こぶしの花

イネ

第1話

 西の空に、うっすらといちばん星の明かりが見えはじめたころ、小さなムササビの子供が、いよいよ手足をピンと広げ、これでもかと歯を食いしばり、口をだいぶ右のほうに曲げて、高い木の上の巣穴から思い切りよく飛び出しました。前足と後足とで風を受けると、ムササビの体はパラシュートのように舞い上がって、どこへでも自由に飛んで行けるのです。

 ところが風なんてものはもともと気まぐれですから、飛び出した瞬間にプイとそっぽを向かれてしまい、ムササビの子供はそのまま地面にボタッと、餅のように落っこちました。

「お母さん、お母さん」

 ムササビの子は顔を真っ赤にして、泣いたり怒ったりしながら、薄暗い地べたをあたふたと走って行きました。どんなに風がいじわるをしたか、どんなに落っこちて痛かったか、それからどこか額や背中をすりむいていやしないか、もうみんなお母さんにうったえたかったのです。

 ムササビのお母さんは、月を浮かべた湖のほとりで、お気に入りのレースのハンカチを水にぬらしてかたくしぼって待っていました。そうして子供の汚れた顔をごしごしぬぐってやりながら、こう言いました。

「おまえね、飛び出すとき、目をつぶってしまっただろう。それでは風が見えないじゃないの。人間の子供でさえ、行進するときにはちゃんと目をあけているものだよ。でなきゃ前の子にぶつかってしまうからね」

 ムササビの子は、お母さんに甘えるようにくっついて言いました。

「風、目に見えるの?」

「見えますよ。それに聞こえるし、匂いもするんです」

 そう言ってお母さんは、耳をピクピク、鼻をクンクンして、それから今度は空中に向かって、ご近所さんにあいさつするときみたいにペコリとおじぎをしました。

「あら、風さん、ごきげんよう。ええ、この子ったら目をつぶってしまったものだから、風さんがどこにいるかわからなかったのよ。けれども、まぁ、ムササビだって鳥だって、小さなうちはそんなものです。いいえ、けがなんてしませんよ、子供というのはやわらかいんですからね。それにしても風さん、今夜はステキな香りを運んでいるのね。どこかでこぶしの花が咲いたんでしょう」

 子供には、風の声なんてまるで聞こえませんでした。けれどもそれは、お母さんがあんまりおしゃべりだったからかも知れません。

「わたし、こぶしの花なら大好きなんです。白くて大きくて、まるでレースのハンカチじゃありませんか。けれども花というのははかないものですものね。すぐに茶色くなってしぼんでしまう。そうなったら、そうねぇ、窓辺にでも吊るしましょうか。日除けくらいにはなるでしょう。あら、いけない。今夜は用事がたくさんあるんだった」

 お母さんはようやく子供の手をとりました。

「おまえね、心配しなくてもいいよ。お母さんがちゃんと風さんにお願いしておいたから。だからおまえもね、次はちゃんと目をあけて飛ぶんだよ。ほら、風さんにさよならを言って」

 子供はちょっぴり人見知りしながら、とにかく空に向かってぺこりとやりました。すると確かに風はそこにいたようで、子供のまだやわらかい髪の毛をいたずらにピョイと逆立てて、すぅー、と去って行ったのです。

 翌日です。手足をピンと張って、これでもかと歯を食いしばって、口をだいぶ右のほうへ曲げて、ムササビの子供はえいやと巣穴から飛び出しました。今度はしっかりと目をあけていましたから、自分の体が風に乗ってふわりと舞い上がるのが見えました。

「風さん、風さん」

 ムササビの子は顔を真っ赤にして、うれしくて叫びました。

「風さん、どこかでこぶしの花が咲いたんでしょう。梅の花も咲いたんでしょう」

 風がふふぅーと鳴りました。お母さんが、湖のほとりでハンカチをひらひらふっています。向こうの木の枝ではフクロウの子供らも、羽をパタパタやっているのでした。

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こぶしの花 イネ @ine-bymyself

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