが聞こえるほどの大きな甲高い音がヘッドホンから漏れ出た。

だが目立った反応を示したのはウェバーだけでした。彼は耳を押さえながら少し不快な顔で才機に問いかけた。

「何も聞こえなかったかね?」

「何が?」

《なるほど。この状態だと彼の体に対する悪影響、若くは単に体が嫌がる刺激を無意識に遮断して目が合った対象にその感覚を覚えさせる。驚異だ。実に驚異な現象。だが音すらも拒否されるとなると能力を抑える音波も効果ないのでは?これは危険だ。しかし、もしそうならなぜ今までこの能力を使わなかった。反応を見るとひょっとしたら本人は自分のこの能力について知らないのか?》

でも流石に才機も状況を把握してきた。デイミエンと戦ったあの時だ。あの時と同じ能力が今発揮されているだろう。その証拠に少し前から腕の痺れが感じなくなった。ウェバーほど頭の回転が速くなかったが、才機にも考えが来た。

これはうまく利用出来れば自由になれるかもしれない。生身の体に戻ればこの部屋にいる全員に相当なショックを受けさせることが出来る。その隙にまた変身し、動けなくなった兵士達が回復してスイッチを入れる前に処理する。行ける。もうこれしかない。だがウェバーの話によると成功させるにはこの部屋の全員の注意を集める必要がある。肝心の兵士はろくにこっちを見ていない。才機は深く息を吸ってゆっくり入った。

「ぎゃああああああああああ!」

才機はいきなり大声を出して激烈な痛みに襲われているように見せかけた。何事かと全員がもがき苦しむ才機を見た。全員の目が自分に向けているのを確認出来たら変形を解けた。研究員と兵士は一度に苦痛の声をあげて倒れた。

《よし!》

才機はまたガラスの体になって腕を振り解いた。振り解くはずだった。才機は察した。自分の体をうまく動けない。あの力は自分と相手の体を騙すだけだ。痛みを感じなくても才機の体はちゃんとショックのダメイジを受けた。体の変形を起こす精神的な行動は取れても身体的な行動はそうはいかない。失敗だ。急に六人が原因不明なショックを同時に受ける偶然はないし、才機の仕業だと分かる。今度はどんな実験に使われるのだろう。あらゆる方法で痛めつけられて、それを他の捕虜に移させるとか?兵士達は立ち直りかけている。才機は拘束を破るに成功したが、まだ自分の体を支えるほどの力は足に戻っていない。間に合わない。最後の希望と共に才機の目に宿る光がどんどん消えていった。その時、もう一人の研究員が部屋に飛び込んできて麻酔弾を三人の兵士の首に打ち込んだ。次に才機の近くの研究員が同じ目に遭った。但し、麻酔銃は五発しか入っていないみたい。引き金を何回か引いたが、何も出てこない。よく見ると···その研究員はリースだ!リースは弾切れになった麻酔銃を捨ててライフルを最後の研究員に向けた。ウェバーだ。

「才機、大丈夫か?」とリースが聞いた。

「あ、あぁ。何とか」と才機がゆっくり立った。

「あんたは確か、昨日の···留置場に入っているはずだ。なんでここにいる?」とウェバーがリースに問いただした。

「言ったろう?妹に何かしたらぶっ殺すって。でもまぁ、何かされる前に助け出したからお前は命拾いしたね」

「リースにぶっ殺さずに済んでも、俺は違うけど。お前の傲慢さに限界はないのか?人の命を何だと思っている?」と才機がウェバーに聞いた。

「人の命だと?何だそのきれい事は?じゃ、ネズミの命はどうなんだ?人間の生活を便利にする為にネズミは何百万匹実験に使われていると思う?それで怒った事はあるか?ないだろう!同じ命なのに。人間の命の方がネズミより価値があると言うなら傲慢なのはあなたの方だ!私はネズミだろうが、人間だろうが、科学の為に実験を行う!」

「急いでいるんでお前と議論する暇はない。俺は今は人間の代表としてお前を糾弾している。もし恨みを持ったでっかいネズミが現れたらその時はネズミに弁解してみるといい」と才機はそのガラスの拳を振り上げた。

「ま、待ってよ!そもそもあの異能者達は犯罪者だ!どう扱われても文句は言えない!」

才機は溜め息をついて感情のかけらのない顔でウェバーを見た。

「犯罪者にも人権がある事は取りあえず置いておいて、五秒以内に彼らは何の罪を犯したか言えたら殴るのをやめる」

「そ、それはもちろん!その、だって···彼らは帝国軍に逮捕されて···そして···そうだ!テロ集団に入っていた!」

「入っているだけで罪にならないよ」と才機は拳をウェバーの顔に突っ込んだ。

と、思ったら才機のつやつやした拳は寸前のところ止まった。一歩下がって才機はリースに質問を投げた。

「な、俺の目は何か光ったりしてない?」

「してないけど?」

リースがそう答えるが早いか才機は今度こそ渾身の一撃をウェバーの頰にぶち込んだ。但し、ウェバーに当たる直前に拳を普通の人間のものに戻した。ウェバーはぐらっときて倒れてから動かなかった。

「何だ、手加減したのか?」とリースが聞いた。

「いや、手加減したくなかったから普通の体に戻った。思い切り殴らなきゃ気が済まなかったが、殺しまではしない。前にその間違いを犯すところだったことがある」

「慈悲深いだね。でも確かに急いではいる。皆はあの監房のある部屋で待っている」

「やっぱり、まだ作戦を諦めていないんだな」

「ここまで来たら引っ込みがつかない。昨日より幸先はいいし、絶対遣り遂げる」

才機とリースはその部屋を出て急速に且つ密かに他の皆と合流しに行った。着いたらリースは入ってからドアを閉めて明かりをつけた。

「お兄ちゃん、才機、よかった!」と監房の格子にもたれて座っていたメリナが安堵して立ち上がった。

「才機は無事か?」とその監房に入っていた海がメリナに聞いた。

「見る限りでは」

「じゃ、爆弾を設置するから、才機は捕虜達を」とリースが言った。

才機は手短の監房から次々とロックをもぎ取った。八つの監房をこじ開けたら海は抱き付いてきた。

「よかった、無事で」

「あ、あぁ。海も」と才機は照れ臭くて海の目をまともに見れなかった。

「監房の中に小さな女の子もいたよね?」

「んー、いたっけ。いたような」

「探してくる」と海は監房の外に出来ている人集りに紛れ込んだ。

「まさかてめぇに助けられるとはな」と最後に監房から出てきた捕虜が言った。

不機嫌そうなラエルだった。

「お前は確か···アラニアだったっけ?で会ったあの放火魔」

「あれ以来の対面じゃないだろうが。もっと最近に会ってる」

「そうだっけ」

「何だ?俺何か目もくれないってか?そりゃ仕方ないかもな。何せあの時はお前が発狂した猛獣みたいにここにいる人の三分の一を一人に二秒も掛けずぼこぼこにしたんだからな。とびっきり強い圧縮炎を見舞ってやろうと思ったが、あいにくてめぇだって気付いた時にゃもう遅かった」

《リベリオンのアジトに乗り込んだ時の事か》

確かにあの乱闘で才機が相手にした人の顔を思い出せと言われたら無理だ。そもそも色々なの攻撃を受け過ぎて視界があまり利いていなかった。

「そうか。さっきから何人が変な視線をこっちに投げかけたような気がしたんだけど、そういう事か」

「あんた、向こうにももう一人がいる」と捕虜の一人が言いに来た。

「ああ、そうだったな」と才機は人込みを押しのけて部屋の反対側に行った。

忘れていなかったが、忘れたいと思っていた。才機はデイミエンがいる監房をこじ開けた。

「そこで普通人が爆弾を設置している。今から脱獄するんだけど好きにして」と才機が言ってから皆の所へ戻った。

本人は才機を見向きもせずその座っていた。

「準備オーケー。皆、下がれ。壁に穴を打ち抜くぞ」とリースが周りの人に注意した。

そして言った直後に警報が鳴った。

「地下四階で囚人が暴れ回っている。繰り返す。地下四階で囚人が暴れ回っている。警備員は直ちに鎮圧に向かえ」

放送の声はウェバーのだった。

「あの野郎、もう元気になってやがるのか?」とリースが言った。

「やっぱりまだ本調子に戻っていなかったみたいだ」と才機が言った。

「どうする?警備員が直ぐに駆け付けてくるよ」とメリナが言った。

「リース、早くその壁を吹き飛べ。俺は入り口を封鎖する」と才機が言った。

「よし、行くよ」とリースはボタンを押して皆と一緒に避難した。

才機は背中をドアに押し付けて入り口をバリケードした。

「何やってんだ、お前?退けよ、邪魔」とラエルが才機に近付いてきた。

「何って、警備員を足止めしなきゃいけないだろう?」

「バカか、お前?奴らはあの能力を封じる銃を持っているって事を忘れたのか。取ってがなくて穴から丸見えだし、てめぇは五秒も持ちこたえられない。俺に任せろ」

才機は退き、ラエルが指をドアの枠に当てた。すると真っ白な火は指から伸びてラエルは高熱の炎でドアをその枠に溶接し始めた。才機がその作業を見ている内に爆発音がした。振り返ったら部屋の一部が煙に覆われていた。その煙が治まり始めるとリースは全員に指示を出した。

