旅の終わり①

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 息を、吐く。


 生まれた時からずっと行っている当たり前の動作である筈なのに、何だか随分と久し振りにやった気がした。


「……」


 吸って、吐いて。


 吸って、吐いて。


 やり方を思い出すように、何度か意識的に繰り返してみる。


 その内、意識がハッキリしてきて、クラウスは自分が誰で、何者であるのかを思い出してきた。


 クラウスはクラウスだ。華々しい活躍をする英雄でも、誰かを守る為に苛烈な戦いが出来る騎士でもない。冒険者になりたくて、けれど理想と現実が噛み合わない事に悩んできた、只のクラウスだ。


 それが現実だ。


「――! ――――!!」


 声が聞こえる。


 誰のものか判別するには、まだ少し意識がハッキリしない。けれど、その声に耳を傾けていると、胸の奥が奇妙にざわつく。そんな声だった。


「――……じられない……っと……かたってものが……――!」


 目を、開く。


 先ず真っ先に目に入ったのは、星の海を思わせる銀青の光だった。キラキラと無数に瞬いているのは魔力の余波で、その中心に居るのはその持ち主だ。


「目が覚めましたか」


 無言のまま、クラウスを見下ろしていたは、クラウスが彼女の事を思い出すか否かのタイミングでそう言った。安堵も無く、かと言って怒りや呆れも無い、無感動な視線や声音。自分のやらかしてた事はハッキリと覚えていたから、その冷たい雰囲気にクラウスは萎縮した。


「す、すまな――」


「否定。リオルに謝罪するよりも、彼等に礼を」


 上擦ったクラウスの声を遮って、リオルは視線を脇に向ける。釣られてそちらに目を向けると、憤慨した様子でガミガミと怒鳴っているマリオンと、その前で足を折り畳んで地面に座っているホムラ、そして彼等の間でオロオロしながらも、何とかマリオンを宥めようとしているアネモネの姿が見えた。先程から聞こえて来た例の声は、どうやらマリオンの怒鳴り声であったらしい。


「今回の流れになった時、リオルは貴方を見捨てるべきだと言いました。しかし、彼等は残った。全員が貴方を救おうと、この場に残ったのです」


「……なんで……」


「姉さまはあのような性格ですから。非合理的で愚かと言われる性格ですが、あれが姉さまです。ホムラは、リオルには理解し難いですが、"ギリニンジョウ"という信仰故でしょう。他人の為に痩せ我慢する事を美徳とするようなあの生き方には、いつも苦労させられます」


 自分の身内に、結構酷い言い草だった。


 けれどその言葉を連ねている時、彼女の声は無感動ながら、何かを自慢して弾んでいるようにも思えたのだ。彼女は彼等を愛していて、きっと彼等の為ならその身を捧げる。理屈抜きでその事が分かるような、とても温かい声音だった。


「――こら! 聞いてるのかお前!」


 そんなリオルの声は、けれどその直後、マリオンの怒声に遮られる事となった。確かに怒声だが、その端には涙が滲んでいる。再び胸の奥がざわついて、クラウスは咄嗟に声を掛ける事が出来なかった。


 魔物化した時の事は、完全にではないが、覚えている。彼女が振るった言葉こぶしの重さも、覚えている。自分の事を可哀想がるばっかりで、クラウスは彼女の事を見ていなかった。その事を気付かされたあの時の衝撃と動揺を、クラウスはしっかり覚えている。


「あんな風に派手にぶった斬って、中身まで真っ二つになったらどうするつもりだったんだ! 兄ちゃんがそれで死んだら、お前どうするつもりだったんだ!! 助けて貰っといてあれだけど! お前には本当に感謝してるけど!!」


「すまない。確かに考え無しだった」


「すまないじゃねぇ! お前だって結果出してんだからもう少し偉そうな顔して言い返せよ! もうこっちも引っ込みがつかないんだよ!!」


 怒っているのか、感謝しているのか、相手を慮っているのか分からない。珍しいものを見ている気分だった。クラウスの中のマリオンはもっとクールで、思考回路や感情の制御をそつなくこなすタイプの人間だったから。


