第21話 Boy's Side(7)
「乙訓くんはアニメとか観ないの?」
3時間目と4時間目の間の休み時間に
「なんで?」
「今度の土曜にみんなで映画を観に行こうと思ってるんだけど、集まりが悪いんだ」
どうも同類だと思われたらしい。そういえば、荻田くんたちがそういう話をクラスの隅でしているのを聞いたことがある。
「ごめん。ゲームは好きだけどアニメはあんまりなんだ」
「あ。そうなんだ。だったらいいんだ。ごめんね」
そう言ったことに間違いはなく、実際ぼくは最近あまりアニメを観ていない。より正しく言えば観ないようにしていた。小学5年のときに、何がきっかけでそうなったかは忘れたけど、
「おまえ、オトクニじゃなくてオタクニじゃん」
と意地悪な男子に言われてから、クラス中にはやしたてられて嫌な思いをしたことがあった。そのときは、「マニア師匠」というあだ名をつけられていた太った子が、
「そんな薄いやつをオタクとか言うな!」
などとわけのわからない切れ方をしたおかげで教室の空気が冷えて、それっきりぼくがからかわれることはなかった。「マニア師匠」がどの中学に行ったかは知らないけど、いつかお礼を言いたい。でも、それはぼくにとってはいい経験になっていて、オタクみたいな趣味があるとばれたら、「オタクニ」と間違いなく呼ばれるようになるのがよくわかった。それ以来、そういう話は人前でしないように気をつけている。もともとアニメはそんなに好きでもなかったからよかったけど、好きだったら大変だったかもなあ、とは思う。
荻田くんとの会話を終えて自分の席に戻ろうとしたそのとき、ぼすっ、と背中に何かが強い勢いで当たってきた。床に青いスポーツバッグが転がっていて、それが当たったのだとわかる。特に痛くはなかったから、体操着くらいしか入っていないのだろう。しかし、肉体は無事でも精神はそうはいかなかった。悪意のある人間が投げなければ、こんなものが当たったりはしない。教室が静かになり、目の前の荻田くんも青ざめていて、他人がそうなるくらいだから当事者のぼくもショックを受けずにはいられなかった。
壁際に座っていた
「なんだよ。文句あるのか?」
まだにやにや笑っている。鳥羽くんにからまれるのは初めてではない。入学してすぐにからまれた話を前に書いたはずだけど、そのときからんできたのが彼とその仲間だ。軽く小突かれるくらいで済んでまだよかったものの、たとえ数人にでも囲まれると相当な恐怖心を感じてしまうのはしょうがないことだった。ただ、彼はどうもナゴを警戒しているらしく、ぼくがナゴとつるむようになってからは、面と向かってぼくにいやがらせをするようなことはなくなった。ぼくが一人でナゴがそばにいないときに、押されたり蹴飛ばされたりすることはあったけど、そんな目に遭っても「なんだ。そんなにナゴが怖いのか」とかえって馬鹿にするような気持ちが芽生えてしまったのだから人の心は妙なものだと思う。そういえば、今もナゴは教室にいなかった。それでか、と思っていると、
「おまえさあ。この前、女子と一緒に歩いてたらしいな」
鋭い目をさらに吊り上げて笑った。それでか、ともう一度思った。サラと一緒に帰ったせいでやっぱり注目されてしまっていたのか、とも思う。
「おまえみたいなのが堂々と女と手をつないで歩いてんじゃねえよ。いい気になってんなよ。ったく、何考えてんだ」
どう考えても嫉妬しているようにしか聞こえないので思わず笑いそうになってしまう。そういえば、美術館でヒカルちゃんに声をかけられた後にも、彼らにしつこくからかわれていた。そこでナゴに教わったことを思い出した。ナゴもぼくが鳥羽くんに目をつけられているのに気づいていたようで、いつだったか対策を教えてくれていたのだ。
「ああいうのは、でかい犬が唸っているのと同じなんだ」
ナゴのアドバイスはシンプルだった。こちらに吠えかかろうとしている犬には堂々としているのが一番なのだと。怯えてもいけないし、怒ってもいけない。逃げてもいけないし、媚びてもいけない。とにかく顔だけでも落ち着いたふりをしておけ、と言ってくれた。言わんとすることはわかったけど、それを実践できるかどうかはまた別問題だった。