「皆、管に入って下水道まで辿って行けばいい!そうしたら」とリースが急に黙った。

壁は破壊されていない。黒い焼け焦げの跡があっただけで、ひびは一つ入っていない。

「え、威力が足りなかっただと?!」とリースは信じられない面持ちで壁を見ていた。

「大丈夫だ。俺が二発目を入れてやる」と才機は全力で壁をパンチした。

だがが鈍い物音が大きく鳴り響いただけで壁は微動だにしなかった。

「うそ。どういう」と才機が言いかけてウェバーの言葉を思い出した。

《それなりの非常事態対処計画はしている。その部屋の壁はブロコニウムで裏打ちされている》

「まさか、この壁もブロコニウムで出来ている?」

異能者を幽閉する場所だ。そうだとしても何ら不思議ではない。

「やばいよ、リース。この壁を壊すのは無理かも」

「そんな···逃走ルートはこれしかないんだぞ!」とリースが焦り出した。

「囚人が監房から抜け出した。向こうの壁を破ろうとしているようです」とドアの穴から覗き込んでいる警備員が言った。

「だったら早く拘束せんか?!何でそこで突っ立ている?!」と赤い頬に手を当てているウェバーがやってきた。

「それが、ドアがびくともしません。溶接されているようで開きません」

ラエルがちょうど最後までドアの溶接を終わらせてそこから離れた。

「だったら切断トーチか何かを持って来い!それぐらい自分で考えろ!」とウェバーが警備員達を叱責した。

「はい、ただいま」と一人がウェバーの命令を実行しに行った。

この予期しない展開とドアの向こうにいる警備員の存在で捕虜達は恐慌を来たした。

「ここは一生出られないのか?!」

「やっぱ無理だ、ここから逃げるなんて」

「実験はもう嫌!」

才機とリースはお互い顔を見合わせ、これはもう万事休すだと二人の目に移っていた。誰かが後ろから才機の肩に手を乗せた。才機は振り向いて、それがデイミエンの手だと分かった。

「もう一回やってみろ」とデイミエンが言った。

「この壁にブロコニウムが含まれている。俺でも壊せない」

「いいから、もう一回やってみろ」

《そうか。この人は異能者の力を増幅出来るんだった。特に変わった感じがしないけど》

才機は壁に向かってもう一度拳を振り上げた。腕の筋肉を張り詰めて、出来る限りの力を溜めた。拳を推進させ、壁を貫くとてつもない音がパニック状態になっていた捕虜達を一瞬で静めた。才機は腕を引っこ抜いて、腕と同じ大きさの穴が壁に出来た。

「よーし。この穴を大きくするぞ」と才機が一つまた一つ穴を入れて、人が通れるような大きさにした。

壁に入った穴はその向こう側の管の穴にもなっていて水が零れ落ちてきた。

「逃走ルートが出来た。皆、落ち着いて一列縦隊で管に入って。メリナ、お前は先に入って下水道を案内してやって」とリースが指示した。

「わかった」とメリナが管に入り込んだ。

「囚人達が壁に穴を開けて逃げて行きます」とドアの穴から見ている警備員が報告した。

「まだか、あののろま?!」とウェバーが先ほど警備員がドアを開ける為の道具を取りに走って行った方向を見た。

その警備員は今何かを持って廊下を駆けてきた。

「切断トーチを持ってきました!」

「早くこのドアを開けろ!」

「は!」

警備員は切断トーチに火をつけてドアを開ける作業に入った。小さな火花がドアの反対側で散り始めた。これでもう時間との勝負だ。脱出かドアの突破、どっちが先か。ドアの縁が半分まで溶断された時、管に入った人数は半分より少し多い。警備員の方がちょっと遅れているようだ。ドアに取り掛かっている警備員は何かに気を取られて手を止めた。もう既に溶断された部分が何者かによって溶接し直されている。

「それをよこせ」とウェバーが隣の警備員の音波銃を横取りしてドアの穴に当てた。

引き金を引くと溶接が止まった。ウェバーは音波銃を警備員に返した。

「さぁ、続けて」とウェバーがイライラと足踏みした。

「ちぇ、ばれたか」とラエルは炎が出せなくなった自分の手を見て、皆が集まっている場所に行った。

「ドアは後数分しか持たないよ」とラエルが言った。

リースは溶断されていくドアの方を見た。

「十分だ。問題は追っ手だ。俺達より相手の方が早く移動出来る。今の内に下水道で出来るだけ引き離して追跡者をまくしかない」

「あそこに入るの?」と海の手を握っている小さな女の子が聞いた。

「そうだよ。もうすぐお母さんに会えるよ」と海が言った。

「でも···怖い。溺れない?」

「大丈夫だ。お姉さんも一緒に行く。ほら、私達の番よ。さ、入って」と海は女の子を持ち上げた。

女の子は躊躇したが海に促されて管の中を這って行った。海はその次に真後ろで付いて行った。暫くすると警備員が遂にドアを叩き倒して部屋の中へ殺到した。捕虜はもう全員いなくなっている。

「そこの管を使って逃げたんだろう?何ぼさっとしているんだ?早く追わんかい?街から出たら二度と取り戻せなくなる」とウェバーが言った。

警備員は速やかに管に入って捕虜達の後を追った。

その捕虜は今狭い下水道で押しくらまんじゅうしているように非常に密集した状況になっている。彼らは一人ずつ頭上のマンホールから降ろされたロープを登って、地上で待っている馬車に乗り込んでいる。後ろからまだ捕虜が来ていてその人集りを増大させる。

「こりゃ相当時間がかかるなぁ。間に合うか?」と才機が不安になってリースに呼び掛けた。

群衆の端にいたリーシは後ろの方を見た。

「警備員はこの下水道の構造が詳しいと思わない。何回も間違った方向に行ってくれれば大丈夫が···」

一人一人捕虜が下水道から逃げ出した。デイミエンの番になったら、彼はロープの前に立ってマンホ−ルをじっと見上げた。

「考え直しているなら後方でやってくれない?ちょっと一刻を争う事態なんで」と才機が言った。

「ああ。確かに普通人の手を借りるのはしゃくだ。だがその前に」とデイミエンは才機の方に振り返って手枷を上げた。

才機にとってデイミインの枷を取るのがしゃくだが、体を変形させてデイミインの手と足を繋ぐ鎖を引きちぎった。手と足の自由を取り戻したデイミエンはロープを握って登り始めた。上部の方まで行ったら、地上の男は手を差し伸べた。

「さ、こっちへ」

デミイエンは止まってその手をじっと見た。随分躊躇ってからデイミエンもゆっくりだが、手を伸ばした。

「やばい!警備員が直ぐそこまで来ている!見つかっちまう!」と見張りをしていたディンが走ってきた。

まだ二十五人ぐらいは残っている。デイミエンの手はもう地上の男の手に触れる寸前だったが、その手が止まった。

「早く、掴まれ!」と男が急かした。

だが掴むどころかデイミエンの手は逆に引いた。彼はロープを離して下水道の底へと落ちた。着地場所は海の目の前。驚いたのは勿論だが、やはりその男はどうしようもなく苦手で、目が合うと海は視線を逸らした。

「何やってんだ?!警備員は今にも来そうだ!」と才機が言った。

「こうなったら戦うしかない。能力に頼れると思うなよ」とリースがライフルを出した。

「その必要はない。俺達は囮になる」とデイミエンが言った。

「え?」と才機は聞き間違えたのではないかと思った。

デイミエンは人込みの後ろに行って三人が一緒に付いて行った。ラエル、ディン、そしてアイシス。

「囮って何をする気?」と才機が聞いた。

「囮に一つの意味しかないと思うが、奴らを違う方へ誘導する」

「何でだ?」

「そうね。そこの女に手足を直してもらったお礼って事にしよう」とデイ ミエンが一旦海の方を見てから要求を出した。

「その代わり、この人達が全員無事に逃れるようにしろ」

「お前はどうするんだ?」

「こっちの心配はしなくていい。ここから出たらもう一度リベリオンへの勧誘を始める。あそこに監禁される間も外界との···連絡は取り合っていた。ジェイガルと他の部下も身を隠して待っている」

