消えた轍

爪切り

消えた轍




 降り続く雪を綺麗と思う余裕などありはしなかった。

 視界を覆う白は、はっきり言って鬱陶しい。

 それだけならまだ許せなくもないが、雪は当然ながら身体にまとわりつき、容赦なく体温を奪い続ける。

 ペダルを漕ぐ脚に力を込めたくなるものの、この視界の悪い中でスピードを上げるのは危険すぎた。スリップでも起こせば大惨事である。

 何せ目の前の自転車籠に入れてある物は、仮にも商品なのだから。

 新聞配達のバイトなどやめておけと、家族友人を問わずに言われ続けていた。まあ、自分だって他人に薦めようとは思わない。言うまでもなく割に合わない仕事だ。採算を考えれば、誰もこんな仕事に就こうとは思わないに違いない。

 毎日毎日決まった時間に、百を越える軒数の家を巡り続ける。雨の日も風の日も、当然雪の日もだ。勿論全てを承知で就いたバイトなのだから文句を言う気はさらさらないものの、まあ辛いと思う事ぐらいは許されるだろうと思いたい。

 中でも今日の夕刊配達は流石に苦行としか言えなかった。朝から降り積もり、まるで止む気配を見せない雪は道路に積もり続け、毎日漕いでいるペダルを格段に重く感じさせた。

 軒数はようやく半分を越えた所だったが、しかし体力は尽きかけており、毎日の配達で多少なりとも鍛えられていた筈の身体は疲労と寒さで悲鳴を上げていた。折り返しではあるものの、このコンディションからすれば『もう半分』ではなく『まだ半分』と言いたくなる。

 比較的温暖な筈のこの地域で、ここまでの積雪はまったく記憶にない。そもそも雪が降ることさえ年に一度有るか無いか、といった具合だったのだから。

 本来なら見慣れない雪に何かしら感じ入るものがあって然るべきなのかもしれなかったが、言わずもがなそんな余裕はまったくない。ガチガチと歯が音を立て始める。タンスの奥に眠っている手袋とマフラーを引っ張り出してこなかった事を、心の底から後悔していた。

 帰りたい。或いは泣きたい。

 そんな考えが頭を埋め始めた頃である。

 どこかしらから、声が聞こえてきた。

「………………」

 訂正。

 声ではなく、鳴き声だ。

 押しボタン信号で立ち止まる。雪は絶えず降り続けているというのに、何故だかあまり風は感じない。

 だからだろう、それが自分の耳に届いたのは。

 ボタンを押すついでに一瞬だけ、信号機横の植え込みに視線を送る。

 そこには雪の白色にまみれ、斑めいた外見になった黒猫が踞っていた。

「………………」

 だからどうというワケもない。

 そりゃいるだろう、野良猫ぐらい。

 まだ半分も届け先が残っているのだ。更に雪のせいでいつもよりもペースが遅くなっている。早く届けなければ夕刊が晩刊になってしまいかねなかった。

 それでも、ペダルを漕ぐ脚に力が入らない。植え込みからピクリとも動こうともしないその黒猫から、視線が離れない。

 まるで身体が凍りついてしまったかのようだった。

 だが。

 信号機が点滅し始め、ようやく我に帰る。雀の涙程とはいえ、これもお金が発生するれっきとした仕事だ。こんなことをしている暇などありはしないのだ。

 信号機が赤に変わる直前に、全体重をペダルへと込めた。背後から聞こえてきたような鳴き声は、聞こえなかった事にした。






 全ての配達を終えた頃には、既に六時を回ってしまっていた。

 新聞販売所へと戻り、いつもより遅くなってしまった事を謝ろうとしたのだが、みんなから心配されていたようで、口々に労いの言葉をかけて貰った。

 ストーブに当たっていけ、とも言ってもらえたのだが、それは丁重に固辞させてもらう。

 急がなければならない事を伝え、足早に販売所を出る。すぐさま自分の自転車に飛び乗り、自宅とは逆方向に突っ走った。

 雪は相も変わらず降り続けている。当然ながら積雪量も増えるばかり。従ってペダルも重くなるばかりだった。

 それでも感覚が無くなってきた脚へと力を込め、雪を蹴散らし自転車をひた走らせる。

 いい加減白色に飽き飽きしてきた頃、目指していた場所へと辿り着いた。

 押しボタン信号、その植え込み。

「………………」

 黒猫の姿は、そこには無かった。

 まあ、良いことだ。

 あのまま凍死、なんてことはなかったのだから。

 これで用は済んだ。

 もう何の用事も有りはしない。

 探す当てもない。

 そもそもこれ以上寒空の下を彷徨けば、真面目に洒落にならない。どころか、これから一層冷え込んでくるだろう。

 だから、後は帰るだけ。

 帰る。

 帰る。

 帰る、だけ──


「…………帰れるかっての!」


 周りを見渡すが、当然足跡など残っている筈もない。別にいい。わかりきっていた事だ。

 それでも、帰れない。

 帰らない。

 ペダルをおもいっきり踏み締め、闇雲に自転車を走らせる。

 ひたすらに。滅茶苦茶に。

 とっくに空は暗くなり、街を照らすのは街頭の味気無い光だけだ。こんな中からあの黒猫を見つけ出すなんて、不可能に近いのだろう。

 構わない。理屈なんて知らない。理由さえ、碌にありはしない。

 馬鹿な事をしていると思う。

 間違った事をしているとは思わない。

 自分がどこを走っているかもわからなくなり、それでも止まりはしない。止まらない。止まれない。

 ひたすらに走って。走って。走って。走って。走って。

 走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って──




 ──いつしか、あれだけ降り頻っていた雪は、止んでいた。




 何処とも知れない公園。

 真っ白になったブランコに、自分は座っていた。

 膝の上には、黒猫を乗せていた。

 びっくりするくらい、暖かかった。

 暖かくて、暖かくて。

 身体の凍えが、どこかへとふっ飛んでしまったみたいだった。

「はぁ…………手こずらせてくれたなぁ」

 スマートフォンの電源は尽きてしまっている。

 公園の大時計へと目をやった。

「…………うわー、日付変わりそう」

 時計の針が示す時刻は──午後11時、59分。

 そしてすぐに、0時を指す。




「…………メリークリスマス」




 今までで最悪のクリスマスだと思った。

 今までで最高のクリスマスだと思った。

「帰ろっか」

 黒猫を抱えて、側に停めてあった自転車へと歩き出す。

 黒猫はびっくりするぐらいにおとなしく、買い物籠へと収まってくれた。

「あー…………けど、帰り道わかんないや」

 スマフォも使えない。

 道を示すものは、何もない。

 散々降り頻った、清しこの夜の雪のお陰で。


 轍は消えてしまった。


「…………ま、なんとかなるでしょ」

 その声に応えるかのように、籠の中の黒猫が、ニャアと鳴き声を上げた。

 再びペダルを踏み締め、夜闇へと駆り出す。

 もう一人ではない。

 雪はもう、止んでいる。




 しばらく轍は消えそうになかった。




 了。



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