5.兵庫県神戸市

 琵琶湖周遊しゅうゆう城崎きのさき温泉への家族旅行のあと、光は入院した。光の両親には、分かっていたことだった。せめて最後に、楽しい思い出を作ってやりたかったのだ。


 光は、可哀想かわいそうな子だった。光の血液の中には、いくつもの異形いぎょうの細胞片が浮かんでいた。癌細胞がんさいぼうだった。

 やつらは病患部びょうかんぶで、かに甲羅こうらのようにみにくふくれ上がる。たやすく崩れ、細胞片をき散らす。破片は次の取りき先を求めて血管内をただよう。子供の癌はめったにないが、かかればあっという間だ。肝臓かんぞう腎臓じんぞう、小腸、大腸……癌は、光の全身に広がろうとしていた。それぞれの占領地せんりょうちで醜い肉瘤にくりゅうを膨らませながら「俺は生きる! お前は死ね!」と叫んでいた。

 私は、血管の中をさまよう癌細胞に問いかけた。

 「なぜ、こんなことをするんだ?」

 「知るか! 俺がやりたいからやるんだ!」

 「こんなことを続けたら、お前も死ぬことになるぞ」

 癌細胞は、私の指摘してき戸惑とまどっているようだった。やがて、彼は決然けつぜんと答えた。

 「でも、こいつだって死ぬだろ?」

 癌細胞は、話の通じない相手だった。


 光の症状は、さらに重くなった。医者に出来ることは、痛み止めの注射を打つことくらいだった。だがそれにも限度がある。光は泣き叫んだ。

 「痛い、痛い! お父さん、お母さん、どうして私は死ななければいけないの!」

 どうしてか? 両親には答えられなかった。当たり前だ。答えなんかない。両親は「ごめんね、ごめんね」とあやまるばかりだった。

 光は、良い子だった。夜中にベッドで、一人でそっと考える。

 「お父さんとお母さんに、ひどいことを言ってしまった。明日は謝ろう。でも、どうして私は、死ななければならないんだろう?」

 私は光にそっとささやいた。

 「まだ死んではいけないよ。死ぬなら、夏にしなさい」

 水分子の声は、人間には聞こえない。あまりに小さすぎるからだ。だが、光はがんばって、夏まで生きた。

 七月の終わり、光の腎臓は癌細胞に食い尽くされ、機能を失った。看護婦かんごふは医者に指示されたとおりに点滴静注てんてきじょうちゅうをし続け、光の体はまりのように膨らんだ。光の父親は激怒げきどした。

 「見て分からんのか! 今すぐ点滴を止めろ!」

 しかし、腎機能じんきのうが失われていたから、私は光の体内にとどまり続けることが出来た。

 光は昏々こんこんと眠り続けていたが、ある日、つかの間目を覚ました。

 「お父さん、お母さん、ごめんなさい」

 「あなたは何も悪いことはないのよ」

 「私が死んだら、お葬式にお友達を呼んでね」

 「ああ、そうするよ」

 光は肝性脳症かんせいのうしょうと尿毒症を併発へいはつし、意識を失った。もうお父さんの声も、お母さんの声も聞こえない。やがて光は死んだ。


 光の両親は密葬みっそうも考えたが、生前の光の希望を受け、普通に葬式を行った。小学校の友達が大勢、見送りに来てくれた。仲良しだった友達の泣き声に包まれながら、光は送り出された。

 空は、青く晴れ渡っていた。

 街外れの山中にある火葬場かそうじょうで、光は家族と最後のお別れをし、がまに入れられた。重油バーナーの炎が、光の全てをこの世から焼き払っていった。

 いや、全てではなかった。水分子である私は気化し、水蒸気となって煙突から立ちのぼっていた。そして私には、小さな道連みちづれがいたのだ。


 それは、光の焼き尽くされた肉体から生じた、灰の微粒子びりゅうしだった。小さな小さな、1ミクロンになった光。私は、光の灰に寄り添った。

 「君を、空の上にある雲の神殿しんでんに連れて行ってあげよう」



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