第3話 草でカワセミが見えない

 乳腺外科クリニックでの診察の結果、一旦スルピリド(ドグマチール)の服用を中断して様子を見てみることになった。こういう場合、必ず処方している医師に服用中断について相談をするべきなのだが、面倒くさくて勝手にやってしまった。読者諸氏におかれましてはくれぐれも真似しないでいただきたい。

 先生は、薬の影響が抜けるまで一定期間待ってから様子を見たいとのことで、どうせ土曜日は出勤日だし、1週間後の月曜日に半休を取って再受診する予定でいたのだが、金曜日の夕方になって、私は、あることに気付いた。

 あ、今週の土曜日、探鳥会だった!

 所属している野鳥保護の団体では、毎月第一土曜日の早朝に、とある街中の公園で野鳥観察会を催している。毎月、同じ時間帯・同じ場所で、観察される野鳥の種類を記録していくことで、その場所の環境の変化などのデータとしていくのだ。

 そして、8月と9月は私が幹事だったので、欠席するわけにはいかなかったのだ。

 私は慌てて土曜日の有給申請をした。

 翌日、8月の第一土曜日の6時、北陸はとてもよく晴れていた。この公園で今年生まれたカルガモやカイツブリの雛・幼鳥たちが、外来種のミシシッピアカミミガメとくつろぎ、しばらくするとカワセミの雌が飛んできて盛んに飛び込みをする。

 だが、よく見えなかった……。この猛暑で元気になりすぎた観察小屋の周りの草が、観察窓を覆うように生い茂りまくっていたのだ。草と草の隙間からカメラを向け撮ったその日の写真の多くは、ひどい盗撮アングルみがあった。

「公園の管理者の人に、刈ってもらうよう言っておくわー」

 団体の偉い人のその言葉で観察会は締めくくられた。

 草が小屋を取り囲んでいたせいもあったのか知らないが、午前7時の時点で私はすでに汗だくになっていた。開店直後の世界一美しいスターバックスで朝食をとり、クリニックが開くと同時に駆け込む。

 看護師さんによるプレ・診察は初診じゃなくても毎回あるようだった。

「それじゃあ、診察の前にマンモグラフィーやってもらうから」

「あ、あの、めっちゃ腫れてて、なんかしこりっぽいのもあって、痛そうなんですけど、マンモ、必ずやらなきゃだめですか?」

 そう、この数日で、腫れ・痛みは悪化していないか、気持ち少し良くなったようにも感じなくもなかったのだが、しこりのようなものが出現していたのである。

「ええ? 腫れてるの? 乳腺炎? 乳腺炎だったらマンモできないんだよね。ちょっと見せてもらえる?」

 というか、最初から見とけよ、何のためのプレ診察なんだ……と思いながら見せたら、

「ありゃ、こりゃ大変だ、これは絶対マンモしなきゃだめだから!」

 え~? そうなの?? と思いながらマンモの部屋の前で順番待ちをしていると、先ほどの看護師さんが

「碧さん、やっぱり、先生の診察の後にマンモするか決めましょう。痛みがあるようですから」

 と告げに来る。良かった、と思いながら、しばらくして診察室に入ると、先生、

「マンモ撮ってないの? なんで?」

 と別の看護師さんを叱責している……どうしてこうなった。とりあえず視診・触診。

「良くなっていない……というか、大きなしこりがあるね……とりあえず、まずはエコーしようか」

 エコーは先生ではなく検査技師さんらしき女性が実施するらしく、先生は一旦席を外す。慣れた手つきでぬくいジェルをぶっかけ、プローブを当てる技師さん。だがすぐに、不安げに呟きだした。

「えっ……境界が……」

 めっちゃ不穏な独り言やな! 患者に聞かせん方がええで! と心の中で突っ込む私。

「ちょっと、先生にも見てもらいますね」

 と断って、別室の先生を呼んでくる技師さん。隣の部屋から

「境界が見えなくて……」

 という声が聞こえてくる。聞こえてるから! てかしこりの境界がはっきりしないとかよくがんの所見であるやつじゃん! めっちゃ怖ぇ!

 ドキドキしながら待っていると、先生が戻ってきて、プローブを当てる。

「境界……あー、これ、大きすぎて画面に入ってないだけだわ。うーん、境界は、はっきりしているなー」

 なーんだ、良かった、大きすぎるのは良くないのか知らんけど、と思いながら、見てもよくわからないエコーの画面を診察台の上からチラ見する。ほっとしたのも、つかの間、

「うーん、なんだこれ……?」

 と呟く先生。だから、聞こえてるから! やめて! 不安になるから!