とりあえず、何事もなかったかのような顔をして、足元に落ちているバッグを拾い上げて、鳥羽くんのほうへと差し出してみる。
「これ、いらないの?」
そう言われた彼の顔色が暗くなり、視線が険しくなった。あ、しくじったかな、と後悔する。挑発しているように受け取られたかもしれない。ナゴに謝りたくなる。ごめん。せっかく教えてくれたのに。
「よこせよ」
ぼそっと呟かれる。別に渡さない理由もないのでバッグを持って彼らの方へと2、3歩だけ進むと、いきなり鳥羽くんが立ち上がって、ぼくの右手からバッグを奪い取り、またすぐに座って、ぼくの顔をにらみつけてきた。
「おまえ、ふざけんなよ」
もちろんふざけてなんかいないけど、そう答えると彼をさらに怒らせそうなので黙っていることしかできなかった。そこでチャイムが鳴り、ぼくらの様子をうかがっていた他のクラスメートも授業の準備を始め、鳥羽くんもぼくがいないかのように机の中から教科書とノートを取り出した。早く帰れよ、と小声で言うのが聞こえた。そっちからちょっかいを出してきたんじゃないか、と思ったけど、早く帰った方がいいのは事実なので席に戻ろうとしたそのとき、前方のドアから教室に戻ってきたナゴと目が合った。
「なんだよ。そんな面白いことがあったんなら、俺も混ぜてほしかったな」
昼休みの学生食堂で、トシが残念そうにそう言った。こいつなら隣のクラスからでも押しかけかねないな、と思いながらしょうが焼きを食べる。
「おまえが来たら話がややこしくなるだけだから来なくてよかったよ」
ナゴは今日も日替わりランチを頼んでいた。今日はミックスフライ定食のようだった。
「鳥羽はやっぱりしょうがないな。親が金持ちだから甘やかされたんだな」
ナゴはダメな人を見ると「親の育て方が悪い」とすぐに言う癖があった。ぼくが何か問題を起こしたときに父さんと母さんのせいにされるのはつらいので、あまりそういうことを言ってほしくはなかった。鳥羽くんが嫌な奴なのはあくまで彼個人の責任だ。
「また何かされないかなあ。ちょっと失敗したかもって思ったんだけど」
「そんなことはないだろ。まあ、後でどうなるかはわからないけど、今日のところはあれで十分さ」
それよりも、とナゴがぼくの顔を見た。
「鳥羽がおまえにそんなことをした理由のほうが問題だろ。あれ、かなり評判になってるぞ」
そんなに、と驚いてしまう。もしかして、みんな暇なのだろうか。
「サ、じゃなくて、女子部の子と一緒に歩いていたのがそんなに問題かな?」
問題だろ、とナゴがあきれ顔でお茶を手に取る。
「うちの学校じゃ、ああいうのは御法度なんだよ。こっそりやるならともかく、白昼堂々やるのはかなりまずい」
そんな重大なことなのだろうか。どうも現実味がない。それほど大事なことならもっと前に誰かに教えてほしかった。
「じゃあ、どうしたらいいのかな?」
「時間が経つのを待つしかないな。みんなが忘れるのを待つしかない。また同じことがあったら、おまえ、本当にやばいぞ」
やばい、と言われても誰が何をするというのかさっぱりわからないし、そんな話を深刻そうにしているナゴの気持ちもわからなかった。
「それならたぶん大丈夫。向こうはたまたま連絡がつかなくて直に会いに来ただけだから。もうあんなことはないよ」
「ならいいんだけどな」
ナゴもやっと安心したようで揚げ物を箸でつまんだ。形からして白身魚のフライだと思う。
「俺にはオトの気持ちがわかんねえな」
焼きそばパンを食べ切ったトシが参戦してきた。
「どうして女子部なんかと一緒に歩けるのか、まったく理解できねえ」