《この人、まったく懲りてない》

「前と同じような戦力を結集するまでにああいう組織が増えていればいいんだが」とデイミエンは手をアイシスの肩に乗せた。

アイシスは手を足元に向けて、皆がいるエリアを完全に隔てる氷の壁が建てられた。その壁に自分の姿しか映らなくて向こう側が見えない。だが声は聞こえる。

「いたぞ!」

「囚人達発見しました!こっちです!」

その場から走って行く足音の次に、走ってくる足音がした。

「なんだ、この氷は?」

「そんなの放って置け。あっち行ったんだ。確か、あれはリベリオンのリーダーだった。皆、こっちだ!絶対逃がすな!」

その後、人が走って通り過ぎる音がずっと続けた。その間は物音を立てずに捕虜達はじっとしていて氷の壁の方を見た。そのうち何も聞こえなくなって、念の為にもうちょっと待ってから脱出を再開した。

「さぁ、お姉さんの背中に乗って」と海がしゃがんだ。

女の子は腕を海の首の周りに巻き、海は彼女を背負ってロープを登った。マンホールから差し伸べられた手を掴んで下水道から引き上げられた。その同調者を見て海はびっくりした。同調者もまた海を見てびっくりした。

「オーナー!どうしてここに?」

「海こそなんで出てくるんだ?」

二人お互いを見て、元の理由が分からなくてもどういう事情か大体想像出来た。だが詳しく話すのはまた今度でいい。

「この子のお母さんがメトハインにいて、毎日王宮に訪ねてずっと探してるの。 何と会わせてあげたい」と海が言った。

「分かった。俺の馬車はそっちだ。あれに乗せてやって。満員になったらガルドルに向かうんだけど、面倒を見てくれる奴は知っているから一旦その人に預けて、明日俺がお母さんを探して知らせてあげる」

「ありがとう。さ、こっちだ」と海は女の子の手を取ってオーナーが示した馬車に連れて行った。

その隣の馬車がちょうど一杯になって皆を運んで行った。

「もう少しであなたもガルドルという町に行くよ。そこで待てばお母さんが向かいに来るから」

女の子は頷いた。遠からずして最後の一人がマンホールから出てきて、その人が乗り込んだ馬車も夜の闇へ消えた。

「終わった···。遂にやったな、おい!」とリースは才機の肩を揺さぶった。

「あ、ああ。やったね」

「おい、あんた達、ご苦労さん。俺の馬車はいらなかったみたいけど、せめて皆を送ってあげる。どこに向かっている?」と男が声を掛けた。

「そうだな。いくら近くても流石にメトハインに止まるのを止そう」とリースが言った。

「じゃあ、ドリックまでお願い」とメリナが言った。

「おお、任せて。四人にしちゃ広過ぎるかもしれないが、ま、脚を伸ばしてゆっくり休むといい」

それは幌馬車で確かに広かった。四人が入って四分の一しか使っていない。他の馬車と比べて動きは速くないから最後に残ったのだろう。やっと一息が出来て全員は自分がどれだけ疲れたかに気付いた。海は才機の隣に座ってその腕に寄り掛かっている。彼らの向かいにリースとメリナは同じ体勢で休んでいた。静かのはずの真夜中はうるさく回転する馬車の車輪と馬の足音で乱される。

「彼奴ら、どうなるんだろうね」と才機が不意に言った。

「ん?囮になってくれた連中か?分からないけど、まぁ、大丈夫だろう。距離さえ取ればあの音波銃の影響は受けないし、女の方はあの氷の障壁を時々使えば足止めとしては効果抜群のはずだ」とリースが言った。

「でもまた狙われる心配はないんじゃない?これで彼らはあんた達に大きな借りが出来たんだから」とメリナが言った。

「だといいが。そもそも彼奴らをあの状況に追い込んだのも俺だからねぇ」と才機が言った。

「彼が最後に言ったあれはどういう意味だろう?異能者の同調者が十分に増えれば復讐を諦めるのか?」と海が聞いた。

「どうだろうね。何人になれば十分なのか分からないし、増えるとしてもこの組織みたいにその姿勢を公にしないかも」とリースが言った。

「公と言えば、私達は大丈夫?顔見られたから手配書に載ったりしない?」と海が聞いた。

「賭けだな、それは。手配書が出ても捕虜を研究施設から逃がした罪じゃなく、別の罪をなすり付けてくるだろう。人体実験が行われたなんて世間に知られちゃまずいからな。だからもしかたら、誰にも何も言わないようにあえて俺達を刺激さないで放って置くかもしれない。まぁ、時間が経てば分かる事だ。どうだ?これから野宿生活っていうのは面白そうじゃない?」とリースは最後の方をメリナに向けた。

「冗談じゃない。温かいベッドと風呂がなきゃ生きて行けないよ」とメリナが言った。

「じゃ、精一杯祈る事だな」

「他人事みたいに言うな」

「あ、そうだ。まだ一番肝心な事は聞いてない。リースはどうやって助けに来れた?」と才機が聞いた。

「そう言えばそうだ。どんな手を使った?」とメリナがきちんと坐り直してリースの顔を見た。

「まだ言ってなかったね。自分の手柄にしたいところっだが、実は協力者の手引きで脱獄出来たんだ」

「協力者って、フリツ?」と海が推定した。

「いや、でも同じ研究者だった。それも···お前達の知り合い」

「俺達の?」と才機が言った。

「そう。どうやら隠し事をしていたのは俺達だけじゃなかったよ、妹」

「まさか、協力者ってクレイグ?」と海が聞いた。

「名前は教えてくれなかったが、お前達が研究を手伝っている研究者はそんなにいないだろう」

「じゃ···研究の事も全て聞いた?」と才機が低い声で聞いた。

「おお。びっくりしたぜ。お前達にはそういう秘密があったとはな」とリースも同じく声を低くした。

才機と海は目と目を見交わした。

「別に隠していた訳じゃないんだけど。ただ、言ってもどうせ信じてくれないから言わなくてもいいと思っただけだ」と才機が言った。

「それに言ったら絶対電波だと思われる。言えない、普通。っていうかよく信じたんだ」と海が言い足した。

「何言ってんだ。俺はそんなに心の狭い人に見えるか?」

「と言ってもね···」と海が言った。

「え、なになに?皆して、あたしだけ輪の外」とメリナが不満そうに言った。

「彼らの故郷の事。俺が教えてやろうか?お前達の方は分かりやすく説明出来るんじゃない?」とリースが言った。

海は運転手が聞こえないだろうと踏んでメリナに言った。

「説明って言っても私達もよく分からない。私と才機はこのルヴィアじゃなく地球という違う世界から来たとしか言いようがない」

「··················は?」と長いポーズの後メリナもリースも同時に言った。

「何、その顔?信じたんじゃなかったのか?」と才機が聞いた。

「いやー、実はその研究者に言われたのは」


**「それはもう、彼らの故郷について」

「故郷?」

「そう。え?まさか知らないのか?仲間なのに?」

「何が?」

「いや、知らないなら、私の口から言わないでおこう。今のを忘れて。別に知らなくてもいいでしょうし」**


「え?騙したのか?」と才機が聞いた。

「いや、騙すつもりとかそんなんじゃなくて、その、ちょっと茶化そうと思って、まさかそんなに大した、ってまじかよ?!」とリースは興奮していたが声をあまり上げないようにした。

「ほら、やっぱりいかれてると思っている」と海が言った。

「思ってるよ、当然!普通そうだろう。しかし、直ぐ聞き捨てられない自分も相当いかれてると思う···。そりゃ、二人はどこかがずれているとずっと思ってたけどさ。他の人と雰囲気が違うっていうか。でも故郷の秘密って、てっきり外国の人間と思った。世界が違うなんて。まじで言ってるのか?」

「じゃ、何?信じてるの?信じてないの?」と才機が聞いた。

「信じてねぇよ!本当にそうだというのか?秘密を暴こうとした俺への嫌がらせとかじゃないの?」

「じゃ、別にいいよ、そういう事にして」と才機が言った。

「いや···でも···二人がそこまで言うなら···本っ当にまじで言ってるの?」

「四回目だよ、その質問」

「何か証拠とかはないの?」

「証拠ってなんの?」と海が聞いた。

「それは···宇宙船とか?」

「ないよ、そんなの。ってか同じ宇宙ですらないみたい、俺達の世界は」と才機が言った。

「何それ?」

「お前が会った研究者の話によると、この世界と俺達の世界は距離で離れていない。次元が違う」

「ますます分からない」

「メリナはずっとそこで黙っているけど···どう思う?」と海が聞いた。

「えーーーと。何って思えばいいか分からない。これはきっと何かを冗談だと思いたいが、どうもそういう雰囲気じゃなさそうだし、あんた達がそんな嘘をついて何も得る事はないし、恐らくお兄ちゃんを助けた人の話をしなかったら、今この会話はしてないと思う。だから可能性は三つ。あんた達は本当に別世界から来た。別世界から来たと思い込んでいるだけでやっぱ電波。あるいはお兄ちゃんがさっき言ったようにあたし達をからかっている。三つ目は今直ぐに確認出来ると思う。いいか?あんた達が今とんでもない事を言い張っている。これからの付き合いに大きな影響を与えるほどのね。だからもし冗談なら冗談だと言って皆で笑い飛ばそう。お願いだから」とメリナは大真面目に言った。

