第2話 チーズケーキとガブリエル

 左の乳房が赤くなり大きく腫れていた。痛みの程度としては、苦痛に感じるほどではないが、ジンジンと弱まることなく持続している。赤くなっている部分に触ってみると、発熱しているのがわかった。

 これは流石にどう考えても、正常な状態ではない。

 私はWWWインターネッツ世代なので、すぐさまグーグル先生に「おっぱい 腫れる」で検索してもらった。

 すると出てくる出てくる。授乳中のママさん向けの情報サイトがずらりと!

 乳腺炎。赤ちゃん出産後に、ママさんのおっぱいが乳首からちゃんと出ないで乳房内に溜まると、炎症が起こる。よくあることらしい。

 発赤。乳房が張る。腫大。熱感。痛み。明らかに症状は当てはまっていた。

 だが、私は授乳中のママではない。出産の経験もないし、喪女を極めた喪女なので、ガブリエルが枕元に立ったことを寝ぼけて忘れているのでもなければ、妊娠の可能性もゼロ・パーセントである。

 しかし、検索結果をスクロールしてもスクロールしても、ママ向けの情報ばかりだ。

「くそっ、症状で検索しても乳腺炎の話しか出てこない!」

 そう愚痴ると、母はのんきにこう返した。

「あー、乳腺炎ね。私もあんたを産んだ後おっぱい痛かったよー」

 曰く、赤ん坊の頃の私は何故か授乳しようとしても母のおっぱいに吸い付かず顔を背けたらしく、母のおっぱいにはおっぱいが溜まっていく一方だったらしい。

「それでさー、ある日チーズケーキ食べたら、ぴゃーっておっぱい吹き出たんだよー」

「知らんがな」

「いやー、チーズケーキは本当にすごいよ」

「知らんて」

 チーズケーキはともかくとして、おっぱいの詰まりと言えば、一つ気になっていることがあった。

 前述の通り、私はスルピリド(ドグマチール)という向精神薬を服用している。この副作用に「乳汁分泌」があると聞いている。乳汁が生成されたが乳首から排出されずに、中で炎症を起こしているのではないだろうか?

 翌日、私は会社の昼休みに、行きつけの薬局に電話をかけた。

 通っているメンタルクリニックに併設されている調剤薬局の薬剤師さんは、話しやすく、とても親切にしてくれるので、処方されている薬以外のことでも何かと頼ってしまう。

「スルピリドの副作用で、乳腺炎みたいな症状がでることって、ありますかね?」

 少し戸惑ったようにうなる声が聞こえた。

「確かに、プロラクチンというホルモンが分泌されるので、あり得なくもないですが……とりあえず、痛みなどがあるのなら、乳房のお医者さんに診てもらう必要はあると思いますよ。そのときに、処方されている薬のことを説明してください。乳腺外科を受診されたことはありますか?」

「いえ、一度も……」

「この辺、あんまり多くはないんですよね。一番大きなところだとWクリニックになりますけど、あそこは人気で初診の予約が取りづらいって聞きますし……あ、そうだ、碧さんのおうちの近くのY医院というところも、確か乳腺が診れるお医者さんがいたはずですよ」

 まさか病院まで教えてもらえると思わなかったが、結果的にこの情報はとてもありがたかった。乳腺を診てくれる診療所は少ない上に、人気のところはとことん人気である。Wクリニックは私も名前を聞いたことがあったので、最初に電話をしてみたが、「どんな症状重い方でも最低1ヶ月待ちです」と言い切られてしまった。Y医院に電話したところ、予約なしでOK、診療時間も定時にダッシュすればギリギリ間に合いそうだったので、そこへ行くことにした。

 Y医院は新しく清潔感のある綺麗な建物だった。基本は内科で、胃カメラや乳腺の画像診断もやります、みたいなクリニックらしい。待合室には近所のおじいさんやら子どもやら、もしかしたら私と同じく乳腺を診てもらいに来たのかな? という感じの同年代ぽい女性もいた。

