ウレイラ山

イネ

第1話

 岩泉町の西側の、あの恐ろしい岩肌がウレイラ山です。

 この山は毎日たくさんの雨水を飲み、松の林を呼吸して、雲や星や、コウモリを食べて生活していました。それで腹の中には、いつでもたくさんのコウモリがぶら下がっていましたし、ほのかにテレピンの香る、透き通って冷たい真っ青な泉も湧いていました。

 ある日、ひとりの技師がすっかりまじめな顔つきをして、山の入口に立ちました。新しく、洞窟探検隊の隊長に任命された若者です。山は思わず笑ってしまいました。

「なんて格好だ。龍でも退治しに来たつもりかね」

 若い隊長は、ヘルメットにハンマー、懐中電灯にビスケット、命綱のロープを携えて、地底湖へと慎重に下りていきました。自分よりもずっと年上の隊員たちに毎日いじめられて、そのうえ昨日は、大事な地図をどこかに置き忘れてきてしまったものですから、すっかり焦っているのです。

 隊長が一歩、一歩、と踏みしめるたび、山はどこかわき腹の辺りがくすぐったいように思いながら、ちょうど形の整った雲が流れてきましたので、それをつかまえて身体をゴシゴシと洗いはじめました。雲はあっという間に泡立って真っ白い霧に変わり、森の中では鹿たちがおどろいてピィピィ鳴きました。

 霧が晴れると、山はいよいよ上機嫌です。さっきついでに歯も磨いたのですから、ふもとの村からも、山が大口を開けてよろこんでいるのがわかりました。村のいちばん手前の、蕎麦屋の主人もそれを眺めて、ちょうど一服やっておりました。けれども蕎麦屋だなんて、あんまり大変です。毎日、まだ夜の明ける前からやってきて山の水を汲み、仕込みをはじめなければならないのです。

「ふん、水ならいくらでもくれてやる。しかし俺はその蕎麦を、まだごちそうになったことがない」

 山はちょっぴりくちびるを曲げました。

「それに俺は、松茸ドロボウだって追い払ってやったんじゃないか。なのに地主のやつ、俺に酒の一本も持ってこないとは」

 そう言って山がこぶしをふりあげましたので、腹の中ではコウモリがおどろいて一斉に飛び退きました。若い隊長も「ひゃっ」と悲鳴をあげて、持っていたビスケットを泉の中に落っことしてしまいました。真っ青な水の底で、ビスケットはまるで銀貨のようにうるうると揺れました。

 夜、満点の南の空に手を伸ばして山は、いちばん明るい星をひとつもぎ取ると、ちょっとかじってみてつぶやきました。

「どうも今夜は腹の調子が落ち着かん」

 それから少しばかりうとうとしましたが、山なんてもともと、昼間でも夢のような時間を過ごしているのですから、またすぐに目を覚ましては、熟れた星を探したり、夜露に蒸散する松の匂いを嗅いだりしました。

 翌日の朝早く、洞窟探検隊の一行がやってきて、険しい表情で山を見上げました。昨夜、どうやら隊長が戻らなかったらしいのです。

「ウレイラが人を飲んだぞ」

「龍が隊長を食ったそうだ」

 村は大騒ぎになりました。山もさすがに顔色を変えました。

 ところが昼前には、隊員らは若い隊長を担いで、わっはっは、と戻って参りました。隊長は、だいぶくたびれてはいましたが、怪我もなく、小脇にはちゃんと、無くした地図も抱えていました。ただビスケットを泉の中へ落っことしてしまったもので、腹が減って動けなかったのです。それで隊員たちはそろって、隊長を担いだまま、ぞろぞろと蕎麦屋へと入っていきました。

 山はホッと息をついて、横目でチラとのぞき込みました。天ぷら蕎麦のいい香りが漂ってきます。

「ちぇ、昼間っから、酒まで飲んでらぁ」

 隊員たちは、若い隊長のことを自分の弟や息子のように思って毎日きびしくしていたのですから、今日ばかりはもう、蕎麦屋の女将にも負けないくらいにあれやこれやと世話をやいてやり、代わる代わる酒をついだり、自分の天ぷらを隊長のどんぶりにポイと入れてやったりしました。いちばん年輩の隊員はもう気分が良くなって、俺も若いころ龍に食われかけたことがあるのだ、なんてやりはじめています。

「ふん、龍だなんて、ばかばかしい」

 山は半分、ふてくされて言いました。

「あんな臆病な生き物が、人間なんて食うもんか。ビスケットでじゅうぶんさ」

 それからピザ生地のような雲をつかまえて、もっくもっくと食べました。あんまり一度に食べたので、腹の中ではまたコウモリがおどろいて、ざわざわとふるえております。



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ウレイラ山 イネ @ine-bymyself

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