「碧さん、しこりがエコーのプローブより大きくて、全容が撮影できないので、マンモグラフィーも撮りましょう」

 碧 は マンモグラフィー から にげられない!

 人生で初めてのマンモグラフィー。よくテレビとかピンクリボン的なパンフレットで見たことのある、2枚板の機械の前に立たされる。さっきとは別の女の技師さんが、まずはなんともない右のおっぱいを板の上に載せて、豪快にギューギューと押し広げた。そのままもう一枚の板が上から降りてきて、おっぱいがびよーんと広がっていく。クッキーの生地みたいに! クッキーの生地みたいに!

 そして、こんなに変形するぐらいに押しつぶされているのに、おっぱいはびっくりするぐらい何の痛みもなかった。

 だが問題は、左のおっぱいである。

 まず一枚目の板の上に載せられる時点で既にちょっと痛い。技師さんに位置を直すためにちょこちょこ触られるだけでまた痛い。そして上から2枚目の板が降りてくる。もうとんでもなく痛い。激痛 of 激痛である。時間にして10秒程度だったと思うが、その間、私は歯を食いしばり、なんか傍に合った棒かなんかを握りしめ、目尻が若干濡れた。叫び声は上げなかったが、あの状態で「吐け! お前がやったんだろう!」って言われたら、覚えのない罪を認めてしまいそうだ。

 ふらふらになりながら診察室に戻る。押しつぶされた後遺症でナチュラルにまだ痛い中、突然「同意書」という書面が差し出される。

「病理検査が必要になるんだけど、局所麻酔をして針を刺すので、ここにサインして欲しいんだよね」

 もう何でも良いので帰って寝たい気分だった。よくわからないまま私は再び診察台に寝かされる。これまでとは違う看護師さんが、私の耳元で説明した。

「これから、大きな注射針で、検査のために胸の細胞を切り取るんだけど、麻酔をするので痛みはほとんど無いと思います。ただ、細胞を取るときに、どーん、っていう大きな音が3回するから、驚かないでね」

 どーんて音? それはびっくりするな。

 結果的に、元々マンモの後遺症で痛いところに刺された局所麻酔の針は言うほど痛くなく、すぐに麻酔は効き、細胞を取るときの音はどーん、というより、かっちゃん! という音だった。

 ふらふらしながら脱いだ服を着ている間、カーテン越しに先生が問いかける。

「このしこり、前に診察に来たときはなかったよね? 急に大きくなったの?」

「なかったと思います……ここ数日で急に……多分……」

 とはいえ、セルフチェックなんてしたことなくて、しこり自体が今まで出来たことなかったのか、と言われると、なんとなく自信を持って断言することができない。

「迂闊なことは言えないんだけど」

 と先生は前置きした。

「エコーや触・視診、経過から、いわゆる乳がんという感じではないと思う。しこりがこれだけの大きさになる疾患で、「葉状肉腫」というのがあります」

「ようじょう……なんて?」

 先生はメモ用紙に「葉状肉腫」と書いて渡してくれた。

「インターネットでも調べれば色々情報があると思うよ。珍しい病気で、乳腺疾患のうちの0.5%ぐらい。ごく稀に悪性の場合は転移することがあります。外科的手術で切除するのが一般的です。全身麻酔で」

「はあ……ええ……まじっすか」

 聞いた来ない病名が出て来たので、あっけにとられてしまった。

「あと、乳がんの可能性もゼロではないので。とにかく、診断は、今採取した組織の病理検査を見てからです。ただ、この検査はだいたい1週間ほどかかって……来週の土曜日は、もうお盆休みだから……」

「あ、病理に、今の検体の結果、優先してもらえるように連絡しておきました!」

 技師っぽい女の人が報告する。出来る女だ。そしてこのクリニックは一体何人のコメディカルを雇っているのだ……。

「じゃあ、金曜日の午後に一度、検査の結果が出ているか電話で確認してから来て下さいね。あー、それとそのとき……ご家族の方も連れてきて下さい」

 えー、今時、がんだったとして、告知の時に家族の付き添いとか要る?

 と思って一瞬返事が遅れた私に、先生は言った。

「あー……旦那さん、金曜日に来るの、難しそうですか?」

「あ? いえ、私結婚はしてないんで……」

「ええ?!」

 いや、そこ、そんな驚くほどのことじゃないでしょう……。


 「局所麻酔を打ったから」という理由で、処置室で30分寝かされた後、私は自宅へ帰された。早速、先生にもらったメモ用紙を見て、グーグル先生に「葉状肉腫」を検索してもらった。

 一番最初に出て来たページには、こう書いてあった。


「『肉腫』という呼び方は、今の医学界では使われていません」


 なんかめっちゃ不安になってきた

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