23. ありがとう
近寄る足音を聞きつけて、波崎の顔がこちらへ向いた。
立ち上がる彼女も、ベンチへ歩いていくオレも、なかなか最初の一声が出ない。
波崎の目の前まで来て、ようやくオレは口を開く。
「波崎……あのさ。オレ――」
「ごめんなさい!」
深々と下げられた頭に、ギョッとして言葉を失った。
なんで波崎が謝るんだよ。悪いのはオレじゃん。
「私のせいで、手島くんがひどい目にあって……」
「ああ、そのことか。確かにそうなんだけどさ。ミューズがあんな羊だなんて、誰も予想できないって」
「違う」
「恨んだりしてねえよ。ノートも貸してくれたし、感謝してる。オレこそ謝らないと――」
「違うっ!」
大きな声に、またもやオレの言葉はさえぎられた。
違う、そうじゃない、と繰り返した波崎は、ベンチに座って話したいと言う。長くなるから、と。
腰を下ろし、正面の錆びたブランコを眺めながら、オレは彼女が話しだすのを待つ。
再び波崎の口から出た声は、うるさいクマゼミにかき消されそうなくらい小さかった。
「私がミューズを初めて見たのは、四月の十三日。黒い羊の姿をしてた」
「お前……知ってたんだ。召喚したのか?」
彼女はコクリとうなずく。
事の始まりは七月ではなく、六年生に進級した直後のことだった。
「私のところに来たミューズは、パールレって名前だった」
「ラルサじゃない? 羊って、何匹もいるのか」
「ミューズはたくさんいて、あちこちの人のところへ出向いてるんだと思う」
言われてみれば、その方が自然かもしれない。
荒俣を筆頭にして、複数の作家が羊を呼び出していた。オレみたいに、作家じゃない人間が召喚することも多いだろう。
ミューズ――黒い羊たちは、
「ミューズは世界中に飛び回っていて、言葉の力を集めてる。言霊を食べる妖精みたいな生き物だと思う」
「羊の生態はともかく……。波崎はどうやって課題をクリアしたんだ。まさか百万字書いたのか?」
「私には課題が出てない。餌をくれって、ねだられるだけ」
「えっ? でも、契約したんだよな?」
「してない」
波崎は呼び出しただけで、血肉の契約までは行っていない。
百万字の執筆は、契約者のみに課されるものなのだ。オレにしたって偶然契約したわけで、波崎はその存在も知らなかった。
彼女の元には、週に二、三度、不定期に羊がやってくる。
その度に原稿をせがみ、書いていないと赤目で脅す、ここはラルサと似たようなものだ。
実際に記憶を消されたことはないものの、不気味さにおびえて、数千字ずつ常に
学校でも書き物に熱心だったのは、そのせいだ。
ここまで聞き、波崎がなぜオレに羊の呼び方を教えたのか想像された。
「課題は緩いけど、クリア目標が無いのはキツいよな」
「うん……。一度、羊から逃げたんだ。外に出ても、エレベーターの鏡から追いかけてきて」
「しつこそうだもんな」
「ちょうど剣沢くんの帰宅とかちあったから、助けてもらったの」
「どうやって?」
「ツルギザワキックで」
回し蹴りのことらしい。
この四月の遭遇の際は、ケンにも羊がぼんやりと感じられたとか。
助けを求められた彼は、波崎の脚にまとわり付く黒羊を蹴り飛ばして追い払った。
羊の気配の絶ち方が甘かったらしく、動物的勘に優れるケンの足は見事にジャストヒットしたそうだ。
ちなみに、このケンの活躍はハイツの住人に目撃されてしまい、女の子を蹴る不良の噂が立ってしまう。
波崎が黒犬を飼ってるって言われてたのも、これが原因かもしれない。ハイツでは動物の飼育が禁止されており、彼女にペットがいるはずがなかった。
パールレだったか、そいつからラルサもこの一件を聞いてるんだろう。昨夜の愚痴では、ケンを以前から知ってる口ぶりだった。
「なんとなく事情はわかったよ。波崎は、仲間が欲しかったんだろ。羊に対抗するのに、一人じゃ心細かったんだ」
「…………」
「オレが契約したのは、不運としか言いようがないしなあ。波崎を責めたりしねえよ」
「……う……ぐ」
「いや、おいっ!」
ポロポロ泣き出した彼女に、泡を食って呼びかける。
どうして泣くのか、今度こそ心底から理解できない。
「泣くなよ、おかしいって。怒ってないって言ってるのに」
「私……サイテーなの」
「何がだよ。わけわかんねえよ」
「手島くんに……手島くんに押しつけようって……」
「はあ?」
羊が複数いることに彼女が気づいたのは、オレのところに来たのがラルサだと聞いたからだ。
波崎も最初は、一匹の羊が渡り歩いているのだと勘違いしていた。
だとすれば、パールレを他の人間が呼び出せば、自分の元には来なくなるのではと、期待したのだった。
グズグズと鼻を鳴らしながら、波崎は謝り続ける。
「ごめん……ごめんなさい」
「もういいよ。泣いて謝ってくれたんだし、許すって」
「でも――」
「ほら、これ!」
バッグを開いたオレは、ピンクのノートを波崎へ渡す。
「ノートを貸してくれたから、巻き込んだ分はチャラだ」
「だけど、罰が記憶を消されるなんて知ってたら――」
「そんで、これ!」
青い単行本、『サリーと妖精の騎士』を、めちゃくちゃ面白かったという感想付きで突き出した。
嘘偽りの無い、本心のコメントだ。
「サリーを紹介してくれたから、一万字書かされた分もチャラだよ」
「まだ九十九万字もあるのに?」
「それも手伝ってくれるんだろ?」
もちろん、と、波崎は何度も首を縦に振った。
膨大な文字数には違いないし、それを彼女も心配して、泣き顔のままうつむく。
だけど、まだ諦めるには早い。
「明日、どうなったか聞いてくれ。なんとかなるさ」
「何をする気?」
「ふふーん。まあ、オレじゃなくて、蓮の考えた作戦なんだけどな。頑張ってみるよ」
前向きな物言いに、波崎も涙を指でぬぐい、落ち着いた表情を取り戻す。
「じゃあ、明日は波崎から電話してくれ。女子の家にかけるの、緊張するんだよ」
「わかった。……さっきの電話、緊張してたんだ」
それが面白かったのか、波崎の口元が緩む。
木陰だろうが、いつまでも夏の太陽にあぶられるもんじゃない。
そろそろ帰ろうと言うと、最後にもう一回、波崎は頭を下げた。今度のはお礼だ。
“許してくれて、ありがとう”
“私の好きな本を楽しんでくれて、ありがとう”
照れ臭くて、何も言わず片手を挙げてそれに応える。
公園でのひとときは、こうして終了した。
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