第20話 Boy's Side(6)

 校門を出て、駅までだらだらと続く長い坂を上っていく。この学校の生徒は「いきよい坂」と呼んでいた。最初は「勢い坂」だと思っていたら違っていた。部活の先輩に聞いた話だと、登校のときは下るだけで楽でも、下校のときは上りできついので、「行きはよいよい帰りは怖い」を略してそんな名前がついたとのことだった。「たぶんかなり昔につけられたと思うな。センスが昭和だもん」と先輩は笑っていた。

 今日は部活が休みで、のあるうちに帰れるのは久しぶりだった。ナゴもトシも一緒じゃない帰り道も久しぶりだ。ナゴは早く帰れるので、彼女と横浜駅で落ち合ってお茶を飲むと言っていた。「たまにはサービスしないとな」と言う姿は既に結婚して子供もいるかのような貫禄があった。トシは病欠ということになっていたけど、「あいつが病気になるわけない」との意見でぼくとナゴは一致していた。おそらく寝坊でもして学校に行くのが面倒になったのだろう。あいつはそんな男だ。

 どうもさっきから前を行く生徒たちにちらちら振り返られている気がした。なんだろう。チャックを全開にしていたら嫌だな、と思ったけどそうではなかった。それとも、ぼくではなくて、後ろに何かあるのか、と思って振り返ろうとして、サラが横に並んで歩いているのに気づいた。いつの間に。大声をあげかけてなんとか自重した。ぼくが気づいたのにサラも気づいて、ふふふ、と笑った。

「驚いた?」

 そりゃあ驚くよ。サラがここまで来たことなんて今までないのだ。まさか来るとは思っていなかった。サラも学校帰りで制服のままだった。女子部も男子部と同じ深緑のブレザーだ。みんなが見ている理由もそれでわかった。ぼくとサラが通っている学校はいわゆる「男女別学」で、女子部は男子部まで歩いて5分くらいの、そう遠くない距離にあるのだけど、お互いに接点はあまりなく、女子部の子が男子部の近くまで来ることはほとんどなかった。ぼくもこの近くで女子を見た覚えはない。だから、今サラがこうやって「いきよい坂」を歩いていて注目されないわけがなかった。しかも、ぼく個人を離れて、客観的に見ても、サラはかわいい女の子だった。

「どうしても、会いたかったんだ」

 快いささやきが耳をくすぐった。あの休日の体験を身体が思い出そうとしている。誰も見ていなければすぐにサラを抱きしめたかった。でも、周りには他の生徒がたくさんいたからできるわけがなかったし、それどころか、

「こいつ、女子部の子と歩きやがって、なめてんのか」

 という無言のプレッシャーが下校中の男子ほぼ全員から押し寄せている気がして、とても耐えられなかった。

 十字路にさしかかった。そのまままっすぐ進めば駅だから、いつもは曲がる必要などなかったけど、今日に限ってはその必要があった。

「向こうに行くよ」

 サラの手を取ると、「あ」と小さな声が彼女の口から漏れた。手を引いてそのまま横断歩道を小走りで渡って、右へと曲がっていく。とにかく今はみんなの目から少しでも遠くに離れたかった。


 十字路から歩いて10分くらいのところにあったファミレスに2人で入った。

「駅の前にもお店はあるのに、どうしてここなの?」

 サラはそう言って首を傾げたけど、駅近くのファミレスもカフェもうちの男子のたまり場になっていたから、彼女を連れて行けるわけがなかった。ぼくに自殺願望はない。適当にごまかしてから注文を取る。ぼくはチョコレートパフェでサラは和風ハンバーグ定食。どっちが男子でどっちが女子かわからないチョイスだ。