 あっという間に、クラウスを追い抜いていったマリオン。クラウスなんかよりもずっとずっと優秀なマリオン。


 ある意味で、クラウスは彼女が恐ろしかった。唯一クラウスを見付けてくれた彼女が、とっくにクラウスを身限っているのではないかと想像するのは辛かった。仮にそうなった所で仕方無いのに、人が何を選ぼうと、何を切り捨てようと勝手なのに、クラウスは彼女との約束と思い出に縋り続けた。


 そのくせ、本当はのだ。他ならぬクラウス自身が、自分自身を諦めていたから。"どうせ自分なんかが頼られる訳がない"。"どうせ自分は誰にも好かれないから"。「どうせ」で始まるありとあらゆる負の自己解釈ばかりが湯水のように溢れ出てきて、何時しかクラウスはその奥に逃げ込んだ。


 マリオン本人がどう考えているのかなんて、何時しか考えなくなっていたのだ。


「マリオン――」

 

 彼女から喰らった想いこぶしの数々は、今もクラウスに響いている。寧ろ、その響きは今になって益々強まっているように感じられた。


 その響きに追い立てられるように、クラウスは声を上げていた。此処に居ると叫び続けた彼女の声に、今更ながら、それでも漸く気付けた事を伝えたかった。


「マリオン」


「!」


 その瞬間、マリオンの肩が火箸でも押し付けられたみたいにビクリと震えた。恐る恐ると言った様子でクラウスの方を振り返り、クラウスが目を開けているのを見て、思わずと言った様子で息を呑む。いっそ罵倒でもしてくれれば良かったのに、彼女は何も喋らなかった。


 言葉が見付からなかったのかもしれない。


 長く、重い沈黙だった。


「起き上がれますか?」


「あ、あぁ……」


「肯定」


 呆れたような溜め息と共に、リオルが身を起こすのを手伝ってくれる。クラウスが上体を起こし、自身でバランスを取れる事を確認すると、彼女はその場からあっさり立ち上がって、ホムラ達の所へ戻っていった。


 それと入れ替わるように、ホムラに背中を押されたマリオンが、クラウスの方へ歩いてくる。最初の数歩は押された勢いのままに、けれど残りは踏ん切りが付いたように自らの意思で。やがて彼女はクラウスの目の前までやってくると、視線の高さを合わせる為か、その場にしゃがみ込んだ。


「……大丈夫?」


 仏頂面で低く唸るようなその声は、怒っている証だ。


 彼女の背後、やや離れた所では、固唾を飲んで見守っているアネモネの肩を叩いて、ホムラとリオルがその場を後にしようとしていた。後は当事者同士で、という事らしい。


「最後、思いっきり真っ二つになってたけど。何処か痛いところとか、変な所とか、無い?」


「真っ二つ……」


 曰く、魔物化したクラウスは、ホムラによって唐竹割りにされたらしい。誰がどう見ても致命傷を負った魔物の身体は、次の瞬間、黒いドロドロとなって急速にほどけていったと言う。そのドロドロも蒸発するように塵と化し、後には床に染み付いた僅かな染みと、それから元通り首が繋がったクラウスが気を失って倒れているのみだったとか。


「アイツ、やたら自信満々だったけど、割と根拠の無い自信なんだよ。そりゃあ、結果的に兄ちゃんは助かったけどさ……もし兄ちゃんまで真っ二つになってたらと思うと……」


「……」


 最後の瞬間の事だけは、記憶が定かではない。兎に角目の前に居たホムラを倒したかった事と、最後の最後で、やっぱり事だけしか覚えていない。


 目の前に立ち塞がり、傲岸不遜に笑って見せたホムラは、あの時のクラウスにとって妬みの対象の具現であり、ずっと目指していた到達点の一つの形だった。


 例え魔物の力に頼ったとしても、彼を倒せば何かが変わるような気がしたのだ。


 けれど実際はそんな事にはならず、あの時クラウスが我夢沙羅に伸ばした手は、何処にも届かず空を切った。


「……」


「兄ちゃん?」


「いや……いや、大丈夫。別に、おかしな所は何も無い」


「……本当に?」


「本当だって」


「でも」


「マリオン」


 クラウスは、届かなかった。


 この先、には絶対に届かないと悟ってしまったのだ。


「兄ちゃん、頑張ったんだ」


「……」


「頑張ったんだよ。お前と一緒に、まだ見ぬ世界を冒険したかった」


 元々は、只の現実逃避だった。けれどある日、マリオンが現れて、いつの間にかその話が実体を持ち始めて、クラウスは逃げられなくなった。否、逃げたくなくなった。


 どんなに打ちのめされても、嗤われても。クラウスの現実逃避ゆめを信じて、共に目指してくれる人が居てくれる。其処にこそ、クラウスがずっと求めていた居場所があった。ずっと後方にいた筈のマリオンに追い抜かれても、自身の年齢と立場が世間の常識と噛み合わなくなっても、耐えられた。耐えられていると思っていた。


