店主の日常─①

#8 店主の日常─①

 中国雲南省にある楚雄市。そこに、とあるバーがあった。店の名前を『喝光』といった。開業して今年で二十年ちょうどを迎えるその店は、格別に繁盛しているわけでも今にも潰れそうというわけでもない、どこにでもある普通のちょっと小洒落た店であった。


 戦争真っ只中の晴れた日も、『喝光』の店主マスターを務めているヤンは、いつものごとく昼からんでいる客と取るに足らない世間話をしていた。いつもその客はヤン特製のカクテル片手に、仕事の愚痴や家族の愚痴、国が行う他の国への対応への愚痴などなど、それはまあ、多くのことを話してくる。だが、今日の彼は話をしつつも視線は壁に備え付けてあるテレビに向けられていた。有機ELのその画面には、五日前から始まった地上戦の現状を伝えるキャスターの姿があった。


「マスター、そろそろ逃げる準備とかってしといたほうがいいかね」


「そうですねえ、ベトナム軍が川沿いに攻め始めたということは、いずれ確実にここにくるでしょうからね。準備はしておいた方がいいかもしれませんね。……生まれてこのかた四十数年生きてきたここを見捨てるのも酷な話ですがね。そう思いません?ワンさんもここにきて長いでしょ」


「だよなぁ、逃げる準備くらいしとくか。ま、俺は命があればどうとでもなると思うがな!」


 客は、ワンと呼ばれた彼は、ガハハ、と大きく笑った。ひとしきり笑った後、グラスを傾けた。カラン、と氷がガラスにあたり音を立てる。


 そうして、二人は再びテレビを観た。二次元に巣食い、淡々と事実を突きつける男は新たな事実を言い始めた。それは国の危機だというのにも関わらず、冷静沈着な低い声で。


 そのニュースを聞いて、ヤンは思わず拭いていたグラスを落としそうになった。大抵のことには驚かないワンもグラスを持ったまましばらく動かなかった。


 いやはや、というヤンの声で束の間の静寂は切られた。彼はグラスを置いてシャツを正し、おもむろにテレビを消した。


 ワンもグラスを置き、額を手の甲で何度か叩いた。どうなるんでしょうな、と珍しくかしこまったような言い方をし、力なく笑ってみせた。


 ヤンが口を開く。


「厄介なことになりましたね。いや、まあ、そうなるとは思ってはいましたけども」


「ですな。まさか、向こうから戦争をふっかけてくるとは」


「空母だって差し向けてましたし、まあ遅かれ早かれっていった具合だと思いますけどね」


「そうだよなぁ、いや〜S.A.T.O.の盟主ともいうべきインドから直々に宣戦布告とはなぁ」


「こうなれば、あとはドミノ倒しでS.A.T.Oの国が宣戦布告してきますよ。うちの軍隊勝てますかね」


「まあ、ほら、うちの人たち強いからさ」


 その一言を最後に、店に不釣り合いなまでの沈黙が流れた。


 ベトナムの逆侵攻に加え、大国インドの宣戦布告。お偉い方々はどこまで見通していたのだろうか。見通していたなら対策は講じているはずなのだが。


 こんなことを口に出そうものなら何が起こるか分からない。できるのはただ、何かに祈ることだけであった。自分たち一般市民は上の指示に従って動いていればいいはずであると、ヤンは心のどこかでまだ信じていた。


 目の前にいる肥満気味の彼の、酔いが飛んだともいえるその顔を見る限り、彼も同じように信じていたのだろうと思った。

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