才機と海はお互いを見て、言葉を利用せずに何かの結論に達した。才機は話そうと口を開けたがメリナに邪魔された。

「待って。今から質問をするから正直に即答して欲しい。約束して。絶対に正直に即答してくれるって。簡単な質問だから」

「約束する」と才機が言った。

「よし。行くよ。即答だからね?準備はいい?」

「おお」

「···今···海と見つめ合った時、何って考えてた?」

才機は質問にびっくりして、即答と呼ぶには二秒遅かったが、

「ここはいっそ冗談だって言っておいてなかった事にしようと」

メリナは溜め息をした。

「あ〜あ。じゃ、三つ目は外れだね。三つ目だったら一番楽だったなのに。って事は本当に別世界から来たか、そう思い込んでいるだけだ。となると······あたしはどっちでもいいや。思い込みならあたしは電波系の友達がいるという事だけで、それもそれで面白いかも。本当に別世界から来たなら、そこに戻ると言わない限り問題ない」メリナは本当にどうでもいいと言わんばかりにもう一度リースの肩に寄り掛かった。

「メリナ···」と海が言った。

「流石俺の妹だ。いい事を言う。俺もそれで行こう。信じる信じないか悩むのは面倒臭い。どうでもいい。まぁ、正直信じてないけどどうでもいい」

才機も海もその結論に笑うしかなかった。

「あ、そうだ。伝言を頼まれたんだ、あの研究者に。来週あたり実験がしたいから準備が出来たら使者を送るって」

「実験はもううんざりだけどなぁ」と才機が言った。

「ま、電波者同士楽しんできて」

その内、運転手が垂れぶたを開けて、ドリックへの到着を告げた。

「着いたぞ。あんなに働いてもらったのにこれぐらいしかしてやれなくて悪いな」

「いいって。俺達の宿への道を教える」とリースが助手席へ移った。

宿に着いたらもう午前二時は過ぎていた。メリナは馬車から降りようとしたが、海に呼び止められた。

「あ、メリナ、待って」

「ん?」

「耳」

「あ、そうだ!完全に忘れてた」とメリナは頭の耳を手で隠した。

海は運転していた男に話し掛けた。

「ね、その帽子は大事な物?」

「これ?いや、それほどでもないけど」

「じゃあ、今回の働きの報酬として頂いていい?」

「ん?ああ、いいよ。御安いご用」と男は帽子を取って海に渡した。

海はその帽子をメリナの頭に被らせた。

「ありがとう」

ヘトヘトの四人はそれぞれの部屋に行って昼過ぎまで寝込んだ。


    • • •


リースとメリナは暫く仕事を休む事にした。どこかに旅行する予定はない。ただ暇である事を存分に楽しんで、釣りに行ったり、町を見物して回ったりとだらだら過ごす。そしてその二人が仕事を休むと結果的に才機も休む事になり、二人に付き合っている。海だけは真面目に仕事を放置しなかった。ドリックに帰った日は流石にオーナーがまだ戻っていなくて、仕方なく一日休んだ。その次の日は店が営業再開となった。オーナーのオフィスで二人で話してオーナーが前からあの組織の一員だって分かった。海は自分が異能者までとは言わなかったが、最近入った新しいメンバーだという事にした。昨日はオーナーが女の子のお母さんを見つけて、今頃は家族三人で感動の再会を遂げて喜んでいるだそうだ。何日も立って四人の手配書どころか研究施設が侵入された噂もなかった。やっぱり皇帝はこの件に関しては何も暴露されたくないみたい。全てを押し隠すつもりだ。その方が才機達にとっては好都合でありがたい。

今日は才機とリースとメリナは商店街でウインドーショッピングに行っている。リースは気になったお菓子やおやつを買って歩き回りながら必ず何かを食べている。メリナは気に入ったアクセサリーを色々付けてみてその殆どを元に戻しているが、たまにはどうしても手放せない代物を見つけてはしっかり思い悩んでから満ち足りた笑顔で購入した宝物を鞄に入れた。

「どうした才機?何も買わないの?ずっと貯金してるんだろう?そんなにしみったれていないで人生を楽しめよ」とリースが一つかみのお菓子を口に詰め込んだ。

「そういうつもりじゃなかったけど、ただ目ぼしいが見つからないだけだ」

隣で歩いているメリナは買ったばかりのガラス細工の鳥を目の近くで眺めながら才機に言った。

「欲がないんだね、才機は。じゃ、海に何か買ってあげたら。あたし達と違って頑張って働いているんだから、何かご褒美をあげた方がいいんじゃない?」

「そうそう。偉いよなぁ、海は」とリースが同意した。

「そう思うなら、俺は別に仕事してもいいよ。もう四日も休んでるじゃん」と才機が言った。

「んーーーー。もう少しだなぁ。後三日ぐらい」

「という訳で今日の目標は海へのプレゼントを探す事。海はどんな事が好き?」とメリナが聞いた。

才機の瞳は上の方を向いた。

「柔道」

「何それ?それじゃ、買う物ないじゃん。ダメ、ダメ、後は?」

「料理?」

「却下。鍋とか何かの調理道具でも買ってあげるつもり?それじゃ、結局才機の為に使われる」

「服」

「服ね。女なら当然だけど、ま、取りあえずそれで行こう。海に似合いそうなドレスをどこかで見かけなかった?」

「いや、そもそも探してなかった」

「じゃ、目を光らせておいて。あたしも探すから。服じゃなくても可愛い指輪とか首飾りでもいいと思うよ」

こうして海のプレゼント探しが始まった。才機は通り掛かる衣料品店を真面目に見回したが正直、服の事はあまり詳しくない。ましては女物。

「どう思う、これ」と才機はリースに聞いた。

「聞く相手間違っているよ。女の服なんて知らん」

「才機、こっちだ。いい物あった」と通りの向こう側からメリナが呼び掛けた。

才機とリースはそっちの店に行ってメリナが見せたがっている物を目にした。

「それ、水着っぽいんだけど」と才機が言った。

「ぽいじゃなくて、水着だよ。超可愛くない?」

「水着を買えるか。っつうか、この辺に海何かないだろう?」と才機がちょっとうろたえた。

「あるわよ。九十キロメートルぐらい歩けば」

「とにかく、水着はなし」

「分かったよ」とメリナが面倒臭そうに言ってもっと奥の方へ進んだ。

「おお、これはいい!」

「今度は何だ?」と才機はメリナを追った。

メリナが手にしていたのはとてもセクシーな赤いランジェリー。

「へー。お前そういうの趣味だったのか?隅に置けないなぁ」と後ろから聞いたリースが才機に言った。

「本当に手伝う気あるの?お前完全に面白がってんだな」と才機がメリナに言った。

「両方」とメリナはきっぱりと答えて無邪気に笑った。

「ふーん。でもそうだねー。そういう物だったら俺達の関係に何かの変化が起きるかも。しかしあれに決めた方がいいかどうかまだ分からないよねぇ。もしモデルになってくれる人がいれば助かるんだけど」と才機がわざとらしくほのめかした。

「はい、試着室に行ってきて」とメリナがそのランジェリーをりースに差し出した。

リースは片眉をつり上げて、誰かに着せたら裏がどうなっているか想像に任せる必要が殆どないそのネグリジェを見た。

「がーー!今想像してはならない物を想像させてしまったじゃねぇか!」と才機は頭を抱えて店の外へ逃げ出した。

「あの···苛め照準はいつ俺に移った?」とリースが聞いた。

「ったく。自分でプレゼントを探せって言っておいて、これだ」と才機が独り言を漏らした。

「ここにいらっしゃったのですね」と才機の近くに来た人が言った。

その方向を見ると才機はびっくりした。シンディだった。

「シンディ!何でここにいる?」

「才機殿を探していました。海はご一緒ではありませんか?」

「海なら今仕事中」

「あ、この間のメードだ。何?また女帝を会いに行くのか?」と店を出たリースが才機に聞いた。

「でしたら、今度海殿に会ったらお伝えて下さい。クレイグ博士は二人を戻せるかもしれませんので、明日はガルドルへいらっしゃるようにと。そこの宿屋でお二人を待つそうです」