 最初に保健師? 看護師? さんのプレ・診察みたいなものがある。数日前から胸が腫れてきたこと、スルピリドを飲んでいることをお薬手帳を提出して説明する。

「マンモグラフィ、先生の診察の前にしますか?」

 と聞かれ、

「マンモグラフィって、絶対にしなきゃだめですか? なんか腫れてて痛そうだから、しなくていいならしたくないんですけど……」

「乳がんの検査はしないといけないですよ。でも先生の診察の後がいいならそれでもいいですけど、診療時間残り少ないので、今日は無理になっちゃうかもしれないですね」

 それからしばらく待って、お医者さんと初対面となった。Y先生は、総合病院で外科に勤めていたときに乳がんの手術の経験が多いとかってホームページに書いてあったので、とりあえずおっぱいを見てもらえば何かすぐにわかるんじゃないかと勝手な期待をしてしまっていた。

「とりあえずおっぱいを見せて」となったので、私はTシャツの裾をグヮバァッとまくる。あ、ブラは外した。そして、先生は、言った。

「ええー?! なんで?!?!」

 まんま昨日のわしの反応やんけ!

「これ、急性乳腺炎だよ……でも、どうして……。とりあえず、血液検査をしましょう」

 血液検査! なるほど、プロラクチン濃度とやらをはかるんだな? と思いながら、別室に通される。看護師さんが慣れた手つきで、採血をする。ホルモン値を測定するには、採取量が少ないな、と思いながら、採血痕を押さえさせられる。

 私の血液が入った真空採血管は、慣れた手つきで部屋の隅にあった謎の機械にボコっと差し込まれた。

「検査の結果は、2、3分で出ますので」

(なんじゃと?!)

 それから本当に2、3分後、再び診察室に呼び出される。

「急性乳腺炎じゃないですね」

「急性乳腺炎……じゃないんですか?」

「うん、ほら、これ。白血球の数が正常値だから」

 どうもさっきのは、すぐに結果の出る「血球検査」をしたらしい。結果の一覧を見せてくれた。白血球の数は正常値の範囲内だが、上限ギリギリでもあったのがなんとなく気になった。

 細菌の感染で起こる乳腺炎=急性乳腺炎であるらしく、急性というのは「急に腫れる」という意味ではないらしい。

「えーと、先生、じゃあ、やっぱり副作用でしょうか。薬の」

「うーん、ドグマチールかあ」

 古い薬だし、乳腺に影響があったりすることもあるので、メンタル系の薬だけど先生も名前は知っているようだ。

「ドグマチール飲んだからってこんな、腫れるかなあ……気になるところではあるけど……もし辞めても良いんだったら、一旦、薬辞めて様子見てみようか? ところであなた、もっと早い時間に受診来れない? 次回はもうちょっと、画像検診とか精密な検査したいんだけど。うち、土曜日も午前だけやってるよ」

「土曜日……」

 ハローワークでブラックリストに載ってしまうぐらい(労働者からの)評判が悪い弊社なので、その週の土曜日もナチュラルに営業日だった。

「……来週の月曜日、半休にして来ようと思います。午後一番に来れば、間に合いますよね」

「そうだね、薬辞めてちょっと良くなったかどうかも見たいし、じゃあ、一週間後の月曜日に、来てね。特に出す薬とかはないよ。痛くて眠れないとかでもないんでしょ?」

「眠れないって言うほどでは……ないですね」

 眠れないと言うほどの痛みではないが、何かしていても常にうーん、痛いなあと感じるぐらいの存在感にはなってきていて、それが精神的に段々不安にもなってきていた。まあ、耐えられなくなったら、何か痛み止めを飲めば良いだろう。

 まずは、就寝前に服用していたスルピリド(ドグマチール)を、飲まないことにする。他の向鬱剤と睡眠導入剤はいつも通りに服用し、眠りについた。


 

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