第4話 もっと熱のあるいやらしいものがほしいんだ

 パチン、と小さな音を立てて志穂の爪がり取られた。

 そして吉行はやましい意図をかくすために、右の中指と左の親指の爪もすこしった。


「じゃあ、新しいジェルを塗りますよ」


 あとは、何も考えなくても吉行の手は勝手に動いた。手を無駄なく動かしながら、吉行はさっきりおとした爪について考えている。


 あの爪を不自然でなく持ち帰るためには、いったいどうしたらいいだろうか。

 志穂しほが席をはずしてくれれば、ハンカチをすばやくたたんでバニティケースにすべり込ませることができる。


 しかし礼儀にうるさい志穂は、きっと吉行が部屋を出るまでスイートルームのリビングエリアから出ることはないだろう。


 しかし、吉行はあの爪がほしい。

 なんのジェルも塗っていない、まるで裸のように無防備な志穂の爪が、どうしても欲しいのだ。


 クリアジェルを硬化させるためのライトの中へ手を入れた志穂は、のんきな顔で窓の向こうを見ている。


「もうすっかり夕方ね。吉行君、よかったら部屋で食事をしていってよ。ルームサービスを呼べるわよ」

「このあとは、予定があるので」


 吉行はぶっきらぼうにそう言った。

 本当は、あなたの前では食べ物なんかのどを通りません、と言いたかった。

 そう言いたかったが吉行は黙って硬化の終わった志穂の右手を調べ、反対側をライトの中に入れるよううながした。


 志穂はふふふっと笑った。


「そうよね、せっかくの金曜日にあなたみたいな若い子が時間を持てあますはずがないものね」

「ヒマですよ、だから呼ばれたらすぐに来るんじゃないですか」


 まるで日ごろかまってもらえない飼い犬のように。

 電話一本、メール一本で世界中のどこにいても俺は駆けつけるよ。

 あなたのためなら。


 志穂はのんびりと続けて言った。


「何かお礼がしたいわ。お金を払おうとしてもどうせ受け取らないんでしょう?」

「おばさんには、いつもお世話になっていますから。これくらいどうってことありませんよ」


 あなたの皮膚に触れられる機会を、この俺がのがすとでも?