才機の目は大きくなった。

「戻すってどこに?」とリースが聞いた。

「分かりかねます。わたくしも詳しい事情は聞かされておりませんでしたので。明朝、ガルドルで子細をお聞きになれるかと。では、伝言を確かにお取り次ぎ致しました」

シンディはお辞儀してお暇しました。

「なーんか無愛想だな、あの人。で、彼女は知らなくても本人は知っているよね。戻すってどういう事?」

「その···俺達の世界に戻す。多分」

「やっぱその話かぁ···。俺達も付いて行って構わないか?ほら、戻るんなら見送りたいし」

「あぁ、そうだな」

「どうした二人とも、そんな辛気臭い顔して?」とメリナがやってきた。

「今、例の使者が来たんだ。才機と海を彼らの世界へ戻すってさ」

「あくまでやってみるだけだ。うまくいく保障はないけど」と才機が言った。

「そうか。···でもやっぱり、帰りたいのか?···その、自分の世界へ。こっちの世界でも良くない?」とメリナが聞いた。

「それを希望にしてずっと頑張ってきたからね」

二人が本当に信じていたのか、それともただ話を合わせてくれているだけなのか才機には分からないが、どの道空気がちょっと重くなった。

「そろそろ海が上がる時間じゃない?迎えに行って知らせてあげなくちゃ。プレゼントとしてはそれ以上喜ばせる事はないだろう」とメリナが言った。

「そうだね。あまり期待を持たせたくないけど。じゃあ、お先に。プレゼント探すの手伝ってありがとう」と才機が手を振って海の仕事場を目指した。

才機が海の働く店に着くとまだ少し速かったようで外で待たせてもらった。海にあまり期待を持たせたくないと言ったが、自分も相当期待し始めてきた。頭の中は地球の事で一杯。海が店から出て近付いてくるのを気付かないほどに。

「だ〜れだ?」と誰かの手がテーブルで座っている才機の目を覆った。

「俺が毎日生きていて良かったと思わせる存在だ」

「嬉しい事言ってくれるねぇ」と海は前腕を才機の肩にもたせ掛けた。

「もっと嬉しいくなる事を言えるよ」

「ほー、じゃ、言ってみ」

「明日にでも日本に帰れるかもしれない」

「···え?なんで?何かあった?」と海がハイテンションに切り替え、つめ先立ちしながら手で才機の両肩を押し下げていた。

その声は間違いなく期待に溢れていた。

「クレイグは何かを掴んだみたい。あまり期待しない方がいいと思うけど。一発で決めるなんてほぼ無理だろう」

「でも近付いてるんでしょう?私達を地球に戻す方法に」

「そりゃ、まぁ、前よりは近付いてるだろう」

「じゃ、もっと喜べよ!希望が見えてきた」

「そうだな。ただ、一つ気がかりがある。リースとメリナがね」

「二人ね。言った方がいいかな。もし失敗するんなら言う必要はないだろう。でももし成功したら何も言わずにいなくなった事になる」

「それなら悩まなくていい。二人はもう知っているから。俺と同時に知ったんだ」

「そうか。どう受け止めた?」

「んーー。ちょっと言えないな。動揺してたのは確かだけど、それはまた異世界の話になったからか、俺達がいなくなる可能性があるからかは分からん」

「メリナ、言ったもんね。戻ると言い出さない限り問題はないって」

「でもだからってこのチャンズを逃せる訳にはいけないだろう。二人には悪いけど」

「なんか複雑だね。日本に帰るのにまさか未練があるとは」

「仕方ないんだ、これは。真実だって知っていれば分かってくれるはず。誰だって自分の世界に帰りたいと思う」

ちょっとした沈黙。

「じゃ、宿に帰ろう。明日は早起きだ」と才機が言った。

宿に帰ってからリースとメリナに会わなかった。夕ご飯は四人で食べるのはよくある事だが、今夜は誰も誘われなかった。既に帰っているかどうかも不明。部屋のドアをノックしてみれば直ぐに分かる事だが、あえてしないでその晩を二人で過ごした。


    • • •


翌日は目が覚めたら雨の音が聞こえた。

海は窓の方を見た。

「やだ、雨がざあざあ降ってる」

「参ったなぁ。今日こそ馬車に乗りたいな。ずっと雨に打たれて乗馬をするってのは気が引ける」

「風引きそうだね。でもうまくいけばお母さんに看病されながら家で回復出来る」

「俺はどうするの?一人暮らしだ」

「私の風が治ったら看病しに行く」

「何日も風を引いていろってか?」

「じゃ、うちに来て一緒に看護される?パパにどう説明するか見てみたい」

「怖そうもんな、お前の親父。大会で見た事がある。柔道やってたよね?」

「うん。子供の頃からびしびし鍛えられた」

「お前と組んで技練やってたら、すんげぃ睨まれてたような気がした。もしお前を変に触ったら親父に一本背負いされそうだった」

「ありえなくはない」

「風は自分で何とかやってみよう」

準備が出来たら二人は部屋を出た。同時にリースとメリナも彼らの部屋から出た。

「お、おはよう。酷い天気だね」とメリナが言った。

「うん。悪いね、こんな日に付き合わせてもらって」と海が言った。

「いいって。あたし達は勝手に付いて行くだけだから。さ、朝飯食べたら行こう」

朝食は妙なくらいいつもと変わらない雰囲気で、四人で楽しく話したり、いがみ合ったり、これから仲間二人を別世界へ見送ると思えない光景だ。神様が情けをかけたか、食べ終わって外に出たら雨は霧雨となっていた。風が少し出てきたけど。

「ま、濡れることには変わりないけど、さっきよりはずっとましだ。ガルドルに着くまではこれぐらいの雨のままであって欲しい」とリースが言った。

「どうせなら雨が止むように願えよ」とメリナが突っ込んだ。

「欲張りはしない主義なんでね。こうやって常に些細な願いにとどめておくと後々いいことがある」

「それ、ただ期待を低く持って生きているだけなんじゃ」

「さ、本当にまた本格的に降り出す前に出発しよう」

だが早速悪いことあった。馬を借りに行くとリースは大目玉を食らった。それもそのはずだ。前に借りた馬を返すのを忘れたからね。金物屋の店主は恐らく未だに面倒を見ていて、いつリースが引き取りに来てくれるのか気になっているだろう。今度帰ったらあの二頭も一緒に連れて帰らないと。その延滞料は今日の馬を借りた時に先払いした。

騎手が嫌でも馬達は雨を気にせず、泥化した道路をいつも通り一所懸命に走った。ひずめが滑りやすい地面に沈んでも踏み外さないで騎手を無事ガルドルへ送り届けた。

宿屋の手前で降りて、馬を柱に繋ぎ止めてから中に入った。才機と海には何だか懐かしい感じがした。あの日、初めてこっちの世界に来た日はこの町でゲンの助けを得てこの宿で泊まった。お陰で野宿せずに済んだ。小さい応接間でクレイグ博士を直ぐに見つけた。時間は指定されていなかったから、才機は彼らが先に着くと思ったが、クレイグはテーブルで座って普通に朝食を食べていた。

「早いね」と才機が言った。

「ん?もう来たか?ま、別にいいけど。友達を連れて来たんだね」とクレイグがフォークに刺さった芋を口に入れた。

「この間はどうも。助かった」とリースが言った。

「ああ、君はあれか。拘置された人。面と向かって会うのは初めてだね。礼には及ばん。私利を図っていただけだったんで。一緒に捕まったのはこの二人じゃなければ一切関心しなかっただろう。だから恩義があるとか思わなくていいよ」とクレイグが正直に言った。

「そうか。ま、その方は気楽だからこっちは助かるけど」

「海とメリナは暖炉の近くに行って暖まって来たら?」と才機が提案した。

「あまり意味ないですよ。また直ぐに出掛けてもらうから」とクレイグが言った。

「せめてもっと天気のいい日に呼び出して欲しかった」とメリナはクレイグの言った事を気にせずに暖炉に行った。

「それは困る。むしろ、天気のいい日だったらこの実験を延期したんだ」とクレイグが何気なく食べ続けていた。

「え?どうして?」と才機が聞いた。

「前に教えただろう?こういう天気の異変はチキュウとルヴィアが同調し初めて扉が開く前触れだ。私の計算によるとその時がまたやって来た。概算だからいつ完全に同調するかは分からないが、この天気は徴候となる」

「偶々今日の天気が悪いだけって可能性は?」と才機が聞いた。

「十分ある。でも本物の星合現象と出来るだけ同じ状況にしたいんだ。どんな細かい処置でも取るべきだ」とクレイグがフォークを才機に向かって振り回した。

「じゃ、どうすればいい?」と海が聞いた。

「では、付いてきてくれ」とクレイグはナプキンで口元を拭いてからフォークとナイフをまだ飯が残っている皿にことりと置いて宿を出た。

角を回って宿の後ろに行った。そこに近衛兵が三人いたから才機は突然足を止まった。

「大丈夫だ。この三人は実験を手伝う為に女帝が自ら選んだ」とクレイグが保証した。

その兵士達は荷馬車の警護をしていた。荷馬車には防水シートに包まれた何かが乗せていた。

「あれは?」と海が聞いた。

「王宮の最上階にあった移築された遺跡だ」とクレイグが言った。

「いいのか、あんなのを持ち出して?」と才機が聞いた。

「女帝陛下が許可してくれた。皇帝陛下には黙って許したと思うけど。実験が終わったらまたこっそり元に戻す。この世界に来た時はトゥイエ森にいたと言ったよね?」

「そうだけど。それが大事な事ですか?」

「大事とも。来た場所で帰さないとあっちでどこで現れるか分かったもんじゃない。どこかの壁の中に具体化するかもしれない。その際はあなた達の分子か壁の分子、どっちが優先されるか分からない。合成されるかもしれない。どの道、結果は恐らくよろしくないはずだ」