 何時かは、目指していた場所に届くのかもしれない。諦めずに延々と食い下がっていれば、魔物のクラウスを両断した東方の剣士と、同じ境地に辿り着く事が出来るのかもしれない。


 けれど、その境地は余りにも遠く、時間もまた無限ではないのだ。無邪気に夢を追い掛けるには、現実は余りにも制限が多過ぎる。


「ごめん」


 言い訳を盾にして、ずっと目を背け続けていた、現実。


 受け止めて、受け入れて、言葉にするには大変な労力が必要だった。せめて毅然としていたくて覚悟を決めていたのに、それでも声は無念に震えた。


「約束、果たせそうにない」


 視線は自然に、下を向いていた。


 自分で下した決断とは言え、結果的に裏切る形になってしまったマリオンに申し訳無くて、彼女の顔を見る事が出来なかった。


「ごめんよ」


 それでも、ちゃんとケジメを付けるべきだと思ったのだ。


 彼女は、クラウスを見捨ててなんかいなかった。クラウスとの約束を覚えててくれて、クラウスをずっと待っててくれた。例えこれから身限られるにしろ、クラウスはこれ以上現実から目を背けて、彼女を自分の現実逃避に縛り付けるべきではないのだ。


「諦めるの?」


 すとん、と石を落とすようなマリオンの声。


 その感情は読み取れず、視線も下に下げているから、クラウスは彼女の心境を読み取る事は出来ない。


「冒険者。諦めるんだ?」


「……ああ」


 躊躇が無かったと言えば嘘になる。言葉が足りないと言われればそうかも知れない。


 けれど彼女に対して未練がましく言い訳を延々と垂れるのは嫌で、そもそも失望も怒りも受け入れるのが筋と言うものだ。クラウスはマリオンを裏切った。どんな言い訳を被せようと、その事実は厳然と横たわっていて、変えようが無い。


「そっか」


 マリオンの声音には、まだ変化が無い。失望しているのか、怒り狂っているのか、少なくとも声音からは判断が付かない。


 覚悟しているとは言え、処刑人の刃を待ち受ける心持ちでクラウスが息を詰めていると、やがて彼女は薪を割るかのような明快さであっさりと言い放った。


「そう。分かった」


「……」


「……」


「……ん?」


 それだけ?


 最低でも痛罵される事は覚悟していたのに、肩透かしも良いとこだ。


 呆気に取られて顔を上げると、マリオンはそんなクラウスを逆に怪訝そうに見返してきた。


「何? 私何か変な事言った?」


「変な事って言うか……俺は、お前を」


「裏切ってなんかない」


「え」


「裏切ってなんか、ない」


 下手な反論など噛み殺すような面持ちで、マリオンは同じ言葉を二度重ねた。その迫力に出掛かった言葉を喉の奥に押し戻され、クラウスは思わず黙り込んだ。


「確かに残念ではあるけれど、兄ちゃんがずっと頑張ってた事は知ってるし。大体、私にとって冒険者になる事は、手段であって目的じゃないし」


「手段……? 目的……?」


 思考が、上手く働かない。


 誰かにとっての何者でもないと思い込んでいたクラウスには、マリオンの言っている意味が良く分からない。否、何となく想像は付くけれど、恐ろしくて素直に信じる事が出来なかった。最初から期待なんかしないでおけば、いざ裏切られた時、傷は多少浅くて済むから。"言い訳たて"の、根源である。


 けれどマリオンは、そんなクラウスの防御を、一瞬で粉々に吹き飛ばした。


 グッと、彼女が身を乗り出してくる。クラウスと彼女との距離が、僅かな間、ゼロになる。


 永遠に人生に焼き付くような一瞬の空白の後、僅かに身を引いて距離を空けたマリオンは、微笑むでもなく、頬を染めるでもなく、けれど覚悟と喜びを何処かに湛えた静かな表情で、穏やかに言葉を紡いだ。



 


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