今この発言を読んで、「極端なやつだ」と思った人もいるかもしれないけど、ぼくの学校ではトシのように考えている男子は決して珍しくはなかった。どうも女子部を敵視するのがかっこいい、と考えている風潮があるようで、「うちの女子部の顔面偏差値は神奈川でワースト2だ」という話が校内でまことしやかにささやかれているくらいだった。どうせならワースト1にすればいいのにそうしないのは、さすがに同じ学校の女子を最悪扱いするのは気がとがめるせいなのかもしれないけど、腰が引けているようで情けない気もする。それに男子部の「顔面偏差値」だって怪しいものだった。Fランクだとしてもおかしくはない。部活の先輩に聞いた話だとワースト1の学校が相模原に実在するそうだけど、わざわざ見に出かける気はしなかったし、逆にベスト1の学校が湘南にあるとトシが熱く語っているのを聞いたこともあるけど、「おまえ、それは完璧にイメージだけでものを言ってるだろ」というナゴのツッコミにぼくも全面的に同意したかった。ついでに言えば、サラがいる時点で女子部の「顔面偏差値」は大幅に跳ね上がっているはずなので、やっぱりワースト2というのは根も葉もない話なのだと思う。もっとも、それを口に出すと面倒くさそうなので黙っておく。
「いや、2人に言っておきたいんだけどさ、ぼくは女子部の子と歩いてたわけじゃないんだよ。幼馴染がたまたまうちの女子部にいて、その子と一緒に帰っただけなんだよ」
「詭弁だな」
「そんなの通るわけねえだろ」
同時に即座に否定された。どうしてこんなときだけ仲がいいんだ。
「っつーか、また幼馴染かよ。あの写真の天使ちゃんもそうだったしさあ。オト、なんなんだよ、おまえ。前世でよっぽどいいことでもしたのか?」
トシが妙なやっかみ方をしてくる。「天使ちゃん」というのはヒカルちゃんのことだろう。トシにしてはいいネーミングだ。
「でも、かわいい子が幼馴染だとそれはそれで大変なんだよ」
それはぼくの本心からの言葉ではあったけど、そう言うのと同時にトシに思い切りヘッドロックされていた。痛い痛い。嫉妬のパワーってすごい。あまりの締め付けでだんだん気が遠くなってきた。
「おまえは多少痛い思いをした方がいいよ」
ナゴも助けてはくれなかった。
午後の授業が始まっても首が痛かった。トシのやつ、力だけは強い。これじゃ授業に身が入らないな、と思ったけど、考えてみれば身が入らないのはいつものことだった。集中力と持続力がぼくには圧倒的に足りていなかった。
今は理科の時間だ。ぼんやり太陽系の図を見ているうちに、ぼくらみたいだな、とふと思った。ヒカルちゃんが太陽でぼくがその周りを回る惑星だ。彼女の引力にひかれて回り続けても決して近づけはしない。ぼくは冥王星なのかな、と思う。太陽から一番遠く離れた惑星にもなれない存在。いっそ、「
小説やマンガでは、こうやって授業中に考え事をしているところへ先生に指名されて答えられずに怒られて恥をかく場面がよくある。でも、今日はそういうこともなく、午後の授業の間、ぼくはずっと考え事のし放題だった。怒られるだけの価値もない人間なのかもしれない、となんとなく思った。そんな調子だったから、部活でも当然冴えなかった。帰り道でナゴとトシの話も聞き流したまま、電車を乗り継いで駅から家へと向かうバスに乗った。走り出した車両の振動が座席から伝わってきて頭まで震える。
ぼくはヒカルちゃんとその友達の写真を見ることがあまりなくなっていた。ヒカルちゃんに飽きることはないけど、どうも最近はあの写真を見ていると、他の4人の女の子のことも気になるようになってしまい、それは不純だという気がするのだ。といっても、サラとああいうことになった時点で、ぼくはとっくに不純なのだが。それよりも何よりも、新たな写真が手に入ったのが大きかった。正確に言えば、写真ではなく動画だ。
それを撮ったのは夏休みに旅行先で美術館に行った時だ。ぼくは芸術にあまり関心を持てないから、一人でなんとなく館内をさまよっていると、前の方にヒカルちゃんの姿が見えた。嬉しくなって声をかけようとしたけど、5月に上野の美術館で彼女に呼ばれたのを無視してしまったのをすごく怒られたばかりだった。あの状況で返事をするのは不可能だということをわかってもらうのはたぶん無理な気がした。今、声をかけたらまた怒られるのはわかりきっていたし、ヒカルちゃんに怒られるのはそれはそれでぼくは好きなのだけど、それでも彼女の気分を悪くしたくはなかった。しかたなく、彼女の後ろからこっそりついていくことにした。ストーカーだなあ、と自分でも思う。