「そうか。だから待ち合わせ場所をこの町にしたんだね」

「そういう事。今から兵士達をあなた達が現れた場所まで案内してやってくれ。彼らはそこで色々と準備をするから。一時間強は掛かるかな」

「分かった」

「私は朝飯の続きをやるとする。この宿は見た目に寄らず料理だけがまともなんだ」

クレイグを除いて全員宿の前で一旦集まった。

「お前らが先に行ってくれ、この子達をどこか屋根のある場所に連れて行く」とリースは馬の手綱を解き始めた。

メリナはもう一頭の馬の世話を引き受けた。

「そうか。そこの崖を沿って来れば見つけられるはず。ふもとの洞穴だから」と才機が言った。

「分かった」

才機と海はまた兵士達が待っている宿の裏へ向かった。

「これでもう信じてもらえたんだろう?」

「クレイグまでいかれているっていうのは凄い偶然だからね。立場が逆だったら海は信じる?」

「んーー。自分の目で見ない限り半信半疑かな」

「だな」

リースとメリナは馬を宿に併設された馬房に連れて行ったら、才機と海を追うのではなく、また宿に入った。そこで朝飯を終えようとしていたクレイグの向かいに座った。

「あら?他の皆と一緒に行ったんじゃないの?」

「その前にあんたと話がしたかったからね。才機と海に別の世界だのの話を吹き込んだのはあんたか」とメリナが聞いた。

クレイグは開いた口の中に運ぼうとしていたホットケーキの一切れをフォークごと皿に戻した。

「いえいえ、むしろ向こうから私に来たんですよ。あなた達の考えている事が分かる。未だに信じられないだろう、友達が異世界の者だなんて。無理もない。俺が信じられるのは実際に見たからね」

「異世界を?」とリースが聞いた。

「いや、異世界の来訪者の行き来を。まぁ、後少しであなた達自身も目にする可能性は一応あるが」

「って事は何?俺達の世界を異世界人があっちこっち訪ねてきてるのか?」とリースが聞いた。

「いや、世界の境界を越えるのは極稀な出来事だ。そして越えられたとしても、程なく自然と自分の世界に戻る。あの二人はちょっと···特別なんだけど」

「じゃ···この実験が成功する確率は?」とメリナが聞いた。

「それなりに高いと思うよ。まぁ、分からない事が多くて失敗する理由が見えていないだけかもしれませんが、この間はネズミをあっちに送り込むのに成功した。多分」

リースは溜め息をついた。

「俺はどっちかっていうと絶対信じないと思ったが、こうなると自分の正気を疑う余地が少し出てくる。なんせちょっと信じてきたからね。世の中は分からないもんばっかりだ。って、その世の中も一つとは限らないんだった。信じられないが信じるしかないっていうか。冗談にしては凝り過ぎだし、皇族も裏から手を回しているとなりゃ何かがある」

「あたしは信じられなかったというより信じたくなかった。そもそも考えないようにしてた。でも今までの話を聞いたらもうそうはいけない。これであの二人の女帝との関係に頷けるし、たまに首をかしげさせるような発言の裏にあった意味が理解出来る。どこか普通の人と雰囲気が違うって思ってたけど···。信じたくはないが···取りあえずは信じることにする」

メリナは肘をテーブルの上に置いて疲れたように垂れた頭を両手で受け止めた。

「あの二人がいなくなるのは寂しいけど、家は他にあるというならあたしからも頼みます。出来るなら無事に帰してあげてください。出来ないならまた考えないようにするだけだ」

「ぜ、善処します」

納得した二人は宿を出た。一方、トゥリエ森の方では才機と海が初めてこの世界で現れた場所で兵士達は移築した遺跡を洞穴の手前に置いて入り口で薪を沢山集めていた。遺跡の前に小さな機械が置いてあった。

「リースとメリナが迷ちゃったかな。探しに行った方がいいと思う?」と才機が海に聞いた。

「そうね。宿に戻って待っているかも」

「ここの準備はそろそろ終わる。博士を知らせに行く所だったから他の二人も一緒に案内します」と兵士の一人が言った。

「あぁ、じゃお願い」と才機が言った。

二十分ぐらいたったら兵士は二人を連れて戻ってきた。一人はクレイグだった。もう一人はリースでもメリナでもなかった。シンディだった。

「あれっ、シンディ。どうしてここに?」と海が聞いた。

「女帝陛下から二つの命令を仰せ付かって参りました。一つはこれを二人に差し上げる事です」とシンディが才機と海に一人ずつ高価そうなブローチを手渡した。

「これは?」と海が聞いた。

「こんな大事な時に見送れなくて本当にごめんなさい。その代わりにこれを受け取って欲しい。あなた達が持つべき物なんです。二人が無事に帰ること、そして幸せになることを祈っています。以上が女帝陛下のお言葉です。二つ目の命令はここで起こった事を見届けて、陛下にお伝えする事です。立ち会っても構いませんか?」

「いいえ、全然」と海が言った。

「ありがとうございました」とシンディがお辞儀をしてから下がった。

「リースとメリナは一緒じゃないの?」と才機がクレイグに聞いた。

「まだ来てないのか?私達よりずっと先にこっちへ向かったはずだが。準備が出来ているようだね」

「それなんだけど。さっき思ったんだ。あれを使って精神を失った人も出たって話じゃなかった?本当に安全なのか?」と才機は遺跡に指差した。

「そういった事件の日付からすると、どれもチキュウとルヴィアの同調期からかなり離れた時期に起こった例だ。二つの世界が完全に同調した時しか発生しない現象を人工的に起こしているからね。···距離、と呼ぶのはいささか不適切なんだが、二つの世界の間の距離が遠過ぎると戻ってくる際の反動が大き過ぎて、そのショックで精神が壊れる可能性がある。分かり易く説明すると、この遺跡は異世界への扉を開けるんだけど、二つの世界を隔てているるのは普段閉じてる扉だけではない。その扉の他に網戸もあると考えるといい。ただ、この網戸は物凄く弾力性があって、空気が入っていない風船みたいだ。破れなくても頑張って突き進めばその網戸をぐんぐん押して伸ばしながら扉の向こう側へ行ける。でも限界はある。いずれは戻される。そして戻った時は進んだ分、強く弾き返される。この遺跡の転送の仕方は強引でね。扉を開けると人間大砲みたいにとんでもない勢いで扉の向こうへ打ち出すんだ。網戸の弾力性のお陰でぶつけても扉を遥かに超えて進むが、結局その網戸で弾き返される。兵士や動物はその反動にやられた。しかし、その網戸はチキュウとルヴィアが同調していない時のみに存在し、同調しているならスムーズに渡ることが出来る。チキュウとルヴィアがまた同調し始めているはず今なら、弾き返される心配もないはずだ。もっとも、私の考えが正しければそれはあなた達には関係ないのない話だ。今のあなた達なら、ね」

「と言うと?」と才機が聞いた。

「それぞれの世界に存在するあらゆる物質はその世界の属性を持ち、そしてもし何かがもう一つの世界に渡っても同じ属性の世界に引き戻される。しかし、二人はどうなんだ?チキュウに戻らなかったどろう?それはその体は元々ルヴィアの物だからだ!女帝陛下の話を聞いていなければきっと解けなかった謎だった。では女帝が二人をチキュウに送った時、なぜルヴィアに戻らなかった?先ほど言ったようにこの遺跡で人工的に送り込むという方法はかなり強引だ。自然の現象はそもそもチキュウとルヴィアが同調している時しか発生し得ないから網戸はないし、開いた扉を偶々通り抜けたら普通に歩いてくぐるようなものだ。扉からそんなに離れることはない。簡単にまた自分と同じ属性の世界に引き戻される。でもこの遺跡はね、乗ると扉が直ぐに開く訳ではない。ここからはまだ私が立てた仮説に過ぎないが、何かが乗ると扉を開ける為のエネルギ、エネレギ源か分からないが、それが十分溜まれば扉が開く。そしてそのエネルギは台座に乗っているものにも働きかける。扉が開く前は位置エネルギーみたいなものだが、扉が開いた瞬間、それが運動エネルギに変換される。体にも溜まったそのエネルギで扉の向こうへビューンと打ち出され、もし網戸がなければ弾き返される力に抗わず扉を遥かに越える。属性を引き戻す力だけでは引き戻されないほどにね。そう。二人は運良くチキュウとルヴィアが同調している時期に女帝に送り込まれた。ちなみに扉を遥かに越えるとか言っているけど、物理的な距離じゃないからそこは間違えないようにね。例え自然に別の世界へ渡ったとして、戻される前に仮に何らかの方法でチキュウやルヴィアの反対側へ移動出来たとしても元の世界に戻るはず。えっと、何を言おうとしていたっけ。あ、そうだ。この属性を引き寄せる力は網戸の弾力と合わせて弾き返す現象を起こす訳が、ずっとチキュウにいた二人はチキュウの属性をも得たのではないかと睨んでいる。こっちへ来た時は自然に出来た扉をくぐって渡ってきた。こっちの属性の人間だから残るのは当然。だが着ていた服が突然消えるようなことはなかったよね?」