 すっかり固まった左手をライトから引き抜き、吉行はじっくりと志穂の両手を眺めた。

 志穂の手は、小さな手のひらに不似合いなほど長い指がついている。

 これは、子供のころから本格的にピアノをやってきたなごりだと志穂の息子のじゅんから聞いたことがあった。


 いとおしいいとおしい、世界でたった一人の女の手。


 吉行は静かに目を伏せて、志穂の手を離した。


「出来あがりましたよ」

「ありがとう、とっても綺麗きれいになったわ」


 志穂は両手を部屋の明かりにかざしてうっとりと見とれた。


「そうだわ、お礼にこれを受け取ってちょうだい」


 すばやく立ち上がった志穂はドレッサーから小さなバッグをとり、中をさぐってオレンジ色の小さな箱を取り出した。


「順にあげようと思ったものなのだけれど。あの子、エルメスのカフスはあまり使わないみたいなの」


 吉行は箱を受け取り、開けた。

 シルバーの小さな円形のカフスが入っている。カフスの中央にのロゴが入っただけのシンプルなものだ。


「俺がもらっても、いいんですか?」

「いいのよ。順にあげたって、どうせどこかの女の子にあげちゃうだけなんですもの」


 たった一人だけさずかった息子について話すとき、志穂は完全に母親の顔になる。それは、うらやましいほどの完璧な変わりようだ。

 そんな志穂の表情を見るとき、吉行の中に激しい羨望と嫉妬が沸き上がる。


 おれは、この人の男になりたい。


 ばかばかしいと思いつつも、この十年間いちども失ったことがない希望が吉行の指先まで走り抜けた。


「今、つけてもらってもいいですか?」


 だから、こんなバカなことを言い出すんだ。吉行は自分で言ったことながら、あきれた。

 親友の母親にカフリンクスをつけてもらいたがるなんて、おかしいにもほどがある。志穂だって変だと思うだろう。


 それでも今、この貴重な瞬間に一度だけ自分の望みをかなえてもらいたい、と吉行は思った。

 志穂は一瞬だけ怪訝けげんな顔をしたが、


「いいわよ」


 と、すぐに吉行の手からエルメスの小箱を取り返し、テーブルの上でカフリンクスを取り出した。


「右手を出してね」


 ついさっき吉行の手でピンク色に塗られた爪をとがらせながら、志穂はワイシャツの袖口を器用にあやつった。

 真っ白なシャツの袖から黒いカフリンクスが取りはずされ、かわりにシルバーのカフリンクスがとめられる。


「左手もね?」


 まるであやつり人形のように、吉行は茫然ぼうぜんと志穂の指先を見ていた。


 志穂の指の、なんのためらいもないなめらかな動き。

 それはちょうど愛犬の耳の後ろをいてやるような、幼い息子のボタンを留めてやるような動きにすぎなかった。


 ちょっと待って。


 吉行の全身が叫んだ。


 ちょっと待って。

 俺の欲しいのはこんなものじゃない。もっとちがうもの、もっと熱のあるいやらしいものがほしいんだ。


 吉行の視線が熱を帯び、志穂の指先から手首を経由して二の腕まで一気に駆け上がっていく。


「さあ、できたわよ」


 志穂がそういった瞬間、吉行の手はほっそりした志穂の手首を握りしめていた。

 そのまま、まだほんのりジェルのにおいがする爪を自分の口元に持って行く。


 ひそ、と爪の先に唇をあてれば、志穂の脈動みゃくどうさえ感じられる気がする。


「お礼は、こっちでいいです」


 志穂の手首からは甘い香りが立ちのぼる。

 つけている香水は、クリツィアのテアトロ・アッラ・スカラ。ふだんのつつましやかな志穂のイメージを裏切る濃厚な香りだ。

 甘い香りを吉行はたっぷりと吸いこんだ。


 しかし志穂は吉行の指先からさらりと手を抜き、一歩下がってから、こう言った。


「ずいぶん、上手なことをするのね」

「俺はあやまりませんよ」

「謝るようなことをした?」


 そして志穂はガラステーブルのシャンパングラスを手に取り、残っていたピンク色のシャンパンを飲み干した。

 伸ばした首元では、ダイヤとエメラルドのチョーカーがきらめいている。


 吉行が我知われしらず志穂に向かって手を伸ばした時、ドレッサーの上のスマホが鳴り響いた。

 志穂はためらわずにドレッサーに向かい、スマホを手に取って話しはじめた。


「ええ、ええ、支度はできていますわ。吉行君が来てくれて、爪をピンク色に塗りなおしてくれました。あなたが、今夜の爪はピンクにしろっておっしゃったから」


 夫と会話をしながら、志穂はくるりと身体を吉行のほうに向けた。

 志穂は何のよどみもなく会話を続けながら、吉行の顔に視線を据え、ついさっき吉行が口づけた指先にしずかに自分の唇をあてて見せた。


 ぞくん、と吉行の全身に戦慄が走った。

 会話が終わり、志穂が簡単に通話を切る。


「ごめんなさい、もう行かなくちゃ」


 そして志穂はビーズのパーティバッグを手に取り、部屋を出ていく。吉行はもう何も言えずに、ただその後ろ姿を眺めた。


 ジバンシイのドレスに包まれた身体。ミドルヒールにおさまった小さな足。

 そして、ついさっき塗りなおしたばかりのピンクベージュの爪。


 ドアを開けた志穂は、ほんの少しだけ首をかしげて振りかえり、吉行を見た。


「その爪――」


 吉行の肩が、ぴくんとふるえる。


「持って帰っても、いいわよ?」


 テアトロ・アッラ・スカラの香りを残して、吉行の愛しい女は消えていった。

 後に残ったのは、何の色もぬっていない裸の爪のりくずだけ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あなたの爪を形見に 水ぎわ @matsuko0421

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