ああ、それにしても今日の彼女は本当にかわいい。ほっそりした身体に白いワンピースをまとい、頭は麦わら帽子で飾られている。ぼくの短い歴史上でもこれほどのかわいさに遭遇したことはない。見ているだけで頭がおかしくなる。あのかわいさの結晶を、なんとか形にして残せないかな、と思う。ちょうどここに飾られている絵や彫刻のように。でも、ぼくの美術の成績はよくないしな、と思いかけて、できるじゃん、と頭の中で食い気味にひらめいた。ぼくには無理でも最新のテクノロジーを利用すれば、今日のヒカルちゃんの姿を残しておける。スマホで動画を撮ろう。そうと決めたら、もっといい場所から撮りたかった。真正面からは無理でも、できるだけ顔がよく見える位置から撮ろう。そう決めて先回りすることにした。頼んだところで断られるのはわかりきっていたから、そんな発想はまったくなかった。それにこっそり撮るからいいんだ、という気もしていた。もう完全にストーカーだった。
小ホールの隅に隠れて、そこに入ってきた彼女を撮り始めた。中央にある大きな人型の彫刻を見上げている顔がよく見えた。いい感じだ。一人でいるのに何故か楽しそうに微笑んでいる。ぼくと一緒にいてもあんな顔はしてくれない。いつも怖い顔しか見ない。どうしてなのかなあ、そんなにぼくが嫌いなのかなあ、と気落ちしていると、彼女がホールをもう出ていこうとしたのでさらに気落ちしてしまう。ええっ、もうちょっと撮りたいのに、と焦っていると、ホールの出口で彼女はいきなり、ぴょん、ぴょん、と2回跳ねてから出て行ってしまった。え、今の何? 撮影を止めて少し考えてから気づいた。スキップ? ヒカルちゃん、今スキップしたんだ。なんで? だって、ここはそんな場所じゃないじゃん。いくら考えてもその理由はわかりそうもなかった。ただ、ひとつだけ確実にわかっていたことがあって、それは、スキップするヒカルちゃんはめちゃくちゃかわいい、ということだ。人間のふりをしたウサギみたいだ。そのままつかまえてしまいたい。なんなんだよ、最高じゃないかよ、ちくしょう。
「すみません。館内での展示品の撮影はご遠慮願えますか」
スマホを構えたまま全身がとろけそうになっていたぼくを係の人が注意する。あわてて立ち上がりながら、
「いや、展示品じゃなくて女の子を撮ってたんです」
と言い訳しようとしたけど、それだと弁解ではなくて自白になってしまうのでやめておいた。ヒカルちゃんが入ってきた方からホールを出ながら、ぼくはひとつ決意をしていた。告白しよう。今日こそヒカルちゃんに告白しよう。そう決めていた。あんなのを見せられて我慢できるわけがなかった。よし、やるぞ。いつになく、そのときのぼくは闘志に燃えていた。
そんな決意のもとに行われた告白があっさり断られたのをもう思い出したくはなかった。どうして断られたのかもよくわからなかった。実のところ、告白の後で夜中にいろいろなことがありすぎて、ふられたことなんてあまり大したことじゃない、という思いもあった。よく考えるとやっぱり大したことなのだけど。
帰りのバスに揺られながら、ヒカルちゃんの動画を見るのが日課のようになっていた。授業で、部活で、人間関係で、疲れた身体と心にどうしても欲しくなるのだ。今日みたいな日は特に彼女のスキップが必要だった。そして今も小さな画面の中で白いワンピースの彼女がぴょんぴょん跳ねている。やっぱりいいなあ。動画サイトにアップすればすぐに全世界で何百万回もの再生回数を記録するはずの動画を自分だけのものにしている気分は格別のものだった。最高だ。
そんな風に幸福感に包まれていたおかげで、降りる停留所に近づいているのに気づくのが遅れて、あわてて降車ボタンを押した。運転手さんがバスから降りるぼくを迷惑そうに見ているような気もしたけど、そんなことくらいでハッピーな気分はまるで揺らぎもしなかった。
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