「ないですね」

「考えられるのは何度も着た服だから自分の汗などがある程度染み込んだらその服はルヴィアの属性も得た。ならばチジュウの空気を何年も吸って、チキュウの食べ物を何年も食べてきた二人は間違いなくチキュウの属性を得たと言えるだろう。二つの世界の属性を持つあなた達ならどっちの世界にでも止まる事が出来ても何も不思議ことはない。だから今のあなた達ならチキュウとルヴィアが同調していない時にこの遺跡で送り込んでも大丈夫と思うが、あの網戸に包まれたままで残ってもどんな影響があるか分からん。もしかして影響などないかもしれないが、念の為にね」

「そうか。何となく分かったような気がする。海は分かった?」

「何となく」

「そこ、あれに火を付けてくれ」とクレイグが兵士の一人に指示した。

その兵士は火を付けたマッチを積み上げられた薪の上に落とした。間もなく立派な焚き火が出来上がった。

「これで、火、雨、風が揃った。雷はないが、そればっかりはどうしようもない。この小型発電機で何とか補ってみよう」とクレイグがスイッチを入れた。

「条件を前部整えるのは大変だな」と才機が言った。

「王宮の最上階で何かをのこの遺跡の上に置いてもなんの反応はしなかった。最低限の自然力が必要だろう。七代目皇帝があっちの世界に渡った時は探検隊が松明を持っていたはず。遺跡の中はじめじめしていたらしいし、風通しもよかったかもしれない。心の準備は出来ているか?いつでも初めていいよ」

「でもリースとメリナはまだ来てない」と海が言った。

「もしかして、あの二人は来ないつもりかな」と才機が言った。

「もう少し待ってもいい?」と海がクレイグに聞いた。

「それはあなた達に任せる。私の計算は概算だからひょっとしたら本当はもう少し待った方がいいかもしれない」

「もしこれで帰れたら、ちゃんと別れを言えなかった事を絶対後悔する」

「そうだな。もう少し待とう」と才機は賛同した。

全員洞穴の中で雨宿りをしながら待った。そうやって二十分ぐらいは経ったが、その間は雨が少しに強くなっただけだ。

「一応、焚き火が燃え尽きない内に実験を行いたいんだが、外の薪が湿って使い物にならない。そろそろやって見ますか?」とクレイグが聞いた。

「どうしたの、二人は?見送ってくれるって言ったのに」と海が言った。

「あれは一緒に来て真相を確かめる為の口実だったんじゃないか?真実だって分かって彼らも辛いだろう」と才機が言った。

「それにしたって···もうちょっとだけ」

「俺もこのまま帰るのは気が済まないが、来るんだったらとっくに来てるはず。今頃は宿で失敗した場合の俺達を待っているだろう」

海は何にも答えず、外と見た。

「では、後十分待とう」とクレイグが提案した。

洞穴にいる皆は人によってその十分は長く感じたらり、早く感じたりしたが、経つまでにリースとメリナは現れなかった。

「それじゃ、もういいかね?」とクレイグが聞いた。

「はい···やってみましょう」と海はしぶしぶ返事をした。

全員また外に出て、才機と海は遺跡の前に立った。

「上に乗ればいいんだね?」と才機が聞いた。

「ええ」とクレイグが答えた。

「じゃ、行くぞ」と才機は海の手を握った。

「待って!」とメリナの声が聞こえた。

振り返るとメリガ走ってきている。

「間に合ってよかったー」とメリナは息を切らして二人の前に止まった。

「今までどこに行っていたのよ?!来ないかと思っ」と海が身をかがめて膝に手を付けているメリナが持っている物に気付いた。

「大事な物、はー、はー、忘れてない?」とメリナは帽子を海の頭に被らせた。

才機からもらって大切にしていた帽子。

「これ、取りに行ってくれたのか?」

「海ったら自分の世界に戻れると思ったら、こんな大事な物まで忘れちゃうもんね。どうせ何かを置いて行くならあのスープのレシピを残して欲しかったな」

「ありがとう。ありがとうね」と海が帽子のつばを両手で握った。

「それはこっちの台詞。海は初めて友達になってくれた人。普通の女はどんな風に友達と過ごすか教えてくれた。あんた達のお陰で今まで経験出来なかった事を沢山やってみる事が出来た。あんた達がいなきゃ成し遂げなかった事も成し遂げた。どうやってこの世界に来たか分からないけど、幾ら感謝しても感謝し切れない」

「私だって、メリナとリースがいてくれて心強かった。才機と一緒にこの訳分かれない世界に来て凄く不安だった。でも二人が味方になってくれたから、もしずっとこの世界にいる羽目になってもても大丈夫だって、何とかやっていけるって思えた。困った事があったら頼れるって分かっていた」

「あーあ、海は帽子を被っているから泣いているって分かっちゃうよ。あたしは涙が雨に混ざって分からないからいいっしょ?」とメリナが笑った。

「ずるいな。これで帰れなかったら本当に格好悪い」

「失敗したらこっちとしては嬉しいが、心から成功を願っているよ」

「リースは?見当らないけど」と才機が言った。

「来てないのか?あのバカ兄貴。照れ臭いんだろう。後で顔を出さなかった罰として思いっきり殴ってやる」

「まぁ、そんなに辛く当たらないでやってくれ。確かにこういうのは彼の柄じゃなさそうだ」

「よく知っているね。流石はお兄ちゃんの相棒だ。でもお兄ちゃんはあたしと同じ気持ちだから」

「そうだ。俺達の部屋の鏡台の三つ目の引き出しの裏に今まで溜まったお金がある。あれをお前らがもらえばいい。リースが紹介してくれた仕事だったし、持って行っても俺達は使えない」

「後、もし帰れたらオーナーにうまく話してくれる?」と海が頼んだ。

「分かった。後始末はそれだけか?じゃ、いよいよだね」

メリナは海を抱きしめた。次に才機の頬にキスをした。

「あんた達が消える瞬間を見たら耐えられそうにないからもう行くね。もしうまくいかなかったらあたし達は宿であんた達を待っている。それじゃ、ね」とメリナが行ってしまった。

「うん。じゃ、ね」と海は呼び掛けた。

「海の言う通り待ってよかったな」と才機が言った。

「うん」と海は鼻をすすった。

「気持ちの整理が出来たらいつでも遺跡の上に上がっていいよ。さっきも説明したが直ぐには送られない。少し時間が掛かる」とクレイグが言った。

メリナは崖のそれほど険しくない部分を登ってい

た。上に出ると縁の方へ歩いた。

「やっぱりあんただったね、下から見かけたのは」

縁には既にびしょ濡れになっているリースが立っていて、下の方を見下ろしている。そこから約五十メートル下に才機と海は遺跡の上に乗っていた。

「帰ってくるの随分遅かったじゃない」とリースが言った。

「遠いんだから仕方ないだろう。あんたの言い訳は?なんでそんなに恥ずかしがりやなんだよ?こんな高い所から顔もろくに見れない」

「別れが苦手な方なんだ。そういうのお前に任せる」

「成功しなかったら来なかった事を絶対怒られるよ?」

「成功したら自分の世界に戻れて嬉しくて、俺に怒る余裕はないはずだ。成功しなかったら幾らでも怒られてもいい。望む所だ。どっちに転んでもいい事はあるだろう?」

「お兄ちゃん···」

メリナも下を見下ろした。

「消えるのを見たくないってのは本当なんだ。あたしはもう帰る」とメリナは行こうとして踵を返した。

しかし雨で足元が滑りやすくなって仰向けに転倒した。下の方へ。

リースは崖から落ちて行く妹の手を掴もうとした。どう見ても手遅れだ。


    • • •


ドボン!

才機と海は急に水の中に落とされた。いきなり水に突っ込まれて、そりゃ、慌てふためく。でも普通に立てば首から上は水から突き出る。

「ゴホン、ゴホン!何があった?!戻ったのか?!」と困惑した才機が叫んだ。

「才機、見ろ!」と海は才機の後ろへ指差した。

才機が振り返って見ると橋が見えた。

「あの日、私達が上から落ちた橋だ!」と海は大喜びだった。

「やった!本当に帰ってこれた!」と才機が海を抱きしめた。

「今日は何月何日?早く確かめよう!」

二人は川から出て橋の方へ河川敷の表法面を登り始めた。

ドボン!