「さっきは驚いちゃった」

 ウェイトレスが下がった後でサラが笑った。

「さっきって?」

「ほら。リョウマくんがいきなり手を引っ張るから。道路を渡るとき、男の子たち、みんなわたしたちを見てたよ」

 嘘だろ。でも、よく考えれば、いきなりそんなことをすれば誰だって見るはずだ。早く逃げようと焦ったおかげで逆に注目を集めてしまったのか。うわ、最悪だよ。

「ドラマみたいで、わたしは嬉しかったけどね」

「ぼくもサラに会いたかったけど、それなら前もって電話してほしかった」

 なるべく迷惑そうに聞こえないように工夫して伝えたつもりだったけど、

「うん。ちょっと事情があってね」

 と、かすかに微笑むだけだった。事情って、一体何だろう。そこへ注文の品が届いた。ぼくのパフェもサラのハンバーグ定食も結構な量だった。

「今それを食べて、晩ごはん大丈夫?」

「最近はいくらでも入るから」

 女の子はみんな体重を気にしてダイエットをしているものだと思っていたけど、案外そうでもないようだった。目の前のサラはハンバーグをナイフで上手に切り分けるとフォークで口の中へ滞りなく運んで行った。夏休みに一緒に泊まったとき、ヒカルちゃんはいつも少ししか食べなくて、小鳥みたいでかわいい、と食事のたびに思っていたけど、サラの食べ方も元気がよくてぼくは好きだった。

「リョウマくんは大丈夫だった?」

「うん?」

 パフェに取り掛かろうとしてそう訊かれた。

「あの後、おじさんとおばさんに怒られなかった?」

「ああ。そりゃあね。それは、当然怒られたよ。怒られないわけがないよ」

「だよね」

 サラがライスを口にする。ぼくだったらパンにしたのにな、と思っていると、

「パパにぶたれちゃった」

 いきなりそんなことを言われて頭が働かなくなる。

「え?」

「すっごく怒られて。初めて叩かれた」

 そう言うと左の頬を指で軽くつついた。よく見ると少しだけ色が変わっているような気がする。

「昨日やっとマスクが外せたんだ。ごまかすの、結構大変だった。ママには“自業自得よ”って言われちゃったけど」

 女の子がそんな目に遭うなんて、しかもぼくのせいでそうなったなんて。身体も心も凍りそうになる。パフェを食べている場合ではなかった。

「ごめん。母さんが言っちゃったんだね」

 サラが首を横に振る。

「それはしょうがないよ。わたしでも言うよ。それに、パパが怒るのもしょうがないんだよ」

 サラは腹を立ててはいないようだった。だけど、ぼくはサラのお父さん、須崎すざきのおじさんを小さい頃からよく知っていたけど、いつも冷静な人で何があっても激昂するようにはとても見えなかった。それに子供をとても大事にしているのもよくわかっていた。そんな人が怒って、しかも一人娘を叩くなんて。

「ぼくのほうが叩かれるべきなのに。サラは悪くないのに」

「ううん。わたしが叩かれてよかったんだよ。もしリョウマくんが叩かれてたら、わたし、パパを嫌いになってた」

 そう言われると、余計に申し訳ない気持ちになってきた。あの優しいおじさんが娘に嫌われる可能性を生じさせてしまったこと自体が、とんでもない過ちだと思えてしかたなかった。

「ぼくたち、しばらく会わないほうがいいんじゃないかな」

「え?」

 サラが目を大きく開いてぼくを見る。

「ぼくのせいで、サラが叩かれて、サラのお父さんもお母さんもそのせいでつらい思いをしたに決まってる。それに、ぼくの父さんと母さんも傷つけてしまった。そうやって周りの人を悲しませるのは、ぼくは嫌なんだ。だから」

「リョウマくんは、わたしのことが嫌いなの?」

 サラがフォークを握りしめたままうつむいている。

「え?」

「周りの人が悲しむのは嫌だけど、わたしが悲しむのは構わない?」

「いや。それは」

 あわてて答えながら、またやってしまった、と気づいていた。ぼくが今あんなことを言ったのは周りのことを考えたからではなく、自分のせいでトラブルが起こっているのに耐えられなくて、それから早く逃げたかっただけなのだ。もし本当に周りを考えることができていたなら、こうやってサラを怒らせてはいない。結局、ぼくはまた自分のことしか考えられていないのだ。本当に何やってんだよ。

「ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ。サラが悲しむのはもっと嫌だよ」

 サラは答えずに黙って水を飲んだ。気まずかったけど逃げるわけにもいけない。

「それでね」

 しばらく経ってから、サラが口を開いた。

「今日わざわざ男子部まで行ったのは、そうしないとリョウマくんに連絡が取れなかったからなの」

「どういうこと?」

「パパがね。わたしをぶった後でスマホも床に叩きつけて壊しちゃって。だから、リョウマくんの電話番号とかアドレスとかみんななくなっちゃったんだ。まあ、無いと不便すぎるから後で買い直してもらったんだけどね」

 そう言うとテーブルの上に真新しいスマホを置いた。前は確かピンクだったのに、今は薄いブルーになっている。新しい機種だ。

「今、学校の友達から連絡先を聞き直してるところ」

「ごめん。ぼくのせいでそんな」

「もう謝らないでよ。わたしだって自分で決めてやったことなんだから。リョウマくんのせいじゃないよ」

 なんだかもう、ぼくは完全に負けているな、と思った。ナゴにもヒカルちゃんにも、そしてサラにも負けている。トシには勝てるかもしれなかったけど、あいつと同じレベルだと考えるだけで、すごく嫌だった。

「でね。今日はリョウマくんの電話番号とかを聞きたくて、男子部に来たんだ」

「ああ、そういうことだったんだね」

 納得しながらも、心配が黒い雲のように心の中に沸き起こった。

「でもさ、おじさんがぼくと連絡してほしくなくてスマホを壊したんだったら、またぼくと連絡をとってるってわかったら大変だよ」

「隠れてやれば平気だよ。わざわざ知らせるほどわたしも馬鹿じゃないから」

 そういうものなのだろうか。サラがだんだん悪い子になっていくようで、おじさんにますます申し訳なくなる。

「でも、男子部の前って座れるところなくって。待つの結構大変だった」

「今日たまたま部活が休みでよかったよ。部活があったら明るいうちに帰れなかった」

「うん。でも、もしそうだったとしても、わたしはずっとリョウマくんを待つつもりだったから」

 胸の中が温かさでいっぱいになる。いい子だなあ、本当に。ぼくにはもったいない。

「それ食べないの?」

 サラがパフェを指さす。まだ半分までしか食べていなかった。

「あ、うん。なんだかお腹がいっぱいになっちゃった」

 身体が受け付けない、というよりは、食べる気持ちがなくなってしまっていた。

「いらないならちょうだい」

 食べ物を無駄にするのは嫌なので、パフェの入ったガラスの器をサラの方へと滑らせる。

「やったー。おいしそう」

 サラはすぐにクリームを口へと含んだ。いくらでも入るというのは嘘ではないようだった。おっぱいが大きいのもよく食べるからだろうか。

「そうだ。これは確認しておかなきゃいけないことなんだけど」

「うん」

 エロいことを考えていたせいでリアクションが少し遅れる。

「リョウマくんって、ヒカルちゃんのこと、好きだよね」

「へ?」

 またかよ。ここ最近でその話何度目だよ。

「小さい頃からずっと一緒だったからわかってたよ。知ってた? ヒカルちゃんを見るときのリョウマくんって目がハートになってるんだよ」

 わかった。わかったよ。ぼくがしっかり隠していたつもりでも、みんなには丸わかりだったんだな。もう、絶望的だよ。

「わたしから見てもヒカルちゃんってすごくかわいいから。お姫様というか大天使というか。だから、とても勝ち目無いなあ、と思って正直諦めてたんだけどね」

 かちゃかちゃ。器にスプーンがぶつかる音だけが聞こえる。

「でも、不思議なんだけど、今はね」

 ぼくを見るサラの瞳がいつもよりひときわまばゆく輝いた。

「ヒカルちゃんにも、全然負ける気がしないんだ」

 そう言うと、またスプーンを動かし始めた。ラストスパートをかけて一気に食べ切ってしまうつもりらしかった。

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