昇二の教室は一年五組だった。

 後ろのドアから中に入ると、すでに一時間目の現代文がはじまっていた。クラス担任でもあるその科目の教師は、薄くなりはじめた髪をオールバックにしてサングラスをかけた、にやけ顔の背の低い男だった。

「いい天気だね」教師は言った。

「そうですね」クラスメイトたちは声を揃えて応じた。

「四月だっていうのに暑いよね」

「そうですね」

「明日はもっと暑くなるらしいよ」

「そうですね」

「今日はもう六時間目まであるってね」

「そうですね」

「きみたちも入学早々大変だね」

 クラスメイトたちは笑った。

 何が起きているのか分からなかった。ただ一人、昇二だけがこの掛け合いから取り残されていた。

「蓮正寺昇二!」

 教師は、遅刻して現れた昇二に対して、面白がるようにフルネームで呼びかけた。昇二の名前は「れんしょうじしょうじ」と「しょうじ」が二度続くので、聞いたものの頬が思わず緩む効果があった。

 クラスメイトたちがいやらしい笑みを浮かべて昇二を振り返った。昇二は彼らの底意地の悪い目つきに射すくめられたようになり、教室の後方に突っ立ったまま動けなくなった。

「いい天気だな」教師は試すように言った。

 さすがの昇二にも「そうですね」と言えばいいのだと分かった。だが、その言葉を口にしかけたまさにそのとき、突然雷鳴が響き渡って外は大雨となった。

「いい天気だな」教師はもう一度言った。

「あう、あの……」

 昇二は、外の天気と教師の顔を見比べてしどろもどろになった。

 突然、足元で床がぱっくりと口を開けた。落とし穴だった。昇二はあわてて何かに掴まろうとしたが、手は虚しく空を切るだけだった。彼がか細い悲鳴を残して床下へ落ちていくと、教室に笑いがこだました。

 限界だった。もうこれ以上耐えられなかった。

 昇二は授業を抜け出し、校舎裏に広がる雑木林に足を踏み入れた。雨は早くもやんでいた。

 学校には苦痛しかなかった。小学校時代から何年通っても、昇二にはそこが一体何をするところなのか分からないままだった。

 家も同じだった。両親は息子をくじけさせることをほとんど唯一の生き甲斐としていたが、それがあまりにもやり甲斐がないので、やればやるほど苛立ちを募らせ、より一層ひどく彼を踏みにじってくるのだった。家にはとどまることを知らない悪循環があるだけだった。

 居場所はどこにもなく、味方は誰もいなかった。一歩足を進めるごとに死にたいという言葉が頭の中でこだました。死にたいということ以外、何も考えられなかった。

 校舎裏の雑木林は、死ぬにはもってこいの場所だった。

 首を吊るのに目ぼしい木を探しているとき、昇二は枝から垂れ下がっていた大きなずだ袋のようなものにぶつかった。首吊りの先客だった。

「ぐごごごご……。誰だ? 我が眠りをさまたげるものは?」

 首吊り男が喋った。腐敗の進み具合や衣服の傷み具合から、首を吊ってからかなり時間が経過していることが分かった。

「すいません。起こすつもりは――」

「私に何の用だ?」

「あの、今どんな気分ですか?」昇二は好奇心から訊かずにはいられなかった。

 首吊り男は、ぎょろりと目を剥いて昇二を見下ろした。

「体中が焼けるようだ」

「苦しいですか?」

「ふん」首吊り男は不愉快そうに鼻を鳴らした。「生きていたときと比べれば全然ましだ。だからって最高の気分とは言えないがな」

「ぼくもやろうと思ってるんです」

「何を」

「あなたと同じことを」

「ふごっ」首吊り男は笑いかけて喉を詰まらせた。

「失敗すると余計に苦しいぞ。お前はロープも持ってないじゃないか。出直すんだな」

 その通りだった。ほとんどいつも死にたいということばかり考えているわりに、彼は衝動任せにここへ来たのだった。制服のベルトでは枝に引っかけるには短すぎた。

「おれの使ってるやつを見ろ。綿のトラックロープで六五〇キロまで耐えられる。軽くて摩擦にも強い。ビーバートザンで一九八〇円プラス消費税だ」

「参考になります」

「何事にもこだわりを持つことだ」

 昇二は恭しく頭を下げると、大人しくその場をあとにした。

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