才機と海はその音を聞いて川の方に振り向く。そこには到底見えると思わなかった光景が呈された。先ほどの才機と海と同じようにリースとメリナが川でのた打ち回っている様だ。

「才機、あれは···」

「うん···」

二人は茫然自失してリースとメリナが川から上がるのを見た。

「二人ともなんでここに?」とまだショックを受けている才機が尋ねた。

「なんでって?それよりどこだここは?さっきまではメリナと一緒に崖かから転落していたはずだ」とリースが言った。

「え?」と海はまだ驚いているのに更に驚いた。

「そうしたらいつの間にか川にいる。何がどうなって···」

リースは周囲を見回した。

「もしかして、ここはお前達の世界?」

「うん」と海がリースの仮説を実証した。

「実験に巻き込まれたんだ、きっと」とメリナが言った。

「どうする?」と海は才機に聞いた。

「どうするって。まぁ···取りあえずは···当初の目的を果たして今日の日付を確かめよう」と才機はまた法面を登り始めた。

他の三人はその後を追った。才機は近くのコンビニに入って雑誌コーナーに行った。適当に雑誌を選び出して日付を見た。

「二月二千十一年」と才機が読み上げた。

「一年半も経っている」と隣で海が言った。

「浦島太郎の気分が分かったような気がする」

「いやぁ、何百年と十八ヶ月は比べ物にならないと思う」

リースとメリナは自動ドアで少し戸惑ってから不思議そうにコンビニを見回っていて人目を引いていた。ただでさえずぶ濡れなのにメリナはともかく、リースの格好、特にマントが目立つ。才機と海は二人を引っ張ってコンビニを出た。

「凄いよ、あんた達の世界は!見た事ない物ばっかりだ!」とメリナは興奮していた。

「まぁ、世界が違うと多少の相違が見られるものだ」と才機が言った。

「何あの建物?!派手だね。この辺の建物は全部派手だけど、あれは飛び切り派手だ」とメリナが気になっているそのビルの方へ走った。

「待って、待って、待って」と才機がメリナを追い掛け、手を掴んで引き止めた。

「何?」とメリナが聞いた。

「今の状況を少し把握しよう」

「把握って、あたし達はあんた達の世界に来た。他に把握する事あるの?」

「少し落ち着いて考えればきっとあるよ」と才機が近くにあった道路標識に手を付けてもたれ掛かり、自分でも落ち着こうとした。

チリンチリン。

才機の後ろから自転車に乗っている少年が接近していた。その狭い歩道に立っていた才機が振り向いて、少年が目に入るとぎりぎりで身をかわした。

「危ねぇなぁ」と才機が言った。

「才機!」と海が慌て出した。

「ん?どうし」

才機は手を付けていた標識に気付いた。四十五度の角で曲がっていた。才機の無意識にガラス姿となった手によって。幸い、それを目撃する人はちょうどいない。才機はさりげなく標識も自分の体も元に戻した。元に戻したと言っても標識が曲げられた痕跡は完全に見え見えだが、そこは誰もツッコまなかった。

「能力が···残っている」と才機が言った。

「なんでそんなに驚いている?自分の世界に戻るからって別に消える理由はないだろう?あたしの耳もちゃんとある」とメリナはバンダナの上から耳に手を当てた。

「っていうか、完全に忘れてた。こんな能力があった事」

海は弱めの風を召喚しようとして成功した。

「本当だ。私もまだ残っている」

「別にいいんじゃない?二人の能力は結構便利だし」とリースが言った。

「良くないよ!この世界でこんな事が出来るの俺達だけだ!」と才機が言った。

「じゃぁ、今まで通りばれないように隠せばいい」

「そうは言うけどさ、ってお前、見送りに来なかったじゃねぇか?!どういう事だ?!」

「さっきのあの乗り物面白かったよな、メリナ?追い掛けてもっと近くで見よう」とリースはすうずうしくも聞こえなかったふりをして先に行った。

「実験が成功したのに怒られてるじゃん。お兄ちゃんの作戦大失敗」とメリナが独り言のように言った。

「おい!白を切ってんじゃねぇ!ってか歩いて追い付く気か?」

「あ!思い出した!」とメリナが急に言い出した。

「今度は何?」と才機はびっくりした。

「初めて会った時、確か言ったよね?どこかの町でこの耳は男に好評されるって。そこってもしかしてここ?」とメリナが目をきらきらと輝かせて明らかに期待に満ちている。

才機はさっき曲げた標識に前腕をもたれ、その腕に顔を埋めて溜め息をついた。

「あ、お兄ちゃん、待って!」とメリナはリースを追い掛けた。

「何か大変な事になったね」と海が言った。

「なったね。···あ。」と才機は顔を上げて何かに気付いたようだ。

並んで歩いているリースとメリナはいきなり才機に手を掴まれた。

「お前ら早くこっちへ!」と才機は走って二人を引っ張った。


リースもメリナも顔を少し赤らめていた。

「せっかく別世界に来たのにこんな風に過ごせないといけないのは間違っている」とメリナが文句を言った。

彼女はリースと抱き合っていて、川面から少し突き出ている幅五十センチぐらいの岩の上に立っている。

「仕方ないだろう。クレイグの話によるとお前達はそう長くここにはいられないかも。俺達は最初からそのエネルギとやらを体に溜めていたけど、二人は扉が開く直前に飛び込んできたらしい。だったらその···この世界にはあまり定着していないかも。いつ戻されるか分からないけど、その時はこっちに現れた場所にいるのが一番安全だ。あっちに戻ったら木の上に現れたら困るだろう?下手したら木の中に出現する事だって···」と川岸で座っている才機が言った。

「でも能力が残ってよかったじゃん。じゃなきゃこの岩をここに建てられなかった」とリースが言った。

「まぁ、ね」

海は人差し指を顎に当てて考えを言葉にした。

「でも考えてみれば能力のことは多分一時的なものだ。だって女帝の話によると私達は赤ん坊の時に能力を発揮した。でもこっちの世界でその能力が発生したことが一度もなかった。思い出せる限りでは」

「そうか。異能者を生み出したのがケインが言っていたガスなら、ルヴィアの大気じゃなきゃ異能者でいられないかも」

「なるほど。アナトラス現象ね」とリースが言った。

「え?あ、ああ、そうだな···」

「二人とも大丈夫?落ちそう?」と才機の隣で座っている海が聞いた。

「大丈夫。凄く恥ずかしいんだけど。あーあ、あんた達の世界をもっと見たかったのに。帰ったらあのクレイグって人にあれこれ尋問されるだろうな。ま、最後にあんた達に会えてよかったけど。ほら、お兄ちゃん、今度はちゃんと別れの挨拶してね」とメリナが言った。

「分かったよ。じゃ、ね。色々と楽しかった。お前達の事を絶対忘れない。それでいい?」とリースは気持ちを殆ど込めないで言った。

「も〜、素直じゃないんだから」とメリナが兄を咎めた。


「なぁ······俺達はいつまでここでこうやって突っ立てなきゃいけないわけ?」と、もう五分黙りこくって動かずにいたリースが聞いた。

「いや、分かんないけど。そろそろ来るんじゃない?」と才機が言った。

「お兄ちゃんとのハグはもう一生要らない思う」とメリナが言った。

「ったくよ。橋を渡っている奴らはこっちを見てんじゃね?見せ場じゃないっつ

うの」とリースが言った。

才機と海は橋の方を見た。

「うむ、まぁ、気にしなくていいよ。見ているとしても二度と会う事は」と才機が言って海と一緒にまた川の方を見るとリースとメリナはどこにもいない。

「行っちゃったか」と海が言った。

「そのようだね」

少しの間そこで座って川の流れを見てから才機は立ち上がり、海が立つの手伝った。

二人は河川敷を出るべきして表法面へ向かった。

「後は一年半の不在を皆にどう説明するかだけど」と海が言った。

「だよね。留年は確実だ。どうしよう。いっそのこと俺達は駆け落ちしたって事にするか?」

「パパに殺されてもいいならそれでいけるよ?」


•     • •


ルヴィアのどこかの峡谷。静かで何もない。鳥達の不当間隔のさえずりしか音はしない。大した事が起こらなさそうなこの場所で、峡谷の縁で人間の手が現れた。もう一つの手が現れ、次に顔が出てきた。息の荒いガロンだ。

「やっと、やっと、出られた。長かった〜。暗くて、よく見えなくて、その状況でこの峡谷をよじ上る為の道具を何度も木で作って、いざ登ってみる度に俺の重さや崖にぶつける事で壊れて失敗した。毎日キノコばっか食べて同じ事の繰り返し。だがついに石で出来た道具を完成して運よく崖が崩れずにここまで来た。はー、はー、長かった〜。あの野郎。この峡谷へ突き落としてくれたあの野郎を今度こそぶちのめす」とガロンは縁に置いてあった腕を垂直にして上半身を上げた。

その時、チョウがひらひらと飛んできて無邪気にガロンの鼻の上に止まった。

「ん?なんだ、こい···ハ、ハ、ハクション!!」

また何もない、静かな峡谷に戻った。


完。

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いつか君と... @Saihig

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